はてなキーワード: エントリーとは
何度でも言う。地域の絆と犯罪にはなんの関係もない反社会学講座ブログ http://pmazzarino.blog.fc2.com/blog-entry-188.html
寝屋川の中学生殺人事件について、「「地域の絆がうんぬん」とかいうおためごかしを抜かすんじゃねーぞ、地域は十分に安全に配慮していたがそれでもアクシデントはあるんだから」というブログエントリー。
はてブを見ると、主に前半が注目されているようだけど、個人的には後半の論旨のほうが気になる。というか、ずっと考えている話。
ゼロリスクがありえないという前提に立てば、必要な安全性と利便性、コストとを天秤にかけて最適の資源配置を実現せよということになる。ただ最適の資源配置であってもアクシデントは起きるわけで、感情的にコストを投入すれば資源配置は最適なものではなくなってしまいむしろ安全は劣化する。資源配置が最適なものだったかという検証はもちろん必要だが、確認された場合にはアクシデントがあったとしても現状維持、何も間違っていなかったと考えることが正しいわけだ。
だが、正しい選択をしていたのに「不条理」にアクシデントが起きる、人が死ぬということに人間はなかなか耐えられそうにない。いや、それを受け入れるための仕組みとして宗教というのがあり、「人間には計り知れない神の御心なんやで、しゃーない」と納得するようになっていたはずだが、現代のぼくらはいかにして「不条理」を受け入れるのか。まあ受け入れられないから、わかりやすい悪人や失敗を見つけることになるのだろう。
とここまで書くと、若い頃に読んだ宮台真司の影響をばりばり受けているのがばればれで恥ずかしいのだが、自分の母の介護をしていてどうにか助かる道がないか考えていた時も、あるいはわかりやすい悪人をぶったたいて気勢を上げている活動家・ネット民のみなさんを見る時も、やっぱりこのことを考えてしまったり。
唐突にすいません。
ちょっと気になるWikipediaのページを発見するじゃないですか。
で「どんなブコメが付いてるんだろ?」と気になるじゃないですか。
例として挙げると
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BB%E3%81%A8%E3%82%93%E3%81%A9%E6%95%B4%E6%95%B0
はてなブックマーク - ほとんど整数 - Wikipedia
「2users?少ないなあ」と思いつつブクマしようとしてある事を思い出しました。
数ヶ月前からWikipediaがhttps化されていたのです。
はてなブックマーク - ほとんど整数 - Wikipedia
https化前は55usersでした、見たかったのはこのページです。
URLの"/s"を削除すれば辿り着けますが非常に面倒ですし、ブコメが分散しています。
そこで以下のどちらかの対策をお願いしたいです。
Amazon等のページをブクマしようとすると出てくるアレです。
httpの方のエントリーページに誘導すればブコメ分散も防げます。
とあるエントリーのブクマ見て俺があらゆるスポーツ観戦に興味を持てない理由がわかったわ。
俺は生まれつきのスポーツ音痴で運動の恐ろしく下手な人間の動きしか知らない。
だから投げられたボールを打つとか横から飛んできたボールをゴールへ蹴るなんて動作もちょっと運動が得意な奴なら簡単に出来るけど俺には出来ないって所で「感覚」が止まってるんだ。
だからスポーツ選手がやってるあらゆる動きが「運動神経のいい奴ならこれぐらい簡単なんだろうなー」としか思えないんだよ。
元から運動できる人は「すげーあんなの俺には絶対できねぇ!」で興奮するんだろうけど、俺は「ふーん。あんなの俺には絶対できねー……(でもこれぐらい皆は出来るんでしょ?)」と冷めちまうんだよ。
運動嫌いで運動苦手でもスポーツ好きな人もいるだろって反論もあるだろうけど、彼らはある程度スポーツを観戦してきた結果どれぐらいがプロから見ても凄いのかの感覚を掴んでるんだと思うんだよね。
そのときに興味はないけど付き合いや話題に付いて行くためにとりあえず数試合見ようかなってする。
そういう場合って大抵どこもかしこもその情報で溢れてるから素人でも何となく「この選手の動きが飛び抜けてるらしい」「ここでこうなると嬉しいらしい」ってのが教えてもらえるんだよ自然と。
だから画面のどこを見たらいいのかが分かって少しずつ「何が凄いのか」の感覚が染みこんできて普通に楽しめるようになってくるわけ。
他にも野球ゲームやサッカーゲームといった簡単な所で大まかな所を掴んだりとかのパターンもあるね。
そういった「感覚を身につける機会に恵まれている」ってのがメジャースポーツの強みなんだろうね。
でも俺ぐらい運動が下手でそのうえスポーツ系の人間にトラウマを持ってるような奴は、そこまでされてもまだスポーツ観戦を楽しめないんだけどね。
だってサッカーしてるような奴らが持て囃されてるってだけでムカつくんだもの。
まあ想像に任せるよ
特長的な仕事をしていることと、本人が居住地や年齢、出身学校などもがんがん書き込んでいるので確信を得た。
超リア充を装っているFacebookには絶対書かないような、人の悪口や、家族のこと、生理のこと、浮気のことを
はてなハイクには包み隠さず書いている。完全に脳内ダダ漏れ状態。
自分の名前さえあげなければ匿名でいられると思ってんのかもしれないけど、ほかにも特定している人いそう。
FacebookやTwitterだったら、周囲の人の印象や、拡散・炎上を考慮して言葉を選んだり、言わずにおくところを、
はてなハイクは、ごく一部のユーザーしかみていないと思っているのか
名前、居住地、年齢、学校や仕事はもちろん、いつ仕事をさぼったとか
(特定できる)客や上司の悪口や、犯罪自慢や性被害にあったとかを包み隠さずに書いているユーザーが目立つ。
狭い世界だと思っているかもしれないが、それらはすべて世界に晒されている。
大丈夫?
はてブを見てると、ときどき増田に常駐してるアレな人のエントリーがホッテントリになっていて冷や冷やする。
有名ブクマカの人たち(not増田ブクマカ、例えば鯖カレーさんや熱湯オチさんは除く)は分かっててこれにブクマしてるのかな…という気分になる。
あまり気にしてないのかもしれないけど…。
えぇぇ何このトラバツリー…。
一眼レフはミラーレスに取って代わられる。これは間違いない未来だろう。自分の見立てでは5年後には入門機が、10年後にはプロ機が完全にミラーレスに置き換わり、一眼レフはフィルムカメラのように趣味性とニッチのためのカメラになる。
そこで問題は現在一眼レフで寡占状態を敷いているニコン・キャノンはこのパラダイムシフトに生き残れるかだ。
両メーカーとも一応ミラーレスは出しているが明らかに手を抜いており、先発メーカーに対するアドバンテージはブランド価値くらいなものである。このままの状況であれば、オリンパスのOM-Dシリーズ、富士フィルムのX-Tシリーズ、ソニーのαシリーズに一眼レフのパイを侵食される一方だろう。
ミラーレスの性能が向上すれば一眼レフのメリットは失われる。ただ大きさとコストがデメリットとして残るだけだ。
ところで、幸いにして一眼レフからミラーレスへ移行するための技術アセットは揃いつつある。
一眼レフユーザーを満足させられる高精細な電子ファインダー。非コントラストAF対応レンズでもAFを可能にする像面位相差センサー技術。増大する画像処理に耐え得るプロセッサとバッテリー。
思うにニコンやキャノンが今にでもOM-DやX-T1、α7のようなプロやハイアマチュア向けの本気のミラーレスを作れば、風景や静物撮ってる連中は雪崩を打ってミラーレスに移行するのではないか。
もちろん既存レンズの相互運用性を確保した上でだ。オリンパスは2009年(かな?)にマイクロフォーサーズを打ち出してから2013年にOM-D E-M1を出すまで旧レンズシステムとの相互運用性を確保できず、プロやハイアマチュアユーザーの離反を招いた。それは技術的な問題だったが、今はそうではない。
相互運用性を確保して既存ユーザーを確保すれば、エントリーユーザーはキットレンズさえあれば良く、スムーズな移行が望める。
では問題は早いか遅いかだ。今の寡占状態をギリギリまで維持するというのも一つの選択だろうが、既にオリンパス・パナソニックのマイクロフォーサーズはプロの使用に耐え得るレンズシステムを構築しつつある。富士フィルムは玄人好みのレンズラインナップでマニア層にウケがいい。ソニー…は興味が無いのであまりよく知らない。
ともかく本格的な参入が遅れれば遅れるほど中長期的には不利に働くだろう。
ユーザー利益を考えれば、大メーカーがミラーレスという需要を無視するのは不作為の罪だと言えるのではないか。これから主流を迎えるシステムに大して意図的にそっぽを向いている、と私には見えるのだが。
採用面接官をかれこれ10年くらいやっていて思うが、仮にも就職活動をする学生ならば、社会人メンターを探すべきだと思う。
・A:放流
・B:私はどちらでもいいが、他の面接官が好みなら獲ってもかまわない
・C:獲るに値する
・D:あらゆる手段を講じて獲りにいくべき
という評価をつけることになっている。
ここで重要なのは、たとえAやBクラスの器であっても、かってしったる社会人が手取り足取り(いや手取り口取りか)時間をかけて開発していけば、間違いなくC以上に成長させる自信がある。もう、大人の経験がない学生は、C以上は無理だと言い切ってしまってもかまわない。
メンター相手は、家族ではだめだ。昔からの自分を知っているので、際どいところまで攻めてくれない。倫理的な問題もある。ゼミやサークル、バイト先の先輩でもだめだ。社会人のテクニックと経験は、一味も二味も違う。
「えー。そんな人、どこにもいないよ!」
そんなの分かっている。だからこそ、今からでもいいから、探せ。会社名ではなく、個人名で探し出せ。友人知人のネットワークを駆使し、気になる人を見つけて、メールを打て。学生からメールをもらっていやな気分になる社会人なんていない。よほど有名人で無い限り、会える。勘と思い込みで会社を定め、エントリーし、受験し、落ちる。そんなサイクルをこなすよりは、よっぽど現実的で有意義だ。
「やりたいことがわからない」と悩む学生と、「やりたい」ことがよく分かっている社会人が出会うことこそ、いまの日本の閉塞感を打破する最善かつ最も効果的な方法だと、思う。
それにしても、今日の学生さん、かわいかったな。落としちゃったけど。ん?就活が上手くいかない。を書いたのは、君か?
お礼と機会均等と公平性の話
正直、業種に対して好まれない方も多いかと思っていたので、ここまで肯定的に捉えて頂けて違う意味で勇気を頂きました。
その辺を多くは語りたくないのですが、業界自体は厳しい淘汰が進んでまして、一企業として健全に努力をしないと生き残れない時代に突入していたりして昔とはだいぶ変わってきているというのも事実です。
それでもイメージを大きく変えられないのは他でもない業界の責任なんですけどね。
それとここまで反響を頂けるとは本当に思っていなかったので、他所様の畑に口を出したのは行き過ぎだったと反省しています。
なんというか、惜しいなぁ。そこでこらえて欲しかったなぁ。と思った次第でして、現場の大変さは痛いほど共感いたします。
イベントとかお祭りごとって、やっぱり楽しく終わりたくて、みんなそう思っているのだけどそれに任せていてもうまくいかないのが現実です。
「抜け駆けダメよ。みんなで一緒に楽しみましょう。」っていう思いが運営側にあれば、ルールにもそうした気持ちが表れて参加者にも自ずと伝わっていくんじゃないかなぁと思います。
逆にそういう気持ちがないと、参加者は管理されている感じが強くなって、反抗心や抜け駆けしたい気持ちを刺激してしまうのだと思うんです。
ここに来てメンタルな話をすると拍子抜けかもしれませんが、囚人と看守のような関係性ではなく、おなじお祭りを盛り上げたい仲間という気持ちをもって臨まないと、必ずどこかでほころびが生じてしまうということも経験が教えてくれたことでした。
口を滑らしたついでにコミケの入場にまで言及をしてしまいましたが、これもまた規模の大きさが全くもって想定できていませんでした。
はじめてyoutubeで待機列が移動する様子を見たのですがどうすればあんなことができるのか見当もつきません。まさに驚異的なノウハウの賜物なのだと思います。
少し調べてみた限りではコミケの3日間ののべ参加人数は50万人程度とされていました。
1日で言えば17万人程度となるわけですが、その内のどれくらいが入場待ちを行うのかも見当がつきません。
ただ単に徹夜をなくすという目的であれば、ある程度の時点までに集まっている参加者で抽選を行い、それ以降を先着にするという手段は有効と言えます。
しかしながら、抽選に参加さえすれば早い順番を得ることができる可能性があることで参加者は先着順の場合よりも増えてしまうかもしれません。
ざっと調べてみたところ、始発から朝8時までにゆりかもめとりんかい線が輸送できる最大人数は2万5千人程度でした。(乗車率100%x本数)
そこにさらに車やバイクなどの交通手段を加えた規模となれば、それこそ抽選そのものにかかるコストが膨大なものになってしまうため、とても現実的とはいえそうにありません。
これほどの参加者数ともなると全くもって次元の違う対応が必要になることがよく理解できました。
ということで、せっかく反響もありましたのでイベントにおける機会均等と公平性の話も書き起こしてみたいと思います。
どうしても独学と経験則から成り立っているものなので用語の使い方が間違ってたりしたら指摘していただけると嬉しいです。
はじめに断っておきますが、パチンコ業界でイベントを行なっているなんてけしからんお店は存在しません。そんな話はまったくもってけしからん話です。
機会均等という話を少し掘り下げてみると、つまるところ「期待値と参加コストと参加率」が互いに相関関係にあるという話になります。
この辺の情報が明確にされていることによって参加者は公平性を感じることができ、逆に一部情報が隠されている・後から明るみに出る・人によって優位性があると、参加者は不公平さを感じてしまうようになります。
たまに見られるゲスいイベントなんかでは、期待値を高く参加コストを低く見せることによって参加率をあげようとするのが常套化しています。
いざ参加してみると期待値が全然低い、もしくは参加コストが高いなんてことはよくあることです。
そういうイベントに限って誤解するような表現をしておいて、ウソはついていませんみたいな顔をしている場合がほとんどです。
あまりにミエミエだとせっかくのファンを心底ガッカリさせるであんまり褒められた方法とは思いません。
期待値とは、イベントに参加することによって価値を得られる可能性です。
コミケでいうところの希少本を得られる可能性といったところでしょうか。
参加者は、この2つを計算しながらイベントにどのように関わるかを考えます。
「限定希少本を得るためなら徹夜も辞さない。」「徹夜する時間も覚悟もないので希少本は諦める」
この2つに不公平さをそれほど感じないのは、期待値が参加コストに比例することが理解できているからと言えます。
つまり、人によって得られる期待値が異なるにもかかわらず、そのために高いコストが必要であることを参加者が理解できていることによって、機会均等である=公平であると感じられるようになるわけです。
例えばここで、入場を抽選(可否は問わず)にした場合は当然期待値が下がります。
そうすると徹夜するという参加コストが見合わなくなるため、当然支払う必要性がなくなるわけです。
ただし、参加コストが下がるために単純に参加者が増える可能性があります。「当たればラッキー」ととりあえず参加してみるといった参加者も増えることから、徹夜をなくすことはできても参加者が増えてしまう可能性は十分に考えられます。
こうした参加率をコントロールするための基本的な考え方は、10人でも1000人でも10万人でも同じだと考えています。
この辺を明確にしておくことで得られるメリットは、支払うべき参加コストの判断を参加者側に委ねられるという点にもあります。
期待していたものが得られなかった時、自分がそう判断したのだからと思えることが主催者側にとって大きなリスク回避につながりますす。
ここで大切な要素とは、抽選やイベントに対する参加率はある程度コントロールできるという事実にあります。
「集まってしまうから対処する」ではなくて、「この時間に集まるようにコントロールしよう」「期待値に合わせて参加コストをコントロールすることで分散させよう」ということができるわけです。
つまるところ、失敗してしまったイベントというのは、この期待値と参加コストを見誤ってしまうことで十分な準備ができていない場合がほとんどいうことになります。
某駅100周年でいえば記念カードの価値を低く見積もってしまったことと現地でしか販売しないという参加コストを高く見積もってしまったということであるし、某ソーシャルゲームのイベントでいえばイベントそのものに対するユーザーからの期待値と幕張メッセという立地に対する参加コストをそれぞれ見誤ったことが原因と言えます。
いずれにしても参加率を小さく見積もってしまった(もしくははじめから管理コストが決められていた)がために、管理そのものが崩壊してしまったと言えるわけです。
この辺を加味して考えて見ても、コミケの場合は多くの指摘の通り参加者数が問題になってきます。
例えばオンライン抽選にしてみたとしても、その参加コストの低さから参加率が跳ね上がってしまい、管理することは不可能だといえるでしょう。
そう考えると、恐らくはシビアに順番を気にするであろう1000~5000人程度だけをいかにしてコントロールするかが課題になってくるのかもしれません。
(例)
・整列開始位置を抽選にする
例えば8つ程度整列開始位置を用意しておいて、始発組が到着したのちに正解を発表する。先頭に並んでも全体の先頭になる可能性は1/8となるため、少なくとも徹夜する理由はなくなる。
・始発到着組のみ抽選に参加できるようにする
参加コストが高い分ある程度まで参加者を絞り込めるが、始発電車争奪戦が始発駅で勃発して、徹夜する場所が変るだけの恐れあり。
参加者と同じだけのくじを用意して、そのうち1000番までのアタリと番号なしのハズレをいれて抽選する。
有料に参加したくない人間は1000番以降の入場順に甘んじることになるが、徹夜するメリットは奪うことができる。
1000番というのは暫定だが、この数字と価格設定さえ間違えなければ抽選参加者数と先着組とをうまくわけることができるかもしれない。
ちなみに、抽選から入場までの時間つぶしにおいて近隣店舗への影響などを気にされているコメントもありましたが、数万人が流動的になるということはある意味でビジネスチャンスといえるのでむしろ経済効果のほうが高いのではないかと思います。
と、いずれにしても現状を知らなさ過ぎるせいで素人臭さの抜けない恥ずかしい提案になってしまいました。
書くのをためらったのも事実ですが、この辺をもとに造詣の深い人の間で議論が進んでくれたならいいなぁと思いあえて書いてみることにしました。
どちらかというと蛇足エントリーなので元記事へのトラバは日和りました。
また何かの機会に!
俺は努力したこんなに苦労した苦痛に耐えたんだからもっと評価してくれって
神さまが中央で監視してて褒美のケーキを切り分けてくれるみたいな期待が根底にあるんだろうなあ。
有限のリソース(例えばかわいい処女)を多くの希望者が奪い合うというのは要するに争奪戦で根底にあるのは暴力だし(金も学歴も社会的暴力のためのツールなんだ)、もっとソフティケートしたとしても最低限、争奪戦にエントリーしなきゃ得られるわけがない。
ウェーイやDQNは学歴はないかもしれないけど、そのもっとも基本の部分「闘って勝ち取る」ってことはよく判ってるから、かわいい処女のところへ行って「おれとやらない?」って言うんだよな。その一点だけでも勝利にふさわしいわけで。
もうだいぶ前になるが、Winnyというファイル共有ソフトがネットで話題になったことがあった。
著作権を無視して映画やドラマ、ゲームソフトなどをダウンロードできるということでそのソフトはまたたく間に日本中に普及していった。そういった中、ファイル共有の中でそういった著作物を騙り、実際にダウンロードしてみると実はウイルスでしたー!という現象が徐々に発生していき、最終的に著作権の問題以前にWinnyはインストールを非推奨とするソフトウェアとして認知されていった。
最終的にWinnyの開発者は逮捕された。記憶に残っている人もたくさんおられると思う。
ここで僕が思ったのはなぜ製作者は逮捕されたのだろうということである。
話は少し変わるが、Winnyというソフトウェアは当時技術的にはとても素晴らしい手法を使っていて注目された。当時のファイル共有方法といえば、ファイルサーバーを立ててそこにクライアントでアクセスするという「クライアント&サーバー」が主流だった。その中、Winnyは「ピアツーピア」という技術を使い、サーバーは使わず、PC同士が数珠つなぎのネットワークを形成するという画期的な共有方法をとっていた。
「クライアント&サーバー」タイプでは、サーバーにアクセスするクライアントごとにセッションが形成されるので、基本的に「自分がダウンロードしたファイル」しかキャッシュ(一時ファイル化)されなかった。一度ダウンロードしたことのあるファイルは、前回よりも早くダウンロードできるということである。しかし、Winnyが用いた「ピアツーピア」方式はPC同士が数珠つなぎでネットワークを形成しているため、自分以外の人がダウンロードしたファイルのキャッシュを利用して高速なダウンロードをすることができた。
これを例えばTSUTAYAのようなレンタルDVDショップに置き換えて説明すると少しわかりやすくなるかもしれない。
「クライアント&サーバー」タイプのものは、自分が例えばエヴァのDVDが見たい!と思ったら、そのままTSUTAYAに行って借りる方法である。行くところは全国に展開されている店舗ではあるが、基本的にTSUTAYAという屋号の店に行かなければならない。たまたま近所に店があるなら得ではあるが、もし車で行かないといけないような田舎に住んでいる人はちょっと行くのが大変になる。
これに対して、「ピアツーピア」タイプのものはエヴァのDVDが見たい!と思ったら、TSUTAYAには行かずに「自分の家の近所にエヴァのDVDを持っている人がいないか探す方法」である。家があれば、とりあえず候補になる。運良く持っている人がいれば、TSUTAYAに行かずともDVDを見ることができる。
さらにこの手法のいいところは、例えばそのDVDが発売されたばかりとかテレビで話題になったりとかで多くの人が借りていた場合である。「クライアント&サーバー」タイプだと、借りる人が多いほど貸し出し中のDVDが多いことになりなかなか借りるのに苦労する。対して「ピアツーピア」タイプの場合だと、人気なんだから近所の家で持ってる人がいる確率が上がり、結果的に借りれる可能性がアップするのである。
「ピアツーピア」自体の技術は古くから存在していたが、これをファイル共有の手法として利用したのが画期的であり、ネットユーザーは感心した。しかし、これは逆にファイルの共有が蔓延しやすくなることを孕んでおり、なおかつサーバーがないのでアクセスログが残らず、パケットの流れを解析するのが少し大変になる(無理になるわけではない)。
結果的にWinnyは様々なウイルスをネットワークにばら撒く媒介になってしまった。
なおかつ、一度ネットワークに流れたデータを回収するのが困難になり、著作物をタダで手に入れられる環境が出来上がってしまったのである。
話を本題に戻すが、この一連の事件で「悪いのは一体誰か?」という疑問が残る。結果的には開発者は逮捕されてしまった。だが、このソフトウェアは使ってはいけない危険なソフトなのだろうか。使い方を誤れば、確かに危険なツールであることは間違いないのであるが、これは包丁などと似ていて、使い方を間違えなければとても良いツールである。包丁は料理に欠かせない、料理人の商売道具であると同時に、人に対して使えば簡単に殺すことも出来てしまう凶器にもなる。勿論、ツールを生み出した人間はどのように使うのが正しい方法で、どのように使うのが間違った方法なのか、説明する責任はある。それを怠ってはいけない。が、最終的には使用者がどう使うか、といったところに照準が向くべきだと思う。
最近の世の中では、何か事件が起こったら(偉い人たちの都合が悪くならない物は)すぐにそれを規制しようという動きが起こる。
格闘ゲームをやっていた人間が人を殺してしまえば、ゲームのせいにされる。
少々残酷な描写があるアニメを見た人間が事件を起こせば、そのアニメのせいにされる。
ドローンを使って危険物を首相官邸に持ち込んだ人間がいたら、ドローンのせいにされる。
ファイル共有している人間が著作権違反を起こせば、共有ソフトのせいにされる。
大事なのは正しい知識をつけることであり、物事を判断できるように教えることなんじゃないのかと思う。ゲームやアニメのせいにしてる大人たちを見ると、
「我々は子どもたちにテレビやゲームと現実は違うんだよという教育すらすることができないので、もういっそテレビやゲームのせいにしてしまったほうが教育を放棄できて楽」
と言っているように見えてしまう。
勿論、場合によってはそのものを規制することが良い場合もあるかもしれないが、最初からそう決めつけるのは違うように思う。
我が国では、飲酒運転を起こすと罰せられるのは「運転者」である。お酒の販売者や製造者が逮捕されることはない。これって当たり前なんじゃないかと思う。だって悪いのはお酒ではなく、お酒を飲んでいるのにも関わらず「運転しちゃえ」と軽はずみに思った人間だからだ。だから司法は運転者を罰し、本人だけでなく世の中の人たちに教育することで再発を防ぐ。
きっと、お酒を規制しよう!ってなったら全国の関係各所の大人たちが次々に反対するだろう。
僕はこの反対勢力が少ないもの(例えばアニメとかファイル共有ソフトとか)が、規制される対象になるんじゃないか、と最近思う。ようは大人の都合が悪いものは規制されず、大して影響がないものは「規制しちゃえ!」ってなるんじゃないかと。
世知辛い世の中だ。
追記:
みなさんこんなエントリーに多数のご意見ありがとうございます。ご指摘や批判のコメント一つずつ目を通してます。
まず、自分は増田にエントリーを書くのが今回はじめてで、自分の文章能力の低さを反省してます。すみません。
と同時にもうちょっと調べてから書けばよかったと思いました。
自分の中にある「知識」と「思い」だけで勢いに任せて書いた結果、
みなさんが読んだら「いやいやいや、なんでお前そんな無知なんだ」
人の話をする前に、まず自分の教養をつけろよって話ですね。
たくさんコメント頂いてありがとうございます。
勉強し直すいい機会になりました。
「Winnyは良かったよね」とか「ファイル共有ソフトの良さを考えよう!」
いう話ではありません。何かしらのツールを使った事件が起きた時に、
まず問題にするべきはその「ツール」ではなく、それを使っていた人の
罪や良識を問うべきではないか、と言いたかったのです。
教育をしていれば未然に防げたのではないかということです。
我々人間は愚かな部分も多分にあるかもしれませんが、
考えて、理解することができる生き物です。
その考えて、理解する努力を怠ることが
そもそも愚かなのではないかと思っているわけです。
(ちょといい方が飛躍しているかもしれません)
ただ、自分の文章を読み返してみると、勘違いを生む書き方をしてるように感じられるのは事実です。
もう少し、文章の書き方を考えようと思いました。
少なくとも、通信技術の話に触れる必要はなかったかと思っています。
僕の中でももう一度考えなおすいい機会になっています。
随時追加いければと思います。
・Winnyの良さを再考したいならなんで挙げる例がアウトなものなのか。包丁は規制を越える刃渡りの物は製造も所持も共に違法。
→確かに例えが適してなかったかもしれません。ただ、銃刀法に則って許可を得た人・企業なら問題ないかと思います。
これは、「扱う資格のある(=正しい使い方と危険性などのリスクを理解している)人間に対してだったら問題ありませんよ」
ということなので、正しく扱えるのであれば問題ないのではないかと思っています。
→たとえ無罪を勝ち取ったとしても、警察に逮捕され検察に起訴された時点で
法律に違法性があると判断されたわけです。社会的にも悪だという烙印を押されてしまったわけです。
逮捕された時点でその人の人生に影響が出てしまうのは事実です。無罪だったから問題ない、
とは思ってはいません
・ BitTorrent は使われているじゃないか
→仰るとおりです。自分も存じております。ピアツーピアの技術は今も生きています。
自分はLinuxのディストリビューションをよくダウンロードするのでFTPの回線が遅い時は使うこともあります。
僕は上記でも述べましたが、ピアツーピアについてもう一度考えよう!といった思いで書いたわけではないので
BitTorrentを無視したりする意図はありませんでした。申し訳ございません。
・あとネットランナーみたいな割れをコンビニの本棚に引っ張りだした幇助メディアも裁かれるべき
→たしかにこれは自分も思います。世の中で違法行為を推奨する(かのように勘違いさせる)行為があれば、
罪の意識が生まれずに過ちを犯す可能性は高まってしまうかもしれません。
・世の中には、銃を作る企業を「軍需産業だ」「死の商人だ」と糾弾し、そこに勤める人を「人殺し」と石を投げつける「自称・平和主義者」が大勢いる
→兵器は争いの道具である以上、人を殺す目的で使われますよね。そこに使う意志があろうがなかろうが、存在するだけで叩かれます。
一方、企業が存在するということは需要があるということです。戦争があるから兵器が作られるのか、兵器があるから戦争が起こるのか。
なかなか難しい問題ではあります。自分もこの戦争という件に関しては簡単に答えを出せない気がしています。
ただ、その石を投げる人たちには、たとえ兵器が存在しても使う人間がいなければ被害は起きないということを言いたいですよね。
・金子さんは無罪だったけど、ああいう見せしめ逮捕って中世っぽいよなぁ
→彼が見せしめで逮捕されたかどうかはわかりませんが、ソフトの開発者が逮捕されたのは確か初めてのケースだったと思います。
・君子危うきに近寄らず?
→それもひとつの方法だと思います。ただ、近寄らないとその物事の輪郭しかわからず、本質をしるためには、
やはり理解をする必要があると思っています。
・包丁は、100人が使って98人が人を刺したりしない。Winnyは、100人が使って98人は著作権侵害してた。包丁は殺人目的で作られていない。Winnyは開発者の発言から明らかなように著作権侵害目的で作られてる
→これは確かに仰るとおりかもしれません。開発者が明らかな悪意をもっていたかどうかで、この事件は意味が変わってくると思います。
そう思うと自分の考えは浅はかだったのかもしれません。
→確かにその一面は大きかったかもしれません。しかし、負荷分散やパケットの共有という面もあったのは事実だと思います。
・包丁との違いは「便利なんだけどあまりにも悪用しやすすぎて、そっちが目的で作られたんじゃないかと邪推せざるを得ない」というあたりか。焼肉屋でこっそり出てくる「焼いて食べる用の生レバー」みたいな
→そのたとえ、的を得ているかもしれません。確かに、ツールの見方がそう捉えざるを得ない場合はツールそのものに何かしらの規制をかける必要があると思います。
同時に、邪推しないようなツールの布教をする方法も考える必要があると思っています。
・最近は運転者に酒を提供した店側も罰せられるようになってなかったっけ
→はい、そのとおりです。ですが、それは運転する可能性を理解していたにもかかわらず提供した場合であって、
その店が業務として酒類を提供している事自体が罪に問われるわけではありません。
・人を最も殺しているのはゲームでもアニメでもなく銃と酒である。真っ先に規制すべき。
→そのように決めつける前に、正しい使い方や考え方を広めていくことが大事だと言いたいわけです。
・もうそれ10年前に語り尽くされてると思う
→すみません。そうです。何番煎じかわかりません。でもふと思ったので書いてみました。
・p2pで共有したいデータが違法なもんしかないんでないかい?
→確かに。一理ありますね。利用者がそのツールを利用しようと思うきっかけを多分にはらんでいるのは事実です。
しかし、それをすることが犯罪だ、という意識を根付かせることができれば、防げる可能性もあります。
もちろん、理想論なのはわかっています。でもその理想論にチャレンジしてほしいと思ってしまうのです。
・懐かしい話題の割に論点が無茶苦茶。お酒を勝手に自宅で作ることが禁じられているけれど、Winnyはさらにたちが悪いから規制されて当然
→すみません。論点が不明瞭な文章を書いたのは自分の責任です。
お酒の作成は禁じられてはいますが、認可を受けた企業は製造を許されてしています。
正しい扱い方を理解し、注意している人間は何も問題ないのではないかと思います。
Winnyも、正しい扱い方を理解できている人間が使用すれば、規制される必要もないと思います。
・開発者がWinMXなど目指して2chねらー向けとして提供したものだったんだから、包丁を料理人じゃなくてヤクザ集団に優先的に提供したものだとは思うよ。有罪か無罪かはともかく、P2Pの評判はそりゃ地に落ちるよなあと。
→それは確かに・・・。おっしゃる通りかもしれません。技術自体に悪はないものの、元から悪としてしようする目的が開発時にあれば、
開発者は罪を犯していると考えられます。罰せられるべきですね。勉強不足でした。
ただこの場合、一方でヤクザを料理人に変える動きも大事ではないかと思います。
・それはそうと、ピア・ツー・ピア方式で共有したいコンテンツで著作権からまないものなんてあるのー?社内だと共有フォルダやクラウドで充分だし。
→今でこそ、通信速度が早くなってきてはいますが、当時はまだ早いと言ってもADSL程度。その細い回線の中で、どれだけ効率的にファイルを共有するか、
といった方向で考えられたのがあのツールなのではないかと思っています。確かに、今の世の中だとクラウドサービスを活用することで
合法にファイル共有する方法は、安全で敷居も低い行為だと思われます。
・当時適法前提だと不特定多数で巨大なファイルを効率的に共有するって需要自体が少なかったんだよね。無償OS配布とかくらい?
→そうですね。あとは再配布可能ののゲームソフトとかでしょうか。
・守りたいものがある時は天下りをご活用くださいというエコシステム
→社会を変えようと思ったら、現実問題として意見を主張するだけではダメだということですよね。肝に銘じます。
・「銃を作る企業に罪はない!」がスターを集めるとは。。なんともナイーブ
→そう言われると、確かに自分の中でも少し考えなければいけないなと思います。
・10年以上前からある議論がなぜ急に
・Winnyを包丁に例える人が居るけど、これは違法DL用に作成されたソフト(2chのDL板発)であるため、単純所有が違法な日本刀などに例えるべき案件なのだ
→なるほど。助言ありがとうございます。つまり、日本刀を簡単に集められる闇市場が手の届くところに存在していたしたことにも問題があるのではないかということですよね。
・WinnyはWinMXという違法なファイル共有が蔓延していたアプリからつけられた名前ですよ。つまり作者ははじめからP2Pによって違法なファイル共有がされることを認識した上で開発していたのです。
→やはりそこが論点になってきますよね。作者に悪意があれば、たしかにそれは罪ですね。同時に、使用者が違法である認識を持っていないとさらに自体は悪くなりますものね。
・高校生の作文のようなひどい文章
→たしかにそれはひとつの方法としてありだと思います。正しい使い方をする分には自由に使ってもいいが、
違法な使い方をすると注意を促し未然に防止する。ツールを使いながら、犯罪の防止と法律の啓蒙ができるわけですね。
・なんか、最後の方は割ともっともなことを言おうとしてるんだけど、真ん中あたりのたとえで台無しもいいところだな
→それ自分でも読み返して思いました。ちょっと脇道にそれすぎたと反省しています。
・社会構造として、新しいテクノロジーについていけないおじいちゃんたちが世の中決めてるから仕方ない
→だからこそ、我々は進化したテクノロジーを理解してもらうように努める必要もあると思っています。
・長さの割に薄い。事故を誘発しやすい道具・コントロール不能なインフラの流通は立派な罪だし、”犯罪や事故を設計で防止せよ”は十分エキサイティングなチャレンジ。そもWinny自体は規制されてないだろ。
→薄い文章ですみません。文章を書くときは今後注意します。確かに、リスクを考えるとそのものを規制するほうがコストは安いと思うんですよね。
でもそれを繰り返してしまうとどんどん我々は馬鹿になっていくような気がしてるんです。思考停止に陥るといいいますか。
規制されてる、されてない、ではなく、規制しようという動きをするまえに他にやり方がないかを考えることも大事だと思います。
その結果、やはりそのものを規制するやり方を取らざるをえない場合は、致し方無いと思っています。
・もう少し大人になって世の中を広く見て、モノゴトの進め方っていうのを学べばいいと思う
→そ
先にはてなブログを登録していたものの鳴かず飛ばずで、なんとなくはてなブックマークも始めて、なんとなく匿名ダイアリーを覗くようになっていた。
アノニマスダイアリーだから増田と呼ぶのだということすら、当時はまだ知らずにいた。
好き勝手なことばかり書いてあるみたいで、なんとなく、自由がここにあるような気がした。
ブクマがついた。
嬉しかった。
それから、日常のどうということない思いつきや、過去のあんなことこんなことを少しばかり脚色して書き込んだ。
ブクマがつかないこともあるけれど、それなりにたくさんのブクマをつけてもらえることもあった。
調子に乗った。
実体験であること、日記であることを心掛けていたつもりだったけど、少しずつ箍が外れてきた。
できるだけおもしろくなるように、できるだけ共感してもらえるように。
時には煽るように。時には見下すように。
こういうエントリーはあの人なら好きなんじゃないかな。
こういう変化球はどうだろう。
自分の日記、記録として書き始めたはずが、いつしか、ブクマカの人たちにいかにしてブクマしてもらうか、という目的意識に変化していた。
怖くなった。
「はてな匿名ダイアリー」には、無数の、多様なエントリーが並んでいる。
私のエントリーもその中に溶け込んでいる。
もはや私が書いたものか、他の誰かが書いたのか、見分けがつかない。
私が書いたわけでもないのに自分が書いたように錯覚することもあれば、
自分が書いたエントリーでも自分が書いたという実感がないものもある。
私の日記の一覧を見ることもできるけれども、本当に私が書いたものなのかあやふやな文字列ばかりがずらずらと並んでいる。
時に夫であり、時に妻であり、時に上司であり、時に部下であり。
私が増田になってゆく。