はてなキーワード: 水草とは
水撒いた地点に花が咲き、その後ろに現れる文書に正体の示唆があるんだが
その中の「~香り高い水草である」というのが、原語では「名香莙」となっていて
NPCのシャンジュンは原語では香莙
中国語や英語のプレイヤーならここが香莙・Xiangjun表記で統一されているので勘づくことができるが
日本語の場合気づくには「香り高い水草」から「シャンジュン」を想像できる中国語エスパー能力が求められる
ミホヨはエリート思考すぎて日本人が中国漢字ニュアンス読み取れることに期待しすぎているのでは……?
日本人プレイヤーなんてソシャゲに脳みそ毒された思考回路を卒業できなくて
石欲しさにシナリオなんて読み飛ばすっていうキッズが大量にいるんだぜ……
高度な読み取りとかそれ以前のレベルなんだぜ……
結局俺は、洒落たハイソな店でウインドウショッピングとか、立派な劇場で高尚な観劇とか、空いた時間でボルダリングとか、そういう都市的なアクティビティには興味がなくて、ただ植物園に行ってウロウロして、でけえ温室に入りてえだけなんだよな
植物園って、人が並んでねえ入り口で高くて400円程度のチケットを買うところからもう始まってんじゃん
800円とか1200円とかじゃなくてさあ、300円とか400円とか、ヘタしたら温室入らねえならタダだったりするわけじゃん
その、やっすい入場料を払いながらよ、受付のある事務所に設営された、葉っぱの栞を作ってみよう!とか、まつぼっくりを拾おう!みたいな企画を目の端に捉えてさ、ヒア・イット・ビギンズ、俺の一日が始まるということになる
植物にそんなに言うほど興味ねえし、オフシーズンに来てるからさあ、実際園内に入っても、解像度はずっと低いままなんだよ
時期が良けりゃ花が咲いているんだろうなって感じの、特定の花、バラとか百合とか、そういうのをフィーチャーした花園があってさ、でもシーズンじゃないんで実際には4輪くらいしか咲いてなくてさ、ただエキゾチックな名前の書かれた立て札と、茎と葉だけがあるわけじゃないですか
そういうのとか、あとはよくわかんねーでけえ樹、これはマジでデカくて、木ってでけえんだなみたいな感想が自動的に出てくるんだけど、逆にいうとそれでおしまいなんだが、そういうものを見る 見るしかない
池なんかもあってさ、鯉ほどアトラクション性のある魚はいなくてさ、ただなんか、メダカかな?みたいな感じのちっせえ魚が、俺の影に反応して、すばしっこく逃げ去っていくのな アメンボがいたり、水草が植えられていたりもする 黒いビニールの、ヒダ状になった給水パイプが、ガサガサした質感をしている
そういう場なんだよな
そういう場をウロウロしたあとに温室に入るとさ、外の疎な感じに比べて、全体的に密でさ、珍しい、見たこともないような、綺麗な植物が、まあバンバン植わってるわけですよ
温室の天井は高くて、半透明で、そのガラス越しに弱い陽光が見えたりして、常に水音がしていて、しかし本質的には静かな感じがするじゃない
ベンチなんかを独り占めしても、あまり問題だという感じはしない 人がいねえから
だから座り込んでジッとしたりするわけですよ
そうしてその静かさに慣れながら、メインの熱帯温室を出て、日本の花とか高山植物とかの、余韻系の部屋を通って、外に出たらさ、外はまあ冬の温度でさ、遠くからは車の走る音なんかが聞こえたりして、日光も直接当たってくるし、なんつうか、まあ、外なんだよな
それで帰っていくわけじゃん
そういう体験なんだよな結局
そういう体験がしたいんだ
その未来など、どこにもない。
「嗚呼」
私は手で顔を抑えても、抑えきれぬ涙を指の端から零していく。
私は知った。
皆が、自分の事などどうでもよくても、自分の子には、目の前の子の境遇には激怒をした。
生け垣が影おとす道をいく
ずぶぬれで泣きながらすれちがう
いまは 埋もれてしまった川まで
小さな渦にまかれて消える
心をおおうチリが晴れる
目をかくすくもりが消える
手は空気に触れ
足は地面のはずみを受けとめる
誰かのために生きている私
私のために生きてくれてた誰か
人は自分の為にはどんなことでも耐えるというが、一方で他者の為には幾らでも残酷にも愚かにもなれるという
人間を始めとした社会的な動物が持ちうる「社会性」「互恵性」という特性を日常的な表現にした、それだ
受け渡そうとする者の、何と一方的な事だろうか
「与える」という名の「母親的な性質のもの」の、如何に暴力的で支配的なものか
受け渡される側の、それをいずれは拒否をして一人で立つことの難しさよ
体内バランスを極限までに不安定にして得られる「反抗期」の莫大なエネルギーを以てして、ようやく離れられる程の力だ
地球から発せられる強大な重力を振り切り、宇宙という孤独で茫漠な空間へ飛び出すためには、相応の速度を要するという
その速度に耐えるだけの強度を備え、行き先を間違いのないように計算装置を積み、空の果てを越すための燃料を積む
人の成長で獲得するそれと同じである
そう、人は愛情という名の甘やかな「支配」を抜け出し、自分だけの地球を探しに行く旅に出る
あるいは、つくるしかないのだ。自分の精いつぱいの物を。然し、必ず、こはれるものを
一生の間、そこから抜け出せずにいる人もいる
ああ 虹がかかっている空 きれいと思いたくて
焦がれては逃げられないこと
みんなにはくだらないこと
もう どうしようもないの
わたし きゅうくらりん
――いよわ「きゅうくらりん」より
@Gesu_Masuda
前日よりも人の出が少ないようだった。広場にあったワンタッチテントの数も前日の半数以下だ。だが、駐車場の空きは少なかった。隣接のサッカー場で子供のサッカーチームが試合をしていたので、公園の駐車場がその関係者達に占拠されてしまい、他所から公園に遊びに来た人達は、駐車出来ずに諦めて帰ったのかもしれない。
前日は公園に着いたらまずは敷地内をぐるりと一周散歩したが、この日は真っ直ぐ管理事務所に入った。「鯉とカモの餌」を三つ買う。300円なり。上の子と下の子のぶん、そして私のぶんだ。
池の周りでカモに餌やりをする人々やザリガニ釣りをしている人々も、少なめ。連休最後の日はインドアに過ごしたい人が多いのだろうか?
前日にはいくらか居た鯉の姿があまり見えない。カモは前日と同数くらいいるが、同一カモかどうかは不明。
私と子供達がカモに餌をやっている間、夫が池の周りをぐるりと回って鯉の様子を見て来た。夫によれば、鯉は燕子花の間により集まっていたそう。鯉は、産卵に忙しくて餌どころじゃないらしい。
産卵があろうがなかろうが、この池の鯉は何故か人に餌をねだることを全くせず、人影に向かって寄ってくることもない。昔からそうなのだ。「鯉とカモの餌」は実質「カモの餌」である。
連休中、人々の投げ寄越す餌にカモは飽きてしまったのか、前日よりも食い付きが悪い。食い付きが悪いと、子供達はむきになって餌を次から次へ、なんなら鷲掴みで一度に投げつける。面倒臭そうな仕草で、カモは泳いで行ってしまう。
前日に学んだ通り、カモは真正面に落ちて来た餌にはあまり反応しないので、横か、なんなら背後めがけて投げるのがよい。一粒ずつ投げて、食べたらより手前の方に投げて、少しずつカモをこちらの方に誘き寄せる。……と、言い聞かせても、子供達の逸る気持ちを宥めるのは無理なので、子供達がやたらめったら投げて全部外しているうちに、背後から私が投げて、カモ達をこちらに誘導する。
公園のカモは人慣れしているが、それでも野鳥なので、決まったセーフティーゾーンを越えて近づいてくることはない。一番寄って来て、岸から1.5mくらいの所。だが、それだけ近づいてくれれば、子供の手で投げた餌でもカモはもれなく拾ってくれる。
カモを岸に寄せたら、私の役目は終わりだ。早くも手持ちの餌を投げきってしまった下の子に残りの餌を手渡し、子供達の隣にしゃがんでカモを眺めていた。
やがて二羽いたカモのうちの一羽が、人間の相手をするのに飽きたらしく、水面に浮いた水草の根で遊び始めた。猫がねこじゃらしにじゃれつく時のように、根っこの切れっぱしを仮想敵とみなしてつつき回している。するともう一羽は反対方向へとすいすい泳いで行ってしまった。
よく、水辺の白鳥の姿は夕方だが、水面下では白鳥の足はジタバタと不恰好に水を掻いているという。だが、カルガモ達が水面をすいすい行く時の足の動きは優雅で無駄がない。茶色と緑の入り雑じった泥水の中でも、カモの足のオレンジ色は鮮やかに映えている。
子供達は橋を渡って池の向こう岸へ行き、別のカモのコンビに餌をやり始めた。私と夫は日陰に入り、また別の二羽を眺めた。なんと、二羽のうちの一羽がうたた寝をし始めた。私と夫の他にも人間がいくらかいる、その前で、自らの羽の合間に嘴を突っ込んで、うつらうつらと目を閉じたり開いたりしている。警戒心がだいぶ薄れているようで、風に吹かれるままに岸辺に流されて来て縁に敷かれた石にぶつかりそうになったところで目を覚まし、いそいそと池の中央に戻っていく。だが、しばらくするとまたこちらに流れてくる。カモ達の、ここに来る人間達への信頼度は半端ない。
あまり昼寝の邪魔になるのもなんなので、こちらから遠慮して岸を離れた。池の中央にかかった橋を通ると、水面に亀がひょっこり顔を出していた。種類はわからないが、外来種ではなさそうだ。どう見ても、こっちを意識している。子供達を呼び寄せて、亀がいるよと教えてやると、子供達は亀に餌を投げた。すると亀はカモよりも機敏に餌を追いかけて食べた。だが、カモほど食欲が底なしではないらしく、いくつか食べただけでくるりと身体の向きを変え、泥水の中へと姿を消した。
対岸で、子供達がカモに餌を投げるのを見守る。子供達はやはり闇雲に餌を投げるばかりで、大人のようにテクニックを駆使してカモを手懐けることは出来ないようだ。それでも、力技で遠投した餌をカモに拾われて喜んでいる。
二人の少し後ろに、三歳くらいくらいの男の子がとことことやって来た。手には餌の袋を持っている。だが、まだ小さいので餌を遠くに投げることができない。男の子は、うちの子供達が餌を投げているのを、恨めしそうにじっと見ているだけだ。そのまた背後に、父親が心配そうな顔で着いている。うちの子供達が邪魔で男の子がカモに餌をあげられないという構図になってしまっていた。なので、私は子供達に声をかけて、あっちのカモに餌をやりに行こうと促した。
池の周囲でカモに餌をあげようとしている子供の多くは、五歳以下に見える。自分の足元も覚束無い幼児もいる。彼らはどうしたらカモの気を惹けるか考えて餌を投げるということが出来ないので、節分の豆まきのように餌を投げまくった末にカモ達に完全無視を決め込まれる。ガッカリしている子もいれば、とりあえず好きに餌を投げただけで満足という様子の子もいる。
うちの子供達がその年頃のころ、私は子供達にカモの餌やりはさせなかった。うっかり足を滑らせて池に落ちることを恐れてのことでもあり、こんな小さな子に失敗が運命付けられているような事をさせても可哀想なだけなのではないかと思った。それに、その当時は池の畔に集まる子供の多くが小学生で、幼児の方こそ場違いに見えた。
だが今は、頭の重みでいつ前のめりに転がり落ちるかわからない幼児が、器用に池の縁の石の上に立ち、池の中を覗いているのだ。
うちの上の子はもう五年生で、この歳までカモに餌をやって遊ぶことをしないで来たわけだが、もうじき自分から幼児に紛れてこんな風に遊びたいと言うような年頃ではなくなってしまうだろう。少々の危険を覚悟で、もっと小さいうちから好きに遊ばせておけば良かったのではないかという後悔を感じないでもない。だが、一人で池を覗き込んでいる年端のいかない幼児が池に転がり落ちないで済んでいるのは、単に運がいいだけにも思える。
餌を全部投げ終わると、子供達は手を繋いで、中央広場の遊具で遊んで来ると駆けていった。私が子供達の手助けをする必要はもうない。遊具で遊んでいるのも幼児とその保護者ばかりで、小学校高学年の子供達はマイナーだ。十年前は逆に大きな子供達ばかりが、少数の幼児を蹴散らすような勢いで遊具に飛び付いていて、危なっかしくひやひやしたものだ。
後で上の子に聞いたところ、遊具には小さい子が沢山いるから、小さい子に出会ったら危なくないように道や順番を譲ったとのことだった。
子供達が遊具で遊んでいる間、私と夫は木陰のベンチに腰掛けて待っていた。
蓮池のところでザリガニを捕っている親子連れがいた。事務所で売られている「ザリガニ釣りキット」ではなく虫捕り網を持っている。ザリガニは釣るより手掴みした方が早いのは確かだ。
母親が威勢よく小学校低学年くらいの息子に怒鳴っている。ここぞという時に息子が網を持ってふらふらとどこかに行こうとしたからのようだ。母親は、ザリガニ捕りどころか公園遊びにも向かないようなくるぶし丈のスカンツの裾を片手で引き上げ、もう片方の手を蓮池に突っ込んでザリガニを捕ろうとしている。根っからのお転婆ではなさそうだ。そんな妻の横に立つ夫は「男らしさ」とは縁の無さそうなおっとり系だ。私の観測範囲だと、自分の息子を「男の子でしょ!」と叱る人ほどお転婆そうではなく、配偶者も大人しそうな優男であることが多い。
振り返って広場の方を見ると、上から下までスポーティーな格好の母親と、やはり上から下までスポーティーな格好の小学校高学年か中学生くらいの娘がバドミントンに興じているのが見えた。楽しそうだ。子供が大きくなったら大きくなったなりの遊び方があるようだ。私の乏しい体力では、バドミントンは無理そうだが……。
黒澤明は、羅生門の撮影では、鏡を使った本来存在しない強烈な光を役者の顔に当て、緊張感を演出した。
用心棒では、望遠レンズの撮影のために、鬘から煙が出るほどの強いピン照明を当てた。
夢では、川の中の水草を映すために、太陽光の反射を遮るシートを川全体に被せて撮影した。
これらは全て「リアルでは有り得ない光源・照明処理」の話である。
ブコメは、あまりにも「ぼくのかんがえたさいきょうのしょうめいりろん」に溢れていて泣けてくる。
件のイラストについては、白すぎて変だと思うのはよくわかる。
しかし「逆光ながら、キーライトを落として額と鼻頬の立体感を浮かび上がらせる」という当たり前のテクニック自体を否定するのは、あまりに愚かだ。
「そんな光源は存在しない」という意味不明すぎるコメントには爆笑した。馬鹿か?
トリュフォーの映画で、映画に愛をこめて アメリカの夜 という作品がある。
アメリカの夜とは昔の映画技法で、昼間の映像に青などのフィルターをかけ、夜のように見せるという「非常に不自然な」手法のことだ。
つまり「映画とは、撮影とは嘘の塊で、みんなそれをわかった上で愛しているよ」という粋なタイトルだ。
逆に、浅はかで無粋なことを言いたがる人種に限って、ろくに知識もないことへの皮肉でもある。
この映画では、「小型ライトが仕込まれた蝋燭」というアイテムが登場する。
「蝋燭ごときの光源では照明にならないので、無理やり電灯で顔を照らす」ための小道具だ。
素人が考える「自然な照明」がいかにアホらしい妄想か、よくわかるだろう。
上記のように、映画の撮影ですら「不自然な」照明など当たり前なのだ。
彼らは映画を見るたびにあり得ない光源に文句を言っているのだろうか。
(思いつきで知ったかぶりをしているだけだから、無論そんなことができる筈もないのだが)
クリエイティブに関わった経験のある人間なら、ああいう馬鹿なコメントはしないものだ。
批判するにしてもせいぜいが、「やりたい演出はわかるけど、下手だね」という観点からである。
クリエイティブ経験がなくとも最低限の知識さえあれば、「クリエイティブとは不自然の塊である」ことなど常識のはずだ。
何やら「テレビに毒されたやつ」というストーリーに仕立てようとしているようだが、こちらが言ってるのは「専門家の話を聞こうね」である。
「すでに鯉のいる川に鯉を放流することが生態系に何の影響があろうか、というのは考える間もなくわかる」って発言が、天才的すぎて凄いな。
こちらを宗教的だとか言っているが、「元からコイがいたんだから適当にコイを放流してもなんも問題ないやろ」という態度が科学的だとでも思っているのだろうか。
専門家が「捕食や水草や水質悪化等の具体的な懸念」を示した記事もあるのだが、天才様からすれば考えるまでもない愚かな杞憂なんだろう。
しかし現代は「同じ種類の生物」でも他地域のものを放流することでその地域固有の「遺伝子の攪乱」が起きることが当たり前に危惧されている時代なのだが、このあたりのことに疎そうなのは気になる。
「世界の侵略的外来種ワースト100」に入り、日本ですらも自治体などで放流を制限しているコイを無思考に放流するのも、それを擁護するのもよくないという話は、果たして宗教的だろうか。
そもそも、「全然コントロールできてないんだからまず専門家を頼ろうね」って批判が入った話を、「コントロールできる範囲で人が自然に働きかけるのは当然のこと」とまとめてしまうのは、天才様と言えどあまりにも独特すぎる解釈ではなかろうか。
この人によると専門家もテレビに毒された怖い怖い宗教家なんだろうか?
テレビって、本当恐ろしいんだな
逆に、「日本在来種」であることが確定している「ノゴイ」が、今や琵琶湖など限定的な数か所にしか生息できておらず、
コイ(マゴイ)は全国至る所に溢れ返っている時点で、その侵略性がいかに高く危険かがわかると思うんだが。
そういう部分は省くのね。
「昔からいたから外来種じゃない」と言ってるけど、「国内外来種」という問題は普通にある。
「国内種であろうと他の生態系を脅かす生物」は危険視されて当然だとは思わないのだろうか。
あのバスと比較しても、コイは異様に汚水に強い、低温に強い、寿命が長い、個体が大きい、交雑可能、卵を食べる、水草へも影響を与えるなど、侵略性が多岐にわたる生物だ。
「中流域以上に放流するなら場合によっては問題があるが、馬瀬川は下流域」(だから問題ない)というのも、暴論に近い。
というか、生態系を壊す可能性がある行為を、素人が専門家の意見も聞かずにノスタルジーで行っても批判するなという理屈なのだろうか?
ちなみにコイが特定外来生物に指定されていない理由は、どうせ金とか政治の話。
金持ち連中に愛好家も大勢いて、「日本の原風景」だとか言い出す人が多く、「鯉のぼり」等のシンボルにもなっている。
(結局は鯉のぼりも侵略的生物ならではの「異様な生命力」の象徴でしかないんだが)
また、特定外来生物に指定されると個人での「飼育自体が禁止」になる。
コイが指定されたら当然ニシキゴイも指定されるわけで、「そうなったら困るひと」が大勢いる。
多分将来も指定されることはない。
「コイを放流する事」がなぜかいいことかのように扱われてるのも、やたらと擁護されるのも、それで得をする人がいるってことなんだろう。
最近、農道のど真ん中のトンビポイント(なぜかよくトンビがトコトコ歩いているポイント)にトンビがいない。最近の田んぼ周り、なんならスズメもいない。
私の車が通ると、慌てて飛び立つのはムクドリばかり。ムクドリがいっぱい。あっちもこっちもムクドリ。そして、最近めっきり見ないスズメとシジュウカラ。
先日、ちょう久しぶりにオナガを見た。なぜか知らんけど、今、全国的にオナガの生息域が山の方へ撤退していて、市街地にはオナガってあまりいないんだって。そう言われてみれば、私の子供時代はオナガが電線に停まってる姿は、日常の風景だったなあ。ここいらでオナガを見ないのは、私の出身地とは違う県だからかなと思っていたけど違うみたいだ。
6月末に麦刈りが終わってすぐ、田植えが行われた。この地方は二毛作が普通なせいか、春の田んぼの空き日数がものっすごく短い。
どちらかといえば河川の上流に近い地域(私の故郷に比べれば)なせいか、ここら辺は田植えの時期が遅い。元から遅いんだけど、温暖化や毎年9月頃の台風や水害対策もあるようで、田植え時期が年々遅くなってとうとう6月末にまで先延ばされるようになった。20年くらい前はGW前後だったと思ったけれども。
そんな訳で、田植えの時期がズレたせいで、田んぼ周りの生き物のライフサイクルもだいぶ変わったんじゃないかなと思う。ヒバリは麦畑に巣を作るので、田植え時期のズレと共に麦刈り時期も遅れたことにより、昔よりもゆっくり繁殖できるのかなあ? 今年は五月半ばくらいまで、ヒバリがピヨピヨしていたはず。
一方、田んぼに中々水が入らないせいで残念なことになっていそうなのは、カエルとツバメだ。タガメみたいな水生昆虫もかな。
春、カエルが冬眠から目覚める頃、田んぼにはまだ水がない。五月にカエルのタマゴやお玉じゃくしは見られなくなった。
GW前頃にツバメが渡ってくるが、田んぼに水がないと虫があまり捕れない。そのせいか、ツバメが多く飛来する時期も昔よりも遅くなってる感じがする。
最近、すっかり梅雨なので、カエルとツバメはめちゃめちゃ元気だ。しかし、ツバメが元の住み処に戻るまであと一ヶ月くらいしかない。ツバメのライフサイクルを調べたことがないからわからないけど、確かオオヨシキリは春の繁殖期(3月~7月くらい?)に時間の許す限り産卵と育児を繰り返す。ツバメもそうだとしたら、もしかすると1サイクルぶんくらい、繁殖回数が減っているかもしれない。もし巣が敵に襲われたりなどして雛が全滅した場合、巣を作り直しタマゴを産み直す暇がないのでは? 知らんけど。
我が家にはツバメが巣を作ってくれないので残念。最近のツバメ、民家に巣を作っても壊されるだけだって学習していないか? それか、昼間の住宅街に人間の気配がしないので、ここに巣を作っても天敵から守られることはないと思っていそう。うちだけじゃなく、軒下にツバメの巣があるお家が、近所には全然ない。
そのかわり、幼稚園、病院、老人ホーム、小学校の高い所の軒下にツバメが営巣しているのは見た。近所のスーパーには十年前はよくツバメが巣を作っていたけれど、店の人によって徹底的に壊されてしまうせいか、今ではすっかりツバメが寄り付かない。
ゴーストタウンには住まない鳥といえば、スズメもそうなのだ。人口とスズメの数は比例する。私の住んでる地区は空き家も多いし昼間誰もいない家が多い。見かけるスズメの数も年々減っている。人間の気配が少ないうえ、カラスとハクビシンとヘビが多く住み着いているので、スズメが住むには向いていなさそう。
数年前、大雨でうちの屋根にあったスズメの巣がベランダに落ちてきたことがあった。当時は私だけでなく、小さかった子供たちも家にいてにぎやかだったから、スズメ的にはうちの屋根の上は安らげる場所だったかもしれない。
ところが、ハクビシンが近所に住み着いた。うちの屋根の上もハクビシンの通り道になっていて、西の雨樋と東の雨樋の両方にハクビシンの足跡がついてる。時々、ベランダにハクビシンのウンコが落ちている。
ハクビシン通路に営巣は無理なのだろう。去年も今年も雨が降ってもスズメの巣は落ちて来ないし、あっちこっちがムクドリだらけになった最近は、スズメの姿をあまり見かけなくなったし、ベランダの物干し竿にスズメのウンコがついていることもなくなった。
田植えが終わって数日しか経たないうちに、田んぼの水面がぶわーっと水草の芽みたいなものに覆われた。そしたら、沢山カモがきた。水深が浅いせいで、せっせとばた足に励んでいるお尻がよく見えて可愛い。けれども、親ガモが仔ガモの行列を連れているのは、いまだ見たことがない。
毎年、田んぼに水が入るとアオサギが沢山飛来してくる。この地方あんまりシラサギは見かけないんだよなと思っていたが、この二、三年ばかりはけっこうシラサギも見かける。面白いもんで、アオサギとシラサギって田んぼの同じ区画に一緒に居ることはあまり多くないようだ。農道を挟んであっちの田んぼにはアオサギ軍団、こっちの田んぼにはシラサギ軍団、と別れて固まりがち。
今年はアオサギもシラサギも飛来が遅いな、と思っていた先日、変わった鳥を見た。すごく脚が長くて、翼の前半分が白く後ろ半分が黒と、色がパッキリ別れているので、アオサギでもシラサギでもないと思う。ツル的な何か? でも、ここいら辺でそんなツルっぽいものを見るのは、初めてだと思う。
ところで、今年は1羽もキジを見ていない。キジ! 居るんですよ。田舎とはいえそんなに大自然豊富な所じゃないのに。だけど、今年はまだ見ていない。
以前、この町の中だけどもっと南の方に住んでいたとき、庭によくキジがくるお宅が当時の私の住み処のすぐそばにあった。そこんちの庭が私の家の窓からよく見えたので、キジがくると飛んでくまで眺めていたなあ。
うちから数キロ先に、かなりでかい河があり河原の人間用にカスタマイズされていない部分にはかなりのワイルドネイチャーが広がっている。どのくらいワイルドかというと、数年前まではよく鹿や猪が出た。ここ数年はめっきり猪注意報が発令されないけど、たぶん朝っぱらから堤防付近を人間がやたら走ったり自転車こいでたり犬の散歩しまくってるからじゃないかなあ?
河原に行ったらハイタカが見れるかなあ。ハイタカ一度も見たことないから見てみたいよなぁ、と思うんだけど、河原に降りる階段の手前に大きな住宅街があって、そんな所を歩いていると知り合いに「あんた何してんのこんな所で!?」と言われまくりそうなので、近づけないでいる。
河と鳥で思い出したけど、この町に移り住んでから一度もカワセミを見ていない。故郷にはカワセミがいて、大してきれいでもないむしろ汚いドブ川にかかる橋の欄干によく停まっていて、魚獲ってた。
無能故に職場に居づらくなってジョブホッパーしてて確信したわ、俺ガチの無能だわ。勤続年数が長くなればなるほど仕事に慣れるはずが、長くなればなるほどボロが出る。
無能の定義から始まるとお前らああだこうだうるせえから、過去にお前らが見たどうしようもない無能思い出してくれ。それが俺だ。「無能な自覚あるだけまし、本物の無能は無能な自覚もない」とか言うけど、無能は無能なんだよぶっ殺すぞ。無能な自覚がある無能なだけなんだよ。
働かないで社会のリソース食いつぶすのは辛いからさ、本音言うと無能だから死にたいんだわ。
好きで無能やってるわけじゃないし、無能故に周りに迷惑かけるのが辛すぎんだわ。
朝弱いから21時には寝るようにしてるけど、それでも朝辛いし、朝のこの絶望的な気持ちで目が覚めて目覚ましの横に安楽死出来るボタンがあったら迷いなくそのボタンを俺は押すと思う。
趣味もねえし、休みの日とか仕事に脅えてずっと寝てるよ。上司に「何が楽しくて生きてんだ?」って言われてハッとしたよね。俺、生きてて楽しい事なんてねえわ。生き甲斐なんてねえよ。社会に脅えながら生きてるよ。
人が喋ってること理解するのにも時間かかるし、理解したつもりでも的はずれな理解したりするし、人の口頭指示が音として処理されて頭の中に情報が何一つ入ってこない事があるし(声は聞こえるし、なんなら復唱も出来るけど頭に入らなくて右から左に流れていく感じ。わかる?)、転職してもした先が怖いよ。生まれた星間違えたのか?
働き続ければマシになるとかいうけど、あれね、嘘だわ。働き続ければ続ける程無能は惨めな気持ちになるし、自信なんて砕かれた破片すら残らないし、生きてる価値が無いことに嫌な程気付かされんの。あとさ、入社当時からずっと気にかけてくれ人に愛想尽かされんの、あれマジでつれえわ。目の前が真っ白になって周りの音が遠くに聞こえて耳鳴りすんのな。動悸の音だけはすげえ近くに聞こえんの。「壊れた大脳は元には戻らない」ってどっかのbotが言ってたけど、あれマジだわ。もともと壊れてたのかな?もう、わかんねえわ。
俺さ、チャットとかなら何度も読み返せるからギリギリ意思疎通できんのね。でもチャットでやりとりする仕事って、IT系でしょ?slackとかいうの使うんだよな?いいよなそういうの、言った言わないとか怖すぎて、口語指示に怯えなくて済むし、俺一人だけ真っ青な顔でメモとらなくて済むんだよな、良いよな。
でもさ、もう三十路手前の分数の割り算で小学生時代躓いてた無能がプログラミングの勉強してIT関係に就職するのなんて無理なんだよ。progateすら続かなかったわ。何かと励ましてくれる人はいてもさ、一緒に働く人の身になったら、俺みたいな覇気がなくて、コミュニケーション下手くそで、物覚えも悪い産廃、絶対一緒に働きたくねえもん。ボトルネック確実だもんな。
これから先さ、無能として煙たがられながら、毎日胃を痛めて、周りに脅えながら働くわけじゃん。今はまだ20代だけど、このまま歳をとっていくわけじゃん。想像しただけでもう地獄だよね。
親が生きてる間は生きていようと思ったけど、三十路手前になると流石に自信無くなってきたわ。
年始に親が「孫がいたら」みたいな話をさ、楽しそうにすんのね。俺さ、親に変に期待させるの余りにも辛すぎてさ、結婚できる気もする気もないし、生きてていっぱいいっぱいなの打ち明けちゃったんだよ。そしたら、親がさ、「そうか、いま結婚しない人多いしね。珍しくないよ」って優しいトーンでいうわけ。それ以降親が孫の話一切しなくなってさ、なんかそれが尚更申し訳なくて胸を締め付けんだよね。親には孫の顔見せらんなくて申し訳ないからさ、なるべく家にお金入れるようにした。親の為にお金使うようにした。あと自殺する時とか、事故死した時に備えて、公証役場に遺書出してきたわ。微々たる資産は全部親に渡して欲しいってね。親がそんな事望んでなくて、俺に生きて欲しいって思ってるのはわかってるんだけど、親の思いを汲める余裕がいよいよ無くなってきたわ。
生きてて辛いことばっかだったな、生きててよかった事って、あったのかな。覚えてねえなあ。安楽死制度はやく出来ればいいのにな。輪廻転生があるなら、来世は水草とか、そのへんがいいな。
淡水魚を飼っている。
魚を飼っている人はわかると思うが魚は可愛い。各々性格があり、陰キャなやつからアホなやつまで同種でも色々いる。
特にコリドラスはとてもとても可愛い。水流にのって遊んでいる姿やお行儀よく餌を咀嚼している姿は他のペットに引けを取らない可愛さだと思う。
ただ、魚を飼っていると言う話を魚を飼っていない人にしても非情に反応が悪い。
いつだかリモート飲み会をしたとき、自宅のペットを見せる流れになった。抱き上げられるネコチャンや何か喋っている鳥。なんだかよくわかっていない犬。皆とても可愛くてカワイイ!イイナーなんて言葉が飛び交った。
そういうわけで我も我も!と、水槽をうつしたものの、「自然」「癒やし」みたいな声しかなかった。まあ水草が綺麗だからね。癒やしだね。でも魚に「可愛い」はないのだ。というかそもそも魚へのコメント無かった。何の魚?とかすら。
可愛いペットなのでSNSに写真をアップしたりアイコンを魚にしたりしても、基本的に無反応だ。まあこれは自室にポスターを貼るような感覚なので別に反応されなくても構わないが、ネコチャンだったら全然反応が違うのになあとは思う。
場合によっては魚を飼っている、というと「ネコや犬は?」と聞かれる時すら有る。魚はペットじゃないかのようである。
自分の親がペットを飼いたいと言ったときにも魚をすすめたけど、「魚は懐かない」と嫌がられた。気持ちはわかるが。そもそもなついてほしいがためにペットって飼うものなのか。とちょっと違和感を感じた。あと厳密に言えば哺乳類でも懐かないペットって結構居るし。
確かに魚はあんまり頭が良くないので芸を仕込んだりはできないが、餌をくれと言う仕草もするし、家に帰れば声を聞いて寄ってくる(餌がほしいだけではあるが)。知らない人が家に来ると怖いのか皆隠れてしまう。ちゃんと人間を判別する。可愛い。
ただまあ、実のところ自分も魚を飼うまで魚が寝るということすら認識していなかった。今は水族館でも寝ている魚がすぐわかるが、以前はわからなかった。ちなみに魚も夢を見るのかはわからないが、寝ぼけて突然泳ぎだして石に激突していることがある。可愛い。
つまるところ皆魚のことをよく知らないから可愛いのがわからないのだ。実際魚を飼う人は魚可愛いねぇ~!!なんてテンションを上げてくれるものだ。もうちょっとペットとしての魚の可愛さが知れ渡るといいと思っている。
瓶の底で、蛍は微かに光っていた。
しかし、その光はあまりにも弱く、その色はあまりにも淡かった。
僕の記憶の中では、蛍の灯はもっとくっきりとした鮮やかな光を夏の闇の中に放っている筈だ。そうでなければならないのだ。
蛍は弱って死にかけているのかもしれない。僕は瓶の口を持って、何度か振ってみた。蛍は瓶の壁に体を打ちつけ、ほんの少しだけ飛んだ。しかし、その光は相変わらずぼんやりとしていた。
多分、僕の記憶が間違っているのだろう。蛍の灯は、実際にはそれほど鮮明なものではなかったのかもしれない。僕がただ、そう思い込んでいただけのことなのかもしれない。あるいは、その時僕を囲んでいた闇が、あまりにも深かったせいなのかもしれない。
僕には思い出せなかった。最後に蛍を見たのが、いつのことだったのかも思い出せなかった。
僕が覚えているのは、夜の暗い水音だけだった。
煉瓦造りの、古い水門もあった。ハンドルをぐるぐると回して開け閉めする水門だ。岸辺に生えた水草が、川の水面をあらかた覆い隠しているような、小さな流れだった。辺りは真っ暗で、水門の溜まりの上を何百匹という蛍が飛んでいた。その黄色い光の塊が、まるで燃え盛る火の粉のように、水面に照り映えていた。
あれは、一体、いつのことだったのだろう。
そして、一体、どこだったのだろう。
上手く思い出せない。