はてなキーワード: 飲み会とは
大人になってから知り合った人と親友になれるとは思っていなかった。その人は私の同僚の知り合いで、最初に会ったのは居酒屋だった。その後も何度か飲み会で一緒になって、映画に誘ってもらったり二人でお茶したりして、いつのまにか月に何度も会うようになっていた。どのくらい仲良くなれば親友と言えるのかわからないけど、勤め人の貴重な休日を半分も私のために使ってくれるのだから、ここではそう呼んでいいことにしよう。
初めて二人で旅行をしたのはライブの遠征にいったときだった。宿を相部屋にしないかと聞いてみたら、それでも構わないと返ってきて、ちょっとおしゃれなホテルを予約した。誰かとお泊りをするのは高校生ぶりだろうか。疲れていてすぐに眠ってしまったけど、きれいな部屋でお喋りをしてすごく楽しかった。それからもライブにかこつけたりかこつけなかったりして何度か旅行をした。二人とも街歩きと甘いものとお酒が好きで、ぶらぶらと街を歩いて見つけたカフェやバーに入ってみるだけのあまりぱっとしない旅行だったけど、私達には調子が合っていたんだと思う。
ある晩、好きな人がいるのだと話してくれた。大学の同級生で友人としてはずっと仲が良いらしい。お酒を飲んで宿に戻って二人きりになると、きまって嬉しそうにその人の話をしてくれるものだから、私は密かに旅行の楽しみの一つにしていた。その想い人を紹介してもらって三人で遊ぶこともあった。三人でいてもその人のことばかり見ていて、本当に好きなんだろうと思う。想いが通じるのを願ってはいたけど、心の三分の一くらいではまだしばらく独りでいてほしいと思ってしまっていた。
そんなふうにしばらく仲良くしていたけど、ここ一年は数えるほども会えていない。秋口、映画を観てお茶をして駅で別れたのが最後だ。正直に言うと会えなくて寂しい。触れ合って眠ったときの感触を不意に思い出してしまう夜もある。
なにかしたくてバレンタインデーにチョコを贈った。メッセージカードを書いたら、思いの外ラブレターみたいになってしまって気恥ずかしくなった。翌日「ありがとう」とだけスタンプが届いた。お互い普段から素っ気ない方で、この返事自体にどうということはないけど、カードを読んでどう思われたか気になってしまっている。私にも片想いを相談できる親友がいたらよかったのだけど。
大手といってもその業種がニッチ過ぎて競合相手がいなかったからだし、私も含め末端の人たちはみんな非正規だったのだけれど。
私のいた部署は出社して、管理職からとある書類を貰ったら各自振り分けられた複数の会社に行き、持ってきた書類にハンコ押してもらったり訂正して頂いて、回り終わったら帰社して明日の書類の準備をするという、営業と事務半々みたいな業務をしていた。
そんな業務の微妙さや仕事してる姿を誰にも見られないからか、普通と呼ぶにはちょっと「?」がつく人が多かった。
覚えてる限りを挙げてみると
・借金で首が回らず家賃も滞納しているため家に余り帰れず野宿しがちで、携帯も家電もないから消費者金融が会社に電話や直接回収しにくる40代独身。
・寡黙過ぎて10年勤務しているけれど、最寄りの駅と年齢以外のことを誰も知らない30代後半の男性。
・モーニング娘。が好き過ぎて関東圏に来る時は大体のコンサートに行き、次の日には体調不良で当日欠勤をするが、皆それが酷い二日酔いなのが暗黙の了解だから、昨日はモー娘のコンサートがあったという無駄な指標になる人。
・「私、夫が誰にも知られちゃいけない秘密を一つ握ってて、それがある限り自分は自由に生きられるの」と言っていて、周囲は「一体どんなことを」と思っているが気が強いので誰も言い出せない姐御肌の30代女性。
・機械オンチの同僚のPC端末の壁紙を突如νガンダムに変えたり、黙って無表情に仕事をしていた私に、飲み会で私に「あなた何人目?ねえ何人目?」と泥酔しながら聞くガチオタ既婚男性。
・ゲイでオネェなことを全く隠さないで話すのは構わないとして、片想いの同僚が他部署の女性と婚約したのを知り、心痛の余り会社を無断欠勤を数日間して、心身を心配して手土産を持って課長が自宅に訪ねた男性。
・その課長には愛人が3人いて、さらに奥様との夫婦生活も月1であると忘年会で暴露し、姐御さんに
「50代でそれってお盛ん過ぎませんか?!」
と詰め寄られていた。
他にも様々おりましたが、代表的な人はこんな感じでした。入社して1ヶ月くらいの時、若手の正規社員に
と心配されたりもしたけれど、私は元気でした。
結婚を機に引っ越すので退職したけど、社会のすみっこで微妙に生きづらい人には凄く快適だからあんなだったのかもな、と今でも思ってる。
私は別に潔癖症ではないけれど、本当にやめて欲しい。シンプルに汚い。
まず地面は動物のフンやら誰かが吐いた跡とか目に見える形でも既に汚い。第一、普通に考えてトイレに行った後の靴で街を歩いているわけで。
最近の駅やデパートは結構こまめに掃除してくれているところは多いけれど、それでも誰かがこぼしたおしっことかを意図せずに踏む事はある。
その靴で外や電車、店内とか歩くじゃん。汚くない?
雨の日の電車内とか床は泥と水分でドロドロになっているのになんの抵抗もなくリュックを置ける人の神経がわからない。ほんとか嘘かは知らないけど大腸菌はトイレットペーパー36枚くらい重ねないと手から検出されるらしい。じゃあリュックだって突き抜けるじゃん、リュックの中大腸菌だらけじゃん。床には大腸菌以外の菌がいっぱいいるわけだし。
そういうどこでもカバンを置いちゃう人て、机の上とかにも汚いカバンを置く。特に学生。そういう人は多分何も考えてないのだと思う。何も考えずにいろんなところに汚いカバンを置く。持ってると重くてきついもんね。確かに満員電車でリュックを背負ってたら邪魔などの理由があるのはわかる。でもそれなら椅子の上の荷物置くスペースがあるんだからそこに置いて欲しい。
同じ理由でスーパーとかで籠を床に置いちゃう人。食べ物入れてるのによく床におけるな、と思う。もう見るからに汚い床に置いてる人もいる。重くて持っているのが辛いならカートを使えばいい。そういう人見ると、すごい偏見なのは承知で地面に座るのも抵抗ないのかな、そのズボンでお店で飲み会するの…?と思ってしまう。カゴなんて重ねておいておいて使い回しじゃん。次以降の人が使うことを考えてないんだろうな…
昔学校で「床から30cmの高さはもう不潔区域」だって習った。だから私は正直お店とかに入った時に籠が床に用意されてたら引いちゃう。そこに自分のカバンやコートとか入れたくないし。混んでる状況下では仕方ないから籠に入れるけど、広い席に通してもらった時は籠じゃなくて椅子の上に置かせてもらう。買い物の袋とかをどうしても、どうしても床に置かなければならない状況になったら場合は自宅に帰ったら中身だけ取り出して袋と包装していた箱なりビニールも一緒に速攻破棄。絶対家の床にも置かない。
コロナになってから清潔不潔について考える人が増えたし、いろんなお店が今まで以上に清掃・消毒をしてくれている。みんなこまめなアルコール消毒をする様にもなった。
まぁ、汚いのは手が触れる場所も同じ、吊革(同じような理由で基本吊革も掴まない様にしている)やスマホも同じくらい汚い、と言われてしまったらそこまでではある。世の中黴菌だらけだし、完全無菌状態なんて日常生活じゃ不可能だし。人間の中にだって菌は住んでるし、食べ物だって菌いるし食べるし。この考えは一個人の意見でしかない訳だから気にしすぎても仕方がないのもわかっている。でも汚いからって汚いものを重ねていい理由にはならないと思う。
床に置いた汚い荷物をいろんな置くことで、せっかく綺麗にした場所が汚染されている現状は、みんなの「(例えコロナ予防だったとしても)清潔にしよう」という努力を無碍にしているな、と思う。
いわゆる中堅大といわれるところだ。平均偏差値は45くらい。滑り止めで入った学生が大半を占める。私もその一人だ。
大学4年間のことはあまり覚えていない。アルバイトとサークル活動であっという間に過ぎていった。
記憶がない。本当に記憶がない…自分は何をしていたっけ? そこまで無為には過ごしてはいないはずなんだけど、私の記憶の水槽の中には、講義中にボーっと過ごしていたこと、学食でいつも一人ご飯を食べていたこと、飲み会のノリについていけずにちびちびと酎ハイを啜っていたこと――大した思い出は詰まっていない。
こんな自分だけど、景気がよかったおかげか、いわゆる大手企業に入社できた。この業界では一流とされている。
会社名を出したとすると、「いい大学を出ていない人でも社風がマッチすれば内定が取れそう」といったイメージを持たれることだろう。
私自身を殺したい。
子どもの頃は、絶望とか、虚無とか、疎外感とか、そういったものを感じたことはなかった。アニメやドラマに出てくる人達がそういう状態になっていても、自分には関係がないと確信していた。
大学3回生の秋になって始めた就職活動で思い知ることになった。通っていた大学のレベルの低さを。
志望していた企業は説明会すら受けられない。どれだけ気合いを入れてエントリーシートを書いても、通過率は2割に満たない。大手企業に至っては、今の会社以外すべて門前払いだった。
うすうす分かっていた。
学際サークルに所属していたが、大学名で見事に序列ができる。特に、異性なんかは、私が大学名を出した途端に空気が変わる。嘗められている感じ――こいつはイケそうと思われている感じ――頭が弱そうと思われている感じ――とにかく、私が大学名を名乗ると、話相手だった人間の態度が変わる。心が変わる。私に対して変わる。
どうして私はあの時、浪人を選択しなかったんだろう。どうしても行きたい大学があったのに。
あと少し頭の回転が速くて、あと少し努力ができて、あと少しだけ運がよければ合格できた。だったら浪人した方がよかったのに。
もうこんな年になるのに、あの当時の夢を見る。夢の中の私は、浪人を選んでいる。それで、もっともっと勉強して、第一志望の大学どころか、さらに上の国立大学に合格して、それでも第一志望の私立大学を選ぶのだ。
朝になって目が覚めて、これが夢だとわかって、通勤中に夢じゃなければよかったのにと思い、勤務中に昔の自分を思い出しては嫌悪を感じ、過去の自分に鞭を打つ。
こんな苦しい思いはしたくない。どうすればいいのだろう。
もう少しだけ聞いてほしい。もっと話せば、気持ちの整理がつく気がする。
つまらなくないように配慮する。増田に書いてはいけないことを書くかもしれない。でも、それはフェイクなのでセーフということにしてほしいんだ。そういうことにしておいてほしい。頼む……
エピソードをひとつ挙げる。私がまだ入社1年目で、転職エージェントの見習いだった頃、先輩から課題が振られた。私ともう一人の同期の男子に。
その先輩は、事業所内でも実力のある若手だった。今では私の直属の上司だ。当時は、新人だった私のサポーターとして色々教えてくれていた。
課題というのは、転職希望者リスト(履歴書+職務経歴書+参考資料)の並び替えだった。何十枚ものクリアファイルの一つ一つに、転職したい人の情報が挟んである。
「お前ら2人で勝負な。これを並び替えといて。ルールは任せる。変な並びになってても、そのとおりに使うから。元に戻したりしない。その代わり、変なの作ってきたら今後のことは考える」
先輩が椅子に腰かけていた。その目の前で、私と、同期の子が一緒に並んで話を聞いていた。先輩の指示を聞いていくうちに、どんどん不安になっていった。
お昼ごはんの時のコーヒーが喉に絡んだ。いま話をしたら、変な声になるんだろうなと思うと、先輩の顔を見ることができなかった。スカートの上の方を握りしめて、離して、握って離してを繰り返していた。
勝負なんてしたくなかった。負けるに決まっていると思っていた。
「彼」は、私の同期だったけど、私とはレベルが違った。関西にある一流の私立大学を出ていた。浪人も留年もしていない。そのうえもちろん、新卒入社だ。
私が行きたかった大学だった。それも法学部。私は1日に10時間以上もの勉強を半年以上も続けて、模試で一番判定がよかった政策学部を受けたものの、合格点まであと30点も足りなかった。
でも、その彼は、高校3年生の夏頃まで、週に何度も同級生と麻雀をしていたという。子どもの頃からサッカーをしていて、イケメンで、背が高くて、空気が読めて、……私よりも頭がいい。
部屋の中央に長細い机がふたつ重なっていた。その上に、個人情報の詰まったクリアファイルの山が置いてある。私がまとめたのと、彼のだ。
彼は緊張している様子だった。いつもはニコニコしているのに。
「こいつの見てみ」
こいつ、とは私のことだ。彼は私が整頓したグループを手に持つと、指先で丁寧に捲っていった。
「お前も」
先輩から、「彼」が並び替えをしたクリアファイルの山をもらった。
……整然としていた。業界、職種、特技、資格、学歴――様々なカテゴリがきめ細かく揃っていて、一周する頃には、誰がどの辺りにいたのか大体思い出せた。
「参りました!」
芸人みたいなリアクションを取りながら、彼は私に頭を下げた。おどけた様子だった。
「俺のより〇〇ちゃんの方が絶対いい」「俺にはこの視点はなかった」「営業所全体で共有しよう」
そう言って私のことを誉めそやすけど、上っ面だった。こいつは私のことを馬鹿にしている。
「頑張ったな。こんなの作れるなんて、感動してしまった。お前はすごい」
声の方に体を向けると、先輩が、笑顔とも苦笑とも取れない顔つきで長机に肘を置いていた。
「そうでしょ!〇〇ちゃんスゴイって思いました」
彼の言葉は嘘だ。この場をごまかすためだけにしゃべっている。その証拠に、ネクタイの首元を撫でるように触れている。
「でもな。今回は、〇〇の勝ちとは言い難い。というのも……」
ほら、やっぱり。
もうロクに覚えてないけど、仕事の速度、コストパフォーマンスという言葉が出てきたのは覚えている。彼は、これを1日で仕上げてきたらしい。私は3日かかっている。だから、私の方が質がいいのは認めるけど、私の勝ちとは言い切れないって。
先輩は、彼と同じ大学だった。同じ部活か、同じゼミか忘れたけど、とにかく繋がりがあった。だからだと思った。彼のメンツを潰さないように配慮した。
先輩は、「彼」の顔を立てた。私がどれだけいい物を作ろうと、彼と同じ日数で完成させようと、彼がどれだけよくない物を作ろうと、『私が勝てない』という結果は決まっていた。
先輩は、私よりも彼の方が大事で、だから私をダシに使ったのだ。
彼は、小会議室から出てすぐ、ディナーに誘ってきた。「ご飯行こうよ」と言われた。「泣かんでもいいじゃん。俺が負けたんやし」とも。
行きたくなかった。彼は私を馬鹿にしている。そんな相手と食事はできない。
彼だけじゃない。私だって私を馬鹿にしている。私は頭がよくないし、子どもの頃から自分の意思を実行する力に欠けている。
甘えたい私に負けて、自分で自分に誤った道を導き続けてきた。だから、こんなに情けない今がある。周りにイジメられて弱くなったんじゃなくて、私が私と一緒に弱くなっていった。
これからも自由にはなれないだろう。私が、私自身と気が合わないからだ。私が、私自身を恥じて顔を赤くするからだ。
私が先輩に提出したリストは、ある一つだけのルールに従っていた。
転職できる可能性順だ。社内にある過去の転職データを基に全員をランク付けして、数か月以内に転職できそうな人はAランク、ほとんど可能性がなくて放置が望ましい人はCランク、それ以外はBランクにした。
クリアファイルの中の転職希望者は、その全員が20代後半までだった。
なのでこの場合、優先順位は、①学歴、②社会人経験(特に新卒で入った会社)、③希望する業界・職種・企業名になる。
①学歴というのは、社会人として死ぬまで一生ついて回るものだ。転職エージェントとして一人前になって何年も経つけど、いまだに実感する。
②も大事だ。どんなレベルの会社に籍を置いていたのか気にする企業は多い。その人が第二新卒だったらなおさらだ。有名な会社だと、欲しいスキルを身に付けているか予測しやすいこともある。
③は、そこまで重視しなかった。本人が望んだ会社でも成功しないことはあるし、逆に志望していない会社でも、受けてみたら案外よかったということもある。
詳しく書くわけにはいかないけど、いわゆる高望みだった。小売業界で働いていて、とある電子機器メーカーを志望していた。それも一流の。
結果は目に見えていた。その電子機器メーカーの干飯スキルと本人のそれがぜんぜんマッチしていない。いわゆる論外だった。
その人の書類を2、3分ほど読んで、Cランクの一番下のあたりに入れた。そうせざるを得なかった。切ない気持ちになった。
今こうして自分の想いを整理してみると、母校への恨み辛みの感情は確かにある。
『嘘』を吐かれたからだ。
講義とか、就職関係の行事などで、大学の先生や事務職員から、「うちの卒業生はすごい!」という話を聞かされたり、アピールされたりすることがあった。
とある文学部の先生が言うには、数十年前に国家公務員一種試験に合格して法務省に採用された人がいたらしい。後にも先にも、佛教大学を卒業してキャリア官僚になったのはその人だけということだ。根が真面目で、卒業に必要な単位をすべて取っても、まだ大学に通っていたらしい。
とある社会学部の先輩が言っていた。(当時から数えて)数年前に、伊藤忠商事に内定した人がいると。その人は、とにかく忙しい人で、講義にはあまり出席せずに水商売の仕事に明け暮れていたらしい。それでも単位を順調に取得して、教職課程最難関の講義ではチーム全員で百点満点を取って、大学の学園祭ではパヒュームのダンスを踊ってウケを取って、とにかく活動的な人だったらしい。
私が在学中、社会人の先輩を囲んで話を聞く懇談会があった。就職活動中だった私は当然参加した。その会場には、いろんな会社の人や大学院生やNPOの人が来てくれていた。基本的に先輩方をちやほやして、実りのある話を聞く会だったのだけど、中でも別格だったのが、とある学校の先生だった。
見た目は40代前半くらいだったけど、教育学部の先生方から熱烈な歓迎を受けていた。熱烈とかを超えて、もはや神扱いだった。懇談会が進む中で、その人が教師として実績を上げたことで、地元の教育委員会に赴任して、〇〇教育(※よく覚えていない。社会教育とか生涯教育だった気がする)の分野で課長職にあるとのことだった。
相応に高齢で、そのうえ高い地位にある大学の先生が、どうしてはるか年下の人を神扱いするのだろう。当時の私には不思議な光景だった。でも、とにかく、この会場にいる卒業生の人達がすごいことが伝わってきた。
すべて『嘘』であるとわかったのが就職活動の結果だった。学生が六千人もいれば、凄い人は必ずいる。ただそれだけのことだった。私は、私が才の足りない人間であることを理解できないだけだった。
大学について思うことがある。社会人になってそれなりの年月が経つけど、今いる会社の人に比べると、常識のない人、精神的に幼い人、人格がおかしい人が多かった。
①常識のない人
健康のために週3で通っていたトレーニングルームは、体育会の部活が支配していた。彼らは、50キロ以上ものバーベルを両手で上下させて1セットを終えると、上空からマットに投げ捨てていた。凄まじい音がするうえに、危険極まりない。その横では、ベンチプレスをしている後輩の体をイタズラで小突く先輩がいた。一応、社会人の利用者も同じ室内にいるのだが、誰も注意することはない。ほかにも危険な行為をしていた。
②精神的に幼い人
講義中によくある光景だった。隣にいる人が先生に当てられるのだけど、その人は答えない。ノートを見ると、ちゃんと取っているように思える。答えだって書いてある。でも、こういう人は答えない。わかっていても、わかっていなくても、だんまりを貫くのだ。いわゆる、「大学生になってはいけない人」だった。行動が大人のレベルに達していない。大学生は大人でないにしても、ひどすぎる。
私が在学中に、野球部の人が後輩に当たり屋を強要して逮捕された。その人は、上に書いたトレーニングルームで危険なことをしていたうちの一人だ。柔道部の部室からは、たまに悲鳴や怒号が響いていた。ある土曜日の昼に中を覗いたところ、中で女子部員がされていた。すぐそばには、先輩に殴られたと思しき男子部員が長椅子のそばで震えていた。
すぐに1階に走って行って、警備員の人に事情を説明した。彼らが2階に上がっていったところで、心臓が痛くなって、気分が悪くなって、吐き気がしてトイレに行った。事の顛末も知りたくなかった。トイレから出ると、まっすぐに家に帰った。
大学を卒業するまでの私は、一流とか、一流に準ずるとか、そういう組織に所属したことはなかった。
大学だけでなく、中学・高校もそうだ。当時、私が住んでいた地方都市では名門と呼ばれる高校に入ったものの、大人になってから、その名声がまやかしであると知った。
数年前のことだ。中高一貫校であったその学校が――中学卒業とともに別の高校に行く生徒を卒業式に参加させない慣行があったことがわかり、教育委員会から是正指導を受けていたことを知った。最近では、英語教師が、校内での英検本試験実施後に、問題をすべてコピーして持ち帰っていたことが新聞沙汰になった。
高校だけじゃない。中学もそうだ。都市部の端っこにある、いわゆる貧困地区で育った私が、校内暴力その他の犯罪行為に塗れた母校に誇りを持てないのは当然だった。年に一度は田舎に帰るけど、あの学校が今はどうなっているのか、見に行ったことは一度もない。
このあたりで最後にする。自分の想いばかり書いてしまって申し訳ない。
学歴コンプレックスに打ち勝ちたいと思っていた。自分が何者でもない感じを拭いたかった。
私は運がよかった。中堅大学から大手企業に入ることができた。誰もが一流であると認識するであろう組織の一員になれた。でも、拭えないんだ。ぜんぜん。
飲み会などで「大学どこ?」って聞かれる度に、嘘を答えたい気持ちに抗うことになる。実際に、嘘をついたこともある。
嘘をついたら、その時は楽になったけど、後で罪悪感が浮かんでくる。自分で自分を許せない気持ちになる。
どうして、あの時の私はもっと努力をしなかったのか? どうして、あの時の私は浪人を選ばなかったのか? どうして、あの時の私は第一志望の大学に行けなかったのか?
何が正しいのか。頭ではわかっているし、心でもわかっている。
シロクマ先生ほか、有名なブロガーの記事を読んでいて感じることがある。今の社会を生き抜くにあたって大切なのは、自分自身を愛せることだ。そのためには、ありとあらゆる活動に手を出して、得意な分野、自分にとっての「たましいの仕事」を見つけて、自分を作り続けていく。それを繰り返すうちに、自分を愛することができる自我が生まれる。
私にはできない。社会からどんなに認められても、自分を愛することができない。
今の私の転職エージェントとしての実績は、先ほど述べた「先輩」よりも上だ。数字でいえば、先輩の現役時代と比べて1.3倍以上の開きがある。営業所の若手の中では、私が一番多く給料をもらっている。部下も4人いる。みんな可愛い。私を慕ってくれる。最近、「彼」もできた。
満たされない。いつ、どんな時でも、高校時代の努力が足りなかった自分を許せない。おそらく、死ぬまで過去の自分を許せないんだと思う。
最近は、それでもいいかと思っている。思えば、この気持ちに向き合うことで私は成長してきたのかもしれない。
だったら、この、昔の自分が許せない気持ちに感謝すべきなのかもしれない。むしろ、持ち続けるべきなのかもしれない。
ここまで聞いてくれた人、ありがとう。
涙が止まらないんだ。
昔の私に、いつか伝えてみたいことがある。
「諦めないでくれてありがとう」って。
そのうちのある都市に住んでいるが、解除前のこの土日の日中、繁華街を見渡した限り先週先々週と比べて明らかに人出が多かった。
宣言の有無のみで出歩くかどうか判断する人々のことが理解できない。いや、分かるけど分からない。
宣言の有無に拘らず何も気にせず出歩く人のことは分かる。コロナは老人以外では重症化しにくく死者も少ない。感染リスクをあまり重視していないのだろう。
宣言の有無に拘らずずっと外出を控えている人のことも分かる。とはいえ重篤な後遺症の報告例も挙がっているし社会的な目もある。感染リスクを重視しているのだろう。
もちろん状況や情報が日々更新されるので、判断や行動が変遷してきた人もいるだろう。
やっぱりコロナは怖い/怖くないから先週までと違う行動を取るというのもおかしくない。
自分も昨春の時点では、(どこもかしこも休業していたのもあって)あまり出歩くこともなかったが、だんだんとしても大丈夫そうなことが分かってきた。
どうやら飛沫に曝されるかどうかが大きいようなので、飛沫に曝されやすい行動は控え、そうでない行動は通常どおりする(もちろん適宜消毒はする)と夏秋頃からなってきた。
今回の宣言下でもこの自分なりの判断に基づいて気にせず外出する一方、同居家族以外との会食や飲み会なんかは宣言以前からずっと控えている。
でも多分だけど、今まで控えていた外出をこの土日に再開した人はそういう変遷があったわけじゃないと思う。
特にこの数日で知見や状況が変わったわけでもないし、緊急事態宣言の有無でしか判断していないとしか思えない。
緊急事態宣言の解除は、感染者数と経済とのバランスに基づいた政治的な判断だ。
ここ数日はむしろ感染者数は微増傾向で、個人の感染リスクとしては危険度が高くなってきているはず。
というかこの土日は解除前なわけで、判断基準は宣言の有無ですらない。
繰り返すが、恐れている人も恐れていない人も、それがどういった情報に基づいてるかはともかく、何かしら自分で考えた基準で行動しているのだろう。
私は結婚して数年経つ夫とセックスレス状態にある。レスとは言えふつうに仲は良くて、休日は一緒に過ごすしハグやキスもする。でもセックスはしない。仲のいい同僚に相談してみたけど「結婚して何年も経てばそんなもの」と言われてしまって、色々手を尽くしても変わらない状況に八方塞がりだった。
上司と初めて関係を持ったのは小規模な飲み会の帰りだった。「旦那さんとどうなの?」と聞かれて、少し酔いの回っていた私は馬鹿正直に「仲は良いんですけど、セックスレスなんです」と答えてしまった。しまった、と思った。こんなことを異性の部下から言われて、返答に困らせてしまったと。だから慌てて「私がガサツだからですかね?女としての魅力とか、そういうの感じられなくなっちゃったみたいで……」と言ってみたけど、自分で放った言葉が妙に突き刺さってぼろぼろと泣いてしまった。自分は夫に愛されているのだろうか、惰性で結婚生活を続けているだけなんじゃないだろうか、なんて負の感情が湧いて出て止まらなかった。上司は私が泣き止むまで隣にいた。5分くらい泣いて、ようやく落ち着いた頃に絞り出すような声で「そんな顔をさせたかったんじゃない」とだけ言われたのを覚えてる。あとはもう勢いだった。手を引かれるまま上司の家に上がって、暖かいお茶を飲んでキスをした。一回キスをしたらもう止められなくて最後までしてしまった。我に返って、血の気が引いた。テレビで芸能人の不倫話を聞くたびに眉を顰めていた私が、眉を顰められる行為をしてしまったと。だけど同時に安心感を得ている自分もいた。行為の前も最中も上司は何度も私を「好き」と「可愛い」と言ってくれた。それは私が結婚前から今日まで夫に言って欲しくて、言われたことのない言葉たちだったから。
それから今日までずっと「もう終わりにしよう」「ブロックしよう」と「まだもう少しだけ」「早く連絡がほしい」を行ったり来たりしている。上司とは殆ど毎日職場で顔を合わせていて、月に二回くらい関係を持っている。夫にはおそらくばれていない。上司は三月いっぱいで栄転する。だからもうここで終わり。終わりにしなければならない。
私のしたことは家族への裏切りだ。夫への裏切りだ。私と上司の関係は不倫関係であって美化のしようもない。石を投げて欲しい。夫に懺悔するほどの勇気がないところも含めて、どうか叱って欲しい。
飲み会が無くなったのとテレワークで今めっちゃ快適に働けてるので東京で永遠に緊急事態宣言が続いてほしいわ。
付き合いでしか酒飲まない、風俗行かない僕なので、夜の街なんてむしろ日本から消えてほしい。
夜の街で働いてた人たちは求人倍率の高い介護にでも転職すればいいんじゃないですかね? これまでも酔っぱらいの介護や男の性欲のケアをするお仕事してたんだから向いてると思う。
飲み会開くなって言ってるんだよ
あーそれわかる。
俺もコロナで飲み会減ったついでに晩酌をノンアルビールにしたんだけど飲む量が減った。1缶当たりの値段は大差ないけど消費量そのものが減ってる。
アルコールは判断力鈍るぶん酔えば酔うほど更に飲む傾向にあるが、ノンアルはいくら美味しくても所詮はノンアルなので1〜2杯でお腹いっぱいになるからかな。
40代独身男のエッセイコミックってあまり見ない気がする(エッセイコミックって大抵は若い女性か子育て中の女性が多いよね)から、Kindle版を試しに買ってみた。
サンプルで見れるところはカラーだったのが、製品購入後に見れる部分の数ページから先が白黒だったのは、まあいい。
タイトルに「ひとりぼっち」と謳っている割には家族や友人との付き合いが多く見える。
前の職場(?)の飲み会とか大学の同窓会とかに出席している話すらあり、(そんなの自分は呼ばれたことすらないのに)という嫉妬すら覚える。
「40代独身天国」と謳っているからには「ときどき辛いこともあるけど、幸せな生き方だぜー」って感じのを期待していたが、
実際は「ときどき楽しいことはあるけど、基本はトホホなことが多い」という印象だった。
何らかのテーマに沿った複数ページにわたるストーリー形式ではなく、1ページ完結の漫画の集合体という形式だから、
最近東日本大震災から10年、コロナから1年、そのような話題をよく目にする。
東日本大震災のとき、自分は中学3年生で震度6くらいにびっくりしたものの、そんなに直接影響を受けた記憶がない。
計画停電も近所に大学があるおかげで免れたし、食料などもちゃんとあった。断水もしていない。
この先どうなっちゃうんだろう?とは思ったけど、普通に生活できたし、原発の水素爆発なんて実感がわかなかった。
正直、当事者意識なんか何もなかったし、普通に高校に進学した。
コロナショックが昨年起きた。
自分は今とある大企業に勤めていて、コロナの影響で飲み会はなくなるし、会社からテレワーク補助はたくさん出るし、業績も非常に好調だ。
そのおかげで給料は非常に増えたし、新卒3年目に見合わない給料をもらっている。
けれど、東日本大震災と違ってコロナショックは世間とのギャップに毎日が苦しく、なんだか辛かった。
なぜ、自分はこんなにも安定した生活を送れているのだろう?このお金は本当にもらっていいのだろうか?
悶々としている中、会社から補助や特別加算された最高のボーナスが支給されるという通知を見て、同僚や上司はものすごく喜んでいた。
きっと中学生や高校生や大学生の頃の自分だったら「すべては自己責任、だめな人は努力不足だろう」と言い放っていたと思う。
東日本大震災のボランティアに行く大学生とかを見て、部活に打ち込むのが嫌な、東日本大震災の被災者を利用してサークルのみんなで思い出作りかなとか嫌味なことも思っていた。
けれど、世の中にはどうにもならないことがあることを知り、途端に辛くなった。
東日本大震災当時には湧かなかった感情がこの1年こみ上げるようになった。
当時の自分の浅はかさを恥じている。
給料の一部を寄付したいと思っているが、人生で一度も寄付をしたことがなく、どこがいいかわからない。
正直、偽善だし、どちらかというと贖罪意識だと思う。でもそれでも良い。
本題からだいぶそれた。
あしなが育英会みたいな大きい所が良いのか、はたまた小さなところに寄付して浸透しやすくしたほうがよいのか、どちらか、増田の皆様に聞きたい。