はてなキーワード: 理解力とは
いや、お前の理解力が乏しいせいだ。
ごめん、理解力無くて
彼と私で、説明力が無い、理解力が無いバトルになることがある。
こういう時は、どのようにして「どちらが悪かったか」が分かるのだろうか。
「こういってくれれば分かったのに!」というのを伝えるのだけど
私同様に全然伝わらなかった。
彼の話し方は、時々「悪文」のようになる。
例としてメモを取っていないのが悪いのだけれど
前提条件が前触れも無く変わったりもするのだ。
確かに、悪文を理解できる人は「読解能力・理解能力が高い」と言えると思う。
ただ、「説明する側」は「理解してもらいたい」という前提があるから
彼に「お前の理解力が無いからだろ」って言われたときの対処法って何か無いのかな?
言い負かしたいとかそういうのではなくて、ちゃんとお互いに理解できるようになりたいんだ。
回答待ってます!
月並みな理由だが、オープンキャンパスに行った時にその学風に惹かれた為だった。
毎年数人京大合格者を輩出する中高一貫校に通っていたし、上位の成績だったため、
挫折を知ったのは中3の時だった。
数学の授業(確か三角関数だったように思う)で、みんながスラスラと解いてみせる問題を、私は解くことができなかった。
何度説明されても今ひとつ飲み込めず、理解するのに時間を要した。
テスト勉強に於いて初めての失敗だった。その時のテストはいつもより20点近く低かった。
高1になって数学は数ⅡBに入って難しくなり、勉強時間の7,8割近くを数学が占めるようになった。
高1の数学の先生はとてもフレンドリーで、何度も説明を求める私に優しく砕けた口調で教えてくださった。
その先生と、割いた時間のお陰で中3の時に比べて成績は安定していたが、周りに比べると瞬発的な理解力やセンスが足りていないのは明らかだった。
そして、得意な英語や国語の勉強に割く時間が減ってしまったために成績が落ち、自習室利用のためにも塾に通うことを選んだ。
私よりも頭がいい人なんてごまんといた。同級生に。県内に。こんなに近くに。
私はまさに井の中の蛙だった。
結局、塾の数学のテストの成績ランキングに私の名前が載ることは1度もなかった。
偶然見つけた某私大の学部に興味を惹かれたこと、得意だった英語・国語を深く学びたいからだというのもあったが、
京都大学以外の国公立大学に全くと言っていいほど興味が持てなかった。
私たちの次年度から大学の入試制度改革が行われること、私の性格的に浪人が向いていないことが主な理由だった。
国公立至上主義の我が校では国公立を選択した者だけ進路選択と同時に志望校の提出・面談を行うことが課せられていた。
数学の先生に提出した課題ノートが返却され、余白にいろいろなメッセージが書いてあった。
3教科受験だからと言って楽な訳じゃないとか、今回のテストもケアレスミスしてたよとかお小言めいた言葉もあったけれど、どこか温かいものだった。
結びに、「数学楽しかったね、大好きだったね。1年間ありがとう」と書いてあった。
それを見て涙が止まらなかった。
私は数学が好きだった。
大好きだったのだ。
何度もなんども苦しめられて、意味がわからなくて苛立って泣いた日もあったけど、数学が好きだった。
だけど、どんなに好きでも圧倒的なセンスを持つ天才には敵わなかったし、
かなり時間をかけて取り組んだ模試の数学の偏差値が、殆ど対策をしていない英語の偏差値を超えることもなかった。
敵わないし、足りないのだと気づいてしまった。
と冗談交じりに友人に言われるたびに、泣き出したい気持ちでいっぱいになる。
後悔していないと断言すると嘘になる。
なにはともあれ、もう私は前に進むしかない。
・異常な性欲を発散するために女性に近づく輩がいることに憤慨する前にまず己がそうではないと一定の根拠もなく確信するといったような誤謬に陥っているかもしれないという可能性を考慮しない者がやがてそのようになるのである。
・仮にわがままでいるということが自由奔放であるとして褒められてしかるべきものであったとしても、わがままでいられないように抑圧された人々がいざそれに対した途端に罵詈雑言を飛び交わせることが世俗化への障害にになっている。
・そんなに滾々とただ僕に説いても、だいいちあなたが直面している問題には僕はあらゆる面で関係していないんだから、それは彼"に"であって、こんな風に人の事情も考慮しない人に彼をそこまで悪し様に言える資格があるのかね?
・彼女の翌日は彼にとっての今日であるのだから、彼が一昨日送ったメールが今日彼女を駆り立てて山を登らせ遭難に至らせたのは実は彼のせいでもあると言えた。
・地球上に暮らしている人類のうちの1割でも真に一つのものに取り組むような性格だったら俺は間違いなく9割に入る方を見下すことに熱心になるだろうな。
・まとめると、僕が複雑な文章ってなんでみんな読めないのと言ったことに憤慨した人がこれらを読んで実際には読めてるのに決めつけてくれるなと感じることそのことがまず先の一定の根拠もなく確信するという誤謬に陥っている可能性の一端であり、憤懣やるかたない彼ら、すなわちここではあなたはここまで目を走らせて字面だけを追ったというのみで未だに何の情報もこの文章からは得られてないとこう決めつけてもなんら問題はないわけであると私は確信している。
本当に頭の良い人は、短文で分かりやすく要点絞って説明できます。
貴方の文章は1文長い上に読みづらい。人に「読んでもらう」という事を考えておらず、思いやりに欠ける。
偏差値40の高校卒業後、2年間の浪人の末地方公務員の行政職に就くもあまりの頭の悪さに仕事にならず試用期間で退職。
失ったものの大きさをここにきてようやく実感し途方に暮れる。
一念発起して最近職業訓練に通いだした。電気工事士を目指すコースなのだが、手先の不器用さと理解力と飲み込みの遅さを存分に発揮し、電気工事士としての適性のなさを痛感。
皮肉にもOAスキルが平均より高い事が判明し、グループ作業では書類作成に適性を見出した。
相手が何言ってるのか頭に入らないこともあれば、言葉が上手に構成できずわかりやすく伝えられないのとがある。
これは引きニート経験者特有の悩みなのかもしれないが、ワーキングメモリが縮み上がってるんだと思う。
働いて社会に貢献したいという思いと、働くと必要以上に周りに迷惑をかけてしまい結局労働力どころか職場のボトルネックにしかならず、働き続けられる自信が無いという不安が一挙に頭を支配し、どうすればいいのかわからなくなる。
周りがたくさん頑張ってたくさん成長している間に、私は沢山の自責の念と沢山の自己嫌悪で、獲得していたかもしれない自信を喪失し、打たれ弱くなっていってしまったのかもしれない。
社会問題とかで比喩やたとえ話をすると、その表現に対してクソバカなコメントをするやつが大量に現れる。
「たとえ話は炎上するとママに教わらなかったのか?」なんてコメントがつくまでがワンセットだ。
それも風物詩ではあるが、にしてもアホみたいなクソコメの数々を見ていると情けなくなってくる。
そういうバカなコメントのパターンをいくつか挙げて、それらがいかにバカであるかを説明してやろう。
以下、
「たとえるなら、AはまるでBみたいなものだ」
クソofクソ、最悪だ。こんな風に議論を1ミリも進めず嫌味だけ言うようなバカは本当に救いようがない。マジで消え失せてほしい。
よし理由を言ったな、だがクソだ。
比喩というもの自体をまるで理解していない。AとBが違うのは当たり前なんだよ。
違うものを並べてるんだから相違点なんて考えりゃいくらでも出てくる、それを指摘するお前は何か少しでも有益なことを言っているつもりなのか? バカなのか?
いいか比喩ってのはな、あえて直観的には全然別のものを並べて、その数少ない共通点に目を向けさせることで、議論の本題が何なのかを理解させるやり方なんだよ。
Aについて言葉を尽くしても伝わらない、だがBと比較すると腑に落ちる、そういう場面はいくらでもあるし、だからこそ有効なんだよ。修辞法の基礎だぞどんだけ歴史あると思ってんだ。
ゆえにAとBの違いにこだわるお前は、本題と無関係な話を繰り返すバカ丸出しな状態にあることを自覚しろ。
これも上のやつと同じだ。
バカすぎて、たとえの意味を理解できなかったのか? なら素直にそう言えってんだ。
理解はしたが表現の仕方に文句がある? それが本題に何の関係があるんだバカか?
提案をくっつけてるだけマシだが、これも上のやつの派生形、ゆえにやはり意味が無い。
まず、議論を進展させたいという親切心で、より伝わりやすい表現を提案しているやつ。あっぱれな心掛けだ。
だがここまで読んで分かっただろ? どんなにうまい表現をしたところでバカは上述のようなトンチンカンな反応をするし、逆に理解力のある人間にとっては、たとえが多少下手だろうと大して議論に支障はない。
まあそういう建設的な意図の提案は歓迎したいところだがな。
もう一方は、大喜利したい、うまいこと言いたいだけのタイプ。
本題と無関係な話をしている自覚があるならまあそれもいいだろう。そこまで芸術点に自信があるなら、面白いかもしれんから言ってみろ。高確率でクソだろうがな!
これはクソじゃない、良い方の例だ。上のやつと大して変わらないじゃないかって? もはやお前は相当のバカだな。
元の発言者は最初からAのことしか話してない。Bのたとえを持ち出したのもすべて、Aについて伝えたいことがあったからだ。
お前はそれを受けて、Aの話を続ける。Aに関して認識の相違があるならその話をする。
比喩が役目を終えたなら、その比喩は用済みだ。
比喩による説明が失敗した場合も、その比喩は同じく用済みだ。
次の話をしろ。
それでいいんだよ。
増田の母親です。このたびはうちの馬鹿増田がこのような糞エントリを書いて皆さんに大変な迷惑をかけてしまい申し訳ありませんでした。
煽り口調で何かを書く体験をしてみたかったのですが、こんなスタイルは初めてなので、いろいろと拙いところがあるやもしれません。バカだのクソだのはすべて撤回いたします。だらぶちとかファッキンとかも多分言ってないけど撤回します。
あとタイトルを見て「すべからくをことごとくの意味で使うなバカ」と思ったあなたは正しい。
コメントに反応させていただきます。全部じゃないのはごめんなさい。
※ちょっとカテゴリ分けした。
ブコメを見ていると、「比喩は有効な場合もあるがそれ以上に議論を迷走させがちだからそもそも使うべきでない」という意見が多いですね。
まったくもってその通りです。私もリアル会議とかで、たとえ話に終始して結局何の話なのか分からなくなるケースを何度か見ている。
これらをすべて分かってないとだめだ。
ただ、それでも比喩は強力だし、使うなって言っても現にいろんなところで使われている。
例えば差別問題なんかは、立場の違いで感じ方が全く違ってくるから、別の立場の感じ方を想像してもらう意図でたとえ話が飛び出してくるのはやむを得ないのではなかろうか。
例えば
「猫ってかわいいですね!特にキャットフードをおいしそうに食べてる姿はとても好きです!」
「猫が好きなんてキモ、バーカバーカ」のような明確な荒らしは、即ブロックで忘れることができる。
「今の日本社会は○○の陰謀によっておかしくなっているんです」のような関係のないことを書き連ねる荒らしも、即ブロック。
しかし、
「キャットフードを食べるのが好きだなんておかしいです!あれは猫が食べるものです!」のような
話題的にはまったく関係のないわけではないが、こちらが言ってもいないことに対する反応、
これが精神的にくる。
えっ?なんでそんな解釈になるの?もしかして、私の日本語おかしかった?
と思って見なおすが、そんな人がキャットフードを食べるように解釈するような要素はどこにもない。
時々、誤解を解こうと返信しようとするが、これもまた精神的にくる。
なぜなら、「猫ってかわいいですね!特にキャットフードをおいしそうに食べてる姿はとても好きです!」という文から
「人がキャットフードを食べる」と読みとってしまう理解力の人に返信をするのだ。
どう書けばいいのか、途方に暮れてしまう。
タイトルは目の前にあったポテチ(+それを買ったコンビニ)への苦情です
最近死なないと解決しないんだろうなぁって言う苦しみが多くて悩んでる。
親と完全に縁を切ることはできない とか
人は人と接してないと生きれない とか悩んでもどうしようもないことを考えてしまう。
現実から逃げてきた私だが、最近は現実をチラ見くらいはできるようになった。だからこそ、この苦しみにぶち当たって悩んでいるんだけれども。
学生なんだけども明らかに年だけくってるような先生に理不尽に怒られたり、先生の理解力が低いからまるで宇宙人と話してるようにな気もしてくる。
これが社会人になっても続くとか…つくづく生まれなければよかったと思う。こういう事を言ったら「生まれてきたからこそ知った喜びアルデショー」とか言われるんだが…あるといっちゃあるが苦しみが喜び×100だ。自殺は数年前まで考えていたがメンがヘラってる系の思考には底がないから考えるのをやめた。これもメンがヘラ系の悩みではあるが。(結局やめれてない)
一日も早くタヒねる日が来ることを願おう
───────────
増田初心者でコメント返しはここでいいのかわかりませんが暇だし、します
(もしコメント返しする場所違ったら教えて下さると助かります)
周りに話が通じる人イズいない?
→話が通じる人は学校より上の委員会的な所から、派遣されてくる2人組の方がいるのだが、教育関係のみの話しかできない。メンがヘラってる系の話はお門違いって感じで。(メンがヘラってる時、精神科に入院したがそこは先生がハズレだった。他は微妙)
→田舎だからコンビニぐらいしかないんだ。久しぶりにコンビニで菓子買いましたが今後は大人しく通販使おうと思います
→書き忘れてた…ごめん。
それで少し引きこもり体質だからお菓子買い込んで…だから家から歩ける距離のコンビニはないです(週半分以上休む、婆がやってる駄菓子屋はある)
つい最近もコインチェックが問題を起こして、巷では「靴磨きの少年」の小話(靴磨きの少年=最後の市場への参加者が投資する頃になったらもはや相場も末期というアレ)が飛び交っている。
しかし、ビットコインはそもそも株やFXとは市場への通貨供給システムが異なるし、ニ度目の暴落は単にアジアの仮想通貨規制に起因するのでその話と関係があるとは思えない。
今回のコインチェックの件も単にハッキングで盗まれただけで、楽に儲けていた(これも思い込みだが)人間にバチが当たったわけではない。
そもそも、なぜ、誰でも出来たのに手を出さなかったのか、気づかなかったのか…
この件に限らず、最近は説教するという決定事項が先に来てしまって、こういった論点も論理関係もズレた説教をする人間が多く見受けられる。
どうして、今まで単純な中学・高校の勉強においてでさえ論理性も理解力も欠いて、その都度テストなどで自信満々に導いたものが誤りであるという現実を叩きつけられてきたであろう人間たちが。
どうして、社会・道徳的な説教(政治の見解や放射能などの科学知識なども、今回の論旨とは異なるが当てはまるだろう)においては自分の正しさを信用できてしまうのか。不思議でならない。
当方20代半ばで偏差値40の高卒で無職。前職は地方公務員だったがあまりの頭の悪さに仕事についていけず社交不安障害に陥り数ヶ月で退職。
悩まされた頭の悪さについてだが
、まず理解力がない。相手が何を言っているのか理解できず、全体への指示を自分一人だけ理解できていないことが多いので社会活動にとても恐怖を感じる。
1:1の簡単な雑談はできる(ほぼ聞き手で相槌打つか引き出すかしかしない)のだが、3人以上になると会話のテンポについて行けず頭だけが疲れてぼーっとしてしまう。
飲み込みが遅く、ミスが多いため職場内の人間関係に積極的になれないのもなかなか辛い。
自分が小さい頃の写真を観ると、胸が張り裂けそうな程悲しくなってしまうので、ここ最近はとりわけメンタルが弱くなった気がする。
そんなこんなで発達障害を疑い疑われ精神科でウェクスラー式知能検査を受けたのだが、発達障害だとは言われなかった。ただの馬鹿だったんだろう。「物事を抱え込まないで一つ一つ片付けていきましょう」と言われた。社交不安障害だと言われワイパックスが処方された。あれだけ苦しんだ悩みの解決の糸口が全く見いだせなかった。
その後非正規を転々としていたのだが、ここ最近そろそろ就職しなくてはと思い、ハローワークの戸を叩いた。自分のような人間は働かない方が周りが円滑に進む事が多いので、ネット界隈で暇だと噂なサーバー監視かビルメンを視野に入れていたのだが、サーバー監視はコマンド入力のミスが死活問題だそうなので、ビルメンになりたい旨を伝えた。
職員からは「若いからあまり薦められない」「何も今ビルメンを目指さなくても選択肢は沢山ある」「もう少し苦労した方がいい」などと言われ、話がうまく進まなかった。
やりたい仕事もなく、身の回りの人間と見比べるととりわけ能力も低く、社会に怯えきった自分をわざわざ相手にするハメになった職員に申し訳無さを感じた。
自分の頭の悪さについての悩みを職員に相談したところで困らせるだけだろうし、精神科で相談したけど解決しなかったといふことは、僕みたいな頭の悪い人間は周りに迷惑をかけてかけてかけまくって自他共にボロボロになるしか生きる道は無いのだろうか。
こんな自分をどう頑張っても好きにはなれないので安楽死でもさせてもらって臓器バンク行になったほうがよっぽど社会のためになるとさえ思う。
現実化する結果というのは確率が低かろうが高かろうが関係なく事象する。
むしろ確率がどれだけ低い事象であっても現実はおかまいなしにサイコロを振り続けている。
そして結果として残し続けている。
冷静に考えて欲しいが太陽系があり地球があってこの文章を読んでいるお前が生誕してここまで生き延びてきた確率は宇宙生誕から計算すれば0に等しい程度の確率です。
ところが現実にとっては結果が全てであり確率が高い事象しか常に起こさないと思い込んでいるのは人間の脳だけです。
例えばの話、青信号で横断歩道を渡ってても信号無視のトラックにひき殺される確率は0.001%程度ある中で
お前が渡るときは死ぬわけないと思っているし平気で渡るわけだが、
実際に事故が起こり死んだ人間にとってはどれだけ低い可能性でも現実として結果が残る。
現実というのは人間の期待や計算を平気で無視して現実化してくる。
どれだけ交通整備ができて事故が起きないような世の中に変えても
横断歩道を渡ることで発生する死亡リスクは0%ではなく確かにそこに存在し続ける。
障碍者にしたくないから女児を産みたい、というのも恐ろしく現実への理解力が足りていない。
女児を産んだところで障碍者が産まれる確率は出産という行為に必ず紐づいてくる。
そのあとに出るのは障碍者ではないか、障碍者か、その結果だけしか答えない。
いくら可能性が高い方に賭けたとしても、現実は容赦なくそれを裏切る結果を出す準備ができている。
生きる以上は常に現実側が出す無慈悲な結果とどのように付き合っていくのかということだ。
大きな決断を迫られるとき、弱い人間は常に可能性が高い方へとベットしたがる。
しかし、可能性が高い方に賭けたからと言って必ずしも希望の結果になるわけではない。
もし希望した結果になったらその時は喜べばいい。
しかし現実の出した結果が希望と反対なら?可能性が低かった方なら?
そういった事態に陥ったときに人間として自分がどう行動するのか、
可能性が高い方に賭けたのに運が悪く現実が希望の結果を出さなかったとき、
彼、彼らは真に不幸である。常に落胆の底から出ることはできない。
いかに現実が非情であり、無機質であり、抗うことのできない存在だったとしても、
可能性の高い方だけが結果をもたらしてくれることだと信じ切っている。
ここ10余年の間にも発生するまでは誰も信じておらず可能性も低かった事象が平気で発生している。
☑ 誰かが勘違いをしている
☑ 論旨がおかしい方向に行っている(わざと?)
☑ 正しい答えをした人に、間違った人が粘着している
などが見えるとき。
※事実と違う事だけ判れば良い。
論旨がおかしいについては、そこで最初の議題を示唆すればいい。
※感情論ではなく。
最後のがいちばん大変だけれど、確実なソースなどで、正解者に対しての同意を短文で述べる。
※間違った人が恥ずかしさから否定している処をうっかりたたくとさらに感情論になる
くらいかなぁ。論破っていうのは正解が出た処で、ある程度の人が「判った」の時点で良いかな。
間違った人が謝罪するとか、ドロドロギスギスするのは、さらに溝が深くなるし
謝ってもらうと逆恨みされそうだし、間違っていた人は理解力がまるでない点で、理解力のない人という判断するしかない。
∴私が思う論破は、相手の間違いを正して、ある程度の人に理解されたらそれでいいです。
正しくなくても、持論を曲げない人は、頭が固く、子供っぱい、プライドばかり高いなとはおもいますが、
危ない性質の人は、正しさが判っていても非を認めないのでしょう。
録画したテープに再度録画をすると、たまに前に録画したやつが出てくる。
昔、親父と一緒にラーメンにまつわる映画が録画されたビデオテープを観てたんだよ。そしたら合間合間に女の人がアソコにエビをあてがわれて喘いでるシーンが出てきた。その頃自分はまだ小学生でまだ理解力も未熟だったので、「あぁ、ラーメンだから同じ食べ物のエビが出てきたのかな。それにしても何で急に女の人が喘いでいるシーンなんだろう。」ぐらいにしか考えられなかった。そういう前衛的な映画なんだと思っていたが、後年よく考えてみると、それは親父がそのビデオテープに録画していたAVだったに違いないとの結論に達した。親父よ、あんた、その時どんな気持ちだったんだい?