はてなキーワード: 間抜けとは
六月。陽が紫陽花色の残滓を残し沈んだ直後、入れ替わりに空へ現れた低く大きな月と、
明滅する黄ばんだ街灯に照らされる薄暗がりの中、セーラー服を着た少女が廃品工場の敷地に積みあがった錆びたガラクタの山を睨み付けていた。
帰宅途中、自転車で通りかかってその様子を見つけ、なんとなく立ち止まって彼女を眺めている私に気付いたのか、
彼女は一度、背後に停めてある彼女の銀の自転車越しに私の方を振り向いたが、すぐに興味を失ったように視線をガラクタの山へと戻した。
肩までかかるまっすぐな黒髪と、やや度の強い眼鏡をかけた彼女について、名前はわからなかったが、私は自分が彼女の同級生だという事をなぜか知っていた。
私は、人気のない工場の入り口で自転車に跨ったまま、声をかけるでもなく、しばらく彼女の背を眺めていた。
「ねえ。」
不意に彼女が口を開いた。
その言葉が私に向けられたものなのか確かめる間もなく、聞いていようがいまいが関係ない一方的な様子で、彼女は続けた。
「ユキのこと、覚えてる?」
ユキという名前には聞き覚えがあった。タニムラユキ。緩くパーマのかかった、明るい栗色の髪が印象的な少女。
タニムラさんは、私と彼女の前年度の同級生で、明るく活発で誰にでも分け隔てなく接するタイプの、少し勉強が苦手な子だった。
成績が良く控えめな性格の目の前で背を向けている彼女とは好対照な性格ながら、傍から見ても二人は特に仲の良い友人関係だったように見受けられた。
タニムラさんは、五ヶ月前、ちょうど冬休みが明ける頃に亡くなった。
朝、ご家族が起こしに行くと自室で首を吊って亡くなっていたそうだ。
遺書のなかった彼女の死は、二年生への進級を控え、進路や勉強についての悩みが原因の突発的な自殺として片づけられた。
私も通夜に参列し、学校では命の大切さを説く授業が行われ、現在も一部の生徒にはカウンセラーによる面談が継続的に実施されているはずだ。
もちろん覚えている、と私が口を開きかけた途端、彼女が先に口を開いた。
「ユキ、自殺する前日に『明日先輩に告白する』って言ってたんだ。」
「先輩?」
間抜けな私が、今夜初めて声を発して聞き返した。タニムラさんの死は、実は失恋によるものだったのか。
聞き返されたことが不快だとでも言いたげに少しの間を置いて、彼女は続けた。
「……シュート先輩。サッカー部の。このことは多分……ユキのご両親も知らないと思う。」
シュート先輩について、名前を聞いても顔が思い浮かぶほどの接点はなかったが、
私はその名前が、スポーツがとても得意で容姿の整った、女子生徒から人気のある一学年上の男子生徒だという断片的な情報は持ち合わせていた。
「ユキが死んだ少し後、私、シュート先輩のところに話を聞きに行ったの。
少しでも、亡くなる前のユキの様子を聞きたくて。
そしたら、部室の中から『マワしたのがバレるかと思って焦った』『まさか死ぬとは』って……。アイツら、笑ってた。」
ごくありふれた、思春期の精神的な揺らぎに勢いが付きすぎて死んでしまったのだとばかり思っていたタニムラさんが、
彼女の気持ちを踏みにじる、俄かには信じがたいような乱暴を受けたことを苦にして亡くなっていた、ということか。
「許せないって思った。絶対に、絶対にこいつらに復讐して、ユキの仇を取ってやるんだって……。」
絞り出すようにそう言うと、彼女は手に持っていた、どこかのご当地ものらしいキャラクターのマスコットを、潰れるほど強く握りしめた。
マスコットを歪め、ガラクタの山の頂上を睨み付けたまま、彼女はさらに語る。
「その後、シュート先輩やサッカー部の事を調べたら、結構いろんな噂があった。
だから、アイツらに近づいて、油断させて、証拠をタップリ掴んで、
卒業まであと少しの……そう、ユキの一周忌に秘密を全部バラ撒いて、あいつらの人生をグッチャグチャにしてやろうと思った。」
「……そのために私は、都合のいい女になろうと思った。
無条件に愛して、尽くして、学校でも街でも家でも、いつでも呼び出せて、身体を使わせる、そんな女……。
男って面白いのね、最初は皆に使わせていたのに、何度も繰り返して、それでも私が離れないとわかると、
段々情がわいてきたみたいに、逆に独占したがって、優しくするようになるの。」
シュート先輩のその行為はとても認められるものではなかったが、その心情がどこか理解できるような気もしてしまった後ろめたさを、私は沈黙で隠した。
「それで、これからは、部活を引退して、私が勉強をサポートして、いい大学に入学を決めて……その後、その後全部台無しにしてやるつもりだったのに……!」
彼女の語気が強くなり、嗚咽が混じり始める。不意に振りかぶるように上げられた右手に握られたマスコットが、更に変形した。
「なのに……なんであっさり死ぬのよ!なによ、遠征帰りのバスが事故って!!」
「なんで、遠征先で私に、プレゼントなんか買ってんのよ……!!!」
事故?サッカー部のバスが?そんな話を、私はまだ聞いていなかった。
しかし言われてみれば、昼間救急車が妙にたくさん走っていて、学校の教師陣の様子が慌ただしかったような気がする。
驚き、展開を吞み込めないでいる私を置き去りにするように、彼女は続けた。
「夕方、病院で先輩のお母さんに会って渡されたの、この人形。『あの子が、あなたに。いつもありがとう。』って。」
「何よそれ!!ざまあみろ!自業自得だ!死んで当然だ!因果応報だって!
私が!ユキのために!言って……!笑って……!こんなもの、投げ捨ててやらなきゃいけないのに!!」
腕を振り上げたまま髪を振り乱す彼女の声は、最早完全に泣き叫んでいた。
「どうして、捨てられないのよ……!こんな……ものが……!!」
泣きじゃくり、肩を震わせながら、力なく彼女の右手が降ろされていく。歪んだマスコットを握りしめたまま。
「どうして……」
うなだれ、小刻みに震える彼女の背と、同年代の人物から発せられたあまりに強烈な感情を前にして、
己の幼稚さが急に恥ずかしくなり、かける言葉も見つけられずただただ見つめるばかりの私を、
先ほどよりも濃さを増した夜と、少し高くなった月が見降ろしていた。
昨日風邪をひいて20時間ぐらい寝ていたら色々な夢を見たのだけれど、その中でも印象に残っているものを文章におこしてみた。
でも頭の中の映像ではもっと迫力あったんだよなー。うーん。やはり夢の話はしょうもないか。
脚注だろうと末尾の文献リストだろうとそこに書く情報は変わらないってのと、以下のような文献の書誌情報を書くスタイルは確立されているので、文献リスト云々の話は関係ないってこと。
そもそも出版されてない資料(昔のお役所の公文書とか、お寺に伝わる古文書とか)
古典(アリストテレスが紀元前に書いたやつが、2010年に岩波文庫とかで出版された場合、アリストテレス 2010って書くの? 間抜けじゃない? それより、最初の注で岩波文庫版の書誌情報を書いておいて、あとは作品名と第何段落とかそういう形式で引用した方がいいよね。古典はジャンル別にそういうの決まってるから)
新聞記事(1本や2本ならいいけど、数十本、数百本となったとき、記事のタイトルと発行年月日まで文献リストに載せるのめんどくさくないです? 文献リストには○○新聞を使ったとだけ書いておいて、注で○○新聞の何月何日何面に書かれてる何というタイトルの記事です、って書いた方がラクじゃない?)
なんかけっこうな数の人に勘違いされてるようで驚く。そんなおかしなことじゃないでしょ。ということで補足。
言っとくけど、これは剽窃や無断転載をしていいって意味じゃないですよ。参考文献の情報を表示する方法が違うってだけの話。
標準的な理系とか社会科学系の論文では、注ってこうやって示しますよね(以下、例はあくまで架空のものです)。
Trump (2018: 70)は次のように主張している。一方、Obama (2018: 47)はこれに反対していて……
この場合、文献リストがないと駄目です。だってこれだけじゃ、どの論文・書籍のことなのかわからないもん。だから、論文の末尾に文献リストをつけて、
って書く必要があるわけです。これがないとアウト。
トランプは次のように主張している(※1)。一方、オバマはこれに反対していて……(※2)
※1 Donald Trump, Make America Great Again (New York: Trump Tower, 2018), 70.
※2 Barack Obama, Yes, We Can (Chicago: UC Press, 2018), 47.
って表示することが許されてるわけですよ。これ、末尾に文献リストつける必要あります? そりゃつけた方が親切だと思うけど、なくても別にいいでしょ。だって参考文献の書誌情報はじゅうぶん伝わってるんだから。
なんで下のようなやり方がされるかっていうとですね、私も確かに上の方が便利だと思うんですが、文系の論文だと、
みたいな資料を引用することが結構あってですね、そういうタイプの資料を扱う研究者にとっては下の形式の方が楽なんですわ……。もちろんそれらの資料でも、工夫すればちゃんと上の形式で引用できますし、実際そうやってるひともいるけど、下のやり方は伝統的なので根強く残ってるのです。
あとまあ、学会によっては「下のやり方で書いて文献リストをつけるな」って投稿規定に書いてあったりするしね(もちろん上を指定してる学会もあります。ケースバイケース)。
http://anond.hatelabo.jp/20170525145352
おっ、せやな。シカゴ・マニュアルそのものじゃないけど、手元の解説書を読んでみたら、次のように書いてあるわ(分量的に引用として許される範囲を超えているけど、そこは勘弁してほしい)。
本書は、2つの最も一般的な引用方式を扱っている。「注記式参考文献目録方式notes-bibliography style」、または簡単に「参考文献目録方式bibliography style」(人文科学全般や一部の社会科学で用いられる)と、「カッコ入り出典―参照リスト方式parenthetical citations-reference list style」、または「参照リスト方式reference list style」(大部分の社会科学、および自然科学と物理学で使われる)と呼ばれるものだ。(後略)(※1)
参考文献目録方式の引用では、資料を使ったことを、典拠に言及するセンテンスの最後に、上つき数字を付けることによって示す。
He argues that "in an uncertain world, printed materials can be put to use in ways that make them powerful." 1
それから、対応する数字をつけた注で、引用の出典を挙げ、それに関する情報(著者、表題、および出版情報)とともに、該当するページ番号を明示する。注はそのページの一番下(脚注と呼ばれる)か、レポートの最後に集められたリスト(後注と呼ばれる)の中に印刷される。すべての注は共通の形式をとる。
N: 1. Adrian Johns, The Nature of the Book: Print and Knowledge in the Making (Chicago: University of Chicago Press, 1998), 623.(※2)
※1 ケイト・L・トゥラビアン(沼口隆・沼口好雌訳)『シカゴ・スタイル――研究論文執筆マニュアル』慶應義塾大学出版会、2012年、194頁。
※2 同、195頁。
元増田でも例を挙げたけど、この方式を採用している英文学術誌なんてたくさんあります。私が見たことある限り(ちゃんと読んだというわけじゃなくて、単純に論文をダウンロードして形式を確認した限りということ)では、中国語・韓国語・ドイツ語・フランス語・スペイン語・イタリア語・ロシア語の学術論文でこの形式は許容されてる。
海外の著者だと、たとえばウンベルト・エーコが『論文作法』って本の中でこの方式を詳しく説明してるので、ご覧になってみては。
人文系からすると、この方式を知らない方がガラパゴスですよ。だって、文系は理系の人はこの方式使わないで別の方式使うよね、って知ってるもん。なんで理系は、文系では別の方式も使うよねって知らないんです?
もちろん、この方式でも、たとえば1冊の本にまとめる場合なんかは末尾に文献リストをつけるのがふつうだと思います。だってそうじゃないと、その分野に関する文献にどんなのがあるか知りたいときにめんどくさいもの。一度、文献リストをつけられてない英語の本を読んだことあるけど、注を逐一確認して文献を探すのめんどくさかったですよ。ただ、論文程度の分量なら、注を逐一確認するのもそこまで苦ではないし、だいたい単にめんどくさいってだけでじゅうぶんに出典表示の義務は果たしてるし、紙幅の問題もあるしで、つけないことが多いんじゃないかなぁ。学位論文とかで、文献リストを絶対につけること! っていう決まりがある場合はつけないといけないけど、それは単に投稿規定守れっていうのと同じ話なので……
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
それなりに波乱万丈な人生を送ってきた私も良くは知らないな。
私が出会ってきた人間は、ほとんど分かりやすく暴力的な奴らばかりだったから。
覚えている範疇でそれっぽいのは、「愛佳は俺の嫁。彼女はまだ知らないだけだ」みたいなことを言った人間かな。
まあ「お兄ちゃんどいて!そいつ殺せない」みたいなものだと思うので、話半分で聞いていたが。
玉乗りに挑戦していたんだが、飛び降り着地するときに勢い余って顔から地面に突っ込んでしまってね。
地面も砂利の混じったグラウンドだから、これが痛いの何のって。
なぜ顔から突っ込んでしまったのか、なぜ玉乗りなんぞをやったのか、今でも自分自身のことなのに理解に苦しむよ。
次点だと折りたたみナイフをたたむ時に、刃の部分を指で押し当ててたたんだことだな。
すぐには血は出てこないんだよ。
時間差で親指がパックリ開いた瞬間を見たね。
それでもテープの絆創膏を貼ってるだけで、傷も残らず治るんだからすごいよな。
おかげで酒の席で語れるような武勇伝がないのが個人的には悲しいところだが。
両方正解だ。
都会に乗り入れる列車が観光列車(キラキラ列車)ばかりでイライラしているの。で、よく見たらブルジョワさんが群がっていて、よく見たらななつ星だの四季島だの止まってる。
お前ら、70万円だか190万円だか溝に捨てるために駅に群がったり、何日間も鉄道に休まず連続で乗ったりするんじゃねーよボケが!
そこにラッシュアワーがお出迎えか。おめでてーな。
よーし、オタクもカメラでお出迎えか。というこの風景、もう見てられない。
お前らに幾らかの時間と賄賂代わり含めた十数万円を渡すからもう一度考え直せ。大体鉄道会社はもっと殺伐としているべきなんだよ。中国・アメリカを見習え。
露悪趣味系やオタク系ならともかく、ミーハー系は車にでも引っ込んでろ。
この間、ターミナル駅行ったが観光列車ばかりで一般人と鉄オタぶちぎれだった。今時こんな電車好きな人間は田舎のブルジョワか奇特な外国人以外いない。この電車が好きだという人に鉄道を本当に愛しているのかと、鉄道を手ごまとして思っていないか小一時間問い詰めてみたい。
金持ちでない人はともかくとして、同じ金持ちから見てもまともな都会人目線では、「お前ら何十万を溝に捨てたいだけじゃないか」と思うんだがどうよ?
キモヲタ通の私から言わせてもらえば、通の間での最新流行は、やっぱり「(とくに格安系会社の高級席)航空・バス」これだね。
航空・バスオタクはエゴイズムが多めに入ってて、地域愛が少なめ。コレ。
仕事が終わり、最寄り駅を降りて帰宅中の出来事だった。事務所内で起きたトラブルに翻弄され、極度の疲労を抱えつつ自宅までの遠い道を歩いた。いつもならばバスをつかまえることができるが、その時間はとうに過ぎていた。
自宅は住宅街の外れにあり、家までの道のりには護岸工事を施された川に架かった橋を渡る必要があった。
橋上の歩道には、等身大の裸婦像とベンチが設置されている。休日にジョギングがてら休憩に立ち寄るにはちょうどよかった。
仕事で精神的にやられた帰り道など、深夜ではあったが、やはりこの場所で小休止することがあった。真っ暗な川面に目をやると、胸の中のどす黒い感情がゆるゆると流されていく。かわりに気持ちよい風が頬をかすめ、しがらみや思いこみがほどけていく。
その日も橋に差し掛かろうという時だった。裸婦像の傍に人影がかすかに動くのを認めた。
手の甲を腰にあてて、半歩前進するポーズで遠くを見つめる裸婦像の周囲を、LED街灯がスポットライトのように照らす。街灯が旧式から替わってから、真下の眩しさと引き換えに周囲の暗さが増したためか、傍の人物は憫然としない。その人物以外、あたりはとうに人影が絶えている。
歩みを止めて、しばし見入る。
その人物(着古したジャージ姿の初老の男性)が、街灯が作る光の輪に半身を晒しつつ裸婦像の足下にしゃがみ込んでいる。
男性の左手が像のふくらはぎに優しく触れる。右手は闇に紛れて見えない。
太腿をゆっくりと這い、この時代にはふくよかに過ぎる臀部を撫で、横腹に手をすべらす。
そこから胸のふくらみを両手で撫で上げようというとき、声かけを行なった。
「こんばんは」
以前にも、自宅が分からなくなり空き地で転倒を繰り返す男性を保護したことがあった。
口調のなかに、大丈夫ですか、というニュアンスをこめつつ、気遣い4割、警戒3割、観察3割の目を向けた。
男性が跳ね起きるようにして僕を見る。
その正気に戻った顔を見て、すぐに後悔した。
私的な領域に無遠慮に踏み込んだ気まずさを落ち着かせる言葉を探す。
動揺を隠しつつ、「大丈夫ですか」と続けた。
少しの間のあと、男性が
「ああ」
と返事をした。
「体温が」
男性がぼそっと言う。
「え。感じますか、体温」
「全然」
吐き捨てるように言い、少し俯く。
「そうですか、でもリアルですよね」
「いや、全然」
次の言葉を探していると、泣き笑いの顔を上げてぽつりと言った。
「カミさんの肌にはかなわねえよ」
男性が照れたようにしてそっぽを向いた。
その時、僕の全身を、しばし味わったことのない感情が走った。
男性の胸のうちにある持っていきようの無い闇と、僕の胸のうちの屈託が、束の間に交わした言葉と風に紛れて、ゆるゆると解けていくのを感じた。
真夜中の路上で、男性は明らかに不審であったが、かく言う僕もまた、その男性にとっては見知らぬ他人であり、かつ人の領域を踏み荒らす行為は日常を逸脱した不審な行動とられても仕方なかった。
その2人が、束の間に交わす言葉で、互いの顔を取り戻した。
僕たちの間には、暗い川の上でこれから船頭のいない舟に乗せられる者同士が出会ったような、密やかな気持ちの交換があった。
「お気をつけて」
ひと言かけると
「おお、じゃあな」
と返ってきた。
僕にはそれでじゅうぶんだった。
休日の晴れ間、散歩がてら橋上に立ち寄った。あたりに人影が無いのを確かめて、裸婦像の腰を手のひらでそっと叩くと、ぬるんだ風の中で左手がぺたんと間抜けな音を立てた。
俺たちは一所懸命に火を消そうとするが、カジマが動き回ることもあって上手くいかない。
一体、どうすればいいんだ。
「近くに川があるんだから、そこで消せばいいんじゃ……」
ドッペルに言われて、やっと気づいた。
そんな簡単なことにも気づかないとは、俺たちもかなり焦っていたらしい。
急いで俺たちはカジマを近くの川に放りこむ。
こうして懸命な救助活動のおかげもあり、カジマは服の犠牲と、多少の火傷で済んだ。
「やれやれ、己の作った火にやられるとは……」
「面目ないっす……」
カジマはボロボロの姿で意気消沈しているものの、俺たちは同情する気がまるで起きなかった。
「……まあ、とりあえず病院に行け」
カジマを最寄の病院へ送ったその帰り、俺たちは今回の一件について話していた。
「カジマはバカみたいだが、それだけ火ってのは人を惹きつける力があるんだろうな」
「でも、それで身を滅ぼすなんて、本当に走光性の夜虫みたいだな」
夜虫も炎や電気に突っ込むことはあるが、火種まで作って自らそれに焼かれるってのを人間がやるとは間抜けな話である。
火は人間に知恵をつけた代表格とセンセイは言っていたが、むしろバカになってしまった側面もあるのかもしれない。
「そういえばタイナイ。カジマが起こした火について、あれはブログのネタにするのか?」
「身内ネタは趣味じゃないし、ボヤ騒ぎなんてインパクトもまるでないけど、別の意味でネタがでかいから書いちゃおうかなあ」
「それが新たな火種を生みそうだな」
まあ、さぞかし本望だろう。
それから数ヵ月後、ファイヤーブームは下火となり、一部のマニアが愛好する程度に収まった。
俺はそのことでセンセイと話していた。
「センセイ、あなたが以前言おうとしていたことが何となく分かりましたよ」
「ん? いつの話だい」
「ファイヤーブームの話をしていた時に、センセイが言おうとしてやめた言葉です」
「まあ……でも、多くの人々にはロクに認識すらされていませんでしたが。結局ブームは自然と廃れていきました」
「流行に跳び付く大衆は無節操に見えるが、対岸から眺めるに留めてたってことなのだろう」
というか、もしもカジマみたいな人間が数えられないほどいたら色んな意味で大惨事である。
火は人々にとって身近な存在になってはいるが、遠い存在でもあることを忘れてはいけないのだ。
カジマはその距離感を掴み損ねた。
センセイが不穏なことを言う。
「流行の本質は代わり映えしないものさ。時代は変わっても、な」
そんなことがあって欲しくはないと思いつつも、その時にもしもカジマが同じ過ちを犯すなら、次は見捨てようと決心した。
今回はとなりのヤングジャンプ
110話の感想で、闘技大会編のテーマを考察したけれども、今回はそのアンサーにあたるね。
闘技大会編で提示された「ヒーローの必要性だとか意義」とは、第102話のスネックの自問が分かりやすい。
「勝てない相手にどうすべきか」ってのは、無免ライダーと深海王のを筆頭に何度か趣を変えて描かれていることだけれども。
今回はそこに「自分より強くて、守る必要のない人間」という要素が含まれてくる。
あまり気にしたことなかったけれども、フキダシ外のセリフが割りと小ネタ利いているね。
本作はいい話のまま終わるパターンもあるし、今回はそちらのほうが収まりがいい気がしたから油断していたってのもある。
主要人物が衣装入れ替えるのって、二大ヒロイン構成の漫画とかがよくやる定番ネタだね。
こういうのってギャップによる魅力や、普段のデザインの妙などが窺えたり、それがヒロイン二人同時に味わえるわけだから一粒で二度美味しいよね。
ダッチワイフはツッコミしつつネタも入れていくものだから、今回みたいに味方が誰一人もいないと、すごくせわしなくなるね。
それにしても、良さそうな服を着てみたら思いのほかダサいと気づく、ってのはリアルでもあったりするのかなあ。
個人的にはピンとこない出来事なんだけれども、自分というフィルターを通して見て、初めて目が覚めるものなのだろうか。
いや、今回はモノがモノだから、余計そう感じるだけなんだろうけれども。
なんだかラブコメとかでよくある、扇情的な衣装を着たヒロインが「何よこれー!」っていう「いや、着てから言うなよ(気づくなよ)」という構図の間抜けさも、案外リアルにあったりするのかもしれないと思ったり。
今からもう3年くらい前、自殺しようと思った。統合失調症にかかって約7年くらい経った頃のことだった。
私の場合、幻聴に死ね死ねと毎日追い詰められ、死に方も指定されていた。しかし、幻聴に指定された死に方で死ぬのは嫌だった。そして、病気のせいで死ぬのだから私の身の回りの誰が悪いわけでもない、ということを示すための死に方が良かった。結果、水中毒で死のうと決めた。これなら、統合失調症の症状でまれにあることだし、私が死にたいと思って死んだのだと周りの人々に思われることはないと思った。幻聴に指定された死に方でもなかった。この方針が決まった時、「やったぞ!私は奴らのいいなりにはならないで死ぬんだ!」と心中快哉を叫んだ。
500mlのペットボトルを大量買いした。そして両親が寝静まった後、いつも処方されている量の睡眠薬を飲み、静かにそれらを飲み始めた。
ボトルを何本飲んだ頃かは忘れたが、段々と意識が朦朧としてきた。その朦朧とした意識の中でふと思った。
「これ以上飲んだら本当に死んでしまうかもしれない」
だが、それでもさらに飲むことを選んだ。この時の気持ちは今でも忘れられないし、この文章はこの気持ちを書き留めるためのものである。ただ、言葉にはできない。
そのあとの顛末は間抜けなものだ。私の体に入った水分は綺麗にシモから抜けていき、今もこうして生きている。
それから生きてて良かった悪かったは当然あるが、そんなことはどうでもいい。
あの日、快哉を叫んでから世界が金色に染まったかのように見えたこと、夜中に一人でさらに死にやすい方向へと舵を切ったこと、それらが今でも忘れられない。
それらを今でも忘れたくない。
ああああああーーーーー
つらいーーーーー
ハッシュが死んだよーーーーー
何で死なないといけなかったかなーーーー血が足りねえ?
あっそうーーーーーー!!そうですか!!!!!
私何で見てるのかな鉄血のオルフェンズ。
もう次最終回だよ!
足掛け2年つきあったからさ~~~、言わせてくれる??
49話の話からね。
ガエリオは生きててよかった…えっ生きてるよね?
アインも生きてる(広義)よね?
正直こっちの脳がシャットダウン気味だったからよくわからんけど…。
ガエリオが「俺を見ろ!」つってたね。
いいシーンだった。
これが2期の前半ならね!!!
こっちはさあ、1期と2期の間
マクギリス、革命の英雄でもなけりゃサイコパスでもないんだよね~~
1期が終わった後、
「マッキーが何を思ってああしたか、納得いく説明なんかしてもらえるの?」
って話してたんだけど、
怒りの中で生きてきたのはわかるけど
そこで私のマクギリスが死んでしまった。
ガエリオは必死にマクギリスに対峙してくれたけど、そのマッキー、死んでっから。
そんな等価交換じゃないもののために、一度助かった命を懸けなくていいよ。
なので生きてて欲しい。
マクギリスの間抜けさ、何のためなの??
そんな人と手を結んだばっかりに鉄華団(主人公サイド)は死にますーーーってなるの、お話として面白い!??
結局マクギリスの軸さえブレてなきゃ、そんなに荒唐無稽な話にはならなかったと思うんだよね。
ずっとブレてないのかもしれないけど、それならそれで
って問い詰めたい。
もう一つしんどいのが、女と大人の立ち位置…まあ主に女かな…。
1期の時はクーデリアもアトラも、
俺だーーーー結婚してくれーー!って気持ちにさせられてたのに、2期の二人は何なの。
別にアトラが三日月とクーデリアと家族になりたいというのはいい。
子どもがいれば三日月を引きとめておけるかも…ってアトラが思うならそれはそれで仕方ない。
それなら、
「子どもがいても三日月は遠くにいってしまうかもしれない、自分は間違えていたかもしれない」
ってアトラに思わせてあげろよ。
だって三日月の子作り後の行動のどこに安心が得られる要素があるのか。
(クーデリアに後を託したところを聞いていないのをさっぴいてもだ)
クーデリアも…もうクーデリアを1期のような形でジョーカーにできないのはわかる。
ただでさえ天丼なのに、クーデリアの演説一発で解決しちゃいけない。
でも、クーデリアは1期で成長したじゃん…全然違うアプローチから何とか活躍させてあげられなかったのか……。
戦後処理で頑張ってくれるんだろうけど、あまりに…1期でお役御免感が強くて馴染めなかった。
雪之丞とそういう仲になるのはいい。嫌いじゃない。
でも彼女が1期で「このままじゃいけない…」って言ってたのを、
2期で「腹を括った」って思考停止させるのは何なんだろう。
何か結論を出すなら我々を納得させるイベントが必要じゃないのかな。
エドモントンの闘いで充分だった、っていうこと?
じゃあ、机上の空論よりも現在血を流している子たちの中で支えて行こう、って決意するシーンが欲しかった。
1カットでいいんだよ。
言いたいことはまだまだあるけどさーーー
多分最終回後だと、見たことを記憶から消したくなるんじゃないかな。
それが怖くて今書いてる。
個々の人間関係はすごく丁寧に描いてるけどさ。
めちゃくちゃ丁寧に。匠かよ。
そりゃ良かったよ。
人が死ぬのは仕方ない。
ガンダムだしな。
の繰り返しで話を引っ張るの、あまりにも知恵が無さすぎない?
そりゃあエモーショナルなドラマをされたら感情は動かされるけどさー
縦軸がぐにゃぐにゃ過ぎない?
我々をどこに連れて行きたいのかわからないし、目の前虚無だし
何がしたいんだい。
「足掻いても変えることができない現実もある」、そういうリアルを描きたいのかな。
こちとら現実で嫌というほど味わってるよ。
「彼らが世の中を変えたりはしない」って最初の頃から監督のエクスキューズらしいけど、
こうして2015年から2017年まで画面の中で彼らが生きて来て、
世の中は変えられなくても、彼らは何か得るんじゃないかって思いたいじゃん。
アトラの子が~次の世代が~~~~とか言ってんじゃねえぞ!!!
三日月やオルガやユージンやシノや昭弘やダンテやチャドが報われてえって話なんだよ!!!!
最終回でこっちも、あー最後まで見て良かったなーって言いたかったけどさ。
そう思ってここまで来たけど
何もねえよ。
ある気しないよ。
どうすりゃ良かったのか教えてあげてよ。
話作った人に。
ちなみにババアはさ、Z、ZZ、Vガン、Gガンとリアタイしてっけど
何をどうすりゃいいのかわかんねえよ。
話聞いてくれてありがとな。
【追記】2017.03.29
足掛けなら3年だね。
'15~'17だもんね。
ツイッターも見たよ。
testa_kitchenさんが貼ってくれてたリンク先のブログ…アグニカポイントの奴ね。
http://shiratamazenzaitsubu.blog14.fc2.com/
とても参考になったよ。
「シュテッケンが足りない」には笑ったわw
やっぱバクシンガーENDなのかな。
ババアだからさ、経験上アニメーションの筋が誰か一人の意志だけで決定されるとは思ってない。
連続ドラマと一緒で、よほどの強権が無いとブレやすいもんなんだとは思ってる。
それでもしんどいもんはしんどいんじゃーーーーーーーーーーい!!!!!!
という情動に突き動かされて書いた。
アトラとクーデリアとメリビットの話を優先したのは、他の人が書かなさそうだから。
オルガに言及しろよじゃねーーよ!!!お前が言及するんだよ!!!!!
お前のオルガへのありったけの想いを、お前が書くんだよ!!!!!
そういう趣味が無ければ増田に書いてババアに読ませてくれよ!!!!!
最後になりましたが、「暖簾にダインスレイブ」評価して頂いてありがとうございました。