はてなキーワード: 新海誠とは
ただこう言うと、この世界の片隅に派が突っかかってくるので増田にでも書いとく
というのも「この世界の~」の批評はその作品世界の描き方というより、とにかく圧倒されたという文言がよく見られるから、それなりの人は自覚があるんじゃないかと思うんだ
そりゃそうだ説教されに金払うやつは変態くらいなもんで実は映画の批評でイデオロギーとか視点などというものは、さして重要ではないと思っている
いや、結果論として重要だろうとは思う。「あーたのしかったね」の次のものとして、考えさせられるなにかがあるとなお良い
とはいえ最初は映画として映像作品として、なにかすごいものを見せてもらおうという渇望が最重要だから
新海誠はこの点でアニメとしては映像美を極めていて、それってどうなのという批評もなくはないが、少なくとも世間での消費のされ方は「映像がすごい」だろう
だからこの世界の片隅にが、空襲シーンがすごかった、軍事描写や兵器描写が緻密だねみたいな批評が踊るのは普通のことだと思う
ただ、その勢いでついつい説教臭くなくていいなどという反ポリコレ的な言動が出てしまうのかもしれないし、私はその点でわからないでもないし、素直な批評だなとは思う。
ただ残念なのは、やはりタイトルの通りなことを私が言うとネット上で吹き上がるひとが何人かいたということだ
さんざんエンタメとして消費したくせに、君の名はとは違うという残念な批評が出てくるわけで、こういう自覚のない連中面倒だなと思うわけだ
こういっちゃなんだが「この世界の~」は漫画が原作だ。テーマだけ消費したいなら漫画を読めばいい。
なんでこのひとたちアニメというか映画にしなきゃ消費しないんだろうってことだ
つまり結局、映像のすごさを期待していったに違いないのに、原作付きアニメ映画の批評として誠意がないなと思ったりもした
漫画原作の実写映画で自分は出演者の〇〇君や〇〇ちゃん目当てで見に行くやつらと同格になりたくないという感じなのだろうか
とくに原作があるアニメや映画はどうあるべきかという一つの回答としてこの世界の片隅には素晴らしいと思う
しっかりと映像としてすごい。これはどんな天才漫画家でもどうしても無理がかかるものであるし、あるいは一人の個人としてでしか届かない取材によって見えてくる密度が大幅にアップデートされている
しかし残念なのは扱ってるテーマがテーマなだけに、そのファンが過激なことを言い出す残念さだ
この世界の片隅派の残念なほかの映画へのヘイトコメントや、あげく映画批評を飛び出し政治的残念さまでも引き起こすまでになってしまったなと思う
今更だが今日は時間ができたので近所の映画館でやっていた君の名は。を観に行くことにした。
評判がすごくよく興行成績も200億円に届くか?という大ヒット。
正直新海誠は苦手だったんだが食わず嫌いはよくない、自分の目で観て判断をしないといけない。
でもさぁぁぁっぁぁぁぁ
いわせてくれぇぇぇぇぇ
ストーリーとかそんなんじゃねえぇそんなの野暮だ
以下ネタバレあり
今更だが一応
山の頂上がクレーターになってる、それは火山ならそうだねそういうのもあるよね。
でも頂上のクレーターのふちがあんなに平らなんだよ!歩きやすすぎるだろ!
もちろん火口湖ってのは存在するよ、でもな、めっちゃ水流れてたやん、小川みたいなとこ越えてたやん!!
雨でも降った?降ってないでしょ?
その水どこからきたんだよ!そんな場所で地下水も出るわけねぇだろ!
それになぁ
あんな天気のいい日に山に登ってな
他の登山客いねーわけねーだろうが!終盤三葉夕方に登りはじめて日没には頂上いただろ、めっちゃ登りやすい山やん!
そんなクソド田舎の町に高校があるかぁぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ
糸宮に隕石が落ちて死者行方不明者が人口の三分の一の500人だろ?
てことは人口1500人だ。
俺の町の半分以下じゃねぇかぁぁぁぁぁぁ
隣とか隣の隣の町の高校に通うんだよそんなとこ住んでるやつはよう!!
活気溢れすぎじゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ
過疎のクソド田舎なめんじゃねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ
人口1500なんてなぁもう瀕死、死ぬ寸前の町なんだよ!!!!!!!
実は三年時間がずれてたって?
きづけよぉぉぉぉぉぉぉ
とか思えよおぉぉぉぉぉぉぉぉ
仮に長く使ってたとしよう、まだ瀧がアイフォン5とか使ってたとしよう
気付けよおぉぉぉォォォォォ
なんかアプリのUI違うとか感じろよおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ
それで消防団集合してたの一瞬映りましたね。
なんで活動服きてんだよおぉぉぉぉぉぉぉぉ
そんな暇ねぇよ、普段着に長靴、制帽。それに法被羽織っていっちょあがりだよ!!!!!!!!
転んだとき転がりすぎwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
迎えに行ったてっしー
二ケツするからって律儀に黄色ナンバーの乗ってんじゃねぇよwwwww
ああもうとりあえずこんなもんでいいや
こんな賞もないことが気になって楽しめたけど感動はできなかったよ
てかさ、近くで観てたJKがもう感極まって泣いてんの聞こえてるの、すすり泣いてんの聞こえるの。
なのに俺
って暗いなかメモとってんの
何してんの俺
なに山の手線映るたび
とかウケてんの?
アホでしょ
馬鹿でしょ
クズでしょ
わたくし・・・
僕・・・
俺・・・
俺も・・・
俺も・・・
Dカップ(推定)の女子高生と入れ替わりたいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ
純粋さを取り戻したいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ
大体上記リストの作品の8割方プレイ済みの自分がそのリスト内の私的上位と遜色無しに評価するのだと
『ひまわり』 微妙にブレイクしきらなかった同人エロゲだが、見た目の軽さに反して内実骨太のSFと言っていい。
『鎖-クサリ-』 粗は多いが真のヒロインの内面描写が凄い。エロゲだから描けた"媚びてない"、覚悟を示したヒロインの魅力。
『僕と、僕らの夏』 多分世間的には『群青の空を越えて』のが高評価だけれど、派手な事件など無い中の登場人物たちの
心情描写をじっくり描いた、複数視点ものの醍醐味を活かした傑作としてこちらの方を評価したい。
『シンフォニック=レイン』 エロゲじゃないが作りは実質エロゲやろってことで。シナリオもだが故・岡崎律子氏の音楽も何より素晴らしい。
まぁ、並び的に元増田は当然の様にやってる気はするけど、まぁ参考用にこっちの好みの表明兼ねて。
↑に比べるとちょっと落ちるけど、ジャンルとしてのエロゲの懐の広さを示す作品としては
『天使憑きの少女』 を推したい。AngelBeats!が似たネタ取り扱ったけど、テーマの昇華具合はこっちのが断然うまいと思う。
『未来にキスを』も元長柾木枠代表かつメタエロゲ枠として、シナリオ系エロゲ中心にやって来たならやはり押さえておきたい。
『Quartett!』演出一点突破と言う方向性でのエロゲ媒体ならではってところで。
あとはminori系がスルーっぽいので、今をときめく新海誠ムービーをただのOPに終わらせずに
意味を持って作品に取り込んだ『はるのあしおと』とついでに『ef』辺りもやっておいて損無いんじゃ無いかな。
いまのアニメ映画の流れはあると思う。
「君の名は。」も「聲の形」も「この世界の片隅に」もけいおん!あたりからブームが起こった
美少女動物園系日常アニメとかのテレビアニメからの流れがある。
・ジブリアニメをもろに模倣して叩かれまくってもめげずに次の作品をきっちりハイレベルで作り上げてきたとらドラ大好き、イカ娘大好き釘宮病患者新海誠
・ややもすればキモオタの巣窟と揶揄されてしまいそうな「けいおん!」を馬鹿にすることなく、女子高生の日常を細部まできっちり作り上げた山田尚子
・ステレオタイプなアニメ玄人からすれば馬鹿にされかねないB級傑作漫画ブラックラグーンに真摯に取り組み、マイマイしんこで全然ヒットしなくても腐らずに観客を信じた片渕須直
すっごくよく使われてて、マスコミの皆様はなんの違和感もないようですけど絶対おかしいですよ。
ヒット飛ばせるアニメ監督がでてくると「ポスト宮崎」「ポスト宮崎」と連呼なさってますけど、全く意味がわからない。
この言葉をつかってくるのは、大衆向けの情報番組とかニュースサイト。
何をもって「ポスト」なの?
ありえねーだろ。
素人が見たって駿は唯一無二の才能だろ。
この先絶対塗り替えられないとはいわないけど、ちょっと想像できないよな。
てか、金額だけ取り上げて「二人目の駿になれ」っていってんの?
「ポスト宮崎」という言葉を投げられた監督はどなたも困惑しているのではないかな。
だって何をもってして自分が「ポスト宮崎」と目されるのかがわからないでしょうから。
大体アニメ監督だけじゃないですか?
駿ほど他を圧倒するような記録を持ってる人がいないからかもしれませんけど。
まあ、百歩譲って「アニメにおいて監督の名前で客が呼べる人」という意味なのかもしれませんけど、
そこに「宮崎」って名前がついちゃうと、変な意味が不随する気がする。
たしかにアニメーションというジャンルで表現しているってのは同じだけど、
オリジナル作品を作ってるのに「他者の名前+ポスト」って言われるの意味わかんないでしょ?
弟子でもないのに。
特に目指しているわけでもないのに、ポスト宮崎呼ばわりってなんなのよ?
追記
「ポスト宮崎」でどんな記事がひっかかるかなと思って、ググってみたらまーあるわあるわ。
それを見たら、あーなんだって思った。
まだ一般的には認知度の低いアニメ監督を取り扱う記事を読ませようとするだけに使われてる言葉だと。
それで、この意味わかんねえ言葉にイラついてるのは自分だけじゃないことにも気が付いた。
>「ポスト」には、継ぐ、的な意味はもともとそんなに無いです。
辞書をひけばそうなるってことはわかる。実際ひいたし。
でも使われ方としてはそれだけで収まらなくなってると思う。
最近の新海誠のトークショーでの受け答えを見てもらえればわかるけど、
質問者はともかく、新海誠は「ポスト」という言葉が駿と同様の作風を求めるような意味を持ってると解釈したんだと思った。
<新海誠監督>“ポスト宮崎駿”に「過大評価」 同じ方向では追いつけない…
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161112-00000008-mantan-ent
『君の名は。』大ヒットで新海誠も“ポスト宮崎”!? 細田、庵野……“ポスト宮崎”といわれたクリエーターたち
http://news.livedoor.com/article/detail/12052203/
「ポスト宮崎駿だと思うアニメ監督ランキング」というアンケートが取られたこともあるらしい。
>1位:宮崎吾朗、2位:庵野秀明、3位:細田守、4位:押井守、5位:大友克洋(6位に新海誠も)。
著名な監督名をあげただけの気が遠くなるような結果だ……
2ちゃんなんかでもポストは誰か探るようなスレがあったみたいだ。
そんなに駿的作品を求め続けるなら、人工知能駿でも作ったらどうですか。
もしかしたら、駿が化けてでてくれるかもしれないですし。
http://b.hatena.ne.jp/entry/www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=08006&f=prtw
短編やその他美術館の活動は積極的に続けるという話をさんざん方々で言われていたじゃない。
なのにこの、「またいつもの復活か」などと馴れ馴れしくのたまう雰囲気。
国民的アニメ監督としてなれ親しみを感じるなら、どんな発言をしたかくらいちゃんと読みなさいよね。
それに、もしちゃんとジブリとその周辺を追う気のある人間なら、以前のスタジオカラーのNHKスペシャルで、アニメーター見本市でCGアニメを作った若手監督がいま宮﨑駿と美術館で上映する新作短編CGアニメの「毛虫のボロ」を作ってることくらい知っていて当たり前なのよ。
http://anond.hatelabo.jp/20161101215841
レンタルDVDどころか、定期的に中古ビデオ屋に通っている。DVDにすらなっていない映像作品がいっぱいあるからだ。もっとハードコアな人だと、京橋のフィルムセンターに通って、ビデオ化されていない映画を見ている。当然のことだが、そういうのはネットフリックスでは配信されていない。
フィルム→ビデオ→DVD→ネットフリックスと、どんどん作品は厳選されていく。そこで選ばれるのは収益が見込まれる大衆的な作品だけだ。少数に深く刺さるマニアックなものは捨てられる。たくさんの映画が捨てられてきた。その中には、もし鑑賞していれば、あなたの人生を変えるような映画も無数にあったはずだ。父親からの手紙が何よりも泣けるように、一人ひとり、深く刺さるものは違う。その可能性が、たくさん捨てられてきた。
おそらく、ネットフリックスの次が出てきたとき、映像文化は荒野になっているだろう。そこにはディズニーと新海誠しかない。宮﨑駿はストーリーが分かりづらいからNG。ゴジラは男の子にしかウケないからNG。黒澤明はセリフが聞き取りづらいからNG。小津安二郎は役者が棒読みだからNG。そうやって捨てられていって、1億人中1億人が「いいね!」と言うものだけが残る。だけど、その「いいね!」はフェイスブックの「いいね!」と一緒で、表面的な共感でしかない。深層に突き刺さるものは、少数にしかウケない。みんな感性がバラバラだから。
そうやって表面的なものしか残らなくなった地球では、映画に深い感動を覚える人間をいない。1人もいない。誰もが「こんなもんだ」と……「上映時間分楽しめればいいや」と……その程度の感慨しか映画に持っていない。映画を見て人生が変わったり、苦痛から解放されたり、生きるエネルギーをもらったりすることはない。映画にそんな力があるなんて、誰も思っちゃいない。
でも、何かのきっかけで……好奇心旺盛な子どもが、友達たちとゴーストタウンを探検しようと……みんなで遠出して「神保町」と呼ばれていた土地に行くかもしれない。そこには廃屋と化した「かつて中古ビデオ屋だったもの」がある。子どもたちはそこにある分厚く不格好な記録媒体に興味を持ち、これが何なのか調べようと、街一番の長老を尋ねる。
長老は「ああ、これはビデオというんだよ」って……ただ一つ残っているビデオデッキに……子どもたちが持ってきたビデオを差し込む。
長老が再生ボタンを押すと、静かに映像が流れてきて……そうして、文字が映される……。
・
・
・
「CASSHERN」
・
・
・
Twitterで「小説・君の名は。」発売前後のツイートを検索してみると(小説 "君の名は" until:2016-06-19)、
中高生っぽいアカウントで「『君の名は。』を買った/買いたい」って言ってるのがめちゃくちゃ多い。
「新海監督が映画を先に見てって言ってるから小説を読むか迷う」みたいな。
発売三日で10万部で即重版っていう売れ方からしても、宣伝や店頭で売れたって感じじゃないよね。
(参考:たちまち18万部! 映画公開の期待をふくらませる新海誠最新作ノベライズ『小説 君の名は。』 | マイナビニュース)
あとは神木隆之介ファンとRADWIMPSファンも関係してくるけど、
なんでかって考えたら、答えは多分これ。
脇役を、プロットが求める台詞を言わせるためだけに動かしてる。
キャラクターが作り込まれていないから、その台詞や行動が唐突になる。
“脇役本人にとっての必然性”が見えないから、脇役が魅力的に見えない。
今回は絵としてのキャラクターデザインがしっかりしてる分余計に、脚本の上でのキャラの薄さが気になる。
これまでみたいに「ふたりの恋」を際立たせるためだけに最小限の脇役を配置するだけならそれでもいいのだけど、
これだけ多くの登場人物が動く物語となると、そうはいかない。けっこうな尺を彼らが埋めるんだから。
その上、脇役に尺を取られる分、主役の「ふたりの恋」さえ十分に描けてない。
「紐」という「結び」の象徴、「夢だから忘れる」という仕掛けも、
同じくプロット上必要だから置いてあるだけで、どうにも物語の流れの中で上手に出てこない。
脇役がそれを語る/見せる必然性が薄いから、ご都合主義的なセリフ・設定の開陳に見えてしまう。
俺の記憶の限りでは、これまでの新海作品だと基本的に物語は「男子×女子」のふたりだけで進み、
その恋の有り様だけがテーマで、他の役や伏線はそれを際立たせるためだけの小さな仕掛けでしかなかった。
だからきっと、慣れてないんだよ。
これだけの物語で、風呂敷を広げて、多くの登場人物を動かして、物語の中できちんと回収することに。
次の作品にはきっともっと多くの予算が付き、もっと多くの優秀なスタッフがアサインされ、
もっとがんがん広告を打たれて、もっと多くの期待を集めるんだろう。
本日記は、新海誠監督による劇場アニメーション映画『君の名は。』および『秒速5センチメートル』の結末に関する内容を含みます。
今日、新海誠監督作品『君の名は。』を観て、私はふたつのことを思った。
ひとつは、新海氏の監督作品でまだ観ていない、『星を追う子ども』と『言の葉の庭』を観てみたい、ということ。
もうひとつは、「新海監督って、一貫してるなァ」ということだった。「観てない作品があるのに、一貫してるかどうかなんてわからないだろ」
とは自分でも思うのだが、「一貫してるなァ」と思ってしまったのだからしかたがない。
『秒速5センチメートル』の二人は、なぜ最後に、本作のような形で、出会えなかったのかなァ、ということを考えた。
あの二人を、本作のような形で、出会わせなかったものはなんだったのだろう、『秒速5センチメートル』にあって、
本作になかったものなんだったかな、と考えて、それは、罪悪感とか後ろめたさのようなものではなかったか、と私は思った。
なぜ罪悪感なんかを抱くかといえば、「大切な存在を小さくしたのは、時の流れるままにした、他ならぬ自分だ」と思うからで、
一方の本作で罪悪感なんかを抱かないのは、「大切な存在を小さくするのは時間のせいでも自分のせいでもなく、
人智を超えた力によってそれをスパッと忘れさせられてしまうから」である。
喪失感はあるが、「喪失させたのは他ならぬ自分だ」という後ろめたさはない。
一緒に観に行った友人が、『秒速5センチメートル』で劇中の時間を多く割かれた恋愛のディテールが本作ではほぼ描かれないことを、
「欲をいえばもっと胸キュンしたかった」とか言って少し不満がっていたのだが、私はなんとなく、それはこんな理由じゃないかと思っている。
私の憶測に過ぎないが、『秒速5センチメートル』では、長い「時間」を見せることで、大人になった主人公が罪悪感というか、
後ろめたさというか、申し訳なさというか、そんな感情を抱いているのだと、観客に理解して欲しかったのだろう。
第2部以降、主人公が送る日々を見る観客は、「彼の心の中では彼女との思い出の領域はもう増えないのに、
その他の領域は大きくなるばかりだ」ということがわかる。
彼女の存在の相対的大きさの縮小に慣れようとする彼が、その「慣れようとした」という自覚によって、
思い出や、かつて抱いた強い想いを粗末にしているような疑念や後悔を感じ始めることも。
恋愛のディテールが長く描かれたのは、そんな第2部以降の時間とのバランスをとったからだろう。
一方、本作では、「何か大事なことが色々あったはずなんだけど、思い出せない」という、喪失感だけを観客に共有して欲しかったのだろう。
そのために、観客を「二人に恋をさせたものが色々あったのだろうけど、断片しかわからない」という状態に置くことを選んだのだろう、と私は思う。
本作で、再会を果たす直前の主人公は『秒速5センチメートル』のモードに入りかけている。
それは時間が経つにつれて、「思い出せないままにしている」自分を責める気持ちが徐々に強まるからだろう。
きっと、時間とともに何事かを忘却したり喪失したりすることに対して、罪悪感のようなものを感じてしまう、というのは、
しかし、本作の二人は再会できる。それはおそらく、本作の世界観では「忘れる」だけでなく「思い出せない」もまた、
時間のせいでも自分のせいでもないからだろう。「時間という要素によって、出会えなかった」物語を描いた人が、
「時間という要素がないのなら、出会える」という物語を描いたのだ、と私は思った。
新海監督の2作品、『秒速5センチメートル』と『君の名は。』の対比は、生花と造花を思わせる。
・元気にあったときに今の仕事が終わる、2ヵ月後に企画書出しますよと言った
・企画書を作りだしたのは提出1週間前
・初期段階で男女が入れ替わり、彗星が落ちて、最後に再開するという筋書きは出来ていた
・川村元気は最初チャラくて新海誠の典型的なイメージどおりの(いわゆる)プロデューサーが来たなと思った
・会議では如何に感情の起伏を作り出すかや、終盤で序盤の台詞との重ねあわせ等をしたほうが良いと指摘された。
・そのほうが皆感動して涙を流す。その一粒が興行収入いくらになるとか茶化しながら言われた。
・ラピュタのように、三葉(シータ)を物語の軸にして、語り部を瀧(パズー)にしたほうが良いといわれた。※元気に
・とりかえばや物語などの日本の古典や夢で好きな人を見た和歌などを参考にした。
・額につけている飾りは龍である
・RADWIMPSの野田洋二郎は童貞じゃないと思うけど、童貞力がある。※新海誠談
・結局二人(瀧と三葉)は再開したけど、再会した後にやっぱいろいろあるらしい
・安藤さん的にはもうちょい芝居の方向性を提示してほしかったらしい。
・今時のキャラデザの田中将賀の絵を使えれば(リアルな絵を描くのが得意だったので)なんか(典型的なアニメ的手法みたいな)新発見あるかもとおもっていたらご飯をよそったり意外と日常芝居が多くて大変だったらしい。※アニメではただ椅子に座ったりするだけとかの日常芝居(絵を描くの)はかなり難易度が高いといわれている。
・幅広い観客に観てほしいと思ったので全体的にはマス向けに作っているがファン向けにいろいろ過去作の小ネタを仕込んでいる
②があるかはわからない
b:id:msdbkm 出典は後日追加します。
b:id:watermaze 紹介の話は川口さんと新海監督の間で食い違っているので真実はわかりません。推測はできますが。
『秒速』の何ともいえない切なさが好きだ。
新海誠という人は「時間の冷たさ」みたいなものを描くのが上手い人だと思った。
また、アニメというある種「希望の塊のような世界を構築し得るもの」で
新海誠がアニメーションで、多くの人が憧れるであろう世界を構築していたことに驚いた。
例えるならば、独特の雰囲気を持った個人経営のカフェのマスターが、
ある日急に店舗をガストやココスにしてしまったような、そんな少し寂しい気分だった。
じゃあ今までのは大衆受けすると思ってたのか、と考えると何となく微笑ましいが
また以前のようなどうしようもない気分になる作品も観たい。
神木くんも
また『秒速』のような作品をお願いします、とインタビューで言っていて