はてなキーワード: ハプニングとは
ラブライブ!サンシャイン!!のライブに参加したお話です。
昨日今日と横浜アリーナで開催されたこのライブ、本当に素晴らしい内容でした。
私は2日目は残念なことに昨晩から体調を崩してしまったため、初日のみの参加でしたが、本当に満足のいく、多幸感の溢れるライブでした。
ステージ上部にピアノが設置され、桜内梨子さん役の逢田梨香子さんが懸命に目の前の88鍵と向き合う姿に心を揺さぶられました。
鍵盤を押す指が震えており、間違えないように慎重に…という心情が顔に表れており、それが大きなスクリーンを通して客席や全国の映画館へ流されているのかと思った時には、本当にこんなことしていいのかとも思いました。
ピアノの経験もなかったことでしょう。まさか、そんな自分が横浜アリーナで1万人を越えるファンの前でピアノを弾かされるなんて思ってもいなかったことでしょう。
彼女が当初、この構成を発表された時にどんなキモチになったのか、そもそもいつどこでどんなふうに発表されたのか、1人のファンである私には想像の余地もありません。
もし自分が同じ立場だったら、泣きながら拒否する以外に道はないと思います。怖いもん。
それでも、逢田さんは初日の公演で見事に弾ききりました。本当に心に訴えかけてくるようなパフォーマンスでした、ありがとうございました。
さて、本日の公演。
私は参加していない身分なので自分の瞳で確かめていないことなのですが、どうやら演奏途中で間違え、曲も止まってしまったんだとか。
肩を震わせる彼女のもとに、すぐに他のメンバーが駆け寄り、その後もう一度はじめからやり直したんだとか。
もしこれが本当なら、本当に頭が下がると同時にめちゃくちゃ「こわい」と思いました。
まずは逢田さん、本当にお疲れ様でした。頭が下がるばかりです。是非ともその場で応援させてもらいたかった。
そして、これってスゴくこわい問題だなって思いました。
奇しくも今日の公演でピアノを間違えて曲を止めてしまったこと、偶然です。
しかし、このハプニングがありライブは俗に言うエモい状態に入り、多くの観客の感動を呼び起こしたことでしょう。
よく「ハプニングを楽しもう」「ライブにハプニングは付き物」と言われますが、毎回毎回こんなハプニングがあったんじゃ観てるこっちも仕方がないです。
うまく表現できないため言葉の綾があるのですが、それでエモさを感じるのってすごいこわい問題じゃないですか?
μ'sの3rdライブを体験した方なら同意いただけると思うのですが、個人的に彼女たちの全てのライブを通して、最も印象に残っているMCと言われ、3rdライブのアンコールでのあのシーンを挙げる方々が多いと私は思っています。
端的に言えば「演者の泣く姿を垣間見たい」そして「頑張れ」って言いたいっていうエゴの権化みたいなアレ。
昨日の伊波さんのMCで印象的だったのが、多くの観客が執拗に拍手をしていたのに対し、「泣かせようと思ってるでしょ!」とバッサリ切ったあの場面。
あの一言で、図星を突かれた方々もいたのではないかと思います。
楽しかったから泣く、悲しかったから泣く…涙には様々な種類がありますが、感情の経過と変化の結晶が涙だと私は考えています。
決して、私たちが左右できるようなものではない。しかし、それを意図的に求めようとしている、つまり多少のハプニングに姿を表してほしいと思っていること。(今回のピアノの一件では、流石に観客側も一瞬凍りついたと聞いていますが…)
それって不健全じゃないですか?
というかそもそも、ピアノ初心者がピアノを弾かされるってこと自体がスゴい異常なことだと思っています。
これはAqoursや多くのアーティストのパフォーマンス全てに言えることだと思います。
私もいくつか楽器を嗜んでいるため、パフォーマンスをする側の精神をある程度は理解しているつもりです。私の場合、多い時には何百人以上の観客を前に演奏を披露することがあるのですが、やはりライブをするというのは楽しいです。
一方で、練習はやはりストレスが重なります。あくまでも私の想像ですが、Aqoursのダンスレッスンなどでも様々なストレスやプレッシャーがあったかと。そして特に。今回のピアノ披露は何よりもまず、彼女のプレッシャーが画面越しに伝わってきました。人ってあんなにも必死な顔をするものかと。
たしかに感動は産んだかも知れませんが、私のフォロワーさんの言葉を借りれば、彼女を追い込んでいたのは言うまでもないと。
ライブで自他共に楽しむため、もっとライブを盛り上げるため…というのを重々承知の上で、それでもやはりあのピアノの一件は本当に大変だったんだろうなと感じました。そもそも、そんなこと本当にやらせていいのか。マジでわかんねぇ。書き掛けの文章な上に、自分でも言葉の綾が多く見受けられる文章なのですが、これ以上の表現が思いつかなかったため、ここで筆を置かせていただきます。
ダンスの話になるのですが、あれだけの時間を掛けて、あれだけ完成度の高いステージ見せるのってラブライブ!くらいですよね。
以前、μ'sの飯田里穂さんが仰っていたことですが、ラブライブ!のリハは本当に長期スケジュールだったとのこと。おそらく、今回のAqoursもそうだったのでしょう。
そのせいか、他のライブでは感じられないような感動を覚えることが多々あります。
このような完成度の他に、ラブライブ!ではなく、ラブライブ!サンシャイン!!だけで私が感じたイメージが2つあります。
ひとつは、年齢が近いこと。
私は現在21歳で、Aqoursのメンバーとも歳が違いのですが、本当に同年代なのかと頭をひねるくらい、彼女たちは本当に輝いている。
特に、渡辺曜役の斉藤朱夏さん。彼女のダイナミックながらも指先まで繊細にコントロールされたダンスには本当に開いた口がふさがりませんでした。きっと、あのステージに上がるまで何年も何十年もの積み重ねがあったことと思われます。
年齢が近いせいか、μ'sの頃は少しお姉さんくらいに見えていたメンバーも、Aqoursでは明らかに他人事ではない、自分のすぐそばの出来事のように様々な事象を感じるようになりました。
そしてふたつめに、ラブライブ!サンシャイン!!という作品が、ラブライブ!の頃よりもより観客をコンテンツに取り込もうとしている姿勢。
この「輝き」の正体、物語を通して一度もそれが何なのか名言化されることはありませんでした。
一方、ラブライブ!サンシャイン!!では「輝くこと=楽しむこと」と第13話で名言化されました。この後に披露されるMIRAI TICKETの1シーンで、千歌さんが「一緒に輝こう!」と観客席(=いわゆる私たちの側)へと訴えかけるというものがあります。
また、この傾向はAqoursの物語の根幹にも通じているのではないでしょうか。
Aqoursは自分たちの歩みを「0を1にする物語」と題しました。ここまで物語のテーマを明らかにしたこと、当時の私には本当に驚きでした。
μ'sが「1を100にする物語」であれば、Aqoursは「0を1にする物語」であるということ。μ'sの頃には明言化されていなかったことが、Aqoursの物語ではわかりやすく、伝わりやすく(そしてあえて伝えようと)私たちに提示されたのでした。
この2点の結果、私はAqoursのコンテンツに足を踏み入れることに、圧倒的当事者意識を感じざるを得なくなりました。
μ'sの頃はどこか他人事のように見ていたというわけではないですが、Aqoursのライブを見て「自分も何かを始めたい」「何かやり遂げたい」と昨日のライブを見て強く思うようになりました。
これって、制作側のピンポイントな狙いに見事に食らいついた事例だと思っており、この2日間のライブでまさにAqoursがライブを通して私たちに伝えたかったことだと感じています。
以前よりも強く、当事者としての意識を持たざるを得なくなったAqoursのライブ。このコンテンツを追い続ける限り、進めば進むほどその魅力に打ち負かされることが容易に予想できるのが素直に「こわい」と感じました。
最後になりますが、初日のみの参加ながらも、Aqoursのライブ本当に楽しかったです。
一年前は「いや、μ'sがファイナルライブやるんだからAqoursの2ndシングルとかしらねぇよ!」とAqours関連の情報をぶった切っていた私ですが、幸か不幸か意志薄弱な私は、昨年夏にコロっと斉藤朱夏さんにヤられてしまいました。
先ほど、これほどダンスに鍛錬を重ねているのは極めて稀だと書きましたが、それもあってか本当にライブを観ることが楽しくて仕方ありませんでした。
今年の夏には神戸、大阪、西武ドームを巡るツアーもあるんだとか、また彼女たちの奏でる音楽に身体を預けられる時間が来るという事実だけで、今から心が踊ります。
これはまだ先の話だと思いますが、彼女たちもスクールアイドル。きっと終わりがあると思います。しかし、今この瞬間は本当に楽しい。その多幸感、際限のない底知れぬ多幸感こそが、私がラブライブ!サンシャイン!!のことを「こわい」と感じる一番の理由です。
なんだかんだ言いましたが、やっぱりラブライブ!ってスゴいです。ライブという空間が非日常的なものであるということを理解しつつも、やはりラブライブ!には何か他のコンテンツには無いものがあるのだと思います。あの4時間が本当に楽しすぎてこわかった、今後もコンテンツのオタクとして心の扉を更に下へと開き続けさせられるのが本当にこわい。
ラブライブ!サンシャイン!!って、本当にこわい作品。
そして、とても重いものです。
あまりの多幸感は、ライブが非現実だと理解っていてもいつか何かで身を滅ぼす気がする。
その日が来るまで、せいいっぱい楽しみたいものです。
「習慣は「なぜ続かないんだろう」じゃなく「なぜ始められないんだろう」と問うところから」
5年後に成し遂げたい目標を定めている。やり遂げるためにはコツコツと積み上げていく努力が欠かせない。成長を積み上げて成果を挙げ続けられるような自分になりたい、そういう理想がある。毎日自分を鍛え生産性を高めるために、身に付けるべき習慣がたくさんある。運動の習慣、学習の習慣。それぞれに充分な時間も確保したい。心を鎮める時間、自分の成果を振り返る時間、自分の将来を計画する時間、遊ぶ時間、働く時間、学習の時間、寝る時間、食べる時間。でも現実は全く成長しない、理想とかけ離れた現状に気持ちだけ焦る。やりたいことがやれない悩み、焦りが消えない。そのくせ何の習慣も身についていない。振り返って「なぜ続かないんだろう」自分はダメなやつと落ち込む。忘れっぽくて、飽きっぽいから、やろうとしたことがすぐ尻すぼみで消えていく。根性なしで、メンタルも弱っちいから、ちょっとしたハプニングや予定変更で気持ちが萎える。「やる気が足りなくて」「心が折れて」所詮自分はその程度で、面倒だから諦めてだらしないままギリギリで毎日をごまかして過ごしてる。
続けるにはどうしたらいいんだろうとずっと考えてた。そうしているうちにどうせ続かないから、まず始められない自分に気づいた。始まらなきゃ続くもなにもない。そもそも続くっていうのはどういう状況なのか見直した。作業にはまず始まりがあり終わりがある。継続は、まず始めること、終えること、そしてそれを繰り返すことで成り立つ。終わらせない、途絶えさせない、のではなくて、きっちりと区切りをつけて一旦終える。それをまた始める作業を繰り返せばいいのだ。続けなければと意識すると、間が空いた瞬間に途絶えたと感じてしまう。その意識が勝手に継続を終わらせてしまう。次が始まればそれは続いてる。作業は終えなければ仕上がらない。作業は一度ずつきちんと終える、が、その繰り返しは止まらない。継続するとはそういうこと。習慣を身につけること、何かを継続することを目指すなら、どれだけ早くまた次のサイクルを始められるかに心を砕くべきだ。
どうやったらすぐに始められるか。始めるためのハードルを下げればいい。始められない理由をなくす。どうして始められないのか。心理的な問題は、面倒、不安、恐れ、忘れ、うまくいったことがない、成果が感じられない、成長が感じられない、途中でやめたくなる、つまり作業を終えられない不安とやる意義を見失うこと。物理的な障壁は、時間がない、場所が悪い、体が動かない、やり方がわからない、準備ができていない、つまり必要なものが足りない。どう解消するか。成果と成長を実感できる仕組み、必要な道具や時間や労力を最小限にする工夫があれば良い。究極的には手間も時間もかけずにいつでもどこでも自動的に始まってしまう仕組みになればいい。
そのためにやることはたった一つ。ひたすら「効果的な習慣を身につけられる能力」を追求すればいい。手間を減らす、時間を短縮する、成果が実感できるよう評価試験する、その三点にだけ絞って考え、答えを出す。そういう作業を繰り返しているのだと思えば良い。その作業のうちに、自分がやりたかったことが片っ端から試されて、意識せずとも勝手に習慣になっていくはず。
リオ・オリンピックで棒高跳びの荻田大樹選手が、跳躍のときに自らの股間の棒がバーに当たって失敗してしまった(ように見えた)というハプニングがあった。
産経ニュース:「棒高跳び・荻田大樹の失敗の瞬間をとらえた「ハプニング」映像 欧米などで視聴回数888万回以上 低俗内容に批判も」
http://www.sankei.com/rio2016/news/160817/rio1608170043-n1.html)
海外ではBBCも報じるほどの大騒ぎになっている。
BBC:「Olympic pole vault penis claim denied by Japan athlete Hiroki Ogita]
http://www.bbc.com/news/world-asia-37103648
ネタ的には、はてブでホッテントリ入りしてても可笑しくないのに、今のところその気配は無いようだ。
所詮、メジャーな競技か日本人がメダル取りそうな競技で、かつ日本語で情報発信されているものしか話題にならないのかな?と考えると
結局、はてなであれやこれや言われていることなんて、世界的に見れば井戸の中の蛙の鳴き声にしか過ぎないのだろうなあと思った。
今回は裏サンデー
ちなみに、各サイトの漫画には一応ほとんど目を通していて、「(良くも悪くも)感想を書きたい」と思った場合に書いている。要は面白いからといって感想を書くわけでも、ツマラナイないから感想を書くとも限らないということ。
当事者が重く受け止めすぎていたけれども、精神構造は割かし単純な話だったというパターンか。
「兄SUM」は笑えばいいのか、リアクションに困るな。
人間ドラマの描き方が好きだから読んでいるけれども、この作者のこういうセンスは未だノリきれない。
ただのラブコメに興味はありません。
メイド喫茶を経営する上でかかる費用とかの話が出てきて、コメディではあるけれどもそれなりには考証するつもりがあるのね(妥当かどうかはともかく)。
前回の話で、リアリティは全て投げ捨てる方向性かと思ったので、そこは個人的に安心(リアリティを全て投げ捨てるスタイルも非難はしないけれども、それをやっちゃうと今後起こるハプニングやそれの解決も何でもアリになりやすく、茶番になって白けやすいので)。
ただ、すごく説明臭いというか、読んでて面白い話ではなかったね。
今回のが後の伏線とかになるなら話は別だけれども。
玩具で遊ぶメインターゲットは子供だけれども、それを作るのも買い与えるのも大人だからなあ。
だからこそ、せめて心だけは子供であろうとするってことは大事だという理屈は分かる(秋月は極端だけれども)。
12歳の主人公が大人になる話なんだけれども、彼が「ビルが変形するより、昆虫が変形した方が面白い」っていう場面は今でも何となく覚えている。
なんか、書いてたら久しぶりに観たくなってきた。
たまに本気で勘違いしている人がいるけれども、生活をするために必要な金を手に入れる方法として働くことが分かりやすいというだけで、働くことそのものに是非はないんだよね。
お金のために働いているわけではないというと御幣があるけれども、金だけを目的にしているわけではないのは確かだと思う。
まあ、それはそれとして、本編の話。
他人の提唱した説を借りてきてまで語っておいて、オチがこれって……。
作者自身、手に余ってんじゃなかろうか。
それとも、漫画は大衆娯楽だから、これ位のノリの方がいいと思って描いているとか?
う~ん、大丈夫か、これ?
新たな展開として、今話だけ見れば面白そうに見えなくもないけれども。
今回は少年ジャンプ+
会話含めて構成がわざとやってんのかってくらい間抜けすぎて気になったけれど、展開としてはやっとエンジンかかってきたかな。
というより、これまでが「本誌では絶対にやれないことをやってやろう」という意気込みだけで書いてる節があったからなあ。
この前のってた同じ作者の読み切りでも、「ヒネたことやればイコール面白いと思ってんだろうなあ」って感じで、私のこの作者に対する印象はお世辞にもよくなかったし。
「松井優征と吾峠呼世晴のダメなところだけ抽出して出来た」みたいな感じ。
サイトの紹介文ですら「漫画業界に衝撃走るクソ漫画、爆誕!!!!!!!!」というだけあって、本当にクソ漫画(ウンコが出てくるという意味ではなくて、出来という意味でクソってことね)。
面白いか面白くないかでいえば、贔屓目に見ても面白くないけれど、“そういう目線”で見れば面白いと思う人もいるかもしれない。
ただ、「もとからクソ漫画しか描けない作者に、わざとクソ漫画を描かせた」みたいな薄ら寒さがあって、どちらにしろ私の中では悪い意味でクソ漫画と評価せざるを得ない。
ファイアパンチの作者にもいえることだけれども、「ちゃんと」描ける地力があって初めてこういう斜に構えた漫画は面白さが増すと思うんだけどなあ。
それ以外は割と読めなかったが。
途中でドラマティックな展開が入って~とかいうのも、それはそれで白けるしこれでいいんじゃないかね。
まあ、ニセコイがもう終わりに向かっているから、スピンオフのこちらもそりゃあシメに入るか。
悪役の動機は、まあ元の方知ってたら妥当だとは思うけれども、大して面白みのある理由じゃないね。
恐らく決着ついたわけだけれども、まだもうひとハプニングくらいあるよな?
どうせ、なんか最後の足掻きで大ボス出てきて、メインキャラたちが協力してちゃんちゃんってところだろうな。
展開としては王道、悪く言えば見飽きたってところだが、サブキャラだけが最後にでしゃばって終わりじゃ締まらないんで。
Cブロックの東雲親子戦は、ちゃんと戦術的にも勝ちにきたのは当たり前なのだけれども、不覚にも感心してしまった。
ラストは変な引きだけれども、ジュエルのこれまでの言動的にどう考えても空気読まずに変に頑張るタイプだろ。
というか、もう主人公が勝つこと前提で「空気読めよ」って感じになっているのが不憫だな……。
裏切りがあるかもしれない状況で、全員に役割を与えるのは不安だが、そうもいってられない状況だし仕方ないか。
コップ一杯の水でも溺れる可能性があるとか、難儀だなあ。
せっかく消極的な子が頑張ろうとしているときに、出鼻挫かれた形はツライ。
そんでもって活躍はお預けか。
どこかできっと大きな見せ場があるんだろうけれど、勿体ぶるなあ。
さて、ウルガーがここにきて射撃のスキルを発揮することになりそうだが、彼の背景含めて次回で語られることになるのだろうか。
今回はガンガンオンライン
本筋は、いつも通りからまわり展開で、安定感がある。
まあ、強引ではあるが。
それはそれとして、採血したのは伏線だったりするのだろうかね。
さすがに、このままグリーンマイルじみてネルガルが処刑されたらギャグにならないので、どこかで脱獄するか無実証明に進展するのだろうけれども。
できれば脱獄後の生活を描くみたいな引き延ばし展開はやめて欲しいところだが。
今回、大分振り切った描き方をしてきたな。
将棋の戦術とか細かく説明されてもついていけないので、あくまで成長に必要なものが他のジャンルでも適用できそうな要素にしたのは正解だと思う。
弟子の成長もだけれども、同時に師匠の成長物語でもあるので、今後どう展開させていくか楽しみなところではある。
さて、ライバルキャラっぽいのが登場したようだが、どう絡ませていくのか。
とあるRPGとか映画を知っている人なら、ウサギは絶対に油断しちゃいけない相手なんだよね。
まあ、ボーパルバニーをそのまま本作に持ってきたらシャレにならないのでマイルドなんだろうけれども。
そっちが破れるんかい……。
「さくらえび子ちゃん」とか、造形といい完全にピーヒャラピーヒャラだし。
応募数が3桁超えてるってのもアレだが。
展開としては、もとが先輩が悪ノリして~ていうやつなので、別に続かなくていいかな。
何がとは言わないけれど、今回は随分と「露骨」だな。
さすがにちょっと引いたわ。
それにしても、風邪でサムゲタンだと「あれ」を思い出してしまうあたり、あの一件で騒いだ彼奴らの罪の重さよ……。
適切かはともかく、風邪だといっても、それなりに味がしっかりするもの食いたいのでアリだと思うんだけどね。
はしゃぎ方が完全に「アレ」でそれだけでも笑えるが、それでオチがより際立つね。
まあ、八頭身ネタとかがあるように、極端なのはネタにしかならないってのは周知だけれども。
現実のスキャンダルとかとは性質が違っても、アレみてこれまで通りファン続けるのは難しいわな。
絵面のインパクトとしては、ギャップもあって今まで出てきた妖怪でもトップクラスだし。
それにしても急遽呼び出したんだろうに、自分の生活があるにも関わらずちゃんと来てくれる妖怪たちが微笑ましいな。
いやいや、ああいう絡み方されたら、黒田じゃなくてもそう思うって。
本当に仲良くなりたいなら「相手のリアクションの大きさ」ではなくて、「どうすれば悪い印象を持たれないか」、「好印象を持ってくれるか」をよく考えて振舞わないとダメだわ。
もちろん、黒田が壁作っているというのもあるんだろうけれど、仲良くなりたいと第一に思っているのは八木なんだから、まず八木の言動を何とかしないと。
ただ話自体は、先生も先生っぽいことをやって、黒田も成長して関係性も向上と、これまででかなり綺麗に纏まっている部類でよかったかと。
男の子に見える設定にしたのは正解だったな。
だからこそ通常時の辛辣な態度で男の子が不憫になり過ぎないし、ギャグとしても成立する。
悪役もいる漫画で、モブとかで変に嫌味なキャラとか追加されても呼んでて不快感が増すだけだから。
急なハプニングで主人公が焦りつつも、冷静に対処しようとする狭間が伝わってきてよかったかな。
このまま電話越しでの交流なのかと思ったら、意外と早く医者の人の姿出てきたね。
この調子だと、ボイチャで話す編集の人も物語に絡んできたりするんかね。
さて、案の定というか、敵(?)に見つかってしまったわけだが、明らかに普通の人間ではない相手に、民間人がどう立ち向かうか。
ウチの部署はデザイン系ということもあって、滅多に部署全員(と言っても10人前後)で飲みに行くことはない。
俺は中途採用ということもあり、部署全員と飲みに行くのは初めての機会だった。
さて、宴会も盛り上がってきて、たまたま恋愛トーク的なノリになったとき、
俺は軽い自己開示のつもりで三十路過ぎても彼女いないよ、という(男同士ならそこそこウケる)鉄板ネタを開示してみた。
すると、どうだろう。会社の同僚女性がよってたかって俺を精神的に叩きまくる。
切なくなるから言われた台詞をいちいち書くつもりはないが、端的に言って人格否定のオンパレードだった。
挙げ句の果てに「お前みたいのが犯罪起こすんだろ!痴漢!ロリコン!警察突き出すぞ!」って、酔い過ぎだろ(汗)
別に変にフォローが欲しかったわけじゃなくて、単に話のネタを振っただけのつもりだった。
男同士なら「マジか! じゃあ今度誰か紹介するわ。まあ飲め!」的な流れで終わる話だと思う。
それが俺の人生人格を微に入り細に入り批判、避難、罵倒の繰り返し。まさにサンドバッグだった。
俺が軽く涙目になったのを察して、優しくてダンディな上司(男)が止めに入ってくれたお陰で、
少なくとも同僚全員の前で号泣するハプニングだけは避けることができた。マジ感謝しますm(_ _)m
女性にとってモテない男性というのが相当アレな存在ということは勉強になったが、
正直、酔いが入っているとはいえ、そこまで徹底的に相手をこき下ろすのはどうかと思う。
女性諸君、逆の立場で、モテない女性に対して同僚男性が集団で罵倒し倒す様を想像してみてくれ。
前項
http://anond.hatelabo.jp/20160309203614
要約すると、赤子が本来の人間の姿、大人は記憶や経験が邪魔した生き物、という結論である。
当然産まれるまでの過程に、親を引き継ぐわけだから、一部では意味合いが違うかもしれない。
それを証明するための例を上げてみようと思う。
定義として赤子が本来の人間とした場合、大人はこういう局面をクリアできるだろうか?
例1,赤子を笑わせる
大人はあらゆる手段を使って、笑いをとろうとするだろう。
それは、大人の世界で言う、落語、お笑い芸人のコントや、予想外のハプニングへの共感などがそうだ。
ただ、赤子には、言葉は通じない。
ただ無表情で大人を見つめている。
大人は、赤ちゃん言葉をつかって、いないいないばあなどをしたり、
それが伝わらない赤子はそのうち泣き出す。
その3へつづく
あのころはオーフェン、スレイヤーズみたいなファンタジーが主流だったかなぁ。
能力バトルもラブコメたくさんあったけど、割と自由奔放だったと思う。
それらが土台となってある程度の読者に受けるポイント、つまりテンプレが構築されてきた。
いい意味で何でもありだった。
「学園異能」「異世界転生」「謎部活」「俺TUEEE」などなど。
でも別にこれは悪いことではない。
読者はある程度どういう物語なのか、どれが売りなのかを知ることができる。
でも「テンプレばっかり」ってのは違うと思う。
問題はパッケージングで、表紙や挿絵、あらすじ、あるいはエロハプニングといった細かな展開が
テンプレになぞったものばかりになってイメージが似通ってしまうこと。
読んでみると違うんだけど、一見すると同じに見える。
先日も、当時はブギポの表紙が斬新だったって話題をTwitterで見た。
絵師さんが悪いわけではない。
問題は全体的なイメージが平均化されてきてしまってるということ。
これハプニングか?
もともとはデルヘル嬢とラブドールを並べて写真を撮るとかそんな作品なんだろ?
皆デリヘル嬢にこだわってるけど、実際には嬢からの許可やら店の許可も撮るだろうし
そいうことなら作家が映画方面映像方面出身というのもよく分かる話。
お前らバカすぎ
本来の問題は「それがアートか否か」ではなくて「デリヘル嬢の気持ち考えてねーのかよボケカスクズ」って話だったと思うんだけど
アートだと思うのならそうした拒絶も乗り越えてハプニングを起こしてしまうべきであり、「アートだから」といって拒絶すること自体を拒絶するのはおかしいんじゃないの?
作者にそれだけのやる気がなくてただ何も考えてなかったってだけでしょ
「現代アート展示会場にデリヘル嬢を呼ぶ」というクソみたいなことをやろうとしていた界隈が本当にクソだった
http://kyoumoe.hatenablog.com/entry/20160131/1454226318
これはアートじゃないボケ、コメントばかり目についたので雑感。
怒りのまとめを目にした時、ああ、ハプニングなんだねと思った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B0
日本でも関西の具体美術を中心にハプニングを制作・実行されており、
東京でも1960年に、アンドロイドのCMで現役ばりばりにボクシングペイントをしていた
篠原有司男が「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」が結成されている。
この界隈というか中心にいたのが、一昨年なくなった老人力の「赤瀬川原平」。
その赤瀬川原平が結成していたのが、ハイレッド・センター。
ハイレッド・センターというか、赤瀬川原平は、1,000円札の模写で
1965年に通貨及証券模造取締法違反に問われ、起訴されることになる。
というわけで、いたって古典的なハプニングがいまだに行われていることに驚いたけど、
そこのところは分かっていた方がいいんじゃないかな。
結論を言うと、市芸で実行されたらそれはアートになってしまうんだね。
それはなぜかというとまたの機会に。
女が作者の作品は惚れてからセックスする流れが多いけど、男が作者の作品は好奇心とかハプニングとかからまずセックスが始まって、何度もヤるうちに愛しくなる、みたいなのが多い。
同性のコンビの片方が性転換して女になって〜みたいなやつとか、まずヤッてみてから「か、かわいい…ハッ、何ときめいてんだ俺!こいつは元は男、しかも親友じゃないか…!!」とか葛藤し始めたりするのでギャグかよって感じになる。
女からしてみれば「惚れてもない相手にカラダ任せるとかリスキーすぎ」という自衛意識があるから「まずセックス」とかリアリティが無さすぎるし、男からしてみれば「とにかく性欲を発散したい気持ち良くなりたいそれでも引かない女が欲しい」ということでまず自分の最もケダモノな部分=セックスからスタートしてそこを受け入れてくれた女を愛したいという心理があるんやろなあ、読み手の欲望とかジェンダー的価値観を反映しとるんやなあ、と思ってたが。