はてなキーワード: 前進とは
ウクライナ軍は、ロシアの武器と熟練部隊がクルスク前線地域に到着し一部の地域で進撃が鈍化し始めたことで、初戦の成功の勢いがなくなり始めていることを認識している。
前線が安定すると(まだ数日かかる)、ロシア軍はこの地域のウクライナ軍を集中的に砲撃し始めるだろう。
ウクライナ軍は陣地を固めなければ大きな損害を被ることになる。
その後、ウクライナの目標は冬が来るまで持ちこたえ11月の米国大統領選の結果を待つことになる。
選挙後に交渉プロセスが開始され、仮にロシア領土の一部を支配下に維持することができればウクライナ側に利益がもたらされる可能性がある。
一方、ウクライナの作戦はウクライナ国内の他の戦線には影響を与えていない。
東部戦線を防衛していた熟練部隊を転用するうというリスキーな選択は、ロシア軍が毎日のように前進しているドンバスの陣地を防衛する部隊にダメージを与えている。
ロシアはドンバスからクルスク戦線に多くの資源を振り向ける必要はなく、補充部隊とベラルーシから兵員が送られた。
つまりクルスク作戦は戦争の全体的な流れを変えることはなく、当初のウクライナの勝利は徐々に逆転し、ロシア軍は消耗戦を続けドンバス全土を制圧することになる。
戦争は悲しいことに続く…
ゲーム名は不明、「ガンダム バオバブ」等で検索しても出てこなかったのでここに残す。
投稿日:2007/06/17(日) 02:19:31 ID:S/ojQJn30
二次βは、マップは死ぬほど広いのに、ミデアとガウがすぐ近くにある場所以外で死ぬと詰むので、戦場は一点しかない。そのほぼ全部のユニットが集合してる戦場に行くまでに3時間かかる(マゼラアタックだと半分くらい?)。
そこで、横一列に戦車を並べて、一斉に前進して弾を撃って、一斉に後退を双方が繰り返す。後退が遅れたり前進で飛び出すと、一斉砲火を浴びて即死。
これを一ヶ月くらい繰り返すと、MSが買える。
MSは前線に出ると戦車の一斉砲火で即死するので、後方でピョンピョン跳ねてるしかない。
投稿日:2007/06/17(日) 08:06:42.68 id:chABf3Ka
オーストラリアという名の、ただの黄色い平面が広がってるだけという
と堂々と書いてあって、茶吹きそうになった
https://kotaku.com/this-was-never-about-anything-other-than-hate-1851602820
再び醜い頭を育てたゲームの反動的な右翼運動も変わらず、それは理由があって今起こっています。社会文化的問題は選挙の年に熱のピッチに達しており、ちょうど10年前のように、政治的な怒りは大衆文化に血を流しており、公共の場で敬遠されているが、オンラインで賞賛されている(そして愛されている)素朴で印象的な若い男性を利用しようとしている人々によって捕らえられています。男性の若者の過激化がインターネットによって支えられ、永続していることを証明する無数の研究や物語があります。彼らは私よりもはるかに効果的にあなたを納得させるので、それらを読んでください。しかし、私が言えることは、特に何ヶ月も絶え間なくこの怒りに直面して、この種の運動は憎しみだけによって支えられているということです。
人種差別は論理的な立場ではないので、論理でそれを倒すことはできません。事実は人種差別主義者、特にビデオゲーム文化に家を作る退屈な種類の人種差別主義者にとって重要ではありません。常に分割する新しい髪があるだろう - ギタ・ジャクソン、余波
それは憎しみの特別なブランドであり、進歩から戻る途中で空中をケアする一種の後方論理ブーメランです。創業以来、文化空間としてのゲームは、主に白人の少年と男性によって支配されていました。あなたはそれに参加するためにある程度の富と自由な時間を持たなければならず、それらは80年代と90年代には疎外されたグループに容易に利用できませんでした。男の子を対象としたマーケティングとゲームのデザインは、この趣味が彼らだけのものであるという広範な認識をますます煽り、それに興味を持つ多くの女の子が親の抵抗と文化的回避に遭遇しました。私自身は、夏の仕事のお金でXbox 360を買う余裕があったので、両親が「男の子の趣味」に餌を与え続けることを拒否した後、ゲームで前進しただけで、私の話はユニークではありません。
選挙結果を受けて他人の投票先を揶揄したり馬鹿にする行為は、民主主義の根幹を揺るがす極めて有害な行為です。以下にその理由を詳細に述べます。
民主主義は、多様な意見や価値観を尊重し、それらを元に社会の方向性を決定する制度です。他人の投票先を嘲笑する行為は、この多様性を否定し、自己の意見のみを正当化しようとするものです。
2. **分断の促進**:
投票先を理由に他人を揶揄することは、社会の分断を深める結果を招きます。健全な社会は、対話と理解を基盤に成り立っていますが、他者を攻撃することで対話の場が失われ、相互理解が妨げられます。
投票行動は個人の自由意志に基づくものであり、その選択を尊重すべきです。他人の選択を嘲笑することは、その人の自由意志や個人の尊厳を侵害する行為であり、倫理的に問題があります。
他者の意見を馬鹿にする行為は、建設的な議論の妨げとなります。選挙結果について意見の相違があるのは当然であり、その違いを認めた上での議論こそが社会を前進させる原動力です。揶揄や嘲笑はその議論を不可能にし、対立を煽るだけです。
自分と異なる意見や価値観に対して攻撃的な態度を取ることは、次世代への悪影響を与えます。民主主義社会の一員として、他者を尊重し、多様な意見に耳を傾ける姿勢を示すことは、子供たちにとって重要な学びとなるはずです。
これらの理由から、他人の投票先を揶揄したり馬鹿にする行為は、民主主義社会の健全性を損ない、社会の調和を乱す極めて有害な行為です。私たちは、対話と理解を重んじる姿勢を持ち、健全な議論を通じて社会の発展を目指すべきです。
母子で逃げて見捨てるか今からでも治療・服薬を再開するかの2択だと思う
長年の無治療は予後が悪いがそれでも自宅で看るのは無理だからせめて服薬はしてもらう必要がある
治療の約束が果たされなかったとき母子で逃げることも考えて欲しい
読んでほしいもの
【3459】保健所に相談し、一歩前進しました(【3430】のその後)
https://kokoro.squares.net/?p=6150
【2384】異様な生活を続けている統合失調症の叔母は本当に治るのでしょうか
https://kokoro.squares.net/psyqa2384.html
俺は年間200冊の本(もちろん漫画は除く)を読んでいるが、坊っちゃんだけは読んだことがなかった。
漱石の作品は10作ぐらい読んでると思うがそれでもこれだけはどうも読む気が起きなかったのだ。
なにせ主人公が新任教師で田舎を小馬鹿にした人格破綻者という設定でありながら、その責を漱石と同じ英語教師ではなく漱石の元同僚をモチーフにした人物に負わせ、更には「こういう人格破綻者はこういう理系色の強い学校の出身に違いないのだ」とばかりに東京理科大(の前進)を卒業したという設定まで加えてきているではないか。
俺はこういう文系の輩が理系を小馬鹿にするような態度がどうも気に食わんのだ。
だが俺の知り合いでありネットでもブイブイ言わせている某氏より「翔んで埼玉よりもこっちの方が面白い」と言う話を聞き、そこまで言うならと思い読んだ次第である。
俺は翔んで埼玉が好きだ。
ああいったタイプの作品だとテコンダー朴が斎場だと思っているが、その次に来るのは翔んで埼玉だと思っている。
みてーなノリのレビューマジでうっぜえええええええええええええええええええええってなりませんか?
いやマジでさ、超メジャーコンテンツを遅ればせながらに偉大なる俺様が消費してやったので有り難いレビューをくれてやろうぞみたいな態度マジでキメーからよお?
いい加減やめない?
リアルタイムで乗っかることさえ出来なかったアンテナゴミクズ人間の時点でお呼びじゃねえから?
別に興味ねえんだろ?
なかったんだろ?
関わる価値なしって下に見てたんだろ?
そんでノコノコやってきておいて、さてさて皆さんお待ちかねのこの俺様がこの作品をいっちょ語ってやりますかのサプライズで大バズ間違いなしで作品も嬉しいでしょうなあみたいなノリさぁ?
マジでうぜええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ
マジでうぜええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ
調子こき評論家気取りインターネット在宅コンテンツ長文感想おじさん達へのカウンターに貴殿の作品を勝手に拝借してしまったことを遅ればせながらお詫び申し上げます。
世間における読破率の高さと、読破後の「今更誰かが一言申して語るようなこともう残ってないだろ」感の高さから白羽の矢を立てた次第にございます。
文章表現の巧みさから肯定的なレビューも数多い中で、都会人・田舎人ともに幅広く小馬鹿にするような内容にアンチも多く、それでいながらバカにされたはずの四国では一大コンテンツとして今も愛されているという奇妙な立場、これらのシチュエーションが生み出す「今更になって一回読んだだけの素人が語れることの残ってなさ」は極めて類を見ないレベルではないでしょうか。
顔がぺしょぺしょになるくらい泣いてしまった。
原作をあまり好きじゃないので、映画の前評判がよくても観るのどうかなあ? と躊躇ったんだが、観てよかった。
映画版のどこが好きかというと、京本の藤野に対する感情が丁寧に描かれているところ。原作でも、京本は藤野に対して盲信レベルの好意や尊敬の念を懐いているのは解りやすくかかれているけど、映画版で良いと思ったのはそこじゃなくて(そこは原作に忠実にえがかれているが。)、いつも藤野に手を引かれ、彼女の背中を見つめていた京本の感情の大きさの描写だ。
自分のことを子供部屋から外へ連れ出してくれて、外の世界を見せてくれた藤野の背中が、京本の目にはどんなに頼もしく、そして眩しく映ってたのかということ。繋いだ手はやがてするりと抜けて離れてしまいそうになるが、指先だけが引っ掛かかっているだけになっても、藤野は京本の手を離さない。
だが、共に外の世界を歩きまわるなかで、京本は自分自身の興味関心ごとを見つけ、藤野の手を離れ立ち止まる。
原作を読んだとき、あまりこの話好きじゃないなーとおもった原因が、京本の気持ちがいまいちよくわからなかったことだ。彼女が藤野とは別の道に進もうとするのは、単純に絵が上手くなりたいという欲求だけでなく、心の底に隠し持ち燻らせてきた不満がそうさせるのではないか? と邪推してしまった。京本のそんな様子が藤野に寄った視点で描かれていたので、藤野の気持ちも天才肌な友人に対する嫉妬や支配欲の発露なのかと思ってしまった。
という、どこまでも交じりあわない、噛み合わせの悪い二人、という印象が、原作を読んだときには京本の得体のしれなさにより強化されたように感じた。
けれども映画では京本の感情よりクリアなので、藤野とは別の道を歩むと彼女が告白したとき、そこには藤野に対して何らかのネガティブな感情があるわけじゃなくて、本当に自分のしたい事が見つかったこと、そして自分も藤野のように自立し自由に歩いてみたくなっただけで他意はないということが伝わってきた。それに連れて、そのときの藤野の心情の解釈もかわった。支配したい、足を引っ張りたいというより、唯一無二の友人が去っていこうとしていることへの淋しさ、置いて行かれることへの不安。いつも自分の足で立ち果敢に前進していた藤野だが、京本なしには心もとなくて歩いて行けない。
噛み合わないと思われた二人だが、漫画という共通点で繋がり、共に漫画を描いた日々を過ごしたなかで、唯一無二の親友同士になっていた。その関係性の精緻な描写のお陰で、観ていて変な邪念が湧きづらかった。
藤野と京本、彼女たちが互いの持ち味でもって共同し漫画に打ち込んでいた日々。それは藤野はもちろん京本にとっても楽しく幸せな日々だった、というのが、作中のリアルの時間軸ではなく、思い出として物語の終盤で示されるのも、良い演出だった。
「できなかったことができるようになる」という過程の配信が重要になるが
さくらみこはあらゆることに対して「頑張ればギリギリなんとかできる」くらいの能力を持っているので
この前は自習し、他のホロメンに教わり、学研とコラボし、そこで成長を見せた
わかるだろうか、「九九ができない」だけで複数の企画を作ったうえで企業コラボまでするんだ
しかも彼女はまた1年くらいしたら忘れるだろうから、何度でも「覚える」ができる
これが優秀すぎると「忘れた振り」になるが、それでは本当の味は出せない
常に「そんなの簡単だ、バカにしないで!」→できないを発動させられる
自分なら3時間くらいで諦めるかな、というしんどい挑戦でも、何十時間もかけて達成する
途中あまりにもできなくて視聴者のほうがイライラしてくるが、それでもめげない
彼女は、できないとしても
落ち込まず、卑屈にならず、言い訳も(あまり)せず、ただキレ散らかすというところだ
人には人のやり方がある、と言いつつ独特な成長をしていく
まるで漫画キャラや、漫才師のような、笑いの流れにもっていく、あれは中々できない
まとめると
色んなことが下手+楽観的で気軽に挑戦してしまう+根気がある+キレ散らかしながらも前進する+やり遂げる → 感動 → 何度でも忘れることが可能
これはVの神に愛されてる