何度でも言う。地域の絆と犯罪にはなんの関係もない反社会学講座ブログ http://pmazzarino.blog.fc2.com/blog-entry-188.html
寝屋川の中学生殺人事件について、「「地域の絆がうんぬん」とかいうおためごかしを抜かすんじゃねーぞ、地域は十分に安全に配慮していたがそれでもアクシデントはあるんだから」というブログエントリー。
はてブを見ると、主に前半が注目されているようだけど、個人的には後半の論旨のほうが気になる。というか、ずっと考えている話。
ゼロリスクがありえないという前提に立てば、必要な安全性と利便性、コストとを天秤にかけて最適の資源配置を実現せよということになる。ただ最適の資源配置であってもアクシデントは起きるわけで、感情的にコストを投入すれば資源配置は最適なものではなくなってしまいむしろ安全は劣化する。資源配置が最適なものだったかという検証はもちろん必要だが、確認された場合にはアクシデントがあったとしても現状維持、何も間違っていなかったと考えることが正しいわけだ。
だが、正しい選択をしていたのに「不条理」にアクシデントが起きる、人が死ぬということに人間はなかなか耐えられそうにない。いや、それを受け入れるための仕組みとして宗教というのがあり、「人間には計り知れない神の御心なんやで、しゃーない」と納得するようになっていたはずだが、現代のぼくらはいかにして「不条理」を受け入れるのか。まあ受け入れられないから、わかりやすい悪人や失敗を見つけることになるのだろう。
とここまで書くと、若い頃に読んだ宮台真司の影響をばりばり受けているのがばればれで恥ずかしいのだが、自分の母の介護をしていてどうにか助かる道がないか考えていた時も、あるいはわかりやすい悪人をぶったたいて気勢を上げている活動家・ネット民のみなさんを見る時も、やっぱりこのことを考えてしまったり。