はてなキーワード: 物言いとは
http://www.amazon.co.jp/dp/4105393057
代替医療:主流派の医師の大半が受け入れていない治療法(この本の中での定義)。
ホメオパシー※1とか鍼とかハーブとかその他得体の知れない代替医療は数あれど、それらを冷静に論じた研究は意外に少ない。盲目的に信じ込むか、逆に根拠のないたわごとだから皆殺しにすべきとか、ヒステリックな物言いは割とあるのだけど。
この本では、医薬品では実際に行われている二重盲検法を同様に用いて、代替医療各々は効果があるのか、何にどれくらいの効果があるのかというところを冷静に検証している。第一章では、経験ではなく根拠に基づいて医学を発展させてきた歴史を大まかに説明している。二重盲検法について知っている人でも医学史として楽しめること請け合い。壊血病の対策をいち早く発見できたイギリスの躍進とか激アツ。
※1:ある物質が持つエネルギーを水に記憶させることで治療薬を作成する。溶液は百万分の一以上に薄められて有効成分の分子が含まれてないかもしれないけど、希釈されればされるほどエネルギーは増幅されるから大丈夫だよ(大丈夫じゃない)。材料は植物、鉱物、生物など様々。ベルリンの壁を材料にしたものもあるよ。
この本の中では、具体的なエピソードは読んで欲しいので省きますが、多くの代替医療は科学的な検証を経てプラセボと同等の効果しかないという結果が繰り返し提示されます。効果があるものも、検証する立場の人が中立じゃなかったり、認知的なバイアスによるものなんじゃないかという検証がなされます。一時的に悪い状態(風邪とか)が平均への回帰でほっといても治ったのを、代替医療を施したせいだと思ってもらう工夫とか。
作中でも、また世の中にも「プラセボでも効果があるのならそれでいいじゃないか」という意見がしばしば出されます。著者はこれに対し、以下のように反論していました。
・プラセボの効果を最大にするために、医師が意図的に患者を騙すことになる
=水平的な立場ではなくなり、患者の自己決定権を阻害する、不誠実な関係を築くことになる
・医師はプラセボ効果を守るために薬効の真実について口をつぐむことになり、医学の進歩がストップする。製薬企業も金のかかる新薬開発を投げ出して砂糖玉販売に終止するようになってしまう
・代替医療自体に害がなかったとしても、代替医療を選択することで主流派の医療を受ける機会損失となり危険
(予防接種を受けさせない親とか)
▼治験でもプラセボ効果が出やすい分野とかはあるそうです。軽度・中等度のうつとか。でも抗癌剤とかだと明らかにプラセボは駄目なことが多いっぽいので、そっち方面までプラセボでもいいんだの民に駆逐されるとやばそうな。▲
などなど。このあたりがヒステリックじゃなくエレガントに書いてあって感じが良かったです。
アメリカでは代替医療の一つであるホメオパシーが、昔から有力者に好きな人が多いとかでFDA(アメリカ食品医薬品局。医薬品の臨床試験とかする。つよいきびしい)の審査抜きでガバガバ売られてたり、イギリスではチャールズ皇太子が代替医療大好きでその効果の程を知らしめるための機関を作って研究者から批判されたりとか、日本とは違う実情があるみたいです。日本でもやってる人はやってるみたいですけど。
巻末には30種類くらいの代替医療の効果のほどが簡略にまとめてあるので、代替医療概論としてもおすすめ。
▼代替医療についてまとめて学ぶのが初めてだったので興味深かった。「多次元DNA手術はチャネリングのテクニックを用いて、DNAレベルで問題のある配列を取り除き、神のような完璧な配列で置き換える治療法です」とか最高にキてる。▲
呪術がその効力を発するには、以上の条件を満たさなくてはいけない。呪術それ単体で存在するのではなく、呪いにかかったと信じる人がいて、それが呪いにかかったからだと信じる社会があって、呪いをかけた人間がいて、はじめて呪術が成立する。呪いにかかったと思わなければ呪いは成立しない。
以前『医療人類学のレッスン』でも書いたんだけど、プラセボあるいは代替医療が効果を発する状況には、似たような構造があると思う。
代替医療を受ける人が居て、それが効果があるものだとする社会が存在して、そのコミュニティでは権威のある施術者が居て。施術者と患者の関係が非水平的(知ってる人と知らない人、授ける人と助けを乞う人)という構造も似ている。実際には何もないのに、なにかあるように見せかけることができるってほんとに魔法のようだと思う。呪術と代替医療とプラセボの類似性が私の中で熱いので、今後も追いかけていきたい。▲
IT系で天才だともてはやされて、すっかり増長して、なのに大した成果を出せてない某学生がたまにネットで話題になっていて「若いからしかたない」とか「周囲の大人が悪い」みたいなコメントをつけられてるじゃん。
スポーツ界だと、天才だともてはやされても、すくなくともマスコミの前とか目立つところではそんな不遜な物言いはしないわけじゃん。
あれってやっぱり周囲の大人が、指導してるんだろうな。
この一連の騒動の中で気になったのが、大阪芸術大学教授の純丘曜彰氏である。
反「佐野エンブレム」の急先鋒としてメディアで派手に〝活躍〟した人物だ。
エンブレム問題の経過をつぶさに見てきた者、デザイン周辺の知識をもっている者で
純丘氏の発言に疑問を持った人も少なくないのではないだろうか。
筆者の感じた純丘氏への疑問とは、
そして「独りよがりなデザイン論」「デザインに関する知識不足」である。
http://www.insightnow.jp/article/8591
瞬く間にメディアのあちこちに取り上げられ、反「佐野エンブレム」への動きを活気づけた記事である。
デザインに関して識者といえる人物がここまであからさまにエンブレム下ろしを唱えたのは初めてであり、
純丘氏が五輪エンブレム問題の御用コメンテーターになるきっかけともなっている。
以下は、佐野氏のデザインしたトートバッグに関する部分である。
ニーチェの独文の警句を英文で引用して、名前の綴りがコピー元のままに間違っていたり
(page:2 より)
Pinterest に一枚の画像として存在していたニーチェの一節、
その最後の名前部分に綴り間違いがあり、佐野氏が孫引きしたために同じ箇所で間違えている、
すなわち佐野氏が Pinterest を利用していた証拠である、という論旨だ。
Pinterest に綴り間違いの画像などなく、佐野氏のほうだけがたまたま書き間違えていたのだ。
ここで問題なのは「佐野氏が Pinterest を利用していたかどうか」ではない。
この純丘氏の記事が出たころにはもう2ちゃんねるの当該スレは自らその事実誤認に気づいており、
ニーチェの一件は「佐野氏が Pinterest を利用した証拠」としては除外の方向へ向かっていた。
純丘氏は、佐野エンブレム下ろしに使えるものはなんの検証もなく使っていたのである。
最低でもその誤字があるとされる Pinterest の元画像をその目で確認してから記事を書くべきだろう。
「大阪芸術大学教授」の肩書きで公にされてしまえば、何も知らずに読んだ人は事実と思い込んでしまう。
論文というのは人文科学であろうと事実を積み重ねなければならないものだが
こんなお粗末な方法で文章を書いている人物が学生に論文の指導をしているのはいかがなものだろう。
あんな黒いゴキブリ印は、生理的に無理。とても嫌な感じがする。汚らしい。穢らわしい。なにより不潔だ。あまりに不吉で、自分まで不幸に呪われそうな黒いゴキブリ。金と銀の足が夜中にカサコソと動き出して、きみの手の上に登り、パジャマの中にまで入り込んで来る。きみに、多種多様の救いがたい病原菌をなすりつけ、触覚をピロピロさせる。おまけに、突然に羽を広げて飛び上がり、きみの顔をめがけて襲い掛かる。考えただけでも寒気がする。あまりに気味が悪い。
およびそこに貼られた画像は、読む者をいやな気分にさせる。
まるでいやな気分にさせること自体が目的のひとつにもなってしまっているようだ。
純丘氏の「佐野エンブレムが嫌いだ」「黒が嫌いだ」という気持ちはよく伝わってくる。
だがそれは個人的な感情であり、公にするにしてもせいぜい個人のブログにとどめるべきだ。
大学教授、美術博士という肩書き付きでオピニオン系サイトに開陳するようなものとは思えない。
識者なら事実を元に冷静に分析し、問題を明らかにする役割を担うべきだろう。
騒動の中、感情のほとばしる文章で純丘氏は何を訴えようとしたのか。
これ以降、掲示板でもエンブレムをゴキブリ呼ばわりする人が一気に増えていった。
http://www.insightnow.jp/article/8644
ひたすら駄作である、見るに堪えない、と力説している。
疑惑があるとはいえ、多くの人が関わって世に送り出されたものを
「超弩級の駄作」「ゴキブレム」「梅干」と品なく形容する姿勢にもあきれてしまうが、
デザイン制作とは無関係な経歴(専門は哲学)と関係あるように思う。
むろんそれ自体は問題ではないが、次章の「デザインに関する知識不足」も含め、
己の手にあまるデザインに関する解説を、あたかも〝識者〟として発表するのは
この一文の含まれる段落を「デザイン論」として理解できた人がいたら
「9分割を元にフレキシブルな組み替えが可能」というアイデアを否定するのが目的のようだが
9分割の真ん中に必ず弧の中心が来なければならないデザイン上の理由とは?
さまざまな大きさ・形でさまざまな場所に弧が立ち現れていた、
黒は、ほとんどすべての文化で、死や悪、権力、固着、腐敗、を意味する。同様に、赤は、血のシンボルであり、命や致命傷だ。それに金銀を加えるなど、まさに軍事配色のナチス的悪趣味。
解釈はさまざま可能なのでナチスフラッグとみる者がいてもいい。
エンブレムを仮に芸術のひとつとするなら、芸術はさまざまな解釈に向けて開かれたものだ。
しかし、これは誰もが知っているようにオリンピックのために施された「デザイン」である。
アートのように何ものからも束縛されない自由な意志で構成、配色したものではない。
見る者も「日本」で開かれる「五輪」の「エンブレム」であるという情報とともに接する、
そのような場、コンテクストにおいて機能するようにあつらえたものだ。
佐野エンブレムがスポーツを感じさせないとか、祝祭感が足りないとかいった批評は可能だ。
が、「ナチスフラッグ」である、「ゴキブリ」「致命傷」であるなどというのは
エンブレムの出自、コンテクストを無視した悪意のあるミスリードでしかない。
ゴキブリの画像同様、ナチスの絵まで用意して独りよがりな解釈を
強くイメージとして植え付けていこうとする純丘氏の手法には疑問を禁じえない。
どんな媒体でも、ほぼ同じような発色になるように考えておかないといけないのに、全体が印刷物無視のRGBベースで出来ていて一般フルカラー印刷のYMCKの四色のインクでは出せない「特色」の金銀が入っていたり
この部分を読んで頭の中が「?」でいっぱいにならない人がいるだろうか。
この2行だけでも純丘氏が自分の手にあまること、自分のよく知らないことを
結論ありき、佐野下ろしを目的に書いていることが明らかである。
純丘氏のこの不案内な言説はさまざまな場所で〝プロ〟のそれとして引用されてしまっている。
発表されたエンブレムは RGB ベースでできていて、CMYK ベースではないらしい、
佐野研二郎氏は、デザイナーとしてはひどく低いスキルのまま今のボジションに祭り上げられ、
あたわない五輪エンブレム設計者の大役もしくは影武者の役を任されたようだ……
RGB ベースというのはモニターなど映像における混合方式であり
CMYK ベースというのは紙媒体など印刷で用いられる混合方式である。
RGB と CMYK は、媒体に応じてふさわしいデータを用いる、ただそれだけである。
ポスターやプログラムに印刷するなら CMYK のデータを用意する。
純丘氏の中で佐野氏は、この知識としても初歩の初歩、
デザイン業務上、日々出くわしてはそれに従って作業している単純なことをまるで知らないという設定らしい。
特色というのは印刷インクの一種で、
通常のプロセスカラー(CMYK インク)で表現できない色をカバーするためのものである。
エンブレムに特色の指定がしてあったというのはどこからの情報かわからないが
(筆者は見たことがないので、まずはそのソースが問題である)、
それだけをとれば、企業ロゴなどにおいては珍しいことではない。
RGB/CMYK と同様、特色を用いるかどうかは運用の現場に応じて「自然に」決まるのであって
雑誌のカラーページなら金は4色分解(CMYK)で表現されるだけである。
金や銀を特色にすることも、黒や赤を特色にすることも可能だ。
特色で刷るならばここはこの色(PANTONE 、DICなどの番号)、
そしてディスプレイ用にはこの RGB 値というように、列記されているのがふつうだ。
・特色番号(印刷用)
純丘氏の言葉を再掲する。
以下のような色指定を同一の紙の上に記すデザイナーを想像できるだろうか。
すなわち、これが「ワンセット」になっていて、それ以外の指定(CMYK 値)のない、
純丘氏の作為の産物か、氏がまたネットかどこかで拾ってきてしまったデマではないのか。
このような「物理的に」とすら言っていいほど存在しえない〝キャラ設定〟をすることも
デマを拾ってきて書き写すとこともありえないのだが。
大阪芸術大学教授・純丘曜彰氏の言葉は、目くらましのように効果を発揮してきた。
「佐野五輪エンブレムは超弩級の駄作!」での、ルネッサンスからフラットデザインへ至るくだりなど
エンブレムとはデザイン論において爪の先ほども関係ないが(ゴール地点のフラットデザイン自体なんの関係もない)、
このペダンティックな解説や周辺タームは、氏の肩書きと一緒になって人々の目にもっともらしく映り、
芸術・デザインの「専門家」(日刊ゲンダイ)と目される社会的影響力のある人物が、
この混乱の中で、明らかに事実に反すること、半可通なことを、
己の求める結論「佐野エンブレム下ろし」に向かって品のない言葉と作為的イメージを用いて
流布してきたことには、疑問を通り越してあきれてしまった。
私は大昔に美術大学グラフィックデザイン科を卒業し、デジタル以前から現在まで、デザインで飯を食ってきたが、
いつの時代でもデザイナーというのは(就業人口の少なさという意味で)マイナーなので、
一般からは業務の実際を知られていないなあと思う。
オリンピックのエンブレム問題から派生した諸問題に、周囲のデザイナー界隈は今、みんなウンザリしている。
そんな中で、とある記事のブコメに典型的な「普通の人」の意見を見つけ、
ああ、残念だなあと思った。
曰く、「デザインという感性の世界の作品に、コンペで優劣を付けることが可能か?」
私の答えは「はい。優劣の評価は可能です。点数を付けることだってできます。
ただし、一定の得点を越えると”感性”の差ではなく、一種の”政治的判断”で得点が変わります。」となる。
デザイン=感性みたいなふわっとした物言いに、とても違和感がある。
「感性」とは置き換えればカッコイイ・美しい・訴求力があるものの選択能力だが、
商業デザインのプロは、それらを理論化・数値化・データ化して考えるものなんだ。
上記のブコメのような質問は、プロフェッショナル否定論につながる。
デザインを構築する要素の大部分は、実は厳密な理論や、歴史から学んだハック、
わりと理系寄りな教養とトレーニングの積み重ねがないとプロになれない。
また、そうでなければ、安定した職業として成り立たない。
例えば、話題の多摩美術大学の、2014年度履修科目の中から『共通基礎教育科目』を見てみるといい。
絵ばっかり描いているわけじゃないのだ。
一部抜き出すと、
心理学/芸術心理学/造形心理学/歴史学/日本文化史論/文学/美学概論/美学/考古学/文化人類学/民俗学/芸術と科学/図学/日本美術史概論/東洋美術史概論/西洋美術史概論/宗教学/人間工学/色彩論/芸術材料学/近代デザイン史/染織史/文様史/写真論/社会心理学/マスコミ心理学/映像メディア論/情報論/情報工学演習(コンピュータ基礎、情報機器の操作、3DCG)/総合講座デザイン論/現代工芸論/服飾文化論
基礎学問を学んだ上で、自分の手を動かして作品を作る実践授業を受ける。
(特に「造形心理学」「色彩論」あたりは、自分が学んだ頃よりずっと進化している学問分野だろう。)
すると、おのずと他人の作品を見て、「こういう背景をふまえて、こういう意図で作ったな」という
「プロなら分かる」って、どこの分野でも同じだろう。
プログラマならコードを見ればわかる。八百屋なら野菜を見ればわかる。
でも「何をどうわかってるか」を他人に伝えるには、膨大な説明が必要になる。
しかもいざ説明しようとすると「長い、3行で」となって聞いてくれない。
多くのデザイン関係者が今でも「オリンピックのエンブレムは盗作に当たらない」と断じているのは
まさに上記のような、職業人としての訓練の結果(及び法的手続きの結果)だが、
親しい友人がいる。同僚である。かなり狭いたった数人だけの会社(のような場所)で、経営を軌道に乗せようと尽力している。
私は基本的に彼の言いなりである。彼は自分の非を認めたがらないし、認めさせるのにかなりの労力を使うので、彼の言い分をすべて聞くのが最も効率が良い。
しかし私にも気に入らないことはある。その反論をすべて彼は「正論に対する拒否反応」として、取り合ってくれない。私が理屈を立てても、「屁理屈」とちゃぶ台を返し取り合わない。
それでも私たちは友人である。そんな関係が続いてくると、仲が良いのか悪いのか分からなくなってくる。彼は仕事の話をプライベートの機嫌に反映させることがよくあるので困る。
「彼が正論と称するものに問題があり、私がその問題の解決を提案すると、彼の機嫌(と物言い)が悪くなる」これに尽きるのである。
私はそういう仕事の仕方が嫌いである。彼が間違っている場合に、軌道修正にすさまじい労力が生じるのである。それがプロジェクトに悪影響を及ぼしたことが、過去幾度もあった。
彼に対してそういう問題の改善を求めると、もはや人間性に対する非難になる。そこまで踏み込まずに、言い方を考えて来たが、最近限界を迎えてきた。
ここ数週間の金曜日の週刊細田守でツイッター眺めてて思ったことなんだけど、「私はこれが憎い」じゃなくて、「これに嫌悪感を抱かない人間が憎い」みたいなものを感じた。
作品は作品なので、例えばそれを視聴することで自分の経験と照らし合わせて憎悪を燃やすのはなんてことないと思う。私もすることがある(細田作品に対してという意味ではない)
でも、「これに違和感を抱かない人間はおかしい」というか、本人にその自覚があるのか無いのか、「これは私の道徳的におかしいので皆も当然嫌悪感を抱くべき」といった物言いをしている人が目に付いた。
「嫌悪感を感じない人」というのは、きっと「違和感や嫌な思いを感じたことが無い人」で、「そういう人生を送ってきた鈍い人間が憎い」。そして「鈍いあなたへ私が違和感に気づかせてあげよう」
道徳ってのは法律じゃないし、嫌悪感を抱くかどうかは個人の感性だと思う。鈍い人間がいることが許せないみたいな気持ちはちょっと分かる。私も決して聡い側じゃなくて鈍い側なんだけど、でも、かけられた思いやりのない言葉に対してそれってこういう意味だとツラくないですか?って聞いて、あっ、そうだね、って言われると「そこまで分かってるのにどうして自分の言葉に疑問を抱かないの?」って思うこともあるし。
まあ、ただの妄想だけど。
ミニマルに生きることは別に悪いことじゃないし、いらないものを整理して捨てていくスタイルは悪くないと思うけど、
何で頑張ってる人をこけにできるの。
別に自分はミニマリストのアンチでもなんでもないけど、あの記事を読んでああいう物言いは面白くないといわない取り巻きにえーと思ったし、なかよしこよししたいなら別にいいけど、
そういう考え方はよくないよって教えてあげる人はいないのかな。
忙しい母からアダルトチルドレン生まれるとか育児してる母からしたら「は?」だよね?
自分のことはミニマルにしても子供に不自由なく生活してもらいたいって頑張ってるわけでしょ。
暇な母親って子供のこともみてなさそうで逆に子供に悪そうだけどね
まあその人たちの主張だからはいそーですかって流せばいいのかもしれないけど、人を見下した部分を公で出すということは見下される可能性が増えることであり、
それが誹謗中傷だやめろっていうなら先にけんか売らなきゃいいんじゃないとしか言えないとおもいます。
誹謗中傷めいた言い方の意見もあったとは思いますが、ほとんどが批判であり、建設的だと思いましたけどね。
ま、小さいコミュニティで慰めあって楽しんでください。
居酒屋の親父かっつうんだよ。
いけすかねえニュースを見たら、その登場人物を詰る前に、まず報道のしかたの方を疑えよ。
だいいち、そのニュースにお前ら、何か具体的な迷惑を被ったのか?
迷惑被るとしても、それは直ちにコメントしないとやばいくらいなのか?
コメントしなきゃお前ら、窒息して死んじゃうのか?
違うだろ。
コメントする前に、考えろよ。考えて分からないことは調べろよ。
複数のニュースソースを追うとか、問題発言の前後の文脈を読むとか聞くとか、一連の流れをまとめるとかしろよ。
調べても分からないところまできたら、また考えろよ。
考えて考えて、冷静な状態でコメント書いて、一晩置いて、翌朝見直して、それでも頷けるような内容のみネットにアップしろ
よ。
その場限りのただの野次なら、しない方がマシだ。
そんなのゴミだろ。放射性廃棄物よりよっぽどタチの悪い糞ゴミだろ。
そんなゴミを大量に浮かべてるせいで、一晩一月一年費やしたような冷静な意見が小さすぎて、届くべきところへ届かないんだ。
東日本大震災でお前らいったい、何を学んだんだ?
ふざけんなよ。
万が一、その場限りの野次が大量にリツイートされたりいいね!されたり星がついたりして、
それでお前らが鼻高々になることがあったとしても、
まず間違いなくそういう野次は、その10倍から100倍の見えない人間に小馬鹿にされてるから。覚えとけ。
大多数のお前らがそんなんだから、マスメディアがお前らのこと舐め腐って成長しねえんだよ。
お前ら、踊らされてるよ。目ぇ覚ませ。
感じる前に、考えろよ。
と言ってる連中を見ると悲しくなる。
人間はここまで愚かになれるのかと。
何が彼らをこうさせるのだろうか。
論理によって物事の優劣正誤を導く過程をすっ飛ばしていきなり「俺が上だからお前らは下なのだ」と言えてしまうのは何故なんだろうか。
森にいる獣のように、自分の家族以外の正しさを一切知らずに今まで生きてきたから?
知能が低すぎて話が見えない人のために補足をしておこう。
「ホモは気持ち悪いからクズ」 俺が今否定しているのはこういう輩だ。
「ホモは子孫繁栄において生産性がないからクズ」 実に酷い物言いだがこれなら問題ない。
人よ、獣に戻るなかれ。
科学だ。
棒きれを振り回して木の実を取るだけでは猿と同じなのだ。
自然哲学を突き詰め始めた瞬間から人類は人類になり始めたのだ。
忘れるなかれ。
始まりの心。
高校の頃あんなに仲良くやれてたのに、大学に入学してから言動とかが頭の悪い大学生っぽくなっててげんなりした。
酔ってたのもあるだろうが、いちいち罵倒してきたり、蔑んできたり、本当にうんざりする。
馬鹿話しててもまとめサイトの話題をさも自分が体験したかのように話してるし、全く勉強してないことを誇るかのような物言いをしたりもする。
昔俺はこいつとどんな風に話してたんだっけとふと思った。
思い出補正とかを抜きにしてもめちゃくちゃ楽しかった覚えがある。
大切な思い出には必ずそいつの姿があるほど気の合う友人だったんだけど、もうこれにて縁を切ることにする。
一緒に酒を飲んで昔の続きのように笑い合ったり、ゆくゆくは結婚式とかにも呼びたいと思っていたのだけど、とても残念だ。
・そんなエリートの勝ち組爺がなぜ、負け組だらけのうらぶれくたびれた増田の存在を知っているのか、というリアリティが足りないと思います。
・また、エリートの勝ち組爺を気取るには、少し経験が足りないようです。少なくともお年を召した教養人はもう少ししゃれた言葉を使うものです。趣味も、具体的な物言いになりますね。
よく人を見て、よく考えることかな。
あとは、ごく良識的な(ちょっと堅苦しいと思うくらいに)丁寧で優しい行動を心がける。
親しみを表現するつもりでちょっと砕けた物言いをしたつもりが、相手に怪訝な顔をされてしまって あれ? って思ったことが私は何度もあります。
案外、人の常識って違うものですよ。趣味趣向でも違うし、職業や家庭環境や、出身地なんかでも違う。その人の置かれた状況や立場なんかでも。
だからって、ずっと他人行儀にしてれば良いというのも違うと思うので。
笑顔で誠実に接して、ちょっと間違ったかな?怒らせたかな?と思ったらすぐに素直に謝る。
そんな感じで良いと思いますよ。
懐かしいなと思って、2人で会うことになった。
休日の朝から待ち合わせて、2人で映画を観て、バッティングセンターに行って、イタリアンレストランで食事して、なかなか楽しい時間を過ごした。
彼女は同じサークルの先輩で、僕から告白したが断られたのだった。
30を回って、そろそろ落ち着きたいと。
別れ際、彼女は
「告白を断ったのは私が間違ってた。今からでいいなら、つきあってくれない?」
覆水盆に返らずって言うのは、こういうことかと思った。
とたんに悲しくなって、僕は何も言えずに彼女の前から逃げ出した。
「私と釣り合う男になったね。今だったら、つきあってあげてもいいよ?」
と言ってくれたら、きっと僕は、もう一度恋に落ちていたのに。
自分の気の弱さ故に忸怩たる思いをしたことが無い人と言うのは希有だと思う。
が、いつもいつも弱気でいると生きづらい。
以下に具体的な法方を記す。
・
2.序盤の名シーン、ぼったくりバーのチンピラをみんなで囲んで恫喝するシーンまで見進める。具体的には「池本組……ですか」ののあたりまで。
3.椎名桔平演じる水野の「池本組ならただなのか、この野郎」を聞く。
4.同じ台詞を巻き戻しながら30回聞く。2点間リピート機能があると便利。特徴を頭に刻み込む。
5.続けてリピートしながら椎名桔平になったつもりで同じ台詞をマネながら30回言う。
6.DVDは止めて、舞台俳優になったつもりで同じ台詞を30回言う。
7.上手に出来るようになったと思えば終了、ダメなら再び映像を見て特徴を掴む。
・