母が自殺した。
もう3年も前の話だが、私の中では現在進行形だ。
いつもならば眠い時間で、無視して必要があればかけ直すのだが、父の名前が画面に表示されたので、何事かと思って電話を受けた。
え?お母さん?自殺?え?
一瞬にして混乱の海に投げ出される。
父は続けて「救急車を呼んで、今待っている」というような事を言った気がするが、信じたくない現実に面と向かう事に必死でよく覚えていない。
鮮明に憶えているのは、呼び鈴と同時に入室してくる救急隊員の声と、それに答えて「救急車が来たからまた連絡する」といって電話が切れた事。
切れた電話のツーツーという音を聞きながら、その後どうしたか憶えていない。
夫の話を聞く限り、隣で眠っていた夫が話し声で起きて、どうした?と聞き、私は事情を話したらしい。
とにもかくにも、実家に帰って詳しい状況を聞かないといけない。
夫は会社に欠勤の電話をし、身支度をして二人で車で2時間の実家に行くことになった。
私はタバコを吸うのだが、母はタバコもタバコを吸う私も嫌っていたので、お風呂に入る時間をちょうだいと言って、急いでシャワーを浴び、髪についたタバコの匂いを落とした。
気持ちとしては、悪い夢の続きを見ているような変な浮遊感でふわふわしていた。
長い道中の事も憶えていない。
義父に頼まれた枕花を持った重さだけが、私を地上に結びつけているような気がした。
母の自殺が本当だとしたら、第一発見者の父の気持ちは荒れる海の波のようだろうから私はしっかりしないと…と、平静を装おうとしたが、玄関を開け、並ぶ見覚えのない靴を見て、父の兄弟が先に来ている…つまりは母の自殺は本当だと感じた瞬間、涙が溢れ出た。
しばらく泣いて落ち着いたところで、居間のテーブルに用意された席についた。
ふと、母が居るであろう場所を見ると、そこには何もない。
父にお母さんは?と聞くと、今は警察署に居ると言われた。
なんでも、救急隊員が駆けつけた際に死亡が確認された場合、救急車には乗せられないルールがあるらしい。
そして、自宅での死亡の為、原因の追求をする為に警察署での検死に回されると。
母は一人で冷たい場所にいるのだろうか。
早く会いたい、顔を見たい、それだけだった。
夕方、警察署からの連絡で、母の遺体を収容する施設に移すという連絡があり、その場に居た全員で手続きに行った。
涙を流さず、冷静に見える父の、必要書類に記入する手が度々止まる。
「妻っていう字が思い出せない、書けない」
ああ、父も心の中は混乱していて、いっぱいいっぱいなのだな、と思った。
叔母が字を教えて、ゆっくり、一画一画確認しながら書類を書く。
刑事さんが書き終えた書類を確認し、ご面会はこちらです、と案内された部屋に行った。
私は死んだ直後のままの母が居ると思っていたが、既に白装束に着替え、箱に収められていた。
首には吊った後が残っているのであろう。
首周りに綿の詰められたクッションのような物が巻かれていた。
枕花を頭の横に置き、周囲に流されるように手を合わせる。
これは悪い冗談なのではないかと、そうとしか考えられなかった。
母は残された苦しみから、「どんなに辛い事があっても、自殺だけはだめよ」と言っていた。
私はその言葉に助けられていた。
長い期間、学校でいじめられ続けていた私にとって、生きる事の大切さを教えてくれた母の為にも生きようと、これまで生きてきた。
でも、その母が自殺を選んだ。
母はパーキンソン病で、近い将来介護が必要になる事を嫌がっていた節があった。
その苦労を父や私にかけない為に死を選んだとしか考えられない。
苦労かどうか決めるのは私達なのに。
母の葬儀は、式場の都合で一週間程先になった。
それまでの間、毎日霊安室に通い、好きだったカフェオレを供え、なんで死んだの?と疑問をぶつけていた。
母は自分の将来に、綺麗に決着をつけたと思っているだろう。
実際はそうじゃない。
私も父も親戚も夫も、事情を知った全員がそれぞれに苦しんだ。
その罰があたったのか、もうすぐ葬儀だというタイミングで、綺麗だった母の死に顔に死斑が出た。
人前に出る時に化粧は欠かせない母だったから、このまま葬儀には出せないと、葬儀屋さんに頼んでプロの化粧をして貰った。
過去の心の傷と仕事のストレスで鬱になった私は、抗うつ剤と睡眠薬を長い事飲んでいたが、母の死を知った日から、それらの薬が効かなくなった。
父と母に会う時間の合間にかかりつけ医に臨時でかかって、強い抗うつ剤と睡眠薬を処方して貰った。
葬儀が終わるまでは、四十九日が終わるまでは、一周忌が終わるまでは…とにかく倒れる訳にはいかない。
それだけで動いていた。