2015-07-15

ここ数週間の金曜日の週刊細田守ツイッター眺めてて思ったことなんだけど、「私はこれが憎い」じゃなくて、「これに嫌悪感を抱かない人間が憎い」みたいなものを感じた。

作品作品なので、例えばそれを視聴することで自分経験と照らし合わせて憎悪を燃やすのはなんてことないと思う。私もすることがある(細田作品に対してという意味ではない)

でも、「これに違和感を抱かない人間おかしい」というか、本人にその自覚があるのか無いのか、「これは私の道徳的おかしいので皆も当然嫌悪感を抱くべき」といった物言いをしている人が目に付いた。

嫌悪感を感じない人」というのは、きっと「違和感や嫌な思いを感じたことが無い人」で、「そういう人生を送ってきた鈍い人間が憎い」。そして「鈍いあなたへ私が違和感に気づかせてあげよう」

道徳ってのは法律じゃないし、嫌悪感を抱くかどうかは個人の感性だと思う。鈍い人間がいることが許せないみたいな気持ちちょっと分かる。私も決して聡い側じゃなくて鈍い側なんだけど、でも、かけられた思いやりのない言葉に対してそれってこういう意味だとツラくないですか?って聞いて、あっ、そうだね、って言われると「そこまで分かってるのにどうして自分言葉に疑問を抱かないの?」って思うこともあるし。

まあ、ただの妄想だけど。

  • きっと「違和感や嫌な思いを感じたことが無い人」で、「そういう人生を送ってきた鈍い人間が憎い」。 ここが勘違い 余計なものを挟まず そして「鈍いあなたへ私が違和感に気づか...

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