はてなキーワード: 吐息とは
それがおれの仕事だ
一度おれに刃向かった奴も二度目は地獄で黙りこむ
それがおれのやり方
誰かがおれに言った おれには血と硝煙と
おれは都会のスイーパー 人呼んでシティハンター」
どしゃぶりの Rainy Road 想い出に傷ついて
疲れきったおまえは Pretty Dead-end Girl
寂しげなおまえに Margarita kiss
仮面を脱ぎすてて
Chance Chance Chance Get Chance
Chance Chance Chance Chance
ガラス越し Moonshine ほほえみに夢をのせ
輝いたおまえの Lovely Funny Face
ときめき忘れない
Chance Chance Chance Get Chance
Chance Chance Chance Chance
Chance Chance Chance Get Chance
Chance Chance Chance Chance
金曜日の19時。仕事終わりのサラリーマンで賑わう繁華街の外れ。
待ち合わせ場所に現れた女は写真で見ていたのとは全くの別人で、ゆうに80kgはあるだろうと予想された。
いかにも慣れた様子で「行こっか」と歩き出した彼女の後ろを僕はひどく惨めな気分で着いてゆく。
「経験が少ないです!」と言っていたのは本当にこの女か? 「よければドライブでも行きましょう!」と言っていたのは本当にこの女か? この女は本当に22歳なのか?
訳もわからず腰を振った。どこか自分を俯瞰的に見ている自分がいて、なんて間抜けな姿なんだろうと思った。
女はすぐに帰って行った。さようなら、僕の1万8千円。
やりきれなくて飲めもしない酒を飲んだ。がぶがぶと飲んで、気付けば23時半を過ぎようとしていた。
週末の最終電車に青白い顔で乗り込む。飲み過ぎで気分が悪い。
なんとか座席に座って周囲を眺める。同じように飲み過ぎたサラリーマンが、フラフラとつり革に掴まっている。醜い。
電車の揺れは心地良い。僕はこのままずっと目的地に着かなければ良いのにと思った。
0時を回る頃、最寄り駅に着いた。尿意を感じてトイレに駆け込む。
この駅のトイレはひどく汚くて、僕は極力使わないようにしている。この日も、小便器の周囲は誰かが零した小便で濡れていた。僕はその上に立つ。
隣の便器におっさんがやって来て、吐息と共にビチャビチャと小便を始めた。
思わず「汚ない小便しやがって」と呟いた。
小便に汚いも綺麗もないだろう。
次の日の朝は起きられなかった。
自分の力量では思い通りにいかないことに直面したり、本当に欲しいものの代替品ばかりを掴まされて「自分が心から求めているものはどれだけ願っても手に入らないんだ」と思い知らされたりしたときに、ああこれはまるで人生みたいだなと、そう思う機会が多くなった。物事に折り合いをつけていくことの繰り返しは、豊かに生きていくための知恵だと思いながらも、いつか自分の首を絞めることになるのではないかと不安に感じてしまい、それでも淡々と過ごしていくしかないことを、日常と呼ぶのだとして。
全国のほとんどのスターバックスコーヒーがそうであるように、そこのお店にも可愛い女性店員さんがレジに立っていて、乃木坂46みたいだーなんて思いながらキャラメルマキアートとシフォンケーキを注文した。
正確な金額は覚えていないけど、確か税込854円くらいだったので、僕は千円札と一緒にいくつかの小銭を取り出し、端数分の54円を銀色のトレーに乗せた。
乃木坂さん(仮名)は白く細い指で丁寧に小銭を数えてゆき「はいえっと、千……、五十四円、ちょうどですね、頂戴いたします」と、とても明瞭で可愛げのある声で僕に告げた。
千、五十四円、ちょうど。
いや、待て。ちょうどじゃない。ちょうどじゃないぞ。
854円に対して1054円を手渡せば、200円のお釣りが返ってこなければおかしい。しかし、ちょうどじゃないぞ、という自分の心の声はもちろん乃木坂さんには聞こえていなくて、彼女はスタバ店員特有の得意気な笑みを浮かべながら、銀のトレーに乗ったお札と小銭を上手にすくい上げる。
もし200円が返ってこなかったとして、金銭的な損失は別にいいんだけど、いや良くはないんだけど、それよりも「分かっていたのに指摘しなかった」という地味な後悔が残ってしまう気がした。そんなもやもやした気持ちを抱えてしまったら、きっとキャラメルマキアートの味だって変わってしまうだろう。誰だって、後味が悪くなるような余計なトッピングはしたくない。
別のトレーに移し替えられたお札と小銭たち、さっきまで僕の財布で眠っていたお札と小銭たちが、レジの中に放り込まれてしまうその前に、「ちょうど、じゃないですよね……」と指摘してみた。
僕はそう言った瞬間、彼女の指はすでに100円玉を2枚掴んでいた。
乃木坂さんはテヘッと笑い「あっ、はい、そうですよねすみません」と言って僕に200円を手渡した。
「ちょうど」と言ってしまったと自分でも気づいていたけど、細かいことなのであえて言い直すことはしなかった。という一連の彼女の思考が、彼女の反応を見てすぐに理解できた。
「いえいえ……w」と笑いながら200円を自分の財布をしまい、「端数がちょうどだったので、つい言ってしまいました……笑」という乃木坂さんの言い訳を聞きながらシフォンケーキを受け取った。
「ナイスつっこみ、ありがとうございます笑」という、接客マニュアルには絶対に載っていない絶妙なフォローの一言を添えられて、僕は笑いながら赤いランプの下に向かい、別の店員からキャラメルマキアートを受け取った。
座席に着き、キャラメルマキアートをすする。12月も半ばを過ぎて、はあーと白い吐息が冬っぽくて。人生みたいだとは別に思わないけど、こういうやりとりの積み重ねが愛おしくて仕方ない。
「ナイスつっこみ、ありがとうございます」という彼女の言葉が、なにか性的な意味合いの暗喩だったらいいのにと、自分でも呆れるくらいくだらないことを考えながら飲むキャラメルマキアートはとても甘かった。
恋愛、ゴタゴタ、嫉妬、後悔。自分の気持ちを我慢して相手を待つということの難しさ。今すぐ会いたい衝動、全部全部。
好き好き好き好き。愛してる、愛してた。好きだ、好きだったよ。
僕の気持ちは今も続いて、君の気持ちは過去において行かれてて。
他の人と楽しそうにするのが苦しくて、息ができない。
怖かった、一人で向かうのが怖かった。
でも君が、一緒に乗り越えられるようにしてあげるって言ってくれた。そのひと押しがあったから、僕はあそこに行けたんだよ。
昔、ある人に本当の恋愛、本当の失恋をすると食べ物が喉を通らなくなるって言われたけど、本当だったんだ。じゃああの人も今の自分と同じ気持ちになったのかな。どうやって乗り越えたのかな。
僕は弱い。自分の弱さを何度も何度も痛感させられた。
その度に、一番話を聞いてほしいのは一番今の気持ちをわかってほしいのは、やっぱり君で。君にそんなことは言えなくて。
君に言われたことが、心に刺さって、その度に君に泣きつきたくなる。僕は君がいないと駄目だって、そんな事、今更気がついて。
大好きで、でもきっと君は大嫌いで、だから僕は悲しくて、それなのに君はいつも僕のことを気にかけてくれていて。
君からの連絡が来たとき、手が震えたよ。涙が出たよ。もう二度と鳴らないと思ってたキミからの電話。
僕は泣いて、君はそれを聞いていて、気がついたら聞こえていた君の吐息を聞きながら。
次の日が来ればまたただの他人になるって、わかっていたのに。この時間がずっと続けばいいと願ってしまって。寝てる君にこれからもこうしていたい、だなんて言ってしまって。君はうんって、多分、言ってくれたんだ。君は優しいから。だから。僕はその優しさに溺れてしまう。甘えてしまう。
そんな弱い僕でも、それでも。
あぁ、頑張ったよ。誰も褒めてなんかくれないし認めてくれないけど、でも頑張った。せめて自分だけはそれを認めてあげないと救われない。でも本当は君に、頑張ったねって言ってもらいたかった。本心じゃなくていい、嘘でもいい、そう言ってくれるだけで僕は、本当に救われるんだと思う。
もう諦めない。後悔するのは嫌だ。
嘘をついた、君を深く傷つけた、偽物の言葉で君も、自分も騙し続けた。
そんなこともう繰り返さない。
君の愛し方を僕は君より知ってみせる。君の幸せを、僕が掴んでみせる。
おれもASMR好きだけど吐息交じりで喋るのけっこうきついんだぞ
本で読んだことあるけど別の世界の話だと思っていたような典型的なデートを何度かした。
ソフトクリームのバニラ味とイチゴ味の2種類買って観覧車に乗り込み、半分食べた途中で交換したりとか。
そしてとうとうその日が来た。
デートで晩御飯を食べたあと、夜遅く人気のない駅で、彼女が大きな犬みたいに強く首に抱き付いてきて、「私をはなさないでいて」
と吐息混じりの声で言った。僕は「わかった」といって抱きしめながら髪を撫でた。電車は行ってしまった。
まだキスもしてなかった。実際そのあとどうしたらいいかわからなかったが、ネットでホテルを探して予約して、
タクシーでホテルにチェックインした。シングル2部屋でいいのかツインがいいのかダブルにしたらいいのか迷った。
タクシー代とかホテル代とかの金額は結構かかった。(大学生のころはここが乗り越えられなかった。)
そのあと、当然そういうことになった。そこは省略するけど、結ばれた喜びで彼女は全身を震わせながら満足して
微笑んでいるような母のような少女のような生まれたような死んだような、安らかな顔で隣に横たわっていた。
昼間の知っている彼女の顔と全然違う、ちょっとどこか神々しい顔。
セックスってもっと何か即物的なものだと思っていた。何か新しい扉を開けた気分。
もう魔法がつかえなくなる。でもそれでいいやと思う。生きていてよかった。
金曜日、菓子なんかをつまみながらぷっすまを見ていると携帯が鳴った。
こんな夜中にと少々訝しみながら画面に目をやる。「080」から始まる11桁が写し出されていた。
誰だ。名前が出ない以上、少なくとも電話帳登録はしていないことは確かだった。
普段登録されていない番号からは出ない決まりを作っていたが、深夜という時間帯が逆に作用した。
まさか昔の友人でも死んだか。まさか親が事故にでも会い警察からの連絡か。
とりとめもない妄想が頭の中で絡み合いながら通話ボタンを押した。
「あ、よかった、起きてたんだ、ごめんね」
女の声だった。
特徴のない平坦な響きをしていた。
「ちゃんと捨ててきました」
と、女は一言言った。
「は……?」
聞き返すというよりは自然と口から空気が漏れただけの返事を返した。
そして訪れる沈黙。女は受話器の向こうで黙りこくっている。
吐息一つ聞こえてこない。
「あの、すいません、どちら様でしょうか?」
やっとのことで意味の塊を投げ返すことができたが、次の瞬間通話は切れた。
彼女は誰だったのかという疑問は不思議と湧き上がってこなかった。
彼女はこんな夜中に何を捨ててきたのだろう。
何故それを俺に報告しなければいけなかったのだろう。
嫌な気持ちを抱えたまま週末を過ごした。
ぶコメにも書いてしまったけど、なんで羽織袴にしないのかと長い事思っている。
もしかしたらオリンピック側で規定があるのかもしれないがアフリカ諸国なんかはいつも民族衣装で出てくるし、
日本が世界に誇る民族衣装の羽織袴/着物がなぜ採用されないのか不思議でたまらない。
・男子選手は羽織袴、黒紋付羽織で統一。(皆さんご存知と思いますが、紋付羽織袴は最高級の礼装)
・女子選手は振袖もしくは訪問着で統一。希望者は女袴を着用(袴はとても歩きやすい)既婚未婚はあまり関係なく本人が着たいものをチョイス。
・女子選手の着物はなるべく作家にバラバラに作らせる。この事により作家は名を売ることができるうえ、全国でそれぞれの伝統産業へ発注が行くことで地方にお金がおちる。(伝統産業は青色吐息なので、微々たるものだがないよりマシ)
・着物は各個人のサイズに合せて作られるが、サイズをきちんと明記したうえでネット上でオリンピック終了後にチャリティオークションを行う。
選手の中には長身の人などもいるが着物は仕立て直すことが可能&オリンピック選手が着たというプレミア感からそれなりに買い手はつくだろう。
日本人は昨今ずいぶん体格が向上してきたが、それでも上背があり手足の長い諸外国の選手と比べたらプロポーションは微妙な人も多い。
男性が紋付羽織袴を身につけると、だいたい3割〜5割増しでイケメンになる。紋付羽織袴の凛とした風格は素晴らしいものがある。
一方、女性選手のほうは、色とりどりでかつバラエティに富んださまざまな着物が登場するので、さながらファッションショーのごとき雰囲気となる。
諸外国の人々は日本の衣装の多彩さと斬新さに目を見張るであろうこと間違いなしである。
着物をまとった人がいるとその場がパッと華やぐが、数十人単位であでやかな着物で登場するのはスーツなんかよりよほどいい。
別に着物業界を応援したいわけではないんだが、選手団が着ていることで「着物、いいな」と思う人が増え、経済効果を産むかもしれない。
作家には新たな注文が舞い込むかもしれない。
いつもダサダサスーツを着ているよりよほど日本という国が印象づけられる。
国をあげての祭典なんだからこのくらいやってほしい。
なので滅多に一人で呑みに行かない。
しかしその日はたまたま暇だったので一年ほど前に行ったことのある近所のスナックになんとなく立ち寄ってみた。
時間は0時をとっくにまわっていたと思う。そこは年配のママの他にお手伝いの女性一人が接客していた。
スマホをいじりながら適当に時間をつぶしていたら次第に客は減り、2人ほどになっていた。
その女性と割といい感じの雰囲気になり気づけば隣あってカウンターに座っていた。お酒が入っていたせいか仕事中にも関わらずかなり積極的に僕とイチャつきはじめる女性。というか求め方としては完全に彼女のペース。ボックス席で接客中のママの目を盗みながら何度もキスしてくる。あげくには僕の手を引っ張って自分の胸に押し当てるとかしててその彼女のリアクションがまんざらでもない感じ。あれ?感じてる?みたいな。さすがに求められるまま応じていた僕もここまでくるとこの後の展開は予想がついた。
女性とLINE交換していたのでママの手前、帰ったふりをして外からコッソリ彼女にLINEした。メッセージの内容はなんでもない。ただ今日は楽しかったとかそれだけだ。しかしその意図は気持ちが昂っているであろう彼女と二人きりで接触することにある。僕だってあそこまで誘われたらそれなりの落としどころが欲しかった。
メッセージを送って少ししたら彼女からLINE通話がきた。「いま○○にいる。帰るところだけど一時間くらい話する?」と言われ、すぐにそこに行くと言って通話を切った。
待ち合わせ場所は人気のない港にある堤防近く。まだ夜明前なのでめちゃめちゃ暗い。彼女に手を引かれ堤防の先へ。
人気のない暗闇で酒の入った男女がやることは一つだった。
まず言うとお互いに全裸にはならなかったし子供ができるような本番行為はしなかったが一般に前戯と呼ばれる行為はだいたいやった。
次第に周りが明るくなりわずかに人気が出てきてからもしばらくその行為は続いた。港なので間近に船が通っていったりその辺を散歩する人も現れる中、これは不味いかなと思いつつも、時折舌を絡めたキスを挟みながらほとんどの時間は彼女の反応をみながら胸を揉みしだいたり露出した乳首を舐めまわすことに終始した。経験のない素人童貞の芸のなさが悔やまれる。だが、風俗では味わえない興奮と野外プレイ的な状況と喘ぎ声を漏らす彼女の吐息を聞きたくて夢中だった。下着に手を入れたら若干濡れていた。ホテルであれば完全に最後までやっていた流れだった。
予定の一時間などとっくに越えていたが互いに昂る性的興奮と、何より男である僕の側がセックスにおいての挿入と射精がないために、" 果てる "という終わりがないエンドレスな状態だったわけだ。おかげで行為が終わって彼女とわかれた後は両腕の疲労感が凄かった。ずーっと胸を揉みしだいていたわけだから当然ではある。
『レヴェナント』はめちゃくちゃ難解なんですが、ポイントを押さえれば、イニャリトゥ監督の過去の作品と大してテーマは変わんねぇことが分かります。
イニャリトゥ監督はデビュー作『アモーレス・ペロス』から前作『バードマン』までひたすら「親子」をテーマに映画を撮り続けてきた監督です。なので『レヴェナント』でもテーマは「親子」です(インタビューでもそう言っています)。もうちょい言うと、『レヴェナント』では「親の子に対する愛がいかに深いか」ということを描いてます。
主人公グラス(ディカプリオ)の台詞をちょっと考えてみれば分かります。
“All I had was my boy... but he took him from me.“
「私にとって息子は全てだった。しかしフィッツジェラルドは私から息子を奪った。」
“I ain't afraid to die anymore. I've done it already.”
「私はもう死ぬことを怖れていない。私は既に死んでいる。」
これはグラスが救出された後にヘンリーに語った言葉ですが、この2つの台詞から分かることは、①グラスにとって息子ホークは生きる意味そのものであったこと、②グラスは物語のどっかで既に死んでいて、それにもかかわらず基地までたどり着いたということです。
死んでます。具体的にはフィッツジェラルドにより埋葬された後、息子ホークの死亡を確認した時点で力尽きています。通常、熊に襲われて、内蔵が見えてしまっていて、脚は複雑骨折、その上発熱していて、ろくな治療を受けられないまま生き埋めにされたら(さらに生きがいであった息子が殺されたら)、それは死ぬだろ、と思いませんか。
あれは肉体が死亡していながら精神の力(息子を愛する力)だけで動くゾンビみたいなもんです。ジョジョを読んでる人は、ボスにぶっ殺された後のブチャラティみたいなもんだと思ってください。
小難しい話になりますが、イニャリトゥ監督は前作『バードマン』で死と再生の話を描いていて、映画では好んで用いられるモチーフです(『鏡』、『8 1/2』など)。主人公が死んで復活するというのは映画では珍しい話ではありません。
加えて、本作のタイトルが"Revenant"(つまり「死から蘇った者」〔someone who has returned from the dead〕)であることもこの説を補強します。
解釈の問題になりますが、海外サイトの中には、グラスは死にそうになるたびに、野生動物に生まれ変わった(死と再生)のだとする説がありました。
最初は熊です。これはグラスが熊の毛皮を着て、熊の爪のネックレスを身につけ、川で魚を手づかみにし(木彫りの熊ですね)、それを生のままかじり付いていた点に表れています。
次は狼です。これはインディアンにバッファローの肉を求める際、四つん這いに這いつくばって、人にへつらっていたことと、投げられた肉を生のまま貪りついていたことから分かります。
その次は馬です。これは文字通り馬の腹から這い出てきたことから分かります。
最後になんかの肉食獣です。これは最後の戦いでわざわざ銃を捨てて、斧(牙)とナイフ(爪)で戦っていることから分かります。
グラスはこれらの野生動物に生まれ変わる過程で回復していったと見ることができます。
愛です。
ここも解釈ですが、息子を失って生きる意味を失った以上、野生動物と同然の存在に成り下がったと見られるのではないでしょうか。
グラスが一匹狼のインディアンから教わった言葉です。「神の手」というのが直接的には川下に居たインディアン(リーさん)だったため、海外サイトではリーさんは神の復讐の代行者であると言う人が多かったです。「インディアンがあんなに近くに居るのに川に流したら殺されるに決まってるだろ」と言う人も居ますが、個人的には死と再生を繰り返したグラスさんの聖人パワーでリーさんを引き寄せたと思っています。つまり愛の力です。
あの表情には元ネタがあります。タルコフスキーの『僕の村は戦場だった』のイワン君(12歳)の表情です(https://vimeo.com/153979733のラスト)。どういうときの表情かというと、まずイワン君はソ連の少年兵なのですが、ナチスに母と妹を殺されています。そんで夜中に1人でナチス軍に対する戦いをシミュレーションしている最中にあの表情をします。つまり、純粋さと愛にあふれた少年の心が、ナチスに対する復讐心で壊れかかっているときの表情です。これをグラスに類推するなら、あの表情は、復讐を終えたことで(生きる意味を再び失ったことで)グラスの精神が壊れかかっている(もしくは壊れてしまった)ことを意味しているのではないでしょうか。
あの吐息音をめぐって、海外掲示板では「グラスは死んだのか否か」について熱い議論が交わされています。これは監督の前作『バードマン』でもあった論争で、そこでの論争が、主人公は生きているという決着で終わったため、今回もグラスは生きているだろうという説が有力です。ただ、私の考えとしては、グラスは精神力(愛の力)だけで動くゾンビ状態なので、その精神が崩壊した以上、グラスは真の意味で死亡したと思っています。ジョジョを読んでる人はシルバー・チャリオッツ・レクイエム出現後のブチャラティを(略
愛する息子を殺され、肉体的に死亡した主人公が、愛の力で死と再生を繰り返し、敵に神罰を与えて、やっと死ぬ話です。つまりテーマは親の子に対する深い愛です。
ちょっと違いますが、そういう側面があった可能性が高いです。というのは、イニャリトゥ監督が今回の撮影で目標とした映画というのが、①黒澤明『デルス・ウザーラ』、②コッポラ『地獄の黙示録』、③タルコフスキー『アンドレイ・ルブリョフ』、④ヘルツォーク『フィッツカラルド』、⑤ヘルツォーク『アギーレ/神の怒り』だからです。映画ファンであればすぐ分かるのですが、これらは映画史上最も撮影が困難だった映画群です。例えば④の『フィッツカラルド』なんかは巨大な蒸気船を滑車を使って実際に山越えさせています。つまり、監督が映画史に残る過酷な映画撮影がやりたかったところに、アカデミー賞がどうしても欲しかったディカプリオと利害が一致した、というのが真相なのではないかと思っています。
掘り起こそうと思えばたくさんあります。例えば『レヴェナント』では上記の表情以外にもタルコフスキー作品からの引用が多い(「宙に浮く女性」、「貧しい人にご飯を分け与える姿」、「鳥」、「隕石」)のですが、それがただタルコフスキーの真似をしたかっただけなのか、意味があるのかがよく分かりません。それとフィッツジェラルドが神について2回話すシーンがあるのですが、その意味がよく分かりません。
それと、作中何度も繰り返される"As long as you can still grab a breath, you fight."という台詞の意味が実はまだよく分かっていません。特に、エンドロールが始まってからも聞こえる吐息音を考え合わせると、グラスが生きている説も導き出せるため、重要な要素である可能性があります。何か思いついたり新情報が出たらこっそりこの記事を訂正するかもしれません。
「『レヴェナント』テーマ解説(2)(ディカプリオのテーマ編)」(http://anond.hatelabo.jp/20160524110234)に続く
『レヴェナント』を観た。
監督の前作『バードマン』に比べて難解で、現段階ではテーマがさっぱり分からないのだが、主に海外サイトの議論を参考に、テーマの考察をまとめておくことにした(これを踏まえてオーディオコメンタリーやインタビューが出るのを待つことにする)。
そこで以下、結論、難解な理由、様々な視点からの問題提起、現段階で考えられるテーマ(妄想)の順に書いていくことにする。
考えながら書いたので、思ったより文章が長くなってしまった。結論を先に書いておく。
『レヴェナント』をそのテーマに基づいて要約すると次のようになる。
主人公グラスは、その人生の全てであった息子ホークを殺されたことで、生きる意味を見失い、死亡する。 しかし、息子を愛する気持ちにより、死と再生を繰り返し、野生動物に生まれ変わってまで生き残り、宿敵フィッツジェラルドのもとにたどり着く。
最後の戦いではフィッツジェラルドに瀕死の重傷を負わせた末、神の代行者リーによる神罰を引き寄せ、息子の敵を討つ。 息子を失い、復讐という目的も失ったグラスの精神は崩壊し、(ブチャラティ的な意味で生き延びていた)肉体もついに死を遂げる。
本作のテーマは、親が子を愛する気持ちがいかに強く、大きいものか、ということである。
『レヴェナント』のストーリーを単純に言えば、「復讐心に捕らわれた男が、大自然の中で死闘を繰り広げるが、最終的に復讐をやめる話」である(図式的に表現すれば、『大いなる勇者』+『デルス・ウザーラ』である)。
このストーリーを見たとき、すぐ連想するテーマは、①復讐のむなしさであったり、②大自然と対比された文明の批判である。
しかし、①復讐のむなしさがテーマだと言い張ることには疑問が多い。というのも、(後述するように)復讐をやめた後の主人公の表情は発狂寸前のそれである(復讐を完遂して破滅するか、中止して救われるかの方がテーマとしては明確なはずである)し、監督自身インタビューで復讐の物語を描くこと自体には興味がないと答えているからだ。
さらに、②文明批判がテーマだと言うのも苦しい。というのも、この映画には文明に対する疑問が提示されることがないからだ(『デルス・ウザーラ』のデルス、『大いなる勇者』のジョンソンのように、文明と対立する人物が出てこない)。
ということで、『レヴェナント』は単純なテーマで理解することが困難である。
『レヴェナント』は昔の映画からたくさん引用をしている上、宗教的に意味ありげな要素がたくさん散りばめられている。さらに監督の過去の作品との整合性まで考慮に入れるとすると、どの要素にどの程度力点を置いて物語を解釈すれば良いのか分からないという問題があり、これがテーマ理解の妨げとなっている。
(2)と関連するが、『レヴェナント』ではタルコフスキーの諸作品(『僕の村は戦場だった』、『鏡』、『ノスタルジア』、『アンドレイ・ルブリョフ』)からの引用が多数なされている(これを分かりやすくまとめた動画がある:https://vimeo.com/153979733)。
しかしタルコフスキーの作品と言えば、それ自体が難解映画の筆頭である。そこからの引用となると、どういう意図なのか(タルコフスキーの意図をそのまま継いでいるのか、ただタルコフスキーの表現が気に入ってやりたかっただけなのか)が皆目検討がつかないのだ。
そういうわけで、『レヴェナント』は難解な映画なのだが、海外のファンサイトでいくつか有力な問題提起がなされていたことから、これをいくつかまとめておく。
まず、イニャリトゥ監督の過去の作品では、「うまくいかない親子の関係」が描かれることが多い。
監督の前作『バードマン』では、監督そっくりの父親が、娘に全く愛されず尊敬もされていないことに気が付き、悩む様が描かれる。また、デビュー作『アモーレス・ペロス』では、マルクスそっくりの元反政府活動家が、活動のために家族を捨てたことで愛する娘と会えず、悲しむ様が描かれている。
これらの作品に比べ、『レヴェナント』は異質である。というのも、主人公グラス(ディカプリオ)と息子ホークの関係は互いに愛し合っているからだ。
この点をどう評価するのかがまず1つの問題である(問題点α)。
前作『バードマン』で、主人公は、演技に悩んだ末、舞台で拳銃自殺をする場面で、拳銃に実弾を込めて自分のこめかみに発射する。その死を賭した演技が絶大な評価を受け、主人公は自らの弱さの象徴であるバードマンを打ち倒すことに成功する。
こうした死と再生のイメージは、映画でよく用いられるモチーフである(『鏡』、『8 1/2』など)が、『レヴェナント』ではこれが3回(数え方によっては2回とも4回とも)も行われる。
① 熊に襲われ瀕死となり、フィッツジェラルドに埋葬されるが、立ち上がる。② インディアンに追われ、川に流されるが、生還する。③ 崖から落下したのち、馬の中に隠れ、回復する。
ではそれぞれ、何に生まれ変わったのだろうか。前作『バードマン』で主人公は、拳銃自殺ギリギリのことをすることで、弱さ(バードマン)を克服した強い人間に生まれ変わった。では本作ではどうか。
これについて、海外サイトに面白い考察があった。グラスは死と再生を繰り返すたびに、野生動物に生まれ変わっているというのである。
まず最初にグラスは熊に生まれ変わっている。その表れとして、グラスは熊の毛皮を着て、首に熊の爪のネックレスをしている。さらに川で魚を手づかみにし(木彫りの熊)、それを生のまま食べている。
次にグラスは狼に生まれ変わっている。その表れとして、インディアンにバッファローの肉をもらう際、四つんばいになって人間にへつらっている。そしてインディアンが肉を投げると、これを貪るように食っている。
さらに、グラスは馬に生まれ変わっている。これは冷たい夜を生き抜くために、馬の死体の中に隠れ、後に這い出ていることから明らかである。
最後の戦いにおいて、グラスは牙と爪で戦う肉食獣に生まれ変わっている。これは、銃を放棄し、斧(牙)とナイフ(爪)で戦っていることに表れている。
上記の見方はそれ自体面白い見方だと思うが、これによって何が言いたいのか、というのはまた1つの問題である(問題点β)。
なお、グラスが当初の瀕死状態から山を走るところまで回復するのは、死と再生を何度も繰り返すからだという見方があった。
先に貼った動画(https://vimeo.com/153979733)から明らかなように、『レヴェナント』ではタルコフスキー作品からの引用が非常に多い。
そのうちよく解釈に影響を与えそうなものとして挙げられるのは、「宙に浮く女性」、「ラストシーンでグラスがこちら(観客側)を凝視する表情」、「鳥」、「朽ち果てた教会」、「隕石」である。
このうちここで取り上げたいのは、「ラストシーンでグラスがこちら(観客側)を凝視する表情」である。他の引用は解説が面倒くさすぎるので各自ぐぐってほしい。
この表情の元ネタは、『僕の村は戦場だった』である。この映画の主人公イワンくんは、ソ連の少年兵であるが、母と妹をナチスによって殺害されている。問題の表情は、そんなイワンくんがナチス軍相手に戦闘を仕掛けるシミュレーションを1人でしていたときのものである。
つまり、この表情は、純粋で愛に満ち足りていた少年の心が、ナチスへの復讐心で歪み、壊れかかるときのものである。
これをそのまま『レヴェナント』のグラスに類推するならば、グラスの心は最後の戦いの後、壊れかけていたことになる。
しかし、『僕の村は戦場だった』と違い、『レヴェナント』では復讐を止めた後にこの表情をしている。そのため、イワンくんの内心をそのままグラスに類推していいものか、グラスは最後にどういう心境だったのか、という問題が生じる(問題点γ)。
イニャリトゥ監督はインタビューで、目指している映画として以下の5本を挙げている。
① 黒澤明『デルス・ウザーラ』② コッポラ『地獄の黙示録』③ タルコフスキー『アンドレイ・ルブリョフ』④ ヘルツォーク『フィッツカラルド』⑤ ヘルツォーク『アギーレ/神の怒り』
共通点は、いずれも撮影に困難が伴った映画であるということである。
①『デルス・ウザーラ』では秋の風景を撮るはずが雪が降ってしまったためソ連軍を動員して人口葉を木に付けた、②『地獄の黙示録』では台風でセットが全て崩壊した、③『アンドレイ・ルブリョフ』ではソ連当局の検閲が通らず製作から公開までに10年以上の歳月を要した、④『フィッツカラルド』では実際に巨大蒸気船を滑車を使って山越えさせた、⑤『アギーレ/神の怒り』では撮影の過酷さから引き上げようとした俳優を銃で脅した、などなどの多数のエピソードがある。
そうすると、「テーマとかどうでもよくて、むちゃくちゃつらい撮影がしたかっただけなんじゃ・・・」という疑念が湧いてくるのである(問題点δ)。
これはグラスが途中で出会った一匹狼のインディアンの言葉だが、意味は正直言ってよく分からない。
ただ、ラストシーンでグラスが復讐を委ねた相手はインディアンのリー(誘拐されたポワカの父親)である。このことから海外サイトの中には「リーは神の手、すなわち、神の復讐の代行者である」との解釈が多く見られた。
イニャリトゥ監督の作品のテーマはいずれも生きる意味にまつわるものであるが、この点に関してグラスが2つの重要な言葉を残している。
“All I had was my boy... but he took him from me.“
「私にとって息子は全てだった。しかしフィッツジェラルドは私から息子を奪った。」
“I ain't afraid to die anymore. I've done it already.”
「私はもう死ぬことを怖れていない。私は既に死んでいる。」
息子が全てだったという台詞は、グラスの生きる意味が息子にあったことを示している。そしてこれは、デビュー作から親子の関係を描き続けてきた監督自身の言葉でもあるだろう。
息子がフィッツジェラルドによって殺害されたことで、グラスは生きる意味を失う。代わりに「復讐」という意味を見出したかのようにも見えるが、それによって再生した姿は上述したように、野生動物の姿である。
このことからすると、私は既に死んでいるという台詞は、「生きる意味を失ったことで、人としては既に死んだ」ということを意味するのではないだろうか。
海外サイトの掲示板などで最も熱く議論されている論点は、グラスは死んだのか?という点である。
これが問題となる理由は、①復讐モノの物語は復讐者の死で終わる場合が多いということと、②戦いに勝利したとはいえグラスも致命傷を負っていること、③スタッフロールが始まってもグラスの吐息が聞こえること、といった事情があるからである。
さらに映画外の理由であるが、④前作『バードマン』においても主人公が最後に死んだのか死んでいないのかで論争があったこともこの議論に影響を与えている。
死んだ説に立つ人は①②の事情を挙げ、死んでないよ説に立つ人は③④の事情を挙げている状況にある。
しかし、これもテーマとの関係で考える必要がある(問題点ε)。
これらを踏まえて、現時点で筆者なりに『レヴェナント』のテーマについて考察してみたいと思う。
結論:
「親子」というテーマは『レヴェナント』においても依然として維持されている。
その根拠は、(a)グラスの息子ホークというキャラクターは史実に存在していないのにわざわざ登場させたこと、(b)監督がインタビューに対して、息子を登場させたのは親子関係を題材にすることで物語がより複雑で充実したものになると考えたからだと答えていること、(c)デビュー作から前作まで延々親子関係をテーマにしてきた監督が、ここに来て生涯のテーマを捨てたとは考えにくいこと、である。
② しかし、「親子」というテーマに対する切り口が、前作までとは違う。
前作までの切り口は、分かり合えない親子の問題をどう解決するか、というものであった。『レヴェナント』はそうではなく、子供を生きる意味としてきた親が、子を喪失したとき、どうなってしまうのか、という切り口で「親子」というテーマに迫っている。
その根拠は、(a)グラスが息子ホークが人生の全てであったと言及していること、(b)グラスが息子を失ったことで一度死んだと(解釈しうる)発言をしていること、である。
結論:息子ホークを失ったことで、グラスが生きる意味を喪失し、結果、人間としては死んだということを表現している。
その根拠は、(a)野生動物へと生まれ変わるタイミングが、息子ホークを失ったことをグラスが認識した時点からであること、(b)グラスが息子を失ったことで一度死んだと(解釈しうる)発言をしていること、である。
結論:グラスの精神が壊れ(かかっ)ていることを意味している。
その根拠は、(a)元ネタである『僕の村は戦場だった』のイワン少年がやはり精神が壊れかかったときにこの表情をしたということ、(b)息子ホークという生きる意味に加え、復讐という一応の生きる目的さえ失ったグラスには、これから生きる意味が何もないこと、である。
結論:グラスは死んでいる。
この問題は前作『バードマン』で同様の問題が争われたときと同様、作品のテーマから考えなければならない。
前作『バードマン』で主人公の生死について争いになったとき、生きている説が有力となった理由は、作品のテーマが「『中年の危機』を迎え、娘ともうまくいっていない父親が、この先どう生きていけばいいのか」というものであったという点にある。つまり、主人公が死んでしまうとこのテーマとの整合性が取れないのだ。
しかし『レヴェナント』では、主人公は既に自分は既に死んでいる旨を明言し、生きる意味を新たに獲得した様子も認められず、その心は壊れかけている。
ここからは解釈が分かれるところだが、『レヴェナント』のテーマは「親が子をいかに愛しているか」という点にあるのではないか。
グラスは本人が言うように、息子ホークの死亡を確認した時点で、死んでいた。それにもかかわらず死と再生を繰り返し、フィッツジェラルドのもとにたどり着いたのは息子を愛する精神の力(つまりジョジョ5部のブチャラティ的な意味で生きていただけ)によるものではなかったか。
フィッツジェラルドを打ち倒し、インディアンのリーによる神罰を引き寄せた時点で、彼の精神は崩壊し、肉体的にも精神的にも死亡したのではないだろうか。
http://anond.hatelabo.jp/20151223021454
上記の増田を拝見した。我々サイニスト(催眠オナニーニスト)としても、アナニストたちに遅れを取るわけにはいかない。私は世界に催眠オナニーの危険性を広く知らしめる者である。
催眠オナニーとは、主として催眠音声によってマスターベーションを行うことである。催眠音声は無償や有償で広く配布されており、近年では音声だけでなく映像を伴ったものもある。多くはMP3の形式でダウンロードできる。音楽プレイヤーに入れて、イヤホンで聞くのが一般的だ。催眠音声では、男性向けのものは女性の声優さんが、女性向けのものは男性の声優さんが(催眠スクリプトを)読み上げるものが多い。一部ボイスロイドなどの合成音声も用いられていたりする(機械姦催眠の場合)。
催眠オナニーは最悪の場合(社会的に)死に至るので、決して興味を持ったからといってダウンロードしてはいけない。名称が長いので以下催眠オナニーを「サイニー」と呼ぶ。
「セルフ」では、催眠音声で『行動支配』の状態となり、催眠術師の言いなりになってオナニーを強制される。自分の意思でオナニーするのではなく、他者の意思でオナニーさせられてしまうわけだ。(いわゆる身体が自分の意思とは関係なく勝手に動いてしまう状態)とくに射精を伴うものは「ウェット」と呼ばれる。乳首のみでエクスタシーに達する催眠チクニーも「セルフ」の一種である。
催眠誘導のなかでも『行動支配』はもっともかかりやすい。具体的には、強制オナニーの他、金縛りにあったかのように体が動かなくなったり、腕が勝手に持ち上がったり、そういったものが含まれる。行動支配タイプのものは初心者でも比較的簡単にかかってしまい、危ないのでおすすめできない。
「ドライ」では、身体に一切触れることなくエクスタシーを迎えることを目的とする。上級者向けではあるものの、ドライこそがサイニーの醍醐味である。
ドライのなかでポピュラーなのが「音に犯される」といったもので、特定の音を効くだけで大脳に快楽が刺激として伝わり、複数回は軽く絶頂してしまう。射精を伴わないので「ドライ」と呼ばれる。
「女体化して触手プレイ」や「機械姦」「言葉責めだけでイク」などもドライに含まれる。ドライでは『感覚支配』と『感情支配』という、比較的高度な催眠誘導が行われる。ある程度の催眠深度がなければ、なかなかドライで果てることは難しい。
以上は概略であるが、これだけではサイニーの危険性について今ひとつ理解しがたい。そこでここからはより具体的なサイニーの話に移っていく。「催眠オナニーは最悪の場合死ぬ」と掲示板でまことしやかに囁かれる理由が、本稿を最後まで読めばよくわかると思う。
もはや我々にとっては常識だが、M系サイニーといえば「マゾ化」「イヌ化」「奴隷化」の三大ジャンルが存在する。
イヌ化催眠では、文字通り「人間からイヌへ」と意識を作り変えられる。催眠状態に移行すると、被催眠者は全裸で四つん這いになって「ワン」「ワン」「ワオーン」と鳴き声をあげるプレイをさせられる。ワンと鳴くだけで脳に甘い電流が走り、犬のように鳴き叫ぶのがやめられなくなる。
イヌのように尻尾(性的な意味の)を振って、ワンワンと鳴きながら絶頂することとなる。このワンワン系の催眠はどちらかと言えば初心者向けで、かかりやすいと思う。こんな姿を家族に見られたら死ぬので、くれぐれも「完全にひとりでなれる場所」で行うこと。時間は一時間半はかかる。催眠ワンワン状態になってしまうと、解除音声を聞くまでは人間に戻れない。注意されたし。
マゾ化催眠と奴隷化催眠は、おおむね同じものだと考えて差し支えない。術師の声を聞いているだけで全身に快楽が迸ったり、言葉責めだけでイカされてしまう、といったプレイができる。最近流行したサイニーでは「街頭アンケート」の形式で進められる催眠で、術師の質問に答えていくだけで頭を真っ白にされて絶頂させられるといったタイプのものがある。
「ありがとうございます。ご主人様」と何度も口に出して言わされ、そのなかでエクスタシーに達する。一度味わってしまえばもう二度と日常生活には戻れない。すべてがMになる。
操り人形のように、自動的に動かされてオナニープレイをさせられてしまう。ちなみに普段は片手オンリーの人も、催眠時には両手を使うこととなる。催眠状態下では、ティッシュに出したりと機転を働かせるのは不可能だ。理性や思考が吹っ飛んでしまっているのだから。そもそも行動支配下で自分の身体を思い通りにできると考えるのは愚の骨頂。
ゆえに、セルフタイプのサイニーではあらかじめコンドームを着用しておかないと、部屋中がそれはもう悲惨な状態に……。
なお、特殊プレイのサイニーとしては、お漏らし催眠と呼ばれるものが存在する。お漏らし催眠ではリアルなお漏らしを体験できる。
女体化タイプのものはドライが多い。射精を伴わずに絶頂する必要があるため、中級者向けといえよう。乳首の感度を上げる「感覚支配」では、乳首に一切触れることなく乳首だけでイクことができる。息をするたびに呼吸で胸が上下し、服と乳首がこすれる。その僅かな刺激で頭のなかが真っ白になり、全身がガクガクと震えだす。甘い吐息を抑えることができず、最後には(身体を一切動かせぬままに)よがり狂って果ててしまう。
女体化の場合は、胸部の感覚支配のほかに、架空の女性器を作り出しその「イメージ誘導」のみで絶頂するといった手法もある。
サイニーのなかで最も恐ろしく高破壊力なのが「感情支配」を伴うものである。これは本当に怖いので、絶対に興味本位にでも試してみてはいけない。やめておいた方が賢明だ。あなたの人生を変えてしまう恐れがある。
感情支配は具体的に言うと「恋愛感情」を操作するものである。よくアニメや漫画で描かれる催眠術で「あなたは私のことが好きになる。私を愛するようになる」みたいに五円玉をぶらぶらさせるシーンがある。あんなの嘘だと思われるかもしれない。ところが「恋愛感情を催眠で支配すること」は本当に可能なのだ。冗談抜きで。(思えば「恋に落ちる」という現象そのものが、ある種の催眠状態なのだ。自然に恋に落ちるのに、人工的に恋に落とせないわけがなかろう。ましてや変性意識状態にある人間の感情などいとも容易く……)
催眠誘導により感情支配をされると、かかった人は術者の『声』に恋愛感情を抱くようになる。「好きかも」だなんて甘っちょろいものでなく「愛してる」「心の底から愛している」「君のためなら死ねる」とまで思わせる。心の底から恋するようになる。
感情だけではない。心臓はドクンドクンと脈打つし、頭は熱に浮かされたようにボーっとするし、全身が火照ってくるし、顔が真っ赤になる。そして術者の声(催眠音声)を聞くだけでとても幸せな気持ちになれる。
初恋や一目惚れをしたときに劣らない、いやそれ以上の激しい恋愛感情が灯るのだ。そして自分の愛する人の声を聞きながら絶頂させられる。この恋は、虚構なのだろうか? いや、虚構ではない。幻術でもないし幻覚でもない。現実としての恋愛感情が催眠音声によって喚起され、そして強制的な絶頂状態へと導かれる。
解除音声を聞いたとき、暗示の効果はすべて解けるが「誰かを愛した」という事実は記憶から決して消えない。だからまた、一週間か一ヶ月後かに同じ催眠音声を必ず聞いてしまう。
もしかしたら女性の読者もいらっしゃるかもしれない。催眠音声は今ではアダルトコンテンツとして普及しており、女性向けの催眠音声も広く出回っている。
また被暗示性については個人差があるものの、男女差は一切ないので老若男女問わず聞くことができる。といってもR18のものを未成年が聞くのはご法度である。もしも18歳未満の読者さんがいらっしゃれば、こんな増田を読んでいないで勉学に励んでよく食べよく寝てよく運動をして健全にリアルの恋人を作って欲しい。今ならまだ間に合う。引き返すなら今しかない。試験勉強がんばってください。
話が逸れた。催眠音声は、最初の数回はうまく催眠に入れず、肩透かしを食らうかもしれない。けれども10回も聞けば確実に被暗示性が高まり、すんなりとトランス状態に入れるようになる。(そう、被暗示性は訓練によって高めることができる。訓練といってもただ音声を聞くだけでいい)
だから、もしも10回も催眠音声を聞いたならばそれはもう一人前のサイニストになってしまうわけで、くれぐれも催眠音声の虜にならないよう気をつけて欲しい。私はもう100本以上催眠音声を聞いているが、ここまで来るともはや普通の恋愛ができない。言葉と声だけで私を導ける人でなければ、恋すらできないのだ。
文章が長くなってしまって恐縮である。以上、サイニストとして催眠オナニーの恐ろしさを説き、世界平和のために警鐘を鳴らせたなら幸いだ。
胸に液状の鉛が溜まった感覚と、吐息にスピリチュアルなものが混じってる感覚で理解するが鬱が来た。
毎年記憶する限りでは7月くらいに来るけども、今年は体内時計が狂っているのか暑くもないのに鬱が来た。
楽しかった趣味も今は視界に入れたくないし、ゲームも初めて10分持たない。
歩いてるといつでもその場にしゃがみこみたくなる。
そもそもこの文章すら完結させる自信がない。
平日は仕事から帰ったらベッドの上から動けないし、休日もベッドから動けない。
理屈で割り切れるものより感情が追いつかないものの割合が増えた。
これまでは単位とか研究とか仕事とか人間関係とか、具体的に自分を押しつぶすものがあったのに今年はそれらが全てない。
全てないとどうなるかというと、理由もないくせこれまでどおり心が苦しい。
お前どうしたいの?って自分の心に問い詰めたいけど、そんな辛く当たったら心がしょげるのでどうしようもない。
どうせ一月待っとけば躁がくるから、これまでどおりただ漫然と時間がすぎるのを待つことにしてやろう。
尿管結石と一緒だこんなもん。