はてなキーワード: 小説家とは
職場やその関係での飲み会でなされる、相手の子供や恋愛といったプライベートな話に興味がない、とにかく全く関心が持てない。心底どうでもいい。
どうでもいい話を延々とされてさもそれに興味があるそぶりで聞き入らなきゃならないのが本当に苦痛である
でも人間そのものに興味がないかっていうとそれもちょっと違うんだよなー
自分に直接関わりのない芸能人や漫画家小説家なんかには十分関心があるし、国内外の人権問題にも強い関心がある
ボランティアや習い事で出会った人とかなら家庭の話にも普通に関心あるし
「自分が相手からどう思われているか、それによって自分の進退に如何なる影響を与えるか」で頭が一杯になって
相手の事に関心を持つ余裕が無い
https://note.com/thibiki/n/n747d86799cd8
この人を擁護するわけではないが、編集者というか出版社に属する(あるいは属していた)人間が、個人として具体的な原稿料に言及するのは正直難しいだろうな。
というか外野は原稿料を知りたいかもしれないが、大体の相場は普通に編集者と仕事していれば教えてくれるので、漫画家はそんなに知りたいとは思わんのよね。
1回も投稿したことない新人漫画家くらいは知らないかもしれないが……。
1番良いのはレーベルとしての相場を記載しておくことだと思う。ジャンプ+を各編集部は見習おう。サイトくらい作れるだろうし。
https://rookie.shonenjump.com/info/entry/201907_blog
上記のサイトによると、ジャンプ+の「連載」の最低ラインは12000円。
これを見た時、個人的には流石ジャンプ系列のレーベルだな……と思った。
10年~数年くらい前までは、大手の最低ラインは7000円くらいと言われていた(エッセイ系はちょっと分からん)。
個人的な肌感として、一応その最低ラインは今もあると思うが、ほとんど8000円以上だと思うんだよなあ。
ただ増田は男性向けレーベルを主としているので、女性向けは最低ラインくらいが多い可能性、というかそれより低いかもしれない。
このマンガがすごい!とかでオンナ編があるのも仕方ない。ああいう形でスポットを当てないといけないジャンルだと思う。
話は少しそれたが、男性向け漫画の原稿料は低い時に比べたらいくらかは底上げはされているという印象だ。
ブコメにも少しあがっていたが、昨今溢れている「なろう系」はかなりあがっている。
少しぼかした表現になって申し訳ないが、大手のなろう系コミカライズの相場は10000円前後だろう。新人はもうちょい安いかな?
KADOKAWAやスクエニがなろうでヒットを連発していたところに、講談社(というかマガポケ)が参入し、作画作家は取り合いの様相だ。
自分の作品を読んでいないであろう編集者から連絡がくることもあり、条件は良いけどこいつテンプレメールで済ませているな……というのもすぐ分かる。
※そうじゃない編集ももちろん沢山いる。ベンチャー系の新興レーベルの編集者はこれをやりがち。これを読んだらすぐやめろよな?
引き合いは沢山あるから、条件の良いところと……という選択が、作画が得意な漫画家にあるのは個人的には良いことだと思う。増田も大体この辺の相場で仕事をしている(正確にはしていた)。
ちなみにこれは男性向けに限った話ではない。
女性向けのなろうコミカライズの相場もかなり高い。個人的には男性向け以上にレッドオーシャンな気もしているが……。
こっちはKADOKAWAと一迅社の市場というイメージだが、他の大手出版社が参入してくればまた原稿料もあがっていくのかもしれない。
が、低すぎるということはない。下がり続けている小説家の印税と同じくらいにはもらえている。
何より、なろうコミカライズは紙が売れなくても電子が売れる。そして電子印税は紙より高いので実入りが良い。
※紙の方が刷った分もらえるので、発売とのタイムラグなく収入が入ってくるのは助かるが
……という感じで、なろう界隈の原稿料はあがっているし、それに引っ張られる感じで周辺の男性向け作品の原稿料も以前よりは多少あがっている、というのが増田の実感だ。
実入りはよくなっているが、描いていて楽しいかはまた別問題である。向いてない作家になろうコミカライズをやらせてはいけない。
作品にはよるが、テンプレ展開なものも多く原作書籍を読むのが苦痛になってしまうこともある。でもそういうのが安定して人気な世界なんだよな。なろうは分からん。
最近ラノベはラブコメが人気らしく、そういったお誘いも増えてきている。なろう系よりはちょっと原稿料が低い印象。NTRの波が成年漫画を飛び出してきた。
エッセイとか4コマ、なろう以外の女性向け作品は分からず恐縮だが、増田にその辺の知見がある人は教えてほしい。
多分ぜんぜん違う世界の話に聞こえると思う。正直なろうバブルがすごい。弾けると言われててまだ弾けてない。
昔だったら多分成り立たず、コミックスの印税で何とか帳尻を合わせていたんだと思う。
でも今はデジタルの進化がすごい。少ないアシスタントさんでも豊富な背景素材や3D技術を使えば何とかなってしまう。
たまにアシスタント使わず描いてる人もいるくらい、今の作家はデジタルの恩恵を受けている(あるいは恩恵を受けているのは編集部かもしれない)。
とあるサイトで映画「メッセージ」の感想を読んだらひどかった。そこにあった感想やコメントをまとめると、話の本筋とは関係なく「中国の描かれ方が気に食わない!」というもの。「なんで中国が良い描かれ方してるんだ?」、「中国人をカッコよく描かないとハリウッドは映画も作れないのか」、「チャイナマネーはハリウッドにも及んでる。頑張れトランプ!」みたいな感想が散見された。
いや、原作「あなたの人生の物語」の作者が中国系アメリカ人だから作品の中の(アメリカ目線での)外国として中国出しただけだろ。日本人の小説家が舞台を日本にして登場人物を日本人にして小説を書いただけ。それが映画化されただけ。ネトウヨって常に韓国と中国が悪者になってないと発狂する病気なの?
どうしても許せなかった。彼氏はヒモ気質でデート代のほとんどを私に出させてデートプランは全部私任せという虚無キャだったけどそこまでは許せた。でもお前は障害者だから仕事や将来の夢から逃げていい、俺は頑張れって言わない、その方が嬉しいでしょ?そう言われたのがどうしても許せなかった。別れてくださいと言った。わかったと返された。あっけなかった。多分、彼は私のことをなんとも思っていなかったんだと思う。私はあえて嫌いになった理由を言わなかった。次の彼女にも振られろ。
でも大人になって夢を追いかけるのは恥ずかしいって自覚してる。自覚してるから辛かった。だって才能ないの知ってる。それでも諦めきれない。やれることはやってる。それは彼も知ってたはずなのになんであんなこと言ってきたんだろう。
愛されたいのに愛されたことがないから、ときめく恋愛が書けない。誰にも愛されずに人生が終わっていくことが怖い。誰かに愛されたら夢を諦められるかと思ったけど、愛されないから夢を取る。でも、そしたら夢が叶わなかった時私はどうなるんだろう。それがとても怖い。
軽く読めそうなものを買おうと思い、三冊を選んだ
背表紙に「映画監督になる方法」という企画の題が載っていて、気になって買った
監督や助監督にどうやってこの業界に入ったかや入ってから今までの印象的な経験をインタビューするみたいな企画だった
その中で一番笑ったのは楠田恵子の『”女子大生ポルノ”顛末記』
にっかつが監督、助監督、脚本、演出、演者、すべてを女子大生から募集する企画に参加した監督の愚痴みたいな記事
女子大生がポルノを撮るものだから撮影現場に取材記者が大量に集まり、撮影中にフラッシたくわ、演出中にはなしけてくるわ、邪魔だからどいてといっても無視されるわで全然撮影できず、スケジュールが遅れまくったみたいな話
監督本人があいつらマジ邪魔だったという話を素直に書いているのが呼んでいて痛快で面白かった
二冊目は『ハカタ巷談2』
筑前出身の金子才吉と言う人が長崎で酔って道端で泥酔していた英兵2人をなぜか斬り殺し、逃げて、筑前藩が金子才吉の身柄を確保し、犯人不明のまま匿っていたところ、イギリス公使パークスを含めた英国側が「どうせ土佐藩の暗殺やろ!」と激怒し、土佐藩ピンチになるところまで読んだ
元弁護士でミステリ小説家のガードナーが最後の法廷と言う民間機関を組織し、間違った裁判の結果、投獄された事件の真相究明を行うノンフィクション
ミステリ作家の語り口×現実の突拍子もない展開×1930年代の殺人事件みたいな感じ
古着屋でオーバーを売りに来たが断られた人を見かけ、直接1ドルで買って着ていたら、そのオーバーは殺された父さんのだと娘さんに証言されて捕まった男の話とか、小説だとクソ過ぎてそうはならんやろという読めない展開がページをめくるごとにつづいて面白い
高校の同級生に小説家志望がいたので、そういえば彼はどうなったのかと数年ぶりに名前を検索した。高校時代に何かの文学賞で賞を貰う程度には文才のある人間だったから、上手く行けばそろそろデビューしていてもおかしくないだろうなどと考えていた。もしこれで彼の名が書影やネット記事と共に華々しく紹介されていたら、ドヤ顔で周囲に自慢していたと思う。
グーグルの検索トップに出たのは、彼の本名が題された日記、というかnoteだった。
誰に向けて書いているのか、正直言って相当自分に酔った文章だった。本人の人となりを知っている身からすると笑える文だったけれど、つまらない日常を御大層に語っているだけなので、事情を知らなければただの自分語り乙で終わる。典型的なワナビだった。そんなものに数十ブクマがついていて、更には有料プランまで開設されている。つくづくネットサロンとは阿漕な商売と思った。立派な目標や感傷ばかりで結果が残せていなくても、ファンを囲い込めたら一定の反応は見込める。互助会かもしれないけど。
小説はあまり芳しい結果が残せていないようだった。自叙伝的な作品をフィクションという建前で公開していたので、読んでみた。事実に基づく部分の描写だけが妙に詳細なので、何だか笑ってしまった。
小説家になりたいとは言っていたけど、もはや小説を書くことを楽しんでいるのではなく、小説を通じて売名することが目的になっている印象を受けた。実際、即売会に出て小説を売っていたようだけど、派手なスペースで目立てば爆売れするという世界ではない。弱小サークルならそもそも手に取ってもらえないのに、彼の販売に対する意気込みはどうもズレているように感じた。自分は二次創作畑の人間なので、一次創作界隈だとまた事情は異なるのかもしれないが。
御託を並べる暇があったら短編でもいいから新作を書けばいいのに。
彼が日記に色々と書いていたおかげでどうでもいい情報ばかり知った。
てっきり慶應に入学したと思っていたのだが、知名度も微妙な謎大学に進学していたのは意外だった。悔しさを再三小説に滲ませるぐらいなら仮面浪人でもすればよかったんじゃ?
マンガ家がアシスタントを使うように、アシ使って書く小説家っているのだろうか(ビジネス書の作家なら本人が書いていることのほうが少ないくらいだろうけど)。
シナリオだと登場人物同士の日常会話の気の利いたセリフだけ書くライターがいると聞く。小説だとどうだろうか。
短編連作のようなつくりで一篇をまるまる別の人間が書くというのはありそうだけれど、そういう切り離したカタチではなくて、たとえば登場人物が新幹線で東京から広島まで移動する。乗車から下車までの車中の様子はアシが書く。作家はそのなかに心象風景的部分だけ書き加えていく、みたいな書き方している人はいるのだろうか。
だからファンとレスバになったとしてもアンチと違ってマジで顔のキモさと名前以外なんにも知らない
だって顔がキモい時点で情報を断ってるから サムネ見てすぐ避けてるから
だからたまに嫌いだった理由を忘れる時がある そういう時だいたいこれ
・横浜○星
空手チャンピオンなのに目隠し居合斬りで同性アイドルに飛びかかったから。たぶんバカなんだろうけど武道やってるんだったらそれぐらい理解しろ
・ピース又吉直樹
小説家ぶって偉そうにしてユニットコントの台本でとんでもない矛盾犯したから
当時Twitter見てたらリアタイで気づいたのは俺だけ。録画で気づいたのが2、3人いた
見た目アレでもせっかちだったりするしじろうさんとかもぐらさんが反論できないようにしてたのかな
今思いついた中ではそれくらい
ツイッターで昔の自分のツイート振り返ってみると今よりは確実にまともな日本語を喋ってる。
この10年ぐらいず~~~っと技術書と漫画しか読んでこなかった弊害が出ているように感じる。
日本語が下手になってるんだ。
なろう小説や新本格の新人に散々心のなかで言ってきた「うわっ……コイツこの日本語力で作家を名乗るのかよ……」が今度は自分に返ってきてる。
別に自分は小説家になるわけじゃないから大丈夫だと思っていたが、それでもやはり悔しい。
日本語は日常的に使うものなので、日常のクオリティそのものがカスになっているような感覚がある。
思考も言語優位なので、言語力の定価はそのまま世界に対する解像度や分析力を下げていくる。
もうおりわだ。
崩壊画は混じった。
本音を言うとそろそろ人生の中心となるような趣味を見つけたいんだよね。
必須要素としては
・自分が成長する要素がある
・生産性がある
・1人で出来る
・肉体的な才能が不要
・金がかからない
辺りかな。
あと人と関わるのは絶対にムリなので1人で完結したい。
ただ消費するだけの娯楽はいい加減飽きたのでやりたくない。
なんで旅とかグルメは違うんだよな。
他人や自然が生み出したものじゃなくて自分でなにか作る側になりたい。
なにより重視したいのがやることで自分のスキルに成長があるようなのかな。
だから盆栽みたいな自分以外のが育つだけで自分はあんま成長しないようなのはアカンの。
んでそうなるともう「小説を書く」ぐらいしか残らねえんだよな……。
でも小説を書くなら他人の小説も読まないと表現の幅が伸びないじゃん?
読むのに使ってる時間の割合で大まかに 漫画:技術書:技術以外の勉強:雑学:小説=6:2:1:0.5:0.5 って所かな。
小説1冊読む間に漫画50冊ぐらい読んでるんじゃねえかな実際。
じゃあもう漫画描けば良いって話にはならなくてさ、俺絵が全然描けねえんだ。
おーなるほど俺も一度考えたわ。
でもあれってガチャ1回10円弱するんだよね。
100回回したら1000円になっちゃうしガチでやりだすと意外と高くつきそうっていうかね。
あとそもそもの話だけど、俺あんま呪文の勉強は合わんかったんでやりたくない。
もっと言うとさ、半端に漫画っぽくするぐらいなら文章のほうがわかりやすいし、筆者の個性とかも出てまだマシじゃん?
勉強の本で雑に出てくる漫画とか、ドラえもんの学習漫画みたいな、文章で書いたほうがまだ面白いし分かりやすいんじゃないかって漫画にしかなりそうもないわ。
いやぁ~~~どうっすかな。
割り切って他人の小説読まずに小説書くか、他のを探すかだが……。
MMOとか艦これとかで自動的に狩りやレベル上げするためのマクロ作る奴。
どんどん効率化していくのが楽しくはあったんだが、クッキークリッカー系でそれやったら結局俺はゲーム側をハックしてなくてハックされる側にすぎなかったんだと痛感して飽きちまった。
創作やりたいってのも、ハックする側に回りたいって願望があるんだと思う。
他人が望むままにコントロールされてやるのって、会社で働いてると嫌というほどやってるし人生の前半ひたすらゲームでそれやってるから食傷気味なんだよなあ。
こういうときコミュニケーションが得意なら人を育てるのが楽しいんだろうけど、俺は生憎コミュ障だから直接人間と関わりたくねえんだわなるたけ。
いい趣味知らねえか?
ゆーて一日5分HIITやるだけだがな。
僕のツイッターの使い方は、仕事や趣味が合いそうな人をフォローして、あまり交流はとらずにTLを充実させていくタイプ
同業の人をフォローしていたはずだったが、いつの間にか可愛い自撮り画像がTLにあがってくるようになった。
数年すると、きらびやかなお店の写真がTLにあがってくるようになった。
どうやらそのフォロワーさんがキャバクラ的なお店を始めたっぽい。
そのうち可愛いお姉さんたちの写真がTLに上がってくるようになった
その人の同業の方を宣伝の手伝いをしているようだった。
今は釣りクラスタの人になってったり、小説家デビューを目指していたり、イラストを主にあげる人になっていたり、ラーメンの画像ばかり上げる人になっていたり
最近見ないなぁと思ったフォロワーさんのアカウントを訪ねると、「全員死ね」とだけ残して数カ月ツイートしていなかったりということも多くあった。
人生いろいろだぁ
人間様が手ずから描いた絵や書いた小説を大量に学習して出来てるのがその手のAIなんだろ?
AIは人間様という師匠がいなきゃ一切何も生み出す能力はない訳だよな
なのに何故か持て囃してる奴らは師匠へのリスペクトどころか師匠はもういらないだの廃業しろだの死ねだのギャーギャー猿のように喚き散らしている
それともああいう猿は自分達が絵師()やら小説家()と名乗れるならなんでもいいんだろうか
AIに呪文流して生成させてるだけだからやってることは編集者もどきでしかないんだが
変身ヒーローものや異世界転生もののように自分は何の努力もせずに何らかの能力を手に入れられたと錯覚してるんだろうか
「生きづらい私は発達障碍者でした」というタイトルでツイッターで掲載された漫画がある。名指こそされていないが、この漫画を痛烈に批判したはてな匿名ダイアリーの投稿がここ数日、バズっている。
私はこの投稿を見て、元の漫画を知った。この漫画はもちろん描写は拙いし、よく書かれているわけではない。しかし、私は作者に書きたい内容があり、そこにはある程度の普遍性があり、結果としてエンタメになりうると思った。この漫画を自分なりに読み解いてみたい。作品と、それに対する酷評へのリンクは一番下に載せてあるので、背景を知りたい方は先に見てみてほしい。
この作品は以下の流れで進行していく
1. 若い頃、仕事がどうしてもできない。努力をしてもうまくいかず、職を転々とする。
2. 結婚し、仕事を辞める。子どもが生まれる。子どもが成長し、発達障害と診断される。
3. そこから自分が発達障害かもしれないと思い、自分もそう診断される。
4. これまでの自分の生きづらさは自分の怠慢のせいではなく、発達障害のせいなのだと知り、気持ちが楽になる。
5. 自分の人生はやり直せないが、せめて子どもを同じ発達障害を持つ身として親身になって支えてやれるかもしれない、という前向きな気持ちになる。
まずはっきりさせておきたいのは、この漫画では主観的に(もちろん客観的にも)発達障害を克服する(した)描写はない、ということだ。ライフハックを駆使して職場でのパフォーマンスを改善したとか、婚活してなんとかいい男を捕まえて、家事だけして楽に生きられるようになった、という話は書かれていない。批判にあるような(王道漫画における)主人公の奮起・成長・挑戦・勝利などはこの作品に全く関係はない。そもそも作者自身が発達障害を克服できていると思っていないのだから。
またこの作品に、理解のある彼くん、という要素を見出すのは筋違いだ。そもそも結婚して子供が生まれた、というだけで、果たして夫が発達障害に理解があるかすら書かれていない。伴侶ができたから人生が楽になった、という話にはなっていないのは明らかだと思う。
この作品において作者は自分は発達障害を克服することはできず、また辛かった過去をやり直すことも出来ないが、発達障害を認め、前向きな意味(同じ発達障害を持つ子どもを理解してあげられる)を見出す。これは受容の物語として読むべきだと思う。
ある意味で焦点がはっきりしている(必要な要素しか書かれていない)のでこの物語を克服者・成功者の語りとして読む人は理解できない。以下においてはこの話を受容の物語として読み、その普遍性について語っていきたいと思う。
あると思う。少なくとも私には感じ入るものがあったし、発達障害をもつ人間にとっては十分に共感できる作品だと思う。
私は(診断こそされていないが)明らかにADHDで、中学生や高校生の頃には大変苦労した。当時は発達障害という言葉が一般的ではなかったので、この作者のように、怠慢であると周囲に思われていたし、そのため自己評価が本当に低かった記憶がある。
この作品を読んで、大人になり、ADHDという言葉を知って衝撃を受けたことを思い出した。自分が宿題を出したり、授業に集中できないことは自分が悪いのではなく、あくまで発達障害というものだったのだと知ることで、自分の過去をやり直すことはできなくとも、何か気が楽になった。また、ADHDのことを知ることで、自分の将来をより良いものにしよう、という前向きな気持ちができた。
このような経験は、発達障害を持つ人間には珍しいものではないと思う。少なくとも発達障害という言葉を知らずに、自責の念に苦しんでいた人には刺さる内容なのではないか、と私は考える。
私はあると思う。どうしようもできないこと(発達障害に限らず)があって、それを克服できないまでも、そのことを前向きにとらえよう、という話は小説や映画などによくあるテーマだ。
私の好きな映画に「海よりもまだ深く」という映画(海街diaryと同じく是枝裕和監督)があるが、これもまさに上のようなテーマで書かれている。一冊だけ売れた冴えない小説家である主人公が、自分の人生を受け入れられずあがくが、裏目にでるばかり。母、別れた妻、子どもとの一夜を通じて、自分の上手くいかなさを受け入れ、前向きに背筋を伸ばして歩き出す、というのがこの映画のシナリオになる。この映画の前後で主人公の状況は何もよくなってはいない。ただそのままならない状況を受け入れ、そこから一歩踏み出そうとすることが作品における救いになっている。
この例のように、うまくいかない自分を受け入れ、前向きに歩き出す、というテーマはフィクションにおいては特に奇異ではないテーマだ。「生きづらい私は発達障碍者でした」という作品は、描写が稚拙で駆け足であるという問題点はあるにしろ、その伝えたいテーマは普遍的で、エンターテイメントとして成立しうる要素があると思う。
昨今、強い言葉で作品を斬って捨てるという批評がもてはやされる傾向にある。しかし作品を読むということはもっと地味で、注意を要するものではないか。私自身は何か批評の専門的な教育を受けたわけではないが、作者の意図を理解し、誠意をむって向き合うことをしてきたつもりだ。この文章を通じて、作品を虚心坦懐に読み、丁寧な読解を心がける人が一人でも増えればと思う。
以下に作品へのリンクと、はてな匿名ダイアリーの投稿のリンクを載せておく。
https://twitter.com/fukufuku_diary/status/1581977574023913472
https://anond.hatelabo.jp/20221020011014
またはてな匿名ダイアリーの中で一人、簡潔にいい批判をされている方がいたので、その人の投稿へのリンクもここに載せておく。自分と同じことを考えている人がいたので、少しほっとした。
『「言語性IQ高・動作性IQ低・学力が高くない・知能も高くない」の組み合わせな人や、処理速度が低い人の適職はガチで存在しないのよね』
というツイートを見掛けたけれど、言語性IQ高なら小説家とかには向いてるんじゃね?
遅筆で有名な作家でも専業やれてる人が存在するし、バトル・ロワイアルの作家なんかはデビュー作がめちゃくちゃ当たって以降は遊んで暮らしているらしい。
まあ、今はなろう系の隆盛で小説も供給過多になったから、それも難しそうだけどさ。
でも何か一つだけでも高いものがあるなら、それって何の取り柄の無い人ではなくね?って思う。
TPOというのは元々ファッション用語であって、その概念を持ち出すならば「文化的営みの自由」のレイヤーで議論しなければならない。
しかし、
という事例を持ち出すということは、(それ自体に侮辱の意図がないことは理解出来るとは言え、)「性的営みの自由」または「政治的営みの自由」のレイヤーの議論にすり替わってしまっている点には注目する必要がある。
TPOとは例えば、「見せパンも休日のファッションとしては自由にすればいいけど、会社に着てくるのは空気読めてないよね」というような議論でなければならないはずなのに、いつの間にか「恋人とセックスするのもプライベートでは自由でいいけど、往来でやったら露出狂だよね」という話にすり替わってしまっている。猥褻物陳列は犯罪行為であり、もはや「TPO」の話ではないのに、これに反論すると「TPOが守れない人」というレッテルを貼るのは卑怯だと思う。
いや、これは卑怯というよりも、単に人々が「TPO」という概念をそもそも誤解しているのかもしれない。だとすれば、「これは性的営みではなく、文化的営みあるいは政治的営みだ」という異なる反論が必要になる。「マジョリティとは異なる文化圏が存在する」ことに理解と敬意を求めなければならなくなる。
何にせよ、このような粗雑な議論から始められてしまうと、反論する側も複数の全く異なる論点を同時に進めるという難しい対応を迫られてしまう。このように言語化の労力を押し付けられてしまうと、必ずマイノリティ側が不利になる。
また、例えばコラボとして行政や公共、社会に参画することにはアファーマティブアクションとしての側面があることも無視してはいけない。
これまで世論が空想性愛者およびそれに類する人々を不当に弾圧してきた歴史を反省するならば、多少のはみ出しに対して、「批判の自由」の名のもとに思い付きの言葉で口汚く罵るようなことは厳に慎まなければならない。何らかの批判があるならば、まずマイノリティに対する敬意と聞く耳を持って、丁寧な論考から対話を始める必要がある。
https://murakami-haruki-times.com/jerusalemprize/
もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。
そう、どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます。正しい正しくないは、ほかの誰かが決定することです。あるいは時間や歴史が決定することです。もし小説家がいかなる理由があれ、壁の側に立って作品を書いたとしたら、いったいその作家にどれほどの値打ちがあるでしょう?