はてなキーワード: 天災とは
水鉄砲による抗議はなぜ失敗したのか。
まずここでいう失敗とは五輪開催について政治家が躊躇せざるを得ないうねりを作れなかったことと定義している。
その意味で水鉄砲による抗議は一般人に対する攻撃として捉えられ、聖火ランナーに対する同情を誘い、むしろ五輪開催に向けた警備強化を正当化する理由を作ったように思う。
(水鉄砲を放った人物は人に対する攻撃と捉えられるとは想定していなかったかもしれないが。)
今回の水鉄砲の直接的な被害者は一般人であった。であればより有名な選手や大会関係者であれば良かったのか。
いや、その場合はより問題になっていただろう。自陣に負い目のある状態で主張を続けることは難しい。被害者のいる陣営の主張は同情を誘うことになる。
暴力的な行動に出た時点でその陣営の主張の支持は減るだろう。特に人命を理由に開催の中止を主張するならなおさらだ。
今や五輪開催については国民の過半数以上が中止か延期を望んでいる。実際に、インターネットによる署名活動や医療従事者によるプラカード行進、抗議デモなど、これまでにも五輪開催については数多の抗議活動が行われてきた。
しかしながら現状政府や委員会などが強引に開催に向けて進めており、五輪は中止されることなくほぼ間違いなく開催されるだろうと予想している。
このことはいずれの抗議活動も政府や委員会の意思決定の決定打にはなり得なかったことを示している。
では今の政治体系や社会構造の中でどういった抗議方法であればより効果的であっただろうか。
五輪を中止させる最も効果的な方法は、五輪に対する人々のリスペクトをゼロにすることである。
五輪が五輪たりうる理由は、人々がその大会に勝利した人を尊敬するからである。地元の小学校のかけっこ競争で勝利したからといっても履歴書に載せるのは憚られるだろう。
五輪に参加した。五輪で優勝した。五輪のスポンサーをした。このことに価値があるからこそ開催に意味がある。
五輪は人々が価値を感じることによって価値が生まれているという点で貨幣と似ている。
例えば日本国内で流通する通貨である日本銀行券はお札という紙でできた券である。それ自体には何の価値もない。ただし人がこれを価値あるものだと信じるから価値がある。
このように人々の間で持たれる共通の信頼によって流通する貨幣のことを信用貨幣というが、その価値を支えるのは発行者に対する信頼、価値の安定、そして強制通用力の三つの条件であり、そのいずれかが崩れた場合は価値を失う。
それぞれについて簡単に説明すると、発行者に対する信頼とは、偽物が存在しないと信じられること。
価値の安定については価値が昨日今日で変動せず、おおまかには一定であること。
そして強制通用力は「これには価値がある」と主張できる強力な後ろ盾があることである。
例えば犯罪者が偽札を大量に流通し始めれば貨幣に対する信頼は落ちるだろう。
一日おきに同じ金額で購入可能なものが変わるような貨幣についても人々は受け取りたくないだろう。
また日本においてはその価値が人々の間で共通のものとなるよう日本銀行券を決済の最終手段として認めるという法律が存在し、国家権力によって貨幣に対する信頼を補強している。
さて、貨幣と同じような価値構造を持つ五輪ではそれぞれに対して何が対応するだろうか。
発行者に対する信頼については、類似する大会がないことや参加する選手や関係者の不祥事がないことが対応する。
価値の安定については、ある年の金メダルは全大会の金メダルより価値が少ないと人々が思わないような施策を打つこと。
強制通用力についてはメディアによる宣伝などで「この大会には価値がある」と人々に共通認識を与えることが対応するだろう。
貨幣と同じような構造を持つのであれば、これらのいずれかが崩れた場合に五輪は価値を失う。いわゆるブランド力を失うということになる。
そうなった場合、選手は大会に価値を感じなくなり参加しなくなる。また人々が注目しないのであればスポンサーをする意味もなくなり開催に必要な資金を集めることもできなくなる。
ではそれぞれの条件がどのような状態で崩れるかを考えてみよう。
発行者(運営や選手)に対する信頼を揺るがせることについては五輪関係者や政治家の汚職、選手の身勝手な行動などを喧伝するだけで人々の反感を誘うことができるため、容易に取れる手段かもしれない。
ただしこの方法だけでは中止には至らない。なぜなら人ひとりふたり程度の汚職や犯罪程度では開催が揺るがないほど五輪は大規模であるからだ。
また、五輪の運営側や選手の不祥事が発生したとしても、その問題はあくまで個人の問題であって五輪に参加した人物は変わらずリスペクトするという人が多い場合については、いくら喧伝しても五輪の価値は下がらない。
このためこの方法では五輪に対する信頼はすべての試合が八百長だったと発覚するなどよほどの事件が発生しない限り減りにくく、また減ったとしても中止に至るほどのダメージではない。
一方で五輪の不祥事の多さや意思決定の不明瞭さについては現状多くの人が疑問に思っているところだろうから、そのあたりのクリーンさをアピールした代替の大会が開催されるとなれば五輪のブランド力はそれなりに失われるのではないだろうか。
価値の安定については、東京五輪についてはかなり自爆しているように思える。
4年に一度開催され、多くの競技が行われる世界で最も伝統的な大会というのが五輪の特徴だとすると、開催側としてはその特徴を傷つけることは避けるべきである。
新型コロナウイルスの流行によって2020年の開催が延期されたことによって4年に一度の開催という特徴は陰りを見せてしまったが、こちらについては天災によるものとして納得できる人が多いのではないか。
しかしながらその後の対応として政府や委員会は世論的な反対とは逆に開催に向けて強行してしまった。五輪の理念であるオリンピニズムをかなぐり捨てたその動きに嫌悪感を抱く人が増えたと予想している。
新型コロナウイルスが蔓延して人々が苦しみ、五輪の開催に疑問を抱く人が多くいる中、無邪気に「五輪開催に参加です!」と表立って言える人はなかなかいないだろう。
その意味で五輪は五輪自身のためにも開催に向けて動くべきではなかったと言える。
五輪は名前の通り歴史的な権威などを使って武装し、基本的にテレビや新聞などメディアによる宣伝によってその価値を喧伝してきた。
多くのメディアが五輪の話題にあげ、参加し優勝などをした選手を称えることで人々は五輪に対する価値を認めてきた。
メディアは五輪の大きなスポンサーとなっていることが多く、五輪が話題になればなるほど収益が上がる構造となっている。
想像するに、一度五輪が開催されれば反対していた人々でさえテレビや動画配信を通して五輪を観るだろうから、メディアが世論を五輪中止へ誘うことは考えにくいだろう。
ほかの毀損手段としては、有名なスポーツ選手などが五輪に対する不快感などを表明し、不参加や不支持をすることが挙げられる。
しかしながらスポーツ選手が声を上げることは現在のスポーツ業界では難しいだろうから現実的ではない。
以上のように五輪の特性上、強制通用力については崩すことが難しいだろう。
ここまでを踏まえてまとめると、貨幣との類似性をもとに五輪の中止を扇動を考えるのであれば、
1.五輪関係者の不祥事を喧伝しつつ、クリーンさをアピールした別の大会を開催すること
2.五輪関係者に五輪開催の強硬によるブランド力低下のリスクを理解させること
しかしながら1については五輪に代わる大会が増えるだけであり、今回の五輪を中止したいそもそもの理由に対する解決にはならない。
2については希望は残るが、運営が理性的だったとすると、スポンサーや政策、契約上の問題などによってそのリスクを承知の上で強硬したほうがましな結果と試算した可能性があり、また運営が理性的でないならそもそもリスクについて理解はできないだろう。
ここまで長々と話してきたうえで、私が考える最も効果的かつ全く推奨しない方法について述べる。
とても簡単に言えば、人々が五輪の価値を徹底して否定することが最も効果的だと考えられる。
貨幣と同様、五輪は五輪に価値があるという信頼、あるいは権威性によって成り立っている。ここまで述べてきた3つの条件はあくまでも人々の信頼を補完するものでしかない。
このため、人々が「五輪の価値を認めない」と宣言してしまった場合、五輪の価値はその瞬間消し飛ぶ。
具体的には、五輪に出場する選手、スポンサーとして参加している企業、五輪に関わる政治家などをリストにしたものをWebサイトなどで公開し、開催に賛成の個人や法人としてレッテル貼りをしたうえでSEO対策をし、SNS上などで拡散するといったものだ。
ここで重要なのは、個人や法人に対する直接的な攻撃は行わないことだ。個人や法人に対する直接的な攻撃をしてしまうと、五輪反対派は過激だというレッテルを貼られ、人々は逆に賛成派に対して同情的になるからだ。
あくまでこれらの人たちが「五輪に賛成している」という事実を述べ、関係者に対するワクチンの優先接種など、制度や構造に対する批判のみを宣伝する。これであれば直接的な攻撃とは受け止められにくい。
そういったリストが公開された場合にどういったことが発生するかは想像に難くなく、私であればそのようなリストに名前を連ねたいとは思わない。
これらの行動は中傷の扇動にあたるだろうし、人としての倫理観が怪しいところなので私自身は全くしようとは思わないし、ほかのだれかがやっていても軽蔑するだろう。
しかしながら、五輪開催の条件すらあいまいなまま強行していく開催者側と交渉するには、水鉄砲よりは効果的なのではないかと思う。
農業は儲からないイメージだが、基本その通り。儲かっている人は決して多くはない。
ただ、一部の人達は確実に儲かっている。儲かっている人は自らなぜ儲かっているか話をしないので、せっかくなので、儲かっている農家の一部の事例を取り上げたい。
このケースは勝ち組になりやすい。北海道で特に多い事例。日本の中で北海道の農業は特殊で、地域によっては1人当たりの平均耕作面積が20haにもなる。東京ドームが約4.7haなので、東京ドーム約4個分が一人あたりの担当。家族農家で40haや60haを経営しているが、彼らは家族数人で売上が数千万円あり、所得も潤沢にある。高級車に乗ることも問題ない。ただし、農家にとっての高級車は高級トラクターの場合も多く、1台1,000万円を超えるトラクターを複数台所有しているような農家もいる。車庫に数台の大型トラクターが並んでいる姿は圧巻だが、周りの農家でそういう人がいたら、自分も所有したくなるのだろう。
土地利用型と呼ばれる、畑作や果樹、水田と違って、狭い面積で高収益を目指すには施設園芸が向いている。例えば、水稲の場合に1反(約300坪)で売上が20万円ほどだが、きゅうり栽培でも1反で900万円を超える売上も十分可能だ。ただし、売上が取れる分、施設園芸は経費がかかる。冬場は加温する必要があるため燃料費がかかり、収穫量が多くなると、それなりに人も雇う必要がある。また、インフラコストとして、ハウスの建設費が反当りで800万〜ハイスペックだと数千万円レベルでコストがかかるため装置産業の一面もある。インフラ費用は農業の場合は補助金がかなり手厚く3割〜7.8割でることもあるので、どの地域で、どの助成プログラムを使って開始するかで利益構造が大きく変わってくる。4反〜6反でも所得ベースで1,000万円稼ぐこともやり方次第で可能だ。また、最近だと農業をやめて施設ごと手放す事例も出てきているので、そうなるとインフラコストをかけずに農業をはじめられる事例も出てきている。脱サラして数年で所得ベースで700万円くらいは稼げているので、わりと良い稼ぎになっている。
農業で儲からないと言われる理由の一つに農協の存在がよくあげられるが、農協は流通マージンで30%ほどを取っている。最近話題の産直ECサイトでは、食べチョクが20%、ポケマルが15%の流通マージン。農協と比べると手数料は安く感じられると思う。ただし、農協の場合は生産物をそのまま農協に持ち込めば、あとは農協側で販売〜配送の手続き等を全て行ってくれるが、産直EC系は全て自分で配送手続きから梱包までやらなければならないため、労務費が別途かかる。そのうえでもメリットがあるのは、高単価で販売できる点にある。2.5倍〜3倍の単価で販売することが可能なので、利益としては十分取れるようになる。ちなみに、産直ECに出品しながら、農協にも出している生産者も多くいるため、野菜の値段の価値は誰が買うか次第で大きく変わるということが分かりやすい事例になっている。
農業法人にも儲かっているところと、そうでないところがあるが、儲かっている農業法人の特徴は、自社で販路や物流網を作っている点にある。売上数億円レベルの農業法人が、産直ECだけで販売するのは難しく、また農協流通だと手数料が高いため、専属の営業部隊等を社内で持って、自社流通ができるようになっている。家族経営型ではそのような専属の人間をおくのは難しいので、販売、流通を農協に任せることによって、手数料が高くなる。農業法人はその機能を自社内で人件費として持つことで、流通フィーを下げて利益を取る。規模によって、経営方法が変わっていく。また、農業では生産技術が重要になるがノウハウとして、きちんと仕組み化できている農業法人になると、安定した生産ができて売上も順調なケースが多い。仕組みづくり、組織づくりがきちんとできるのかという当たり前の話がやれるか次第。
結論、上手くやれて儲かっている農家はある程度いるのが実態だが、それ以上に儲かっていない農家が多すぎることが問題になっている。土地が狭い、設備投資ができない、手間がかけられない、栽培技術がない農家は稼ぐことが難しい。それでもさまざまな補助金があるので、リビングデッド状態は維持することができている構造的な問題もある。あとは、栽培技術が本当に難しい。習得までに時間がかかる。天災リスクもあるから、一発で市場からアウトになる悲運なケースもある。
ただ、作る作物によっては、1年のうち3ヶ月〜4ヶ月間ほぼほぼ休みで毎年家族で海外旅行に行っていたり、好きな時間で働けて農業で良かったという声もあり、お金と時間を自由にできる農家って意外と良い仕事にも、人によってはできるんだよって知ってもらえたら嬉しい。
もうスポーツに金を出すのはやめよう。
オリンピックによって明らかに国民に直接的な害が及んでいる。これでスポーツなんかを振興してたら自分が害を被る。
健康維持のための運動の振興には金を出してもいいと思う。国民の健康に資するから。しかし国際競技力とかアスリートに金を出す必要は無いどころか、むしろ害であることがわかった。オリンピックを強行するためにどれだけの人が苦しんでるか。それをわかっててオリンピックに反対しないアスリートは不要だ。
4年に1度しかない? お前の4年に1度は自分の一生にに1度に優先するのか。あるいは選手としてのピークの都合で実質一生に1度だと? だとしてもお前の一生に1度より、自分の1年に1度を優先したいわ。covidは天災だが、アスリートたちの国際運動会によってもたらされた害はアスリートによる人災であって、アスリートを排除することを以って対処するのが最善に決まっている。
漫画や映画などで度々使われる台詞だけど、それってただの口実だからな!
事実をありのまま伝えろよ。何が「国民がパニックになるから事実は伏せておこう」だ!
で、これってフィクションじゃなく現実でも便利な口実として使われてるんだろうか?
例えば福島原発事故でもきっと使われていたんだろうと私は推測する。
それはやはり責任の所在を明確にしたくないという意志が強く働いたのではないか?
でもな。そういうことするから余計に疑われることになって、風評被害も増えるんだよ。
きれいさっぱり細かい数字を含めて全部伝えて、どこからは危険でどこまでは安全だと言い切れば良かったのに。
わからないところは正直に「わからない」でいいじゃん。「今後も調査を続行します」でいいじゃん。
情報を包み隠さず公開すれば、識者がいろいろ考えてくれるし、周辺住民も今後の対応を取りやすい。
隠せば隠すほど信頼を失うなんてこれまでの歴史の中で散々繰り返してきたはずなんだから学習しろよ。
特に福島原発事故なんて直接的には人災じゃなく天災なんだから仕方ない面も大きいだろ。
福島原発事故以外にも探せば様々なケースがありそうだな。
通勤電車に痴漢に遭いやすい芋ジャージを着て乗って痴漢に遭ったら、痴漢の罰金は減額される?
過剰な自己責任主義は、この悪意に満ちた世界で自分をちぢこまらせていく結果を招く。
君こそ、自分の有様をみろ。
鬼滅の刃やエヴァンゲリオンで私が持つ疑問は、組織的に「戦士」を育てて闘わせるのなら、戦士が子どもである必要がないのでは?というところ。子どもが闘う必要性がないように思う。
と友人に話したら、「エヴァは知らんけど、鬼滅は少年ジャンプで連載してたからでは?」と言われて話が終わった。— 麦ふみ (@fumfummugichan) January 16, 2021
この前の鬼滅とエヴァのツイートの反応から学ぶ事がいくつかあった。
反応で1番多かったのは、物語の設定について説明するコメントだったけれども、そもそもフィクション内の設定について疑問を持っているわけではなく、なぜそのような設定で物語を描いたのかの部分に私の疑問があった。— 麦ふみ (@fumfummugichan) January 23, 2021
「フィクション内の設定について疑問を持っているわけではなく、なぜそのような設定(戦士が子ども)で物語を描いたのか」が疑問ということなのでそこに絞って回答する。
当初の碇シンジはファザコンでありエヴァに乗ることからも逃げていたが、他者と接する内に成長し、父親に認められるためではなく自分がどうしたいかという意志に基づいて行動するようになる。それは子どもが大人になるということであり、エヴァンゲリオンという物語はアクション要素とわけわからん用語の羅列を除けばおよそそういうイニシエーションを描くことで成立している。
また同時に、碇シンジの周囲にいる大人たちは大人に見えて対して大人ではないということも並行して描かれる。ゲンドウをはじめとしてその誰もが未成熟で、言ってしまえば幼稚な欲望に振り回されている。子どもが大人になる物語でありつつ、周囲の大人もだましだまし大人をやってるにすぎないという身も蓋もなさがエヴァという物語でもある(そもそも人類補完計画からして他者が怖いから同化しようという幼稚な思想の産物であるし)。
鬼滅は複数の要素によって成立しているので一言ではまとまらないのだがひとつ特徴的な要素を挙げるとすると「継承」になろう。竈門家は木こりの家系だが、呼吸の始祖と関わりがあったため、竈門炭治郎は父祖から「日の呼吸」を受け継いでいる。それと同じように鱗滝左近次からは鬼殺隊の一員として戦うための基礎と水の呼吸を、煉獄杏寿郎からは心構えを受け継いだ。そうやって受け継ぐ度に炭治郎は肉体的にも精神的にも練り上げられ強くなっていく。これが大人主人公であれば受け継ぐことができないのでそういった成長を描けない。
この「大人主人公だと受け継ぐことができない」は歴代ジャンプで大人だった主人公を補助線にするとわかりやすい。北斗の拳のケンシロウ、シティーハンターの冴羽獠、るろうに剣心の緋村剣心。いずれも道を極めし者であり、子どもが大人に教えてもらうような形で何かを受け継いだり成長したりすることはできない。彼らの場合は肉体的にも精神的にも練達しているがどこか欠けたところがあって、その恢復が物語の主軸となる(ことが多い)。このように子ども主人公と大人主人公では描ける物語が違うのである。
鬼滅に話を戻すと、炭治郎たちの敵である鬼舞辻無惨は自らを天災になぞらえる怪物であり1人の人間どころか1つの時代ですら手に余る。ゆえに産屋敷家は何世代にも亘って呼吸の使い手を育ててきた。鬼舞辻無惨という怪物を倒したのは過去から現在、現在から未来へと連綿と受け継がれてきた呼吸や想いであり、炭治郎たちはその連なりの終端にいただけにすぎない。つまり鬼滅は天災のような存在と、それと戦う先人から技や心構えを受け継ぎし少年少女の物語だと言える。
ちなみに大正という時代設定も、人の命が現代よりはるかに軽かったがゆえに鬼殺隊のような人権無視甚だしい組織が描きやすかったというのもあろうが、大正で勝ち得た平和を現代で当たり前のように享受するラストシーンを描きたかったからという面もあるだろう。それが当たり前であればあるほど忘れがちだけど、その当たり前を勝ち取るためにかつて戦った人たちがいるのだ。
話を簡単にまとめると、子どもが大人になる過程でしか描けない物語があって、鬼滅もエヴァもそういうタイプの物語だ、ということ。以上。
さすがにはてなともあろう場所で、こんなコメントに星が集まるのはどうなのか。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4697460313147575362/comment/lmako
「国民にアスリートを応援する余力がなくなった」は、単に補償が足りないという意味?それなら素直に同意するが、普通それを「人災的側面」て表現するかね。
あれか、GO TOをもっと早期に取りやめなかったことが感染拡大の最大要因だと信じている手合いなのか、
医療体制を整備しておけば、飲食店へ時短要請などせず感染者が拡大し放題でも医療崩壊せず対応できたはずだ、という手合いなのか。
「コロナ禍でも国民にアスリートを応援するくらいの余力を残せるようにするのが政府の義務」?そんなにコロナ禍って甘いものだと思ってる?
注:タイトル・本文における機会損失はビジネス用語においての意味ではなく、本来得られるはずの機会を失ったことという意味合いで使っています。(ご指摘があったので)
"人生における機会損失って大きいんだよね。コロナ禍に人生のターニングポイントが(たまたま)来ちゃった人に対して「みんな自粛してるから」って言っても公平じゃないよ。"
https://twitter.com/chiku0520/status/1348604137311596544?s=21
いろいろと思うところがありました。
実は私は、ミュージカル女優を目指す20代前半女性。コロナが流行る少し前に上京してきました。
そんな、「コロナ禍において人生のターニングポイントがたまたま来ちゃった」私から、若者の「人生における機会損失」について、考えたことをお話ししたいと思います。
★前半はミュージカルに関する内容も多いので、一般的な主張だけ読みたい方は真ん中あたりまでとばしてください。
【1番大変だし優先すべきは医療現場、自粛に協力しなければいけないということは頭では理解しているし、実際に、行政に求められている水準に基づいて自粛はしている。ということを念頭に読んでいただくようお願いいたします。】
上京した頃は、まさかこんな世の中になるとは想像していませんでした。そして、コロナが流行り出した当初は、こんなにも長引くものだとは思ってもいませんでした。
去年1年で舞台に立てたのは、コロナが流行る前の1本だけ。出演予定だったライブ、コンサート、ミュージカルは続々と延期・中止が決まり、オーディションもリモートになったりなくなったり、残念な一年でした。
数年後、コロナが収束して、舞台も芸術も元通りになったころに頑張ればいいじゃん!と思われるかもしれません。
経験を積めずに歳だけとってしまった俳優に、市場価値はありません。
新人を起用するなら新しく台頭してきた若い世代を使うでしょう。
本来だったらチャンスを掴む機会があったかもしれない、貴重な経験をたくさん積めたかもしれない大切な期間は、コロナによって空白になってしまいました。
自己犠牲払って自粛に協力して、コロナが収まったとしても、コロナ禍で若い時代を過ごした私達に、損失した何かを補填してくれるわけじゃないですよね。
むしろ、社会が動き出した頃には、もとに戻ったー!!よかったーー!!と言う雰囲気にのまれて、コロナの影に隠れていろんな人の人生の選択肢が消えていったことなんて忘れられると思う。
マイナスからのスタートを強いられるのに、配慮も補償も当然ありません。
つまり、「コロナのせいで」たくさんの犠牲を払ったとしても、社会からは、実質的に「コロナのせいにするな」という扱いを受けるということです。
そして、そんな人生を、自分の力でどうにかしていかなければなりません。
感情だけでしゃべると、「自分のことしか考えてない」「共感性、想像力がない」迷惑な若者っていうけど、感染拡大防止のためにわたしの人生を犠牲にしたとしても、だれも責任とってくれないでしょ?っていうところです。極論かもしれませんが。
どんなに辛いことがあっても、「仕方ない」「我慢するしかない」で済まされてしまうことに疲れました。そして、世の中にはもっと大変な人がいるんだから!みんな大変なんだから!と、贅沢な悩み扱いされることにも疲れました。
非常時だから、権利なんか主張しちゃいけない!って、まるで戦時中みたいだと思ってしまいます(政治的イデオロギーに基づいた発言ではないです)。
国としてホイホイ補償できるわけではないのも分かるし、そもそも、機会損失はお金で解決できるようなことではありません。
せめて、今、自分のことは自分で責任とれるように考えさせてほしい、行動させてほしいというのが正直な願いです。
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もし、投稿をご覧になった俳優の先輩方がいらっしゃいましたら、こんなことを思われるかもしれません。
・俳優という道を選んだ以上、どんなことがおこっても動揺しない覚悟ができていないのが悪い
→全くその通りです。その点については私の考えが甘かったです。申し訳ございません。
・そんな年齢で諦めていたらどうせ大成しない
→ごもっともです。どんなに売れなくても、お芝居をやりたいと言う気持ちがある限り、頑張るつもりでいます。しかし、上京1年目にこのような状況になったことはとても苦しかったし、20代前半の大切な1年がほぼ空白になってしまったのは大きな損失であると考えています。
・コロナ禍でもできることはたくさんあったはず。その過ごし方次第で人生は変えられる。
→まさにその通りだと思います。私も、自分で歌動画を配信したり、複数人での配信企画に積極的に参加したり、オンラインレッスンを受けたり、取り組めることはたくさんありました。しかし、コロナがなかった場合と同程度のものを得られたかというと、そうは思えません。
・コロナがなかったとしてもチャンス掴めてたか分からないようなレベルのやつが、コロナのせいにしてごちゃごちゃ言うな
→実際に私は商業の作品には出演したことがないですし、箸にも棒にもかからないやつかもしれません。しかし、チャンスがあった上でダメだったのと、チャンスすらなかったのでは、意味が大きく違うと考えています。
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最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。わたしの考えも、未熟なところが多々あると自覚しておりますので、賛否両論あると思います。お叱りの声でもなんでも甘んじて受け入れますので、是非コメント頂けると嬉しいです。
追記:
厳しいコメントをくださった方も、温かいコメントをくださった方もありがとうございます。ひとつひとつ目を通させていただきました。若者の甘ったれたお気持ち表明にこんなにも反響を頂けて涙目です( ; ; )
本当はひとつひとつのご意見に返信させていただきたいのですが、難しそうです、申し訳ありません。
私はここに投稿するのが初めてで、普段から見ているわけでもないのですが、匿名で、自分の感じていることを何か発信できないかと思い、この場を選びました。
そのため、この場における文化などを理解しておらず、不快な思いをさせてしまい申し訳ありませんでした。ハッシュタグは削除し、ご指摘があった表現に関しては訂正しました。転載ではありません。
また、今回は、コロナ禍における若者という自分の立場から、当事者性をもった発信ができればと考えておりました。わたしが今回主張したような世の中の変容による理不尽は、コメントしていただいた通り、過去にもあったことは十分存じています(就職氷河期、震災、豪雨による災害など)。また、若者だけが辛い思いをしているわけではないということも理解しています。しかし、それらの事実によって、私の主張は妨げられないと考えています。
昔はこうだったから今も我慢しろ。みんな辛いんだからお前も我慢しろ。という足の引っ張り合いでは世の中は良くならないと思いますし、みんなで不幸になるだけです。コロナで辛い思いをしている人はたくさんいるはずなんだから、むしろ、多様な立場から多様な主張がなされるべきです。私もいろんな方の置かれている状況について、詳細に理解しているわけではありません。今回は、わたしの立場から、コロナ禍の若者がどのような状況に置かれているのか、どのような想いを抱いているのかについて、異なる層の方にも知っていただきく、書かせていただきました。もちろん、わたしの意見が若者の代表というわけではないですし、一個人として感じていることにすぎませんが。どうにもならないことだったとしても、せめて、想いを発信することは許されるべきだと考えています。
また、従来の天災や金融危機と異なる点としては、新型コロナウィルスそのものによる影響というより、新型コロナウィルスへの向き合い方(感染対策に関する政策・世間の風潮等)による影響が及ぼす力が非常に大きいと言う点です。よって、従来の場合よりも、柔軟に対応できる幅は大きいのではないかと考えています。
今回の件に関しては補償や配慮を求めても仕方ないのは分かっているので、せめて、根拠に基づいた工夫がなされた感染対策が行われ、少しでも生活の安心感が向上し、世の中が寛容になることによって、若者が自己決定できる幅や行動を起こせる幅が広がればいいなと思います。
また、「YouTubeや SNSなど、ネット上に活動の場がある時代においてこんなことを言っているのは甘えである。」というご意見もいただきました。これについては非常に難しい点で、皆さんが想像する以上に、インパクトがあってクオリティの高いものを、役者個人の予算、技術力で作ることは困難です。
昨年の緊急事態宣言以降、役者もアーティストも、皆が、いまできること、自分にできることをやろう!と、多くの発信をするあまり、ネットメディア上の芸術は飽和状態となりました。リモートで歌ってみた・踊ってみた、インスタライブ、配信アプリによる配信、等々…。対して、今お客様の口からきかれるのは、「生のエンターテイメント」「生の芸術」を感じたい、映像配信は代替にはならない。ということです。このような状況で、高い評価を得る作品を残すには、相当なクオリティを必要とされます。実際に、本当に自己満にすぎないものや、応援しているファンの方がみて満足する程度にとどまるものがほとんどで、第三者の立場から見たら、無価値なものが多いです。
また、舞台俳優はアイドルと違い、自身の存在そのものに対する価値があるというよりも、役者がもつ持つ技に価値を置かれている場合の方が多いです。よって、お客様の立場からすると、「この人のためならなんでもみる!!」っていうようなもんでもないので、当然、要求されるクオリティは上がります。
わたしが客観的にみて、価値があると思えたもので、かつ素人が出演者の大多数を占めている公式の企画でないものの1つである作品のリンクを貼っておきますが、この規模の作品を個々人で作るのは不可能だと思います。
(西野さんアレルギーらしき方にコメントされたので一応…笑。この作品はとあるダンスラボ主宰で制作されたもので、プペルの本家スタッフや西野さんの息のかかったものではありません。風評被害を避けるためにも書いておきます。また、私は西野さんファンでもなんでもありません。ただ、この作品が、「原作の世界をダンスを用いて表現し、映像作品としても高いクオリティでアウトプットしている」という点で、優れていると思ったこと、また、原作が映画なので、どのようなものが原作となっているのかという雰囲気は一般の方にも分かりやすいと思ったことから、例に挙げさせていただきました。)
しかし、ネットメディアにおける芸術表現が飽和状態となっている中、芸術価値のあるものを発信し、インパクトを残すには、これくらいのクオリティが必要だと思います。
これは、自分が動画の配信などに挑戦した上で感じたこと、周りの役者達の活動を見ていて感じたこと、また、SNSで見受けられるお客様の意見を見ていて感じたことを含め、総合的に検討した結果です。逃げていると捉えられるかもしれませんが、事実でもあります。
こんなに愚痴っといてなんですが、筆者は出来る限り前向きに、今できることを一生懸命考えて活動中です!価値だなんだに関わらず、できることをやるしか道はないので、なんとかもがいています。あきらめたくはないですから!!(まあ、人生そんなもんと諦めて別の幸せを探して生きた方がいいのかもしれないけど…笑)
このお話は駆け出し底辺女優のわたし個人の意見ではありますが、CAを目指していたけど採用がなかった人、テーマパークダンサーを目指していたけどオーディション自体がなかった人、コロナで就職しようと思っていた業界が潰れ、進路変更をせざるを得なくなり、就活がうまくいかなかった人…同じおもいをしている人が、もしかしたら、あなたの周りにもいるかもしれません。そんな、コロナによって人生の選択が大きく変わってしまった人や、コロナによって状況が変わって苦しんでいる人がいたら、温かく応援してあげてほしいです!
ありがとうございました!