「水草」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 水草とは

2024-11-18

”良いビオトープ” とは

都市の良いビオトープヤゴトンボ)等の捕食者を増やし蚊の発生量を減らす可能性があります

https://x.com/oikawamaru/status/1858316046895304921

 

これは良いビオトープ 、これは悪いビオトープなんてちゃん説明されてきたことあっただろうか

正直、ビオトープにいい記憶がない

聞きかじりで手出ししてスイレン鉢やボール鉢で水草が増えたかビオトープだと言いはって、

実家の周囲に蚊の温床を量産してきたオッサン(実父)が身近にいるせいだが

蚊が出るから止めてくれと30年間言い続けているが絶対に止めない

気がつくとどこからか水を溜める器を調達してきては水草を増やしている

 

環境に良い系の話、上リンク先で言えば「”意識高い人”の”生態系を守る取り組み”」だが、

メディアで囃されてそれきりで、情報の細かいメンテナンスなんかあったためしがない

というか鯉やメダカの放流事業なんてまさに「”意識高い人”の”生態系を守る取り組み”」に他ならないし、

ザリガニの放流もその延長上の「”意識高い人”の”生態系を守る取り組み”」であり、

元の話題意識の高さ同士の衝突に他ならないわけだが

意識高いがゆえに余計なことする人たちや

意識高いことは簡単にできるんだよとマスメディアで言ったきりで、それを受け止めちゃった一人一人に対し修正を行わない人たち

 

せめて、マス向けではどうしたって情報伝達は細かいニュアンスは伝わらないものだという最低限のメディアリテラシーを身につけてくれないかSNSも一対多のマス向けメディアです)

無料メディアで囃された時点で、良いビオトープなんて存在しないんですよ

2024-06-08

横浜トリエンナーレへの批判を読んで(後半)


(前半からの続きです。)

https://anond.hatelabo.jp/20240608093126


現代アートの不満


もっとも、現代アートは手放しで褒められるものでもないでしょう。多くの批判者が火のないところに煙を立てているとは言えないと思います作品の出来が悪いものも混じっていることは否めません。


大方の批判にもかかわらず、私は今回のトリエンナーレではそのような「的外れ」感のある作品ほとんどないか、かなり少なかったと感じています。これもキュレーションのよさでしょう。


思い返せば2020年トリエンナーレにあった「エビSEXをさせる方法を考える」という一連の展示はひどかった。テーマはとてもよかったのですが、日本(だったと思います)のクリエイターたちの作品はふざけているとしか言いようのないものでした。その課題は、「エコスフィア」(エビ水草の入っている閉じた水槽)の中でエビ酸素を吸って二酸化炭素を出し、水草二酸化炭素を吸って酸素を出す。この循環のバランスはうまく保たれているが、一つ問題があって、エビ生殖をしなくなる。そこでエビ生殖をさせる方法を考える、というものでした。多くの作品エビセクシーな格好をさせるとか、エビ秘宝館のようなものを作るとか、そういうものだったと記憶していますしかし、クリエイターたちはこの「エコスフィア」が地球生態系比喩であると気づかなかったのでしょうか? だとしたら愚かに過ぎるとしか言えません。それとも、気づいていてこのような作品を作ったのでしょうか? だとしたら二倍悪い。エビとは「私たち」に外ならないのだから、つまりクリエイターたちは女がセクシーな格好をして男を誘えばよいと言いたいのでしょうか? それはあまりにも「男尊女卑」に終始していると言わざるをえません。そこには問題意識が欠如しています。「教授課題テーマはよかったが、学生たちのレポートがだめだったという感じだ。」私は友人とそう語りあったことを覚えています


2020年といえば壁にブレインストーミングのように年号出来事を書いてゆく展示もありました。そこには作家メモも展示してあり、『荘子』の「胡蝶の夢」の故事引用してありましたが、「與」を「興」と書き誤っていたことを覚えています自分のことは棚に上げつつ、非本質的でささいな事をあげつらうようですが、「どうかわからないことで見栄をはらないでほしい」と思われてなりませんでした。


現代芸術作家たちの一部が「見栄をはろう」としていることは薄々感じられます人文学哲学歴史学経済学などに議論の蓄積がありとっくに通過してきた知見について、芸術家たちが何周も遅れて的外れなことを言っている光景は、あまりみっともいいものではありません。なぜそのようなことになっているかといえば、芸術家が「作品」だけではなく、その「意味」で評価されるようになっているからでしょうか。


かつて芸術家は貴族の注文にこたえて絵を描いていたそうです。今の作家自由作品を作れるはずなのに、ただ社会要請にこたえて作品を作ろうとして、中身のないステートメントを打ち出しているのは、痛々しくさえあります


しかし、これは決して「アーティストはよけいなことを考えるな」と言いたいわけではなく、むしろその逆で「もっと学問をしてほしい」ということです。しかもそれは「芸術家」としての意識以前に、「市民」として当たり前にもつべき意識であると思うのです。芸術家は作品だけで力のある面白い作品を作って、そしてそれとは別に最低限、当たり前に市民として的外れでない発言もしてほしいのです。


作品」と「意味


トリエンナーレと同時開催の展覧会Bank ART Life7「UrbanNesting: 再び都市に棲む」に足を運ぶと、新高島駅地下1階の会場の入口には巨大な土のダンゴがありました。これはかなり面白かったのですが、説明を見ると福島の土で作ったとありました。もちろん福島原発事故はまだ収束したと言えませんし、提示された問題は深刻です。しかし、その場では私も友人も何となく興が醒めてしまったのです。それはなぜでしょう? 何となく、「作品面白さにテーマが負けている」と感じました。私も「キラキラ」なアートを好む一員であり、私の中で「無意味」のもつ破壊的な力に「意味」が負けてしまったのかもしれません。あるいはその逆で、テーマの重さのために、作品が軽く見えてしまったのかもしれません。いずれにしても、私は作品のよい受け手になることができませんでした。


しか問題受け手だけにあるのではないと思います。「作品」と「意味」のバランスは難しいことであり、作り手の側でもうまく調整しなければならないものです。先程述べた通り、今回の展覧会にはピンボケ作品が少ないと感じました。しかし、今回の出品作のうち、どれくらいが「意味」(言葉による解説)なしに「作品」だけの魅力で勝負できるものだったかは疑問も残ります


今回の展示にあったBゼミの試みはよかった。「意味のないものを作る」とか「新しい楽器を作る」とか、芸術意味から解き放つような試みは今でも頼もしく思われます。どうもいまのアートは、意味付与された瞬間に弱くなってしまうような気がしています作品意味との関係性については、まだまだ考える余地がありそうに思います


私の身近に YOASOBI のアニソンが好きでないという人がいます。「アニソンというのはアニメ解釈であり、アニメへの讃歌であり、しかアニメ本編とはズレているか面白い。YOASOBI の歌はアニメストーリーをそのまま歌っている。だから面白くない」と言うのです。何となくわかる気もします。偉そうに勝手なことを言うならば、現代芸術世界にあるモノをそのまま出すのでなく、世界アートの形で表現するとどうなるのか、「意味」に傾きすぎず「作品」の力で見せてほしいと思います


しかし、芸術に「意味」をこめるなというつもりではありません。批判者の中には、芸術家は被災地創作で消費するのではなく、実際に活動をすることで被災地に貢献すべきだというような意見を言う人があったような気がします。もちろんそのような活動はしないよりもしたほうがよいのですが、それはあくまで「市民」としてのはたらきであって、「芸術家」としてのはたらきではないでしょう。芸術家には芸術家にできることがあり、それは創作であるということを否定するつもりはありません。しかし、だからこそ「作品」と「意味」にはもっとよい関係があるのではないかと思います。その答えが何かということは、残念ながら即座に提示できないので、偉そうに勝手なことを言うだけになってしまうのですが……。


批判いたことのついでに言えば、今回のトリエンナーレ批判する意見の中には、電気を使ったインスタレーション環境問題を訴える作品を同じ空間に並べることの違和感を語る人がいたように記憶しています。その違和感理解できますが、それとは別に芸術資本関係という問題も感じました。入り口の協賛企業の一覧を見たとき、たいへん違和感がありました。資本主義への警鐘をならす作品(全てではないにしろ)が、大資本資金で展示できるとは! 大企業はそのようなお金を出すほうがよいと思いますけれど、その一方で企業がそれを「みかじめ料」として批判されなくなるべきではもちろんないでしょう。作品意味もつときには、その作品のおかれる「場」までもが、自らの意味暴露するようになるのかもしれない。初っ端からそんなことを考えさせられるなかなか面白い「展示」でした。


むすび


咎め立てばかりしてしまったようですが、最後によかったところをいくつか述べたいと思います。友人は、今回のキュレーター解説文(紹介文)がよかったと言っていました。友人によると今や「この作品はこう見るべきだ、ここが素晴らしいのだと天から決めつけて、自分に酔ったような解説」を見ることも多いなかで、今回の解説文は「キュレーター自身作品をどう見るか、真摯に考えて書かれていたので好感が持てる」というのです。また、「キュレーションにも工夫が多かったような気がする。例えば商業主義マルボロ広告の下にインドの貧しい生活を描いた版画を配置するなど、『対比』を意識したものがいくつかあったように感じた」とも言っていました。キュレーターの仕掛けた「作品」と「意味」の関係性のバランス果たして十分達成されたかどうか、それはよくわかりませんが、キュレーター真剣構成しており、私たちに問いかけるものがあったのは確かだと思います


要するに、初めに述べた通り「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということです。言いたいことはこれに尽きます


魅力のある作品も少なくありませんでした。友人は勅使河原蒼風ファンになり、富山妙子画集を買いました。私は土肥美穂の buttaiが気に入りました。同時開催のBankART Life7では、みなとみらい駅の腕木信号オブジェや、Bank ART Stationにあった送風機で立ち上がる足などの機械仕掛け作品が好きでした。


つらつらと思いつくまま書くうちに、思いがけなく長文になってしまいました。次回のトリエンナーレにも期待しつつ、このあたりで終わりにします。


2024-02-05

世界任務尽きたので今更ファルザン先輩のデートイベ進めてるが

レイちゃんの太ももえっちすぎて話が頭に入ってこないわ

あっ世界任務つながりで最新クエトリビアシェアしとくとな

シャンジュンがおじいちゃん探すクエストは翻訳問題があって

日本語だとシャンジュンの正体を推測しづらくなってる

クエスト完了後に時計進めると隠し後日談があって

水撒いた地点に花が咲き、その後ろに現れる文書に正体の示唆があるんだが

その中の「~香り高い水草である」というのが、原語では「名香莙」となっていて

NPCのシャンジュンは原語では香莙

中国語英語プレイヤーならここが香莙・Xiangjun表記統一されているので勘づくことができるが

日本語場合気づくには「香り高い水草から「シャンジュン」を想像できる中国語エスパー能力が求められる

ミホヨはエリート思考すぎて日本人中国漢字ニュアンス読み取れることに期待しすぎているのでは……?

日本人プレイヤーなんてソシャゲ脳みそ毒された思考回路を卒業できなくて

石欲しさにシナリオなんて読み飛ばすっていうキッズが大量にいるんだぜ……

高度な読み取りとかそれ以前のレベルなんだぜ……

ん? だから翻訳適当でもいいって思われてるのか? 頼むよ

2024-01-20

カモは主に植物食で、水生植物種子や葉、草の葉や茎、草の実などを食べます。また、タニシなどの水生小動物も食べます。

カモは大きく分けて、草や種などを食べるものオナガガモヒドリガモなど)と、魚やエビ、貝などを食べるもの(スズガモなど)の2つに分けられます。

マガモカルガモハシビロガモなどは、水中に潜ることはなく、水面の餌をすくって食べたり、水中に首を突っ込んで浅い水底の水草雑草種子を食べます。

カモの天敵としては犬や猫、カラスなどが該当します。また水中ではライギョにも襲われる危険があり、様々な生き物に狙われている鳥です。

2024-01-19

いつから水草になったの?

ポケモンから

おれらの頃はまだ地水火風の全盛だったよね??

2023-07-15

散歩してたら工場排水のところで小さな水草みたいなのが生えてたんだけどさ

水草は多分知らないんだと思う

そこは安住の地でもないし工場排水やめたら乾燥した荒野になることを

今を生きるならそういうスタイルでもいいけど2世3世世代を繋げていくつもりがあるなら

もっと別の場所で生きた方がいいと思う

2023-07-10

俺の町には植物園がない

結局俺は、洒落ハイソな店でウインドウショッピングとか、立派な劇場で高尚な観劇とか、空いた時間ボルダリングとか、そういう都市的なアクティティには興味がなくて、ただ植物園に行ってウロウロして、でけえ温室に入りてえだけなんだよな

植物園って、人が並んでねえ入り口で高くて400円程度のチケットを買うところからもう始まってんじゃん

800円とか1200円とかじゃなくてさあ、300円とか400円とか、ヘタしたら温室入らねえならタダだったりするわけじゃん

その、やっすい入場料を払いながらよ、受付のある事務所に設営された、葉っぱの栞を作ってみよう!とか、まつぼっくりを拾おう!みたいな企画を目の端に捉えてさ、ヒア・イット・ビギンズ、俺の一日が始まるということになる

植物にそんなに言うほど興味ねえし、オフシーズンに来てるからさあ、実際園内に入っても、解像度はずっと低いままなんだよ

時期が良けりゃ花が咲いているんだろうなって感じの、特定の花、バラとか百合とか、そういうのをフィーチャーした花園があってさ、でもシーズンじゃないんで実際には4輪くらいしか咲いてなくてさ、ただエキゾチック名前の書かれた立て札と、茎と葉だけがあるわけじゃないですか

そういうのとか、あとはよくわかんねーでけえ樹、これはマジでデカくて、木ってでけえんだなみたいな感想自動的に出てくるんだけど、逆にいうとそれでおしまいなんだが、そういうものを見る 見るしかない

池なんかもあってさ、鯉ほどアトラクション性のある魚はいなくてさ、ただなんか、メダカかな?みたいな感じのちっせえ魚が、俺の影に反応して、すばしっこく逃げ去っていくのな アメンボがいたり、水草が植えられていたりもする 黒いビニールの、ヒダ状になった給水パイプが、ガサガサした質感をしている

意味のない小さい橋や、飛び石、小道、そういうものがある

そういう場なんだよな

そういう場をウロウロしたあとに温室に入るとさ、外の疎な感じに比べて、全体的に密でさ、珍しい、見たこともないような、綺麗な植物が、まあバンバン植わってるわけですよ

温室の天井は高くて、半透明で、そのガラス越しに弱い陽光が見えたりして、常に水音がしていて、しか本質的には静かな感じがするじゃない

そんで、人はあんまりいないんだ

ベンチなんかを独り占めしても、あまり問題だという感じはしない 人がいねから

から座り込んでジッとしたりするわけですよ

そうしてその静かさに慣れながら、メインの熱帯温室を出て、日本の花とか高山植物とかの、余韻系の部屋を通って、外に出たらさ、外はまあ冬の温度でさ、遠くからは車の走る音なんかが聞こえたりして、日光も直接当たってくるし、なんつうか、まあ、外なんだよな

それで帰っていくわけじゃん

そういう体験なんだよな結局

そういう体験がしたいんだ

2023-04-26

愛情という名の「重力」に崩壊する人々

自分などはどうでもよいが、子が差別を受けた!

その未来など、どこにもない。

その吐き気をする憎悪けが、目の前に転がっていた。

嗚呼

私は手で顔を抑えても、抑えきれぬ涙を指の端から零していく。

私は知った。

皆が、自分の事などどうでもよくても、自分の子には、目の前の子境遇には激怒をした。

マルティナ・フォン・ボーセル領地など継げない。

カロリーヌと同じく、病弱な伯母ヘルマのその娘、病弱な娘にとってのボーセル家の奴隷として従うしかない。

その架空しかない未来に怯えたのだ。

――「貞操逆転世界の童貞辺境領主騎士「第99話 リドルの解き方」」より

陽のさす裏庭から 忘れていた木戸をぬけ

生け垣が影おとす道をいく

むこうから走って来る幼い子は わたし

ずぶぬれで泣きながらすれちがう

砂場足跡をたどって もっと先へ

いまは 埋もれてしまった川まで

ゴミの間の水草が揺れている

あの小さな川で、私はあなた出会った

わたしのクツがゆっくり流れていく

さな渦にまかれて消える

心をおおうチリが晴れる

目をかくすくもりが消える

手は空気に触れ

足は地面のはずみを受けとめる

誰かのために生きている私

私のために生きてくれてた誰か

わたしは あの日 川へ行ったのだ

わたしは あなたの 川へ行ったのだ

――「あの日の川で(「ロマンアルバム 千と千尋の神隠し」より)」

人は自分の為にはどんなことでも耐えるというが、一方で他者の為には幾らでも残酷にも愚かにもなれるという

その卑近な例として、子供に対するそれがある

「どうか健やかに育ってくれ」という素朴で原始的祈り、思い

人間を始めとした社会的動物が持ちうる「社会性」「互恵性」という特性日常的な表現にした、それだ

受け渡そうとする者の、何と一方的な事だろうか

「与える」という名の「母親的な性質のもの」の、如何に暴力的支配的なもの

受け渡される側の、それをいずれは拒否をして一人で立つことの難しさよ

体内バランスを極限までに不安定にして得られる「反抗期」の莫大なエネルギーを以てして、ようやく離れられる程の力だ

それは、宇宙速度連想させる

地球から発せられる強大な重力を振り切り、宇宙という孤独で茫漠な空間へ飛び出すためには、相応の速度を要するという

その速度に耐えるだけの強度を備え、行き先を間違いのないように計算装置を積み、空の果てを越すための燃料を積む

人の成長で獲得するそれと同じである

そう、人は愛情という名の甘やかな「支配」を抜け出し、自分だけの地球を探しに行く旅に出る

あるいは、つくるしかないのだ。自分の精いつぱいの物を。然し、必ず、こはれるものを

から、時に人はその重力を抜けそうとして、崩壊する

打ち上げに失敗する宇宙船のように、何度も何度も、何度も

一生の間、そこから抜け出せずにいる人もいる

だが、広い宇宙の中で たいしたことではない

ああ 虹がかかっている空 きれいと思いたくて

焦がれては逃げられないこと

みんなにはくだらないこと

もう どうしようもないの

わたし きゅうくらりん

――いよわ「きゅうくらりん」より

@Gesu_Masuda

2022-12-07

anond:20221206113918

水草を取るのにも手間(金)がかかるから放置するのが一番。

anond:20221206113918

湖沼に水鳥でも放って水草を食わせたらどうだ? 合鴨農法とかがあるくらいだし。

水草が増殖してしまった後からだと大変だが、初期の段階なら量は少ないハズだからいけるだろ。

2022-12-06

駆除水草の利用法

備忘録として。

最近では水草湖沼に繁茂して様々な影響を与えているという。

しかし、駆除をしてもその水草の行き先がなく、処分も困っているのだという。

前提としては、水草は水分量が多くて乾燥しなければ焼却処理できない。

乾燥過程で腐敗し、悪臭を放つ。窒素は含むが量は不明

手間のかからないことが大事

家畜の餌。

主にいえば豚。

直近に養豚場があることが条件。短期間に大量に消費できるが、不純物が混ざっていないかが気になる。

次点で鶏。

特に放し飼い系。

不純物は勝手に避けてくれるが、消費量が減るかも。

農地にすき込む。

農家の協力が必要

家庭菜園なら悪臭がすることを説明の上、市民無料配布。

緑化資材に転用

草の生えない土地に並べれば水分と窒素を含んだ土壌となるので、草が生えてくる。

日本にそんな土地がないことが難点。近隣に砂漠があれば有効か。

うむ、ほかにいい案はないです?

2022-11-13

近くの川が水草で埋め尽くされた

草原に見えるほど水草が生い茂るが川なので足を踏み入れると普通に水に入る。

雀が水草に止まってるのを見かけるが、猫は川に入ってこないだろうからやはり安全なんだろうか。

2022-07-18

宇宙船遭難した場合について考えているんだけど

酸素を作る最も効率の良い方法ってどれ?

1)過酸化水素

2)水の電気分解を行う

3)水草光合成で生じたものを集める。

 

3は量が少なそうだし

2は貴重な水か失われそう

 

宇宙船遭難したら酸素つくてなくて死ぬの…?

2022-05-07

再度、カモに餌やり。

 五月五日、また公園にカモに餌やりをしに行った。

 前日よりも人の出が少ないようだった。広場にあったワンタッチテントの数も前日の半数以下だ。だが、駐車場の空きは少なかった。隣接のサッカー場子供サッカーチーム試合をしていたので、公園駐車場がその関係者達に占拠されてしまい、他所から公園に遊びに来た人達は、駐車出来ずに諦めて帰ったのかもしれない。

 前日は公園に着いたらまずは敷地内をぐるりと一周散歩したが、この日は真っ直ぐ管理事務所に入った。「鯉とカモの餌」を三つ買う。300円なり。上の子と下の子のぶん、そして私のぶんだ。

 池の周りでカモに餌やりをする人々やザリガニ釣りをしている人々も、少なめ。連休最後の日はインドアに過ごしたい人が多いのだろうか?

 前日にはいくらか居た鯉の姿があまり見えない。カモは前日と同数くらいいるが、同一カモかどうかは不明

 私と子供達がカモに餌をやっている間、夫が池の周りをぐるりと回って鯉の様子を見て来た。夫によれば、鯉は燕子花の間により集まっていたそう。鯉は、産卵に忙しくて餌どころじゃないらしい。

 産卵があろうがなかろうが、この池の鯉は何故か人に餌をねだることを全くせず、人影に向かって寄ってくることもない。昔からそうなのだ。「鯉とカモの餌」は実質「カモの餌」である

 連休中、人々の投げ寄越す餌にカモは飽きてしまったのか、前日よりも食い付きが悪い。食い付きが悪いと、子供達はむきになって餌を次から次へ、なんなら鷲掴みで一度に投げつける。面倒臭そうな仕草で、カモは泳いで行ってしまう。

 前日に学んだ通り、カモは真正面に落ちて来た餌にはあまり反応しないので、横か、なんなら背後めがけて投げるのがよい。一粒ずつ投げて、食べたらより手前の方に投げて、少しずつカモをこちらの方に誘き寄せる。……と、言い聞かせても、子供達の逸る気持ちを宥めるのは無理なので、子供達がやたらめったら投げて全部外しているうちに、背後から私が投げて、カモ達をこちらに誘導する。

 公園のカモは人慣れしているが、それでも野鳥なので、決まったセーフティーゾーンを越えて近づいてくることはない。一番寄って来て、岸から1.5mくらいの所。だが、それだけ近づいてくれれば、子供の手で投げた餌でもカモはもれなく拾ってくれる。

 カモを岸に寄せたら、私の役目は終わりだ。早くも手持ちの餌を投げきってしまった下の子に残りの餌を手渡し、子供達の隣にしゃがんでカモを眺めていた。

 やがて二羽いたカモのうちの一羽が、人間相手をするのに飽きたらしく、水面に浮いた水草の根で遊び始めた。猫がねこじゃらしにじゃれつく時のように、根っこの切れっぱしを仮想敵とみなしてつつき回している。するともう一羽は反対方向へとすいすい泳いで行ってしまった。

 よく、水辺の白鳥の姿は夕方だが、水面下では白鳥の足はジタバタと不恰好に水を掻いているという。だが、カルガモ達が水面をすいすい行く時の足の動きは優雅無駄がない。茶色と緑の入り雑じった泥水の中でも、カモの足のオレンジ色は鮮やかに映えている。

 子供達は橋を渡って池の向こう岸へ行き、別のカモのコンビに餌をやり始めた。私と夫は日陰に入り、また別の二羽を眺めた。なんと、二羽のうちの一羽がうたた寝をし始めた。私と夫の他にも人間いくらかいる、その前で、自らの羽の合間に嘴を突っ込んで、うつらうつらと目を閉じたり開いたりしている。警戒心がだいぶ薄れているようで、風に吹かれるままに岸辺に流されて来て縁に敷かれた石にぶつかりそうになったところで目を覚まし、いそいそと池の中央に戻っていく。だが、しばらくするとまたこちらに流れてくる。カモ達の、ここに来る人間達への信頼度半端ない

 あまり昼寝の邪魔になるのもなんなので、こちから遠慮して岸を離れた。池の中央にかかった橋を通ると、水面に亀がひょっこり顔を出していた。種類はわからないが、外来種ではなさそうだ。どう見ても、こっちを意識している。子供達を呼び寄せて、亀がいるよと教えてやると、子供達は亀に餌を投げた。すると亀はカモよりも機敏に餌を追いかけて食べた。だが、カモほど食欲が底なしではないらしく、いくつか食べただけでくるり身体の向きを変え、泥水の中へと姿を消した。

 対岸で、子供達がカモに餌を投げるのを見守る。子供達はやはり闇雲に餌を投げるばかりで、大人のようにテクニックを駆使してカモを手懐けることは出来ないようだ。それでも、力技で遠投した餌をカモに拾われて喜んでいる。

 二人の少し後ろに、三歳くらいくらいの男の子がとことことやって来た。手には餌の袋を持っている。だが、まだ小さいので餌を遠くに投げることができない。男の子は、うちの子供達が餌を投げているのを、恨めしそうにじっと見ているだけだ。そのまた背後に、父親心配そうな顔で着いている。うちの子供達が邪魔男の子がカモに餌をあげられないという構図になってしまっていた。なので、私は子供達に声をかけて、あっちのカモに餌をやりに行こうと促した。

 池の周囲でカモに餌をあげようとしている子供の多くは、五歳以下に見える。自分の足元も覚束無い幼児もいる。彼らはどうしたらカモの気を惹けるか考えて餌を投げるということが出来ないので、節分豆まきのように餌を投げまくった末にカモ達に完全無視を決め込まれる。ガッカリしている子もいれば、とりあえず好きに餌を投げただけで満足という様子の子もいる。

 うちの子供達がその年頃のころ、私は子供達にカモの餌やりはさせなかった。うっかり足を滑らせて池に落ちることを恐れてのことでもあり、こんな小さな子に失敗が運命付けられているような事をさせても可哀想なだけなのではないかと思った。それに、その当時は池の畔に集まる子供の多くが小学生で、幼児の方こそ場違いに見えた。

 だが今は、頭の重みでいつ前のめりに転がり落ちるかわからない幼児が、器用に池の縁の石の上に立ち、池の中を覗いているのだ。

 うちの上の子はもう五年生で、この歳までカモに餌をやって遊ぶことをしないで来たわけだが、もうじき自分から幼児に紛れてこんな風に遊びたいと言うような年頃ではなくなってしまうだろう。少々の危険覚悟で、もっと小さいうちから好きに遊ばせておけば良かったのではないかという後悔を感じないでもない。だが、一人で池を覗き込んでいる年端のいかない幼児が池に転がり落ちないで済んでいるのは、単に運がいいだけにも思える。

 餌を全部投げ終わると、子供達は手を繋いで、中央広場遊具で遊んで来ると駆けていった。私が子供達の手助けをする必要はもうない。遊具で遊んでいるのも幼児とその保護者ばかりで、小学校高学年の子供達はマイナーだ。十年前は逆に大きな子供達ばかりが、少数の幼児を蹴散らすような勢いで遊具に飛び付いていて、危なっかしくひやひやしたものだ。

 後で上の子に聞いたところ、遊具には小さい子が沢山いるから、小さい子に出会ったら危なくないように道や順番を譲ったとのことだった。

 子供達が遊具で遊んでいる間、私と夫は木陰のベンチに腰掛けて待っていた。

 蓮池のところでザリガニを捕っている親子連れがいた。事務所で売られている「ザリガニ釣りキット」ではなく虫捕り網を持っている。ザリガニは釣るより手掴みした方が早いのは確かだ。

 母親が威勢よく小学校低学年くらいの息子に怒鳴っている。ここぞという時に息子が網を持ってふらふらとどこかに行こうとしたからのようだ。母親は、ザリガニ捕りどころか公園遊びにも向かないようなくるぶし丈のスカンツの裾を片手で引き上げ、もう片方の手を蓮池に突っ込んでザリガニを捕ろうとしている。根っからお転婆ではなさそうだ。そんな妻の横に立つ夫は「男らしさ」とは縁の無さそうなおっとり系だ。私の観測範囲だと、自分の息子を「男の子でしょ!」と叱る人ほどお転婆そうではなく、配偶者大人しそうな優男であることが多い。

 振り返って広場の方を見ると、上から下までスポーティーな格好の母親と、やはり上から下までスポーティーな格好の小学校高学年か中学生くらいの娘がバドミントンに興じているのが見えた。楽しそうだ。子供が大きくなったら大きくなったなりの遊び方があるようだ。私の乏しい体力では、バドミントンは無理そうだが……。

2022-04-09

例のイラストの、照明の話

黒澤明は、羅生門撮影では、鏡を使った本来存在しない強烈な光を役者の顔に当て、緊張感を演出した。

用心棒では、望遠レンズ撮影のために、鬘から煙が出るほどの強いピン照明を当てた。

どですかでんでは、地面に落ちる影を黒スプレーで塗った。

夢では、川の中の水草を映すために、太陽光の反射を遮るシートを川全体に被せて撮影した。

これらは全て「リアルでは有り得ない光源・照明処理」の話である


ブコメは、あまりにも「ぼくのかんがえたさいきょうのしょうめいりろん」に溢れていて泣けてくる。

件のイラストについては、白すぎて変だと思うのはよくわかる。

しかし「逆光ながら、キーライトを落として額と鼻頬の立体感を浮かび上がらせる」という当たり前のテクニック自体否定するのは、あまりに愚かだ。

「作者が目的を持って」与えた光だからだ。

演出意図があるのだ。

「そんな光源は存在しない」という意味不明すぎるコメントには爆笑した。馬鹿か?

存在してるんだよ、作者がイラストに描いてるんだから


トリュフォー映画で、映画に愛をこめて アメリカの夜 という作品がある。

撮影現場舞台にした映画だ。

アメリカの夜とは昔の映画技法で、昼間の映像に青などのフィルターをかけ、夜のように見せるという「非常に不自然な」手法のことだ。

まり映画とは、撮影とは嘘の塊で、みんなそれをわかった上で愛しているよ」という粋なタイトルだ。

逆に、浅はかで無粋なことを言いたがる人種に限って、ろくに知識もないことへの皮肉でもある。

この映画では、「小型ライトが仕込まれ蝋燭」というアイテムが登場する。

蝋燭ときの光源では照明にならないので、無理やり電灯で顔を照らす」ための小道具だ。

素人が考える「自然な照明」がいかにアホらしい妄想か、よくわかるだろう。


上記のように、映画撮影ですら「不自然な」照明など当たり前なのだ

彼らは映画を見るたびにあり得ない光源に文句を言っているのだろうか。

(思いつきで知ったかぶりをしているだけだから、無論そんなことができる筈もないのだが)

クリエイティブに関わった経験のある人間なら、ああい馬鹿コメントはしないものだ。

批判するにしてもせいぜいが、「やりたい演出はわかるけど、下手だね」という観点からである

クリエイティブ経験がなくとも最低限の知識さえあれば、「クリエイティブとは不自然の塊であることな常識のはずだ。

まともな表現活動をした事がない人間脳内理論を有り難がる、それがはてなブックマークリテラシー

anond:20220408213910

2022-03-16

anond:20220316173313

何やら「テレビに毒されたやつ」というストーリーに仕立てようとしているようだが、こちらが言ってるのは「専門家の話を聞こうね」である

「すでに鯉のいる川に鯉を放流することが生態系に何の影響があろうか、というのは考える間もなくわかる」って発言が、天才的すぎて凄いな。

こちらを宗教的だとか言っているが、「元からコイがいたんだから適当コイを放流してもなんも問題ないやろ」という態度が科学的だとでも思っているのだろうか。

専門家が「捕食や水草や水質悪化等の具体的な懸念」を示した記事もあるのだが、天才からすれば考えるまでもない愚かな杞憂なんだろう。

しか現代は「同じ種類の生物」でも他地域のものを放流することでその地域固有の「遺伝子の攪乱」が起きることが当たり前に危惧されている時代なのだが、このあたりのことに疎そうなのは気になる。

世界侵略外来種ワースト100」に入り、日本ですらも自治体などで放流を制限しているコイを無思考に放流するのも、それを擁護するのもよくないという話は、果たして宗教的だろうか。

そもそも、「全然コントロールできてないんだからまず専門家を頼ろうね」って批判が入った話を、「コントロールできる範囲で人が自然に働きかけるのは当然のこと」とまとめてしまうのは、天才様と言えどあまりにも独特すぎる解釈ではなかろうか。

この人によると専門家テレビに毒された怖い怖い宗教家なんだろうか?

テレビって、本当恐ろしいんだな

anond:20220314194709

逆に、「日本在来種であることが確定している「ノゴイ」が、今や琵琶湖など限定的な数か所にしか生息できておらず、

コイ(マゴイ)は全国至る所に溢れ返っている時点で、その侵略性がいかに高く危険かがわかると思うんだが。

そういう部分は省くのね。

「昔からたか外来種じゃない」と言ってるけど、「国内外来種」という問題普通にある。

国内種であろうと他の生態系を脅かす生物」は危険視されて当然だとは思わないのだろうか。

あのバス比較しても、コイは異様に汚水に強い、低温に強い、寿命が長い、個体が大きい、交雑可能、卵を食べる、水草へも影響を与えるなど、侵略性が多岐にわたる生物だ。

中流域以上に放流するなら場合によっては問題があるが、馬瀬川下流域」(だから問題ない)というのも、暴論に近い。

捕食以外にも、水草や水質への影響も懸念されているのだが。

というか、生態系を壊す可能性がある行為を、素人専門家意見も聞かずにノスタルジーで行っても批判するなという理屈なのだろうか?

ちなみにコイ特定外来生物指定されていない理由は、どうせ金とか政治の話。

金持ち連中に愛好家も大勢いて、「日本原風景」だとか言い出す人が多く、「鯉のぼり」等のシンボルにもなっている。

(結局は鯉のぼり侵略生物ならではの「異様な生命力」の象徴しかないんだが)

また、特定外来生物指定されると個人での「飼育自体禁止」になる。

コイ指定されたら当然ニシキゴイ指定されるわけで、「そうなったら困るひと」が大勢いる。

多分将来も指定されることはない。

コイを放流する事」がなぜかいいことかのように扱われてるのも、やたらと擁護されるのも、それで得をする人がいるってことなんだろう。

2021-10-16

anond:20211016042623

窓際の光だけでは足りないことが多いし、天気や時間帯をみて置き場をこまめに変えるのも大変なので

おすすめ熱帯魚用の水草育成ライト毎日タイマー自動的にあてること

ガジュマルアデニウムもこれでグングン育ってる。

2021-07-12

ムクドリがいっぱい!

 最近農道のど真ん中のトンビポイント(なぜかよくトンビがトコトコ歩いているポイント)にトンビがいない。最近田んぼ周り、なんならスズメもいない。

 私の車が通ると、慌てて飛び立つのムクドリばかり。ムクドリがいっぱい。あっちもこっちもムクドリ。そして、最近めっきり見ないスズメシジュウカラ

 先日、ちょう久しぶりにオナガを見た。なぜか知らんけど、今、全国的オナガの生息域が山の方へ撤退していて、市街地にはオナガってあまりいないんだって。そう言われてみれば、私の子時代オナガ電線に停まってる姿は、日常風景だったなあ。ここいらでオナガを見ないのは、私の出身地とは違う県だからかなと思っていたけど違うみたいだ。

 6月末に麦刈りが終わってすぐ、田植えが行われた。この地方二毛作普通ないか、春の田んぼの空き日数がものっすごく短い。

 どちらかといえば河川の上流に近い地域(私の故郷に比べれば)なせいか、ここら辺は田植えの時期が遅い。元から遅いんだけど、温暖化や毎年9月頃の台風や水害対策もあるようで、田植え時期が年々遅くなってとうとう6月末にまで先延ばされるようになった。20年くらい前はGW前後だったと思ったけれども。

 そんな訳で、田植えの時期がズレたせいで、田んぼ周りの生き物のライフサイクルもだいぶ変わったんじゃないかなと思う。ヒバリ麦畑に巣を作るので、田植え時期のズレと共に麦刈り時期も遅れたことにより、昔よりもゆっくり繁殖できるのかなあ? 今年は五月半ばくらいまで、ヒバリがピヨピヨしていたはず。

 一方、田んぼに中々水が入らないせいで残念なことになっていそうなのはカエルツバメだ。タガメみたいな水生昆虫もかな。

 春、カエル冬眠から目覚める頃、田んぼにはまだ水がない。五月にカエルタマゴやお玉じゃくしは見られなくなった。

 GW前頃にツバメが渡ってくるが、田んぼに水がないと虫があまり捕れない。そのせいかツバメが多く飛来する時期も昔よりも遅くなってる感じがする。

 最近、すっかり梅雨なので、カエルツバメはめちゃめちゃ元気だ。しかし、ツバメが元の住み処に戻るまであと一ヶ月くらいしかない。ツバメライフサイクルを調べたことがないからわからないけど、確かオオヨシキリは春の繁殖期(3月7月くらい?)に時間の許す限り産卵と育児を繰り返す。ツバメもそうだとしたら、もしかすると1サイクルぶんくらい、繁殖回数が減っているかもしれない。もし巣が敵に襲われたりなどして雛が全滅した場合、巣を作り直しタマゴを産み直す暇がないのでは? 知らんけど。

 我が家にはツバメが巣を作ってくれないので残念。最近ツバメ、民家に巣を作っても壊されるだけだって学習していないか? それか、昼間の住宅街人間の気配がしないので、ここに巣を作っても天敵から守られることはないと思っていそう。うちだけじゃなく、軒下にツバメの巣があるお家が、近所には全然ない。

 そのかわり、幼稚園病院老人ホーム小学校の高い所の軒下にツバメが営巣しているのは見た。近所のスーパーには十年前はよくツバメが巣を作っていたけれど、店の人によって徹底的に壊されてしまうせいか、今ではすっかりツバメが寄り付かない。

 ゴーストタウンには住まない鳥といえば、スズメもそうなのだ人口スズメの数は比例する。私の住んでる地区空き家も多いし昼間誰もいない家が多い。見かけるスズメの数も年々減っている。人間の気配が少ないうえ、カラスハクビシンとヘビが多く住み着いているので、スズメが住むには向いていなさそう。

 数年前、大雨でうちの屋根にあったスズメの巣がベランダに落ちてきたことがあった。当時は私だけでなく、小さかった子供たちも家にいてにぎやかだったから、スズメ的にはうちの屋根の上は安らげる場所だったかもしれない。

 ところが、ハクビシンが近所に住み着いた。うちの屋根の上もハクビシン通り道になっていて、西の雨樋と東の雨樋の両方にハクビシン足跡がついてる。時々、ベランダハクビシンウンコが落ちている。

 ハクビシン通路に営巣は無理なのだろう。去年も今年も雨が降ってもスズメの巣は落ちて来ないし、あっちこっちムクドリだらけになった最近は、スズメの姿をあまり見かけなくなったし、ベランダの物干し竿にスズメウンコがついていることもなくなった。

 田植えが終わって数日しか経たないうちに、田んぼの水面がぶわーっと水草の芽みたいなものに覆われた。そしたら、沢山カモがきた。水深が浅いせいで、せっせとばた足に励んでいるお尻がよく見えて可愛い。けれども、親ガモが仔ガモの行列を連れているのは、いまだ見たことがない。

 毎年、田んぼに水が入るとアオサギが沢山飛来してくる。この地方あんまりシラサギは見かけないんだよなと思っていたが、この二、三年ばかりはけっこうシラサギも見かける。面白いもんで、アオサギシラサギって田んぼの同じ区画に一緒に居ることはあまり多くないようだ。農道を挟んであっちの田んぼにはアオサギ軍団、こっちの田んぼにはシラサギ軍団、と別れて固まりがち。

 今年はアオサギシラサギも飛来が遅いな、と思っていた先日、変わった鳥を見た。すごく脚が長くて、翼の前半分が白く後ろ半分が黒と、色がパッキリ別れているので、アオサギでもシラサギでもないと思う。ツル的な何か? でも、ここいら辺でそんなツルっぽいものを見るのは、初めてだと思う。

 ところで、今年は1羽もキジを見ていない。キジ! 居るんですよ。田舎とはいえそんなに大自然豊富な所じゃないのに。だけど、今年はまだ見ていない。

 以前、この町の中だけどもっと南の方に住んでいたとき、庭によくキジがくるお宅が当時の私の住み処のすぐそばにあった。そこんちの庭が私の家の窓からよく見えたので、キジがくると飛んでくまで眺めていたなあ。

 うちからキロ先に、かなりでかい河があり河原人間用にカスタマイズされていない部分にはかなりのワイルドネイチャーが広がっている。どのくらいワイルドかというと、数年前まではよく鹿や猪が出た。ここ数年はめっきり猪注意報が発令されないけど、たぶん朝っぱらから堤防付近人間がやたら走ったり自転車こいでたり犬の散歩しまくってるからじゃないかなあ?

 河原に行ったらハイタカが見れるかなあ。ハイタカ一度も見たことないから見てみたいよなぁ、と思うんだけど、河原に降りる階段の手前に大きな住宅街があって、そんな所を歩いていると知り合いに「あんた何してんのこんな所で!?」と言われまくりそうなので、近づけないでいる。

 河と鳥で思い出したけど、この町に移り住んでから一度もカワセミを見ていない。故郷にはカワセミがいて、大してきれいでもないむしろ汚いドブ川にかかる橋の欄干によく停まっていて、魚獲ってた。

2021-05-23

anond:20210523201607

知り合いにペットフロア熱帯魚関係担当してる店員がいるんだけど

水草育成用の特殊蛍光灯を一度に大量に買っていく人は怪しまれるらしい

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん