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はてなキーワード: 安易とは

2024-04-04

差別ダメだが区別大事だろ

某🍵の今年度入学・入寮したトランス女性の話をXで見かけた。

私は女子大学で働く教職員の一人だが、トランス女性女性とみなし、入学許可するのには反対である

トランス女性に対しての嫌悪感があるわけではない、少なくとも自覚する限りではない。恋愛をするのも、性的欲求を感じるのも、衣服を着るのも自由にすればいいと考えている。

大学生の時だったか、ある講義の初回で「差別区別の違い」について考えて、それを授業の最後に提出しなさいと言われたことがあった。

自分がその際どのようにミニレポートを纏めたかは覚えていないが、少なくとも私は「区別することは大事なことである」と考えている。

男性男性に恋をするのも、化粧をしスカートを履くのも。女性女性に対して性的欲求を抱き、身体性別女性である生徒が学ランを着るのも問題はないし、不思議に思わない。むしろそれに対して意を唱えるのは「差別である」と感じる。

だが、トランス女性であっても、男性であっても、身体性別男性である人が女性トイレ更衣室、風呂に入ることについては反対である

その理由として、以下の点が挙げられる。

トランス女性の中でも見た目を限りなく身体女性に近づけている人もいれば、そうでない人もいること。

→入って来た人の見た目が「身体性別男性」寄りであるほど、「身体的・精神的共に男性である」人との違いがわからない。

トランス女性であり、同時にレズビアンである人もいること。(身体性別男性であり、精神性別女性であるが、恋愛性的対象となるのは女性となる)

→お手洗いや更衣室、公衆浴場といった場所自身性的対象になりうる相手がいる状態となってしまう。

(これについては身体女性であり、レズビアンである女性も同じではないか、という意見もあると思うが今回フォーカスを当てているのはトランス女性についてである)

安易女性施設トランス女性使用許可すると問題がある」と言いたいわけではない。女性相手に性加害を行うのが男性であることも女性であることも、トランス男性であることもトランス女性であることも、どんな性別でもありえることだ。だが、そういった危険に晒されにくい場所(女性専用トイレ・浴場)で身体性別男性である人がいるとなると、「ここは安全場所である」とは思えなくなるのではないだろうか。

件の女子大についてもそうだ。

女性として、女子大学入学し、女性として入寮し生活をしたいという女学生感情を全く理解できないわけではない。だからこそ、学生には問題はないと思っている。

しかしながら、学校はどうだろうか。身体性別男性である学生女子生徒として入学することについて、学生保護者に報告をしただろうか。入寮することを報告しただろうか。学生にそれを話しただろうか。その上で皆「問題ない」と答えただろうか。無論、それらに全て「はい」と答えられるのならば、このような問題にはなっていないだろう。本件については、学校の周知不足、浅慮が招いた結果であると思っている。

まだまだトランスジェンダーというもの、LGBTQと呼ばれるものについての社会的理解は浸透していない。区別差別の他に人は「感情」のある生き物であるから、皆が「良い」と言えるような社会を作るのは、かなり困難な道ではないかと考えている。

つかこぼやき時代にそぐわないものであると捉えられる日が来たらいいのだが。

2024-04-03

anond:20240402225306

こういう生成AIの使い方を本質的理解していない人が凄く多いし

そのあたりを理解できないやつが「独占される」などと嘯いているにすぎない

この例で言うと「プログラミングコーチができる」というのは合っているんだが

重要なのは自分のためのコーチが手に入ること」であって

これは大量の質の良い情報が手に入るような世界より圧倒的に知性を民主化する

過去インターネットだろうが図書館だろうが、大量の質の良い情報が手に入ような世界では一部の人しか知性を提供できない

質が良かろうがなんだろうが大量の情報普通人間は処理できないし

人によって「情報の質」という定義が違うので、ある人にとっては優良なコンテンツでも別の人にとってはそうでない

例えば「やる夫で学ぶプログラミング」というコンテンツと「詳細プログラミング入門」というコンテンツ

どちらが優良かは人によるのだ

生成AIはその名の通り「生成」することに意味があるのであって、検索することはそれほど重要では無い

重要なのは、既にある大量の情報を「個人カスタマイズした形に生成し直す」という特徴だ

Googleがこれまでやってきたことは「世界情報検索可能にすること」であって

それには大きな意味があったし知性の民主化も起きた

ところが「情報検索可能になること」と「自分がその情報を得られること」がイコールでは無かったことが問題

情報が膨大になるにつれてそれが顕著になってしまった

昔は(一部の人にとって)質の良い情報検索ですぐに出てきたかもしれないが

より広範かつ良質な情報を得るためにマネタイズ承認欲求刺激でコンテンツ生成量を増やしたこと

それらの良質な情報は出てこなくなった、と言えなくも無い

ただしこうした現象は失敗なんかではなく、「検索可能になった世界が生み出す情報」としては必然なのではないか、と思う

当然ながらGoogleもそれに気付いていたので、検索のパーソナライズを進めたりGoogle+を出したりして試行錯誤したわけだ

それらさまざまな取り組みのうちの一つとして、「情報自分が得られるような形に変換する」ことが可能になったのが今の世界である

これを理解しているかどうかで生成AIの使い方は大きく変わる

例えば画像生成AI

美少女を生成して」

と言って出てきた美少女を見て好みじゃ無かったとき

所詮は生成AIなんてこの程度」

と諦めて終わってしまうのではなく

もっと目は大きく」

「鼻筋はくっきり」

などと注文をすることで「自分が得られるような形に変換する」のが生成AIの使い方になる

プログラミングコーチに対しても

Promiseってどうやって使うの?」

と聞いて答えを得るだけでは無く、自分理解できていない部分を聞いたりすることが重要だし

なんなら「語尾ににゃんを付けて」とかいう感じにカスタマイズすればより知識を得やすくなる(人もいるだろう)

生成AI知識民主化する、という言葉の背景にはこれぐらいのことがあるので

「昔は良かった」

というような安易発言は控えるべきだと思う

2024-04-02

anond:20240402011818

ジャップメスっていつも金ない金ないって言ってるよな

一瞬で大金稼げるから安易ホストメンズ地下ドルに貢いでるんだろうけど

2024-03-31

オッペンハイマー見に行く人は注意して欲しい

エンタメはかなり少なかった

たとえばイミテーションゲーム結構エンタメ感あったよね、チューリングマシンは直接ひと殺してないからね

 

文脈としては、オッペンハイマー周りのゴタゴタ(たぶんアメリカ人的には散々擦られた話)がメインの映画だった

登場人物の紹介がほぼされないので、その膨大な前提を知らないと展開の6割は付いていけない

ある程度原爆周りの話は知ってたつもりだったけど、レベルが足りなさすぎた

小説に近いね構成

物語おっさんの会話が90%

 

オッペンハイマーの生涯が知れる〜という感じでもなかった

何ならオッペンハイマースパイだったのか?あたりの掘り下げが5割だったんじゃいか

 

登場人物がとにかく多い、覚えるべき人物だけで15人超えてると思うんだけど、それ以外の覚えたほうが良いのかな?なモブが30人は居る

これも史実を元にしてるからだろうね

 

面白くないとは言わないし、あまり居なかった主人公だし、意義もあるしよくやったと思うし、シンゴ好きな人かには受けそう

だけど安易エンタメ求めていくと火傷する

そんな作品

 

理解を助けるためのわかりやすくする仕掛けみたいなものもかなり少なかった

これはクリストファー・ノーランらしい、悪い意味

時系列がね、3・4本くらいあって行ったり来たりしてるの、最初どの順で起きたのかわからなくて混乱した

これも史実を元にしてるから「このシーンは知ってるよね」で描かれてる気がする

 

あと長い、そして濡れ場ががっつりある

 

____

 

それでこれバズってたのか

https://note.com/dj_gandhi/n/ncf406716af1f

 

読んでから行っても良いか

 

最低限、覚えてから観たほうが良い人物

 

ルイスストロー

原子力委員会の偉い人

オッペンハイマーを所長に抜擢した人

なんか対立してる

 

マジこいつは途中で「誰だっけ?」ってなる

今見終わって調べても「で、誰だこいつ?」ってなるね

3周してもわからんかも

やっぱ物語の描かれてない部分が多すぎて、三国志とかそういう感じになってる

 

苦手

皆そんなに「死ね」「殺す」と言い合いたかったのか

意外だわ。

俺はもう疲れたよ。

実行する気のない脅し文句を振り回しあってお互いを牽制したり挑発しあう文化

そうやって「殺す気のない死ね」を繰り返しながらじゃれあってるうちに言葉がどんどん意味を失っていったんだろ?

「今回は流石に我慢できませんよ」

「訴えますよ」

といった言葉さえもマジメに受け取らない文化はそうやって生まれてきたんじゃないのか?

そんでもあってある日本当に訴えられて「え?仲が良いもの同士の冗談じゃなかったの?本当にそんなに気にしてるなんて😭」と、さも不意打ちを食らった自分こそが被害者ですよみたいな顔するカスが世の中に溢れたんだろうが。

実行する意志のない言葉を吐くのはもう辞めにしろ

死ね」と言うなら本当に殺すつもりになってから言え。

「死んで欲しい」という言葉は「夜道に気をつけて欲しいどす」という意味だってことを自覚して、自分が本当に暗殺しに行く3日前まで口にしないようにしろ

言葉安易に振り回すんじゃねえよ。

伝達手段に余計なノイズを紛れ込ませることの害悪について今一度考え直せ!

酒の次は砂糖規制される←これどういう意味

酒・煙草砂糖ってぜんぜん違うよね?

酒→薬物。酩酊状態になって頭がおかしくなり、突然人を殴ったり、ひき逃げをしたりする様になる。摂取してない人間に多大な害を及ぼすリスクがある。

煙草→薬物。副流煙によって吸ってない人間の気管支や粘膜を傷つけ、鼻炎や肺がんにする。摂取してない人間に多大な害を及ぼすリスクがある。

砂糖→食物。食べすぎると栄養バランスが崩れて太る。虫歯にもなりやすい。摂取してない人間に多大な害を及ぼすリスクはない。

油→食物。食べすぎると栄養バランスが崩れて太る。腸内環境が荒れて肌荒れになる。摂取してない人間に多大な害を及ぼすリスクはない。

上の2つと下の2つ、最も大きな違いは明白だよね。

摂取してない人間に多大な害を及ぼすリスクがある」の部分だよ。

酒を飲みまくってパッパラパーになった人は人間としての理性を失って暴力強姦窃盗なんでもやらかす犯罪者予備軍に早変わりするわけだ。

本人はあくまで「酒を飲んで気持ちよくなりたかった」というだけなんだろうけど、その果てにあるのは1人の犯罪者と無数の被害者

この悲劇を防ぐためにも、酒に対しては一定規制が行われているわけ。

煙草については人前で一本吸って一息吐いた時点でもう既に周囲に対して害が出てるんだよね。

呼吸器が強い人はあん分からんだろうけど、弱い人間からしたらあの毒性は尋常じゃないよ。

鼻の奥にチクチクとトゲを突き刺されるような痛みさえ起こる。

あんもの他人に吸わせておいて「誰に迷惑かけているわけでもないだろ」と言い張れる神経が信じられないね

酒も煙草も明確に「他人に害を及ぼす可能性がある」わけですよ。

油や砂糖のとり過ぎでブクブクに人った太が電車で2席分専有してるとか、代謝がぶっ壊れて凄い悪臭を放っているとか、ああいうのは確かに周囲への害かも知れない。

でもあれってカロリーの過剰摂取で起きているものなのであって、その原因が砂糖のもの性質によるものかと言えば違うんだよね。

量なんだよ。

タンパク質であっても過剰に接種すればブックブクに太ることが出来る。

デブの人がおかしいのは、自分の消費カロリー以上に食べてしまうことであって、食べている物自体普通食べ物なわけ。

この話をすると酒飲みが「じゃあ酒飲みだって、飲みすぎなければ問題ないだろ?」と言うんだけど、酒の持つ性質がその「飲み過ぎ」を抑制するための機能人間から奪うことが問題なんだよね。

酒を飲むと判断力が落ちていって、自分が飲みすぎているかどうかさえ分からなくなって、限界を超えて更に飲んでしまい、頭がおかしくなって被害妄想から周りの人を殴ったりするようになる。

でも砂糖や油の場合は、そういった人間の脳を破壊する効果全然少ない。

塩や香辛料のような舌に痛みを伴う刺激物の方が、痛みに伴うアドレナリンによって人間の脳をおかしくする効果があるとさえ言える。









「じゃあ塩を規制するべきじゃないか!」だって

今更かい

散々「砂糖規制されるぞ!」と言ってきて、こっちがポロっと塩の話をした途端に、旗をすげ替えるのかい

まりね、君等はその程度の理解調査しかしてないってことだよ。

多くの人がちょっとした豆知識程度に知っている程度のことさえ分かってないし、わかろうと調べる気もないから、安易に「酒が駄目なら砂糖も駄目だろ!よく知らないけど!」って喚き散らすんだ。

もうちょっと勉強してから発言しなさいよね。

anond:20240331024438

取り返しのつかない行動を安易に勧めてくる無責任コメントに惑わされないようにね

2024-03-30

歌詞に”Moonlight”が出てくる歌はゴミ

月の光(Moonlight)で雰囲気を醸し出そうとする、その発想の安易さに虫唾が走る

Moonlightが出てくる歌はもれなくゴミである

ちなみに映画ムーンライトゴミである

2024-03-29

リニア新幹線2027年開業断念の報を見て

電車好きとしては、安易に「静岡県知事がゴネてるから話が進まない!けしからん!」と思ってしまものの、

彼も県民代表として知事の座に就いている訳なので、県民としては彼を担いでいる理由があるんだと思う。

そう思ってはいるけど「県知事県民のためにこんなことをしてくれた」「外から見たら分からないと思うが県政としてはしっかりやっている」という話を聞いたことがない。

フィルターバブルで同じような電車好きの意見(≒川勝知事に対する否定的意見)だけが聞こえてきているのかもしれないので

誰か川勝知事の良いところを教えて欲しい(特に静岡県民)。

ただのゴネ得おじいちゃんが一つの県のトップにいるとは考えたくないんだ。

2024-03-26

そう、散々酷い言葉を投げ掛けて

ネットリンチ常習犯たちは、

加害者自分じゃないですよと無残に言い放つ。

相手の顔や状態想像できないまま安易

全て学校教育の賜物だろう。

国語倫理を教えるのに莫大な資金を投じても、結局人の立場理解できない人はいる。

当たり前のように他人を傷付け、何者へも共感しない。

人と人との交流はそこにはない。

大阪弁を使って、まるで関西人のような雰囲気を滲ませてはいるが自分出身地に誇りもない、ただの共通言語としての大阪弁

何をしても無罪放免として許されている訳ではない

無駄にしている時間無駄にした自分に返ってくる。因果応報

2024-03-25

相対主義は悪い」というよりも

この間、SNSである議論に参加というか巻き込まれて、私含めた数人の参加者レベル的にそれで結局答えなんか当然でなさそうな雰囲気だったので

「結局これはどっちもどっちってことなんじゃないの。こんなことしてるより別のことをしたほうがいいよ」みたいな返事をしたら

「それは悪しき相対主義だ」「相対主義の皮を被った保身でしかない」みたいなことをある人からいわれた。(「別のことをしたらいい」というのが相対主義?なのかはよくわからん

でもそいつ全然自分意志があるのか怪しい話しか出来てない感じだったが。

しかし、この10年ぐらいの間に、「相対主義はとにかく悪い」という人たちの意見が目に付くようになった。

今日晩御飯の内容からガンダムみたいなアニメ評論日本アジア歴史問題認識の差まで。軽い話題から深刻な内容まで、一つの物差しでそれぞれの問題を計るわけにはいかないにせよ。

でも「相対主義責任放棄であり社会問題の根源~」みたいなことをいう人はリベラル側に結構いる。

資本主義でも社会主義でも、いじめっ子でもいじめられっ子でも、ドリフでもひょうきん族でも、連邦軍でもジオン軍でもなく、相対主義

ほとんどの日本人は6・3・3制の学校で、まあ、社会処世術とでもいうものを学ぶはず。日本人の「思想」「思考」が問題にされるとき、大体学校教育まで遡って批判されることが多い。

でも、私は小学校から高校まで「相対主義」なんて学んだことはない。相対性理論はあるけど。大学でも、ゼミでいろいろやったが、具体的に相対主義とは言わないにせよ「中立的」な見方記述をするようにはいわれた。

我々もそうだったが、年に何十万人の若者が、中卒・高卒大卒のいずれであれ社会に旅立ち、この社会構成する。そしてほとんどの人々は、リベラル派の危機意識からすれば(どう形容していいかからないが)、「相対主義」者ということだ。

学校で、国が定めた教育課程により(理系は一先ずおいといて)国語社会公民・図工美術音楽語学道徳などの授業を6年間や3年間学び、家庭生活も過した人々が、学校を出る時には「相対主義」者として再生産される。

そしてそれは悪いことなのか、私にはわからない。この国は民主主義であり、自由主義であり、自分思想を選ぶ権利があり、その上で、多くの人々は確固たろうが適当であろうが、相対主義選択し、それで別に社会を維持できている。

少なくともこの社会のかなりの部分が、毎年再生産される「相対主義」で維持されているのは事実だ。相対主義者による虐殺であるとか強制収容であるとかも見聞きしたことがない。何がよほどの悪なのだろうか。

逆に、「相対主義であることを徹底的に拒否する教育生活とは何なのだろうか。

私は相対主義への批判を見るたびに、言っている人々の普段言動比較しても、なんだか検閲全体主義に近しい論調だなと感じ続けている。

社会の授業で世界の国々や選挙制度について学ぶときに、ある国は素晴らしく、ある国は劣っていると教育するのだろうか。ではその上で日本立ち位置をどう教えるのだろうか。

ベートーベンの曲を聴いたりピカソの絵を鑑賞した時に、楽譜や色調に現れる技巧は別として、徹底的に「ベートーベン」「ピカソ」の何たるかを国が定義し・教師もそれに盲目的に従い・生徒に刻み付けるのだろうか。

(よく相対主義の引き合いに出される)機動戦士ガンダムを視聴するときに、連邦軍ジオン軍のいずれかが徹底的な善であり対極は悪であると必ず親御さんが傍で「アドバイス」し続けるのだろうか。あるいは制作時まで遡って指図されるのか。(ゆうきまさみがそんな漫画描いてたな)

相対主義決断責任拒否かもしれないが、では非・相対主義決断責任日常的な強制にはならないのだろうか。それは反世俗主義的なカルトや閉鎖的な集団思考(例えばエホバの証人、旧統一教会搾取目的とした自己啓発セミナー戦前日本政治など)とどう違うのか。

これらの集団若者二世三世信者に対してどう当っているのかも含めて。

もっと言ってしまうと、リベラル的なさまざまな批判や許容の精神は、人々に曖昧に巣食う相対主義という岩盤の上で存続できているのではないか

長々と書いてしまったが、私としては、相対主義であると言われることは受け入れた上で、それが悪いとか変わるべきだとする思考には至らなかった。

ただ考える中で、他の問題も含めて、「教育・学制」というものはかなり意識する必要はあると思った。

毎年、「相対主義」であり、「自民党を『安易に』支持」し、「映画音楽を『表面的』に」しか鑑賞できず、あるいは「胡散臭いやり取りを『プロレス』、くだらない文章を『ポエム』と呼ぶ」大衆再生産されている。

そして大学教授活動家いくら「再教育」しようとしても改まることはない。果してこの毎年の大衆再生産の渦とでもいうもの「悪」「間違い」なのだろうか。

anond:20240325135036

読者にとって安易に見えても、

新人漫画家にとってはそれが全てであることはあろうと思う

安易に「安易に死を語るな」とか語るな

安易に「安易に『安易に死を語るな』とか語るな」とか語るな

2024-03-24

わたし、このパイきらいなのよね」は作品を変えるセリフだよね

少女が知らない土地仕事を始める

 

脚本パターン

お客さんにありがとうと好印象な対応をされてハッピー

基本的子供向けのエンタメ作品ではこうなる

不安だったけどお仕事楽しい

 

パターン

仕事で失敗して、お客さんに怒られて萎え

問題解決したり、落ち込んでいたところを誰かに励まされて、パターン1へ至る

よくある少女向けアニメではこれ

 

パターン

仕事はうまくやるが、お客さんから理不尽なことを言われる

仕事ってクソだわ」の流れ

小説や、映画なんかの一部ではこういうの多い

 

他いろいろ

 

魔女宅パターン3なんだなってこのセリフだけで分かる

よく言えばメッセージ性があって現実的であり、悪く言えば説教臭く安易ハッピーがない作品

エンタメ的ではなかったから、個人的にはキキに可愛さが無ければ楽しめなかったと思う

はやおは少女に向けて作ったらしいけど、20代くらいの方がウケるんじゃないかと思った

 

ところでパターン3だから魔女宅はいいみたいなのはちょっと違う気がする

あくまで色が変わるだけ

千と千尋の神隠しとかってパターン2なんだよね、理不尽なようで皆優しいからね

魔女宅は皆優しいようで突然刺してくるあたり、パターン3なんだよね

 

ただパターン3ってやり方間違うとすげー臭くなるから、その点「わたし、このパイきらいなのよね」は絶妙なチクチク言葉でいいよね

別にキキも大仰に傷ついてないし

ていうか魔女宅は大きな傷つくイベントってほとんどないんだよね、魔法が使えなくなること以外

日々のストレスでしんどくなった女子っぽいのがリアル

やっぱ20代向けだろ

anond:20240324120930

受忍限度意味理解していて、ある表現迷惑を感じようが受忍限度を超えない限りにおいては規制されることはない、ということが理解出来ないですか?


まあそもそも憲法読んだところでその解釈問題になるんで素人憲法読んだところであん意味ないっすね。あれ法律同様に日本語で書かれてるけど読み解くには専門知識要るんで。

あと公共の福祉についてだが、以下のpdfとか読むと”公共の福祉”というのがかなり複雑な概念であることは見て取れると思うが、よくこんな複雑な概念安易に持ち出すなぁ、と思うわ。

https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/shukenshi046.pdf/$File/shukenshi046.pdf

2024-03-23

関東の人、右ってホントなん?」←どーでもええわ

みそ汁が手前?奥?クソどーでもええわ

何がおもろいん?

人の勝手だろ

配置は自由でいいだろ

つーかさ

関東はこうだよね関西はああだよねって

雑にカテゴライズして型にはめてを愉しんでやんややんや盛り上がってんの

意味がわかんない

こんなのを安易に受け入れる社会多様性なんて成り立つわけないんだ

 

…とか言ってる私がそもそも多様性理解してないんだよネ

誰かの何かを頭ごなしに否定しちゃってさ

それはごめんなさいと思う

youtubeかにいる「自称ホステス」「自称風俗嬢」がトーク技術を語らないで欲しい

こういう人たちの言うコミュニケーション技術

「圧倒的な【女性若さ】と言う資本」を前提に成り立っている、非常にレベルの低いものという前提が抜けている。

木戸に立てかけしとかさぁ、話を深堀していくとかさぁ、まぁある程度人と会話する人なら知っている事

マジで自分の話しかしないオタクとかなら響くと思うよ。

それより不細工オッサンでもモテている、お笑い芸人トーク術とか考えの方が100000倍価値あるでしょ。

女性安易トーク術を語らないで欲しい。

ゴールデン街とか場末バーに居る限界キモおもしろおばあさんとかなら語ってもいいけど。

2024-03-22

働きやすさを求めてIT職に就くな

服装就業時間リモートワークの自由はもちろん大事だけどさ、それだけを求めて安易IT職に就くな。

就業ルールゆるふわかもしれないけど、貴女業務内容はゆるふわじゃないんだよ。

プログラミング出来ないか管理者になる道を選んだんだよね?

ならちゃん管理しなくちゃね?

貴女担当範囲責任を持たなきゃいけないよね?

品質生産性開発者管理貴女責任範囲だ。

でも自分気持ちよく働くってことしか関心がないから、今自分担当範囲炎上してるってことすら認識出来てない。

貴女が出席しているミーティング毎日状況報告してるんですけどー??

スケジュールだって報告してますし、私の勤怠だって見てますよねー??

いつも生返事ばっかりして、貴女何のために存在してるんですか???

働きやすさが大事ならパートアルバイトおすすめでーす!!!!!お前がいなくても回るからさっさと仕事辞めろ。

anond:20240321150628

このどれかに当てはまる人が多いんだよ

特に都内

旧来の車は自分たち関係ないと思っているけど、EVならなんか未来っぽくて無関係自分にも語れそうだと安易に飛び込んだ人がイキリってるだけ

2024-03-21

水原一平を凡人呼ばわりは醜すぎる

犯罪を犯した、金に目がくらんだ、ゆえに凡人だというのは、何年も通訳活躍した実績を無視して安易に見下したいという気持ちが透けて見える。

才能がなくても犯罪を犯さない凡人に失礼だし、金にめがくらまないのは凄い人ではなく普通の人だ。

anond:20240321175128

看護って女子社会過ぎてそれはそれで色々詰みそうじゃない?

看護も迷ってるらしいけど

女子高だからちょっと安易おすすめできない

2024-03-20

原罪」を課す思考

新聞記者障害者が助けられても感謝を言う必要が無い理由を、店員が客に担々麺を掛けた例で説明、「意味不明」との反応が集まる

https://togetter.com/li/2334871

いわく“社会は健常者用にできていて障害者は不当に割りを食ってるんだから、健常者が障害者に手助けするのは被害回復でありそこに感謝はいらない”

これが意味不明だと言われてるのだそうだが何も難しくはないだろう。むしろその逆で幼児の頭で考えたような単純な理屈だ。もちろんクソの役にも立たない。

しかし幼稚ではあるがナメてはいけない。

こんにちアメリカ大分断を生んでいるのはひとえにMAGAトランピストキチガイぶりによる、わけではない。争いには相手がいる。一方の「リベラル勢力依拠するのがこの原罪思考であるインディアン駆逐して国土簒奪した移民の子孫が、ニューカマーを「不法移民」と断じる権利はないという価値観

本来リベラルとはそんな宗教じみた図式的なものではない。

エンジニア的な、問題解決型の思考行動様式である。うるわしき伝統を崇めるより自分の手で不断社会改善していく。選挙以外にも多様な機会・手段を捉えて。ただし安易暴力的手段に流れず。

それでなにか理想社会を実現しようというのではない。そこまでやってやっと平常運転が保ち得るという諦観ベースにある。

そこにおいて障害者を助けるというのは贖罪なんかではない、単なるチームプレーの一環である。お互い助け合う集団のほうがトータルで強いに決まってるからそうするのだ。

罪深き我々と哀れな犠牲者という(実はめちゃくちゃ上から目線の)関係でなく、対等なマイトシップの発露以外の何ものでもない。

特権意識ベースになんでも善悪ストーリーに押し込めてしま自称リベラルほどリベラルから程遠いものはないのだ。

2024-03-18

車椅子を押す側 の ぼやきと一部の生活

車椅子を押す側のとある所感、一例として書いてみる。

あんまりまとまってないけど、ご容赦ください。

  

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自分車椅子押す側の健常者。

身内が車椅子。元は歩けてたけど、病気車椅子になった。

押す側の人はわかると思うんだけど、車椅子ってちょっとぶつかっただけで超痛い。

から押す側はだいぶ神経使う。重いし。

  

で、身内は結局あんまり外に出たがらなくなった。

繊細な人なんだなとか思われるかもしれないが、身内は人並に大雑把で人並に優しく人並に理不尽な人だ。

  

――――――――

  

そんな身内の言い分を聞いてちょっと唸ったことがある。

例えば、人混みを通らなければならないとき

介助者の自分は当然「すみません」って声をかけて通るんだけど、

乗ってる側としては「何で謝らなきゃならないんだ」って悲しくなるらしい。

  

そんなことで?ただの声かけじゃない?と思った。

大体人混み通るときって健常者だって「すみませーん」ぐらい言うし。

で、よくよく話を聞いてみると、そもそも「頭を下げないと道も通れないことが悲しい」というような旨を言う。

それは意味が違うと思うけどなあ…と思い、

そのときは「SorryじゃなくてPardonの意味から、受け取り方が違うよ!」と慰めた。

  

そういうことを言う人でもなかったので、何となく引っ掛かりを覚えた。

よくよく考え、「そういう風に考えてしまう」こと自体が、身内の内情を表している、そんな気がした。

  

――――――――

  

人間というか生き物は、自立したい生物だと思う。

金銭的に依存したいとか、恋愛的に依存したいとかは健全じゃないながらあると思うが、

身体を動かす点において依存したい』という人間は、多分いない。だって不便じゃん。

自分身体が突然制御不能になったら嫌でしょ。

最初は周囲に助けられてなんとかなるかもしんないけど、それがずっと、死ぬまで続くなら本当に毎日毎日うんざりすると思う。

周囲だって毎日毎日世話することに疲れてくると思う。そう考えちゃうのも、周囲を信用できていないみたいでいやだし。

  

でも車椅子の人って実際こうなんだろうなと。

傲慢な人だとか、人を使役することに慣れている人なら、「でも俺は動けないし」で済むかもしれない。

本当~に一般の、どこにでもいる普通の人が突然そんな状況に置かれ始めたら、段々だんだん申し訳ないな…」って気持ちになるのは必然な気がする。

自分要求のために絶対人が動かなきゃならない」が毎日毎日、この先もずっと…って考えたら、しんどくなるわそりゃ。

いくらこっちが善意でも、いや善意からこそ。

  

まり、身内の中に蓄積された「また頼ってしまった」「また助けて貰ってしまった」という無力さと、

「それに対して自分が返せるものが何もない」という良心の呵責、周囲が自分をどう思っているかへの不安

それらが蓄積した結果、「何で謝らなきゃならないんだ…」という最初言動のものになってるのかなと思った。

  

――――――――

  

いや、これはマジでよくない。と思った自分は「もっと外に出て元気でいて欲しいな」と安易に考えた。

だってずっと家にいるってことは、やっぱり生活に彩りがなくなるし、体力も筋力も落ちてくる。

これって、人によっては段々生きる気力が減退する場合もあるし、ネガティブになることも多くなると思う。

外に出て沢山刺激があった方が、色んなことが塗り替えられるじゃない。

  

でも、それも難しいんだよね、車椅子だとさ…。

  

簡単な例でいえば、トイレだ。当然多目的トイレしか使えない。

から多目的トイレを探さなきゃならない。で、もし使用されてたら使用が終わるまで待たなきゃならない。

車椅子トイレ使用中で、仕方なく待つことはある。大体お仲間だったり、赤ちゃんだったりする。

ただ、10分後ぐらいに水を流す音もせず、ばっちりメイク決めたJKが出てくると流石にムッとする。

いや確かに多目的だけれども…苛つく気持ちは理性では抑えられない。

しかしたら彼女も何か抱えているのかもしれないので口汚く言いたくはない。

かもしれないが…しれないが…しかし…世の中には多目的トイレセックスをするアホもいたりするからな…。

健常者なら、許容できる範囲かもしれない。だってそんな苛立ちも抱えず他のトイレに行けば済むのだ。

  

車椅子の人だって介助者だって別に自分関係なければ許せるかもしれない。

本来なら…病気になったり、事故に遭わなければ…。

そういうありもしない未来過去がそのたびに去来し空しくなる。

心の許容範囲の在り方、理不尽に変わってくる。必死だ。

  

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他の例だと、地方美術館では2階に行けないこともあったし、砂利道はガタガタしすぎて危ないから通れないこともある。

外出の選択肢として楽なのはアウトレット舗装されてるし広いから一人当たりの占有面積もゆったり。でも数は限られてるし場所によっては早々行けない。

海辺の砂浜なんて車輪がもたれるから絶対だめだ。山を登ることも、ハイキングもできない。

  

エスカレーター階段も使えないから常にエレベーターを探さなければならない。

エレベーターって意外と辺鄙なところにあるから、実際探し当てるまでもかなり大変な目に遭ったりする。

一度エレベーター縛りで移動してみると、面白いと思う。それをこの先ずっと続けるとなると辟易だと思うが。

見つけたとしても、必ずしも乗れるわけではない。混んでたりするからね。

降りて譲ってくれる優しい人がいると、この先この人に今の五万倍の幸せがあるといいな!と思う。有難いことこの上ない。

  

実際バリアフリーは沢山あるし、色んな公的機関では配慮されてることが多い。

障害者オンリーの観覧日を設けてくれる美術館などは本当に助かる。

若ければ車椅子サッカーとかバスケとか、そういった活動もあるかもしれないが、年をとるとインドアなことしかできなくなるので。

  

ただ「使える」バリアフリーかっていうと難しいときもある。

とんでもない角度の段差の補助?だったりすると「あーっ惜しいですね」となってスルーせざるを得ない。

エレベーター行くのに遠回りしなきゃいけなかったりするし。まあ、仕方ないんだけどね。やってくれるだけ有難い。

(この「やってくれるだけ有難い」も、身内の「何で謝らなきゃいけないんだ」の一部だとは思うが…)

  

施設は、入場料がいらなかったり、半額になったりする。

でもまあそれは「平等サービスを受けられないことによる減額」なのかもなと思う。

美術館だと照明が反射して、絵がよく見れなかったりする。健常者と見る位置が違うから

コンサートなら車椅子用の席は固定で、「可も不可もない中間よりちょっと遠い席」が普通かも。

たまに逆にえらい良い席なときもあるけど。最後尾があたる可能性もないが、最前席があたる可能性はない。

  

本人は車椅子に乗ったまま、介助者の自分パイプ椅子…なんてこともあった。

クラシックコンサートだったが、ずっと尻が痛かった。ちゃんとした席が横にあるんだからそっちにして欲しかったなあと思ったけど、まあ仕方がない。

「尻が痛かった…」と少し溢すと、申し訳なさそうな顔をされて「しまった」と思ったりする。

楽しむために行くのに、悲しい気持ちになるのは本末転倒だ。

  

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マジで行ける分いいと思うのだ。行ける分良い。でも、ざっと書いただけでもこれだけ大変なことがある。

自分車椅子だったらと考えると、そりゃ外出たくないよなって思う。

望んだわけでもないのに、同じサービスが受けられない。周りに迷惑だと思われているし、介助者にも迷惑がかかる。遠回りさせる。自分いるから存分に楽しめなかったりする。そもそも自分の行動や欲求に付き合わせている。

そういった事実によって生まれ葛藤が『何で謝らなきゃならないんだ』、ひいては『何でいちいち感謝しないといけないんだ』になるのは、わからんでもない。

そういう立場体験していない自分が、その感情否定することはできない。

  

ただ「しょうがないよね」って茶を濁して共感することしかできない。無力だなあと思う。

身内の気持ちは身内にしかからいから、ここまで考えているか感じているか実際は知らないけど、まあ大外れではないと思う。

  

当初は「そんなことで?」と困惑した自分も、もう肯定するほかないなと思ってる。

だって事実事実で動かしようがない。

すみません」って言わないと通れないんだから

  

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設備が悪い!とか周りが悪い!って文句もあるときはあるけど、

社会に生きる人間は良くも悪くも社会にある程度迎合しなきゃならないというのが個人的な持論。

人間は全員が「違う」から。違うから、お互いを譲歩し適切な距離を保って、険悪にならない距離コミュニケーションをとる。

これは最近トランスジェンダー関係の話でもそうなのかなと思う。

自分のすべて受け入れてほしい!と思うなら、そういう社会に行くか、新しく作るしかないんじゃないだろうか。

平和に生きてる人たちを脅かしてまで自分を押し通したいと思う人と、手を取り合いたいなんて思わないだろう。

  

からまあ、身内の心情に心をいためつつも仕方ないよな、なんて思う自分もいて、

なんていうか…罪悪感じゃないけど、申し訳なさを感じたりもする。

  

身体不自由だろうと身内には元気でいてほしいから、

色々人生楽しめるものを用意できるよう、無理じゃない程度にやっていきたい。

無理させてると思わせるのが一番、本人にもよくないと思うので。

  

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そういうわけで(?)

車椅子を押す側として思うのは、優しく見守ってくれる人がたくさんいてくれればいいなと思う。

助けてくれなくたっていい、通り過ぎたって全然良い。

舌打ちしたり、からかったり、邪魔になることはしないでくれれば。

  

こんなん、健常者でも当然のマナーだと思うんで、改めて言うのも変な話だけど。

  

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おまけ

  

これは最近の空しかった話。

テレビの某野外音楽フェス特集を見て「一回ぐらい行きたかったなぁ」と言われた時は「それは…無理だな…」と思った。

  

「そりゃ車椅子なんだから無理でしょ」って当然のように言う人はいると思う。

いや無理なんだよ。そりゃそう。無理なの。物理的に。

かに頑張れば行けるかもしんないけど。知らないけど、配慮もされてると思う。

でも立ち見の音楽フェスに行くというハードルそもそも高い。そこに行くまでの道程ハードルも高い。

立ち見だから見るとしても多分後ろの方でしっとり見るしかない。車椅子にぶつかると怪我させちゃうだろうし。

何より、身内と自分の体力や精神力が持つとも思えない。

そういったリスクをひっくるめて考えて「無理」となる。勿論フェス非難してるわけではない。

  

でも行きたいなって気持ちは誰にだってわくもんだし。

「金がないから無理」とか「忙しいから無理」とかと違って、「車椅子から無理」は本人にはどう努力もできない「無理」だ。

から「行きたい」じゃなくて「行きたかったなあ」になる。

  

介助人としては軽く「え!行きたいなら頑張るよ!」なんて返したりするけど、身内は難しいことを知ってるから、何も言わずに首を横に振る。

  

こんな無力なこと、ある?

自分はまあ行こうと思えばいつでも行ける。

身内はこの先あの景色体験することはないんだ。と思ったら無性に悲しくなった。

  

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やっぱりあんまりまとまらなかった。

鬱気味の人って話を全然聞かないよね。なんで?

精神を病んだきっかけは分からないけど、メンタルクリニックに通っている同僚がとにかく話を聞かない

聞いてませんじゃなくて、話をするんだけど全体の5~10%くらいで勝手自分結論付けて見当違いの回答をしてくる。いや最後まで聞こうよ、早押しクイズじゃないんだし

会話が怖いのかもしれないけどこれがデフォルトなのでどんどん社内での評価や印象も悪くなる

メンタルクリニックがどういうことしているかは分からないけど話を最後まで聞きましょうとか言わないの?それともこっちが怒らないとか最後まで聞いてとか言わないと駄目?

安易に答えを求めるというかなんか分かんないけど余裕がない感じ

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