はてなキーワード: 前進とは
おかしくね?
ピョンピョン飛び跳ねるとか?
歩兵は分かる。最初に決められた配置の中で前進しか許されない。
銀と金は分かる。現場指示の権限があるので横に動いたり撤退したりも可能。
飛車はつまる所は戦車だろ?一直線に突っ込んでいくだけしか出来ない。
ここまでは分かる。
文句はない。
んで、角はなんなん?飛車と90度動きが違うわけだが、コイツは何?ていうか飛車も戦場で90度グルって向きを変えれば一直線に突っ込めるやろ。なんで斜めは駄目なんだ?
香車も良く分からん。コイツも車でいいのか?なんで一直線にしか動けない?実際には人間大砲とかなのか?
そして桂馬。全く理解できない。騎馬の動きって割りと直線的では?飛び跳ねる動きは確かにあるが、馬防柵で跳ね返されているようなイメージの方が強いんだが?
今までの経緯のふりかえりと、今回何が起きたかお伝えしますね。
まずは何が起きたか振り返ろう。
※ソースがない、との指摘がありますが、「本人の証言レベル」ですがありますよ。事実ベースです。後で貼っておく。
・原作者はドラマ化にあたり「原作に忠実に描く」条件を出し、日テレと合意
・いざ開始してみると原作から乖離した脚本が毎回提出され、毎回大幅に修正する始末(1話から8話まで)
・原作者と脚本家は最後まで1度も会話せず、間にはチーフプロデューサー1人のみ
・原作死守という条件が一向に守られず、他の脚本家を探す時間も無くなったため、9話と10話は原作者が仕方なく自分で脚本を書いた…が、脚本は素人なので当然不評
・脚本家の元に9話と10話の不出来について視聴者から様々なDMが届くも、脚本家は「9話10話だけ原作者が書いた、私じゃない」とインスタで弁明
・さらに脚本家は「最後は原作者がワガママで書きたがったので、仕方なく協力した」と激怒してポスト
・脚本家のインスタを受け、原作者はブログにて「窓口はプロデューサー1人のみだった。そもそも原作を守る契約が脚本家に伝わってなかったのでは?」と暴露
・暴露ブログについて、ネット上では擁護の声多数
・その後、なぜか原作者は謝罪し、記事を削除してブログも閉鎖
・なぜか原作者「攻撃したかったわけじゃなくて。ごめんなさい」とポスト
・原作者が自殺
・しばらくして2024/02/08、脚本家は「知らされていなかった」、小学館は「日テレには間違いなく伝わっていた」と暴露
https://petitcomic.com/news240208
小学館編集のお気持ち表明記事について批判するつもりはありません。
最後の一文「寂しいです、先生。」についてはXでトレンド入り。「打算的で女性の共感を求める戦略的コメント」などとバッサリ切り捨てた投稿がバズっていましたが、この編集は長きにわたり深い信頼関係があったようなので、救えなかった自分の無力さを嘆き感情を吐露したとしても不思議ではありません。
また、この記事では日テレとのやりとりに関する経緯について説明不足ですが、「編集として」のコメントなので致し方なしかと。
https://www.shogakukan.co.jp/news/476200
組織として検証すると宣言されたのは大きな進歩ですが、結果は公表するということですね?
この2週間何やってたのかわかりませんが、それではみんなで結果の公表を待ちましょう。
第三者検証でないと意味をなさないのですが、一歩前進かと思います。
芦原妃名子先生がが亡くなられてから二週間強、先日(2/5)以下の記事がバスっていました。
■小学館が『セクシー田中さん』に関係する記事を削除したことについて
https://anond.hatelabo.jp/20240205173407
穿った見方をすると、この記事がバズったから「もう精神的に無理です、コメント出させて」と小学館上層部に泣きついたとも推測できます。事実は不明ですが。
衝動的に記事を消すのは不要な疑念を招くことになります。恥ずかしいことがなければ堂々としていればよいのです。
しかし、はてな匿名ブログがバズらなかったら、ひょっとしたらこれらのコメントは出なかった可能性があるのでしょうか。
全部推測ですが、そうだとしたら恐ろしい話です。
え?それってやばくないですか?
終わってない?
今回のコメント表明は、脚本家と小学館が歩調を合わせて公表されています。
つまりタッグを組んだ「日テレに対する徹底抗戦」にも見えるのです。
脚本家は「何も聞いてなかった」と言い、小学館は「日テレにはしっかり伝えていた」と言う。
それに加え「原作者と脚本家の間に入っていたのは日テレの人のみ」だと原作者がブログで暴露していたことを考慮すると、
自ずと「日テレが原作を守るという約束を反故にし、好き放題コントロールしていた」ということになるのですから。
ずっと沈黙を貫くのも流石に無理があるでしょう。
今後の日テレの動向に注目が集まるところです。
小池百合子知事が麻布十番駅を核シェルターにするとぶち上げて話題になっているが、
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/news.yahoo.co.jp/articles/20979db65c4b2665d53884ea0247aa2eac51db19
実は都営地下鉄大江戸線の麻布十番駅は防災拠点として整備されていて、地下に巨大空間があるのだ。
地下鉄の線路は地下6階にあるのだが、駅コンコースは地下4階となっている。その上の空間が備蓄倉庫となっている。
更に鳥居坂のシンガポール大使館下に地下駐車場の入口があるのだが、
https://maps.app.goo.gl/T7BFm9ohKUEZT68J7
この下と道路の下が駐車場で、その下がまるまる防災倉庫+コンコースとして伽藍と開いているのだ。
大江戸線は2000年に開通したが、90年代の麻布十番は延々と工事中で、しかも巨大な縦穴を掘っているのが見て取れた。それは地下鉄だけじゃなくて備蓄倉庫の躯体も作っていたからなのだね。
土木に興味がある人なら、都市トンネルの作り方には上から掘り下げる開削工法と、地下を横に掘り進むシールド工法があるというのは知っている事と思う。
シールドというのは盾の事で、丸盾型の隔壁を全面に置いて開口部から工夫がショベルやツルハシで土を掘ってトロッコで後ろに残土(ズリ)を送る。シールドが前進すると同時に丸いトンネル形状を支える支保工を建てて、そこにコンクリートを流して丸いトンネルにする。トンネル掘削面を切羽というが、都市の地下だと切羽が崩れてくるのを防ぐ為にこういう風にした。150年前のロンドン地下鉄から使われている枯れた技術だ。
このシールド工法、今ではもっと進化して、シールドマシンという機械が自動で掘り進むようになっている。掘ったそばから円形トンネルの外壁を分割したセグメントを組み立てて行く。
http://www.yesemk.com/eng/business/tbm_small.html
が展示されていて、いかにもごつそうなドリルが付いているが、そういうのは山岳用である。
沖積平野地下で威力を発揮するのは実は泥水なのだ。泥水を吹き付けて土を崩し、そろばんみたいなカッターでグリグリやって出てきた残土は泥として後方に送る。
それには泥と水の分離機が必要になる。地下鉄工事や下水管(雨水管)工事の現場でこういうデカいタンクが置かれているのを見た事が無いだろうか?
https://www.futamoto.com/product/ftu-d/
これは泥と水の分離機で、丸い形状の場合もある。セットルタンクともいう。上に機械が載っている事も多いが、それは脱水機で、振動、或いは遠心力で泥から水を分離して、それをダンプに載せて残土として捨てに行く。
建築現場でも見る事が多い。これは杭基礎工事で潤滑剤として水を使い、杭打機の中の土の掻き出しにやはり泥水吸引を使うので、その泥を水と土に分離して捨てる為だ。
一方、シールド工事ではその残土、排水分離の他に泥を作るという役割があるってわけ。
水じゃなくて泥水である理由は、まずは比重の重さによる破壊力の増加。鉄砲水では橋や堤防は壊れなくても、土石流だと破壊されてしまう。これは泥水の方が比重が重いからだ。
また流動性が水より低い。この為に余計な場所に流れて行ったりしにくい。
また比重の高さにより、切羽が安定する。水だと掘ったそばから土は崩壊しようとするが、泥だと高圧状態が保てるので崩れにくい。
そして泥と別に水も送り、出てきた残土の泥を薄めて流動性を上げて後方の分離機に送るのである。
この為に残土のトロッコやベルコンベアも必要なくてホース数本だけでいい。人員も減るし労災も起こりにくい。
しかもこういう仕組みだとシールドマシンが小型化出来る。人が入れないような径のトンネルを掘る事も出来る。何しろホースと泥水分離機だけでいいのだから。
そういう訳で異常気象で多発してきた排水氾濫に対して雨水幹線を整備するのにも大活躍だ。下水管なら各戸の管を接続する為に露天掘りしか出来ないが、雨水管なら必要ないので小型シールドマシンが使えるのだ。
ってことで、シールドマシン下発進拠点であり工事の要である泥水分離機を稼働させ、残土を搬出する場所が必要なので大きな縦穴を掘る必要がある。この縦穴は最後にただ埋めてしまうと勿体ない。なので駅になる場所がシールド基地となる事が多い。
因みに雨水管シールド工事での基地の役割にはもう一つあって、それは「シールドマシンを押す事」だ。シールドマシンには推進力が無いので基地から油圧で押してやるのである。
で、トンネルが出来たらその上に駅コンコースの躯体を鉄筋コンクリートで作る。それが終わったら土で埋め戻して完成だ。
この辺の構造はみなとみらい線の元町中華街駅とかが判り易いかも。露天掘りで出来た駅コンコースからエスカレータを降りると、丸いトンネルの天辺に出る。この二つは別構造で作り方も別だったのだ。
都営麻布十番駅は地下6階で、コンコースは地下4階、その上はただ埋め戻しすると無駄だ。なので有効活用する為に備蓄倉庫とされる事になった。更にホーム自体は交差点からエネオスのガソスタのあたりまでなのだが鳥居坂の方まで延長されて地下駐車場と備蓄倉庫などになった。確か鳥居坂の方は地下鉄が開通しても工事が続いていた覚えがある。
また、石原都知事は地下鉄開業後に自衛隊部隊を市谷から大江戸線乗車で麻布十番に移動させる訓練を行った。自衛隊を指揮したい、六本木から市谷へ防衛省が移転したのでデモンストレーションしたいという動機もあったろうが、都営の防災倉庫落成のデモの意味もあったのだ。
このように元々防災備蓄倉庫として整備されていたものを核シェルター化するというのが今回の肝なのだが、どうもその辺の背景知識が参照されていないように思える。
更に小池知事はワンフレーズ政治家なもんで、ちゃんと継続して計画策定するのかっていうのが疑問なのだ。山手線2階建はどうなった?
就任当初に小池知事は廃校となった都立市ヶ谷商業高等学校跡地を韓国人学校に転用する取決めを反故にした。これは韓国人学校化を約した舛添前都知事の独断の疑いがある事の他に、当時議席もない右翼政治ゴロのような人物を秘書としていて音喜多ら都民ファ議員をパシリにしていて、その影響もあると思われる。
だがその言い訳がヤバかった。保育園にすると言ったのだ。当時「保育園落ちたの私だ」などで保育園待機児童問題が炎上しており、それに乗っかったのだが、こういう時は実地を見てみないとポジショントークになってしまう。
市ヶ谷商業高は新宿区矢来町にあり牛込柳町駅が最寄り駅だ。しかも結構な狭隘路の中にある。学校としての敷地はかなり小さい。だが保育園としては過大な建物だ。
車での送迎は狭隘路の為に不可能だ。また保育園というのは電車で通うものではない。電車で送迎した場合、坂の下にある柳町駅から急坂を登らねばならない。
都市計画法と建築基準法に用途地域というのがあり、地区ごとに建てられる建物の種類が決まっている。例えば商業地域には木造家屋は建てられず、住宅地に工場は建てられない。また工業地域には学校を建ててはならない。これは住環境や教育を保護するための規制だ。
だが保育園にはなんの規制も無いのだ。これは環境がどうこうよりも、保育園は働く人の為の施設でありオフィス労働者、工場労働者が居たら自動的に必須となるのである。
こういう属性を持つので、保育園は遠方に通うものではない。住居か職場に近い場所に開設されるものだ。
矢来町は大きなオフィス街ではない。だから大きな保育園が必要な場所ではない。
ならば住居の方はどうか?この周辺は人口空洞化が進む地域だ。因みに増田の母校はここから徒歩30分くらいの場所にあったが生徒数現象で廃校されてしまった。
故にここに保育園というのはナンセンスなのだ。だがこの時は「場所的にナンセンス」と強く否定されなかった。
その後市ヶ谷商跡地はずっと遊休施設になり、最近に老人施設に一部転用という形になっている。保育園転用の可能性は検討さえされていない。
こういう感じの人なんで、核シェルター化は本気で継続する事業なのか?というのが非常に疑問なのだ。
更に現知事の問題はその問題性を感じさせない天賦のポピュリスト性にあって、市ヶ谷商高保育園転用の時もマスコミに半畳を入れられなかったし、今回も同様だ。なんか、テキトウ言っても通ってしまうという言論空間にいる。長期停電したら水没しますが、ガスタービン発電とその燃料備蓄はどのくらい?と言った具体性に繋がらないで、北朝鮮の核があるから、で通ってしまい、何も事業が進んでないまま皆忘れるというパターンに入ってるような気がしてならない。
コロナ初期のように「三密」「移動制限」みたいに全体の流れを言葉で決定付けるのは非常に高パフォーマンスを出すのだが、その後が続かない。ママチャリにクラリオンの高額なアンプ、スピーカー積んで街宣みたいな感じになるのがいつものパターンというか。
大江戸線清澄白河駅も麻布十番と同じくコンコース上の空間が防災倉庫になっている。だから清澄白河駅でも同じ核シェルター化が可能だ。ここの場合はホームが地下2階、コンコースが地下1階と深さが無いが、その代わりに隣接する清澄庭園にはみ出す形で地下構造物が築造されている(はず。見てない)。
あと、東京都の防災倉庫に指定されていないが、新宿中央公園地下も広い空間が広がっていてシェルター化出来そうである。中央公園の新宿方広場は昔階段や噴水が組み合わされた広場だったが、地下鉄大江戸線工事で巨大工事基地となっていた。
その後広場に何も置かない、噴水も置かないというのは何かの躯体が埋まっていると考えられるのだ。
だからこの二つでも核シェルター化は可能な筈だが、何分にも知事が何処まで本気なのか放言なのか判らないので…
江戸時代の古川改修工事で工区を区切り、○○N番、と書かれて居たのが由来。麻布は十番だったので麻布十番と。これは有名だね。因みに昭和初めまで森本町、山本町、永坂町という感じで麻布十番という地名は無かった。町の合併地名整理で古い呼び方を復活させたのだ。
エネオスのスタンドの斜向かいにマンシーズトウキョウというレストランがあるが、実はここがバブルなディスコのマハラジャ東京の跡地。因みに増田も行った事がある。んでその近くのファミマの隣のPCデポの隣がマハラジャWESTでここも増田は行ったこt
一の橋の交差点の五反田寄りに団地があってその裏の古川べりに広尾公園があるのだ。
これは、江戸時代の古川の改修工事の後にできた、川べりの土地を開墾して田んぼにして、そこを全部広尾と名付けたためだ。つまり、一の橋からずーっと遡り、広尾の天現寺橋までの両岸が広尾。また天現寺橋から北の方に今の外苑西通りに沿って笄川(こうがいがわ)というのが流れてて、その両岸も広尾だった。地名として無茶なのだが、どうもこれは広尾の人らが開拓に駆り出されたかららしい。
後にややこしいので川沿い広尾は近傍の地名に合体させられたのだが、一の橋付近だけはその地名変更前に公園名が付けられて残ったというわけ。
六本木交差点のアマンド横に坂道があり麻布十番まで繋がっているが、元はこの道は都電の線路だった。廃止されて道路になったもの。
で、ここを都電が走っていたので、その代替都バスもここを走る事になった。なので右折禁止の六本木交差点の真ん中で都バスが右折待ちしているのが見られた。路線は新宿駅東口~東京タワー。
で、都バスは昭和40年(1965年)に車掌乗務から、ワンマン均一料金に転換したんだが、車掌については本人の希望にした。それで殆どの車掌は退職するか配置転換されたのだが、十数人くらいは継続勤務を希望した。因みに狭隘路線などでは今でも補助的に車掌が乗務する路線はある。
この人達が最後まで残っていたのが新宿~東京タワー系統で、1990年近くまで居たそうである。
因みにこの路線は整理されて今では残っていない。
鳥居坂は急坂の下の方を大通りが通り、そこだけ水平なのでサンフランシスコのような光景になっている。なので勢いがありすぎるとジャンプする。というかした。バイクで急いで通ろうとしたらジャンプして転倒しそうになった。減速を心がけたい。
元麻布に登る坂の下にパティオ十番という広場があり、多分これは南部イタリアの街を模して作ったものだろうが、よくフリマが開かれている。麻布十番という下町+オサレな地域に相応しい出品が多くて雰囲気も良いし面白い。
都電廃止後に陸の孤島と化していた麻布十番に南北線と大江戸線が相次いで開通することが決定すると、沿道には「悲願達成!麻布十番に鉄道開通!」という横断幕が方々に掲げられ、まるで冬は雪に閉ざされ交通途絶される雪国のようで苦笑した事がある。
先ほどの飛地みたいな広尾公園から古川を渡ると、三田一丁目というかなり強烈な下町がある。この辺の人も麻布十番居住と言っているはずだから、麻布十番に一番安く住むには三田一丁目に住むのが一番と思われる。風呂が無い家も多いが、実は麻布十番には銭湯が残っているのである。しかもここは温泉が出ている。泉質は南関東ガス田の上なので黒湯である。
六本木のロアビルから曲がり鳥居坂に向かうと、周囲は東洋英和や古い教会などが立ち並ぶ雰囲気の良い地帯である。
ところがこの広大な一帯には再開発が掛かっている。なのでロアビルも廃業して廃墟となっている。ロアビルから鳥居坂まで全てである。
実はこの一帯はロアビルも含めて川崎財閥という財閥の所有地であった。GHQの財閥解体で解散させられたが六本木の不動産はそのまま所有し学校などへ売却されたり共同運営(ロアビル)されるなど管理されていたがその全部を再開発する事になった。デペロッパは当然森ビルである。港区にいる限り森ビルのブルドーザーから逃れられる者は居ないのである。核シェルターもいずれ森ビルのブルドーザーが…。
ミス日本は、様々な人種的な起源を持つ人々が暮らすこの日本社会を、より良い方向に促していくことを目的にしている→https://www.missnippon.jp/about/
基本的人権の擁護という普遍的価値観に基づいて、私たちの暮らす今日の日本社会におけるダイバーシティとインクルージョンの観点で、美とは何かを考えられないのであれば、ミス日本は普遍的価値観と対立する反社会的活動と言うべきだと思う
グローバリズムの中での西欧中心的な容姿的美しか肯定的に評価しないのであれば、ステレオタイプな評価基準として批判すべきだけれども、今日の日本に暮らす私たちは、コーカソイド、ネグロイド、モンゴロイドなどの様々な人種的な起源を持っているので、ルッキズムの観点では個々人の各々に固有な美を見出すべきだし、それにも増して社会を前進させる価値、明日の日本社会における目指すべき価値を見出し提案することにしかミス日本の価値はないでしょう
その観点で、コーカソイド起源の容姿が強く表れていることを以てリジェクトするのは、今日の日本社会における価値観に反する明確な人種差別で軽蔑すべき反社会的態度だと思うし、今日及び明日の日本社会における真・善・美を見出そうとする挑戦とは逆行する脳停止的態度だと思う
とはいえ、そもそもの前提としては、人間を並べて品評するという態度が傲慢だし醜悪な態度だと思うので、ミス日本に携わっている人の良識には疑問を覚える
法っていうのはね、人の復讐心や感情(が行き着く先の殺意)を国家が代行するためにあるものじゃないの。
ビジネス人権家とか言って人の心が分からない人間かのようにいつも肯定派は人格攻撃するけど。
むしろ法によって正しく人の世が治められるにはどうあるべきかを誰よりも深く理解しているからこそ、仮に自分の近親者が無惨に殺害されたとしても、国が殺し返すことで解決とするような安直な発想には理性で抗っていかなきゃいけないと了解しているわけ。
法というのはよりよい社会環境を作っていくためにあるものだよ。罪が生まれる原因を罪人個人に帰着させてしまうのは、思考の放棄とかわらない。
人間が育ち暮らす環境を制御できる最大の権限をもつ国家が、罪人を産みだす社会環境を作ってしまったことと、その改善に真摯に向き合うには、死刑で済ませてたら前進しないのよ。
だからさっさと死刑にするよりも国に負担はかかるけど、無期懲役として養い続けながら、更生の芽がないか探り続ける役目を負うくらいの覚悟が国にはないといけない。それがままならないくらいになれば、本気で社会構造を改革しないといけなくなるでしょ。
死刑にしてたら、どんだけ世の中が腐敗してても、ゴキブリ潰しを延々と続けていれば国は仕事してるように見えてしまうけど、そんな社会は誰も望まない。ゴキブリが大量発生しない環境を作るのが本来の仕事でしょ。
もちろん、実際的には、個人が責任を負える存在だと仮定して、罪が生まれる原因を罪人個人にある程度帰着させてしまうのは有効だよ。だから刑罰があるし、責任能力を慎重に判断した上でジャッジをするんだけど。
命を奪う究極の刑罰に向き合うときは、そもそも人間って本質的に、責任を負えるものなのか?ってことを、負えるものだと仮定する法の枠組みを越えて、科学的にちょっと立ち止まって考えなきゃいけない。
https://anond.hatelabo.jp/20231127194936 の続き
150時間が経過した。LVは110を超え、なんか適当に剣ブンブン振り回してても割とどうにかなる感じになってきた
武器は初期武器の短刀で戦っていたのがフレイルや弓を兼用するようになり、あと何種類か振り回してみて、
隙がない軽量武器より隙が大きい大型武器のほうが相手をピヨらせられる分だけ有利だったり、
盾でガードするより両手持ちでスピード処理するほうがバフの効果時間とか含め有利だったり、
そうなったらそうなったで、
なんか初期選択でめんどくさいほうからスタートしちゃったのかな感がすごい
モンハンの協力プレイって面白そうだなーと思ってモンハン買ったあと一人で練習して
100時間ぐらいずっと双剣を使った後に「双剣は協力プレイだと嫌われるよ」と言われたときぐらいの遠回り感がある
というかルーンなくしてもなんとも思わなくなってきた
これは戦闘での敗死より落下死によるところが大きい
というのもエルデンリング開始して10時間か20時間ぐらい経過したあたりでアナログスティックがドリフト状態となり、
ドリフト、噂には聞いてたがここで食らうかーと思いつつ、その後100時間以上ずっとドリフトしっぱなしで遊んでいるためで
敗死して祝福(セーブポイント)から復活した直後にコントローラー操作し忘れて落下死亡はしょっちゅうである(崖のすぐ近くにある祝福は多い)
このドリフト、ずっと状態が同じなら癖を覚えるなり買い換えるなりもするのだが、
症状は酷くなったり収まったりを繰り返し全く慣れない
ホーム画面からドリフトしまくってゲーム開始すら不可能な時もあれば一切動かず平穏を保つ時もあり、
ゲーム内だと、その場でちょっと左を向く程度で止まるときもあれば、
前進しようとしてもガクガクと震えて全く直進できずダッシュが必要な場面で歩かされて轢死するときもある
先週は狭い足場を辿って降りてく王城の地下で2時間ぐらいドリフト足場踏み外し落下死を繰り返していた
とまあ、そのぐらい死に続けているとルーンはほぼ頭から抜け落ちていくし、
ルーンを気にしなくなると死ぬペナルティがなくなるということで、死ぬことも気にならなくなる
ドリフトも途中は流石にコントローラー買い換えようかなと思っていたのが、しばらくすると
「むしろ150時間を経過してそろそろ飽きがきそうなゲームプレイにランダム性を加味することで飽きが来なくなってるのではないか」と思えてくる
このあたり、死を歪めて生と死の境目が曖昧になり、死が溢れかえっているエルデンリングの世界観にプレイを通して近づき、
そして死を超えて生への脈動を感じはじめていると言えそうで、
アナログドリフトというコントローラーの物理性を通してゲーム世界を体感しているのだなと
そんな感じでダラダラ遊んでる
もともと私は魔界の深層でガルボスギョル様に奉仕する存在だった。
しかし、ある日突然、人間界に送り込まれることになった。その日から、私の生活は一変した。
魔界では、私はガルボスギョル様の側近として、様々な魔法の知識を身につけ、魔界の秩序を守るために奉仕していた。
しかし、人間界では、そのような力は全く役立たない。人間界では、金銭が全てを決定する。
そして、私はその金銭を持っていない。
そして、そのためには、人間たちが価値を見出すスキルが必要だ。
私は魔法の知識を持っているが、それはここでは全く価値がない。
人間たちは、互いに助け合い、共に生きていくことの大切さを教えてくれる。
私は、その中で多くのことを学んでいる。
人間たちは、困難に立ち向かい、自分たちの生活を改善しようと努力する。
私は、人間界での生活を通じて、自分自身を見つめ直す機会を得た。
私は、魔界での生活を捨てて、人間界で新たな生活を始めることを選んだ。
それは、私にとって大きな挑戦だった。
19歳の時に元増田と同じくらい追い詰められていた時があって、そのときは「いのちの電話」に電話して自分のことを洗いざらい話して救われた。
自分が知らなかった福祉の制度について教えてもらえたりして、その場で何もかも解決したわけではないけど思考の固着状態から一歩前進することはできた。
しかし戦争の道具が発展し機関銃が装備されるようになるとその役割は終わった。
騎兵が無くなった理由は、戦場において機関銃の絶好の的となったからだ。
歩兵のように匍匐前進も出来ない騎兵は戦場においてその機動する空間を失ってしまった。
それでも当時特権階級が支配していた軍隊においてはその出自が騎兵科である軍上層部によって騎兵が尊重され即座に消えてなくなることはなかった。
とはいえ戦場においてただ機関銃になぎ倒される存在になるわけにもいかず、騎兵は戦闘中には下馬して歩兵としての役割を果たすこととなる。
さらに軍隊にモータリゼーションの波が及ぶと軍馬育成のコスト削減のため騎兵は完全に消滅することとなる。
現在のウクライナの戦場において戦車は活躍する場がないと言われている。
その理由はドローンなどの徘徊型兵器が比較的低空で活動する戦場では戦車は格好の的となり、その機動するスペースが存在しないからだ。
これは騎兵が機関銃によってその活動を制限されたことと似ている。
ネトウヨ国家に対する天罰である地震が惹起した今、永遠戦犯国・日本を一番救う手立てはなんだ?
潜在的な敵性階層である無学な田舎者共にカネをばらまくことか?
収奪された人民の血と汗である社会資本を直して資本家共を肥え太らせることか?
憎むべき壺ネトウヨ・ナンミョー共を打倒し、資本家共を地獄に突き落とすその日まで、人民の前衛たる栄光ある我が党の前進に全てを捧げることこそが日本を、そして東アジアを、そして世界を救うことに他ならない。
ならば、都市部プチブルの有象無象が投じたカネはすべからく、人民を領導すべき共産党支部の再建と、それを支持する市民、そして政権を奪還するための戦いに投ずるのが当然だろう。そうして初めて悪銭は浄財へと止揚されるのだ。
他に正しい使い道などない。
結局、はっきりとした一貫性のある主張も立場もなにもない連中が、すでに起こった出来事という過去の情報に踊らされて、その意見を右往左往させてるだけよな
どちらが正義だとか悪だとかばかりにしか目が向かなくて、自分自身の主張を世界に押し通すという気概などまったくないから、外部情報の評価ばかり前後左右あらゆる方向にその都度向きを変えてるから、一向に話もなにも前に進まない
ハマスにしろイスラエルにしろ、たとえどんなやり方であろうと意味がなかろうと、やると決めたらやるという明確な意思の発現、それ以外に世界を動かすものなど何もないというのに
べつに戦争に限らずすべてにおいて自身の立場を明確にしないままの人間ばかりだから、政治もなにも変わらないままあっちこっちに話が飛んで、結局何も変わらず、たまたま何かが前進したらそのわずかな距離を一時の感情で喜んで、また反れて戻ってを繰り返して一生を終える人間の集まり
自分が死んだ後のことなど誰も興味がないから、究極本当の意味で変革を起こしたいなんて考えてる奴は一人もいなくて、個人の短い一生の中でなんとなくのわずかなやってやった感を味わえればいいだけなんだろうな