はてなキーワード: 架空とは
高度成長による人口の都市集中が続いていた、1972年にできた法律。大都市の周辺に、住宅地だけでなく官公庁・医療・教育・商業施設を含めた新都市を建設することを目的としている。
要するに、超大規模の都市計画をするうえでの根拠となる法律で、ニュータウンを作るときの法律である新住宅市街地開発法のグレードアップバージョンなのだが、残念なことにそこまで大規模な都市を作る需要が存在しなかったためか、この法律に基づいた新都市の開発は今のところ一件もない。
施行されて一度も効力を発揮していない法律というのもユニークだ。それと、アニメなんかに出てくる要塞都市を開発するときにも、こうした法整備がなされていたのかと想像するのも、架空地図を作る喜びに似て楽しい。
・入社1年目~4年目
⇒外回り営業 週に1回程度数字を上げておけば何も言われないので仕事は週1~2日
「こんなサボれるのは今だけだろうなー」と思っていたが今思えばこの当時が一番真面目に仕事をしていた
・入社5年目~10年目
⇒異動でデスクワークに これではサボれないなと思ったが仕事をしてみてあまりの仕事量の無さに愕然
朝8時からはじめて10時にはやるべき仕事が全て終わってしまうので、余った時間はネットで遊ぶ
「こんなに仕事しなくて済むのは今だけだろうなー」と思っていたがちゃんと会社で机に向かっているだけマシだった
・入社11年目~13年目
⇒関連会社へ出向 プロパー社員に適当に指示出して月に1回社長に状況を報告するだけ 管理職だけど特に管理するものはない
仕方ないので「取引先に訪問する」とか「親会社でのミーティングがある」とか架空の予定を入れて遊び歩く毎日
「次にまともな部署行ったら仕事出来ない体になってしまったな」と思っていたが社長の目がある分まだそれなりに仕事をしていた
⇒子会社へ出向 経営が傾きかけていた取引先を買収 建て直しのためという名目でまたしても出向
こちらは親会社からの出向組なのでどれだけ仕事サボってもプロパー社員は注意出来ないのをいいことに遊びまくる
https://note.com/komatsuna777/n/n1d69e89f8c59
こっから始まってちょっと言及したくなったことが出たけどその前に
https://tkrtht.hatenadiary.com/entry/2019/06/04/195908
このへんとかを合わせて読んでポルノとしてのR18BLと性的消費が主題でないBLは分けて考えた方がいいんじゃないかと思った話をします。
(不可分って言ったのに分けて考えるというのもなんか変な話なんですが)
そもそもBLになぜハマるかについては人それぞれ理由があるので全部ひとまとめにはできないわけですが、それでもやっぱり大まかな傾向っていうのはあります。
ありますが、その大まかな傾向も当然ながら一つにまとまるようなものではなくて何種類かに分かれるはずです。
そういう中でBL=ポルノとかBL=性的消費とか言い出すと、いや確かにそういう部分があることは否定しませんけどそれ言い出したら恋愛小説は全部性的消費かっつったらんなことねぇだルルォ?ってなるじゃないですか。
ポルノとしてのBLについての考察は個人的にはかなり当たってるところはあるんじゃないかとは思いますし、そのあたりを否定するつもりはないんですけど。(受けが女体化したりするのはまさにそういうとこだと思ってるしなんなら自分も受けに投影してポルノ的な消費の仕方をするBLもある)
普通に男女の恋愛ものとかも少女漫画もガンガン読むし、少年漫画とかで主人公×ヒロインを推しまくって恋愛フラグのないサブキャラをくっつけてキャッキャしたり主人公攻め、主人公受けの場合も主人公に明確な恋愛フラグが立ってないからこそ男とくっつける時もあるので「それだけじゃないよ!」っていうのは声を大にして言いたいわけです。
例えば自分はマジモンの「性癖」として悪堕ちモノとか洗脳モノとか催眠モノとか好きでして、リアルの世界でそういうことをされたいかと言えば絶対にノゥ!なんですけど、安全が保障された妄想の世界であれば征服される側になってみたいというM志向があって、かと言って自分自身の容姿やら何やらには割とコンプレックスがあって自分がそういう目にあってもまあ興奮するどころか萎えるので、美形同士のMC系コンテンツはガチでポルノ消費してます。(キモオタとかモブおじがかわいい子をあれこれしちゃうのは好みでない)
「犯される」ことがかなりウェイトが高いみたいで、レズものでもふたなりだったり触手とか使ってまあつまりインする類のものであればとてもにっこりして読めます。増田じゃないとこんなこと書けねぇわ。
じゃあBLは全部ポルノとして消費しているかと言えばそうでもなくて、そもそもR18じゃないBLとかも普通に読むし好きなCPでもそこまで積極的にエロ妄想しないCPとかもあるんですよね。
あとこれは本題とは無関係ですが「必ずしもポルノ消費するのが目的ではないけどポルノ消費もできるCP」についてはABの場合BAもCBもNGですがBC(恋愛感情はないけどいわゆる連鎖堕ち、快楽堕ち要員としての攻めのBと落とされるC)はアリです。ポルノ消費しない場合のBCはやっぱり無理です。おまけにポルノ消費を目的としていない部分の自分がたとえポルノ消費であろうとAとBの間に必ず愛情を求めてきます。(歪んだ愛情は可)
何かの参考になるかと思って書いたけど業が深いなこれ。
それで「じゃあポルノ消費を求めないBL」について何を求めているのかという話ですが、多分突き詰めると本当は愛や情ではあっても恋愛である必要はない、互いに求めあう心だとか、こころのふれあいって奴を求めているんだろうなあとは思っています。
それは別に恋愛でなくとも家族や親友といった間柄でももちろん表現できるものではあるんですが、そこでなぜ恋愛関係にもっていくのかについては自分の中の固定観念として「結婚とかは基本的に面倒臭いことだし誰かと一緒に生活するのって何かとしんどいけどそのしんどさを許容してでも一緒にいたいと思える相手は本当に想っている相手だ」みたいな感覚があるんですね。
それが必ずしも正しいものではないことも理解はしていますし、常に一緒にいることだけが愛ではありません。
ですが一つのモデルケースとしてとても分かりやすく、「いいことばっかりじゃないけどそれでも一緒にいたい相手と一緒にいることを選ぶ二人の話」はあれこれ考えずにするっと頭の中に入れられるので気楽に人と人との心の触れ合いを楽しみたい時は恋愛に行くのだろうなあと思います。
それ以外でも家族の絆とか友情とかももちろん好きですが、なんだかんだ恋愛ものってやっぱりコンテンツとして大きいしその分洗練されてて安定した品質を確保しやすいのはあるよなあと。
だから自分は別にBLに限らず男女でも百合でもなんでも自分の感覚に会えば見ます。その時に必要としているのはSEXではなくて心のふれあいなので。
そのような背景を前提に、二次創作で同性CPを妄想する時になぜそこをくっつけたのかという自分の思考の流れを追います。
まず最初に既存のコンテンツや公式CPではなくて二次創作による捏造CPを生み出す理由として、自分が考察厨で妄想癖があることが原因かと思います。
受け取ったコンテンツを消費する時に、そのまま受け取っておしまい、ではなくてなぜそうなったのかの裏を考えたり、間の空白をそれっぽい何かで埋める遊びが大好きなんですね。だから二次創作CPも無から有を生み出すのではなく作中の描写を元にそれを拡大解釈して捏造するのが好きです。これは好みの問題ですのでもちろんそれが正しいとか言うつもりはないです。二次創作なんて全部捏造。
この、考察厨亜種としてのBL好きの存在は実は結構いると思っています。特に二次創作をやってる人は考察勢と言うか、CPとして成立する根拠を持ち出す人が多く、顔カプと言われるような原作で接点のないキャラをくっつけるのを嫌う傾向にある人が多いと思うので。
そしてそれが男同士になる場合、一つは「恋愛が主題ではない作品の場合、主人公とヒロインのフラグが薄い、あるいは明確なヒロインが存在しない場合がある」ことにあります。
先程も言いましたが、自分は恋愛要素があるコンテンツは(複数ヒロインの際にどのヒロインを推すか問題を抱えることはあれど)ファイナルファンタジー(最終回発情期)やら連載途中で後付けでフラグが立ったりとか作品に入る順番を間違えた(うっかり終盤のネタバレを踏んでそこから入ったとか二次創作から入った場合)といった事故を除けばそもそも主人公×ヒロイン推しの人間です。FFシリーズ(PS以降)とかテイルズシリーズなんかは主人公の同性CPは考えたことないです。
ところがそういった関係性が明示されていない場合、「この作品好きだけど心のふれあい要素が少ないんだよなあ。あれ、そういえばこの主人公このキャラと仲がいいよなあ、ふむふむ…」といったあたりから始まって妄想が始まっていきます。
もう一つは「恋愛フラグが立っていないメインキャラ同士のCP」であるケースです。
この場合、性的思考は割と異性寄りなので男女で見ることの方が多いですが、最終的にときめいた関係性のキャラをCP視するので、メインキャラに男性が多い作品だったりすると軽率にBLに走ります。
また、主人公が無個性であり主人公と自信を同一視するようなタイプのゲームだと自分とキャラの恋愛は「そもそもこのキャラが自分を好きになるはずがない」と解釈違いを起こすので主人公とのCPは除外されます。
とは言えCPの女性側や受け側に自己投影をしていないとは思いません。(二次含めて創作する場合)登場人物全てある意味では自分のペルソナだと思っているので自己投影を全くしていないキャラなどいないという意味で。
ですが「そのCPが互いに心惹かれるに至った動機」だとか「相手のどういった部分を好きなのか」といったこころのふれあい部分に自分のパーソナリティなんぞが入ってきたら邪魔というか異物でしかないので、キャラに自分の一部を重ねることはあっても自分のパーソナリティを重ねることはないです。
そういう意味では攻め視点・モブおじ視点は自分のようなタイプの腐女子とは相容れないですね。(もちろんそれが悪いとは言ってません。分類が違うということです)
ところで書いていて思ったのですが、腐女子が受けに対しての「自己投影」を否定するのは、人によりけりですが「私は受けと自分のパーソナリティを同一視したりはしていない」の意味が強い思ってます。
単に共感するかどうかではなくてそれこそ自分自身が作中に入り込んだのかのような、それこそ同一視というやつになるんでしょうか。それはやってないよという意味だと思ってます。
昔からアイドルに対しての「ガチ恋勢」とかキモイってよく言われるじゃないですか。住む世界が違う相手に本気で恋い焦がれる、まではまだしも彼女かなにかのように振舞うとかキモイ、ってやつです。
それと似たような感じで、住む世界どころか実在しない相手に対して本気で恋い焦がれて彼女面するとかキモイ、妄想乙、って話だと思うんですね。
つまり「ヒロインに自己投影=ヒロインと自分のパーソナリティを同一視するような奴」は「架空のキャラに対して本気で恋愛感情を抱いており」「架空のキャラをまるで現実の人間であるかのように扱い、恋愛感情を抱くなんてキモイ」というという三段論法なんじゃないかと。
誤解されないように言っておきますが、私個人がガチ恋勢をキモイと言ってるのではないし、ヒロインとパーソナリティを同一視することが必ずしもキャラとの恋愛にイコールで繋がるわけでもないし、夢女子がガチ恋勢とイコールで繋がるわけでもないし、自己投影を理由に相手をバカにするような行為は本来許されてはいけないものです。
物語が誰の視点で語られるか、の問題ではないと思われます。受け視点のBL二次なんて腐るほどありますが、なら受け視点の物語であれば自己投影を疑われるかと言ったらそんなことないです。
なぜ架空のキャラに対して恋愛感情を抱くことをキモイと感じるのか、あるいはキモイと言われてバカにされるのかについての根源的な部分についえは残念ながらよく分からないのですが(現実と架空の世界を混同していると思われているのかな)、実際に夢女子に対して「キャラと恋愛する妄想とかキッモww」というたぐいの罵倒は見たことがありますし、自分にもバカにするとまでは言わずとも昔になんとなくガチ恋勢を下に見ていた時期はあったなあという黒歴史があるので。
で、二次で受けのキャラ崩壊が激しいと、もうそれこそポルノ目的で快楽に弱いえっちな子にされるのは逆にそういうものだと納得?できるのですが(キャラ崩壊そのものが嫌な人もいるが、それはそれとして理由が明確である)、明らかな性的消費というわけでもなさそうなのにこのキャラがこんなことやるかよみたいなことをしたりすると、キャラの性格を改変した理由に自分の中で何かしら説明をつけるために「この人は受けに自分のパーソナリティを反映させているのでは?」という仮定が出てくる、と。
更に他ジャンルの二次創作でもどんなキャラであろうとも常に受けの性格が一定のテンプレに押し込まれていて原型がなかったりすると倍率ドンですね。
そして原作と性格がかけ離れてしまった(と読者が感じた)キャラが優遇されていると、そのキャラが好きで優遇したと言うより改変後のキャラが好きで優遇されたと判断され、改変されたキャラは作者のパーソナリティ的な分身だと認識される、と。
当然ながらその仮定は仮定でしかないし(単純に二次作者の力量の問題であるパターン、実はむしろ原作に忠実であり読者の方がむしろ受けを美化しているパターン、性癖ではあるがパーソナリティを反映しているわけではないパターンなど色々あり)、仮に事実であったとしてもそれを理由に相手をバカにしたりするのは言語道断なのですが、思考の流れとしてはそう特別なものではない気がしています。
要は「飛影はそんなこと言わない」なんですよ。もはやそのキャラはそのキャラではなくニセモノとみられているのです。
壁になりたい、空気になりたい腐女子については単なる第三者というだけではなくて第三者かつ彼らを至近距離からのぞき見したい現れなのではないかと思っています。
というか物語を楽しむ視点の話ではなくて「そのCPの私生活やら何やらをあますところなく全部至近距離でじっくり拝見したい」んですよ。
だから「空気になって24時間推しCPに密着したい」になるんですね。空気視点で作品を楽しみたい、とはちょっと違う気がします。
お前らさ、ネットだけでわいわい騒ぐのは良いんだよ
黒川や憲法改正をその罵詈雑言のお囃子で止めたのも良いんだけどさ
関係ない種苗法をストップさせた上で二つも改正案通してるの本当になんなの?
この二つの方が明らかに種苗法なんかよりも大事だったんですけど?
お前らは魚かよ、ネットで目についたことばかり槍玉にあげて思考停止で批判して
それで一番大事なものを見失ってるんだからザマないって気付かないんか
ああ気づく頭もないもんな
現場でマスコミと協力して情報を得てその上で国会前や都内で毎日デモしてんだ
それをなんだお前、有名人の声でころっと騙されやがって
本当にがっかりするわ
頑張って声あげていきましょう!とか言うけど、スルー/ストップくらい見てから選べよ本当
あのな、もうお前らのせいで2失点してんの、分かる?
現場の人数だけじゃ多勢に無勢だからお前らに期待してたのに2失点だよ この重さが分かんねぇのか
ゴミスポーツの野球や欠陥スポーツのバスケットみたいに最後に得点多けりゃよしじゃないの
烏合の衆に成り果てつつあるネットの皆さんはかつて味方だと思いました
ですがここで「無能な味方では?」という懸念が出てきたわけですよ
だからお前らはそこら辺見定めてアベや大きな声の著名人に踊らされるバカにならないで下さい(といっても無理な人が多そうですけどね……はぁ)
頼むからネットだけじゃなくて一緒に国会議事堂前で声を張り上げてください
ネットなんて架空の気持ち悪い世界で声を上げるより数百倍マシです
自分で考える力もつきます コネもできるしいざとなったら突っ込むこともできる
頼むからもう少し私たち現場で抗議し反駁の急先鋒にいるいる人を自覚してください
そして私たち現場の後ろ盾になる様動いてください これ以上失望させないで下さい
それでは、弾くべき法案を全て弾いて一緒にアベにとどめを刺しましょう
長々と長文、失礼いたしました
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ーーー追記ーーー
タイトルは『現職の総理大臣だけど質問ある?』みたいな昔の2chとかにありがちなもので、
内容も国会では言えないことを答えるよ!的なことだったはず。
てっきり「本人だよー」みたいなロールプレイを続けるのかと思ったが、そこは理性が働いたようだ。
「……“本当の10話”? ちょっと何言ってるか分からねーな」
慌ててシューゴさんは取り繕って見せるが、とぼけているのは明白だった。
「“本当の10話”じゃなくて“幻の10話”です、シューゴさん」
「あっ……と、間違えた」
まともに取り繕える余裕がないほどの事柄、ということなのだろう。
内実を知らない新人たちも、その雰囲気から異様さを感じとった。
「あれリリースするのは、やめといた方がいいと思うけどな~」
「どうしてもって言うなら構わんが……」
「どうしても!……これでいいですか、シューゴさん」
「いや~そういうことじゃねーじゃん?」
「どういうことですか」
偏屈でもアニメを作るのだけはやめなかったシューゴさんが、今はそれを露骨に拒否しようとしている。
彼がそれだけ“幻の10話”を良く思っていない、ということだけは新人たちでも分かった。
「寝ているだけでは子供は育ちませんよ。三年寝太郎だって何もしていなかったわけじゃない」
「おいおい、寓話を論拠にするのはやめろって~」
グダグダな押し問答が繰り返され、場の空気は昼食と共に冷え切っていく。
会議は踊る、されど進まず。
「“幻の10話”とは何なのでしょうか……?」
「あ?……ああ、そっか、第3シーズンから入った奴もいるのか」
新人たちの狼狽ぶりを見て、シューゴさんたちは冷静さを取り戻した。
「ふむ、そうですね……この企画を進めるにしろ、まずは前提を共有してからにしましょう」
「オレは嫌だけどな」
「まあ、とにかく、資料をまとめてきますので、後日また会議ということで」
「そうだな、今あーだこーだ言うより、実際に見てもらったほうがいい」
こうして会議の初日は、昼食を不味くするという結果を残して終わった。
二次創作の妄想を公式のように語るなっていうのは分かるけど、特殊性癖云々は全く理解できん。
Twitterなんて、他を排斥するような内容以外なら自由に妄想垂れ流して好きに表現すれば良いし、それが嫌だと思う人はそこから離れていけば良いだけの場だろ。
増田は他人に自分の妄想を押しつけるなどと言いつつ、自分の”村”観という妄想を他人に押しつけている。
勝手に村というコミュニティのあるべき姿を決め、勝手にその枠組みに他人を包括し、勝手に村に入りたい人や離れていった人なんて架空の存在を想像して、それで勝手に苛立っているだけ。
村という集まりの存在を否定するわけではないけど、所詮ネットにふわっとできただけのコミュニティなんだから、考え方も距離感も倫理観も人それぞれで、なるようにしかならんよ。
表現者も現実の人間であるってことを受け入れてなくて架空のキャラクターやマスコットのように振る舞ってほしいってのはなかなかに無礼だし幼稚なエゴだ、と謗られる覚悟の上でその感情を肯定するのだったら、まあそういう人は仕方ないとは思うけど。
むしろそういう幻想を抱きがちな人の誤解を生まれる前に消し去る為に、表現者もどんどん忌憚なく政治的発言をすべき、とする方が健全ではない?
演技や創作の表現中ではないんだし、そことは分別をつけて、SNSにいるのは現実の人間の方なんだから。人間をフォローするってのはそういうことだし、そういうのを一切受け入れ難いのであれば表現者自身をフォローせずに公式アカウント等だけフォローすればいいだけのことだし。
まあ残念な気持ちになる事があるのは誰もが理解できる。でもそこは理性で乗り越えるべき部分なはずで、「良い悪いを論ずるべきでない」みたいに変にタブー視すること自体がおかしい。
まあ表現者が自発的に専門外のトピックを自粛するのならまだしも、他人が「やめてよ」と心の中で思うまではよくとも「やめてください」とは言っちゃダメなライン。それだけのこと。
個人名で発信している以上、他人はコンテンツである以前に人間なんだっていう当たり前のネットリテラシーを揺らがせてはいけない。
むしろ最近なんか会社名を背負ってるアカウントですら個人的な人間臭さをゴリゴリ押し出してくる世の中になってきてるし。
ある意味、みんなで「残念な人」になろう、怖くないよ、炎上なんぼのもんじゃい、死ななきゃかすり傷、的なノリさえ感じることがある。
正直なところそれが良いとか悪いとかは論ずるべきではないと思うが、少なくとも見ていて気分の良いものではないと思う。特に自分の好きなタレントや芸能人に関しては。でも何故それが不快なのか、と問われれば難しいが恐らく彼ら彼女らが架空のコンテンツでなく現実の人間であることを実感させられるからかもしれない。
どこか別の世界の、漫画のキャラクターのような存在のコンテンツとして消費していた彼らが、急に政治的な発言をすることにより、現実の存在と認識され急速に陳腐化した存在に思えてくる。冷や水を浴びせられたような不快感だ。マスコットが突然着ぐるみを脱いで、つまらない本物を見せつけられる。不快感の正体はそんなところにあるのではと思われる。
子供の頃からアニメや漫画、ドラマのキャラクターなど架空の人物を好きになることが多かった。生身の人間に恋をしたことはほとんどない。
(ドラマの登場人物に惚れて、それが高じて演じている俳優を好きになったことは何度もあるが)
自分としては、これは紛れもなく恋愛感情で、自分は片思いの経験が豊富な人間だと思っている。が、子供じみていると思われるのが怖くて、人には言えない。
フィクションの世界では、スポットが当たった人物の心情や言動は細かく描写されて、視聴者である自分もその人となりを知ることができる。そのうち、特定のキャラに夢中になる。
現実の自分はコミュ障で、人付き合いが苦手だ。友達もほとんどいない。人となりを知って夢中になるほどに他人と距離を縮めることができない。だからフィクションの世界にどっぷり浸かって、その中の人間関係を楽しんでいる。
架空の人物を好きになって一番虚しいのは、コンテンツの終了だ。
ストーリーが完結したら、もうその人には二度と会えない。想像力のある人はそこで二次創作を始めるのだろうが、私には想像力がない。
それでも、好きなキャラが出てくるシーンの続きを妄想したりする。その先はない。違う世界にいるその人との距離が縮まることはない。虚しい。
最近、妄想の中でストーリーに自分のアバターが出てくるようになってしまった。夢女子というやつか。だが、それでも私は満たされない。
新型コロナウイルスの影響によりあらゆる興行が中止となっている中、舞台業界に希望を与えるためのクラウドファンディングが5月1日より開始される。
■舞台専門プラットフォーム「シアターコンプレックス」プロジェクト
https://fanbeats.jp/collaboration/theater-complex
「舞台を救え」をキーワードに、舞台作品専門の映像配信プラットフォームを架空の劇場と位置づけ、リアルな劇場での上演ができない状況でも舞台を楽しめるものにすることが本プロジェクトの主軸らしい。
・公演のライブ配信
これらのコンテンツを通じてお客さんへの新たな楽しみの提供、制作側(出演者/クリエイター/スタッフなど)に対する新たな仕事の提供を目指すとのこと。
業界全体が落ち込んでる時にこうやって手を挙げプロジェクトを発足するのは立派だと思う。
立派だと思う反面、ただの新しい商売コンテンツじゃんとも思った。
というのも協賛企業に偏りがある。眺めてると2.5次元舞台の匂いがプンプンする。
舞台業界の希望というより2.5次元舞台業界の希望なんじゃない。
2.5次元舞台が嫌いなわけじゃないけど業界全体のことを考えるとなんかモヤモヤする。
そんなこともあって支援するならこっちかなと思ってる。
(ネルケのほうは多分放っておいてもSUCCESSする)
■新型コロナウイルス感染症被害対策:舞台芸術を未来に繋ぐ基金=Mirai Performing Arts Fund
https://motion-gallery.net/projects/butainomirai
名前が長い。
こっちは基金なので普通のクラウドファンディングとは違い集めた資金は寄付金になる模様。
受給側の申請要件は諸々あるようだが制作側へダイレクトに金が流れる仕組みっぽい。
今日から支援受付開始してるみたいだけど、HPの内容が把握しにくいから支援者向けと受給者向けにカテゴライズしてほしい。
詳細は出ていないが前者は支援に対するリターンがある。おそらく作品視聴権とかその辺り。
https://togetter.com/li/1496337
まるめて言うと、Aの親友BがダンナCと不倫し妊娠して、Aの兄Dが怒ってBとCを殺してしまったが、誰が一番悪いか?
(アンケート自体に言及するつもりはないので、興味のある方はリンク先を参照してほしい)
意見がバラバラで、コメントによればアンケート結果はDが一番悪いと考える人が一番多いらしいが、それでも殺人者が一番悪いと考えない人が一定数いる。
少なくともコメントは、圧倒的にD以外を選んでいる。
それだけアンケートとしては秀逸だし、性格診断としてよくできているのだと思う。
でも、ヒトゴロシだよ。
ダンナが不倫して子供を作ってしまったなんて、よくあることとは言わないが、あり得ることだと思う。
その度に人を殺すなんて、どう考えてもアカンやろう。
想像してほしい、目の前に血だらけになって転がっているふたりの人間がいることを。
ふたりの人間の人生が突然終わり、ひとりは殺人者として獄に繋がれ、その妹は殺人者の妹として生きることになる。
現実を目の前にすれば、いい悪いではなく、受け入れ難いことはほとんどの人が思うのではないか。
(変わらないという人もいるかもしれないが、僕はそうではないと思う)
想像力の欠如というのはたやすいが、そういうことでもないと思う。
でも、現実のことを前にしても、ディスプレイの向こうにいる人間を記号のように考えていないだろうか。
僕は記号の人間であっても、それが現実に目の前で起こったらどうなるか、想像力を働かせこと、訓練といっては大げさかもしれないが、そういう考え方が大事なのではないかと思う。
最後に、元にした性格診断アンケートは数あるもののひとつで、蛇足だし当然ながら、非難中傷するいわれも、そのつもりもないことを申し添えます。
ここで言う「釣り」は「嘘を付く」ということだ。
他人の感情を刺激するような嘘の情報を流し、それによって他人がどう反応するのかを楽しむ遊びのことだ。
縦読みを仕込んで嘘であることをあとで証明できるようにしてなければいけないと語る原理主義者もいるが、別にそんな所にまで拘る必要はない。
嘘か嘘でないかなんて誰にもわからない情報が飛び交うのが世の中であり、実際、人間の目ですら錯覚という形で嘘をついてくる。
自分に自分が嘘を疲れている世界を生きるには、目に見えること耳に聞こえたことがそのまま真実でないと疑う癖をつける必要がある。
私は数ヶ月に一度ほど、インターネットで積極的に嘘をつくようにしている。
自分でスレッドは立てず、ちょうどよいスレッドを見つけてその流れに沿った形で壮大なヤバイ奴を演じる。
ストーリーを全部足跡でやるとバレるから前もって設定はキッチリ固める。
これにだいたい1時間かかる。
その間にスレの潮目が変わってネタを投稿するのに相応しくない流れになってきたら、スマホやネカフェを利用して複数のIDを用意してそこから流れを作る。
どうせその後に投げ込むネタが上手く行けばそっちのIDがいくら変に目立とうがどうでもよくなる。
基本的には投稿用のIDとそれに茶々を入れるために流れを作るのとは別にIDが2つはほしいが、1つでもなんとかなる。
バレバレの嘘に見えても、案外1枚コラ画像があればそれだけで皆実在を信じたりする。
アクセス数が低いググっても出てこなそうなブログから学生証の写真を借りて、それをコピーして厚紙に貼る。
その上にネタを書き込んだ本人でを証明できるようなワードを書いた紙を載せた状態で写真を取る。
画質は低めにして取って、名前や数字や写真にはコピー前にすでにモザイクを入っているだろうが、出来た画像に対して改めて入れ直す。
それをアップロードするだけで、どこどこ大学の学生であることをバラした愚かなピエロが実在すると思い込む人間が出てくる。
あとはまあ、いい感じに。
しょっちゅうは出来ない。
正直、自分の目で見るとコレらの嘘は酷いできだ。
しかし、インターネット上の反応を見るとどうも本気にしているようにすら見える。
それが嘘なのか本当なのか、分からないのだ。
自分がついた嘘が嘘であることまでは分かっても、他人がその嘘をどの程度信じているかすら分からない。
じゃあ自分がこの嘘を聞いている側だったら嘘だと見抜けただろうか、そう考え出すと何もわからなくなる。
この何もわからなくなるという感覚によって、そもそもインターネットで嘘を嘘と見抜くことなど容易でもなければ、それをやろうと躍起になることすら正気でないことを思い出せる。
あらゆることが嘘である可能性と真実である可能性をまとっていて、適当に誰かが想像で語った冗談が嘘から出た真である可能性すらも秘めていること、それらを思い出せる。
「嘘の日」はネット、世の中、情報に対する身構えを振り返るのに最適だ。
皆も、年に一度でいいから嘘をつこう。
エイプリルフールは駄目だ。
あの日は嘘の面白さを競う日であって、嘘を見抜かれない努力をすることが最初から放棄されている。