SNSのタイムラインに流れてくる何千何万といいねがついた画像は、散々加工され尽くしたド派手でドぎつい写真の成れの果てのようなものが少なくない。
いいねの数が4桁5桁となればわたしのような写真にうるさい層ではなく、一般大衆に(も)ウケていると捉えてよいだろう。しかし、そういったものほど容易に後処理で手を加えたようなものが目につく。
そんなバカのひとつ覚えのように色彩を派手にしただけ、明瞭度をめいっぱい上げて異様にメリハリが強調されているだけ、果ては本来そこに無いものを合成しただけの“写真モドキ”はクソだ。写真に対する冒涜だ。
写真が「真実を写す」ものでないことは百も承知。それでもなお、事実を歪曲したり捏造することで生まれた写真モドキをわたしは写真と認めない。写真とは別の優れたもの、美しいものとも思えない。
しかし写真モドキはまるで写真であるかのように振る舞うのだから尚更タチが悪い。
それにいいねを押したりシェアしたりする人がいることで写真モドキの作者は味をしめ、いいねが欲しいだけの奴は模倣をし、写真モドキはケバさを競うようにしながら世の中に蔓延していく。
シャッターを切った瞬間には並以下の写真でも、PCやスマホでイジり倒せば誰でも人目を惹く、しかしよくよく見れば醜い写真でも絵でもないものを作り出すことができる。わたしが写真モドキと呼んだものの正体がそれだ。
人目を惹くことといい写真であることは必ずしもイコールではない。
ただ、一般大衆はその2つをかなり近いもの、下手をすれば同列のものとして捉えていると感じる。そういう層は写真や写真モドキを目にしてもそれが「写真として」優れているかどうかということは分からないのだろう。
大衆は現実と乖離した、撮影後の処理でドーピングした写真モドキでも現実とリンクした美しいものと感じるのだろうか?
もしくは現実に関係なく単純にキレイなものと感じられるなら、それでいいのだろうか?
色彩は鮮やかであればあるほど美しいものと感じるのだろうか?
ならば白黒写真は単に古さを感じるだけだったり、理解不能な自己満足にしか見えないのだろうか?
そんな疑問をこれまで見てきたものや、わたしの写真に対する一般人の感想などを通して抱き続けている。
そして、わたしが持っている「いい写真」や「美しさ」の定義は一般的なそれと遠く離れてしまったのだろうか? (『そうに決まっている。この写真家気取りが』とあなたはいま思ったかもしれない)
とはいえ、写真の良し悪しなんて主観でしかない。あなたがキレイだと感じたなら、それは間違いなくそうだ。その対象が例えわたしが写真モドキと軽蔑するようなものだったとしても。
タイムラインには星の数ほどの写真が流れては去っていく。いまや写真がタイムラインを流れるほんの一瞬で見る人を惹きつけることができなければ、評価の土俵にも立てないのかもしれない。
その一瞬のためだけに奇形化した写真モドキを、わたしは数秒たりとも見続けられないのだが。
「見た瞬間に」感情が動かされたものに対して、それが一瞬であなたを惹きつけるためだけに容易に(あるいは計算ずくで)生み出されたものでないか、ほんの数秒立ち止まって考えてほしいと思う。