はてなキーワード: 眼鏡とは
ですが、この初見感想も非常に重要でしたので、是非お目通しいただいて推理の参考になさってください。
※表に出した最新考察と印象はこちら。初見感想の次にでもどうぞ
http://anond.hatelabo.jp/20170209222825
http://anond.hatelabo.jp/20170212024356
一夜明けて昨日の話。
推しの握手会が思いの外さっくり終わり、通りすがりのご夫婦に推し布教も楽しくできて、気力と時間が余ったので当日券でレッドシアター行ってきた。
とても面白かったのだけど、なんかこうすごくもやっとする原因を掴みたくて、江戸川乱歩の原作の方の感想を漁り、こちらのブログに辿り着いた。
http://edogawamy.hatenablog.com/entry/2015/12/05/160636
こちらを拝読してめっちゃスッキリしたので、スッキリしたこと前提に感想を書く。
ネタバレしまくるし、恐らく原作既読でも舞台未観劇の方は先に舞台観た方が絶対面白いだろうから、観劇予定のある方は読まないでくださいね。
まず私がもやっとしたのが、「『私』が鬼のように見えすぎやしないか?」ということ。
こーゆー考察し甲斐のあるタイトルや、善悪、美醜、世間と自分の解離みたいなモチーフが出てくる作品だと、どうしても「果たして鬼とはなんだったのか?」と邪推してしまう。
『私』役・佐藤永典さんのお人形のような美貌と、書いて字のごとく鬼気迫るお芝居、そして聞き慣れない失われた昔の日本言葉は、あまりにも『我々観客と同じ存在』であると共感し難い。
そもそも、主人公目線で語られる物語は、主人公に感情移入させて物語に没入させることが狙いのひとつだろうに、全然『私』=箕浦に感情移入できない。
(ネタバレにならないことを祈って例を挙げると、演劇で観たことがあるミステリーだと『罠』『スリル・ミー』などが思い出される。)
これは『私』が作品の『語り部』であるため、強制的に観客が『聞き手』の役割を担ってしまうからでもあるかもしれないけど……
それにしたって、締めの内容からしても物語の本題が「『私』と諸戸道雄」の関係に集中してしまってならず、
そうすると、田中涼星さん演じる諸戸の執着心のおぞましさに沿ぐわない清廉でどこか儚げな美しさが、彼の一途な愛を健気で尊いものに感じさせてきて、その愛情を受け入れない『私』が何か恐ろしいもののように思わざるをえなかった。
でも、それっておかしくね?って思って。
ホモフォビアを受けることへの同情というか、同性愛差別への嫌悪感も逆手に取られているような気がする。「理由はどうあれ女の子は泣かせちゃいけない」みたいな、ずるい構図が仕組まれているように感じる。
自分が恋をしてフラれた時のこと・恋されてフッた時のことを参照すると、
いくら思わせ振りだったとしても応えてくれない相手の方が悪者だなんて絶対に思えないし、
どんなに周りから薦められてもどうにも受け入れられない相手はマジほんと無理。
腐目線でだって、絶対許せない地雷カップリングというものは実在する。
だから「諸戸の愛を受け入れない『私』は鬼」であるとは、理性的には到底思えない。
でもじゃあどうして「『私』が鬼」だと感じるような作品に仕上げてしまったのか?
これが冒頭に書いた「『私』が鬼のように見えすぎやしないか?」というもやもやの詳細。
この感情は原作に対して正当なのか? 舞台版という二次創作であるが故の解釈の押し付けなのか?
という部分が気になって、ググって辿り着いたのが先ほどのブログ。
http://edogawamy.hatenablog.com/entry/2015/12/05/160636
Wikipediaに書いてあった、「陰獣」みたいな新作をとリクエストされて執筆されたのが「孤島の鬼」らしいというエピソードからも勝手に妄想して、
江戸川乱歩=諸戸目線で「創作された箕浦」が『私』なのではと解釈し、舞台版にめちゃくちゃスッキリできた。
諸戸道雄の死で物語が終わるのもさもありなん。
観客は真の主人公である江戸川乱歩(諸戸)に感情移入させられて、「諸戸の愛を受け入れない『私』は鬼」だと錯覚してしまうのではと。
田中涼星さんの白木蓮みたいな美しく一切の嫌悪感を感じさせない諸戸は、きっと江戸川乱歩のブロマンスの結晶として大正解。
対する『私』がエゴイスティックに語れば語るほど、それは作者(江戸川乱歩であり諸戸)の恋の哀しみの深さ、恋情の深さを伝えてくる。
女性に執心する姿がなんか気持ち悪く見える・描かれるのも作者による悋気からだろうし、諸戸に対して残酷過ぎる描写は傷付いた作者本人が語らせてるからだろう。
『私』が歪であればあるほど、「箕浦にもどこか諸戸(作者)を愛する部分があってくれ」といった願いの叫びに聞こえる。
(観ていると「箕浦も実は諸戸を愛していたのではないか」という容疑が浮かんでならないのだけど、『白髪になってしまうほどの生理的な恐怖・嫌悪』という動かぬ証拠は、容疑を否定してならず、この辻褄の合わないミステリーももやもやの一つだった。)
メタ推理として「陰獣」を出したのも、江戸川乱歩自身による己の殺害が物語のカタルシスにあるように感じられたから。自身を不幸の中で殺すことで、遺された人間へ爪痕を残すという側面も含めてね。
(愛を願いフィクションを書き綴るのに成就させず永遠の片想いとして殺す……って、個人的にめっちゃ萌える。)
作者による「ぼくが考えた最高に美しく残酷な箕浦(永遠に愛してる)」ってやつ。考えたというか、「恋愛の疑心暗鬼の中で見えていた箕浦」。
舞台「孤島の鬼」(2017)では、語り部の『私』と『箕浦』を別の役者さんが演じている。
私は原作未読であるため、同一人物であるはずの二人を別々の人間が演じるということが奇策なのか妥当なのかわからない。
でも、配役を知ったときに
美少年役もまだまだできそうな童顔の佐藤永典さんが30代で老人のような白髪姿になった『私』で、
佐藤さんより身長も高く年上にだって見えかねない美青年の石田隼さんが20代の箕浦「過去の『私』」を
演じることが疑問だった。
いくら『私』は外見が変わってしまったといえど、あまりにも二人の外見が似ていないこともあってね。
「もう一人の自分」みたいな表現が出てくる演劇はいくつか観たことがあるはずだけど、原作未読とはいえ観劇前に違和感を持ったことはなかったように思う。(まあ大体そういった存在は物語の核心中の核心に触れるので、配役表から対の存在と公表されてることは少なそうだけども。)
しかし『私』を『諸戸が想い描く箕浦』とすると配役がまあしっくりくるし、『本物の箕浦』と役者を分けたことが大発明のように感じられる。
舞台上には二人の箕浦が同時に立ち、シーンによって他者とのコミュニケーション表現の担当者が変わるのだけど(どっちが台詞を言うか、みたいな)、
諸戸と出会い親交を深めた学生時代の箕浦はずっと『私』(佐藤さん)が表現し、
諸戸と別離し大人になり恋人の初代との出会いから箕浦(石田さん)は登場する。
石田隼さん演じる箕浦は、佐藤さんの『私』と同一人物のはずなのに、鬼なんて印象もなく何故か善良な青年に感じられていたのだけど、『私』の方が諸戸(江戸川乱歩)の色眼鏡で認識された箕浦なんだと思えばこの対比はすごくいい。
「『私』は諸戸目線で見えていた認知の歪んだ箕浦」であるため、『私』の歪さから「箕浦も実は諸戸を愛していたのではないか」という容疑を持ってしまうが、
事実として『箕浦』は諸戸に迫られることに身体が変調するほどの生理的な恐怖・拒絶を示している。
(皆さんは自分の体が深層心理の拒絶反応で意のままに動かせなくなったことがあるだろうか。私はある。手から全身が痙攣してゆき、これしきのことで動じるな止まれと意識しても震えがまったく止まらない。だから私は生理的な拒絶は動かぬ心の証拠だと考えている。)
しかし性的に愛されないことが、『愛されていない』ということなのだろうか?
必死に求めるあまり諸戸からは見えなくなっただけで、性愛ではないけれども某かの情が、性愛にも決して劣らない尊い愛が『箕浦』にもあったのではないか?
そういった諸戸の盲点が、諸戸が『私』と会話し夢中になっている時の『本物の箕浦』(石田さん)にあったのではないかと、舞台演劇となり二人の箕浦が居ることで私は考え至った。
物語としての「孤島の鬼」の作者は諸戸(江戸川乱歩)だという解釈は私が勝手にしてるだけなので、舞台版が諸々の采配をこの解釈で行ったかはわからないけど、改めて『私』と『箕浦』の登場場面の違いを確認しながら観劇したら面白そうだなぁ!
より妥当なところの分裂理由として「箕浦の二面性」はあるだろうし、じゃあそれぞれの境界線を舞台版ではどこだと考えられているか読み解くのも面白い。
作中に登場する双生児は境目が見えたけど、二人の役者に分けられた一人の人物のメスは何処に入ったのか。
うろ覚えだけど、諸戸の告白以降は『私』が箕浦として生きているから、舞台では箕浦と諸戸は一緒に天国に行けたのだ、な~んて解釈もハッピーだよね。
(どちらかというと、諸戸が悋気を持たなければ、欲を出さなければ、あるいは悪い男になれていたら、箕浦と一緒に天国に行けたかもしれないのに諸戸が鬼の箕浦を生み出してしまった…って自己破滅エンドの方が私は好きかな。まさに疑心暗鬼を生んだ、的なね。)
(報われず自分に追い込まれ破滅した美しい男性がテーマの舞台、大好物なんです。)
延々と箕浦組について語って夜が明けてしまったけれども、他の役者さんや演出等表現もとても良かった。
諸戸の父親の最期に対して、主人公である『箕浦』の感情が語られず『諸戸道雄』の感想がセリフとして発せられたのも、諸戸の父親を演じていたのがまだ30前半と『私』に近い年齢の美しい河合龍之介さんで妖しい男の色気を放っていたのも、「諸戸の主観こそが語り部の『私』」であったとするならよりしっくりくる。
父親の変貌は、絶対に他人の箕浦よりも諸戸の方がショックな出来事だ。
父親越えなんてテーマもよくあるほど、子供から見た方が親はより巨大さ恐ろしさを増すし、親が壊れる様というのは「自分にも起こり得る恐怖」と「自分があれほど巨大に感じていたものとは一体何だったのかという虚無」感がぱない。私も父親で経験したからわかる。
舞台というものは面白いもので、同じ現実を同じ密室で複数の人々と同時に別々の目線位置角度(物理的な意味で)から観測するものだから、
書籍や映像で物語を鑑賞する以上に「他者が見ていない『自分の視点』」が感想を述べる際にものすごく意識される。
たとえ自分が複数人居たとしたって、観劇した感想は同じにならない。
演出による印象操作は完璧に同一にはできない。(それをぶち超えるクソチート暗殺者が『音楽』だと私は考え重要視しているけど、それはまた別の話)
だから舞台は観るだけでも楽しいし、感想を言うのも聞くのも他メディアの何倍も楽しい。
そんな訳でこれらの感想はすべて《私》の主観でしかなく、原作者・スタッフ・キャストが込めた意図の真相はわかんないんですけどね。
どういう風に自信があるかと言うと、頑張れば私は美人だと信じこんでいる。
しかし実際私はブスだ、まず太っているFやLサイズならたまに着れるレベルのデブ、髪質は父に似て酷い癖毛で千円カットの万年ショート最近は父の若白髪まで遺伝していたと発覚、目は黒目がちで大きいが度数のきつい眼鏡をかけているので小さく見える、鼻は丸い、乳は大きいがデブなので意味がない上に短足の大根足で尻もデカイし背中は曲がっている、身長も高い、化粧も下手な上にたまにしかしないのでより下手になっている。
障害者が美人の友達に美人ー美人ーと言ってる時に、何もしてないのに何故か唐突にブスと言われた事もある。
腰の所を紐で絞める服を着た時に、父親からシュレックみたいだと言われた事もある、その服は二度と着ていない、言ってはいけないクリティカル感想と言うものがある。
男子から執拗な虐めも受けたが、教師が「君の事が好きなんじゃない」と笑って片付けた時に、こちとら毎日自殺衝動と戦うレベルで辛いのにふざけんなと思うと共に、好きだとしてもあんな陰険ゲス野郎お断りだキメェ!!と自然に受け入れた。
自分の容姿に自信があったからだ、今から考えてみたらお前化粧してるだろ!とか虐めの言葉もたまに意味不明に容姿を誉めていた気がする。
それでも私は自分の顔は好きだった。
この自信は私を幸福にしてきた、私は美人だと言う自信は私を行動的にして支えてきた。
自身がなくて努力するなら良い事だと思うが、私は自分の容姿を磨く努力が面倒だ、女を捨てている。
卑屈なブスなんて最悪だし人生楽しくない。
旦那は私の自信を強化してくれた、紹介された時に「めっちゃいい!!!」と私の容姿を誉めていたと聞いた、化粧大好きな妹が化粧とヘアメイクをしてくれたのも大きい詐欺だとは思うが旦那の好みなのは嬉しい。
子供が出来た時も「君に似て綺麗な顔ならいいね」と言ってくれた。
なので旦那の容姿も頻繁に誉めている、旦那に瓜二つの息子も誉めている、そうしていると本当に凄く好みのイケメンに見えてくる。
なので子供も自信を持つように育てたいなぁ。
数日前「中国がネット検閲回避のVPNを全面禁止」というニュースが流れた。
日頃マスコミの報道する中国のニュースを見てる日本人としてはさもありなんと感じるような内容だ。
ところが、昨晩このような記事が流れた。他にも複数の人物が似たような事を書いてる。
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「中国がネット検閲回避のVPNを全面禁止」は誤報です | ニューズウィーク日本版
http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/01/vpn.php
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こと中国に関するニュースに関しては、マスコミは偏見に満ちたニュースを平気で流すので当てにならない。
偏見や差別で済んでるうちは良いのだけど、わりと自己欺瞞の水準に達してきていて危ない。
これは別にありがちな日本はもうダメだとかそういう話じゃない、日本製品は相変わらず品質は高いし人材の基礎教育レベルも高い、都市環境もかなり快適だ、それは間違いない。
絶対的な基準で見れば日本は明らかに先進国なわけだけど、中国はノロノロと確実に実力をつけてきていて相対的にかなり追いついてきつつある。
それは経済とか軍事とかそういう話ではなく、国民含めての総合的な国力の話だ。
習近平体制になってから言論統制が強まったのはまったく疑いようがない。
ところが実はその裏で実際に法治の徹底と社会保障制度の整備、技術的イノベーション、ソフトパワーの充実、市民意識の向上が着々と進行していたりもするのだが、これは悪の共産党独裁国家にあってはならないことなのであまり報道されない。
中国共産党は酷いかも知れないが、無能の集団ではない。4000万人からの党員のなかより有能なテクノクラートを選出し、さらにその中から数十年かけて選び抜かれ権謀術数に長けた人間が頂点に立つのである。
無能なわけがない、むしろ遥かに有能な人間が多いと言っても過言ではない。
別に友好的である必要はまったくないけれど、時代錯誤な鬼畜米英的色眼鏡で見てると自己欺瞞に陥ってしまう。
敵視するにしても敵の本質と実力をしっかりとらえたほうが良い。
認めよう、中国はかなり力をつけている。娯楽として彼らのモラルの低さを笑うのは良いが、侮ってはいけない。
・あの日、釣りに行かないほうがいいですよ。あの出来事が20年経った今でもトラウマですからね。
・リンスは流してください。一年間ほどリンスは流さないものだと勘違いしていたせいで髪質が変わりましたから。超直毛になりましたよ。
・サッカーに夢中になり過ぎないでください。あなたはどんなに努力をしたってプロにはなれませんでした。
・お父さんとお母さんが仲良くなるように努力してください。お母さんが、あの男の家に行くのを阻止してください。さもなければ家庭が崩壊します。
・歯医者に通ってください。
・ゲームボーイばかりしないでください。視力が低下し眼鏡が必須になります。
・隣の家で犯した小さな小さな罪は一生忘れませんよ。どうか間違いを犯さずに綺麗な心でいてください。
・同じ市内の工業高校を受験してください。隣町の普通高校へ行くとあなたは特技もない大人になります。隣町の高校に行ったせいであなたのお父さんは金銭面で苦労します。
・両親の反対を無視して公務員を辞めないでください。辞めた結果、あなたのお父さんは亡くなりました。あなたのせいです。
・子供の頃大好きだった絵を描き続けてください。
声優の演技について
http://anond.hatelabo.jp/20170109224100
すみません、単純な役の幅とか声質の話をされてる方が多くて恐縮ですがちょっと違いました、、
例えば玄田哲章はオカマの声とかも幅広くあてますが、同じようなゴリゴリ肉体派のおっさんだけやってたとしても自分の感じ方は変わらないと思います。野沢那智とか演技と声質も変える人も苦手な例に出したので、ニュアンスは伝わるかと思ったんですが、、良い言い方かはわかりませんが、深み?とかそういうものです。
俺が言いたかったのはこれに近いです
>> 小山力也は台詞の内容はわかるけど意味というか背景というか込められてるものがつかめない時がある <<
小山力也が24などで焦りながら指示を出してる場面でも、何に対してどれくらいあせってるのか声が曖昧に聴こえるんです。どの状況だろうと焦っていれば毎回この演技だよなっていう、、
単純な声質とか喋り方の差ではなく、ニュアンスの演技?とかそういう微妙な感情の部分?のことなんです。
山ちゃんの七色の声なんかがいい例で、七色と言いつつ声質や喋り方はそこまで違わないのに(もちろん全然変えたりもしますが)、背後の感情や含みが違うから別人に聴こえるんだと思います!うしとらの小山力也は、声質違うのもありますがその辺りもちゃんとうまかったと思います。
>> 元舞台役者の自論で悪いのだが、演技力は演技幅(同じ内容、感情を多彩な表現での演じ分け)と役幅(色んなキャラクターの演じ分け)と演出力(真に迫る、自然体である等上手い下手)の総合力であると思うの。 <<
自分の感じてるポイントってどのへんなのか教えてもらえたら有難いです、、演技幅のことでしょうかね、、
ただ、こちらを読んで、やはり結局はその感じ方も自分の好き嫌いに過ぎないんだろうなとは思いました
>> わかる!と思いつつ読んだら、自分がそう感じる声優が増田の好きな声優リストに入ってた <<
>> 演技の上手さは100点満点中90点ぐらいまでは正解(に近い物)があるが、それより上は人によって採点基準が違うので万人が納得する正解はないって『大塚明夫の声優塾』に書いてあった <<
>> 野沢那智は台詞回しが舞台っぽいところがある。というか、そういう演技を求められていたんじゃないかと思うので、成果物(作品)では声優の実力なんてわからないというのが私の意見です。 <<
やはり成果物に対しては結局は個人の好き嫌いで、演出によって声優さんの成果も変わるでしょうね。クリーンな声の野沢那智は繊細さがあって好きな吹替もあります。
あと声優について舞台の話ってよく出ますが、一概に舞台出身だからとは言えない気がします。舞台?というか役者出身でも山路和弘、樋浦勉、磯部勉など大好きな人もいますし、本当に苦手な方もいますし。
坂本真綾は見てないドラマも多いですが、実写吹替でも個人的に違和感ありますねグリーとか、、
あと流行り?の男性声優まで入れたら収集がつかなくなる感じがしてたんですが、この際言ってしまうと浪川大輔ってどんどん下手になってませんか?上の結論から言えば好き嫌いの話なんですけど、、ドラマのハンニバルを見て愕然としました。フジ版T2とか大好きだったのに、回り回ってポケ戦に戻ったような、、口調だけで感情表現をしようとするので台詞が聞き取り辛くて仕方ないし、T2と同じ玄田哲章とのコンビなのにこんなになってしまうとは、、ハイキュー!などを見ても演技が定型化してる気がするのですが、これも演出とか求められるキャラのせいなんでしょうか、、
ハンニバルの場合、女性記者とか検死官とかゲストキャラとか、声優の演技がかなり不味い作品ではありますが、、
どうでもいいんですが、三船は医者とか眼鏡とか社長とかインテリ役も演じて評価もされてます!もちろん三船パワーがバリバリだけど、、ていうか上に挙げたの全部黒澤映画なんだから知ったかぶるならせめて主演作の検索くらいはしてください!
男と女で感覚が違うんかもしれないけど、前にたまたま近くにリリースイベントで来てくれたアイドルの握手&サイン会に行ったとき
自分のすぐ前にいた超デブ&ダサ眼鏡&パンパンのリュック&脂ぎった顔というザ・オタクみたな身なりの男が握手したあとすんげー長々と話をしていたのを見た。
それに笑顏で答えるアイドルも大したもんだと思うけど、それ以前に「てめえそのルックスでよくもまあ長々自分の話ができるな」というのが正直な感想だった。
もし自分があそこまで底辺ルックスしてたらそれこそモブとして愛することに徹すると思うんだけど、そういうやつって推しに認知してもらうことで将来結婚してもらえるかもみたいな期待を抱いているのかな。
化粧はしてない、服は微妙にダサい、髪型も切っただけーとかくくっただけーという感じ。
僕はロリコンではないが、この年代までの女子は皆一様に可愛いと思う。
しかし、18才に近づくにつれて、女は垢抜けようとしだす。
髪をウンコ色に染め、変なパーマをかけ、こだわった服を着て、化粧を覚える。
なんてもったいないことを…
世の中の女性に知ってほしい。
垢抜けない女が好きと言う男が大変多いということを。
たいていの女は、着飾ったり塗りたくったところで劇的に何か変わるものでもない。
普通の格好でいい(スカート推奨)し、化粧もあんまりしなくていい。髪はストレートのミディアムかロングなら間違いないから。
もちろん、これは
垢抜けない=従順そう、反抗してこない、言うこと聞いてくれそう
という構図があるので、それにイラっとくる女は多いかもしれない。
でも、騙されたと思って一度実践してほしい。周りの男の対応が変わると思う。
街で垢抜けない女に会うたび、
って返ってくる
が、私は元から痩せている方だし(168/48)眼鏡もかけていない
メイクも仕事があるから当然しているし、学生時代にギャルメイクも試した
それでもブスはブスなんだ
ネットに転がってるメイク動画を見て知った気になってるんだろうが、あれは元々の顔がただ地味だったりわざと不機嫌そうな顔でとってるだけでブスではない。
33歳女。
アルバイト店員(社員を目指しているがあまりに才能がなさすぎて上がれない)。
バイト先で馴染めず完全に浮いている。
太ってもなければ眼鏡でも天パでもない。ただただ顔の造りが悪い。
モテない。
それなのに非処女。
男に告白されたことは無い(クラスのギャル系以外全員に電話で告った奴は除く)。
親とは不仲でほぼ連絡を取らない。
特技ナシ。
これといった趣味ナシ。流動的に何かにハマってもすぐ飽きる。
BLとか少女漫画とか好きそうな風に見えるらしいが(ブスだから)、ほぼ知識なし。いっそこういう系にハマれるなら同類の友人もできそうだが、全く興味を持てない。
産んでくれた親(特に私と顔がそっくりな父)を恨んでいる。学費食費を出してもらったくせに。
自分には女としての魅力どころか人としての魅力すらない。
自分でもよくわかっている。
が、そのことをいざ他人に突っ込まれると非常に不快な気分になる。
馴染めないバイト先の男バイトが、女子大生のバイト(若い美人頭がいい明るい)と私を比べて私をけなしてきた。
事実だとわかっているのにはらわたが煮えくり返り平静を保つのに一苦労した。
屑の癖にプライドが高い。どうしようもない。
http://anond.hatelabo.jp/20161219215952
これについて。
コピペ部分が意図的かは不明だがトップページからの抜粋でしかなく、肝心の「陵辱 (26447) 」「レイプ (15956) 」が抜けてるし。これは流石に手落ちすぎる。
コピペで一位の「巨乳/爆乳 (24682)」より「陵辱 (26447) 」の方が多いぞ。超マジョリティ。デジタル同人は中身がわからないままで買うので、宣伝でわかりやすい陵辱などが強く、ラブラブ系はあまり売れない傾向がある。
また、dlsiteはそもそもデジタル同人というちょっと特殊な界隈でありマンガはマイノリティなので、データとしてかなり偏っている気がする。マンガとCG集とRPGも音声作品も全部同じ枠だし、十年以上の作品数の総計なので最近のデータではないし。
あとDMMとも売れ筋が明確に違う。DMMの方が人妻とかリアル寄りで触手とかはdlsiteの方が強い。
デジタル同人について軽く言っておくと、アナログ作品と違い実物を部屋に隠す必要がないので、世間の目を憚る性癖にいきやすくなる傾向があるかもしれない。作品形式は、白黒マンガではなくカラーのCG集+簡単なノベル形式が基本。細かい描写より豊富なプレイのバリエーションを見せるのが特徴。だからストーリー展開にマンガほどの技術がいらず、シチュエーションと絵が強いタイプの作品作りになる。あと、眼鏡とかおしっことかはマイナス要素と思われているフシがある。
それとデジタル同人はメディ倫なので修正が紙媒体と全然違う。排泄物や猟奇系の切断面も修正が必要だし、ロリ系のキーワードとかランドセルも修正必要。
さらに細かいことを言うと、dlsiteのユーザーは20-40代のサラリーマン対象という感じで、アニメとかゲームにこだわるオタク向けではない感じで、二次創作はあまり売れない。ただセーラームーンとかの古い作品や自分の子供が見てるであろうプリキュアが売れたりはしている。あとエロRPGの売上がやたら高く、エロADVはそうでもない(同人企業のものは売れる)。触手やふたなりや人体改造などの特殊性癖もある程度売れる。ユーザーは自分が子供の頃アニメやゲームにハマっていたが現在進行形ではそこまで興味がない、特殊性癖寄りの人って感じか。
DMMのデジタル同人はAVユーザーとかなり被っているので、触手やふたなりなどの特殊なファンタシー性癖はあまり売れない。催眠系のわかりやすいファンタシーは売れる。あとサイト方針でロリ系に特に厳しく、作品名にすら修正が入るし、一覧ページにサムネが表示されなかったりもする。あと獣姦も禁止。ただ角をつけてファンタシー動物にすれば大丈夫。
とまあ、こんな感じか。普通デジタル同人作者は両方のサイトで売るので、上記は基本的にユーザーの違い。
デジタル同人の有名二大サイトでも売れ筋に差はあるので、数あるエロ界隈の中からdlsiteひとつだけ取り出しても意味はないかと。なんだかんだ、レイプファンタシーはdlsiteとDMMどちらのサイトも人気が高い。