はてなキーワード: ミーハーとは
ロシアがウクライナ侵攻したりした日に某所で引退発表があってダブルパンチを受けた層は一定数いるのではないかと思うし、増田にも前者の記事はあふれ返っているので後者について語る。
(別に前者と比較できるほどの話だと思っている訳ではない。戦争より大きな芸能問題なんてあるわけがない、当たり前だ)
ただまぁ、遠い国で戦争があっても「怖いな」「ロシア史にこういう流れあったな」とは思っても、現地で起きた悲劇のすべてに感情移入することはない。『アクタージュ』の原作者が前科者になって連載が打ち切られても「続きが読めなくて残念だな」とは思っても、原作者に同情はしない。どちらも遠い話だし、後者であっても自分が好きなものと作者は別物だからだ。世の中の悲劇のすべてに感情移入していたらどんな聖人でも発狂してしまう。よそはよそ、うちはうちだ。
その『よそ』を『うち』に変えてしまうのがライブ配信型の魅力であり、最も恐ろしい地獄でもあるという話。
Vtuberというのは、元々『二次元のキャラが本当に生きていたらいいのに』というオタクの願いを部分的に叶えるものだった、と思う。
2017年末にキズナアイの動画を始めて見た時は「はー珍しいことやる人がいるもんだ。面白いな」ぐらいの感想ではあったが、確かに感動した。ニコニコ動画時代には謎技術で見たこともないような動画を投稿している投稿者がわんさかいたが、その一種のような認識だった。その後四天王だの何だのと次第に盛り上がり始め、新しい時代が来たなぁと眺めていた。配信型を見るようになったのはブームの始まりより後だった。2020年末頃だ。
元々東方Project好きだったこともあり、ハードシューターがいるという話を聞いて観始めたのがきっかけだった。観てみると確かに面白い。バラエティ番組で芸人のトークに笑うことに抵抗はなかったし、配信系に馴染みがなかったのも「男女を問わず別に人間の顔を画面で見続けたいと思えない」という理由だったので、『アニメキャラがゲームやトークをしている』感覚で観ることができた。(この辺りは「中身の人間がいるのは論外」派も根強いようなので人によるらしい)ともあれ日常的に配信を観るようになっていくと、学生時代のボーカロイド全盛期を思い出してどこか懐かしかった。何事も流行りというのは流行っている内に楽しんでおくと、時代の空気を味わえるものだ。ミーハー万歳。
そのうちにわかってきたのが、このジャンルの本質は『コンテンツ』ではなく『コミュニティ』であるということだった。考えてみれば当然でもある。作品を一方的に受け取るのが『コンテンツ』なら、コメントを本人に送り、配信内でやり取りし、あるいはリスナー同士の横の繋がりも増える。(そういえばラジオ同様「リスナー」という表現を使うのは何故だろう? ライブ動画を観てはいても、本質は声ということだろうか)これほど双方向的ならば、それは勿論『コミュニティ』だ。
『コミュニティ』に加わるということは、例えばMMOオンラインで深夜までチャットで盛り上がる仲間ができるようなものだ。毎日のように遊んでいるから、相手が大体何をしているのかわかる。家族や友達、と言っても言い過ぎでないのは昨今増えたという「オンラインゲーム婚」とやらを鑑みても明らかだ。画面の中から一方的に渡されるだけの『コンテンツ』と違い、『コミュニティ』では画面の向こう側に自分から何かを届け、加わることができる。実社会にとても近い。精神的な、代用品にもなりうる。
そして人気の高いライブ配信者、特にそれがグループであればクオリティも保証されている。その『コミュニティ』はいつも楽しく、賑やかで、甘酸っぱく、可愛い。現実の自分の人生では味わうことなど到底不可能なほどに。この構図は従来の何かによく似ている。そう、『二次元』だ。現実逃避をして二次元コンテンツに耽溺し、そこに行きたい、加わりたいと考えるオタクはずっと昔から存在していた。
ライブ配信型Vは二次元そのものではない。だが、二次元と同じ効能を果たしてくれるから、その代用品にはなり得る。かくしてオタクは『画面の向こう側の二次元コミュニティ』に加わる手段を手に入れた。これこそ可視化された楽園だ。この世の何処かにはあるかもしれない、いいやあるはずもない、と諦めていたきらら世界観。それが実在すると思えた。何割かは演技かもしれないが、しかしすべてではない。あまりにも長時間、毎日のライブ配信がある。『素』を隠し通すのは不可能に近く、むしろ『素』をある程度出すことが人気の秘訣にもなっている。
演技ですらなく、『素』で『楽園の二次元キャラ』が現実の過酷さによって苦しむ姿をリアルタイムに眺め、想像することができるのだから。百合に男を挟むな、なんて次元ではない。きらら漫画を読んでいたら急に震災やコロナが登場してメインキャラが何人も死んでしまうようなものだ。大炎上間違いなし、トラウマものである。
結局のところ彼女達(あるいは彼等)は現実を生きる生身の人間だ。現実の過酷さの中で当たり前に生きている。だからろくでもない事態にも見舞われる。本人が原因になることも、しょうもない理由で叩かれることもある。それは別にこれまでもごく普通にあったことだ。
ただ、可視化されただけ。家族でもなければ身近に感じることがなかった苦痛を、日本中や世界中に分け隔てなく配って共有することができるようになっただけだ。
タイトル通り、この変化はあくまで二次元オタクかつ、ライブ配信型Vを許容できる層に限られる話でもある。人気アーティストや声優が死んだり結婚したり引退したりで阿鼻叫喚の嵐になるのはいつものことだ。珍しくもなんともない。ただ「二次元イラスト」が聖域で、仮に宇崎ちゃんポスターのように現実で炎上したところで、作者に何が起きたところで、作中世界のキャラには何の影響もない、という感覚はここにはない。
『画面の向こう側』に手を伸ばせることはとても魅力的で、そして地獄だ。
何度か自分でそれを経験してからは、二、三歩引いた距離感で観るようになった。離れて見れば『コンテンツ』として面白いのは変わらない。ただ『コミュニティ』にまで加わると、火傷をするからだ。古き悪しき2ch時代のROM専文化は、ここにきて自衛の意味を取り戻しつつある。
(別に前者と比較できるほどの話だと思っている訳ではない。戦争より大きな芸能問題なんてあるわけがない、当たり前だ)
ただまぁ、遠い国で戦争があっても「怖いな」「ロシア史にこういう流れあったな」とは思っても、現地で起きた悲劇のすべてに感情移入することはない。『アクタージュ』の原作者が前科者になって連載が打ち切られても「続きが読めなくて残念だな」とは思っても、原作者に同情はしない。どちらも遠い話だし、後者であっても自分が好きなものと作者は別物だからだ。世の中の悲劇のすべてに感情移入していたらどんな聖人でも発狂してしまう。よそはよそ、うちはうちだ。
その『よそ』を『うち』に変えてしまうのがライブ配信型の魅力であり、最も恐ろしい地獄でもあった。
Vtuberというのは、元々『二次元のキャラが本当に生きていたらいいのに』というオタクの願いを部分的に叶えるものだった、と思う。
2017年末にキズナアイの動画を始めて見た時は「はー珍しいことやる人がいるもんだ。面白いな」ぐらいの感想ではあったが、確かに感動した。ニコニコ動画時代には謎技術で見たこともないような動画を投稿している投稿者がわんさかいたが、その一種のような認識だった。その後四天王だの何だのと次第に盛り上がり始め、新しい時代が来たなぁと眺めていた。配信型を見るようになったのはブームの始まりより後だった。2020年末頃だ。
元々東方Project好きだったこともあり、ハードシューターがいるという話を聞いて観始めたのがきっかけだった。観てみると確かに面白い。バラエティ番組で芸人のトークに笑うことに抵抗はなかったし、配信系に馴染みがなかったのも「男女を問わず別に人間の顔を画面で見続けたいと思えない」という理由だったので、『アニメキャラがゲームやトークをしている』感覚で観ることができた。(この辺りは「中身の人間がいるのは論外」派も根強いようなので人によるらしい)ともあれ日常的に配信を観るようになっていくと、学生時代のボーカロイド全盛期を思い出してどこか懐かしかった。何事も流行りというのは流行っている内に楽しんでおくと、時代の空気を味わえるものだ。ミーハー万歳。
そのうちにわかってきたのが、このジャンルの本質は『コンテンツ』ではなく『コミュニティ』であるということだった。考えてみれば当然でもある。作品を一方的に受け取るのが『コンテンツ』なら、コメントを本人に送り、配信内でやり取りし、あるいはリスナー同士の横の繋がりも増える。(そういえばラジオ同様「リスナー」という表現を使うのは何故だろう? ライブ動画を観てはいても、本質は声ということだろうか)これほど双方向的ならば、それは勿論『コミュニティ』だ。
『コミュニティ』に加わるということは、例えばMMOオンラインで深夜までチャットで盛り上がる仲間ができるようなものだ。毎日のように遊んでいるから、相手が大体何をしているのかわかる。家族や友達、と言っても言い過ぎでないのは昨今増えたという「オンラインゲーム婚」とやらを鑑みても明らかだ。画面の中から一方的に渡されるだけの『コンテンツ』と違い、『コミュニティ』では画面の向こう側に自分から何かを届け、加わることができる。実社会にとても近い。精神的な、代用品にもなりうる。
そして人気の高いライブ配信者、特にそれがグループであればクオリティも保証されている。その『コミュニティ』はいつも楽しく、賑やかで、甘酸っぱく、可愛い。現実の自分の人生では味わうことなど到底不可能なほどに。この構図は従来の何かによく似ている。そう、『二次元』だ。現実逃避をして二次元コンテンツに耽溺し、そこに行きたい、加わりたいと考えるオタクはずっと昔から存在していた。
ライブ配信型Vは二次元そのものではない。だが、二次元と同じ効能を果たしてくれるから、その代用品にはなり得る。かくしてオタクは『画面の向こう側の二次元コミュニティ』に加わる手段を手に入れた。これこそ可視化された楽園だ。この世の何処かにはあるかもしれない、いいやあるはずもない、と諦めていたきらら世界観。それが実在すると思えた。何割かは演技かもしれないが、しかしすべてではない。あまりにも長時間、毎日のライブ配信がある。『素』を隠し通すのは不可能に近く、むしろ『素』をある程度出すことが人気の秘訣にもなっている。
演技ですらなく、『素』で『楽園の二次元キャラ』が苦しむ姿をリアルタイムに眺め、想像することができるのだから。百合に男を挟むな、なんて次元ではない。きらら漫画を読んでいたら急に震災やコロナが登場してメインキャラが何人も死んでしまうようなものだ。大炎上間違いなし、トラウマものだ。
結局のところ彼女達(あるいは彼等)は現実を生きる生身の人間だ。現実の過酷さの中で当たり前に生きている。だからろくでもない事態にも見舞われる。本人が原因になることも、しょうもない理由で叩かれることもある。それは別にこれまでもごく普通にあったことだ。
ただ、可視化されただけ。家族でもなければ身近に感じることがなかった苦痛を、日本中や世界中に分け隔てなく配って共有することができるようになっただけだ。
タイトル通り、この変化はあくまで二次元オタクかつ、ライブ配信型Vを許容できる層に限られる話でもある。人気アーティストや声優が死んだり結婚したり引退したりで阿鼻叫喚の嵐になるのはいつものことだ。珍しくもなんともない。ただ「二次元イラスト」が聖域で、仮に宇崎ちゃんポスターのように現実で炎上したところで、作者に何が起きたところで、作中世界のキャラには何の影響もない、という感覚はここにはない。
『画面の向こう側』に手を伸ばせることはとても魅力的で、そして地獄だ。
何度か自分でそれを経験してからは、二、三歩引いた距離感で観るようになった。離れて見れば『コンテンツ』として面白いのは変わらない。ただ『コミュニティ』にまで加わると、火傷をするからだ。古き悪しき2ch時代のROM専文化は、ここにきて自衛の意味を取り戻しつつある。
標的型訓練メールを片手間にうっかり開けちゃって「ま、訓練やろw」って放置してたら案の定訓練だったんだけど
上司に「こういうのちゃんと報告しないと訓練の意味がないっしょ~」って言われてそこまでは分かるんだけど
「これじゃあリテラシーがさあ」とか言い出しても~腹立つわ~
そもそも訓練メールを仕掛けるだけで一度もやられる側になったこともなければさして知識もなくて聞いたばっかの横文字とアルファベットの羅列を使いたがるミーハーのくせによお?!
社内のPCのログもチェックする側だからって「管理側で良かった~w」とかほざいとるなよ。
な~にがリテラシーだよ。リテラシーを試されたこともないくせに。
こっちが訓練メール仕掛ける側になったら上司を陥れるためだけの内容にしてやるからな。
たかだかこんなことで根に持たれるとは思ってもなかっただろうな。
綿矢りさの「蹴りたい背中」がとても好きだ。定期的に読みたくなる。
こんなに何回も読んでるのだけど、発売当初は全く読むことができなかった。
私は今30なのだが、確か「蹴りたい背中」 が芥川賞を受賞したとき、まだ10代半ばくらいだった気がする。
今も昔も、話題になった本ばかり読むミーハーな私は、「蹴りたい背中」もすぐさま読もうと試みた。
でも最初の数ページで駄目だった。
主人公がクラスでハブられてる描写が辛すぎて読めなかったのだ。
今でこそあのリアルさと流れるような文章のギャップの気持ち良さを感じることができるけど、その頃はあの教室の描写がリアルで残酷でどうしても駄目だった。
主人公に自分を重ねてしまってたんだろうなー。決していじめられてた訳ではないけど、その頃は、いつか皆からハブられるかもしれないという焦りが常にあった気がする。
大人になったらそういう焦りとはある程度距離をとることができて、ちゃんと読むことができるようになって、本当に良かった。
他にも多分、そういう本、結構あるんだろうな。
手始めに、綺麗事ばかりでぶん殴りたくなった「星の王子様」でも読んでみようかな。今読んだら、感動して泣いちゃうかもしれないな。
akutsu-koumi ネトフリはプレミアムプランでも1980円(税込)。同じ金を払うならNHKの受信料なんぞよりもこっちに払いたい。
akikonian お、ネトフリ契約するわ。
ryun_ryun 日本人はこういうドキュメンタリーライクな作品を好む印象が無いんだよなあ。Fukushima50みたいな感動ポルノにしないと、ミーハーな日本人には見てもらえないかもしれない。
sockscat 対政権の対立構造じゃなくて、組織VS官僚の良心の対立構造だっだから、そんなにプロパガンダ臭く作ってなくて、単純にドラマとしての質も高くて面白かった。
FN2199_traitor 海外でも評価されてるのは意外だが嬉しい。これが割と実話ベースだって知ったら呆れるだろうなあ
workingasadog-kt そこまで再現してるとは凄い。こういう社会派な作品が(ちゃんと出来がいいのであれば)正しく評価される土壌があってほしい。日本のNetflixのランキング、アニメと韓国ドラマばっかだし…いや、面白いなら仕方ないけど…
loomoo 映画だと大手芸能プロが尻込みして良い俳優が出てくれない。興行気にすると感動ポルノにしないとウケない。ネトフリはマーケットは世界だし、資金も外資。こういうドキュメンタリー作品がもっと増えてほしい
nowandzen このやり方があったか。どうせ界隈は「(詳しい誰かの受け売りで)スコアが低い 笑」「視聴者少ない、かさ増し 笑」とか冷笑キメるんやろうけど。ネトフリで日本の不祥事毎回ハイクオリティドラマ化してSOS出そう
egao123 日本のドラマにしては珍しく演出やら演技が上手かった。テレビドラマが学芸会にみえるレベル。WOWOWのドラマもそうだがスポンサー企業の声が小さければ日本も面白いドラマつくれると証明。映画のより良かったよ。
kyo1man 町山智浩も今日(1/18)の「たまむすび」で紹介していた…もうNetflixは大人の常識して契約して話題作は観ておく必要があるような気がしてきた… 事件netflix不祥事映画マスコミ
aktkro どう見てもクロなのに社会的に裁かれない問題に対して"実在する話ではないです"って建付けで映像化して当てこすりするというやり方が最高。Netflix好きになった。
nakamurataisuke 日本のテレビ局だと絶対に流せない&流したら確実に局に自殺に追い込まれる、ってテレビ局の知り合いに聞いたので見たいと思ってる(まだみてない)
yo2012 当局の検閲が及ばないNetflixだから実現した企画なんだね。予算も役者の質もストーリーもしっかりしている。日本のコンテンツメーカーも本当に作りたいものができるのではないかな。
[B! ドラマ] Netflix「新聞記者」海外でも高評価 現実と同じ不祥事描写に安倍夫妻“真っ青”|日刊ゲンダイDIGITAL
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/300079
会場別研修。
私はアルバイトの都合で平日に参加した。
参加人数はそれほど多くはなかった。
ただ、もう活動しているチームはキャッキャッしていた。
私のチームは3人。
一人はおばさん
すごく楽しかった。
本番がすごく楽しみになった。
いい人ばかりで(そうでない人もいたが)
みんな明るくて、働いていた時よりずーーーっとよかった。
中には変な人もいた。
妙になれなれしいとか、ネットでーーとか
世間には腹が立ったが、
始まるまえには、オリンピックのボランティアなんて!!!!みたいな批判がすごかった
どのメディアも言っていた
でも終わったら、
感動した!やボランティアすごい!!などと称賛した
批判してたんなら、感動するなよ
ずーーーーっとそれ貫いてろよ
気持ちわる
これはメディアだけじゃない
知り合いも家族もだ
オリンピックが終わったら
「オリンピックなんてやらないとおもうよーーー」といってた人が
おわったら
「やっぱりやってよかったねーー後でボランティアのみせて」
などと平気で言い出す。
は
そうゆうのほんとに気持ちわるい。
見せるわけない
ミーハーー
気持ちわるい
参加してよかった
でも周りは最悪だった
これが東京オリンピックなんだと思う
「ドライブ・マイ・カー」を見に行きました。広島ロケということと、何か凄い賞をとったということで、広島在住でミーハーの私は遅ればせながら見に行ったのでした。
原作が村上春樹ということは分かっていたのですが、序盤から村上春樹感が強すぎて笑ってしまいました。
決して村上春樹が嫌いな訳ではないのだけど、私の乏しいイメージ通りの村上春樹すぎたので。村上春樹の誇張したモノマネだと思っていたものが、割と本人のまんまだったというか。
ピロートークが詩的すぎて何言ってるか分からないが、相手もそれを理解して詩的に返す
ピロートークだけではなく、二人で話す場面は基本的に詩的なことばっか言う
ということなんですが。別に馬鹿にしてる訳ではなく、私の教養とか感受性とか経験の乏しさ故に、表面的な部分しか拾えていないんだと思う。
大して村上春樹を読んできた訳ではないけれど、私自身に性的な経験が無さすぎて、村上春樹に触れるとどうしても、「すぐセックスするじゃん!隙あらばセックスじゃん!」って心の中で照れながらツッコミを入れてしまい、集中できなくなってしまう。
ドライブシーンなんかとても良かった。
運転手役の女優さんが格好良くて、色気があって最高だった。ドライブシーンに関しては、詩的なやり取りとか、ちょっと儀式的な言動も自然に受け入れられたし。まあそれは主人公と運転手がセックスしなかったからなのかもしれないけど。
あとユナさんもソーキュートだったし。稚拙な表現だけど、ユナさんの手話はおまじないみたいで、表情と手だけで声を出すよりも感情を伝えていて、ユナさんが話してるときには相手に魔法をかけてるように感じて、とても良かった。もちろんセックスもしなかったし。
村上春樹に触れると、すぐセックスを連呼したくなってしまう自分がいる。もし私に少しでも経験があったならば、セックスの呪縛に縛られずにこの映画を見ることが出来たのだろうか、悔しい。
私凄いことに気付いちゃったんだけど、
今年から成人の年齢が変わるって事で、
今年19歳の人は、
ずっとずっと19歳として生きていく、
本当に旅がしたいからって旅だって自分探しのセンチメンタルジャー!ってやかましいわ!ってなることだと思うの。
そう考えるとちょっと気の毒よね。
永遠に19歳とかって。
でもさ、
18歳から成人になったとしてもローン組めるだけのようで
結局これは何が変わったのかしらって政治の投票を表を若い人から欲しいってだけの
そんなことより、
私は今日の予定を立てたタイムアタックをこなしているところよ。
餃子をキメに行って
あのさ、
旗のきわきわのところをバシって弾いて勢いよく滑走していくスキー競技あるじゃない、
私は時間の急斜面に向かって、
バシーンバシーンって今日は予定通りにキメたいところなのよ。
わーい!って紅白饅頭と辞書をもらって喜んでいる場合じゃ無いのよ。
隅々まで遂行させるべく、
あのスキーの急滑降する時の
旗のフラグをバシーンバシーンって勢いよく弾くかの如く、
今日は予定通りに行きたいところよ!
私は何のお店か名前だけ聞いても分からないようなパン屋さんのプロデューサーが人のお金を使って面白くない店名大喜利やってるとしか思えないパン派なほどあんまりご飯は食べない皆さんもご存じの通り朝パン食サンドイッチが多いんだけど、
きっと私はなんかよく分からない派手な面構えの店頭のお店の軒先に来たら、
騙されて派手に作ったパン屋さんの店主が気の毒でならないわ。
パンが美味しくても、
なんかお前ミーハーで話題のパン屋さんのパンだから買うんだろ!って思われるのも癪なので
たとえそう言うお店のパンが超絶美味しくても通えないわよね。
だからなんかやっぱり見た目で損しているというか逆によ逆に。
あの派手な見てくれの店頭の軒先のお店の面構えはちょっと躊躇しちゃうわね。
あんなお蕎麦屋さんだったら入らないでしょ?って意表を突く感じかも知れないけど、
二度とみんな騙されないのよ。
勢いよく予定をこなして行くわよ!
良い休日を!
アミーガ!
実はまだ食べてないわ!
デトックスウォーターのホッツ白湯ウォーラーインレモンしか飲んで無くて、
たまの休日にはお腹を午前中だけでも休ませるのはいかがなものかな?なんて思ってないわよ。
休むときは休む!
食べるときに飲む!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
ダウンタウンも、女に笑ってもらうよりも、同世代の普段笑わないおっさんを笑わせろ、という旨を言っていた。
芸人に関して言えば、女がキャーキャー言うファンの8割9割はミーハーで言ってるだけでブームが去った2年後は芸人の前から去る。大して面白くなくても周りのすぐ笑うから女は。
売れ出すと、劇場にキャーキャー女の子が来よんねん。これがじゃまやねんな。
いっつも相方に言うててん。こいつらはキャーキャー言うてくれて俺たちを追いかけてくれて人気のあるような感じを作ってくれてると。こいつらは俺らにとってすっごい必要やと。すっごい必要な客やけどめちゃめちゃジャマやと。こいつらが俺らをダメにしよると。
なんでかって言うたら、こいつらを笑わすことは簡単やから、こいつらを笑わしにかかってまう。
こいつらを笑わしにかかった瞬間に俺たちは全て終わってまうと。
だからテレビでもカメラの奥でコタツで見てる兄ちゃんがおもろいと思ってくれる感覚でやる。いつもそこに客はいないと、向こうにいんねやと。
あいつらが笑えば笑うほど、一番後ろで見てる俺たちが一番笑わしたい人たちが「何やっとんねんこいつら」と。「学園祭でやっとけお前ら」「身内だけで集まってやっとけよ」って状況になんのよ。
実際その傾向あるからしゃあないでしょ。
男でもミーハーな奴はいるけど、そういう軽佻浮薄な連中はちゃんと
周囲の男達から審美眼が無いことを理詰めで非難されてやがて淘汰されていく。
増田みたいな日陰な場所だと男のアニオタやらアイドルオタは多数派かもしれんけど、
普通の集団なら可愛い女の子が出てさえいれば諸手を挙げて喜ぶ馬鹿なんてコケにされて隅に追いやられるよ。
「僕は審美眼が無い阿呆です!」って堂々と公言しているようなもんだからね。むしろそれが健全なんだよ。
女はミーハーを爪弾きにせずにむしろ私も私もと進んで迎合していくでしょ。
女に創作物見せて感想や意見を聞いてもマトモなのが出てこないもん。
雁首揃えて「〇〇イケメンすぎ!」「共感の嵐!」「推し!」「尊い!」「エモかった!」とかそんな感じ。
正確には既に終わっていた恋、私が終わらせたはずの恋。
その恋が、「俺、彼女ができたんだ」という1通のLINEで完全に終わった。
診察中の祖父を待つ待合室で、周りに迷惑がかかると思いながらも止めることのできない涙を流しながら「おめでとう」と一言LINEを送り返した。
また、人気どころに手を付けやがって。
そういうミーハーなところが嫌いだった。
旅行に行っても、「この前あそこがテレビに出てたから」と連れて行くは良いものの、長蛇の列に並ぶ羽目になり旅行の貴重な時間を無駄に浪費することがたくさんあった。
ただ、そんな時、私が近くの店を覗きたいと言っても文句も言わずに1人で並んでいてくれてたな。
別れ話を切り出された元カレくんは目に涙を浮かべつつも、その涙をこぼすことなく「増田がそれで幸せなら僕もそれで良いよ」と言ってくれた。
いや、実際は同じ店で2時間くらい、出された料理が冷えて不味くなるくらい引き止められたっけ。
当時の私はいろいろ考えていたけど、今思うとその一言で説明がつく。
なんであの時相談した友人の話を聞かなかったんだろう、結局「ただの倦怠期じゃない?」と言っていた彼女が正しかった。
アドバイスを聞いていたら今頃、席を入れていたかも…なんてタラレバを考えても辛いだけ。
なのに考えずにはいられない。
私が先に「彼氏ができました!」と送ったとき、彼も同じ気持ちになったのかな?
だとしたら少し嬉しい。私のそういう意地悪なところも含めて彼は愛していてくれたんだよな、何で別れたんだろ。
ちなみに、その彼氏とは倦怠期以前にクソ野郎だったので即別れた。
そして、元カレくんがどれだけ優しく、私のことを考えてくれていたかよくわかった。
元カノくんは次の日仕事があっても生理でささくれ立った私の愚痴を夜中まで聴いてくれた。
バカだなぁ、私は。
そして、1年以上付き合っているという今カノさんへ憎しみという闇の感情を抱いてしまう。
私は付き合って3ヶ月目に来る最初の倦怠期を越えられなかった愚か者。
久しぶりにご飯でも食べない?なんて誘わなきゃ良かった。
そうすれば彼の近況なんて知らずに済んだのに。
別れて2年も経ってたのに、ちょっと期待してたんだよな。
本当にどうしようもないバカだね。
あと、ついでに「イイ男紹介してね」ともLINEしてしまった。
元カレくんも困ってるんだろうな。
「できる限り頑張る」って返信の後ろに苦笑いの絵文字が付いてた。
イイ男なんて元カレくん以外考えられないのに。
でも、今私が「元カレくんと一緒にいたい、それが私の幸せだと気づいた」って言えばワンチャンあるかな?
そんな略奪愛、できる勇気もなく…、もう完全な他人になったのにまだ元カレくんに嫌われることを恐れている。
今、私はコロナの影響で荒んだ職場(こう言うと職業がバレそうだけど)から離れようと転職活動をしている。
その検索範囲を例のLINEが届いた昨日、県内から全国に変えた。
元カレくんとの思い出がこびり付いたこの街、市、県ではもう生きていられないかもしれないかもしれない。
はぁ、今転職説明会に参加してるのに心がめちゃくちゃで内容が頭に入らない。
精一杯スマホでメモを取っているように見えるかもしれないけど、増田を書いてるだけ。
書いたら気持ちも落ち着くかなと思ったけど、余計辛くなってきた。
88年の長野生まれが〝あの頃〟を振り返ってみる。あの頃〝半ドン〟があってたまに土曜日は午前だけ学校で週休2日じゃなかった。あの頃〝改札にPASMOなんてなかった〟まだ駅員さんが立って切符切ってた気がする。あの頃テープが廃れて〝8センチCDがなんかおしゃれな存在だった〟今は存在感すらない、ちなみにシャ乱Qだった。あの頃〝おじさん達は職員室でもふつうに煙草を吸ってた気がする〟小学生だったから朧げだけど。あの頃〝電話帳に個人宅の電話番号のってた〟小学校とかでも住所の情報とかガバガバだったような。あの頃〝冷凍食品がまずかった〟今では普通においしい。あの頃〝セクハラとかパワハラなんて概念はまだ微塵も存在していなかった〝むしろ劇的に良くなったのはここ5~10年という真新しさ。あの頃〝長野オリンピックで踊らされたけどなんのステージなのか理解してない小学生だった〟
あの頃、私たちはたまごっちに飽きてデジモン育ててて、同世代のSPEEDを聞きながら安室奈美恵に憧れて、でも服装はシノラーから影響受けてBettysBlue買ってもらって誇らしかった。テレビでやってるコギャルに中学生になったらなる気がしてて、高校生になったらポケベル鳴らすつもりだった。でも高校生になる頃には二つ折りの携帯の時代になってて、デコメが流行ってて、ポケベルなんて消えてピッチすらちょっとダサい存在だった。セブンティーン読んでラブワゴンに盛り上がるミーハーな友達をちょっと白い目で見ながら、タワレコでレディヘのCD借りてMDにまとめて友達にあげたりしてた。ウォークマンなんてのもあったなぁ。サブスクなんてなくて、インターネットでHTML書いて友達がHP作ってた〝あの頃〟キリ番踏み逃げ禁止だった〝あの頃〟ズッキーニとかパプリカがスーパーで珍しい野菜として並ぶようになって段々標準装備されていった〝あの頃〟外に散歩に行きたがる猫には網戸をあけてあげるのが優しさだとみんな思ってた〝あの頃〟
昔から絵を描くのが好きだった。いや、絵を描くのが好きだったというのは違う。
正しく言えば、絵を描いて褒められるのが好きだった。勉強も運動も得意というわけでは無く、進学校だったので周りより相対的に能力があったのが絵なだけだった。
それなら絵の学校に進めばいいじゃないか、と言う人もいる。いろいろ理由をつけてはいるが、今考えると行かなかった理由は簡単だ。
絵を描くのが当たり前の世界で、自分には勉強も運動も絵もダメな凡人だと自覚するのが嫌だっただけだ。
絵は努力の世界だ。才能じゃない。しかし努力の才能が無ければ居られない世界だ。
特に日本という国は芸術大国と言っても過言ではない。所謂現代アートや西洋美術等の『古典美術(笑)』には認められてない世界だが、マーケティングの精度や技術的なレベルから言ってもそれらは優に超えている。
そんな世界に僕は憧れた。しかし僕は努力ができなかった。絵が好きじゃなかったからだ。
絵が上手い人というのは、絵に対する異常な執着心がある。同時に、その時の流行りや廃りに敏感だ。いわば凡人でミーハーな感性と、絵に対する非凡な執着。
人が好きだと言う作品の二次創作に、対価が無くとも熱い思いを込めて何時間も集中して書き続けられる力。そんな職人的な、ともすれば搾取されがちな思考が神絵師を形作っている。
僕はそのどちらも無かった。世間からズレた非凡な感性と、凡人レベルの努力。やっとの思いで掴んだ絵の仕事、時給200円の末端底辺背景イラストレーター。
時給100円で神絵の依頼を受ける絵師を見て、この世界に俺の居場所は無かったと気付いた。
何度も出される無料リテイク、思いを込めた部分が雰囲気に合ってないと修正される。仲介会社は足元を見て、いかに安く絵を完成させるしか考えていない。
そんな中ふと手を出したライター業。2chや増田で文章を書きまくり、凡人でミーハーな感性と、文章や人間に対する非凡な執着を身に着けた大衆の仕事。誰でもできるお仕事。
時給換算すれば1000円は当たり前。2000円、4000円も行ける。
「この文章を読んで理解できたでしょうか。」ありきたりで形式的なまとめ文を書く。多分これを読んだ人は、解ってるんだか解らないような神妙な顔でアフィリンクを押すのだと思ったりする。
僕がイラストレーターを諦めた理由なんて多分この文章を読んだ人には一ミリも伝わらないだろうなと思いつつ。数年後には「だから僕はライターを諦めた」なんて文章を書くのかなと思ったりもする。
その時の媒体は多分紙。遺族はそれを見てどう思うだろうか。