はてなキーワード: 葬儀屋とは
今だからこそ伝えたいことがあるので、ここに記す。
他社に依頼した場合も、だいたいこのくらい。
東京―名古屋間で搬送したとすると、17万円くらいかかる感じ。
身内が遠くで亡くなって運ばなければならない場合の、料金の参考にして欲しい。
訃報を受けた際、通夜・火葬・葬儀のどこに参列するかは地域差が多い。
どのタイミングで参列するにしても、開始時刻より10分くらい前に会場に到着して記帳を済ませて欲しい。
待つの面倒だし直前に着いてもいいのではないかと思うかもしれない。
しかし、参列者の多くがそのような考えだと、開式直前に記帳所に人が殺到してパンクする。
その結果、進行が遅れることもありうる。
ただでさえ悲しみの中で次々と意思決定をして儀式を行わねばならないご遺族、中には進行が遅れたことが大きな心理的負担になる方もいらっしゃる。
早めの行動は、ご遺族への心遣いにもなります。いつもより気持ち早めに行動するようにお願いします。
身内でもない、知人程度のの葬儀にほんの1時間ほど参列するくらいでいちいちネイルまで落としてられないだろう。
そういう場合、黒で手にフィットするタイプのレースの手袋を装着すると、爪が目立たなくてスマートだ。
一双用意しておくとよいのではないかと思う。
昨年、2度目の流産をした。
ショックだったけど、妊娠して間もない頃で、正直子供の形なんてないし、
体もまだ変わり始めだったので、回復も早かった。
22週以降は、基本的に中絶も禁止。早期でも出産し生きている人も沢山いる。
一般的に15週から安定期に入る時期だったが、私の場合はひたすら辛いまま終わった。
12週以降は、出産と同じ手順で死んだものを生まないといけない。
お金も同じようにかかる。死んでるから、死産届も出さないといけない。火葬も必要。
誰にも祝福されなくて、痛みとダメージだけで何も残らない。
そんなこと、どこ調べてもあまり出てこなくて、実際はショックばかり。
そもそも誰もしらないし、経験者は辛くて思い出したくないことだからなのかもしれないけど。
無理しすぎは禁物だが、どうか妊娠中の人は自分を責めないでほしい。
私は、義母に無理しすぎたから流産したんだとか、職場で唯一相談せざるを得なかった子育て中の人に後悔するから休んだ方がいいと言われたけれど、正直傷ついただけ。
実際、流産後に遺伝子検査して、胎児側の原因であることが判明した。
そもそも歳をとるとそういう確率がぐんと上がるのは承知のこと。
色んな理由はあれど、自己責任だし、そうなってしまった以上時間は戻せないし、不運としか言いようのないことで、現実の運命を受け入れるしかない。
だから、周りの人は、安易に自分の意見を押し付けるのは気を付けてほしい。
9~10週頃に、出産する病院を決めて近所に移った。そこで育ちが悪いと言われる。
年齢的に心配だったこともあり、胎児専門の病院にも行って、似たようなことを言われた。
トリソミーなどでよくある形状の異常は見られないけれど、小さいと。
(首の付け根の厚みなどで、その兆候が初期に出たりする)
原因不明で、あまり見ない症例だということで、そこにはその後も何度も通った。
毎日毎日しんどすぎて、びっくりであった。ホルモンバランスの変化のきつさ。
口にするにも、ジュース飲みたくなったり、パスタ食べたくなったり、偏食になってしまった。
妊婦は生ものNG。ってことで、気を使うと食べられるもんが少ない。
<血流1.5倍>
血流が1.5倍になるって知ってた?妊娠してから知ったんだけど、1.5倍って!マジきつい。
例の胎嚢で栄養やっているうちはいいんだけど、胎盤ができてきて子供とつながっていき、血液から栄養送らないといけなくなる。
それは知識では知ってるけど、こんなに母体に負荷がかかるとは。身を持って実感した。
まず階段しんどすぎて、登れない。いつもさっさと歩いていた坂だって、途中休み休み。
電車もバスも立つのは本当にきつくて、息切れして心臓バクバク。人混みもすぐ酔うし、休み休み。
<頻尿>
お腹が大きくなるにつれ、それはそれは頻尿で参った。打ち合わせなどで事前に行っても、終わる頃にはギリギリ。客先などで苦労した。
<免疫低下と持病いろいろ>
赤ちゃんを異物とみなさないよう、妊婦は免疫が低下するらしい。知らなかった、、、、
だから、何年かに一度、弱っているときになるような病気がいっぺんにきた。
むせ返る止められない咳がきつくて、お腹にも力入るし、ハラハラだった。
それによりヘルニアが再発して、咳すると激痛走って痛い痛い。
さらにお腹がくるしくて前屈みになるから、腰が痛い。ヘルニアがいっそうきつくなる。
肌の痒みもすごくて、寝ているときに掻きむしってしまい手足がボロボロに。血だらけ。
目は結膜炎やらものもらいやらを左右繰り返し、まぶたの痒みはまだ残っている。
<不眠>
体調が悪くて寝付けなかったり、夜中に起きてしまって苦しくてもがいたり。
とにかく夜中に睡眠から覚めるのが毎日で、しんどすぎた。トイレも近いので夜中に何度も。
夜中に目が覚めてしまうと、色んな不安が吹き出すのも困った。このときスマホは悪の味方。
病院で言われたことや、言われなかったことや、とにかく育ちが悪かったせいもあって色々調べてしまった。
<むくみ>
色々辛かったけど、一番はこれかも。
もともと浮腫みやすい体質なんだけど、無理をするとお腹がパンパンに張ってしまい苦しくて気持ち悪くて動けなくなる。
職場ではヘルニアが出てしまい、と誤魔化していたが本当に辛かった。(実際それも出ていた)
下痢や便秘なども色々あったけど、上記色々が辛すぎたので記憶から薄れている。
つわりの気持ち悪さと、お腹が張って気持ち悪いのと。数ヶ月ほとんどずっと。
仕事もあるから寝ているわけにもいかないし、どうにもこうにも辛かった。
仕事は人に任せられないものも多く、立場的なこともあり部下の手前、がっつり働いていた。
頭の回転も悪いし、パフォーマンス落ちていたと思うが、何せ流産するかもしれないから妊娠も伝えられないため、頑張るしかなかった。
義父義母は近くに住んでいることもあり、夫経由で伝わってしまい、何度かお食事などもした。
自分の親は、少し離れていることもあり、育ちが不安定と言われている以上、言うに言えず。
流産の時は、母が子宮一部摘出手術になってると聞き、自分のことは言えず仕舞いになってしまった。
まだ伝えられていない。
いや、一応、ゆっくりとは育っていた。けれど、一般的な胎児成長曲線からは外れてしまっていた。
1W遅れくらいの大きさだ、と言われていたものが、14~15週にはそれ以上の開きが出てしまっていた。
普通だったら安定期に入るころ。一番楽しい時よと言われていたころ。
知らないことばかりだが、妊娠初期からこの辺までの成長ペースは、どんな人も大差ないらしい。大きさに差が出るのは、もっと何ヶ月も経ってから。
ネットで調べても、生理日や受精着床日が曖昧であることによる妊娠週数のずれ、というのがよくある話らしいが、こちらは不妊治療で病院に通っての妊娠なので、ずれはない。
病院では二箇所とも、原因不明と言われていた。胎児専門の病院では、万が一このまま育っても、低体重で生まれたり、障害を負うリスクが高いと言われた。
中絶も勧められた。産むとしても、NICUなど施設が整っているところでないとまずNGだとも言われた。
2人目、3人目だったら諦めたかもしれないけど、私には諦められず、悩む日々。
親から1本ずつもらって2本のペアになった遺伝子は、全部で22対に加えてXYの46本。
数が欠けても多くてもだめなこと。数が合っていても、どれか1本でも短かったり欠けていても駄目なこと。
例えばダウン症は21トリソミー、21番目の染色体が3本あることで起こる、一般的な障害だ。
私の胎児は結果として6番目の染色体が少しだけ欠けていたことが、死後の精密検査でわかった。
話を戻す。中絶する?しない?など悩みながらも、22週を越えれば出産している人も世の中にはいて、育っている人もいるという希望のもと、胎児がまだ生きたいと育つのなら、覚悟を持って産む選択をしたいとも考えていた。
しかし、育ちが悪いと言うことは、低体重児以前にそもそもまだ外では生きていけない大きさなわけで。
いずれにしてもリスクがあるので、紹介された病院に一時変えることになり、初診察の矢先。
こうなることも想定内ではあったんだけど。やっぱりショックで。わかりました、と言って涙を堪えるのがやっとだった。
夫はずっと仕事で忙しく、やっと同行してもらえたんだけど、動いている様子を一緒に見ることはなく終わった。(その前に録画した映像は見せたけど。)
超音波検査の後に、別の部屋で、今後について話があった。
頭ではわかっていて、話もちゃんと聞いているんだけど、目からは涙がぼろぼろ止まらなかった。
すぐに処置したほうがいいということだったんだけど、仕事があったり、先生の予定が合わなかったりで、入院は10日以上先になってしまった。
体がなぜか楽になった矢先だったので、やっぱりそういうことなんだ、と思った。
妊娠19週。5ヶ月が終わる頃。
初期の流産の時は、静脈麻酔で寝ている間に掻き出されて終わった。
1日の入院なので、日帰り。
鈍痛はあったけど、お腹も大きくなっていないし、なんてことなかった。
だから、分娩なの。
キラキラしたし新米ママのいる場所で、新生児の声が聞こえる場所で、自分は死と向き合う。
そんなところで、陣痛を起こして、産まないといけない。死んでるのに。
生まれてくるものでないものを生むように仕向けるわけだから、前段階の処理もきつい。
お金も、出産と一緒の金額がっつりかかる。もう生きてないのに…
初期流産と違って、この数ヶ月、育っていたことを実感していて、胎動と思われるようなものも感じていて、一人じゃない日々を過ごしていたから、本当にショックで。
理不尽に酷い仕打ちに、痛みも恐怖もすごいし、辛すぎて、前世で何か悪いことしたのかな?と思ったりもした。
<入院1日目>
朝から荷物持って入院先へ。当初は個室なんて贅沢言ってられないと思っていた。
聞くと、普通に出産する、し終えた、お母さん方と一緒だという。
赤ちゃんは別部屋だが、見ることもあるという。
個室は高すぎるので、せめて1日1万少々プラスの2人部屋を希望。
他の妊婦がいつ入るかはわからないが、幸い今日はいないと言う。
2人部屋へ案内され、奥のベッドで荷物を整え、1日目の処置へ。
子宮口を広げる処置。何か棒を何棒も入れられて。そのままにされるので、痛いったら。
体が拒絶しているんだろうか。
この時から基本的にずっと点滴。この日は栄養や水分を入れるため、その後は薬を入れるなど。手が穴と痣だらけに。
<入院2日目>
しかしこれが、意識が完全に落ちず、悪趣味な映画みたいな幻覚が見えて辛すぎた。
吐くのはおさまってきたけど痛みがずっとあって寝てるしかない。寝てても辛い。
翌日の処置も怖くて寝るに寝れない。
<入院3日目>
分娩台へ移動。なぜか色んな不安とか悲しみとか?で涙がボロボロ出てしまった。
猫のように丸まるように言われる。
背骨横に刺して麻酔を入れるんだけど、ヘルニアせいかうまく入らず、激痛。全身ビックン!!てなるくらいの痛み。
位置を変えてもらい、3~4回目でなんとか成功。仰向けになる。
陣痛の促進はどうやったか忘れたけど、麻酔が切れたあたりで周りに誰もいなくて、言うに言えず結局30分くらい陣痛くらってたのが辛かった。
ずーーーーーんという痛みの大きな波が、やってきては引いていきまた来る〜!というのを繰り返していた。
これが陣痛か、、、と思った。
やっと先生が見に来て、もうきてるね、となって、掻き出されると言うか引っ張り出されると言うか。
どろどろにゅるにゅるしたあったかいものが出て行き、どうやら出産したようだった。時間を記録される。
残りのものを掻き出す処理。これをきちんとしないと、後々いけないらしい。
その後、意識は戻ったものの体がまだちゃんと動かないため、ナースセンター裏あたりで寝かされることしばらく。
やっと昼すぎに、自分のベッドへ戻る。
あらかじめどうするか聞かれるんだけど、長く死んだままお腹に起きっぱなしだったし、そもそも未成熟な状態かつ人間の死体は、見てしまったらそれが呪いのように忘れられなくなりそうで、怖かった。
でも、ごめんね、って気持ちは今もあって、向き合えなかったことも、やっぱり辛い。
子供の名前は?火葬場はどこにるすか?火葬はいつにするか?遺体はいつ運ぶか?立ち会うか?骨壺はこれでいいか?一緒に入れたいものはないか?お骨は引き取らなくていいか?
などなど。
まだ出産直後でぐったりしていて、恐怖と痛みの感覚が残る茫然自失のところ、言われる。
名前なんてないよ!色々考えてたけどないよそんなの!入れるものだって、その子のためになんか用意したら思い出や思い入れ増えてもっと辛くなるじゃん!だから用意なんてできなかったよ!
そんな色んな気持ちがぐちゃぐちゃにあるんだけど冷静に言葉にできないから、涙がぼろぼろでて、たった一言ずつ、「ないです」とか、用件だけ答えるのがやっとだった。葬儀屋さんも別に悪気あってでもなく、人の良さそうなおじさんで、一緒に涙されてしまって、仕事だから必要なこと聞いてるのわかるんだけど、でもこの仕打ちは、死産後直後の女性には辛すぎる。
市町村への提出、代理で行ってもらうようにはしたんだけど、そもそもこれなんとかならないのだろうか。
若くて可愛らしい、女の子らしい妊婦が、夫に甘えながらやってきた。
夫は、夜八時の面会時間MAXまでいて、翌日も朝からきていた。
赤ちゃんの心音チェックや、夫へ甘えられる状況、すべてが羨ましく見えて辛かった。
<4日目、退院>
朝事務が動き出したら手続きしてすぐ出た。休み休み帰り、自宅で仕事など少々。
夫は仕事で忙しいこともあって、自分もそっちを優先すべきだと思い、死産のためにわざわざ来てもらうこともないと一人で頑張ったけど、これを見た男性は、女性が遠慮してもぜひ付き添ってあげてほしい。精神的にも、入院荷物運びで体力的にも、きつい。
帰路は、お腹の中が空っぽになり、心も何か穴が開いたような気持ちだった。
ただ、疲れやすくて夕方にはぐったりする日々はしばらく続いた。
何せホルモンバランスが一気に戻ろうとするため、なんか色々ぐったり。
骨盤や内臓の位置?もきっと戻ろうとしていたんだろう。なんかあちこち痛かった。
妊娠中運動もまともにできない辛さだったので筋力も体力もぐんと落ちてしまった。
一週間はほんとぐったりしていて、夜もすぐ寝て休みも寝ていた。
二週間目くらいから、アルコールも美味しいと思えるようになって、仕事外で人とも会えるくらいになっていった。
階段や坂も、徐々に登れるようになった。
しかし骨盤のあたりが痛い、というのはしばらく続いた。1ヶ月以上。
休み休み動いていたせいで驚くほど下がっていたヒップも、日常生活で2ヶ月後には大分戻ってきた。
<安置されたお寺へ>
1ヶ月半ほどして、お骨があるお寺に顔を出した。やや緊張しつつ。
本当は行かないつもりでいたけれど、それではあまりにも可哀想だと思って。
夫と一緒に足を運んだ小さなお寺では、本堂の仏さんの横らへんに、大切そうに小さな骨壺たちが沢山並んでいた。お人形やらぬいぐるみやらと一緒に。
それを見たら、涙が出た。手を合わせる。
家に引き取られなかったものたちを、大事に祀ってくれていたお寺に感謝の気持ちしかなかった。
天国でお友達ができてるといいな。ここでは1〜2年安置していただいたあと、供養となる。
結果が出るまで1ヶ月以上かかった。
結果、6番目の遺伝子がほんの少しだけ欠けていたそうだ。
身体形状の異常は全くなく、指先も鼻も、内臓も、体はきれいに作られていたのにな。
結局、今回の入院だけで全部で100万以上。入院費や葬儀屋代、無痛分娩や、染色体の遺伝子精密検査も含んで。
出産一時金で40万ほど戻ったけど、それでも痛い出費となった。それ以外に、事前に検査も色々したし事後も病院に数回通った。
これを書いてみたら色々思い出して涙が出た。普段もふと、思い出して一人涙が出るときもある。
何も残らなかったけど、経産婦になってしまい、心も体もめっちゃ痛めた。
友達の幸せそうな出産記録や子育て記録などを見かけると、ああ、あの子も同級生になるはずだったんだよなあ、と、思ったりする。
まずぜひ、みんな妊婦には優しくしてあげてほしい。
席を譲られたことはほぼなく、幸い座れた時に妊婦マークをつけておくことで高齢者の譲ってくれアピールには効果ありだった。
おばさんが譲ってくれたことが2回ある。流産しそうだったし、殆ど誰にも打ち明けられない状態だったから、妊婦として優しくされたことに、泣きそうになってしまった。
お腹大きく見えない頃こそ、心身共にしんどかったりする。男性が譲ってくれたことはない。
無事出産した人は、どんなに辛くても、そこまでいけなかった人もいることを知っておいてほしい。
本当に意味不明に辛くて、本人も理解できない状態だったりするから、一番近くにいる人が、一番大切にしてあげてほしい。
過剰なくらいで丁度いいし、どんな用事よりも優先してなるべく付き添ってあげてほしい。
最後に、お金めちゃちゃかかることや、精神的にも身体的にもダメージ大きいことが、誰にも知られず女性一人辛い思いして終わっている事実が、もう少し何とかなっていったらいいなと思う。
悩んでいる妊婦は、どう転んでも現実は一つだから、勇気持って受け入れて、前向きに生きてほしい。
体調悪いのしんどいと思うけど、頑張って。
自分の部屋の隣は父親の部屋で、鬱で療養中の父親は眠っていない限りおかえり。と笑顔で言ってくれた。
この日は何も言ってこなかった。
父親が大好きだった私は、何も言われない日はきまってドアの下の隙間をのぞき、部屋が暗いこと(当時の私の思考は部屋が暗い=寝ているだった)を確認した。
夕日がさしていたので真っ暗ではなかったが、薄暗かったので寝ているだろうと思い、そっとその場を離れた。
しびれを切らした母親が起こしに行ったが、帰ってこなかった。
母親の叫び声が響き、一緒に住んでいた母方の祖母、祖父が二階へと駆け上がっていった。
一人置いていじゃれ戸惑う私に祖母は、
「お父さんもうだめかもしれない。目が真っ赤なの。」
そう言って慌ただしくまた二階へと駆けていった。
父親は首をつって死んでいた。
その後は何が何やらわからぬまま警察や消防が来て、葬儀屋が来て、親戚が来て、
よくわからないまま終わっていった。
なぜか棺の前で親戚にピースをさせられ写真を撮られたことと、怖くて骨が拾えなかったことはよく覚えている。
しばらくしてから遺品を整理し始めた。
そんな母が嫌いだった。
そんな母と二人で大好きでたまらない父親の遺品を整理しなければならないことがとてもつらかった。
逃げれば捕まえられて殴られることが分かっていたので、おとなしく遺品の整理を手伝った。
手帳を見つけた。
中身がなにもないなら破棄するといわれたので、ページをめくって確認した。
一番最後のページだけ、一言だけ、大好きな父親の字で書き残されている言葉があった。
そこには、
(母の名前)、ごめんな
とだけ書き残されていた。
私は、父親に見放された。
大好きだったたった一人の父親に見放された。
子供ながらに頭を大きな金棒で殴られたかのようなショックを受けたことを覚えている。
今でも、トラウマ。
両親共に本も出版しているので、印税等の収入はありそうだが、現時点の収入は少なそう(父親は恐らく無収入、母親も連載久しぶり)
父方の祖父母は何か仕事をしているようにも見えないので、同居しつつ大学教授時代の蓄えを切り崩している可能性も
メキシコ人に計画性を問うてはいけないだろうが、なんとなく自転車営業の雰囲気。葬儀屋やホテル、各種企業と契約しているやり手の花屋かも知れないが、なんとなくそうじゃない気がする。母親頑張れ。通訳も決して高給では無いが。
たぶん終盤にソレイユはグレるし、きっと甘えさせてくれる男性にコロッと騙されそう
いつもの金持ち枠。ただ父親の部署は島流し臭が凄い。毒親だし、頭でっかちと天才型が結婚した一番やばい例かも。
きっとセレーネも終盤グレるし。きっと婚期逃すか、愛のない結婚しそう
石になっているのかもしれないが、そもそも皆は全て一つみたいなこと言っているので家族的な考えがあるかも不明。もしかしたら性別も超越しているかも知れないので、生えている可能性も
母が自殺した。
もう3年も前の話だが、私の中では現在進行形だ。
いつもならば眠い時間で、無視して必要があればかけ直すのだが、父の名前が画面に表示されたので、何事かと思って電話を受けた。
え?お母さん?自殺?え?
一瞬にして混乱の海に投げ出される。
父は続けて「救急車を呼んで、今待っている」というような事を言った気がするが、信じたくない現実に面と向かう事に必死でよく覚えていない。
鮮明に憶えているのは、呼び鈴と同時に入室してくる救急隊員の声と、それに答えて「救急車が来たからまた連絡する」といって電話が切れた事。
切れた電話のツーツーという音を聞きながら、その後どうしたか憶えていない。
夫の話を聞く限り、隣で眠っていた夫が話し声で起きて、どうした?と聞き、私は事情を話したらしい。
とにもかくにも、実家に帰って詳しい状況を聞かないといけない。
夫は会社に欠勤の電話をし、身支度をして二人で車で2時間の実家に行くことになった。
私はタバコを吸うのだが、母はタバコもタバコを吸う私も嫌っていたので、お風呂に入る時間をちょうだいと言って、急いでシャワーを浴び、髪についたタバコの匂いを落とした。
気持ちとしては、悪い夢の続きを見ているような変な浮遊感でふわふわしていた。
長い道中の事も憶えていない。
義父に頼まれた枕花を持った重さだけが、私を地上に結びつけているような気がした。
母の自殺が本当だとしたら、第一発見者の父の気持ちは荒れる海の波のようだろうから私はしっかりしないと…と、平静を装おうとしたが、玄関を開け、並ぶ見覚えのない靴を見て、父の兄弟が先に来ている…つまりは母の自殺は本当だと感じた瞬間、涙が溢れ出た。
しばらく泣いて落ち着いたところで、居間のテーブルに用意された席についた。
ふと、母が居るであろう場所を見ると、そこには何もない。
父にお母さんは?と聞くと、今は警察署に居ると言われた。
なんでも、救急隊員が駆けつけた際に死亡が確認された場合、救急車には乗せられないルールがあるらしい。
そして、自宅での死亡の為、原因の追求をする為に警察署での検死に回されると。
母は一人で冷たい場所にいるのだろうか。
早く会いたい、顔を見たい、それだけだった。
夕方、警察署からの連絡で、母の遺体を収容する施設に移すという連絡があり、その場に居た全員で手続きに行った。
涙を流さず、冷静に見える父の、必要書類に記入する手が度々止まる。
「妻っていう字が思い出せない、書けない」
ああ、父も心の中は混乱していて、いっぱいいっぱいなのだな、と思った。
叔母が字を教えて、ゆっくり、一画一画確認しながら書類を書く。
刑事さんが書き終えた書類を確認し、ご面会はこちらです、と案内された部屋に行った。
私は死んだ直後のままの母が居ると思っていたが、既に白装束に着替え、箱に収められていた。
首には吊った後が残っているのであろう。
首周りに綿の詰められたクッションのような物が巻かれていた。
枕花を頭の横に置き、周囲に流されるように手を合わせる。
これは悪い冗談なのではないかと、そうとしか考えられなかった。
母は残された苦しみから、「どんなに辛い事があっても、自殺だけはだめよ」と言っていた。
私はその言葉に助けられていた。
長い期間、学校でいじめられ続けていた私にとって、生きる事の大切さを教えてくれた母の為にも生きようと、これまで生きてきた。
でも、その母が自殺を選んだ。
母はパーキンソン病で、近い将来介護が必要になる事を嫌がっていた節があった。
その苦労を父や私にかけない為に死を選んだとしか考えられない。
苦労かどうか決めるのは私達なのに。
母の葬儀は、式場の都合で一週間程先になった。
それまでの間、毎日霊安室に通い、好きだったカフェオレを供え、なんで死んだの?と疑問をぶつけていた。
母は自分の将来に、綺麗に決着をつけたと思っているだろう。
実際はそうじゃない。
私も父も親戚も夫も、事情を知った全員がそれぞれに苦しんだ。
その罰があたったのか、もうすぐ葬儀だというタイミングで、綺麗だった母の死に顔に死斑が出た。
人前に出る時に化粧は欠かせない母だったから、このまま葬儀には出せないと、葬儀屋さんに頼んでプロの化粧をして貰った。
過去の心の傷と仕事のストレスで鬱になった私は、抗うつ剤と睡眠薬を長い事飲んでいたが、母の死を知った日から、それらの薬が効かなくなった。
父と母に会う時間の合間にかかりつけ医に臨時でかかって、強い抗うつ剤と睡眠薬を処方して貰った。
葬儀が終わるまでは、四十九日が終わるまでは、一周忌が終わるまでは…とにかく倒れる訳にはいかない。
それだけで動いていた。
https://www.bengo4.com/c_5/c_1625/c_1232/n_9713/
石川さんは1年前から葬儀場でアルバイトしているが、採用された時に、仕事中はストラップなしのパンプスを履くように説明を受けた。就業規則にも5〜7センチのパンプスを着用するよう書かれていたという。
「同じ仕事なのに、男性社員はフラットな革靴を履いていて、私はハイヒール。同じような靴で働けたら、どれだけ仕事の効率がよくなるんだろう」
普通のデスクワークや営業でパンプスを強要されることに合理性はないと思うけど、さすがに葬儀屋だけはパンプス履いててほしい。
明日ちょうど通夜だから参考のために忘れがちなことを記しておく。
最近は遺影に困らないぐらいやたら写真を撮る世の中だからあまり心配しなくていい。
通夜までは喪服でなくていい。彩度が低く動きやすく正座していて苦にならないものを選べ。黒いエプロンが1枚あるとよりよい。
弔問客が来るような家だったらお産レベルでお湯をガンガン沸かせ。茶っぱがなければ買え。ポットは1台では足りない。弔問客に出すお茶に使う。湯のみが空いたとみるや注いで回れ。間が持つ。
それにともなって茶菓子をガンガン買ってこい。客が食べるかどうかじゃない。テーブルに茶しか出てないのは気まずい。とりあえず隙間を埋めとけ。
おすすめはまんじゅう、せんべい、おかき、洋モノならマドレーヌ、小袋のバームクーヘン。とにかく個包装のやつがいい。裸の大福とか団子とかケーキ類はやめておけ。日持ちもしない。
大皿で出すと減らないので茶托ぐらいの小皿にまんじゅうorマドレーヌorバームクーヘン1個と煎餅とおかきあたりを合計4〜5つぐらいにして各自の目の前に置け。茶も置け。
残ったら持ち帰らせろ。後の客に流用もなんかあれでめんどうだし自分で食べるのもなんかいやだ。持たせるための小さいスーパーの袋みたいなのも買ってこい。
客に全部出してしまう前になんかサラダボウルぐらいの皿にそれっぽく盛れる程度にとりわけておけ。あとで祭壇に飾る。
果物もやっぱりサラダボウルへ収まるぐらいに3種類ぐらい買っておけ。やっぱり祭壇に飾る。
祭壇に飾るものの可不可はないらしい。好物を備えてやれ。
弔問客の年寄り連中はいっそほっておいてもいい。だいたい勝手に盛り上がる。
困ったらボケてるようでボケてないばあさんを捕まえろ。頼れる。
泣くほどさみしい。
死すら願うほどに。
命すら生み出したいほどに。
臨月を過ごし、無事出産。そして床上げ、実家から自宅へ帰った。新幹線でも数時間の距離。
実家の父母とは仲も良く、みんなで旅行に行くような関係性で、今回の里帰りもとても楽しく過ごし存分に甘えさせてもらった。
可愛い我が子と、喧嘩もするが大好きな両親と、日々の暮らし。幸せだった。
30代にもなったのに大人になりきれないのだろうか。両親と離れるのが死ぬほど辛い。
旦那と暮らせないことよりも実家を離れるほうが断然寂しい。誰にも言えないが、旦那が迎えに来る日は本当に嫌で嫌でしかたなくて、事故にでも合ってくれたらまたこのまま実家で暮らせるのにと本気で考えたし、今でもその思いは、脳の引き出しの割りとよく使う棚にきちんとしまわれている。
3人目は考えていないし、万が一出来たとしても、長く里帰りすることなどは到底無理だろう。上の子には学校もあるし、ヤンチャな時期の子供を2人も抱えて里帰りすることの気苦労を想像するだけで胃が痛くなる。
数年前の話だが、1人目の里帰り終了時も例に漏れず、帰宅後は1ヶ月ほど毎朝泣いていた。
朝起きたら母がいて父がいて、おはようと声をかけて、ニュース番組にツッコミを入れながら朝ごはんを食べる。そんな和やかな時間は失われた。
旦那は早朝に仕事に出かけてしまうため、言葉の通じない赤子と二人きり、誰の声もしない朝を迎えるたびに涙が溢れた。
でもその時はまだ未来に夢があった。
「2人目を産む時はまた帰れる」
愛しい葬儀屋に会うために、身内を殺す女の話を思いだす。
産後はホルモンバランスがこれでもかと崩れる。毛は抜け、肌は荒れ、情緒はゼリーで出来たジェンガのように脆い。
この辛く寂しい気持ちも、そのホルモンバランスの悪戯だとわかっている。現に1人目を産んだ時は寂しさを少しずつ忘れることができたし、旦那と子供の3人暮らしを楽しく過ごせていた。
でも今、今、
この瞬間に死ぬほど寂しいのだ。
殺したいくらい辛いのだ。
怖い夢を見て、母のベッドに潜り込む我が子のように、寂しさから逃げて実家の屋根の下で安心したい。母のぬくもりに包まれて再び眠りにつける我が子が羨ましい。
今、結婚する前にタイムスリップすることが出来たなら、全力で止めるだろう。
さみしいつらい。
さみしい、つらい。
現実にこんな話をする子持ちのおばさんがいたら皆引くだろう。しかも涙まで流し、世間的にも私から見ても「出来た旦那」の命すら惜しまないと語るのは異常だ。匿名でしか吐露できないこの気持ちを、文字に起こすことで少しでも捨てたかった。(が、実家への慕情を確認し募らせる行為にしかならなかった。)
人間は忘れていく生き物だし、あと1ヶ月も経ってホルモンバランスが落ち着けばこの気持ちも緩和されるだろう。
でも私はきっと思い出す。
流れる晴れた空を見つめながら
孫のおむつを替える母の手を
眠る孫を見つめる父の横顔を。
孫と手を繋いでコンビニへ行く父の背を。
今後、子供が成長する節目のたびに
夜に布団の中でそっと泣くだろう。
入学式を終えたその足で、ランドセルを背負った孫を見せに行きたかった、などと思うのだろう。
さみしいつらい。
さみしい、つらい。
遠距離でも、両親が揃って元気に生きているだけ幸せなんだと自分に言い聞かせている。
次に会える日を指折り数えて待っている。
私が思う最良の人生を夢見ている。
アラフォーで非正規の場合、どういう仕事に就けばいいのか考えてみた。
60歳過ぎてからでもすぐに見つかるような仕事はもったいない。
中年になったロスジェネ世代が若者世代に相手にされると思ってはいけない。
そして年寄りが爆増する世の中で何ができるか考えなくてはならない。自分の親も年寄りだ。
お金があったら手に職つけるための学校行って資格取る。店さえあれば死ぬまでできる。
こういうものに疎い年寄り相手のスタッフはこれからの時代に必要な人材。
ポツンと一軒家のテレビ番組を見ていると、農地と家さえあれば生きていけそうに思う。
庭つきの家に住む高齢者は自分で庭の手入れが出来なくなってくるから。
後継者不足は長年言われているし、中年からでも奉公先さえ見つかれば60になる頃には職人になれるのでは。
サラリーマン家庭に生まれると、商売をする資本がない。ローンのついた家ぐらいしかない。
「親の代で廃業かな…」って思ってるなら譲ってくれ。
もっと思いつくかと思ったけど思いつかなかった。
先日の出来事で体罰賛成と思うようになった。体罰で死んだ生徒が生き返ったのだ。葬儀屋金返せ。国もしっかり仕事している。確かに金持ちに限るとか死後硬直とか制限がある。だが数年先の未来は体罰死での死亡は人間としての死亡と扱われないのではないか?ちょっと混乱して書いてるが乱文で申し訳ない、あと葬儀屋さっきからうるさい黙れ。全国の学校で体罰死した生徒がガシガシ利子つけて蘇る事も可能だ。なら体罰賛成だ!どんどん体罰やって悪ガキどもをヤって欲しい。そしてどんどん蘇生させろ!因果応報、首を洗って待っておれ。
さっきお坊さんがら電話があって「体罰で死んだ子はお釈迦様が死を免除してくれる」みたいなことを言ってた。正直仏教どころか宗教すらまともに信じてない。あと葬儀屋に最後に一言いわせろおまえら…