はてなキーワード: 新海誠とは
北海道の真ん中にでっかい塔があって、そいつの周りでは並列世界とか位相転移とかいろいろSF的なことが発生してる世界
飛行機づくりしてた男二人
途中から入ってきた女一人
3人は飛行機で塔に行く約束してたけど、女が昏睡状態になってしまう
そのせいで男二人は道を分かち、片方は東京の普通の高校に、片方は北海道で研究員に
でも塔にいく約束してたからまた久しぶりに飛行機でいくことにした
いったら女が目覚めて再会できましたおわり
つまらんというか面白さを理解できなかったというほうが正しいけど・・・
君の名は的な新海誠のいつものテーマ性、男と女が時空超えてETみたいにコミュニケーションとるのがあったのは「らしい」なと思ったけど、
お話とかキャラの描写がいつにもまして薄すぎでめちゃくちゃ退屈だった
多分新海誠の中ではそれぞれのキャラが抱えてるドラマとか全部知ってるからいいんだろうけどナンもしらない人が見ても、は?ってなる感じで置いてきぼり感すごい
逆にいうとこういう失敗をしたから君の名はにつなげられたんだろうな
プロデューサーがかなりクチだしたらしいが、たぶん君の名はも、中盤の交代できなくなってから探しにいくところあたりのだるさをかんがみるに、口出しがなければこんくらい退屈なものになってた素質は、十分ありえたんだろうなあ
退屈すぎてちょっと見てはやめての繰り返しだったから見るのに1ヶ月くらいかかった
あークソすぎて死にたい
「君の名は」は監督のオナニー映画にすぎないという言説をブコメやレビューで見かける。
それはわかる。
宮崎駿は、変態ロリじじいとは言われるかもだけどオナニー云々は言われない。
2人の違いをうまく言語化できないので助けてほしい。
確かにパヤオの映画には多くの人の心に響くようなブレない軸がある。
それがオナニーを超えた先にあるナニか、なんだろうか...
>>新海の場合女のことしか考えてないから精液臭がきつくなる 駿の方は女は添え物 もっと大きいテーマがある
納得w 劇場で女の走るときの乳の揺れ方がリアルすぎて引いた覚えあるわ。
たしかにパヤオの映画(特にラピュタ、もものけ、千尋)を観ると、
テーマの重さに圧倒されてその日しばらくそのことしか考えられなったりする。
>>既にコメントがついてるけど、 パヤオ作品は登場人物すべてに固有の魅力がある感じだけど、新海映画には男女2人しかでてこない感がつよい。
わかる。脇役に魅力があってこその名作だよな
>>オナニーが芸の域にまで昇華されてるだけでオナニーであることには違いないんじゃないのかな
オナニーも極めると誰にも文句言われないもんなんだな。すげえ。
きっとパヤオもこじらせた期間あったろうけど、とっくの昔にそこを抜けたからすごいのかもしれない。
逆にいうと新海はまだアマチュアからプロになりきれてない感がする。
>>オナニー映画って監督の自己満足のための映画で観客の方を向いていないってことだよね。「君の名は。」ほど観客のことを考えて作られた日本映画は他にないのであって、オナニー監督とか言うのは全くの的外れ。
しつこい下ネタも観客のためのことを考えた結果なの?
観客の方を向いているというのはプロデューサー達のおかげでは?
あれを“陽キャ”マウンティングとするのならば、“陰キャ”マウンティングの方がはるかにウザくて嫌いだ。
“陰キャ”マウンティングが頻繁に行われる界隈。そう、それはお笑い界である。芸人にとって学生時代を鬱屈して過ごしたというのはむしろ勲章になるのだ。アメートーークの「中学の時イケてないグループに属していた芸人」とか。
何故、芸人たちはイケてなかったアピールをするのか。その方が視聴者のウケがいいからだ。大抵の人間は望むような輝かしい青春を過ごせないので親近感を寄せる、ひねくれた毒舌芸の免罪符にもなる。学生時代もクラスの人気者だったんだろうなと思わせる芸人の嫌われっぷりと比べるとお得なポジションだ。
そうした芸風の芸人が飽和状態になるとどうなるのか。“陰キャ”マウンティングが始まるのである。
某番組で2人の芸人がトークしていた。2人とも捻くれた芸風であったため、「友達と面白いことして騒いだ」みたいなエピソードがちょっとでも出てくると妙な雰囲気になる。ふ~ん陰キャで売ってる癖にそういう思い出あるんだぁ、みたいな。
ネットでも「あいつは運動部だったからビジネス陰キャ、本当は陽キャ」や「友達いたから陽キャ」みたいな言説が起こり、もはや陽キャって何という具合に過激化している。
楽しい思い出があるやつは敵だ、というようなノリはキツい。一体何を争っているんだか。
ほんでーまあ…『君の名は。』の反響でね、ちょっとコメントがあったんですけども、
「有りがちなモチーフの組み合わせだけ。そりゃヒットするよ」というコメントがありました。
いやーほならね、自分が作ってみろって話でしょ?そう私はそう言いたいですけどね。
こっちは、こっちはみんなを楽しませるために映画の背景を…作っているわけでして、
やっぱり、前はちょっと喪失から意味を引き出す映画だったのですが、
いや…ちょっと2011年以降やっぱみんなが求めるものが変わってきたかなーと思って
そんな、「キャッチーな要素の積み重ねだよね」とか言われたら、じゃあお前が作れって話でしょ、だと思いますけどね?ええ。
結構ー…大ヒット作るのは大変に困難なことだと思いますよ。光源の構図、から考えなあかんし。
そんなに「容易だ」と言うんだったら皆さんが作ってみればいいんじゃない?っていう話でしょ?私はそう言いたい。うん。
ほんでーまあ…『ロード・オブ・ザ・リング』の字幕に対してね、ローカルの信者からちょっとコメントを?
「ややや けったいな翻訳」というコメントがありました。こいつはコトだ!
いやーほならね、自分が作ってみろって話でしょ?そう私はそう言いたいかもだ。
こっちは、字幕以外に、ほかにやりたいことがなかったから字幕を…作っているわけかもけど、
最近、批判を恐れて直訳に近い字幕を見ることもありますが、バカこくな!
いや…ちょっと字幕やっぱ凝った意訳がいいかなーと思って まあベストを尽くさにゃ!
そんな、「韋駄天が間違っている」とか言われたら、じゃあお前が作れって話でしょ、ファック野郎!ええ。
結構ー…字幕作るのは大変だと思いますよ。字数の制限、から考えなあかんし。
「嘘をつくな!」と言うんだったらボランティア軍が作ってみろ!っていう話で?私はそう言いたい。うん。
どーも、互助会増田です
以下読む価値なし
ついに千と千尋を超えた。
世界興行収入に限って言えば、これで日本一になったことになる。
元々日本アニメを評価している国で言うと、台湾等のアジア圏を除くとフランスが最も有名ではあるが
著名な映画レビューの雑誌なども満点を出すなど類をみない異常な絶賛状況でとてつもない事態に突入している。
「新海誠―ロマンティックな詩人」カイエ・デュ・シネマ ★5/5
「日本アニメ界の新星、ここに」エクラン・ファンタスティック ★4/5
残念ながらゴールデングローブ賞にはノミネートされなかったが
「君の名は。」風の写真に変換するアプリということで話題になった Everfilter が公開停止になった。著作権侵害ではないかという指摘に対する運営元会社の対応である。以下の記事が詳しい。
私のみた観測範囲では、いまのところ以下のような結論が優勢に見える。
合成だとみなされた過程としては
という主張がなされている。特にこの記事が多く参照されたように思う。
以降、これらの主張がその通りではない可能生がわずかながらあること、もしそうだった場合には著作権侵害に対してどのような議論がなされるのだろうか、その思考実験をしてみたいと思う。
なお、あくまで仮説であってここまでの主張を否定することを目的にしているわけではない。もしかすればそうではない可能生が微レ存、ではそちらの可能生を考慮したら、どのような議論になるか考えてみると (不謹慎ではあるが) 面白い議論になりそうだ・・・というのが趣旨である。
先の shi3z 氏の主張はスタイル変換に DeepArt と呼ばれるアルゴリズムが用いられていることが前提となっている。確かに shi3z 氏が述べているように DeepArt ではスタイル変換で細部のディテールを残すことが難しいことが分かっている。
具体的には、生成された画像において、人物の顔、建築物の模様などのディテールが潰れてしまう。
一方、今年の 9月に Google Research から提案された、スタイル転送の改良版アルゴリズムがある。
当方もたまたま知人から教えてもらったものである。細部まで読んではいないが、おおまかに言うと、古典的なテクスチャ合成の手法を既存のディープラーニングベースのスタイル変換アルゴリズムに適用して改良することで、細部のディテールを残したままの変換が可能になった・・・という内容である。
結果は 24ページ Figure 8 と Figure 9 にある既存手法との比較が分かり易いだろう。
上段の Figure 8 が既存手法 ・・・ おそらく shi3z 氏の記事にある DeepArt に近い手法。Figure 9 が提案手法である。建物のディテールが再現できていない既存手法に対して提案手法では建物のディテールを残すことに成功している。
また、もうひとつ特徴的なのが、空のように一様性の高い箇所においては元のスタイルが持つ模様のパターンに酷似したパターンが描かれている点だ。このあたりは古典的なテクスチャ合成を応用した影響だろう。
本手法を用いた場合、既存手法より高速に変換画像が生成されることにも言及されている。
もし Everfilter のアルゴリズムが提案手法に近いものであるなら、今回疑問視されていることの中に幾つか説明のつくものがある。
この辺りから、Everfilter は「ニセAI」ではなく比較的新しいスタイル変換のアルゴリズムを実装した製品だった可能生が微レ存・・・と思い至ったわけである。
当然、そこまでは言えないと考えている。
2016年現時点で著作権侵害は親告罪なので、たとえどんな手法が用いられようがその出力に対して「お前のこの絵はこちらのパクりだろう」と指摘されたところで容疑がかかる。中身がディープラーニングであろうが、コピペであろうが、そこは変わらないと思われる。
といった論点である。法律的な白黒は先に述べたように親告罪に照らし合わせて考えればよいので、ここは、世間一般の人々の感覚を話題にしてみたい。
有名漫画家の漫画を模写し続けることで画力を磨いた漫画家が描いた作品は、その有名作品に画風が似ることはよくあるだろう。その場合、ストーリーや構図に類似性が見られず、かつ、画風も多少の癖の類似であれば許容範囲内というのが世間一般の常識であるように思う。つまり、画風"だけ" に多少の類似があるものは認められそうだ。
では、有名作品のデータをもとに学習を行った人工知能が描き出した、画風 "だけ" に癖のある写真・・・というのはどう考えるべきだろうか。もちろん、画風に強すぎる類似性が認められる場合は、世間の風当たりは強いだろうが、では、どの程度の類似性であれば許容範囲内なのであろうか?
その類似性は大きくは
の二つからもたらせるものであるが、強い類似性を悪とした場合、では著作権のある画像から模倣した ・・・ 学習したことが悪なのか。まだ人類もその性質を解明し切れていないディープニューラルネットワークがもつ性質が悪なのか。
(法律的な判断ではなく) 感情的な判断についてはもやはり、出力が問題であってどんな手法が使われているかは関係無という態度が正しいのか。
話題は逸れるが、ニューラルネットワーク版の Google 翻訳が生成した文章の著作権はどう考えるべきなのか。これも似たような問題である。Google はウェブ上の大量のデータから学習していると思われるがもしそれが著作権フリーではないデータからの学習だとした場合に、生成された翻訳文書は Google が著作権を持つのか、そうではないのか。
世間の常識がどこに落ち着くのかはまだよくわからない。だからこそ、この議論をコミュニティに投げかけてみたかった。
Google Research の論文で Everfilter が完全に再現されるかどうかは実験してみないとわからないことであり、また論文をの例を見る限り Everfilter 品質での出力を得るには相応のチューニングが必要になるようにも見える。それが現実的に困難だった場合はやはり shi3z 氏の主張が正しい可能生も大きい。また、テクスチャ合成を応用したという点で著作権との相性が悪いアルゴリズムである、という考えもあるだろう。
shi3z 氏の主張を否定するために記述したのではなく、あくまで、人工知能が作り出したコンテンツを人々はどう捉えるのか、そこについてみなさんの意見を伺ってみたく起こしたエントリであることを強調しておく。
http://anond.hatelabo.jp/20161205000501
設定と小道具が秀逸だった。
1000年周期の彗星接近(及び破壊)に、1000年続くお祭り、伝統的な口かみ酒。
入れ替わりとタイムパラドックスの要素を組み合わせたストーリーは陳腐というかあるあるなんだけど、
歴史(実際にある伝統から感じるミステリアスさ含む)と科学を組み合わせたっていう点で、
実写よりも美しく感じる表現がある。
特に新海誠はアニメーションに美しさを持ってきた監督だと思う。宮崎駿とは別の種類の。
彗星なんかは、実写ではリアリズムを追求するので、それに合わせたCGになる。
それを美しく感じる人もいるとは思うけど、
新海が描いたような絵で描いたものほど万人受けはしないと思う。
設定の組み合わせのセンスというかアイディアだけで敗北感を感じた。
ストーリーは誰かに相談しながらやった方がいいのかな、って感じる。
脚本任せて良かったと思う。演出や表現は良いってわかってるのだから。
ただ次の作品が心配。ハードルが上がってる(とも言えないか。自分周りは評判悪かった)。
自分は新海監督には過去ガッカリさせられたこともあるので免疫あるけど、
世間はどうなんだろ。
追記
〉インタラクトさせたのがよかった。
すでにこの映画を見て2週間は経つ。鑑賞直後の雑感は箇条書きで記してはいたのだが、一応もう少しまとめようと思い立ったのでここに記す。
おそらくほとんど人の目には留まるまいが、ネタバレを含むので、ここから以下はぜひ本作をご視聴の上でお読みいただきたい。
また、私自身はこの作品を1度しか視聴しておらず、またこの映画に関する情報はパンフレット以外ほとんど(ネット上の評論も含めて)目にしていない状態であるので、思い違いや抜け、または同様の結論に至った他の方の評論がある可能性があることを了承されたい。
また、本文の後半でいくつかの仏教的用語を使用している。が、恥ずかしながら私の仏教知識は全くの独学であり、また理解もかなり浅いものである。もし仏教用語または知識に間違いがあれば、ぜひとも私のツイッターアカウント(https://twitter.com/gachikibou)またはメールアドレス(gachikibou@gmail.com)あてにご叱正をいただきたくお願いする次第である。
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これまで、私は新海誠監督の映像作品をいくつか観た(すべてテレビかDVD)が、どれも見ていていたたまれない気分にさせられるのがいやだった。今回も「新海監督作品」というだけで拒否感が強かったのだが、それを良い形で裏切ってくれる作品であった。
この映画の良い点については、映像作品素人の私でもいくつか挙げることができるが、この文章では、私が「この映画が多くの人の心に深く響いた理由」であると確信した、ある「仕掛け」について取り上げたい。
私がこの映画で見事な「仕掛け」であると考えるのは、「入れ替わっていた時の記憶は夢のように消えていく」という設定である。
ご視聴いただいた方にはわかる通り、この設定は脚本の構成上必要不可欠であり、それ自体が新海氏の作品テーマの一つである「すれ違い」を生むポイントでもある。
しかし私は、この設定そのものが、多くの観客に非常に深い共感を覚えさせるための、きわめて重要な「仕掛け」であったと確信している。
さて、その「仕掛け」について考える前に、まずは一般的な、夢の「記憶」について少し考えたい。
そもそも、人間が見るほとんどの夢は、目覚めた時には忘れられてしまっているし、たとえたまたま夢を覚えていたとしても、目覚めた後しばらくすると、その記憶が朝のルーチンな行事などによって急速に塗り重ねられていく経験を、多くの人はしているはずだ。
そしてそれは、非常にインパクトのある強烈な夢であっても、実は例外ではない。
例えば、前日見た怖い夢について友人に話す時、どうしてもその「怖さ」を伝えることができないというもどかしさを感じたことがある人は多いはずだ。
それにはいろいろな理由が考えられるだろうが、そもそもそうした場合に思い出している夢の「記憶」というのは、実際にはその時の夢に対するおぼろげな「あらすじ」と「『感動』を体験したという『記憶』」を元に、目覚めてしばらく経ってから再構築された、いわば「レプリカ」である。
それは本来の「記憶」ではなく、自分自身によって作られた本来の「記憶」の「代替品」である。そのゆえに、自分自身でもその「記憶」を、生の体験として感じられないのだ。
では、なぜ人は、わざわざそのようにもろい夢の「記憶」を、再構築してまで取っておこうとするのだろうか。
それは、その人が、その夢の中で何らかの「感動」(それは「喜び」であっても、人によっては「恐れ」であってもよい)を体験したからである。
ある夢について、人が「いつまでも覚えている(実際には再構築したレプリカを取っておいている)」のは、その人がその夢の中で、時には現実以上に「感動」させられたからだ。
(つまりは、面白かったテレビドラマやアニメをDVDなどで保管しておこうという行為と同じである)
しかし、そのとっておきたい夢の「記憶」そのものは、前述のように実に「もろい」のだ。
「感動」は個人の心にとって極めて重要な体験であり、その存在を保証する「記憶」は、ある意味「自分そのもの」でもあるのに、夢の「記憶」は、いくら手放すまいと抱え込もうとしても、どうしようもなく風化し、変質し、最後には消えてしまう。
すると最後には「『感動』を経験したという『記憶』」という、ある意味抜け殻のようなものだけが手元に残るのだ。
しかし、人間はそれでも夢の本来の「記憶」をあきらめきれない。
なぜなら、強く「感動」したという事実は、人にとって極めて重要だからだ。
だからこそ人は、無意識にでも夢の「記憶」を、抜け殻である「『感動』を経験したという『記憶』」を元に再構築して「レプリカ」を作り、それを代替品として残すのだ。
たとえ残しても、その「レプリカ」が、本来の生の「記憶」には及ばないにもかかわらず。
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さて、ここまで、夢の「記憶」が本来の記憶から「レプリカ」に置き換わっていく過程を見てきた。
多くの人は無意識のうちに気が付いているのだ。
実は、夢の「記憶」に限らず、人間の実体験から得られたものを含むすべての「記憶」も、年月が経つと消えてしまう「もろい」ものである、ということに。
「よかったことの記憶は美化される」というが、実際には美化という「脚色」ではなく、後に再構築された「レプリカ」かもしれず、場合によっては「レプリカ」の「レプリカ」である可能性すらあるのだ。
「記憶」は、同じ時代の別の「記憶」や、新しい「記憶」、またはその人自身の心境の変化などによって絶えず影響を受け、さらに年月とともに風化する。
そうして形の崩れた「記憶」を、人は心の棚から引き出して眺めるたびに、足りないところや影響を受けたところを成型しなおし、「ああ、あのころはそうだった」と納得して、引き出しに仕舞う。
仕舞った途端に、その「記憶」はまた変質を続け、風化していく。
そのようなものに、果たしてその「記憶」が生み出されたころの、生の部分が残っているだろうか。
そしてその「記憶」がもろく変質し、最初のものと変わってしまっているという事実は、最終的には自分そのものの「はかなさ」にたどり着く。
自分があの時得た喜怒哀楽の「感動」を保証する大切な「記憶」が、年月を追うごとに変質し、「レプリカ」に置き換わっていく。
さらにその「レプリカ」すら、風化に耐えられずに「レプリカ」の「レプリカ」に置き換わってしまう。
それは人間の記憶システムの限界であり、そのような「はかない」ものに立脚している人間存在の限界であり、どうにも抗えない無情な運命である。
この残酷な「はかなさ」を前に、人は多かれ少なかれ、悲しみと恐れを抱くのだ。
しかし、いくら「はかない」ものであっても、人はやはり「『感動した』という事実」を保証する「記憶」を手放せない。
それを手放すことは、過去の「感動」を手放すことであり、つまりは「自分自身」の一部を手放すことに等しいからだ。
「自分自身」を手放したくないという強い思い。これは、人間という存在の持つ、根源的な欲求の一つといってよい。
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この作品で、主人公たちは人格の入れ替わりという「夢の体験」に近いものを体験する。
入れ替わっている時の「記憶」は、(夢の「記憶」と同じく)極めてもろく、曖昧なものであることが劇中の様々な演出や、女性主人公の祖母の経験から示唆される。
また、主人公二人が入れ替わっている最中のことを把握しようと相互に残した記録すら、「世界の修正力」とも呼ぶべき現象によって、問答無用に消されていくのだ。
この演出は、夢の中で強烈な「感動」をしながら、夢の「記憶」が消えていくのを経験した人々(たぶん非常に多いはずだ)に、夢の「記憶」の「はかなさ」、どうあがいても失われてしまう焦燥感と苦しさを思い出させる。
この映画において、入れ替わりの「記憶」は、夢の「記憶」と同列にできるものではない。
なぜなら、その「記憶」は(時間軸のずれはあるにせよ)現実世界での体験によるものだからだ。
ここで視聴者は(特に、視聴者層として想定される若い世代にとっては無意識のうちに)、自分の持つすべての「記憶」そのものも「はかない」ということに気づかされる。
そしてその「はかなさ」は、前述のようにこれまで確かだと思っていた「自分自身」、つまり「自我」の「はかなさ」へと続いているのだ。
この作品が、単なる「恋愛のすれ違い」を描いた作品でない点は、ここにある。
この作品の入れ替わりの記憶に関する「設定」そのものが、人が「自我の存在のはかなさ」に知らずのうちに触れる、という高度な「仕掛け」となっているのだ。
そしてさらにさらに、この仕掛けにかかった視聴者は、「自我のはかなさ」を抱えながら、大災害から人を救いたいという強い想いの結実と、主人公二人の恋の結末を追っていくのである。
「自我のはかなさ」という「無常」を自覚しながら、それでも捨てきれない「感動」を最終的には得るのであり、これをあえてたとえるなら、大乗仏教における「色即是空」の一端を突き付けられながら、それと相反する「自我」を、恋の思いを主軸にした「感動」として体感させられているようなものである。普通の人間にとって、これが強烈な体験とならないはずがない。
この作品を、「何か『高尚な深み』がない」とか、「ヒットする要素が盛りだくさんで鼻につく」といって評価しない人がいるようだが、前述の「仕掛け」が意識されるならば、その評価は間違っている、と言えるだろう。
確かに、ストーリー上はこの作品は恋愛物であり、その結末そのものに何らかの「高尚な思想」は存在しない。
最終的に二人は再会し、そして新しい「記憶」が生まれるだけである。
しかし、上記の「仕掛け」による、実は仏教的ともいえる「無常」と、それと対立する「自我」を強烈に意識した構成は実に見事であるし、十分に評価に値すると、私は考える。
何より、「無常」と「自我」の対立、というよりは映画のエピローグの流れてとしてはむしろ「対決」を、恋愛ドラマをもとにしながらも、とりわけ若い世代の視聴者に体感(おそらく初経験だ)させるなど、尋常の映画ではない。
この点で、私はこの映画が日本のアニメ映画の中でも特筆すべき存在であると考える次第である。
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この映画に関して、もちろん上記以外優れた点は数多くある。
今回記した部分はあくまでも私が特に注目した点であり、冒頭に述べた鑑賞直後の箇条書きの全体量で言えばせいぜい1-2割といったところである。
新海監督の特徴である映像の意図的な美しさや、おそらく何度も検討を重ねて練り上げられた脚本など、評価するところはまだまだあると思う。
しかし、私自身まだ一度しか視聴していないこともあり、また映像や脚本に関してはより以上に素人であるので、それ以外の評価は他の方にゆだねたいと思う。
そして、私はやはりこの映画は、10代から20代の「無常」に関して初心(うぶ)な若い世代に鑑賞していただきたい。
この映画で抉り出されるものは、少なくとも2500年ほど前から人類が立ち向かっている、非常に大きく根源的な問題の欠片である。