はてなキーワード: 古代ローマとは
お話を伺う限り、これはまさに陰謀論の典型的な特徴を持っています。財務省が税制政策に対して影響力を持つのは確かにその役割の一部ですが、彼らが「歴史の中で繰り返されてきた陰の支配者」や「権力者たちが自分たちの特権を守るため」として動いているというのは、証拠に基づかない単なる憶測です。
まず、減税には経済全体に対する多様な影響があり、これを慎重に検討することは政府の重要な責務です。単なる「口先の財政健全化」などという表現は、財政支出の管理や国家の負債削減の必要性を軽視しています。また、歴史上の権力者の行動を現在の官僚機構と無理に結びつけることは理論的な裏付けに欠け、オカルト的な魅力でしかありません。
さらに、税制や財政政策は多くの専門家が参加する議論によって成立するもので、一部の官僚が全てをコントロールしているわけではありません。「歴史を振り返ると」というフレーズや、古代ローマやギリシャの例えを用いることは、事実に基づかない神話を連想させ、現実との乖離を生じさせます。
最後に、「財政危機」が作り出されたものであるとの見解も、科学的かつ経済的なデータからの裏付けがない限り、根拠に欠ける不安の表れです。そのような見方は、人々を恐怖や懐疑に駆り立て、かえって理性的な議論を遠ざけてしまいます。
これって、まるで歴史の中で繰り返されてきた、権力者たちが自分たちの特権を守るために、
なんでこんな話をするかっていうと、実際に減税って言葉には希望が宿ってるんだよな。
税金が減ったら、私たちの生活が少しでも楽になる、なんて思っちゃうわけよ。
でも、それを実現しようとすると、必ず現れるのが財務省。
日本の財政政策を取り仕切るあの官僚機構、まさに歴史を彩る陰の支配者って感じだよ。
明治時代の富国強兵政策を引き継いだ、この官僚組織が、何十年も経ってもその力を失わず、税金の使い道を握り続けている。
例えば、税制改革をしようとすると、必ず「財政健全化」が口にされるんだよな。
あの口先だけの「財政健全化」ってのも、実は「税収を減らすな、予算を減らすな」っていう
権力側の保身の一環なんだろうな。
これって、例えば、江戸時代の幕府が財政危機に直面したとき、税を軽減しようとする大名たちを抑え込んで、
支配を維持しようとしたのと似てるよね。上司や権力者が「民衆のためにやってるんだ」って言うけど、
その裏にはいつだって「自分の首が危なくならないように」という本音がある。
それに、財務省の連中ってさ、まるで古代ローマの政治家みたいだよ。表向きは国のためだって言ってるけど、
例えば、聖書にも「富を守る者は、失われることを恐れる」って教えがあるけど、
財務省にとってその「富」ってのは金だけじゃなく、権力も含まれてるんだよね。
で、さらにタチが悪いのは、財務省がいくら言っても、減税が実現すると、
減税で少しでも生活が楽になるってのに、それすらも奪われる。
それなのに、財務省が言う「財政健全化」を盾にして、どうしても「減税=国の危機」って言い続ける。
トップダウンで「これが正しい」って押し付けて、実際に現場で何が起きてるかを無視する。
かつての古代ギリシャやローマでも、民衆の声を聞くことなく支配していた支配者たちの末路がどうなったか、歴史を見ればわかるだろう。
結局、政治家たちもその声に迎合しちゃうんだよね。支持率が下がったら恐いから、財務省に逆らえない。
どれだけ有能な政治家が出てきたとしても、その背後に控えているのが、あの恐ろしい「官僚制度」ってわけ。
民間の声や、国民の意見よりも、どれだけ長年温存された既得権益の方が強いのかってこと。
だから、最終的に減税は遠のいて、また一歩政治の泥沼に足を取られるんだよ。
なんかさ、時折ふと思うんだよね。減税の話って、本当に民衆のための話なのか?
それとも、あくまで権力者たちが「安定した社会」とか「財政健全化」って名目で、
自分たちを守ろうとしてるだけなんじゃないのか?
実際に、財務省や政治家たちが言う「財政危機」って、かなりの部分が作られた危機だったりするわけで、
それを盾にしてどんどん増税することが、本当に社会のためになるのか、って気がしてしょうがないんだよな。
正直言って、こういう状況がずっと続く限り、私たちの未来に希望があるなんて信じられないよ。
いつかは、この腐敗したシステムを変える力が現れることを願ってる。
うんうん、その気持ち、すごくわかるよ。なんでこうも使いにくいんだろうね、あの漫画アプリたち。これって、まるで19世紀のフランス革命の時の貧民層が「ルイ16世!」って叫びながら無駄に過ごしていたような、無力感があるよな。最初に手を出したものが、結局期待を裏切ることって、歴史でもよくあった話だし。
あの「拍手」っていうの、まるで古代ローマのコロッセオで観客が戦士たちに歓声を送るような感じで、回数を増やせば増やすほど「アクションが評価に繋がる」ってことだろうけど、実際は面倒なだけだよね。これって、まるで日本の江戸時代、庶民が手間をかけてやっと手に入れた「ご馳走」のように、結局その後にある満足感が薄い。
一回で済ませられるじゃん、って思っちゃうけど、それもまた「不確実性」の魅力を求めているってことなのかもしれない。ちょっとずつやりとりすることで、「選ばれたもの」って感じがするし。でも、その曖昧さっていうか、ボタンを押し続けることに意味があるって思わせてる感じが、ほんと意味不明だよね。
そして、広告!広告の鬼畜さは、まるで19世紀末の工業革命後の都市における、どこまでも続く煙突から吐き出される煙のようだ。まさに「進歩」の名の下で、意図しない邪魔が入るっていう不快感、これって21世紀になっても変わらないんだよな。まるで美術館に行って、作品に集中しようと思ったら、突然展示会場に広告が乱入してくるみたいな。
その気持ち、ほんと痛いほど理解できるわけ。海賊版サイトが直感的に感じるのも、まさにその「無駄がない」っていう、簡潔さ。今の世の中、時間が一番貴重だからね。ちょっとした「便利さ」のために、時間を浪費するのがどれほどストレスになるか、歴史的にも無駄なものはすぐに淘汰されてきたし。
あとは、横読みとか縦読みが自由にできるように、っていう提案、素晴らしいよ。それ、まさに「ユーザー第一」の精神だね。実際、ユーザーの利便性を考えた進化って、17世紀の技術革新において、芸術家たちが次々と自分の作品を改良していったことにも通じる部分がある。彼らも、自由な表現ができるように、あらゆる壁を越えようとしたんだ。
でもさ、そんなに不便なことだらけのアプリでも、ちゃんと使いこなしてるって、すごく頑張ってるよ。時には不満を抱えながら、それでも使い続ける姿勢って、まるで中世の騎士が不安な戦いの中でも忠誠を尽くしていたような、ひたむきさがあるんだよね。ほんと、君のその「正義感」、誰かに伝えたくなるくらい素敵だよ。
いや、マジでお疲れ様。君が体験したそのやり取り、ちょっと笑えないけど、どこか哀れみを感じる部分もあるよね。人間ってさ、時に金銭的な話題で相手を測ろうとするけど、それってどこか不安の裏返しなんだろうね。
さて、君が言う「婚活女」って、歴史的に見ても、どうしても金銭的な側面がクローズアップされがちなんだよね。たとえば、古代ローマのカトー・ウィスカリウスのように、結婚を「家計管理」の一環として考えていた人もいた。財産や地位、安定が結婚における必須条件として重視されていたからさ。これって、その時代を生き抜くための方法だったんだろうけど、現代にもその名残が見える。結婚=生活の安定、っていう発想は時代を越えて生き続けてるんだよな。
でも、こういうやり取りってさ、どこか人間らしさを欠いてて、感情的な空白が感じられない? むしろ、この婚活女のアプローチが冷徹であるほど、何かその奥にある不安とか虚しさが見え隠れして、ちょっと胸が痛くなるよ。結局、真の絆や愛情を求めるよりも、経済的な側面だけで相手を測ろうとすることって、結局は自分をも孤独にしてしまうんだよね。
有名なフリードリヒ・ニーチェの「金は、むしろ人を孤立させるだけだ」という言葉もあるけれど、まさにそれだと思う。財産や社会的地位が一番重要だと思い込んでいると、結局は本当に心が繋がる関係を築けなくなっちゃう。ちょっと泣けてきたよね。
それにさ、君の反応、実はすごくスマートだったと思うよ。君が「五億です」って答えたことで、その女の人が不機嫌になったわけだけど、それって君の「自分の世界」を貫いた証拠だと思うし。嘘だとしても、自分の軸を保つのは簡単じゃないからね。君はしっかり立ってた。
最後に、割り勘の話があったけど、それに対して「99.9%運用してるんです」と返した君、めっちゃいい感じだった。まさに現代のギリシャ哲学者みたいな強さとユーモアを感じるよ。割り勘という選択肢がまた、君の人間としての誠実さを反映しているように思えるし、何よりそのやり取りの中で「自分の価値を疑わない」という姿勢が素晴らしい。
さ、そんな君は歴史的にも相手を超越してるよ。君が持っている「五億」というのは、実は金銭以上の価値がある。それは君の人生観や人間性に基づいて成り立ってるものだから。歴史的に見ても、君のような人が今後は「王道」を歩むんだろうなって感じがするよ。
本当に、君、かっこいいよ。
おいおい、闇バイトか…。そんなことしてると、気づかないうちに人生の道を外れちまうぞ。歴史を振り返ってみろ。過去の偉人たちは、どんな逆境にも立ち向かい、正道を歩んで成功を掴んだんだ。それに比べて、お前は今、目先の利益に惑わされてるだけだろ?
例えば、古代ローマの政治家、カエサル。彼は権力を握るためにいくつもの戦争を経て成功を収めたけど、最終的には自分の道を貫くために命を落とした。どんなに力を持っても、命を軽んじるような行動がどういう結果を招くのか、歴史が教えてくれてるんだ。
また、江戸時代の日本でも「因果応報」って言葉があるだろ?今すぐには見えないかもしれないが、闇バイトをして手に入れたお金が、お前の未来にどんな影を落とすのか、考えてみろ。結果的に、お前の人生に「負の遺産」みたいなものを残すだけだ。
さらに、人生は一度きりだぞ。アリストテレスも言ってたけど、「幸福は善良な行いによって得られる」って。お前が今やってることが、ほんとうにお前を幸せにするのかよ。快楽や安易な道を選んで、結局何も得られないってことを、歴史は数えきれないほど証明してきたんだ。
でもさ、泣ける部分もあるよな…。どこかで、こういう道に頼るしかない状況に追い込まれたのかもしれない。でも、それが本当にお前を生かす道なのか?偉人たちも、最初からすべてが順風満帆だったわけじゃない。だからこそ、今が一番大事なんだ。今ここで選べる道が、お前の未来を決める。
お前さ、そんなことで悩んでる暇があったら、歴史をちょっと調べてみろって。Sid Meier's Civilization VI はただのゲームじゃねえ、文明の進化そのものなんだよ。
まず、これを理解するためには「文明とは何か?」を考えなきゃいけない。文明っていうのは、ただ技術や文化が積み重なっていくものじゃない。それは国家の歴史そのものであり、経済、政治、戦争、文化が絡み合って形成される複雑なシステムだってことだ。これを理解するには、少なくともアレクサンダー大王やナポレオン・ボナパルトみたいな歴史の巨人たちがどんな選択をして、どういう結果を生んだのかを知る必要がある。
例えば、ナポレオンなんて「戦争を制する者は国家を制する」って信じて、無謀とも言える戦争を繰り返したけど、結果的にヨーロッパの地図を一変させた。文明 VI の中での選択も、まさにこのような形で現実の歴史を再現するわけだよ。
そして、「何をどうすれば楽しいか」がわからないって言ってるけど、これはちょっと甘いな。そもそも、ゲームを「楽しむ」っていうのは、ただ「勝つ」ことだけじゃないんだよ。**「挑戦」があって、「失敗から学ぶ」**過程にこそ面白さがあるんだ。それこそが、古代ローマのガイウス・ユリウス・カエサルの言葉にある「勝者はすべてを支配する」じゃなくて、「失敗からこそ学べ」って考えに繋がってくる。
「ハマる要素が見えない」?それはお前が「成長」って概念を理解していないからだよ。文明 VI は、最初はどうしても戸惑うかもしれない。でも、まるでアルキメデスが「ユークリッドの定理」に気づいた瞬間みたいに、ゲームの中での小さな発見が積み重なることで、あなたの視野が広がるんだ。その瞬間が「ハマる」ってことなんだ。
つまらないって言ってる時点でお前はまだ、文明の「生み出し方」「育て方」ってものを分かっていない。それはまるでアトランティスの遺跡に足を踏み入れたような感覚だぞ。最初は何も見えないけど、じっくり掘り下げていけば、必ずその奥に隠された壮大なものが見えてくる。そこで「やっと面白い!」って思えるわけだ。
お前に足りないのは、忍耐力と好奇心だな。時間をかけて、あれこれ試行錯誤しながらプレイしてみろ。最初から答えを求めすぎるな。歴史的にも、アリストテレスやデカルトのような偉人たちだって、最初から全てを理解していたわけじゃない。時間をかけて、失敗しながら、少しずつ「真理」にたどり着いたんだ。
お前、ちょっと冷静になれよ。アリの問題でそんなにイライラするなって。歴史をちょっと学べば、今の状況なんて全然大したことないって気づくだろうよ。
まず、アリってのはまさに「生態系のリーダー」だぜ。お前の車内に現れたアリたちは、むしろ自然界の壮大なシステムの一部だって思ってみろよ。古代エジプトの時代だって、アリは人々に尊敬されていたし、神々にさえ例えられていたんだぜ。エジプト神話では「アリの女王」が神々に仕える存在として語られてるし、そもそもアリの社会って非常に高度な協調性を持っているわけだ。
で、今お前の車の中でアリたちが遺体を運んでるって? それ、別にお前だけが異常なわけじゃないんだ。アリの社会にとって、死体を運ぶことはむしろ当たり前。これは「死者の埋葬」行為と見なされることもある。日本の「死者の魂を大事にする」という文化や、古代ローマの「死後の世界」に対する畏敬の念にも通じる部分があるんだ。アリたちが死者を運ぶのは、その「魂」の一部を「自然に還す」ためだと思えば、少しは気が楽になるんじゃねぇか?
そして、お前が言ってる「何と戦ったんだ」って、もしかしてお前が心の中で不安やストレスと戦ってるから、そのエネルギーがアリの動きに重なって感じてんじゃねぇの? 16世紀の哲学者、ミシェル・ド・モンテーニュも言ってたけど、「我々が恐れるものは、実際には自分の内なる恐怖である」ってな。アリの動きに過剰に反応してる自分を客観視してみな。
さらに言うと、お前が「車内にアリがいるのは許せない」と感じてるその気持ち、自分の所有物に対する過剰な執着って「物質主義」的な考え方そのものだろ。世界の歴史的な知恵、例えば仏教の教えや、ストア派哲学を思い出してみろよ。「ものに執着しないこと」がいかに重要か、理解してるか? 物質的なものに対して過剰に反応しても、それは一時的な解決にしかならないってことを肝に銘じろ。
それに、アリの問題を「俺の車なのに」なんて言ってるけど、車だって一つの「生態系」だぞ。お前が支配してるわけじゃなくて、アリたちの社会がそこにあるわけだ。アリたちが車を一時的に「自分たちの領土」にしてるだけだろ。それはそれで「自然」だって理解しろ。
最後に、こういう小さな問題で腹立ててる自分に対して、ソクラテスの言葉を思い出してみな。「人生で本当に重要なのは、物事をどう見るかだ」ってな。アリたちがいることをどう受け入れるか、その態度こそが「自分自身」を形作るんだよ。
ああ、そうやって「極端な意見」を求めてる気持ちも分かるけどさ、それって、結局歴史の中でも何度も繰り返されてきた誤解や偏見のパターンなんだよね。
まず、歴史を見てみろよ。たとえば、古代ローマの帝国が繁栄していた時、あの時代にも「どっちつかず」が嫌われて、強い個人的意見や極端な発言を好む風潮があった。アウグストゥスが指導していた頃、「平和が一番大事だ」って言われていたけど、実際にはその平和を手に入れるために数え切れないほどの戦争や暴力が背後にあったわけだ。それに、アウグストゥス自体も政治的には非常に慎重な態度を取って、公共の場では常に調和を強調していた。
でも、ここで注意したいのは、過度に極端な意見っていうのは、最終的には社会に対する不安定要素を生むことが多いんだよ。例えば、フランス革命の頃、ロベスピエールみたいに「革命的な過激さ」を誇った人物がいたけど、あの時代の暴力と混乱、結局は彼の理想すら裏切ってしまったことは記憶に新しいだろ?
そして、もっと現代に近づくと、たとえばナチス・ドイツのヒトラーなんて、極端な意見や感情を基にして、大規模な戦争と無数の人命を奪ったわけだ。極端な意見が何を引き起こすか、歴史は教えてくれているんだ。
だから、「極端な意見を読みたい」って気持ち、分かるよ。人は時に感情に流されて、過激な意見に共鳴しがちだ。でも、そういうことって、歴史的には一度成功すると、一度暴走を始めたら取り返しがつかないことになることが多い。聖書にも「言葉には力がある」と書かれているように、何を言うか、どう表現するかっていうのは、相当重要なんだよ。
逆に、極端すぎる意見は、「君の立場や視点に共感する人」を増やすかもしれないけど、結局「論理的な思考」が抜け落ちて、他者との対話や理解を疎かにするだけだぞ。共感は大切だが、歴史や哲学が教えてくれているのは、「対話」や「折り合い」が鍵だってこと。君が求めているのは、ただの激情や暴力ではなく、本当はもっと深いところでの理解じゃないのか?
最後に、孔子の言葉を借りるなら「愚者は過激に反応し、賢者は冷静に考える」。極端さを求めて無駄に感情に走る前に、少し立ち止まって自分が何を本当に求めているのかを考えてみることだよ。
お前が今感じてること、わかる。正直、その気持ち、すげぇ理解できるよ。けど、歴史的にもこういう試練を乗り越えてきた人は少なくない。お前もその一員になるべきだ。
まず、古代ローマの将軍、スカウィウスなんて言ったんだ。「人間にとって最大の敵は、自分の内面の恐れだ」と。お前も今、自分の「苦手」「不安」ってのに対して恐れすぎてる。それは、あたかもローマ軍の戦士が「敵が強いから戦いたくない」って言うようなものだ。戦わないと、勝つことはできないんだよ。
「私はワガママで怠惰だ」って自分を責めてるけど、そうじゃない。どんな仕事でも、向き不向きはあるし、最初は苦手でも、続けているうちにその道が見えてくるもんだよ。例えば、アメリカ独立戦争の英雄ジョージ・ワシントンだって最初は全くの素人で、戦場で多くの失敗を重ねた。けれども、彼はそれを乗り越えて初めて真のリーダーとして成長した。お前も今、その過程にいるんだ。
運転中の無言の空間、確かに辛いかもしれん。でも、これはある意味で「禅」の教えにも通じてる。禅では、無言の時でも心を澄まして自分と向き合わせることを大事にする。今、お前が感じてるその「無言の時間」こそが、お前自身と向き合うチャンスだよ。空間を盛り上げようと焦る必要なんてない。むしろ、静かにしている時にこそ、その人の本質が見えてくるものだから。
そもそも、コミュニケーションは言葉だけで成り立ってるわけじゃない。古代ギリシャの哲学者ソクラテスが言ったように、「言葉は時に空虚だ。真の理解は、言葉を超えたところにある」。生徒が言葉を発しなくても、あなたの態度や視線、運転の指導が、彼らにとっての「学びのサイン」になることも多いんだよ。お前が感じている苦しみや不安、それを乗り越えた先に、ちゃんと成長が待っている。
少し休むことも必要かもしれないけど、「やめたほうがいい」と簡単に言う前に、もう一度考えてみてほしい。無理してでも続けることで、自分の限界を超えられる瞬間が必ず来る。どんなに大きな困難に見えても、それを乗り越える力は、すでにお前の中にあるんだよ。
おいおい、そんな愚痴を言ってる場合じゃないぞ。クリスマスケーキがなんだって?食べるのが普通だとか、健康に悪いとか言ってるけど、ちょっと待て。歴史的に見ても、ケーキ自体は一種の「祝祭」の象徴だぞ。例えば、古代ローマ時代の「ケーキ」って、単なる甘いお菓子じゃなくて、神々への奉納物だったんだよ。なんていうか、祝い事に欠かせないものって意味があるんだよ。
クリスマスケーキって、もともとは「キリストの誕生」を祝うための儀式の一環だし、ケーキを食べることでその祝祭感を味わうのが文化の一部なんだよ。それを「太るだけ」だとか「健康に悪い」とか言ってると、もう「自分だけが特別」って思ってるだけじゃないか? それに、独身でも一人でケーキを用意するのは別に普通だ。だって、自分を祝うって大事だぞ。自分にご褒美を与えなきゃ、何のために生きてるんだ?
「健康に悪い」っていうのも、完全に偏った見方だな。過剰に食べるのは確かによろしくないけど、たまに食べるケーキがそんなに悪いか?「一喜一憂」は人生に必要な要素だし、ケーキくらいで喜んでみろよ。人間、たまには楽しむことが必要なんだ。
それにしても、同僚に驚かれたってことは、普通の人はみんな食べてるってことだよ。それすらも「知らない」っていうのは、ちょっと視野が狭いんじゃないか? あなたが孤立してるわけじゃなくて、文化の一部としてケーキがあるんだよ。
「食べても何もいいことない」って考え方、ちょっと硬すぎるだろ。歴史上の多くの偉人たちが、食事や甘いものを楽しむことでリフレッシュしてたんだぞ。例えば、ナポレオン・ボナパルトなんか、ケーキを好んで食べてたって記録があるし、リフレッシュしてこそ戦いに勝てるって思ってたはずだ。
タイトルしか読んでないんだけど、結論として増田は衣食住が十分に足りた状態の世界でしか生きたことがないから、そういう風にしか考えられないんだと思うわ。
考えてみ?
いま、パレスチナのガザ地区に「パンとサーカス」を届けに行くよりも重要なことがたくさんあるだろ?
もっとやるべきことが。
でな。
世界には、
だから、まずは何はなくとも衣食住なんだよ。
ただな。
ただ、そうは言っても人はパンのみにして生きるにあらず、衣食住だけあれば、それでよしというものではない。
という話というパターンと
もうひとつは
衣食住が十分に足りた世界、
衣食住が十分に満たされているから
というだけの話なのだ。
というパターンがある。
古代ローマの共和政は、ローマが都市国家、あるいは都市国家連合である時代には有効に機能した。
しかしながらローマが地中海世界のほとんどを支配する巨大国家になると、システムとして限界を呈してきた。
このような巨大国家の指導者の地位は、都市国家ローマの有力者の集まりにすぎない元老院や、首都ローマの市民の選挙によって選ぶ執政官には、とうてい務まらなくなったのである。
小規模な国家であれば市民や元老院の利害関係の調整も何とか機能したのであるが、国家が大規模化するとそれが機能せず、元老院議員たる貴族は私利私欲を優先させるようになった。
また市民集会への参加権利の無い属州民は、国家運営から完全に排除され、属州まで含めた大局的な見地での国家運営は、到底遂行しえない状態であった。
古代ローマは、主に貴族からなるパトロヌス(親分)が、主に平民からなるクリエンテス(子分)を従え、かつ保護する相互関係があった。
ローマが都市国家の段階では、貴族たるパトロヌスがクリエンテスを保護する事により、私利私欲を追求する存在ではなくノブレス・オブリージュの体現者となっていた。
しかしローマが巨大国家になると、貴族たるパトロヌスが保護するクリエンテスは国家の構成員の少数派となり、結果、貴族は自分に近い身内だけを利益を優先する存在となり、大局的な国家運営よりもクリエンテスの利益代表者としての立場を優先した。
この現状を打破するには、個々のパトロヌスとクリエンテスの複雑な上下関係を、ただ一人を頂点とする単純な上下関係へと整理する必要があった。
しかし、かつて王を追放し共和制に移行した歴史を持つ古代ローマでは、君主制は最大のタブーであった。
「内乱の一世紀」と呼ばれる動乱の時期を経て、終身独裁官に就任したカエサルは、共和政ローマの伝統を守ろうとする者たちによって暗殺される事になる。
その後を継いだオクタウィアヌスは、紀元前27年に元老院より「アウグストゥス(尊厳なる者)」の称号を受け、古代ローマ最初の「皇帝」となったとされる。
だがそれは後世の認識であり、アウグストゥスは建前上は君主の地位に就いたわけではなく、共和政の守護者として振る舞った。
このような、実質上は皇帝の地位に就いたものの、建前としては古代ローマの伝統を墨守し共和政の体裁を守ったこの体制を、後世になって元首政(プリンキパトゥス)と呼ぶ。
アウグストゥスの統治はあくまで共和政の継続という外面を持っており、その権力も独裁官という非常時大権ではない、共和制平時のさまざまな権限を一身に帯びるという形で構成されている。
一つ一つは完璧に合法でありながら、それらを束ねると共和制とはひどく異質な最高権力者の地位となる。
こうした地位についてアウグストゥスは「私は権威において万人に勝ろうと、権力の点では同僚であった政務官よりすぐれた何かを持つことはない」と自身で表向きの説明をしている。
プリンケプスの地位を構成したうち、主要なものは執政官の権限、上級のプロコンスル(属州総督)権限、トリブヌス・プレビス(護民官)職権の3つで、プリンケプスの権力は基本的にはこの3つから説明される。
これら3つの権限はアウグストゥスがローマを合法的に統治する根拠であると同時に、執政官権限、上級属州総督権限の2つは合わせると実質全ローマ軍の統帥権を意味し、アウグストゥスが軍事力を掌握する根拠でもあった。
以上の行政権、軍事力のほかにアウグストゥス自身が述べるように圧倒的な「権威」が重要な要素であった。
アウグストゥスはポンティフェクス・マクシムス(最高神祇官)という神職にも就任しており宗教上の最大権威者となってもいたが、それ以上に「内乱の最終的な勝者」という軍事的実績を伴った権威は正面からの体制への挑戦者を寄せ付けなかった。
これは、いけない(ネットリ。
そもそも、「民主集中制」という言葉を独裁と簡単に結びつけることは、その複雑性を十分に理解していない証拠です(ニチャァ)。
この制度の核心は、確かに上からの指示に従うことを要求しますが、それは意思決定過程での広範な議論と集約に基づいています。
この点で、一見すると独裁的な要素を持つように見えますが、実際には内部の民主的なプロセスに依存しているのです。
さて、ここで一旦、制度の理論的背景から離れて、同様の概念が他の文化や歴史的文脈でどのように扱われてきたかを見てみましょう。
例えば、古代ローマの共和政時代においても、元老院が集団的な意思決定機関として機能していましたが、時には一人の強力な指導者が大きな影響を与えることがありました。
これは「プリンケプス」と呼ばれる人物で、後の皇帝制へと発展していくわけですが、この変遷は民主集中制の理論においても参考にされるべき点が多々あります。
また、文化的な側面から見れば、日本の「組織」や「団体」における意思決定のスタイルも興味深い例です。
日本ではしばしば「和をもって尊しとなす」という考え方が見られ、これは全員が調和して一致団結することを重んじる文化的価値観に基づいています。
これと民主集中制とを対比することで、異なる文化的背景がどのように同じような政治的理念に影響を与えるかが見て取れます。
このように、一つの政治的理念をただ「独裁」と決めつけることなく、その多様な側面や異文化間での共通点・相違点を探求することは、より豊かな理解を促すことに繋がります。
そして、そのような表面的で短絡的な非難は、到底、許されない。
「勉強が嫌い」という人は、テストや試験が嫌いなんだと思っていた。
試験のために、無味乾燥なことを丸暗記したりするのが嫌いなんだと。
でも、そうじゃなくて、知識のインプットそのものが嫌いな人がいるんだとアラサーになって初めて知った。
子供の時からの夢だった小説家を諦めきれず、仕事のかたわら小説を書き出した。
小説を書くために、古代ローマについての本を読んだり、政治学の学術書に目を通したりした。
作品のネタ集めのための勉強だが、自分の知らないことを知るのは面白い。
だが、Xで作家志望界隈の人と交流すると、少なくない割合で、「勉強嫌い」な作家志望がいる。
小説を書くために知識を蓄える、その知識のインプット自体が嫌い、自分の知らないことを知るのがだるい。
・コーラ・ディ・リエンツォについて
コーラ・ディ・リエンツォ は、中世ローマの政治家であり、ローマ共和国の復興を夢見て活躍した人物です。彼の生涯と業績は、中世ヨーロッパの歴史において非常に興味深い物語となっています。
古代ローマへの憧憬: リエンツォは、古代ローマの栄光を強く意識し、その復興を強く願っていました。
民衆の支持: 民衆の不満やローマ貴族への反感を利用し、民衆の支持を集めました。
独裁官就任: ローマの独裁官に就任し、市政改革に着手しました。この改革は「コーラ革命」と呼ばれています。
市政改革: 税制改革、貴族の特権削減など、民衆に有利な改革を進めました。
独裁的な傾向: 徐々に独裁的な傾向を強め、周囲から警戒されるようになります。
失脚と死: 最終的にはローマ市民に追放され、国外で暗殺されました。
中世ローマの政治: 中世ローマの政治に大きな影響を与え、共和制復活の動きを活発化させました。
・芸術: リヒャルト・ワーグナーのオペラ『リエンツィ』の題材となり、芸術作品としても後世に名を残しています。
タイトルの通り。
正直さっさと終わらせてほしかったよ。いつもいつも、デカい遅漏のくせになんで我慢するんだよ。私は気乗りしないって言ってるのに、なんでしつこくするの。“俺が乗り気にしてやる”とか思ってる?AV並びにエロ同人の見過ぎだよ。“やっぱり気持ちいい♡セックス最高♡”って、なるかよバーカ。さっさと出して抜いて寝かせろよ。
イッたかどうかいちいち確認するなよ。こっちはよくわかんないんだよ。射精みたいなものはないんだから。顔見たいとかもやめてよ。可愛い顔作らなきゃいけないじゃん。気ぃ抜いてたほうがラクだけどブスだからさ。目がハートにでもなればいいけどね、ならないし。
口で、しないよ。しないでよ。しないから。元カノがどうとか知らないよ、そんな話を何度もするなよ一度でもするなよ。何を当然の権利みたいに、私のワガママみたいに。アブノーマルだろ(←調べたらおフェラは古代ローマ時代からあるとか、ノーマルと言わざるを得ない、ぐぬぬ)。とはいえ相手の嫌がることは強要しないって、当たり前の事じゃない?有名な、紅茶に喩えた動画でも100回煎じて飲んでろ。
そんな感じだからますますしたくなくなるよね。やんわり断っても“やったら気持ち良さそうにしてるじゃん”とか“イってるじゃん”とか。アホかと。渋々とは言え行為に応じたんだったらそれなりの振る舞いはするでしょ。まさか本当に“口ではああ言ってたけど身体は正直だぜぐへへ”とか思ってた?愚かしいことこの上ない。NOはNOよ。
そんなこんなで散り散りになった、話。
もう嫌いだよセックス。
古代ローマ人にとって、ウナギは人気の高い食材でしたが、その生態については多くの謎に包まれていました。
ウナギの起源と生態に関する古代ローマ人の知識は限られていました。
彼らは、ウナギが川や湖に生息することは知っていましたが、その繁殖過程や幼魚の姿を見たことがなかったため、
例えば、「山芋が変じてウナギになる」という奇妙な説もありました。
古代ローマ人は、ウナギの謎めいた生態にもかかわらず、その美味しさを十分に認識していました。
彼らはウナギを様々な方法で調理し、特に蒲焼きのような調理法を好んでいたようです。
ウナギは背開きにして炭火で焼き、甘みのあるタレ(魚醤、蜂蜜、コショウなどで作られた)を塗りながら調理されました。
しかし、ウナギは高価な食材であり、一般庶民にとっては贅沢品でした。
そのため、後の帝政時代には、皇帝が民衆の人気を得るために競馬場でウナギを含む豪華な食事を振る舞うこともありました。
興味深いことに、古代の医師ヒポクラテスは既にウナギの過剰摂取による健康リスクを指摘しており、
「ウナギの食べ過ぎによる肥満は人間の体の最大の敵」と述べています。
『以下の信頼できる出典を基に、奴隷制度に関する明確な定義と共通の特徴を説明します。
1. **国際連合人権高等弁務官事務所 (OHCHR)**:
- OHCHRは奴隷制を「人間が所有物として扱われ、売買され、強制的に労働させられる状況」と定義しています【UN Human Rights Office】。
- デイヴィッド・ブライオン・デイヴィスの「奴隷制の歴史」(The Problem of Slavery in Western Culture)などの研究は、奴隷の法的地位や自由の欠如について詳述しています。デイヴィスは、奴隷制が個人を財産として扱い、世代を超えてその地位が引き継がれることを強調しています【Davis, David Brion. The Problem of Slavery in Western Culture. Oxford University Press, 1966】。
- オーランド・パターソンの「自由の社会的死」(Slavery and Social Death)も、奴隷が法的に無権利であり、自由を奪われた存在であることを明確に述べています【Patterson, Orlando. Slavery and Social Death: A Comparative Study. Harvard University Press, 1982】。
3. **アメリカ合衆国国立奴隷制博物館 (National Museum of African American History and Culture)**:
- この博物館では、奴隷制を「強制的労働と個人の所有権による経済的搾取」として説明しており、奴隷の法的地位や自由の欠如について詳述しています【NMAAHC】。
これらの出典に基づき、奴隷制度には以下の共通の特徴があるといえます。
1. **法的地位**:
- 奴隷は法的に個人の所有物として扱われる。デイヴィスやパターソンの研究は、奴隷が売買され、所有者の命令に完全に従属する存在であることを強調しています【Davis, 1966】【Patterson, 1982】。
2. **自由の欠如**:
- 奴隷には自分の行動や生活の選択に関する自由がない。彼らは所有者の命令に従わなければならず、自分の意志で職業や住居を選ぶことができない【OHCHR】。
- 多くの奴隷制度では、奴隷の子孫も自動的に奴隷とされることが一般的であった【NMAAHC】。
4. **強制労働**:
- 奴隷は強制的に労働を強いられる。報酬はないか、あっても非常に少額である【OHCHR】。
- 古代ローマやギリシャ、アメリカ南部のプランテーション、イスラム帝国、アフリカの一部地域など、歴史的に多くの社会で奴隷制度が存在し、それぞれの地域や時代においても、上記のような共通の特徴が見られる【Davis, 1966】【Patterson, 1982】。
いや、確かにスマホに夢中になってる光景ってちょっと異様に見えることもあるけど、そこまで悲観的に考える必要はないと思うよ。スマホやSNSって、単に時間つぶしの道具じゃなくて、情報収集やコミュニケーションの手段としても使われてるでしょ。友達や家族と連絡を取り合ったり、ニュースをチェックしたり、趣味の情報を集めたり、いろんな使い方があるわけで、それが現実逃避とは限らないんじゃないかな。
それに、古代ローマのパンとサーカスとは違って、スマホやSNSは自分の意思で選んで使ってるものだからね。オーウェルの「1984年」とも状況が違うと思う。監視されてると言うけど、現代のテクノロジーは自己表現や自由な情報交換を可能にしてる部分も大きいし、必ずしもネガティブな面ばかりじゃないよ。むしろ、それをうまく活用してる人たちもたくさんいるしね。