はてなキーワード: アポカリプスとは
ごめん、元増田は幸せそうだし、幸せのおすそ分けももらったけど、どうしてもこれフラグに見えてしまう…
来年以降はまた通勤で疲弊してパワハラ上司と仕事する……じゃなくて、コロナが終息しなくてものすごく荒廃したポストアポカリプスな世の中になってしまい、もしかして自分もこの世にいないかもしれない私の、破滅と絶望の前の小春日和の感じ。
まぁ厨ニといえば厨ニなんだけども……。
ほら、ドラマなら本能寺の変の前にちょっとしみじみと幸せなシーン挟んだり、朝鮮出兵の前に醍醐の花見のシーン入れたりする演出みたいな。
幸せな春はとてもエモい文章で。だからこそ、そのエモさを味わう自分が、悲劇的な結末を知った上で切なくなる型にハマったような居心地悪さを感じてしまう。
不謹慎だし迷惑極まりない親父で恥ずかしささえ感じてる立場だということを先に断っておく。
今まで休みの日は酒飲みながらスマホいじったり映画観るだけのゾンビみたいな父親がココ最近目に見えてウキウキしてで活動的になっている。
『パンデミック』というのはゾンビ映画が好きな父親には堪らない展開なようで、最近ナイフの手入れをし出すようになった。(バトニングできるゴツさのが3本ある)感染者の頭にぶっ刺すつもりなのかはわからないが、サバイバルになった時に必要らしい。何を想定してるのだろうか謎である。
そして今頃になって食糧買いだめをするようになった。この先もっとパンデミックが進むと食糧不足になるため人類は物資をめぐって殺し合いをするようになるらしい。食料は命の次に大切だと説き始めるようになった。本当にそう思うならパンデミック前からの準備が必要だったのではないのだろうか。この間店員に買い溜めを止められたと嘆いていた。身内として恥ずかしかったので、「買いだめなくても流通するし、みんながいつも通り買えばいつも通りみんなの手に行き渡るから買いだめは辞めてくれ」と頼んでも「お前は平和ボケしてる」と一蹴される。
「俺は家族を守るんだ」と。誰かこのリックを止めてくれ。カールは辟易としている。
マスクもせずに。
語り尽くされていると思うのでゆるく。
おっさんと少女のロードムービーですが、おっさんは過去に子供をなくしており、少女も周囲の人を全て無くしています。この状態に導いたのはなんとキノコ。煙さんが吐くアレです。ともかく街中がキノコ人間だらけになっている。そして例によってキノコに噛まれるとゾンビゲーのようにキノコ人間に早変わり。なのでこの二人の過去は結構悲惨だったんですね。キノコに違いない! と早合点した兵士(というかその上司)におっさんの娘は殺されます(この娘はスタート時のプレイアブルキャラで、伏線化するのかと思ったら写真以外に全く登場せず終わります)。
で、その悲惨な状態に希望の光が灯されます。なんとおっさんが知り合った少女は抗体の持ち主だというのです。おっさんは運び屋としてサイコな知り合いたちとやんちゃをやらかしながら旅を続けます。途中トラップを仕掛けまくるシャイニングのジャック・ニコルソンばりの禿げ上がった人や、ラッパーっぽい兄ちゃんたちと殺し合ったりもします。なぜかといえば、抗体を持つ少女を医療機関へと預けるためです。お届け先は荒廃前の世界で政府に敵対していた『ファイア・フライ』と呼ばれる連中でした。
ところがだんだんおっさんは命を守りたいがあまりに殺人鬼化してゆきます。言ってしまえばシェイクスピアとかそういう歌舞劇のテーマにある葛藤劇の一種と言えるでしょう。一体何が正しくて何が悪いのかという疑問を常にプレイヤーへと投げかけるわけです。例えば一番安らぐキリンさんのシーン。これは途中で人間がいない都市部で、すっかり緑地化した中心地にてキリンが草をはむというものです。人間がいないからこそ楽園のような光景が繰り広げられるという、チェルノブイリ原発の赤い森をモチーフにした名シーンと言えましょう。こうしたシーンは常に何かを引き換えに何かを手に入れる、という構造の徹底により表現されます。それはゲーム内の1エピソードである鹿肉の取引一つにおいても、車を入手する際の貸し借りに関しても理解されることです。主人公のおっさんは中盤の後半付近で「生きるためには殺さなくてはならない」と述べます。このような出来事から、「何かを得るためには、引き換えに何かを捨てる」といったテーマが浮かび上がります。この何かをするための対価が強くメッセージとして打ち出される理由は、荒廃後の世界で貨幣に変わる価値があるとすればなにか、という疑問が制作側にあったと仮定できます。この仮定に寄って立つならば、それはもう一つのテーマである命の軽重にかかってくると思うわけです。つまり暗に「金なき世界で命より重いものがあるとしてそれはなにか」、あるいは、「命が最も重たいはずなのに殺し合っている」、というメッセージ性を背負っていることになります。そして作中で命は安易に取引材料として扱われます。アメリカを代表とした世界荒廃物語ブーム(ポストアポカリプスでしたっけ)は結局金に疑問を持つアメリカ人がユートピアどころか、カタルシスであるディストピアを夢見ているようにすら思えて来ます。もっとも今作に限っていえば、だいぶ警句的な気もしますが。
ゲームラスト数分になると、少女の中にいる菌が抗体によって抑えられているのではなく、共存していることが知らされます。この菌糸の絡まった脳によって世界中の人々を治療する因子となるか、少女を殺さずに人類を見捨てるか、という選択を迫られたジョエルは少女エリーを救い出します。仕組みとしては菌類が発生させる電子連絡手段、クオルモンをヒントにしているはずです。この少女の脳という仕組み自体がそもそも共存というテーマで締めくくられており、実は上記で述べた「取捨選択」の答えは小さな少女が持っている、というラストになっています。
そして頭蓋を開ける行為はパンドラの箱を連想させます。やや飛躍しますが、彼女がパンドラのツボ(本来は箱ではなくツボ)であったと仮定した場合、災厄の中心にいる女という役割をきっちり演じきっていることになります。生い立ちは不幸で、彼女自身も自分の身の回りの人間はみな死んだと告白します。そして彼女のせいでホスピスのファイアフライは結果的に大量殺害されました。彼女は災厄と幸福の鍵を脳内というツボに温存しており、全人類にとっては全く救いにならない生き方をジョエルにより強制させられてしまいます。もっともジョエルにとっては娘と重なる彼女こそ救いそのものであり、エリーにしてみればジョエルは自らを許容し、許す存在であったに違いありません。事実、ラストでこの裏付けは取れます。つまり二人の間には共存というよりむしろ共依存関係が存在していることになります。
共依存関係の裏側は「弱さ」です。そういえばファイアスフライの女リーダーも疲れ切ったという手記を残し、打算的にエリーを殺そうとしました。ジョエルの弟も当初は保身のあまりエリーを届けようとはしません。モブの連中は自分たちが生きるために他人の犠牲など問わない生き方をします。全て各人の弱さからもたらされた結果であり、一種超人的な人間であるジョエルもまた、娘を失った空疎な記憶から立ち直ることができません。
ドラマでもいいです個人的には。洋ドラでもまあいいかなという。
ゲーム性としては一本道かつクローズドワールドのステルス&シューターですから、プレイ感は他ゲーと似た感じにはなります。
難易度中は同タイプのゲームを基準にすると難易度イージーくらいなので、撃ちもの苦手でもどうにかなるかと。
序盤はおっさんを隠して仲間に撃たせて弾丸節約もできますし、おっさんの殴りが強いので、殴り続けてるだけでも中盤まで進めることができます。多分映画のようなストーリーに没入できればいいと考えてるからこそこの難易度なんだろうな、という印象ですかね。
サバイバルモードでは緊張感が上がった、もはや別ゲーという声もあるそうですが、ハードモードってもともとそんなもんかと思います。
RPGの舞台が西洋のファンタジーからの借用だったという批判もと作ったゲームなのに、現代を描くのに用いた舞台が80年代アメリカってのが田尻に批判されたんす。
だから、ポケモンは意識して日本的な風景を持たせるように作ったんだって。
あと、メガテンは現代日本というより、ポストアポカリプスものでは。FCの1はウィザードリィを伝奇ものをベースとして作ったものだけど(ややポップンなアートワーク等含めてPC版ウィザードリィの影響が濃い)現代的な風景は持ってないと思う。
ポケモンがメガテンを参照したってに言及するのを忘れてた。少なくとも、本人は言及していないけど、モンスターを仲間にするというデザインについては参考にしたかもしれない。でも「通信ケーブルを使ったゲームを作る」というテーマから虫取りをした子供自体の思い出をヒントに「モンスターを採集して交換する」というデザインが生まれて、それが初期から一貫しているので、メガテンの影響があったかについてはちょっと弱い気もする。
病院とか学校とか空港とか オフィスビルでもいいし、電波塔でもいい
デカくて部屋が無数にあって俺以外いない そういうところに住んでみたい
もちろん住み心地はかなり悪いんだろうけど、それよりやっぱり同じ建物の中で好きなところに移動して寝起きできるということに魅力を感じる
四畳半神話大系の4章にでてくる四畳半世界なんかでもいい とにかく屋内で部屋が無数にあればいいのかもしれん
ポストアポカリプスみたいな世界を生き抜く自信はまったくないけど、広いところに住みつけるチャンスが高まるという点ではいいなと思う
でかい建物のひと部屋に生活用品を置いて暮らしてみてえよ デモンズソウルの楔の神殿とかかなりよかったな 大袋のトマスになりてえ
全体的にジェンダー観がキツい。
受け付けない人は密かに多そう。
作品テーマ的に善悪の価値観や差別問題にコミットしているのだが
バトルもの。
対象年齢は低めで良くも悪くも毒が薄い。
美少女に囲まれていても自分からは絶対に手を出さない紳士だが、
舞台が大正時代ということもあってか家父長的な描写が指摘される。
設定はショッキングだが、ややこしい問題に深入りはしていない印象。
ラブコメ。
ゆらぎ荘ほどではないがお色気描写あり。
過激なアプローチを受けたりエッチなトラブルに巻き込まれたりする構図。
バトルもの。
「作者は分かってる!」と持ち上げるほどでもない。
バトルもの。
一昔前の少女漫画的なノリ。
バトルもの。
ONE PIECEと同じく、中途半端に社会問題とかに踏み込むことで、
かえって作者の価値観がキツく感じる系。
バトルもの。
ギャグ。
ポリコレ的にはどちらが良いのだろうか…。
『ザ・インターセクションズ』はどうだろう。
酔ってチンピラに義父殺しを依頼しちゃった学生が、そいつに付いてって義父を殺しにいくストーリーと付いていかなかったストーリーが同時に展開するちょっと変わった映画。
徐々にチンピラから逃げようとする展開になる。ネタバレは調べないで見たほうがいいけど、結構好き嫌いは別れるかも。
アクションコメディだと意外と「逃げ切れちゃった」みたいな作品でスッキリする映画が多いのかも。
少し違うかもだけど、結構オススメなのがロバートデニーロの『ミッドナイトラン』。
ギャングの金を横領した会計士を賞金稼ぎのデニーロが護送するんだけど、いろんな奴に終われてアメリカを横断する羽目になる映画。
『ノッキンオンヘヴンズドア』は男二人が海を見に行くためにギャングの車を盗んで逃げ続けるアクションコメディ映画だけど、追う側の敵が確信的にゆるい作風だし、主人公達は不治の病で死ぬことが決まってるから、また少し違うのかなー。
ちなみにドイツの映画ね。恐ろしい事に、長瀬主演の日本リメイクがある。
他には、
ヒッチハイクしてきた宇宙人を乗せて政府組織に追われる『宇宙人ポール』、
実在の詐欺師と刑事を主人公にした、長年にわたる追いかけっこのスピルバーグ『キャッチミーイフユーキャン』、
あと『なんちゃって家族』も麻薬を輸送するコメディで、タイトルの割りに普通に面白い。
古いけど『お熱いのがお好き』は女装して逃げる映画で、流石に名作なだけあって今見ても楽しめる。
『ザ・チェイス』っていうチャーリー・シ-ンのコメディ映画もあったな。人質とって逃げるだけの映画。そこまで面白いかは微妙。
「逃げる」とは少し違うかも知れないけど、『ミッドナイトラン』みたいに護送中に敵に追われるアクション映画は面白いのが多い。
強盗のボスを護送する主人公たちとそれを追う銀行強盗を描いた西部劇の『3時10分、決断の時』や、
ブルースウィリスの『16ブロック』。これは結構『ダイハード』の続編っぽくてそっちのファンにもおすすめ。
詐欺師とか犯罪者が主役だと、デカイ事件に巻き込まれながらどう逃げるか?という話は多いかも。
『グランドイリュージョン』『マッチスティックメン』『コンフィデンス』とか。
大泉洋の『アフタースクール』は、逆に逃げた友人を追う内に色々ややこしい事情が明らかになっていく。
『バニシングin60』とかそのリメイクの『60セカンズ』は車がメインだし、爽快感あるかも。
シリーズ見てないなら、5作目の『ワイルドスピード MEGA MAX』くらいから見始めてもいいかも。ドウェインジョンソン出るし。
シリーズ的には4作目の『ワイルドスピード MAX』あたりからレースよりも追われて逃げるカーチェイスがメインの映画になってる。
『ボーンアイデンティティー』シリーズは国自体が相手だから、アクション映画ながら結構逃げ続けるだけかも。逃げるテクニックに爽快感あるし。
『逃亡者』『エネミーオブアメリカ』『イーグルアイ』も近い感じはあるけど、どっちかというと戦って勝つことがメインのストーリーか。
逃げつつ一矢報いる系だと『ランナウェイ/逃亡者』やスピルバーグの『激突』どうなんだろう。
「え、おまえが逃げるの?」みたいな変則的な逃げの映画だと『ノーカントリー』とか。でもこれはスッキリしないしやっぱり多分違いそう。
ゆっくり歩いて追いかけてくるからスリリングな展開ではなくて、じんわり追い詰められる系だし、ホラーだからやっぱり後味はそんなによくないんだけど。
『ファイナルデスティネーション シリーズ』も一応逃げ続けるだけかな、でも逃げ切れなかったみたいなパターンも多い。
『リング』なんかは逃げ切るパターンか。これも続編がアレだけど。
ホラーは基本的に敵わない相手に追い詰められるのでそういう作風になるけど、でも最終的には戦っちゃう作品が多いしなあ。
『エイリアン』『ターミネーター』がそういう作風で、『ターミネーター2』も割ときっちり最後まで逃げ続けるけど、最後は戦うし。
ストーカーものも逃げる系か。ジェニロペの『戦慄の誘惑』とか『ケープフィアー』
ゾンビものにも逃げる作品はあるけど、どちらかというとそこからどうやって生活していくかというポストアポカリプス的な作風も多い。
ロメロの『ゾンビ』『死霊のえじき』『ランドオブザデッド』はそういう作風で、逃げたり隠れたりするのは一作目の『ナイトオブザリビングデッド』とそのリメイクの『死霊創世記』、あとゾンビのリメイクの『ドーンオブザデッド』か。
『28日後...』は割と逃げる系?
ゾンビじゃないけどロメロの『ザ・クレイジーズ』とそのリメイクも逃げる系かな。
逆に閉じ込められた状況から「逃げようとする」ことがメインの映画はどうなんだろう。ソリッドシチュエーションとかいうやつ。
『キューブ』『ミザリー』『フォーンブース』とか、変り種だと『私が、生きる肌』。
『ソウ』は違うか。
これまた逆に、冤罪とか脱獄とか、刑務所にいる状況から逃れようとする話も違うのかな。
『ショーシャンクの空に』とか『真実の行方』とか、古くは『大脱走』とか『パピヨン』とか。
06. 「ベイン・オブ・サーペント」
07. 「フィスト・フィルド・ウィズ・リグレット・アンド・オハギ」
08. 「キルゾーン・スモトリ」
09. 「アポカリプス・インサイド・テインティッド・ソイル」
12. 「ユーレイ・ダンシング・オン・コンクリート・ハカバ」
15. 「ジ・アフターマス」
17. 「コンスピーラシィ・アポン・ザ・ブロークン・ブレイド」
20. 「ストレンジャー・ストレンジャー・ザン・フィクション」
22. 「アット・ザ・トリーズナーズヴィル」
08. 「ジ・アフターマス」
09. 「アトロシティ・イン・ネオサイタマシティ」 (書籍版のみ)
13. 「ユーレイ・ダンシング・オン・コンクリート・ハカバ」
14. 「キルゾーン・スモトリ」
17. 「アポカリプス・インサイド・テインティッド・ソイル」
18. 「デストロイ・ザ・ショーギ・バスタード」 (書籍版のみ)
22. 「フィスト・フィルド・ウィズ・リグレット・アンド・オハギ」
25. 「アット・ザ・トリーズナーズヴィル」
28. 「コンスピーラシィ・アポン・ザ・ブロークン・ブレイド」
38. 「ニュー・メッセンジャー・オブ・ホワット」 (書籍版のみ)
39. 「スワン・ソング・サング・バイ・ア・フェイデッド・クロウ」 (書籍版のみ)
40. 「トレジャー・エヴリー・ミーティング」 (書籍版のみ)
43. 「カタナ・ソード・アンド・オイラン・ソーサリー」 (書籍版のみ)
44. 「ストレンジャー・ストレンジャー・ザン・フィクション」
45. 「ノー・ワン・ゼア」 (書籍版のみ)
このポストアポカリプスってどのくらいまでが許容範囲なんだろう。
がっこうぐらしってこのくらい?
北斗の拳くらいを想定。
∀ガンダムくらいを想定。
文明を崩壊させたものを分析して新たな文明に利用していたりする。
けもフレあたりを想定。
あるいは猿の惑星とか?
https://dic.nicovideo.jp/a/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%94%E3%82%A2
ディストピアとは、「ユートピア(理想郷)」とは逆の社会である。
よくSFなどで題材とされ、「表面的には秩序だって管理の行き届いた世界に見えるが、その内実は極端なまでの管理社会であり言論の自由などがない」社会として描かれることが多い。ジョージ・オーウェルの小説「1984年」などがとくに有名かと思われる。
また、自由な上層階級社会の下に人間扱いされない下層階級が描かれることも多く、ディストピア小説のはしりとされるH・G・ウェルズの「タイムマシン」においては、抑圧された労働者階級が地下に潜り無知な天使と化した旧上層階級を捕食する様子が描かれる。
尚、人類が伝染病や核戦争で滅亡していなくなってしまった世界をディストピアと呼ぶことがよくあるが、これらの世界観はポストアポカリプス「終末の後」と呼ばれる全くの別物であり、誤用である。
どうしようもないね。
けものフレンズ2が大いに荒れているそうだ。まー見てないけど。
だから振り返って1のおはなし。あと、これけもフレに云々言うのではなくFO3/4への文句なのでご注意。
廃遊園地がモチーフになっているように、世界観方面で不安を煽っていく。
実際作中でも露骨にポストアポカリプス的な要素が散見されて、実際人類は滅んだとまで作中で言われているわけで。
でも、それでも前向きに話が終わっているから、逆にFalloutへの不満が思い出されてしまった。
ちょっと話は変わるが、「ポストアポカリプス」的なフェチめいたものはわりと歴史的にサブカルチャーの中にあり続けた。
たとえば「ヨコハマ買い出し紀行」。最近だと「少女終末旅行」とか。
海外でいえば「マッドマックス」。ただこれはだいぶカルチャーの部分なのでゲームを見てみると、その中には「Fallout」という傑作が燦然と輝いている。
冷戦真っただ中で明日いきなり核兵器が頭の上に落っこちてくるっていうのがまああり得ない話ではなかった時代に生まれた作品が、そうした懸念が晴れた後の世代に影響を与えてできた作品と言えるのかもしれない。
「Fallout」はどちらかといえば「1984」とか「すばらしい新世界」の方向かもしれないが、ジョーク的なレトロフューチャー世界に準じているし、そういうロマンが詰まっている。
ことにこれらの作品に顕著なのが、「破壊のあとに生きる人間」というテーマだ。
「Fallout」の1、2を製作した製作会社の作品には特にこれが現れている。「war never changes」という言葉は「第三次世界大戦は石で殺し合う」という意味もあるのだが、大事なのは「世界が終わっても人びとは生きるために殺し合う」という明確なテーマを指すものだった。
わたしが初めて「Fallout」に触れたのは3だった。もともと「Oblivion」が大好きだったのでこれにも結構ハマったわけだが、もっとハマったのは「New Vegas」だった。そしてあとになってやった「4」は救いようのない駄作だと感じた。
なにが不満かと言えば、結局は「古い世界への郷愁」をわざわざ誘うような展開ばかりだったからだ。そのうえローカライズは「人は過ちを繰り返す」と訳した。
3のマップデザインを見てほしい。廃墟ばっかじゃん。戦争から何百年とか経ってるのに、ビルや建物はあんまり風化してない。
何が言いたいかといえば、「人が住んでない」ようにしか見えないのだ。
レイダーにはまともな拠点とかないし、ウェイストランド人の居留地なんていうのも生活感がまったくと言っていいほどない。
4はもっとひどい。風景が「せいぜい戦後20年とかじゃない?」という程度なのだ。おかしいだろ!
オンラインのヤツはやっていないのだが、正直こんなゲームを出していくのならBETHESDAには二度とFalloutシリーズを作らないでほしい。
まあ、それは無理があるのでわたしはNVのスタッフが作ってる「The Outer Worlds」を楽しみにしておくということで、愚痴おしまい。