はてなキーワード: 愛玩動物とは
いいえ、私の書いたことをよく読んでください。
「不要な」大量の命を作って売れ残りが発生してることが問題です。
愛玩動物として飼うのはまた別の話で私はその個体が幸せになる分には賛成です。
おそらくあなたは猫を飼っていて悪人と言われて感情的になっていると思います。
落ち着いてください。
偽善とは善では無いことを善と騙すこと。
上辺だけ良いことだと見せかけること。
中には家族同然に接して愛を注いでいる人も多いと思う。
それは上辺だけ見せかけるのでなく心からの善です。
きっとその猫は天寿を全うして幸せに過ごせるのでしょう。
そうなんです。
何も間違っていない。
残念ながらどれだけかわいい猫も生後半年を過ぎたら売れなくなります。
売れなくなった猫はどうなるんでしょうか?
そもそも猫を愛玩動物として飼う需要がなかったら産まれてこなかった子たちです。
心優しいボランティアの方がすべて引き取ってくれるのでしょうか?
どうなるんでしょうか?知ってますか?
猫を飼う人は偽善者ではありません。
その動物がペットか家畜かただの獣とみなすかによって感じかたが変わるんだよな。
最たる例がクジラで、欧米では愛玩動物に近い扱いなので、そう考えずに食う日本人は非難される(表向きは生態系保護ということになっているがほとんど感情論で動いてるだろう)。
馬は家畜ではあるけど、人間の補助をして働いてもらうために飼うことがほとんどで、どちらかというとペット的な感情を持つ文化が多く、食ってしまう日本人に嫌悪感を示す外国人もいる。
逆に、現代日本ではウサギはペットだけど、よその国では(また昔の日本でも)食肉だ。
犬を食う文化や三味線の猫皮を非難する人は、メンタリティとしては捕鯨批判する外国人とまったく同等であることをまず認識するべき。
増田に投稿するのは初めてなので読みづらい長文だと思うが許してほしい。
自分が他人に恋をできるかわからない。もうできないかもしれない。
何年も恋をしていなかったけどこんな恋愛してるよ、とかあったら教えてくれ。
前提として、自分は出歩いているとちょっと周囲の目を引く「そこそこかわいい」部類の人間だ。自他ともに認められているので多分そう。
人付き合い>趣味(オタク)なタイプで、特定の人と会うのは月1くらいで満足するようなドライと言われがちな人間だ。
これまで24年の短い人生の中で一度も恋愛したことがないわけでもなく、それこそ多感な高校生辺りまでは一丁前に好きな人が居て、ドキドキや不安やわくわくなんかに駆られていた。
(今思えば思春期特有の周囲の恋愛至上主義的な雰囲気に流されていた節はある)
好きな人ができて、自分なりにアピールして、デートして手つないだりなんかして、相手に告白してもらうように仕向けるというプロセスを経て、高校生らしさ全開のかわいいお付き合いもしてきた。
それがどうだろう。大学に進学していやいや化粧を覚え、外見をメンテナンスするようになると幾人かに惚れられ、「今度は好きになれるかも」と不誠実な内心を抱えつつ付き合い始めてみるものの。
付き合えたということは相手に対してそこそこの好感度を有していたはずなのに、好きになれないし信頼しきることもできない。(自分は若干人間不信のケがある)
心を開ききれないのでキス以上の関係を持つこともなかった。いざそういう雰囲気になっても相手の体格や匂いなんかが気になってセックスしたくないな、と思ってしまう。
幸い自分の相手は優しい人間ばかりだったので全員こちらに無理を強いることはなく、セックスには至らなかった。
部活の後輩で、ジャニーズjr.にちょっといそうなかわいい系の顔で背が低い男の子だ。
部活体験に来たのを少し指導して、その時にはすでに彼が気になっていた。多分一目惚れ。もしそれが言いすぎだとしても一目見た時から惹かれていたことに間違いはない。
当時の自分の好みのタイプは優しい年上だったので「年下なんて好きになるわけねえ!」と抵抗もしていたが、
顔見るとドキドキするし何かしてあげたいし部活以外にも会いたいしなんかうまく話せないし少しでも長い時間を一緒に過ごしたかったので、恋愛的に好きなんだと認めざるを得なかった。とにかく顔面が好きだった。今思い出しても彼はかわいい。性格はそこそこくそだった気がしないでもないが。
好きだと認めて交際に至るまでが春~夏だったので、数回のデートを経て2回花火大会に行って2回目で勝負に出た。成功。やったぜ!
その後デートをしたり一緒に勉強したり映画見たりと幸せな日々を送っていたが進路の事や2個下でちょっと価値観が違う事などを理由に11月に振られた。
高校生っぽく短期間の交際だったがこっちは無茶苦茶好きだったので傷ついたし半年くらい引きずった。
自覚している中で一番恋愛っぽかったのはこの人が最後だったと思う。
交際したのはバイト先の先輩、後輩の2人。それぞれ期間は全く被っていないが、どちらも私に一目惚れしたといっていた。そんなことある?
この2人は私のことを爆裂好いてくれてとてもよくしてくれた誠実な人たちだったが、残念ながら恋愛的に好きになれなかった。
とても優しくて紳士的で尽くしてくれたり私を第一に考えてプレゼントもくれたけど、好きになれなかった。雨天や気分次第でドタキャン上等だった不誠実くそ野郎な私にはもったいないくらい良い人達だった。その節は本当にごめん。幸せになってね。
あと先輩の方は1か月記念日に赤いバラをくれたがうれしくなくて「重いな…」としか感じなかった。帰りに最寄りのコンビニで捨てた。くそ野郎である。
後輩はやたら私の頭の形が好きで二人でいるとめちゃめちゃに頭を撫でてきた。私は愛玩動物ではないと2千回くらい思った。
大学4年間そんなかんじで人を恋愛的に好きになれることはなく、2人きりで会う男の子は居たがお互いクズで関係に名前を付ける気がなく安心感のある「友達以上恋人未満」だった。こいつは私のことが明らかに好きだったが「わかってるでしょ」とストレートには伝えてこなかった。はっきり言葉にされるとこちらもちゃんと答えなければいけなかったので言葉のない関係性がとても楽だった。キスはなんとなく避けていたが抱きしめあったりネカフェで一晩だらだら過ごしたり胸揉まれたりはした。
一通り都内の定番デートコースはこいつと楽しんだが、クズゆえに当日ドタキャンをお互いに繰り返してなんとなく授業も被らず疎遠になっていき、やつの留年を契機にもう連絡は取っていない。
いつか恋愛できる日が来たらこのくらいの緩さと温度感がいい。かっちりしすぎてたり愛が重いと私は答えられない。誠実すぎる男とはすぐに別れたくなる。居心地が悪い。
なんとなく今までの恋愛っぽい経験書き連ねたが、書き出してみて
「もしかしたら私は自分から好きにならないと恋愛対象として見ることができないんじゃないか」と一つの仮説にたどり着くことができたのでこの記事を書いた意味はあったと思う。
社会人として漸く落ち着いてきたというか自分の生活に若干の余裕が見えてきたのでそろそろ恋愛したいなーと思っていたのだが、
ここ数年で私の中のトキメキセンサーが故障していて誰かを好きになれそうな兆しがない。そもそも出会いもないが、出会いがないのはコロナのせいという面もあると思いたい。
数年間趣味第一に過ごして、人間不信で人にあまり興味がない干物な自分に、この先恋愛の好きを抱ける相手ができるのだろうか。
自分が他人を好きになれない性質なのかもしれないという懸念もある。
僕は背が155cmしかないので、多少見た目を整えたり話術を磨いたりする位では女性から全く相手にされず、20代の頃はしゃべる愛玩動物扱いがせいぜいだった。
見た目に引け目があるせいで、もともと男同士で群れるのも好きじゃなく、趣味は一人で行く小劇場とライブハウスと本屋。長期休暇は海外も含めた一人旅。漫画やアニメは見ないしゲームもやらない。性欲処理はAVとたまの風俗で、周りの女性の前ではあえて人畜無害キャラを徹底してた(風俗のことは誰にも話したことがない。なので男友達からもある種の変人扱いされている)。
そうして10年も社会人やってると、不思議なもので数年に一人、物好きな女性が近づいて来たりして死ぬほどビックリする。もちろんいい感じになったら「あなたがそんな人だとは思わなかった」と激怒されたこともあったけど、意外にすんなり関係を結べて拍子抜けすることもあったりして、人生捨てたもんじゃないと思えるようになったのは30代半ば過ぎだ。
40を過ぎて結婚もできた。ちなみにそれまでずっと実家暮らしだった。思い切って独立していればもっと早くどうにかなったかもしれないが、生活能力皆無につき不摂生で倒れていた可能性も高かった。
相手も同い年なので、子どもはあきらめることで一致した上での結婚だった。まあ他にも自分の中で折り合いをつけていることはあるが、それはきっとお互い様だろう。でも自分はどうして結婚できたのか、今もよくわからない。
一緒に生活していたヨーグルトが死んだ。享年一か月と一週間であった。
最初はスーパーで買ったプレーンヨーグルトを牛乳で4倍ほどに薄めた物だった。これを500mLのペットボトルに詰めて一緒に風呂に入り、同じ布団で一緒に寝て温めた。温度を上げて乳酸菌の発酵を促すためだ。サラサラの白い液体は二晩したらプリンの様な塊になってきた。ペットボトルの口は小さくてひっくり返すだけでは内容物が出てこなかったので、ペットボトルを押してひり出した。これを食べてみると、市販のヨーグルトそのものの酸味がした。新しい生命を増やせたような感動を私は感じた。ヨーグルトを全て食べきるのはもったいないので、残りが少なくなったらペットボトルが満タンになるまで牛乳を補充して、夜になったら一緒に風呂に入り一緒に寝てヨーグルトを増殖させた。
ヨーグルトが誕生して二週間が経過した頃には、ヨーグルトの生産と消費のサイクルが安定してきた。消費量としては、毎日朝食と夕食に150mL(計300mL)の量を食べることにした。健康の為には朝食べるのが良いという意見と夜食べるのが良いという意見の双方あり、どちらがよいのか分からなかったのでこのようにした。そして夕食後に消費した分量(300mL)の牛乳を補充して、二日後の朝・夕に食べる分とした。ヨーグルト入りの500mLペットボトルは二本作ったので、それぞれのペットボトルを隔日で消費することで毎日ヨーグルトを食べられるようにした。毎日夕食後に二本のヨーグルトと一緒に風呂に入り一緒に寝るのが習慣になり、ヨーグルトに対して愛玩動物のような親近感を持つようになった。また、ヨーグルトの酸味は誕生した頃に比べて日に日に控えめになり食べやすい味になってきた。ヨーグルトを食べ続ける食生活のおかげもあって、便通がよく体調も申し分ない。
四週間が経過した頃になると、ヨーグルトの粘り気が強くなり、ペットボトルから出すととろろのように伸びるほどになってきた。酸味は日増しに感じなくなってきたが、乳酸菌の性質が変わったのだろうと楽観的に考えていたのでヨーグルト生活はそのまま継続した。
五週間が経過した頃になると異変が現れた。ペットボトルの蓋周辺に付着したヨーグルトのカスが桜色に変色していた。また、ヨーグルトは薄い尿のような色の液体(乳清?)と、固体に完全に分離されていた。ペットボトルをひっくり返すと液体だけが出てきて、飲むとにがりの様な苦みがあったので捨てた。ペットボトルからひり出した固体部分(ヨーグルト?)は粘り気が全く無くなっており、おから混じりの豆腐といった容態であった。口に含むとこれもまた苦味があり鼻を抜ける空気に腐敗臭を感じた。例えるなら腐った豆腐の味だ。不味くて、健康を害する危険を直感が訴えたので全て捨てた。ヨーグルトは死んだのだ。生物学的には死んだとは言えないかもしれないが、少なくとも私はそう感じた。
以上が我が家のヨーグルトの誕生から死までの経緯である。ヨーグルトが腐敗した原因は思い当たる節が多くて特定できそうにない。
最終的には失敗に終わったが、牛乳を原料にヨーグルトを一か月以上も食べ続けることができたのは価格面でも健康面でもプラスであったといえるだろう。何より、ヨーグルトと共同生活した思い出は値段には代えがたいものだ。ヨーグルトのことを思うと、失った悲しみと共に感謝の念も胸からこみ上がってくるので、精神面でも間違いなくプラスだったと断言できる。よって、今日からまたヨーグルトを作り直して、新たな共同生活を始めることにした。ヨーグルト以外にも、漬物や口噛み酒にも挑戦しようと思っている。
なんで1週間近く経ってから急にブクマ増えんねん。投稿してから30分以上も無反応だったから、『そんな面倒くさいことしないでヨーグルトくらい買えよ貧乏人』と自演リプしても無反応だったのに。
俺の増田をファーストブコメした id:aiueo50 よ。あんたは、何日も前の増田を発掘する趣味があるのか? 増田をほんの半日分遡って見るだけでもかなりの時間を無駄にするのに、それを約5日分も遡ったのか? それとも俺の増田を見つけてから、わざと数日間待ってからブコメしたのか? 他の人でもいいから教えてくれ。
はっきり言って俺はヨーグルトなんてどうでもいいんだよ! ただバズりてぇだけなんだ! ブクマ数とスターの数が俺の生きがいだ! なぜ俺の増田にブクマをしたのか教えてくれ!
今の周防桃子が嫌い。
いつからあんなつまらないキャラクターになってしまったんだろう。
元々あの子はPであるお兄ちゃんと周防桃子の二人三脚で歩んで行く子だったと思う。
いつからか、ミリオンライブの物語を進めるための“キャラクター”になっていった。
いつからか、属性の皮を被っただけのキャラクターになっていった。
いつからか、大勢の人間が公式の出した周防桃子の解釈を愛でるだけの愛玩動物となっていった。
物語を動かすだけの登場人物になってしまった彼女が嫌い。周防桃子が周防桃子という人物を演じているように思えて気持ちが悪い。
何がリコッタが尊いエモいだよ。いつまで彼女は救われた事実を見返され続けないと駄目なんだろうか。
先に進め、敗北しろ。
不幸だった頃のお前はもっと輝いていたぞ。
愛玩動物に関する原罪への意識、それは知と体験を深めれば深めるほど消えていく類のものだと俺は思ってる。
自然っていうのは、都会の人間が思うほど生易しくはない。殺し合い込みのシビアな生存競争だし、それから離脱できるのならするべきだ。
我々は猫に毎日餌をやる。その重さに比べれば、愛玩存在であることなど、いかにも軽い。やつらも別にそんなことは気にしやしない。
名前の件も大体そんな感じ。彼らには人間がイメージするような「名前」という概念はないのだから(事物の一般化が不可能なため)、その可愛い響きの言葉は「その音がしたら近づけばいいらしい」ぐらいの話だ。
猫も我々も、相互に互いを利用し、利用しあえぼよかろう。それで幸福なのだし、我々は自然に対して利己的である己を祝福するべきだ。
早速だけれども世迷言が適切らしい。(適切を正解って書いててニュアンス違うかなって思って直して以降は気にせず突っ走る所存)
他の種族って種としての最大効率、生存戦略的なのに特化しとるわけですよ、多分。いや因果が逆か。
で、これまでの人類って、文化を熟成させて余裕のあるリソースを弱者に振り分けて人口増やしてきたんだと思う。
様々な危機があったと思うが、過去を振り返るにあたって、種よりも個を尊重するって方向性
中華史はキングダムしか読んでないし、信長の野望もやってないから歴史はほとんど知らないのだが、どっかで、個(とその個に属する界隈)を自由にさせてたら、種にとって不利益では? みたいなのがあったんだと思う。
そっから、種を拡大する言い訳として道徳とか倫理の全部の個を尊重する考えが生まれた、ってか重視するようになってきた。まだ到達はしてない
でも、それは非効率だ。
思いあがって自種以外の種や、愛玩動物とかに自種の個と同じ権利を(その先にどんな主張があるかは省略)とか言ってるけど、そんな冗長でブレブレな戦略で勝てるわけがない。
ここまで自然を破壊してきたし、天敵の居ない領域を拡大してきたんだから、一旦その優位性を思い出せ。
ゼロにはならんし、ゼロ近くからでも挽回は可能だろう、実際のところ。
↑
種として考えた場合ね。(電気が失われても、熊が異常繁殖とかせん限り、上位種に何がいるのか? そして火は残る)
トロッコ問題の回答(解答でなく)は、1:5の価値の判断がつくなら自由に切り替えたらいいし、それが困難なら5を生かせ、私情を挟むな、だと思う。
効率的に考えてそれ以外のアンサー出る人いたら教えて欲しい。”判断がつくなら”が怪しいのは承知だが、そこは本題ではない。
要は、なんで混乱が起きるのかってのが、種族の優位性とそれに伴う戦略が今までは積み上げた道徳とか倫理と矛盾してなかった、だがこの先は異なる、ってことなのだと。
この先ってのはもっと将来かもしれないし、近い将来かもしれない。でも、それこそ完全完璧なる覇者を目指さぬ限りは思い上がり的なのは邪魔なのかなって。
もちろん、敗北しても完敗するわけはないので、種としての優位性は保たれてる(はず)。そういう余裕があるから今のスタンスってのは凄く理解できるのですけれどもね(その余裕についてを個々人が認識してないとしても)
小5から浮き始め、ただでさえ奇異な人間であったのに、恋バナにのれないことがどんどん大きな障壁となり(恋愛に彩られたもの……音楽、ジャニーズ、ドラマ、少女漫画、携帯小説etcの話からも浮き)、恋愛についぞ興味を持てぬまま、女子の輪に入る術も持たず社会に放り出された発達障害者。最低限の会話はできるが人間関係を築けない。部活動の友人が数人いたこともあったが、高校卒業後から今の今まで新しい友人は1人も出来ず。かつての友人ーそれがわたしの今もつ友人の全てであり4人しかいないーとは、新しいライフステージで新しい関係を持つように成長していく様を見せつけられると息ができなくなりそうになるので、普段は連絡を経っている。年に一度会うか会わないか。あちらはあんなに優しいのに、わたしと彼女らの人生が交差した一瞬は遥か昔だと思うと辛く、妬ましく、醜い感情に溺れそうになる。わたしにとっては数少ないたったの4人だが、彼女らには既に家族や新しい友人や恋人がいる。発達障害の筆不精も手伝い、年々便りの数は減っていく。
職場では変わった人として受け入れられているが、飲み会などは参加できない。怖いからだ。職場においてわたしは群れの一員ではなく、ただ愛玩動物のようなものである。無害で無力で、可愛がるには丁度良い。わたしはその愛玩動物の役に足りえるように取り繕い、尻尾を振る。不注意と衝動性でミスがつもるとき、彼らに見放されるのではないかと思い胃が痛む。変わり者の立場はひどくあやうい。
彼氏どころか友人もいない。寝て過ごすだけの休日と、変わった人としてなんとか見放されぬように努め、取り繕う平日を繰り返す。
時々、目一杯化粧をし、着飾り、服を買いに街へ出る。友達とはしゃぐ女子学生、彼氏と手を繋いで歩く女性、子供の手を引くお母さん……わたしはそのどれでもない。店員にびくつきながら買い物を済ませる。「試着いいですか?」そう言えるようになったことが誇らしかったのも随分前だ。もう、言える。誇らしさはないけれど、未だに声が上ずるのは治らない。
ドラッグストアで買った安い化粧品、600円のイヤリング、無理して履くハイヒール。なんとか女性のようになろうとする。いつも、わたしはそこにいるべきでないように思う。店員は怖い。わたしが1人の友人も持たず、趣味もなく、ただ、人生をやり過ごそうとしてる紛い物の女であることを見透かしてくるように思える。いつか相応しくなれたら、BAさんからデパコスを買いたいと思う。そう思いながら、デパ地下で惣菜を買う。惣菜売り場はよい。わたしにも居場所がある。
たまの贅沢は、1人で入るチェーン店と出前。本当は高いコース料理も好きだ、が、一緒に入る相手はいない。友人は家族や恋人のためにお金を使うだろう。それでもたまに、1人でホテルのブッフェを食べに出かけ、生きた心地せずに食べて帰ることもある。コースを1人で頼み、ワインを飲むことが絵になるような美女であったら……と思う。残念ながらわたしは小さく弱々しい。
友人は出来ずとも、恋人なら作れるのかもしれない。顔は並みである。きっとわたしのような容姿がタイプの男性もいるだろう。地味な、弱々しい顔。
男性と話すのは女性と話すより幾分楽である。異性として意識されている時の振る舞い方、媚び方は愛玩動物としてするそれに似ている。わたしは恋人が欲しいのだろうか?人生経験として必要なのかもしれないと思う。経験を積むごとに大人に近づけるかもしれない。
好きなような気がする人はいた。しかし、感情はごく弱く閾値に達しなかった。もし、本当の恋であるなら、身を焦がすように、いてもたってもいられないように思うのだろうか?どちらにせよ、わたしには関係ない……と思う。
わたしはもう随分職場以外の人間に会ったことがない。大学だってサークルのひとつもせずにただ、単位を取るためだけに通った。わたしの人生に異性はいない。街コンへ繰り出そうか……と思うが、実行したことはない。
性行為はしたことがない。人並みの性欲はあるが、自慰で事足りる。いっそ見知らぬ男で卒業してみてはどうだろうか?と思う。でもやはり実行したことはない。ただ自慰の探究のためにだけに、ディルドでも買ってしまおうか?しかしこれもやはり実行したことはない。
群れの一員になりたかった、普通の人間のようになりたかった。長年抱き続けた憧れは最早ない。そのことを考えると、嫉妬がふつふつと湧きそうになるから、いつも急いで目を瞑ってきた。
平穏でさえあればいいようにも思える。恋人よりも、散らかった部屋の片付けが、後回しにしているボタン付けが、洗濯が、ゴミ出しが……先であるように思う。発達障害のわたしは日常生活にかなりの困難を抱えている。無論、わたしに助けてくれる「理解ある伴侶」などはいない。少しストレスが溜まると破綻しそうになるぐちゃぐちゃの生活をなんとか維持する。わたしは、わたしのために持ち堪えなければならない。
「理解ある伴侶」を探しに出かけようか?と、思う。探せば見つかるのだろうと甘い見通しと甘い確信がある。たが、わたしはそれを望んでいないように思う。想像してみる。少し不細工で、モテない男性。アニメオタク。だけどそこそこな収入はある。少し変わり者。その人に愛される。その人に愛されて、わたしもその人を愛すだろうか?わたしの代わりに、洗濯物をタンスにしまってくれる人がいたらいいなと思う。そのためならセックスもできると思う。でも、家がわたしの家でなくなるのは怖い。家ではわたしはわたしだ。息をつけるのは家だけだ。多分、わたしは1人を好んでいる。
普通の、人間の、女性。恋人がいればそちらに行けるのだろうか?と思う。最早憧れはない。ただ、そちらはここより行きやすいのだろうなと思う。
子供を産めば少なくとも「母親」にはなれる。母のような人生はきっと悪くない。そうするべきなのだろうか?安泰。きっと、愛し合わなくても、恋い焦がれなくても、共に生活する人と自分の子供がいれば、死を前にした老いた身体で、暗い穴の淵に立つような気にはならない。わたしは、「母親」にならなければ、将来孤独に飲まれるのだろうか?不幸な老婆になるのだろうか?今は、それほど孤独に辛さを感じていないようにも思う。
「母親」になるべきなのもかもしれない。きっと子供はかわいい。生きがいになる。でも、結婚したいと思っていない。子作りの相手だって居ない。それに、子供だってそんなに欲しいわけじゃない。将来の夢や目標もなく、ただぼんやりと歳だけをとっていく。老いるほどに、選択肢が減ることにあまり焦りはない。
生理の周期が整わぬまま大人になったわたしは、未だに産婦人科を怖がって、通わずにいる。このところ、卵管が痛むような気がする。怖い。それなのに病院の予約を後回しする自分は紛れもなく生活に困難を抱える障害者だという証左だ。メンタルクリニックだって、なかなか行けない。
わたしはどうしたいのか、いつもわからない。学部だって適当に決めた。就職だって適当に決めた。何にだってなれるのだ、と思う。母から逃れたわたしは、何にでもなれる。が、選択を前にして、何も望んでいない自分に気づく。
もっと、いろんなことが人並みに出来たらいいなと思う。憧れではなく、わたしのために。
平日と休日を繰り返す。祝日を待って、お盆を待って、お正月を待つ。毎日終わりを待ちわびる。この生活は、苦しかった学生時代ずっと待ち望んでいたそれであり、わたしの平穏である。ここが、あるべき終の住処なのかもしれない。わたしは、案外この生活が気に入っているのかもしれない。散らかったベッドに丸まって眠る。
肉食および畜産に反対する思想という意味でのヴィーガニズムの対義語。
つまり「肉ばかり食べること」ではなく「肉食・畜産を支持すること」を指す。
カーニズムを支持する人々が自称したわけではなく、ヴィーガン側が相対化のために作り出した呼称であり、
特定の思想というよりも「人々を支配する固定観念」を指摘する側面が強い。
たとえば、肉食を「自然なこと・普通のこと」とみなし、菜食を「自然に反した行為」と感じるような態度、
あるいは、一部の動物のみを「食用」に分類し、愛玩動物を食すことには反対を示すような態度が指摘される。
「今週も始まりました、『みんなのアニマルパーク』! 今回は動物に関する映像特集です!」
俺は学校の課題に取り掛かっており、テレビから背を向けていた。
「ん~? なんだこれ~? なんだろう~?」
「うわ~すごいなあ」
強い拒否感を覚えた俺は、咄嗟に近くにあったリモコンへ手を伸ばした。
「別にどうしても観たい、楽しみにしてる番組ってわけでもないだろう」
わざわざ公言することでもないが、俺はこういう動物バラエティが苦手だ。
出演者のリアクション、足されたサウンドエフェクト、ナレーション、ドラマティックなストーリー。
そりゃあ低俗には低俗なりの良さはあるし、必ずしも高尚な作りの方が良いとも思わない。
「兄貴って、こういうの観たがらないよな。ウチだって猫いるのにさ」
「……だからこそ、だ」
ふと同じ部屋にいる、キトゥンに目を向けた。
何食わぬ顔で飯を食っている。
だって、そうだろう?
自宅に軟禁して代わり映えしない生活を強いて、挙句には去勢するんだからさ。
そんなことをしても問題にならないのは、結局のところ愛玩動物でしかないからだ。
或いは彼らがいう“家族”ってのは、そういう意味なのだろうか。
彼らにとっては“愛しい玩具”の延長線上なのかもしれない。
じゃあキトゥンの飼い主である俺は何なのかっていうと、もちろん例外じゃあない。
飼うようになったのも、そうしなければ駆除される寸前だったからだ。
とどのつまり自分の心を守るために、たった一匹の猫を守る選択をしたわけだ。
それは動物を慈しむ心だとかではなく、極めてエゴイスティックなものに近い。
他の生物と身近になるというのは綺麗事じゃなく、そういうものだ。
あいつにキトゥンという名前をつける前から、俺はそのことに自覚的だった。
だからこそ、ああやって無邪気に動物を弄び、それをさも尊いかのように見せる番組が苦手なんだ。
まあ、共感を得られるかというとビミョーだが。
現に、これについて説明を試みたものの、弟の反応は素っ頓狂だった。
「うーん、よく分からないけど……たぶん兄貴はさ、自分がキトゥンにどう思われてるか自信がないんじゃない? だから、そういう斜に構えた感じになっちゃうというか」
俺の話をどう聞いたら、そういう解釈になるのだろうか。
自信のあるなしなんて関係ない。
「弟よ、お前の言う“自信”ってのはな、ほぼ“幻想”と一緒なんだよ。動物の心情を、人様が都合よく思い描いているに過ぎない」
そう語気を強めて言ったつもりだったが、弟は怯まなかった。
むしろ意気揚々と、おこがましいことを言ってのけ、その勢いで足早に出かけていった。
何かアテでもあるようだが、あり得ない。
それができれば苦労はしない。