イメージとして掴みやすいのはセクシー女優とかAV女優のカラダだろうか。
彼女らの体はもちろん自身の体だが同時に我々の共有財産としてのカラダである。
風俗嬢なども同じかもしれない。
私が長らく通い詰めた〇〇という女の子のカラダは私や他の客たちの共有財産という側面を持つ。
風俗嬢本人にとっての金を稼ぎ出すための財産としての体とは違う意味での財産である。
こういった価値観というのは性を商売として生きる女性の体以外のカラダにもあてはまるのだろうか?
昔、栗本薫の短編で世界が崩壊したあとのディストピアな世界を生きる男女の話があったように思う。
その中で新たに社会を築こうとした人々の間で女性のカラダの配給に関する取り決めがつくられようとしたあたりでその男女はその社会から離脱してただ二人でその異世界となった現実世界で生きることを選択するのだ。
そのような行動が人間にとって自然な選択だとすると共有財産としてのカラダという概念は否定されることになる。
しかし、一方で先に述べたように現実的な概念として共有財産としてのカラダは存在する。
私やあなたがセックスをした女の子たちはたくさんの男たちを楽しませ満足させてきたのだ。
女性というのははひとりの人間としての人格とはまったく別次元にただカラダとして存在する瞬間というものが必ず訪れていて経験しているはずであるし、もとよりカラダとしてしか認識されていない状態は多々訪れている。