はてなキーワード: 経営学者とは
(1)
女友達との会話で、女性がどんな辛い目にあっているか耳にしているのは、すごくいいと思う。
それにくわえて、女性が自己研鑽や対人関係にどういう努力をしているかも聞いてみるといい。
ブサイクって自認に止まらないで(止めさせてもらえないで)、いかに美容を頑張っているか、メイクを頑張っているか。すごく太ってるとかじゃなければ、スポーツ系っぽい子じゃなくてもちょっとした筋トレをしているのは珍しくない。
魅力向上のためにできることは男女で違うけれど、「デコ禿げブサイク童貞」「チビガリハゲブス童貞」って自虐するより、前向きになれると思う。
(2)
あるいは、女友達に好意を寄せるのではなく、「好意を寄せている女性がいるのだが、好きな女性と付き合って幸せにするための助言と応援をしてくれないか」って頼むのはどうか。
恋愛感情が自分に向かない前提であれば優しくしてくれる女性は少なくないと思うし、誰も仲間になってくれないのなら「無害な男友達」になれてるという前提が怪しいかもしれない。
なお、助言が役に立つかは分からない。役に立つ助言ができる女性もいれば、役に立たないことしか言えない人もいると思う。
(3)
ハゲに関しては、前に楠木建って経営学者の人が書いていることが参考になった。
その人もハゲに悩んでたらしいんだけど、早めに見切りをつけて潔い髪型にしたのだという。そうすると、逆に、ハゲが進行してるのに伸ばしているというような見苦しい人に心の中でマウントをとれるようになったとか。
ハゲはハゲなりの見せ方があるから、そこに切り替えた方がいい。
(4)
もっと具体的なことを書く。一般論かつ基礎だから、すでにやっていることいっぱいあるとは思う。1ヶ月くらいやってみてほしい。
なお、以下のアクションはルッキズムに迎合・加担するものだが、フェミニズムとは矛盾しない。
むしろ、見た目を磨くことは、より強い社会的圧力を受けている女性に共感し、共闘するための前提条件だと思ってほしい。フェミニズムを深めると同時に、モテにつながるのだと思ってほしい。
自民Twitter炎上で注目 「ダーウィンの進化論」とは:東京新聞 TOKYO Web
ダーウィンは「生き残ることができるのは変化できる者である」とは言わなかった。英語で流布しているのはこうである。
It is not the strongest of the species that survives, nor the most intelligent that survives. It is the one that is most adaptable to change.
The evolution of a misquotation | Darwin Correspondence Project には、この誤った引用の由来が解き明かされている。これをうけた日本語の記事もある。
じつはこれはダーウィンの言葉ではない。彼の考えでさえないのだ。科学史家の調査によれば、これは元々1960年代に米国の経営学者レオン・メギンソンがダーウィンの考えを独自に解釈して論文中に記した言葉であった。それを他者が引用を重ねるうち少しずつ変化して、最後にダーウィンの言葉として誤って伝えられるに至ったものである。
では、どういう考えを解釈していたのだろうか。すくなくとも、こうは書いている。
ある土地にすむ生物の多くが変化し改良されているとしたら、競争の原理と生物相互の関係をめぐる重要な原理により、あまり変化せず改良されなかった生物種は消滅させられる定めにあることが理解できる。そういうわけで、長い目で見ると、同じ地域にすむすべての種はなぜ最終的には変化するのかという理由がわかってくる。変わらない種は絶滅してしまうからなのだ。(強調引用者)
原文では
When many of the inhabitants of any area have become modified and improved, we can understand, on the principle of competition, and from the all-important relations of organism to organism in the struggle for life, that any form which did not become in some degree modified and improved, would be liable to extermination. Hence we see why all the species in the same region do at last, if we look to long enough intervals of time, become modified, for otherwise they would become extinct. (強調引用者)
【インタビュー】セコム創業者 「草食系」という言葉に「嫌な言葉だね」[11/01/31]
1 :やるっきゃ騎士φ ★:2011/01/31(月) 14:56:18 ID:???
セコム創業者で取締役最高顧問の飯田亮氏は、日本に初めてセキュリティ事業を導入して、
さらにその事業対象は、警備から防災、医療、介護、情報まで拡大し続けている。
新規事業を次々と生み出してきた飯田氏は、“日本発ビジョナリー・リーダー”の代表格とされる。
* * *
--今はビジョンがないまま、日本社会全体が疲弊しているように見えます。
特に最近の若者たちは、仕事や出世、私生活での「欲」もなく、新しいことに挑戦しようとしない
一方で、企業は急速にグローバル化しているのに、若者は海外へ出たがらないなど採用面で
ミスマッチが生じている。
飯田:「草食系」? 嫌な言葉だね。メディアも含めて世間が「今どきの男は……」と言い過ぎだよ。
そんなおかしな言葉は使わないほうがいい。
企業も「最近の社員は海外に出たがらない」なんて言う前に、無理やり海外でも地方でもどんどん
出せばいい。
だいたい、無駄な情報が多すぎるんだ。あまりいろいろなことを知っちゃったら、
俺のやっていることはつまらないのでは、と思ってしまう。それよりも、訳もわからずジャングルに
入ってみたら、ジャングルの面白さがわかるかもしれないじゃないか。第2次世界大戦時に編成された
米軍日系人部隊・米陸軍442連隊の合言葉である“Go for Broke.”(当たって砕けろ)の精神だよ。
--しかし「当たって砕けろ」を実践するには、やはり「自分は何をやるべきなのか」というビジョンが
必要では?
飯田:そう。大人はよく若い人をつかまえて
「世間はそんなに甘くない。正しいことをやっても通らない。損するだけ」なんて小賢しいことを
言うけど「正しいことは通る」「正しいことを貫け」となぜ言わないのか。
ソースは
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/business/financial/489140/
関連スレは
若い奴がだらしないのは認めるけどさ
若い奴が欲を求めることを否定する年配者もいるって事実にも触れろよ。
そんな年配者に影響を受ける若い奴がどうしようもないとは思うよ。
でもさ年配者が押さえつけて押さえつけて若い目を潰しているのも事実だろ。
たぶんC女史あたりの論調を指してるんだと思うんだけど、その辺の元ネタはロバート・ケリーとういう経営学者が唱えた「ゴールドカラー」という概念。社会学の方面からは実証研究もあって
http://ocw.dmc.keio.ac.jp/j/meikougi/Prof_Sano_ppt.pdf
あたりが簡潔にまとまっている。
気をつけてほしいのは「ゴールドカラー=起業家」ではないこと。主に専門を生かして転職キャリアアップしてる人や二世実業家などの高収入層のことを指してるから、元増田氏が例示しているような起業家は普通ゴールドカラーには入らない。
ゴールドカラー=起業家としてるブロガーがいたら、元の概念や研究を歪めて解釈しているし、ゴールドカラーの概念に依拠せず、起業家スーパーエリートの台頭を唱えているブロガーがいたら、それは裏付けの無い単なる感覚論(もしくは妄想)。
http://twitter.com/zaway/status/22888381585
それは、未来の経済社会のあり方についての「ビジョン」についてである。それを堺屋太一は「知価社会」とよび、ドラッカーは「知識社会」と呼ぶ。キーワードは「脱工業化」、そして「知」だ。従来型の産業構造の転換が求められているという議論は、今も日本で話題になっているが、これは新しいようで古い。そこで今回は、彼らの著作の紹介を通じて、過去の議論をざっと見てみようと思う。
当時はかなりの反響があった。鉄鋼やエレクトロニクスなど日本の製造業が絶頂期にあった中、周囲からのひんしゅくを恐れずに堂々と脱工業社会の到来を予言した。ある意味で、時代を先取りしすぎた本と言えるかもしれない。
まず著者は、古代以来の世界史の「精神史」的側面を振り返りつつ、現在の世界が直面している変化を位置づける。むかしは、カネや領土を追い求めた「物質」尊重型の古代文明(ローマ帝国や中国の漢王朝のような)、古代の巨大帝国が崩壊すると今度は、信仰に篤く慎まやかな生活をおくる「精神」尊重型の中世が到来した。それが、産業革命以後の近代ではまた「物質」を追い求める時代へと転換した。その意味では、現代社会の価値観は古代帝国が基底にある。
しかし、足下ではこれが中性的な「精神」尊重型の社会に立ち戻る動きが見られる。2度の石油ショックが起こり、これで資源が有限であることに人々は気づき、環境意識が高まっている。「このまま大量生産、大量消費を続けたら我々はまずいのではないか」、そうみんなが確実に思い始めている。この流れの延長線上にある社会の姿と位置づけるのが、「知価社会」である。
知価社会とは「デザイン性やブランド・イメージ、高度な技術、あるいは特定の機能の創出といったことが、物財やサービス価格の中で大きな比重を占めるようになる社会」と定義する。ここで、単に情報産業、サービス産業などという特定の業種転換より広い意味をもっていることに注意したい。むしろ、強調されているのは製品としての「コモディティ」の終焉である。彼は確かにこう書いている。「安い規格品よりも高級なブランド品が、より長く使われる「知価」の部分が肥大化した価格攻勢が一般化する」(文庫版p225)。
すでにアメリカでは知価社会への適応が進んでいる。単純な製造業が衰退する一方、ブラディング、マーケティング、サービス産業の比率が高まっている。翻って、我々日本にとられるべき選択肢は2つ。知価社会への移行を推し進めるか、それとも従来の工業社会の基盤に固執するか、だ。日本が取るであろう道について、彼は製造業での成功体験が忘れられず従来型産業構造維持型の政策を取り続ける可能性は高いと予測している。しかし、その道は安易であり、長期的に有利とは限らない。国際環境の変化に適用できない硬直化に陥る危険性があると警鐘を鳴らし、締めくくる。
原著は1993年刊。この時齢83歳。
ドラッカーといえばマネジメントだが、 本来は政治・社会批評家である。彼がマネジメントの研究に入っていったのは、その思想を実践するための手段としてマネジメントが有効だと気づいたからにすぎない。
彼はまず産業革命が起こった要因について振り返り独特の解釈をする。産業革命を起こったのは、生活水準や資本の変化意外に、1700年以降から変わったある決定的な要因があった。それは職業別組合などの内部のみで、数千年に渡って発展してきた秘伝としての技能が、初めて収集され,体系化され、公開された。技術学校や「百科全書」のような書物によって経験は知識に、徒弟は教科書に、秘伝は方法論に置き換わった。この「知識」こそ、道具,工程、製品への応用の連鎖をうみイノベーションの加速度的な発展を促したものだった。
そして、今、知識の役割はさらに重要になっている。放射線治療機器、CTスキャナ、高度なCVD装置、超高速のスパッタリング装置。今の製造業の基盤になっているこうした生産手段は、労働者の高度な知識があって初めて動く。昔の資本主義がそうであったように、けっして労働者は歯車のように資本家に所有された代替可能な機械ではなくなっている。従来の資本主義にあったような「資本家対労働者」という次元は今や完全に消滅している。今や富の創出の中心は、資本、労働、土地から、人間の知識そのものへと移行している。
ドラッカーは、このような形で変化しつつある社会を「知識社会」と称した。そうした社会では、労働者達の知識を効率的に活用し、いかに収益にむすびつけていくか(これをドラッカーは「知識の生産性」といっている)がこれまで以上に国,産業、企業の競争力にとって重要になってくる(p244)だろう。それはこれまでもそうだったし、これからはさらにそうなっていくだろう。イギリスは過去、CTスキャナ、コンピュータ、抗生物質、ジェット機を開発したが、それを製品やサービスや仕事に転嫁できず、アメリカに抜かれていった。他方、アメリカはアメリカでマイクロチップ、コピー機、工作機械などのパイオニアだったにもかかわらず、日本企業がそれらの市場を奪取するのを指を加えてみるしかなかった。そして、日本は、自らが事業の先鞭をつけたほとんどの主力産業(液晶テレビ、カーナビ、電池)で韓国、中国企業の強烈なキャッチアップを受けている。
では、いかにして知識の生産性を高めることができるのか?それを実現する手段が「組織が成果を生み出す機能を高めること」。つまり、マネジメントなのである。この結節点において、社会学者としてのドラッカーと経営学者としてのドラッカーとががっちりと連結される。
http://ameblo.jp/takapon-jp/entry-10466585442.html
ここで堀江氏が指摘するように日本の電機産業が衰退したと言うのが今の日本人の一般的な認識だろう。経営学者達も”家電王国の衰退”を前提として、
なぜ落ちたのか、今後どう変わる必要あるのか議論している。
一方で、電機メーカーについて書かれた新聞記事に悲観論は少ない。
どれも威勢が良い。こんな具合に、企業の意見がそのまま垂れ流される。
「3年後までに売上2倍を目指します!」
「市場がすごい拡大しています!」
「業界でも新しい取り組みが功を奏しました!」
悲しいまでに情報の発信者側と情報と受け手の認識が食い違っている。
記者は企業と定期的に接触し、彼らから新商品などの情報を得て、記事にする。
そのルーティンワークを滞りなくこなすために、極力無駄なトラブルは
これら認識のズレを克服するにはメディアに何らかのインセンティブを付与する必要がある。
批判しないことのリスクを引き上げることか、もしくは
批判することのリターンを引き上げること。
誠実・厳格に生きて成果を上げ、高い評価を得るほどの人生を歩んでも、やっぱり誠実・厳格ではない誰かの奔放な人生が魅力的に見えるのかな、と思った。でもきっとその奔放の人だって、老境ではもっと規律ある人生もよかったなんて思うんじゃないか。
誰でも、ときに誤魔化しや逃避したりしながらも、だいたい一生懸命生きているよね。そうである限り、僕らの人生って最終的にはあたかもそれが必然であるかのように決着する(?)。ならば、違う人生もあり得たと思ってもしょうがないんだけど、そう思ってしまうのもまた、人間なのか。
数日前かそこらに高名な経営学者が95歳で書いた詩を紹介する記事があって、僕はその人のことを全くと言っていいほど知らないけどそこから勝手に想像して思ったこと。