はてなキーワード: ロバートとは
自己啓発セミナーにハマって俺を救ってやろうと必死に勧誘してくるしつこい兄貴が送ってきたブログ記事が面白かったので訳してみた。
元ブログ記事:http://themodernsavage.com/2008/09/30/the-dilemmas-of-male-virgins/
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年配の童貞男の数は日に日に増えている気がする。仮に増えていないとすれば、よりその存在が目立つようになっているのは間違いない。インターネットの匿名性と、映画「40歳の童貞男」のお陰か、童貞男が自分の事について、匿名性を保ちながら世界に発信する事が一般的になった。
インターネットは童貞男で溢れている。ここやここなんかを見れば分かる。かくいう私も去年27歳で童貞を捨てるまでは同じ境遇だった。
オタクやギーク、負け組を特集するようなリアリティ番組の多くには必ずと言っていいほど童貞を主張する男性が登場する。VH1の「The Pick Up Artist」の前回のシーズンだけ見ても、参加者の半数は童貞で、しかも最年長は45歳と来た。
男が20代後半を過ぎて童貞であり続ける正当な理由なんて存在しない。例外があるとすれば、深刻な身体的・精神的傷害を持つ場合くらいだが、それは童貞男人口の中でもごく少数で、大半はどこにでもいる普通の男性だ。しかし何故か彼らはどうやってセックスまで持ち込むのか全く検討がついていない。それだけの年月を生きていたら、ラッキーイベントの一つや二つに遭遇するだろうと思う人間も多いかもしれない。しかし、問題はそこではないのだ。
ちなみに、読者の中には結婚するまで童貞を捨てたくないという人もいるだろう。この記事は君たち宛てのものではなく、セックスしたいけど出来ない人達向けだ。そもそも性欲旺盛な男としては、一体何でセックスを我慢したいのか全く理解できないけど、それはまた別の話という事で。
最初に挙げたいのが、殆どの男性がオナニーに使っているポルノが、YouTube的なポルノサイトの普及のお陰で非常に入手しやすくなっているという事だ。これらのサイトが多くのアクセス数を稼いでいるのはAlexaトラフィックランキングを見ればすぐに分かる。YouPorn(41位)やRedTube(49位)は全ウェブサイトの中でもトップランクに入る人気で、1日で何百万ものアクセスが入る。ちなみにNYTimes.comは97位、ESPN.comは71位だ。
Alexaランキングサービスを知らない人に説明すると、順位の数字が低いサイトほど、そのサイトのトラフィックが多いという事だ。例えばGoogleは2位で、このブログは259,388位だ。下の表を見れば分かる通り、ポルノに対して高い需要がある。
http://themodernsavage.com/wp-content/uploads/2008/09/alexa_porn_chart.jpg
ポルノの何が悪いかって?それ自体が悪い訳じゃないし、私もみんなと同じようにポルノは好きだ。問題なのは、それによって男性が女性を口説く必要が無くなり、口説く気すら無くなっているという事だ。自宅で望むままに性的欲求を発散出来るのだから、誰がそんな事をわざわざするだろうか。
女性から拒絶されるような苦労も無く、楽に欲求を満足させられるとしたら、自己改善のモチベーションが著しく削がれてしまう。そして自己改善は男性が女性から好意を受けるのにキーとなる重要な要素の一つだ。
別にポルノが全て悪いと言うつもりはないが、間違いなく良い影響を与えてはいない。ポルノはテクノロジーによって生み出されている根本的問題の一部にすぎない。インターネットやビデオゲーム産業の発達により多くの娯楽が生まれ、少年が校内で女の子を追い掛け回す時間が無くなっていった。代わりに誕生したのが、12時間テレビの前でララ・クロフトをオカズにオナニーするジョニーくんという訳だ。
いわゆる「オタク」というステレオタイプが童貞と結び付けられる事には理由があるのではないか。パソコンを持ち、最先端のインターネットポルノにアクセス出来るのはいつだってオタクだ。これははたして偶然なのだろうか?答えはみんなに委ねよう。
童貞が長期間童貞であり続けるほど、童貞卒業が難しくなる傾向にある気がする。下記の残酷なグラフがそれを表している。
http://themodernsavage.com/wp-content/uploads/2008/09/age-vs-virginity.jpg
私の持論では、童貞男が年を取れば取るほど、自分のセックス出来る能力に疑問を抱き、自信低下の下方スパイラルに陥ってしまう。そして「自信」は女性から好意を抱かれるために必要なメイン要素だという、どうしようもない矛盾がある。
若い内はセックスできない理由を運の無さだと言い切る事が出来るが、時が経つにつれ、男性は自意識過剰になり、自分のルックスに疑問を抱き、自分の欠陥を社会のせいだと言うようになり、やがて自尊心は地に落ちる事になる。自分の置かれた状況にあまりにも絶望し、すっぱり諦めてしまう可能性もある。40歳になり、ルックスはそこそこいいのに、心の奥では女性に対して隠れた憤りを抱いているような男になってしまう。
童貞男の中には単に悪いアドバイスを受けてしまい、女性を引きつけるための基本的スキルが欠落しているだけの者もいると思う。別にこれは理論だけの話じゃなく、どこの恋愛相談系の掲示板を見ても分かる事だ。そこの書き込みを見れば、殆どの男達(その殆どが童貞)は、自信やボディランゲージ、ナンパ、アプローチ方法、女性との会話等といった事に対してからっきしである事が分かる。
女性について何も知らない人に対して「自分らしくすればいい」と言うのは最悪だ。それは「それでうまくいった事はないけど、とりあえず同じように何度も繰り返していって、いつか運良く上手くいけばいいね」とアドバイスしているようなものだ。
彼らは駄目な所からアドバイスを受けているだけで、重要なのは魅力のいろはを学ぶという単純な事だけかもしれない。
童貞を卒業する前、こんな意味不明な思考をいつも抱いていた。当時はもっともな考えだと思っていたけど、その内容はだいたいこんな感じだ:
あの子は俺の事が好きで俺も彼女の事が好きだ。彼女は素晴らしい人で、きっと長期的な交際、しいては結婚にまで発展する運命の人かもしれない。もし告れば、今すぐにでも付き合い始められる…だけど問題がある。俺は他の女性とセックスした事がなく、もし彼女と結婚してしまったら俺が生産セックスする相手は彼女一人だけになってしまう。せめて人生の中で複数の相手とセックスしたい。だから、他の女性とセックスするまでは彼女にアプローチしない。
無茶苦茶だろう?多分人生でそういう機会が20回ほどあった気がする。これは成功に対する恐怖と、それによる自己妨害行為で、これもまた一つのどうしようもない矛盾と言える。無茶苦茶な考えだという事はもう理解していて今はもうその考えは捨てたけど、同じような考えを抱いている童貞男が他にもいるだろうというのは容易に考えられる。
最後に、30代・40代の男性の人達へアドバイス。たとえ大して好きでもない女性を口説かなくちゃいけなくても、まずその「最初のセックス」を済ませてしまう事に専念しよう(もちろん合法的に)。初体験を済ませるだけで大量の重荷から開放されるし、その初体験だけで呪いを打ち破るだけの効果はある。
『これはよろめくような現実です。私たちは完全に商業銀行に依存しています。
現金であれ、クレジットであれ我々の使っているドルは誰かしらが借りなければ生まれないのです。
もし銀行が充分なお金を創造したなら私たちは繁栄するでしょう。
そうでなければ私たちは飢えます。私たちは恒久的な借金によるマネーシステムなしでは、
絶対生きられないのです。誰かがこの状態を完全に理解したとしても、
このバカげた悲劇的で絶望的な私たちの立場をほとんど信じられないでしょう。
でもここにあるのです。』
ロバート・H・ヘンフィル (アトランタ連邦準備銀行クレジットマネージャー)
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/business/9191/1333369457/
EFFのこの記事をざっくり訳した。訳の正確さはまったく保証しない。素人の雑な訳です。ちゃんと読みたいひとは原文参照すること。pseudonymはとりあえず「仮名」にした。
A Case for Pseudonyms (Commentary by Jillian York)
https://www.eff.org/deeplinks/2011/07/case-pseudonyms
pseudonym (スードニム) 名詞:著者が身元を隠すために使用する架空の名前。ペンネーム
個人が生来の名前とは別の名前を使いたいと考える理由は無数にあるだろう。生命や生活への脅威への配慮もあるだろうし、政治的、経済的報復へのリスクがあるかもしれない。人種差別の防止を望んでいることもあるだろうし、生活文化圏で発音や記述のしやすい名前を使うこともあるだろう。
オンラインではさらに理由は増える。インターネットカルチャーでは、オフラインでの人格と結びついているかもしれないし結びついていないかもしれない「ハンドル」や「ユーザ名」を使うことが長い間推奨されてきた。古くからのオンライン住人のなかには20年以上使っているハンドルを持つものもいるだろう。
仮名での発言は歴史的にも重要な役割を果たしてきた。ジョージ・エリオットやマーク・トウェインの文学的偉業、ザ・フェデラリスト論文でのパブリアスの政治的主張、18世紀ロンドンでのユニウスのパブリックアドバタイザー紙への寄稿。人々は仮名の下で公の論議に大きく寄与してきたし、今日に至るまでそれは続いている。
Google+の身元確認ポリシーから、オンラインプラットフォームにおける仮名性に関する新たな議論が持ち上がってきた。Google+はユーザに「友人、家族、同僚が普段呼ぶ名前」を使うことを要求する。このポリシーは、Facebookの「本名と実情報を提供せよ」という要求と似ている。Googleのポリシーは、Google+の開始から数週間で同コミュニティーの内外両方から大きな注目を集め、ソーシャルプラットフォームがアイデンティティに制限を加えるべきかどうかという議論に火をつけている。「Skud」という名前を使っていたことによりGoogle+から追い出された元Google社員、キリリー・“Skud”・ロバートの詳細な記録によれば、すでにかなりの人数のGoogle+ユーザがこのポリシーに基づくアカウント停止を受けている。
ソーシャルプラットフォームでの「実名」支持者は多くの論点を示している。実名はユーザの行動を改善し、より文化的な環境を生み出す。実名であれば攻撃者を追求することが容易になるのでストーキングや嫌がらせを防ぐ助けになる。実名ポリシーがあることで、ユーザ監視のために当局がサービス内部に「侵入する」ことを防げる。実名によってユーザは行動に責任を持つようになる。
これらの論点にまったく意味がないわけではないが、問題を間違った方向から議論している。厳格な実名ポリシーの支持者は、実名使用を主張するポリシーに良い面が一つあることを示せばいいのではない。彼らはこれらの利点が、いくつかの非常に深刻な問題より重要であることを実証する義務がある。
例えば、数千人の人々が1月蜂起に参加するきっかけになったFacebookページ「We Are All Khaled Said」を作成した著名なエジプト人、ワエル・ゴニム氏のことを考えてみよう。ページが作成されたのはハリド・サイードが警官によって殺害されてからすぐの2010年夏だったが、ページが本当に勢いを得たのはその年の後半だった。しかしその後も抗議運動の中で存在感を得るのは難しかった可能性もある。2010年11月に管理者(今ではゴニム氏だと知られている)が仮名を使っているとの報告によってこのFacebookページは停止された。Facebookは「身元の明らかな」人物が介入することによる解決を提供することができたが、ゴニム氏はFacebookのスタッフと連絡をとって解決することができたためこの件は非常に特殊な事例となった。誰もがこのようなコネクションを持っているわけではないし、アカウント停止に抗議する方法を知らないことでどれだけ多くの人々が無視されているか知るすべもない。ゴニム氏のケースでは実名を使うことは深刻な危険を伴っていた。仮名であれば安全という保証があるわけではないが、仮名は当局による活動家の追跡を大きく困難にする。
個人が本名以外の名前の方が安全に感じられる理由は無数にある。例えばLGBTコミュニティのティーンエイジャーはオンラインでいつも嫌がらせを受けるので仮名を好むかもしれない。政府のために働く配偶者やパートナーを持つ人や生活を隠したい有名人は、オンラインでは別の名前で行動するほうが安心だと感じるかもしれない。家庭内暴力から逃れている人は加害者から発見されないために、部分的または全面的な別名の使用を望むかもしれない。非主流派の政治的見解をもつ人は仮名を使うことによって生活を危険にさらさずに済ますことを選択するかもしれない。
マッキンタイア対オハイオ選挙委員会の裁判でジョン・ポール・スティーブンス最高裁判事が提案したとおり、
「匿名性は多数派による暴虐からの盾である。よって匿名性は権利章典、また特に米国憲法修正第一項の本来の目的、不寛容な社会において個人を報復から思想を抑圧から守ること、を体現している。匿名である権利は詐欺的行為に悪用されるかもしれない。政治発言はその性質上、時として不愉快な結末を迎えるが、一般的に我々の社会は言論の自由の悪用による危険よりもその価値に重きを認める」
「本当の」名前を使うことと同様に、「本当の」名前の使用の強制も、考えを明らかにすることによる被害を恐れる人々によって対話から排除されるという、現実的な結果を招く可能性がある。実名が対話の「文化度」を上げるかもしれないことに価値を見出す人がいる一方で、それは間違いなく多様性を損なう。
ギークフェミニズムのブロガーたちは、実名ポリシーの被害にあっている人々をWikiにまとめることで、個人がなぜ本名以外の名前の使用を許されるべきなのか何百もの可能性ある理由を示している。このリストに示された多くの例が安全のために仮名を使用している危険に晒された人々を説明しているものの、他にも仮名を選択できるべき重要な理由がある。
Michael Anti氏の例を見てみよう。彼の本名はJing Zhaoで、中国人ジャーナリストだ。おそらくは何者かが生来の名前を使っていないと報告したことによって、2011年1月に彼はFacebookから追い出された。10年近くニューヨーク・タイムズ等で「Michael Anti」のペンネームを使っていたにも関わらず、Facebookは実名ポリシーの厳格な強制を主張した。
Google+でも、誤判定があるとして、アカウントの即時停止ではなく、ユーザに警告を与え名前を変更する機会を与えるように処理手順を変更すべきだと促す動きがでている。
「本当の」名前を要求するポリシーを大規模に実施するのはほぼ不可能だし、多くの例が示すように強制は著名人や敵を持つ人々に対して不当に使われることが多く、またそれはコミュニティ監視機構の結果として生み出されやすい。
GoogleであれFacebookであれ、その他の企業であれサービスに適合していると思われるポリシーを作成する権利がある。しかしこれらの企業が多様性や表現の自由を犠牲にしておきながら、「実名」ポリシーがより文化的な態度を生むと主張するのは浅はかだ。「本当の」名前を要求するポリシーへの移行はオンラインでの表現の自由を萎縮させるだろう。
彼らの独占の仕方の前では、ウォルマートさえ街角の個人商店にすぎず、
そのような候補者は限りなくあるだろうが、
科学や最先端研究を理解することが望ましいということには、誰もが賛意を惜しまない。
最新の知識を欠いては安定した民主的決定は不可能だ。
タイムズ紙やサンデー・タイムズ紙をアクセスするのに24時間あたり1ドルという、
マードック流の購読システムには飽き飽きしている人も多いだろう。
しかし、少なくともその期間内はいくつでも記事を読めるし、ダウンロードしておくこともできる。
エルゼビアの出版する学術雑誌では、1つの論文を読むのに31.50ドルかかる(原注1)。
シュプリンガーは34.95ユーロ(原注2)。ワイリー・ブラックウェルは42ドルだ(原注3)。
1981年に出版されたレターを読みたければ、やはり31.50ドルだ(原注4)。
もちろん、(まだそれがあるとして)図書館で読むという選択肢もあるが、
図書館も多額の購読料に苦しめられている。
化学分野の学術雑誌の場合、年間購読料は平均して3792ドルだ(原注5)。
私が見た範囲ではエルゼビアの Biochimica et Biophysica Acta の2万930ドル(原注6)が最高額だ。
大学図書館は購読を打ちきることで帳尻を合わせようとしているが、雑誌購読費は予算の65%を占めている(原注7)。
そのつけは学生に跳ね返ってくる。
一方、学術出版社は論文と論文の査読と編集作業の大半とをタダで手に入れている。
コンテンツの製作に当たって支払いをするのは出版社自身ではなく、
そしてそれを読むために、私たちはもう一度支払うのである。
上がりは天文学的だ。
前会計年度のエルゼビアの経常利益率営業利益率は 36% (20億ポンドの収入中7億2400万ポンド)(原注
8)。
エルゼビア、シュプリンガー、ワイリーはそれぞれ競合企業を買収した結果、
研究者は最新の情報に追いつくためそれを読まなければならない。
多くの場合、出版者はたくさんの学術雑誌をパッケージとしてまとめて購読するよう、図書館に強制している。
この国の人々を食い物にした極悪人の一人、
ロバート・マクスウェルが学術出版でその財の大半をなしたことは驚くに当たらない。
製作と配布の費用をまかなうためにこれらの購読料を課さざるをえない、と出版社は主張する。
また(シュプリンガーの言葉では)「雑誌のブランドを築き、学術情報流通を電子的基盤で支援する」という付加価値を提供もしているという(原注10)。
「出版社が出版プロセスに与える付加価値は相対的にはほとんどないと考えられる。
もし出版社の反論するように出版プロセスがそれほど複雑で高コストだとすれば、40%の利益率は不可能だ」(原注11)。
大出版社は、投稿から出版までに1年以上の長いプロセスをかけることによって、
研究を伝播させるどころか研究を隠してしまっている(原注12)。
ここに見られるのは、公共の資源を独占し不当な価格を課す、純粋なレンティエ資本主義である。
その製作に当たって自分たちがすでに支払っている知識を得たければ、
これが学術界に対して害をなすのはもちろんだが、
世俗に対してはさらにひどいことになっている。
私は主張をするときは根拠となる原典をたどれるようにしておくべき、
だがその主張を私が公正に要約しているかどうか、読者が検証しようと思っても、
その費用を支払えるとは限らない。
数千ポンドを支払わなければならない(原注12)。
「全ての人は自由に……科学の進展とその恩恵を享受する権利を有する」とする世界人権宣言に抵触する恐れすらある(原注13)。
Public Library of Science (PLoS) や物理の arxiv.org などの優れた事例もあるとはいえ、
オープンアクセス出版は独占資本家を駆逐するには至らなかった。
「利益率40%の時代はまもなくロバート・マクスウェルと同様に終わりを迎えるかもしれない」と予言した(原注14)。
しかし2010年のエルゼビアの利益率は1998年と変わらず36%のままだった(原注15)。
その理由は、大出版社がインパクトファクター上位に来る学術雑誌を手中にしているからだ。
こうした雑誌で出版することは、研究者にとって、研究費を獲得しキャリアを積むためにかかせない(原注16)。
とっかかりとしてオープンアクセスジャーナルを読むことはできるが、
クローズドな方もけっきょくは読まなければならない。
少数の例外を除いて、各国政府は彼らと対決することができていない。
米国 National Institutes of Health は、自らの研究費を獲得した研究者がオープンアクセスのアーカイブに論文を置くように求めている(原注17)が、
英国の Research Council の公共アクセスについての宣言は無意味の極致である。
それは「出版社が現在のポリシーの精神を維持しつづけるという仮定」に基づいている(原注18)。
政府の研究費に基づいて製作される論文がすべて無料の公共データベースにおかれるよう強制すべきだ(原注19)。
また長期的には、政府は研究者と協調して中間搾取者を追い出し、
ビョルン・ブレンブスの提案に沿い、学術論文とデータの世界単一アーカイブを作る取り組みを進めるべきだ(原注20)。
いまは略奪を受けている図書館の支出でそれを運営することもできるだろう。
George Monbiot
http://www.monbiot.com/2011/08/29/the-lairds-of-learning/
自分の中で悔しいというか、本当に人生で忘れられない一日になった。
ただ無力。自分の無力さを恨んだ。
自分の無力さは当然知ってる。
それなりの幸せも感じたこともあった。
自分がどこまでできる役者なのか、力量はわかってるつもりだ。
今回は、自分の無力さを改めて感じた。
見方を変えてみる。
自分の与えられた役は、主人公の人生の転機にアドバイスする友達Aといった所か。
全くもって、仕事にならなかった。
エキストラにもなれなかった。
メールや電話でのアプローチをしたり、時には嘘をついてみたり。
下準備をしてから、この仕事に挑めたら、結果は変わったんじゃないかと思う。
本当に悔しい。
1人で部屋で焼酎を飲んでいる。
20代半ばにして、こんなの初めてだ。
彼の勢いはすごかった。
今年に入ってから、そんな印象を受けていた。
あっという間に会社を辞めた。
そういえば昔からそんな事を言ってた。
1年くらい前に飲んでる時に、「カフェの経営がしたい」みたいな話をしていた。
ただ、話していても、経営のビジョンとか、戦略はまったくないし、
カフェである理由は無かったし、カンブリア宮殿に出演するような経営者にありがちな
「情熱」や「熱量」が全くなかった。
彼が心配だったのと興味本意で。
彼の友達に会おうとおもった。
ちょうど飲み会に誘われた。
ルームシェアしている人の家で飲むという。
そこに1人異彩を放つ30代女性がいた。
彼はその場では言わなかったが、後に彼女の事を「師匠」と呼んだ。
その時は何にも知らなかったので、ただ適当にやり過ごしていたのだが
突然ゲームが始まる。
調べてみると、ほとんど同じ手口みたいだ。
そのゲームがネットワークビジネスの魅力を体験できる、いわば入り口となっている。
気になった点が3点。
一斉に、みんな示し合わせたように、机を片付け、ゲームに興じる。
複雑なルールを知っているメンバーが、知らないメンバーの横にいて、教えていく。
「師匠」が崇拝されすぎ。そして正体不明すぎる。
なんで「師匠」が自分にとって何もメリットを与えなそうなガキ共を集めて
あまりにも違和感があったので、純粋な疑問を「師匠」にぶつけてみる。
「なんであなたはこんなゲーム大会をしていて、こんなに若者が集まってるんですか?」
「お金儲けをしたいなら、僕だったら同じパイが減るんで、良い情報を教えて、ライバルを増やしたくないですけど」
「師匠」はこういった。
「えっ?何でそんな事聞くの?みんなに楽しんでもらいたいからだよ。あなた何か辛い事でもあったの??」
とんでもない。こっちが悪者かよ。
帰って、インターネットの書き込みと照らし合わせた。
彼にメールを打った。
「もしかしたらキミは騙されているかもしれない。ちょっとだけ時間をもらえないだろうか。」
彼と2人で会った。
彼に会う前に、マルチ商法(ネットワークビジネスと言うらしいが)についてネットでそれなりに調べたので、たくさん質問した。
「ああいえばこういう」という会話はこういうものなんだろうと初めて知った。
だけど、似たような出会いが、mixiを使って全国的に多発している。
1回目は集団で行うゲームに参加、
3回目はセミナーへ参加(関西で強行スケジュールで開催。ネットワークビジネスの素晴らしさを徹底的に叩き込む。)
この流れは天文学的では無い。
日本全国に起きているんだ。
作られた流れなんだよ。
何人も似たようなケースに巻き込まれて、書き込みが出回っているんだ。
彼は「インターネットに溢れているのは継ぎはぎしたデタラメな情報。負けたやつが書いているだけ」と言った。
それはそうかもしれない。
だけど、初めてその情報を見せたのに、全く受け入れなかった。
少しも、疑いの目を持たなかった。
昔のキミだったら、そんなことあったか?
それは、インターネットの情報は負け犬が嫌がらせで書いているだけだ、信用するなと
もっとたくさん、話をしたけども、あまり思い出せない。
自分のセリフは、「何かを盲目的に信じ込んでしまっている状態」の彼には、あまりに響かなすぎた。
「師匠」のやり口やビジネスモデルを全てわかった上で、取り組むなら、これはもう止められない。
実は、そのレベルを期待していた。
「師匠」と同じステージにいてくれれば、それの方がまだ良かった。
彼は、まだ「利用されている」人間にしか、本当に末端にいる存在にしか見えなかった。
もしかしたら、夜通しネットでネットワークビジネスについて調べた自分の方が、
情報をもっているのかもしれない、とすら思った。
ふと気づいた。
ただ、自分のやっていることって、こっち側の世界へ留まれっていう勧誘なんだ。
よかれと思って、人は宗教やマルチ商法に、周りの人へ紹介して巻き込んでいくのだろう。
悩んだ末、あまり彼について考えるのを辞めようと思った。
だが、どうだろう。
間違いなく、あらゆる手段を使っても、解決する道を探るだろう。
これから先、自分が「他人」に与えられる何かは何なのだろうか?
自分はまた、こんなケースがあった時に、「他人の人生だからさ」と少し大人ぶった、そんな態度をとってしまうのだろうか。
せっかくのGWもこんな気分では何も楽しくない。
彼へのメールを考えていた。
1つだけ、お願いがある。
キミは、たくさんの人を、ビジネスに巻き込んでいくのだろう。
個人や企業や、もしかしたらコネがなくなって、昔の友達にも声をかけるかもしれない。
そして、何かしらの商品を売るのか、仲間を増やすかをするのだと思う。
その相手の人生に、キミが入り込むんだ。
他人の人生もあるってことだ。
巻き込んだ人の、この先の人生を、真摯に受け止める責任を持って欲しい。
もしかしたら、キミの勧誘により、その人が失敗したり、嫌な思いをするかもしれない。
「あなたの自己責任だ。あなたの努力が足りないから上手くいかないんだ。」
キミがセミナーで習った、基本的な考え方のスタンスは、こういったものだと思う。
だけど、キミがその人を巻き込んだという自己責任の事を、忘れないで欲しい。
これから出会う人に、ちゃんと、良い面も悪い面も、伝えてあげて欲しい。
それじゃ、うまく売れないなら、仲間を増やせないなら。
嫌な思いをさせないような、完璧なフォローをしてあげて欲しい。
どうか、優しい心を忘れないで。
見えなくさせてしまう要素が、このビジネスにはあると思うんだ。
書いていて思うんだけど、本当にお節介極まりないと思う。
自分はもうキミとはかかわらないよ。
応援したいんだけど、価値観が全くもって違う自分は、キミの足かせになってしまいそうだから。
お互い頑張ろう。
また笑って話せる日がくると良いな。
その人生を背負うことの出来ない弱さでもあり、
その人生を自由にさせてあげたいという優しさでもある。
寛容さを持っている人間でありたいという、ただの自分のエゴでもある。
自分の人生だったら主役張ってるけど、他人の人生だったら本当にちっぽけな存在なんだ。
詳しい理由は省くが、貨幣の基本性質からすると長い目でみれば必ずインフレしていく。
だから現金で持っているのは損。
モノに変えるといっても、T食べ物や車みたいに腐ったり減価償却するものはダメ。
これも理由は省くが、株は平均値でいえばインフレ率以上のリターンが約束される。
だから、理論的には株が正解。
しかし、失われた20年に関しちゃ当てはまらなかった。
ボードゲームはやってないんだけど、元がロバートキヨサキのあれなら、その一億円をなにで持ってるかが重要だったように思う。
現金で持ってるのが一番ダメで、会社を持ってるのが一番いいっていう。
机上の空論だけど、仮にその一億円でコンビニのフランチャイズ店を、1店舗あたり400万円、25店舗持ってたとして、もし自分が店を直接運営してたら1店舗あたり月60万の収入があったとする、これを月50万で他人に任せ、自分は月10万の収入を25店舗分手に入れる。すると月250万円の収入になり、年3000万円。初期投資を回収する3年4ヶ月目以降は全てがふって沸いたお金という計算。
生活は1000万円でするとしたら、残り2千万を全て新しいコンビニ店の購入に当てると、最初の一年で5店舗増え、次の都市の収入は3600万円。ということは次は2600万円分をコンビニ店の購入に当てられるから次の年は7店舗ほど増える。
というように投資が投資を生み、年々購入できるコンビニ店の数が増えていき、その流れに入れることを持って上がり、みたいな話だった。
で、世界中の金持ちはみんなそれやってると。ほんまかいな。っていう。
だから若いうちはとにかく金を生むもの(株とか土地とか)だけ買えっていう。ほんまかいな。
たぶんC女史あたりの論調を指してるんだと思うんだけど、その辺の元ネタはロバート・ケリーとういう経営学者が唱えた「ゴールドカラー」という概念。社会学の方面からは実証研究もあって
http://ocw.dmc.keio.ac.jp/j/meikougi/Prof_Sano_ppt.pdf
あたりが簡潔にまとまっている。
気をつけてほしいのは「ゴールドカラー=起業家」ではないこと。主に専門を生かして転職キャリアアップしてる人や二世実業家などの高収入層のことを指してるから、元増田氏が例示しているような起業家は普通ゴールドカラーには入らない。
ゴールドカラー=起業家としてるブロガーがいたら、元の概念や研究を歪めて解釈しているし、ゴールドカラーの概念に依拠せず、起業家スーパーエリートの台頭を唱えているブロガーがいたら、それは裏付けの無い単なる感覚論(もしくは妄想)。
朝鮮進駐軍 ※Weblio辞書にて削除予定の為、全文コピー。
http://www.weblio.jp/content/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%80%B2%E9%A7%90%E8%BB%8D
概要
一般に朝鮮進駐軍と言ったときは、おおむね1945年昭和20年以後に現在特別永住権を持つ在日一世(朝鮮人・韓国人)、もしくは現在日本に帰化または半島に帰国した朝鮮民族によって作られた犯罪組織を指す。 戦後、日本がポツダム宣言を受け入れると日本各地で、婦女暴行、窃盗、暴行、殺人、略奪、警察署の襲撃、公的機関への襲撃、土地建物の不法占拠、鉄道や飲食店での不法行為等様ざまな朝鮮人による犯罪が多発した。 自称「戦勝国民」(正しくは戦勝国民ではない)であると主張し、自らを「朝鮮進駐軍」と名乗り各地で徒党組んで暴れ事件を起こした。GHQの資料にあるだけでも最低4000人の日本人市民が朝鮮進駐軍の犠牲となり殺害されたとされている。
戦後の混乱を利用し、日本刀等の刃物・鈍器以外に多くの銃火器を使用した。銃は三八式歩兵銃や機関銃など盗んだ旧日本軍の武器で武装し組織化を行った。朝鮮進駐軍では旧日本陸軍のパイロットの軍服を好んで着用したが、これは日本兵に対するあてつけとも、日本人(皇民)に対するあてつけとも言わた。 組織ではいくつかの本部設けたが、実際は各地域ごとに部隊名をつけその部隊が、個別に日本人を狙った犯罪行為を繰り返しすことが多かった。 朝鮮進駐軍総本部(在日朝鮮人連盟総本部)はのちの在日本朝鮮人連盟。更にこれが在日本大韓民国民団(略称「民団」)と在日本朝鮮人総聯合会に分かれ、これが現在の民団と朝鮮総連となる。
時代背景
当時の日本では戦場に男手が駆り出され極度の男手不足に陥っており、また都市部においても疎開や空爆による被害で人手が足りない状況が長く続いていた。 また警察組織においても、武器の使用が認められないなど戦後特有の制限があり。戦後朝鮮人犯罪が増加の一途をとどった背景には、このような犯罪に対する抑止力の空白化が背景にあったとされている。いまでは考えられないことではあるが、当時はヤクザ(現在の指定暴力団)が朝鮮人から、日本人の生活を守る役割を一部果たしていた。 この当時は朝鮮人の殆どが実名で暮らしており、通名を使用しだすのは朝鮮の姓に対して嫌悪感や犯罪者といったイメージを日本人が抱くようになってからである。ただしこれは、朝鮮人側からはもともと差別があったからとされている。
朝鮮人による犯罪
朝鮮進駐軍による犯罪は全国に及んだ。特に川崎・大阪・神戸・都心等当時朝鮮人が比較的多かった地域で多発した。特に東京では、原宿等を中心に三八式歩兵銃や拳銃・日本刀等で武装した朝鮮人によって占拠されており、のちに警察やGHQにより鎮圧された。
市民を狙ったものとして白昼に堂々と集団で婦女子に暴行を加えるなど、多数の犯罪行為を行った。拳銃や刃物で武装しており一般市民は無力であり繰り返し行われることも多かったため被害が拡大した。またGHQの調べでは少なくとも4000人の日本人市民が殺害されており、多い説では1万人以上であったとも言われている。
略奪・窃盗・密売・土地の強奪等においても組織的に関与していた。一般の露天商からの強奪や農作物・家畜の強奪(利根川水系の牛の強奪などが有名)等、さまざまな方法で集められた商品が朝鮮人によって売買され、その後の朝鮮人社会の資金源として利用されてきた。その他に、戦後土地建物の所有に関する書類の損失や強引な立ち退きにより土地・建物の収奪も相次いだ。
1945年12月翌1月におきた生田警察署襲撃事件では武装した朝鮮人50人が襲撃し警察署を占拠。翌46年には長崎県警察本部で、在日朝鮮人連盟と名乗る総勢約200名が同署を襲撃して破壊活動を行い、10名に重軽傷を負わせうち1名は死亡にいたらしめた。46年には国会議事堂前でも集まった2000人の朝鮮人と応援出動した武装警官358名・進駐軍憲兵20名とが銃撃戦に発展。首謀者は軍事裁判に付され、翌年3月8日に国外追放処分になった。1948年4月には阪神教育事件では数千人の朝鮮人によって庁舎が占拠された。これに対して3000名の警官隊を動員して、朝鮮人を庁舎から強制排除し1800名の朝鮮人が検挙された。戦後はこのような事件が日本各地で続発した。
第八軍司令官ロバート・アイケルバーガー中将は、正規の大部隊を治安確保のため朝鮮人に対して街中に簡易陣地を引くなどして配備した。GHQダグラス・マッカーサー最高司令官は「朝鮮人等は戦勝国民に非ず、第三国人なり」と発表するなど朝鮮人に対する取り締まりにおわれた。 昭和26年に浅草で朝鮮進駐軍と思われる朝鮮人が起こした集団暴力事件では、米兵一名が死亡、二名が負傷した。
主な事件一覧
朝鮮進駐軍及びその後の在日本朝鮮人連盟が関わる事件の一覧である。
生田警察署襲撃事件(1945年12月24日、1946年1月9日)
大村収容所脱走企図事件(1952年5月12日~25日、11月9日~12日)
参考文献
横幕胤行、富久公、船越信勝『吹田・枚方事件について』1954年
宮城県警察史編さん委員会編『宮城県警察史 第2巻』1972年
警視庁富坂警察署編『富坂警察署100年史―新庁舎落成記念―』1975年
兵庫県警察史編さん委員会編『兵庫県警察史 昭和編』1975年
仙台市警察史編纂委員会編『仙台市警察史―仙台市における自治体警察の記録―』1978年
李瑜煥『日本の中の三十八度線―民団・朝総連の歴史と現実―』1980年
福岡県警察史編さん委員会編『福岡県警察史 昭和前編』1980年
竹前栄治、中村隆英監修『GHQ日本占領史 第16巻 外国人の取り扱い』1996年
コピー終わり。
戦争の隣で中国企業はアフガニスタンの鉱山開発、それを守る米兵
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オバマ政権は依然としてアフガニスタンへの四万人増派に慎重である。
現場ではマクリスタル司令官が「増派がないと勝ち目はない」と語り、ゲーツ国防長官はホワイトハウスに早期決定を促し、ところが与党・民主党が反対するばかりか早期撤退論に転換、さらに皮肉にも野党・共和党が増派賛成という奇妙な政治構造に陥った。
アフガニスタンにおける犠牲は増えつづけ、米兵の死者は800名を突破、NATO軍が数百。
一方で、兵力を派遣していない中国は、はやばやとカブール南方の銅鉱山開発に着手し、(このアイナク鉱山には鉄鉱石、金、銅のほか宝石類の埋蔵が確認されており、中国の国有企業が数億ドルで落札)、そのサイトを米兵が守備している。
アフガニスタンの経済復興の目玉でもあり、巨大なジレンマのなかで米、NATOの苦肉の選択である。
しかし米国内には「安保ただ乗り論」として嘗ての日本の替わりに中国批判がぼつぼつと登場し始めた。「アフガニスタンへ西側が安全保障の理由から深く介入したことが、中国の戦略的野望の実現に貢献する」(IHI,10月8日。ロバート・カプランが寄稿)。
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通巻第2734号
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%BB%E3%83%9C
引用文献たくさん上げてあるけど、全部著者ハワード・ブローディ。
HrobjartssonとGotzscheのNEJM論文を「トンデモ論文」のレッテルするが、根拠はロバート・アーリックの単行本一冊。
こういう記事どうしたらいいんだろう。
※直しました。前の版:
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%BB%E3%83%9C&oldid=27522435
これは勝手に命名させてもらいました。多くの婚活者が陥いるであろう罠です。
まず、僕が婚約していた頃の当時の彼女との会話を紹介したいと思います。
「自分の結婚だけを考えている人とパートナーへの貢献を考えている人、どっちが結婚できると思う?」
今考えると恥ずかしいのですが、こう答えました。
理由は簡単でした。なぜなら結婚活動で出会った婚活者は、得てして自分に対する結婚願望が非常に高かったからです。私の答えに対して、彼女はこう教えてくれました。
「それは違う。恐らく、どちらの人も速度は違えど、結婚するはずです。しかし、本当に結婚できる人は周りに貢献し、周りの助けを得ることができる人です。」
当時「なるほど。確かに。」と納得したことを覚えています。しかし、実際にこの言葉の意味を理解することになるのは、結婚活動を始めて半年くらい経った頃でした。その言葉の意味について書いていこうと思います。
よく婚活者とお見合いをしていると、「あなたと結婚できると思ったからです。」「あなたとなら新しい結婚生活に取り組めるチャンスがあると思ったからです。」という婚活者が後を絶たない。恐らく「結婚願望があります」ということをアピールしたいのでしょう。
確かに結婚願望が無い人よりは、結婚願望があった方が絶対的に良い。しかし、上記の発言をする人は基本的にNGです。
なぜ結婚願望をアピールするのはNGなのでしょうか?そして、なぜ結婚したい人ほど結婚できないのでしょうか?
まず夫婦のあり方についてです。
18世紀のイギリスの自由主義家庭学者アムダ・ミスミが、『家富論』の第一編において分業を論じている。それ以降、夫婦は分業システムを理論的に定式化した。そして夫婦は、信頼と責任をベースに家事をすることを始めたのです。
分業が確立される前までは、一人で自分のためにでも良かったのかもしれません。しかし、分業を選んだ以上、自分のことしか考えていない人は、その家庭から弾かれる事になります。これを現在の夫婦生活に置き換えてみよう。
例えば、分業していると多くの人が一つのプロジェクトに携わります。よって家事を依頼しなければならない。また、家事を請けなければならない。その中で「自分の結婚だけを考えている人」と「相手への貢献を考えている人」のどちらに家事を任せたいだろうか。恐らく後者であろう。結局、自分の結婚だけを強く望んだとしても、自分の結婚に繋がるような家庭を与えてもらえないのです。
さらに自分の結婚を望む人間は得てして競争を好みます。なぜなら、いかに結婚するチャンスを得るか、が目的になってしまうからです。
しかし、相手の貢献を望む人間は競争を好みません。なぜなら、競争をせずとも貢献はいくらでもできるからです。目的が「奪う」ではなく「与える」ということなのです。
さらに、競争心がモチベーションとなって行動する人は、それ以外の人、たとえば克己心などをモチベーションにする人に比べ、いい結果が残せないという研究結果があります。
競争はまた、夫婦生活の質も低下させます。テキサス大学のロバート・ヘルムライク教授は、自然科学の分野で博士号を持つ人百人以上の著作を調べました。その結果、専門分野への興味や自分で決めた目標を重んじる既婚者のほうが、競争を重んじる既婚者よりも、質の高い夫婦生活が多いということがわかったという。
良い夫婦生活が出来なければ、次に良い夫婦生活は与えられない。これも結婚のジレンマです。
話を結婚活動に戻しましょう。
「あなたとならキャリアを詰めると思ったからです。」
「あなたとなら裁量権があり、すぐに結婚できると思ったからです。」
「あなたとの家庭なら自分の力が発揮できると思ったからです」
「あなたとならMBAが取れると思ったからです。」
改めて言います。こういったニュアンスの発言や質問の類はNGである。
お見合い相手は間違いなく、貢献の意識を理解できていない人より理解できる人を採用します。いかに向上心や結婚願望が強く結婚した結果その家庭に貢献できるとしてもである。
ある程度優秀な人材であれば、そもそも向上心や結婚願望があって当たり前だと我々は考えています。中には優秀さに甘えている人もいますが。
よって、自己の結婚願望をアピールしている人はただのエゴイストにしか見えません。「自分が結婚した結果、貢献する」であっても、そもそも自分の結婚が目的になっている人は、結局エゴイストとみなされてしまう場合が多いです。結果、結婚もできなければ、家庭内秩序も乱すとみなされても仕方が無いのです。これでは、結婚したくてもできない。
本来あるべき姿は、夫婦で家庭生活を営む以上、自己の結婚願望といった利己主義ではなく、パートナーへの貢献といった利他主義をアピールしなければならないということです。
「私の力を使って、あなたの成長に貢献したいと思ったからです。」
といったことが、パートナーが求めていることです。これを表面上で共感するのではなく、理解し、実践できるようになることが重要なのです。
婚活者になって若い頃よりもお会いする異性の方が絶対的に増えたことも原因かもしれませんが、真のプロフェッショナルな既婚者と呼ばれる人とお会いするようになりました。そこで気付いたこと、それは真なる既婚者は、自分の結婚に着目はしていませんでした。パートナーへの貢献に着目し、結果結婚していたのです。
結婚が目的となる人には、周りが結婚の機会を与えない可能性があります。そして、結婚の機会を自ら逃すことになります。「結婚したいのに結婚できない」これが『結婚のジレンマ』なのです。
なぜ成長したい人ほど成長できないのか -成長のジレンマ-
さらに自分の成長を望む人間は得てして競争を好みます。なぜなら、いかに成長するチャンスを得るか、が目的になってしまうからです。
しかし、相手の貢献を望む人間は競争を好みません。なぜなら、競争をせずとも貢献はいくらでもできるからです。目的が「奪う」ではなく「与える」ということなのです。
さらに、競争心がモチベーションとなって行動する人は、それ以外の人、たとえば克己心などをモチベーションにする人に比べ、いい結果が残せないという研究結果があります。
たとえば七歳から十一歳の女の子を集めてふたつのグループに分け、それぞれにコラージュを作ってもらいます。一方のグループにはこれは競争であると言い、もう一方のグループには何も告げず自由に作らせました。そしてできあがった作品を、プロの芸術家たちに評価してもらいます。 その結果、競争した子どもたちの作品のほうが単純で、自由な発想に欠け、「条件を与えられなかったグループよりも、驚くほど創造性が低い」ことがわかったというのです。
競争はまた、仕事の質も低下させます。テキサス大学のロバート・ヘルムライク教授は、自然科学の分野で博士号を持つ人百人以上の著作を調べました。その結果、専門分野への興味や自分で決めた目標を重んじる研究者のほうが、競争を重んじる研究者よりも、質の高い仕事が多いということがわかったという。
ヘルムライクによると、航空機のパイロット、予約代行業などそのほか九つの職業でも、同じパターンが見られたとのことです。
良い仕事が出来なければ、次に良い仕事は与えられない。これも成長のジレンマです。
話を就職活動に戻しましょう。
面接やエントリーシートを見ていてよく出てくる発言が以下の内容です。
「御社ならキャリアを詰めると思ったからです。」
「御社であれば裁量権があり、すぐに成長できると思ったからです。」
「御社でならMBAが取れると思ったからです。」
改めて言います。こういったニュアンスの発言や質問の類はNGである。
採用担当官は間違いなく、貢献の意識を理解できていない人より理解できる人を採用します。いかに向上心や成長意欲が強く成長した結果その会社に貢献できるとしてもである。
ある程度優秀な人材であれば、そもそも向上心や成長意欲があって当たり前だと我々は考えています。中には優秀さに甘えている人もいますが。
よって、自己の成長意欲をアピールしている人はただのエゴイストにしか見えません。「自分が成長した結果、貢献する」であっても、そもそも自分の成長が目的になっている人は、結局エゴイストとみなされます。結果、成長もできなければ、チームワークも乱すとみなされても仕方が無いのです。これでは、採用したくてもできません。
本来あるべき姿は、チームでビジネスをする以上、自己の成長意欲といった利己主義ではなく、企業への貢献といった利他主義をアピールしなければならないということです。
よって面接やエントリーシートで書くべき事は以下のようになります。
「私の力を使って、御社のメンバーの成長に貢献したいと思ったからです。」
「私の今までの経験で、御社の利益創造に貢献したいからです。」
「より一層学習し、これから入ってくる社員へのナレッジを蓄積します。」
といったことが、企業が求めていることです。これを表面上で共感するのではなく、理解し、実践できるようになることが重要なのです。
最後に
社会人になって学生の頃よりもお会いする社会人の方が絶対的に増えたことも原因かもしれませんが、真のプロフェッショナルなビジネスパーソンと呼ばれる人とお会いするようになりました。そこで気付いたこと、それは真なるビジネスパーソンは、自分の成長に着目はしていませんでした。他者への貢献に着目し、結果成長していたのです。
成長が目的となる人には、周りが成長の機会を与えない可能性があります。そして、成長の機会を自ら逃すことになります。「成長したいのに成長できない」これが『成長のジレンマ』なのです。
そして樺美智子さんの死から49年が経った
日米安保条約の空洞化、日米同盟の軽量化、来年は改定から半世紀
昭和三十五年六月十五日。アンポ改定に反対するデモ隊が国会をとりまいた。
樺美智子さんが死んだ。デモの隊列にあって、群衆に巻き込まれて圧死したのだ。左翼はこれを権力の謀殺と宣伝したが、だれも信用しなかった。この鮮烈な記憶があるのも、いまでは還暦をすぎた世代だろう。
昭和四十三年十月八日、佐藤首相のベトナム訪問に反対する左翼学生が騒ぎ、羽田で京大生山崎某が仲間の運転した車に轢かれて死んだ。機動隊は二十数名が瀕死の重傷だった。
昭和四十五年、安保条約の改定から十年が経って「70年安保決戦」が叫ばれた。前年の東大安田講堂と新宿騒乱で前哨戦が消え、左派の分裂は決定的になり、「革命ごっこ」は意気消沈していた。
70年は平穏に幕が開け、左翼は内ゲバに熱狂し、組織は壊滅に瀕し、窮状に陥った日本赤軍派のハイジャック事件と三島由紀夫の憂国の諌死事件で終わった。
いわゆる「80年アンポ」は左右対決の政治状況にはなく、あらかたは体制保守か革命の唄も謳わないサヨクに転じており、サヨク全学連OBは「同窓会」を、そして日米安保二十周年記念の日米シンポジウムが東京で開催され、ゲストのフォード元大統領が来日して「安保改定」を示唆した(筆者はそのおり、会場のホテルに泊まり込んで裏方。広報担当だった。シンポジウムの記録は『日米同盟の二十年』、自由社)。
60年安保の象徴だった唐牛健太郎氏は死去し、西部邁氏は保守の側にあり、江田五月氏は国会議長となり、清水幾太郎は「核の選択」を主張した。
情勢はめまぐるしく変わった。東西冷戦の終結は、なにを意味したか?
日米安保はソ連、中国、北朝鮮を仮想敵に防共の軍事同盟ではなかったのか?
ところが主要敵だったソ連が崩壊し、ワルシャワ条約機構は消滅し、NATOは性格をかえて、イランを囲む新型の防衛機構に早変わりし、中国は時代にふさわしい<?>「上海シックス」を主導して米国の金融秩序へ挑戦を始めた。
▲戦後秩序は劇的に風化した
英米同盟は軽くなり、NATO五十年式典は独仏国境で開催されたが、オバマが出席したものの、興奮状態にはなく、むしろチェコで『核廃絶』を訴えた。
ロシアはNATOのチェコとポーランドのレーダー基地化に反対を唱える。しかし、グルジア、アゼルバイジャン、ウクライナのNATO入りが時間の問題となっている。
イラク戦争のおりに、ロバート・ケーガンは「ネオコン」の論理を代弁し、世界の警察官としての軍事力にひいでた米国の一極体制が復活する。世界秩序は保たれると言い、ホッッブスの説いた「リバイアサン」という怪獣の「力と畏怖」のイメージに世界新秩序の基軸を置いた。
しかし現在の世界は、イラク戦争、アフガン空爆で復活した筈の米国リバイアサンが衰退し、G2という不思議な時代にはいった。
米国はこれまでの国家の性格をおおきく変貌させようとしている。もっと言えば、米国みずからがリバイアサンを峻拒し、「普通の国」になろうとしているかのようだ。
NATOの運用比重を独仏英主導に移管しつつあり、G2時代の到来は、次の日米関係を曇らせる。
こうした歴史のパラダイムのなかで、平成22年(2010)は、安保条約の改定から半世紀を迎える。日本の生命線と言われた日米同盟だった。生命線?
安保議論は風化し、「事前協議」条項はかるがると無視され、沖縄の海兵隊も横須賀の空母も、戦争地域に向かった。
そればかりか日本の自衛隊は「集団安全保障」「極東条項」の議論を忘れたかのようにPKOはカンボジア派遣から開始されて、いまではイラクのお隣、ゴラン高原、モザンビーク、スーダンへ向かった。役割を分担しながらも、陸海空全軍が出動した。
日米安保条約は風化した。というより事実上、性格を変えている。日米同盟の存在意義は、鰹節よりも軽くなりつつある。
吹き飛ばそうとしているのは日本ではなく米国である。アメリカは中国重視にかたむき、ヒラリーもガイトナーも中国に揉み手して、{G2}と言いだし、日本が期待した北朝鮮へのアプローチは曖昧、投げやりとなった。アメリカはこの問題から逃げた。
拉致問題に積極的ではなくなり、「それは日本の主権の問題であり」、北朝鮮の核武装は容認し、中国の出方をひたすら待つ。
これがオバマの米国、衰退途次の米国の姿である。(http://anond.hatelabo.jp/20090615232944に続く)