はてなキーワード: タイムラインとは
歪な界隈って自称してるけど本当に歪すぎない?怖いわ
そんなにバドエンが絶賛される界隈ってやばくない…?バドエン好きって正直かなり隠れてるじゃん?少数派だし
それがこんなに表立って?楽しんでる界隈ってどんだけ原作地獄なんだろう、と思った。原作地獄じゃなくてバドエンがこんだけ祭り上げられてるならそれはそれでかなりの地獄。
>>普段はバッドエンドが苦手な人でも、Aの小説だけは読む、って人も多かった。Aのはバドエンが濃厚すぎるけど、あまりに良すぎてバドエンがバドエンで片付けられなくなるみたいな。Aの小説はバドエンとかハピエンとかそういう垣根を超えた先で輝いてた。<<
よ、読まない…。バドエンがダメな人間は、バドエンを読まない…。どんなに凄いと絶賛されようが、読んだ方が良いと言われようがバドエンは読まない…。これはバドエンだけどバドエンじゃないから、なんてだまくらかされて読んでしまったハピエン厨がもしいたら可哀想すぎて涙が出るな、と想像の中のハピエン厨に同情してしまった。
>>履き違えて欲しくないんだけど、Aの小説へのアンチは一人もいなかった。Aの小説を苦手な人はいても、Aの小説を嫌いな人は多分居なかった。素晴らしすぎるから。<<
どんなに素晴らしくてもバドエンでしょ?バドエンを憎んでるオタクは一定数必ずいるよ。それがいない界隈とか正直架空村としか思えない。怖い…よっぽど人数が少ないか声を上げる人がいないか。いや、にしてもハピエン厨が声をあげられないなんてことあるか?バドエン好きがバドエン好きですみません、ってのはよく見るけどハピエン厨がハピエン好きですみませんって言ってるのは見たことないけどな。
ちなみに私はハピエン厨の中でもかなり過激なハピエン厨だからバドエンは読まない、読まない、読まない。作者はミュートもしくはブロック。タイムラインが感想で溢れかえるならその人間たちももれなくミュートでユートピアを築く。
から、もし私がこの界隈にいたら楽しくハピエン書いてると思う。バドエン好き作者が消えても、バドエン好き読者が悲しんでも、何も気づかず。そういう字書きが1人もいない(観測できてない?)村って、増田が言ってる通り、やっぱり歪だねえ。
増田の中には、バドエンが死ぬほど嫌いな字書きも、そのバドエン神字書きを一緒になって殺さなかった字書きも存在しないような気がして、それが不思議で、書いてしまった。本当にいなかったの?って聞きたい。本当にいなかったの?
ここまで打って気づいたけど、もしかしてハピエン厨が苦しみのあまりもれなく全滅した村なのか?それなら滅茶苦茶納得するわ。バドエンがこれだけ市民権得てたら確かにハピエン厨は息苦しいかもね。
何が伝えたかったのか分からなくなったけど、毒マシュマロ、もしかしたら嫉妬で送られてきたんじゃないかもよ、ってことが言いたかった、のかもしれない。バドエンが祭り上げられてる界隈の空気が死ぬほど辛くて、皆が楽しんでるものが読めなくて、好きな作者がバドエンを楽しんでることを大々的に発表してきているのも辛くて、そうして界隈を呪おうと思ったハピエン厨が、毒を最後に投げ込んで、そうしてバドエン神を殺したのかも、しれない。
タイムラインが10年前と変わっちまったからミュートしてるって増田を読んでて思ったんだけど、
Twitterって相手のホームに行くと「この人のリツイートを表示しない」って出来るんだよね
案外この「リツイートを表示しない」をやるとすっきりすることがある
Twitter10年目。始めた頃は恥ずかしながら意識高い系だったので先輩同業者を大量にフォローして、そのうち半分くらいからフォロー返しをしてもらっている。その後はたいしてフォローも増やさず減らさずでここまで来ているが、ここ1~2年で相互フォローの雰囲気が変わってしまってついていけなくなった。複数の相互フォローの雰囲気が明確なきっかけもなく同時に変わるとも思えないので、変わってしまったのは自分のほうなのだろう。
具体的にはここ数年でみんなめちゃくちゃ男女論、特に「バカなツイフェミを嗤う」のが大好きになって、業界トークの割合がその分減った。
知らんうちに相互フォローにこういう感じの人が出てくるようになったし、フェミを叩ければOKなのか、これまで馬鹿にされていたような釣りアカのツイートも流れてくるようになった。自分もツイフェミは好きじゃあないがさすがに引いている。ナザレンコアンドリーとかもへもへとかが肯定的に流されてくるタイムラインを構築したつもりはなかったのでこれにはショックを受けた。
同業者つながりでリアルでも会うことがあるから(会うと面倒見のいい親切な人々ではある)、ガサッとフォローを削るとそれはそれで面倒臭くなりそうで、とりあえずミュートしてみたものの、相互フォローなのにミュートのアカが片手で足りなくなってきた。相互フォローなのにミュートって頭がおかしくて、こんなSNSの使い方をしていたらいつかトラブルになるだろうとは思うが、またあの「フェミミミミ!ツイフェミアフォフェミキチフェミ宇崎石川靴靴靴お気持ちお気持ち!」的なタイムラインに戻したいとも思えない。そろそろ潮時かとは思う。
森会長の女性差別というやつ、クソフェミたちの男性差別、保育園では何故か隅に追いやられるお父さん、不動産で完全空気な奥さん、と言ったものもそうだろう。学校では女子をなかした瞬間に男子が全部悪いことになるし、教師が力仕事を頼むときにかける一言は「力自慢の男子ちょっと手伝って」だ。今でも女性がお茶くみをする会社は数限りなくあるだろう。
というように日本という国は差別で満ち溢れている(日本以外の国にはないというものではない)。差別が良いのか悪いのかという話はここではしない。
差別をする人たちは自分たちが差別をしようとしていない(と完全に思っている)という結構重大な問題がある。
ストーカー犯罪を犯す人たちは、「ストーカーとかまじでありえない、そんなひどいことするやつは生きていく価値もない、俺達の純愛とは全然違う」と思っているらしい。意味がわからない。
というように自分たちのやっていることを客観視できないというのはあるだろうし、一種そういう病なのかもしれない。
ただ、差別をしている人たちは「あなたのそれは差別だ」という話をしたときの反応が割とテンプレだから、もしその指摘を受けた場合の客観視するための指標にでも使うと良い。
なんとなく常識としてやっている(確かに常識だったことはある)が、「なんでやるのか」というのの根拠が貧弱であるという点だ。直接的な根拠は割と強固な理屈で固められているものもあるが、つまるところ根拠なんかなく、「私がそう信じている」というところにしかいきつかない。
女性がお茶を汲むべき、という差別は浅いのですぐわかる。「女性が入れてくれたほうがお茶がうまいから」なんていう男性をよく見かけたが、そんなのは主観の問題だ。科学的に数値化できるものではない。
男は性犯罪者予備軍とか言うのは下手に突っつくと論破されるが、結局2〜3段階目くらいで言ってる本人のそういう願望でしか無いこともわかる。大概の場合「だってそうじゃん」という辺りに落ち着いていく。こちらも別に世界の起源に到達するまで追求する気もないが、大体の場合は伝聞や雰囲気で認識しているので、説明できない。
差別というものは不思議なもので「なんでそんなことをするのか」という話をすると、大体差別をしている人は怒る。しかも完全に冷静さを欠いた怒り方をする。これは本当に不思議なのだが、とにかく怒る。サラッと認めて直せる人は怒らないが、とにかく怒る。
怒ったときに何をするかは人によって様々だ。暴力を振るう人もいるし、徒党を組んで吊るし上げる人もいる。本人がいないところで勝手にコンセンサスをとって「え?xxさんも問題ないって言ってたよ?」とかやる人もいる。とにかく雰囲気で押し切ろうとする。そして指摘した人を排除しようとし始める。場合によっては狂言自殺すら厭わない。
絶対に理性的で論理的な議論の末にその差別行為がなぜ正しいかを説明しきれる人はいない。まぁ、本能的にそれが差別だとわかっているのかもしれないがね。
例えば差別している相手が「そういうの嫌なんでやめてもらえますか」と言ってきたときにどういう反応をするか。「いやいや、なんで嫌なの?」という反応をするだろう。本人が嫌だ、と言っているのにそれを尊重できない。これもまた本当に不思議だ。
他の人が「そういうの嫌だからやめてよ」というとそういう人って「あっ、すいません、以後気をつけます」という反応をするのに、差別している相手にだけは何故かそれをしない。むしろなぜそれが嫌なのかの説明を求めて納得できないならやめないくらいの対応すらとってくる
自分がやられて嫌なことは人にもするな、というのは割と小学校くらいで習う基本的なことだし、本人もそういう反応をするが、何故か差別する相手には、自分がやられたら寝込んでしまうくらい嫌なことや、言われたら今後一切の関係を立ちたく成るくらいに屈辱的な事ですらやったり言ったりできてしまう。
で、テレビとかで同じような状況を見ると「いや、私こんな事言われたら一生立ち直れないと思う」とか差別している人の前で平気でのたまったりする。
これは説明するまでもないだろう。とにかく自分が受ける差別についてはもうびっくりするくらいに敏感だし、わらから針を見つけ出す勢いで探していたりもする。見つけ出すまで3日寝ずにツイッタのタイムラインを凝視するくらいの執念を見せつけることもある。これについては一体どこからエネルギーが出てくるのかと驚くばかりだ。
ここが本当に怖い。
「っていう自戒の文章ですか?」とか「やっと自分を客観視できるようになってよかったですね」とか「などとアンチが申しており」というような反応をする
半年くらい前に「『アイカツ!』の新シリーズは実写とアニメの融合!」というニュースが話題になったのを知っている人は多いと思うが、その新シリーズ「アイカツプラネット!」が既に1月から放映開始されている。
今だから気軽に書けるが、発表された当初は本当に多くのファンが困惑していた。急に推しコンテンツが思わぬ方向へ舵を切り始めて戸惑わないわけがない。アニメの新作が発表されるとしか思っていなかったのだから。増田でもいくつかお気持ち表明的な文章が投稿されているのを見た。「とりあえず見て確かめるしかない」という様子見の姿勢の人がほとんどの中で放映を迎えることになったのである。
そうして始まった「アイカツプラネット!」なのだが、面白いことに、ちゃんと面白いのだ。
なんと言えば良いのか、ものすごい奇妙なバランスで作品が成り立っている。
「いや、なんか面白ぇんだよ」と、面白いということそれ自体に感心してしまう。
ガールズ×戦士シリーズとか特撮版セーラームーンの前例があるから戦略的には大アリだよねという理屈はわかっているのだが、それでもアイカツプラネットがちゃんと面白いのは不思議というか、興味深い。
結構自分の観測範囲では好意的な意見が多くて、半年前の変な空気になったタイムラインからは今のおだやかな状況は想像できなかった。
なんやかんやで毎週トレンドにも上がっているし、特撮に馴染みのあるニチアサ民からの受けも割と良いようである。
今後も面白くなるといいなあ。
ちなみに2月14日くらいまでは全話が無料で見れるから興味ある人は見てみてね。
https://youtube.com/playlist?list=PLcpNwSdDWNrwFF0SF3uX42IEKVEFVrwSv
SNSのタイムラインに流れてくる何千何万といいねがついた画像は、散々加工され尽くしたド派手でドぎつい写真の成れの果てのようなものが少なくない。
いいねの数が4桁5桁となればわたしのような写真にうるさい層ではなく、一般大衆に(も)ウケていると捉えてよいだろう。しかし、そういったものほど容易に後処理で手を加えたようなものが目につく。
そんなバカのひとつ覚えのように色彩を派手にしただけ、明瞭度をめいっぱい上げて異様にメリハリが強調されているだけ、果ては本来そこに無いものを合成しただけの“写真モドキ”はクソだ。写真に対する冒涜だ。
写真が「真実を写す」ものでないことは百も承知。それでもなお、事実を歪曲したり捏造することで生まれた写真モドキをわたしは写真と認めない。写真とは別の優れたもの、美しいものとも思えない。
しかし写真モドキはまるで写真であるかのように振る舞うのだから尚更タチが悪い。
それにいいねを押したりシェアしたりする人がいることで写真モドキの作者は味をしめ、いいねが欲しいだけの奴は模倣をし、写真モドキはケバさを競うようにしながら世の中に蔓延していく。
シャッターを切った瞬間には並以下の写真でも、PCやスマホでイジり倒せば誰でも人目を惹く、しかしよくよく見れば醜い写真でも絵でもないものを作り出すことができる。わたしが写真モドキと呼んだものの正体がそれだ。
人目を惹くことといい写真であることは必ずしもイコールではない。
ただ、一般大衆はその2つをかなり近いもの、下手をすれば同列のものとして捉えていると感じる。そういう層は写真や写真モドキを目にしてもそれが「写真として」優れているかどうかということは分からないのだろう。
大衆は現実と乖離した、撮影後の処理でドーピングした写真モドキでも現実とリンクした美しいものと感じるのだろうか?
もしくは現実に関係なく単純にキレイなものと感じられるなら、それでいいのだろうか?
色彩は鮮やかであればあるほど美しいものと感じるのだろうか?
ならば白黒写真は単に古さを感じるだけだったり、理解不能な自己満足にしか見えないのだろうか?
そんな疑問をこれまで見てきたものや、わたしの写真に対する一般人の感想などを通して抱き続けている。
そして、わたしが持っている「いい写真」や「美しさ」の定義は一般的なそれと遠く離れてしまったのだろうか? (『そうに決まっている。この写真家気取りが』とあなたはいま思ったかもしれない)
とはいえ、写真の良し悪しなんて主観でしかない。あなたがキレイだと感じたなら、それは間違いなくそうだ。その対象が例えわたしが写真モドキと軽蔑するようなものだったとしても。
タイムラインには星の数ほどの写真が流れては去っていく。いまや写真がタイムラインを流れるほんの一瞬で見る人を惹きつけることができなければ、評価の土俵にも立てないのかもしれない。
その一瞬のためだけに奇形化した写真モドキを、わたしは数秒たりとも見続けられないのだが。
「見た瞬間に」感情が動かされたものに対して、それが一瞬であなたを惹きつけるためだけに容易に(あるいは計算ずくで)生み出されたものでないか、ほんの数秒立ち止まって考えてほしいと思う。
でもピクシブはそういう傾向の場所になったしPICTBLANDなんてサイト名にBLってはいってるとおりだからな。
ツイッターでもミュートできるし、そもそもツイッタータイムラインはお前が作るんやで。本人のツイートは好きだけど腐作品ながしてくるのが困るな―ってときはそいつだけRT非表示設定もできる。
サイトをつかいわけず、サイトそなえつけのツールをつかいこなさずに世界に向かって文句いうのやめえや
あと当然ながら腐も平常感想も一人の個人のなかで地続きである場合に腐だけ攻撃してもいわれたほうは人格全体を攻撃されたと感じるからもう攻撃するようになったらちゃんとミュートかブロックしろや
結論:「CP名書くのがルール」って言ってる人がいて論争になってて一見どっちもただしいんだけど書く側になってみたらそんなルールねえよでおわった
まずCP名ってのはつっこんでる際にどっちがどっちにつっこむかを右左まちがえずに書く行為
右左を間違えると地雷(食物アレルギーにおけるアレルゲン摂取のような反応を地雷という)で死ぬ人がいるので左右誤記は完全アウト、これは常識になってきた
CP名を書かないのはどうか?現状だれもつっこんでない場合はアレルギー要素がないので問題がないはず
とはいえ、モブにつっこんだりつっこまれたり、おもちゃにつっこんだりつっこまれたり、
この場合はやはりつっこみ行為を厳密に判定してCP名を書くべきである、とはいえ後述の理由で書かない人もいるだろう
もうすこしつきつめると、
本当にくそ重感情があっても行動(地の文にあるもの)としては自慰のときに名前を呼ぶ程度だったとかはどうか?
現代社会における恋愛にはいろいろなアレンジやバリエーションがある。自慰なんか健全な発育の範囲内だろ。
手をつないでチューするかそれ以前という高校生なみの作品、自慰のときに相手を妄想しておなねたに使う、このへんはどうか?
これは本来はCP名を書かないほうが正しいのかもしれないし、将来的に恋愛成就して左右だのリバだのポジションが決まるのならその将来のためにタグをつけておくのが正しいのかもしれない。
丁寧な人は「こちらA✕Bを製造している工場で製造しておりますがつっこみ行為は一切ありません」等という注意書きをつけてくれるがこれはサービスであるし続編かいていたら急に方針変更したくなるかもしれないし正解がないので安全側としてはつっこみとつっこまれが決まるまでCP名かかない、はマナーとしてほぼ正しい
そもそもCP名を書いてタグをつける行為ってのはその雰囲気の恋愛ものを探してる人にむけて釣り針を下ろす売名行為なのである
CP名タグつけりゃ1000閲覧で30ブクマ行く作品に、あえて作品腐タグしかつけないと18閲覧の0ブクマしかない
それがCP界隈の現状なのである だからCP名つけないのは謙虚な選択
そしてつっこんでないから、未分化だからといって左右逆転CP名を両方つけるとどうなるか
「どちらか片方が好きだがもう片方が地雷でミュートやマイナス検索をしてる人」(ものすごく多い)には見えなくなる。
そしてもっとわるいことに「つっこみ関係が左右に関係なく苦手な、この作品が本来とどくべき読者層」にも届かない。自己防衛のためにミュートしてる人が多いからもうほぼ絶対にとどかないわけだ。
だからこそCPタグ着けない「作品腐」とか「A+B」とかいうマイナ―傾向をもつ読者のための固定カテゴリの創出の工夫が各作品でもとめられているのであるが?
この現状の中で「cp書くのがルール」だなんてよくいえるなってことだ
見られないという最悪のリスクをおってでも
本来とどけたい人に届くためにCP名を書かない選択をしている人の作品を
「cp名ついてないじゃないですか、ついてたらミュートできたのに」って文句をいう行為is何?
じゃあ見るなよとしか
これは「つっこんだことを匂わせられた」と訴える被害妄想であるといわざるをえない
もうね、そこまでいうなら他人を信頼しすぎるな、見に行くな、自分で好きなように書け
「好きな作家だからタグがなくても見に行った」?なら好きな作家の製作意欲なくさないために文句いうな、おのこしせず食べるかそっ閉じしろ
ただし滅多にないことだが、エグいつっこみ行為(いわゆるズコバコ)があっても「cpで売名する気はいっさいないから」だの「ネタバレになる」だのというわけのわからん理由でcp表記しない(あるいは通常とちがうcp名で表記して他人の編集をうけつけない設定にしておく)といった非常に変わった人も創作神の中には居られると伝え聞く。(自分の作品は唯一無二の至高だからタグをオリジナルでつくって自分一人で独占したいとかいうタイプのアホも聞いたことある。個人サイトでやれよ)
これはたしかに「作品をとおした交流サイトの秩序」という点では乱しているので避けるのがむずかいし「おいおいこの内容ならcp名書くのがルールだろぉ」くらいの文句はいいたくもなるかな~とは思う。
つまり必須タグを敢えてつけないことで軽度なタグ荒らし行為が発生する場合もあるだろうとは思う。
しかし実際にそういうことをする人に同ジャンルで会ったことはない、と思う。偏屈な理由で偏屈なことをする人がいるといくらいい作品を投下していても偏屈さが目に入るたびに疲れていくのでアンフォローや何ならブロックする習慣が私にはある。だから存在を忘れてるだけかもしれないのだが。
もしあるのなら、作家の雰囲気とか感想コメントで前もってつかんでおいて神回避するしかないだろうな。
あと最初に踏んだ人が親切で「cpタグつけたほうが有名になるしミュートにもつかえるんだからつけりゃいいのに」ってやってくれるのを期待するか自分でやるしかない。
結局そこまでして探し当てたものに文句いって、おまえは一体なにがみたかったんや、という話にはなるとおもうわ。
みんなでつくろうたのしい秩序
おわり
追記、
一方で「自分の作品にCP名やシチュをちゃんと表記するとネタバレになりそうでイヤだな~」と思っている書く側のド素人さんにちょっと助言。
ネタバレってあんたさ、原作よんで原作ネタバレ知ってる客だけにきてもらいたがってるくせによくいう。
そんなにネタがかくしておきたきゃ全部の設定自分でつくるオリジナルでやったほうがいいってわかってるでしょ。
筆力がいまいちでびっくり仕掛けしか売りがないとかも二次ではそんなに特別なことではない。
むしろある程度積極的にネタバレしたほうが「この二次創作者はどう楽しんでほしいのか」が把握しやすくて宣伝になる。
あと本当に救いのないエンドをしようとしてるなら知らせるのもマナーだと思う。
意外とみんな好きだし理解あるみたいだぞメリバ。
つくってどんどん開示してみれば「こういううす暗いのも好き」っていってくれる人に出会えるとおもう。
とにかくみんなでわいわいと楽しもうとしているときにへんなわけへだてを自分でつくりすぎるのはよくない。
昔の個人サイトでは、わざと入り口をわからなくしたりわかりにくい入室パスワードかけたりとかいう内輪の楽しみ方があったけど(ちなみにそれは明日高校の同級生に「ねえねえサイト読みたいからパスワードおしえてよ!」って声をかけられることでリアルで友達になれるから敢えてやっているのであって。学校でおしゃべりだらだらやってられないコロナ令和の人がやっても意味がないぞ。自分から壁をつくってるだけだ。)、
そういうのやるやつに限ってたいした作品はおいてなかったからね。俺は詳しいんだ。
今は個人サイトって時代でもないから親しみやすくおもしろい自分ってやつをどんどんむき出しにしてこうな、適切なタグつけて。
あとこれは当然のようにピっクブの仕様を下敷きにしている。
他にも二次創作交流サービスはあってpictBLandとかいいぞ。
あとR18文章にワンクッションだのパスかけたければプライベッター、R18のどぎつ絵のほうでやるときはポイピク、タイムラインに流したくないだけのネタバレ早バレ感想程度ならふせったー、匿名感想募集やおくりつけるときはましゅまろ、このくらいは適宜つかいわけていこうな
他にも頒布物の奥付にパスワードのせておまけファイルダウンロードとかいろいろやり口はあるからなんなら聞いてくれ
自分で工夫して適切に住み分けような、おじさん(蔑称ではない)とのやくそくだぞ
ルールだと騒ぎ立てるのも、それを否定しながら秩序やマナーと言葉を緩めて縛ろうとするのもやってることは大差ないように見えるけど。究極「何でも許せる人のみ」とするしか
せやで、書くがわはどうしたら自分の作品を読んでほしい人にとどくかをタグだのタイトルだのつかって自由に実験していいっつってるの(その結果読んでもらえなくても自己責任だしユーザーと作品の出会いがスムーズにすすむことが秩序だからね。別に俺が書く側を言葉で縛ろうなんていっていないよね、アドバイスはしてるけど)
私はツイッターで作品を上げている者だ。あるジャンルの二次創作をしており、フォロワーは4桁とまあまあなところだと思う。
対してフォローは少なめ。60程度。そのうち相互フォロワーが40程度。
相互フォロワーになった人には、こちらからフォローしてフォローバックをもらったパターンもあれば逆もあるが、どちらにせよその相互フォロワーたちが繋がってから全く反応をくれない。
ツイッター用の作品でも、pixivにアップしたお知らせでも、新刊通販のお知らせでも、何一つ。タイムラインにいるのが分かっているときでもスルーだ。ミュートされているのかと思いきや、私のRTをRTしたりいいねしたりはする。
私は結構相互フォロワーの作品には気を遣っているつもりで、そもそも見たいと思ったからフォローしているわけなので、RTもいいねもよくする。リプライで感想を言ったりもする。
だけど、向こうからは一切ない。
そうなると、こちらも何故繋がったのかと疑問に思ってしまうし、だんだん相互フォロワーの作品に反応するのもバカバカしくなってしまった。初めは好きだったものが、この人は私に興味ないしなあと思うと少しずつどうでも良くなる。
私の作品に魅力がないのかとも考えたが、だったら何故フォローをしたり返してきたのだろう。繋がったときには○○がすごく良くて、とか、あなたの描く△△が好きで、とか言っていたのに。
私は別に繋がってほしいとも言っていないし、繋がりタグで繋がったわけでもない。興味がないなら繋がらなくて良かったのに。
最近ではツイッターに作品を上げる意味を感じられなくなった。新刊のお知らせも面倒になったが、フォロワーが4桁いる身なので申し訳ないから告知している状態だ。
何故なのだろう。他の人には頻繁に反応するのに。
久しぶりにTwitterに復帰した
仕事がひと段落つき懐かしい奴らとの交流があればいいなと考えての復帰だ
そして復帰して1ヶ月が経った
本当にキツい
一般的に尊敬される職業に付いている人間の集まりなのに内ゲバが多すぎる
誰の態度が悪いとか誰の考えはおかしいとか誰のツイートは揶揄するとか…
おそらくこういうことを言っているのは少数なんだろうけど最早悪口だらけのタイムラインに見えてしまう
なんというか陰湿過ぎる
あえてツイートすることで批判する人の目に止まるように仕向けてる
他人の負の感情を見ると自分のストレスに変えてしまうナチュラル当たり屋体質なのでただただ精神が摩耗していく
楽しみたいだけだったのに
もうTwitterはやってられない
とある界隈のオタクに燃やされた。経緯を少し婉曲して話すと、某アイドルグループの活動支援のために、ファンが主導してクラウドファンディングを行っていた。当初設定した期間の半分程度でゴールし、最終的に目標金額の1.5倍近くを集めることに成功する。
私はそれを見て、「凄いな~、今って結構簡単に集めることができるんだな~」とツイッターで発信する。そのつぶやきが発起人の目に留まった。
「簡単なんて言わないでください。ここまで来るのに本当に大変だったんです」と言いながら私のつぶやきを引用RT。その発起人をフォローしている界隈住民がわんさと押し寄せてきた。
「私達の苦労の何が分かるんですか?」「こういう発言をする人って思慮が浅いのでは?」
見知らぬ人間からの攻撃的なリプライは、その数も相まって狂気的な連鎖反応を生んでいた。
そんな燃えるタイムラインを眺めながら私が感じたのは、「ネットの人間って、怒るときですら感情を押し殺すんだなぁ」ということであった。ファン達が飛ばす敬語交じりの罵倒には、まるで「感情を表に出すことは低俗で醜い人間のやることであり、怒っていても理知的に振る舞うのが大人のやりかたである」というイメージが内包されているようだった。
ただ、どんな時も理性的に喋るのってそんなに素晴らしいことなのか?
ファンたちの怒り方には感情を感じない。リプライで多く散見されたのは、「何故○○だと思ったんですか?(間違ってますよね?)」と私の考えを推し量った上で否定するような文章――あたかも自分達のほうが良識ある大人であり、間違った考えを抱いている相手に、間違いを気付かせたうえで啓蒙するような言葉――である。その言葉に激情はほとんど乗らない。どうやら感情混じりに怒りを発散するのは子どもの仕草であり、忌むべき恥ずかしいふるまいのようだ。
でも、感情を殺して理性だけで語って、いったい何が生まれるのか?
そりゃ個人の感情は排して、客観的な事実やデータを軸にして話した方が正確な発言になるだろう。
しかし、「これが正しくてこれが間違っている」という意思決定には、その人の思考や感情が密接に結びついている。誰かに何かを表明するときは必ず自分の思いを言い切らなければ意味が無い。端的に言えば、感情のバイアスがかかっていない主張など存在しないのだ。
私に落ち着き払って攻撃的なリプライをしてきた人間も、本当は思っているのだ。「あんたがムカつく」「お前が嫌い」という感情が。だけれども、それを表立って発散するのは恥ずべき行為であるから、自分の感情を敬語の陰に潜ませてお気持ちを表明する。そんな回りくどい行為の末に出来上がるのは、言葉だけバカ丁寧な侮辱の文句だ。
「どうしてあなたは○○ということが理解できないのですか?普通は発言する前に考えませんか?」この言葉を聞いて相手が悔い改めると思うのだろうか?何故「私はこう思います」といい切ることを怖がるのだろうか?建前は冷静、本音はぶち切れ。どこの誰に気を遣って天邪鬼みたいな煽り屋をやってるのか?
そして何より思うのは、「そんなに感情を押し殺してまでキレて何をしたいんだ?」という疑問である。
リプライのほとんどは、「自分は冷静です」という素振りをし続けるあまりに、「結局お前は何が言いたいんだ?」と首をかしげざるを得ないものばかりであった。
前述のお気持ち表明ツイートが示す様に、感情の秘匿はクソリプの原因に繋がる。
私のツイートに対して思うところがあるにもかかわらず、それをごちゃごちゃこねくり回してなるべく理知的な発言をしようと考えるから、「AについてBだと思った」という簡単な受け答えすら成り立たなくなるのだ。
そもそも、理知的な人間なら見知らぬ人の発言を捕まえてリプで殴り掛かってきたりしない。それをしている時点で理性も民度も無い人間なのだから、素直に「それは嫌いです!なぜなら~」や「私は違うと思います!だって~」みたいに、感情混じりでどう気に食わないのかを表明したほうが、よっぽど有意義な会話でクソリプも少なくなると思うのだが。
クッッッッッソむかつく。マジでむかつく。絡んできたやつ全員頭おかしいカスの集団。
私は「昔に比べてクラウドファンディングというサービスが発達した結果、カンパや出資が簡単にできるようになった」って言ってるだけで、別にお前らの努力を軽んじてるわけじゃねえよ。そもそもお前らのやってる努力にこれっぽっちも興味が湧かねえよ。
そんなに「あなた達がんばりましたね」って褒められたいんか?「アイドルの魅力によってゴールを達成しました」じゃなくて、「私達の頑張りによってアイドルが活動続けられます」ってことにして自尊心を満たしたいんか?クッソ哀れだなこいつら。結局己が褒められたいだけの自意識てんこ盛り野郎の集まりかよ。
ということで、ここからは特にムカついた「冷静ぶったチンパンジー」を2種類発表していきま~~~す。
「これに限らず、世の中の色んな活動は多くの人の努力で回っているんですよ」
何コイツ?そんなん当たり前だろ。自分が何を言わんとしてるか頭で理解できてるのか?
「お前の軽率な発言がムカつく」ってストレートに言いたいところを、「私はあくまで冷静で賢い人なんです」風を装いたいから、丸めて削って薄めた出涸らしみたいな意見を自信満々に発してくるんだ。
そこまでして喋らなきゃいいのにって思うんだけど、そういうわけにはいかないんだよな。だって心の底は「ムカつく」っていう感情で支配されてて、どんな言葉でもいいからコイツにパンチ喰らわせてやらないと気が済まないって沸き立ってるんだから。根はバカのくせに言葉は意識高い。そんな二層式フィルターに感情をくぐらせて出来上がったのは毒にも薬にもならない薄っっっすい一般論。自分の感情をはっきり喋ることができないなら黙っててください。イラつくので。
企画したわけでも出資したわけでもない完全無関係の人間。ファンかどうかも怪しい。何なのこのバカ?
謝っても炎上が収まらないどころか高く燃え上がるのは、加担してる奴らが「別に怒ってない」からである。怒りの感情が無い人間に謝っても効果はないのだ。
こいつはそれ以上の意味不明な存在、「完全な部外者」である。部外者のクセに倫理とネットマナーを説いてくる筋金入りの不審者。で、お前はいったい私に何をしてほしいんだ?
これも自分の感情を無視して殴ろうとする弊害が生んだ動物だ。自分の気持ちと無関係な行動をするという意味では前述のチンパンジーの亜種であり、啓蒙思想の旗のもと正義感に酔うねじ曲がった人間である。キレるパワーがあるなら金落としてやれよ、いやマジで。
はっきりと感情で言います。あの界隈の住人全員嫌いです。今まで名前の知らなった某アイドルグループまで嫌いになるぐらいムカつきました。二度と姿を見せないでください。
ご贔屓、いわゆる推しもいる。
私は地方民なので、観劇の際は兵庫県の大劇場か、若しくは東京日比谷の東京宝塚劇場のいずれか、若しくは別箱、と言われる梅田芸術劇場や東京フォーラムといったホールに「遠征」する。遠征、つまり、宿泊を伴う移動だ。いずれにせよ、新幹線や飛行機を使わずに行ける距離に私の現場はない。
2020年、世界を未曾有の脅威が襲い、私は一切の観劇遠征を諦めざるを得なくなった。もちろんそれは私だけではない、遠征民と呼ばれる地方在住のヅカファンの多く(全部とは言わない)がそれを余儀なくされた。(中止となった公演もあり、それについてはチケットを持っていた者全員が涙を飲んだ。もちろん、それは劇団側もそうだろう)
春ごろには、夏くらい、遅くとも秋くらいには落ち着いてくれるかな?と、コロナのせいで中止になった公演が、劇団の不断の努力で次々とリスケされていく中で、この公演には行けるだろうか、この公演には絶対行きたい…などと、頭の中で叶わぬ予定を立てたりしていた。
状況は決して好転してはいなかったが、なんとか、ぎりぎり、行けるか…?という兆しがあった2020年11月末。私は、年内は我慢しよう、ここまで我慢したのだから、とにかく今年は我慢だ、そうすれば、2月くらいなら、状況ももっと落ち着いて、ご贔屓様の舞台も見られるはず!そう考え、チケットと宿、交通機関の手配に勤しんだ。ワクワクしていた。1年半ぶりの観劇遠征だ。1月ならGOTOとやらいう恩恵(結局私は使えなかったが)があるが、そんなもん関係ない、2月の観劇遠征に向けて、心は既に関西へ飛んでいた。
私は、いわゆるエッセンシャルワーカーの一端であるため、長距離の移動を伴う遠征は避けねばならないと自重していた。私が感染するわけにはいかなし、無症状の感染でウイルスを媒介することなど絶対にあってはならない。もしそうなったら、私の職場は完全アウトだ。だから遠征をあきらめ、日々感染のリスクに怯えながらも出来る限りの予防策をこうじて仕事を続けていた。
友人とも会えない、外食もカラオケも映画も行けない(鬼滅のムビチケは公開前から買っていたけどもう使うことはできないまま公開終了しそうだ)、帰省もできない、ただただ職場とアパートを往復し、休みの日もスーパー以外は一歩も外に出ず、タカラヅカスカイステージという有料のタカラヅカ専門チャンネルを同居人に遠慮しながらも視聴し、オンラインで購入したブルーレイが届いて喜んだのもつかの間、同居人に「それ宝塚からの荷物でしょ、消毒して」と言われ自分でも驚くほどの心の痛手を負ったりしながらも、黙って、ただただ我慢の日々を過ごした。
夏、秋、と徐々に再開されてきた公演を、配信で視聴しながら、それを観劇してそのレポを嬉しそうにテンション高くあげているツイッターのタイムラインを妬ましく思いながら眺めつつ、もう少し、もう少し我慢だ、年内我慢すれば、きっと、と唇を噛んで耐えていた。
のに。
なんでこんなことに。
私、ものすごく我慢した。お医者さんも頑張ってる。看護師さんも保健師さんも、ものすごい数の人たちが、疲弊しながら頑張っている。
なのになんで。
なんでこんなことに。
ものすごい数の人たちが頑張って、私も含めてものすごい数の人たちが我慢を続けている。
のに。ねえなんで?
政治がどうの、ウイルスの性質がどうの、わかる。そこから目を逸らすつもりはない。正常性バイアスに陥らないように、注意深く、今も、感染予防に努めながら歯を食いしばり続けているよ、私は。そしてものすごい数の人が。
なのに。
ツイッターのタイムラインを眺めると、今日も楽しそうに観劇のレポツイしている人たちがたくさんいる。あのシーンのここがよかった、とか、ここのダンスが最高だった、とか、私のご贔屓様のことも、きれいだった、かっこよかった、etc…
私と同じ地方民であり感染拡大地域に住んでいるにも関わらず、「悩んだけどもう無理!行く!気をつけるし大丈夫だと思う」と観劇遠征している友人からも、「観るべき!贔屓ちゃん最高だよ、なんで行かないの?私あと二回観るわ」というメッセージが来る。
それが悪いとは思っていない。なぜなら、エンタメの世界は瀕死の状態だからだ。公演中止が続けば、利益が出ずに「劇団」などすぐに潰れる。現に潰れた劇団は既に枚挙にいとまがない。宝塚歌劇は、バックが大企業だからまだ持ちこたえているというだけで、106年の歴史が終了することも、この状況ではもしかしたらあるやも知れない。そうならないためには、劇団が存続し続けるためには、今、観劇してくれる人たちが必要なのだ。今観劇できない私のような者が、いつか観劇できる日まで、劇団を存続させてくれるのは、今観劇しているファンたちなのだ。
それは、そのことは、痛いほどに、分かりすぎるほどに、理解してる。
でも。
それでも、どうしても、思わないではいられない。
こんなに何回も何回も観劇できている人が、現にここに(SNSの中に)存在しているのに、どうして私はただの1回も観劇できないんだろう…、と。
確保した、1年半ぶりの、たった一枚だけのチケットを、手放した。
私は、泣いていいだろうか。