はてなキーワード: めでたしめでたしとは
この作品において前作までの話についてのあれやこれやらで賛否両論が起きて
レビューなんかも荒れて
そこから少し落ち着いていやいやこれはそういう話じゃないよっていう冷静な意見も出て
やっぱりなんかずれてるなぁっていう意見の人がいる
よく聞く「ズレてるんじゃないかな?」って思うのが「主人公が最終章で言ったことに胸を打たれた」っていう意見で
「自分たちはフィクションなんかじゃない、感じて、喜んだり苦しんだりする本物の人間なんだ」っていう「キャラクターの台詞」を受けての意見なんですが
彼ら彼女らが憤っていたのは「現実の人間(ダンガンロンパの世界において、ですが)」にコロシアイさせる、
それを見世物にして感動やカタルシスを得ようとする「外の世界(首謀者の話を真に受けたら、の話ですが)」に対してのことです。
まさか彼ら彼女らがあらゆる登場人物が傷つき、挫折したり克服したりする虚構全てを批判してるなんて捉えるのはおかしいでしょ。
だから彼ら彼女らの「台詞」を聞いて「ハッとした」なんて思ってる内は、むしろ「外の世界」の人間に近い考え方なんですよ。だって虚構と現実をごっちゃにしてるんだから
多少ベクトルが違うだけで、次元としては「ダンガンロンパV3は過去作品をけがした!」って憤ってる人と大して変わらない。
ダンガンロンパシリーズはもう続編は出す”べき”ではない。っていうのも同じ。
まあ個人的な意見を言えばこれで有終の美を飾ってもいいくらいの作品だとは思ってるけど。
主人公の切実な「自分たちを見世物にするな」という叫びは、虚構だからこそ、ある意味安心して感動できる。
これがドキュメンタリーとかだったら感動してる場合じゃないでしょ。警察に通報でしょ。
そう考えると「(ゲーム内の)視聴者」の喜ぶようなことは何もしない、選ばない、という態度を取っていながら、
最終的には首謀者が倒れて、彼ら彼女らが生還する。めでたしめでたし。っていう「現実の私達」が喜ぶような結末になっていることも皮肉になるのかな。
もしもこの主人公の"「コロシアイ視聴者」への糾弾"が、イコール"「現実の私達」への糾弾"なんだとしたら、
突然ゲームが強制終了してスタッフロールすら流れない。ってところまで徹底して然るべきだと思う。
まあ単純にそんなことやったら賛否両論どころの騒ぎじゃないっていうのもあるけど、
それをやらないのは、やはり、どこまでいってもフィクションだから。そういうことだと思う。
でもフィクションだからいいんだよ、「フィクションの中で『それフィクションだよ』とか冷水かけるようなこと言っちゃう」のもフィクションの自由さを現してるんだ。
第三話で、ケリンが暴走し、ニコニコ本社を爆破する。しかし翌週に、ニコニコ本社は復活するも、ケリンは以降登場しない(OP・EDからも消える)
ケリンが消えたことに驚く個人勢。しかし企業勢はケリンの話題をかたくなに触れない。
ピーナッツくんがNHKワールドに出演時、ケリンの消滅を暴露しようとすると、突然画面が船の映像に切り替わる。音声だけかすかに聞こえるが、「ぽんぽこだけは許してください…」という内容。以降ピーナッツくんの出演が録音のみになる。
実は、この番組「バーチャルさんが見ている」自体がバーチャル小林幸子がアニメ枠で紅白に復帰するための布石で、不祥事は全て揉み消していた。キズナアイが登場しないのも、ノーベル賞案件での出来事を踏まえ少しでもリスクを抑えるためだった。
このことに気づいたバーチャルゴリラは、持ち前の歌唱力を生かし実力で紅白を目指し、このことを本番中に暴露しようとするが、視聴者投票で圧倒的一位を取るも、人間以外は出演禁止という不条理なルールに阻まれ出演が叶わない。
失意に沈むバーチャルゴリラ。その時、突然流れ出すコンギョ。気がつけばNHKホールが謎のダークエルフにより爆破され、紅白歌合戦が中止になる。代わりにバーチャル紅白歌合戦が開催され、大いに盛り上がる。
※以下個人の感想です。
連載当初はこれどう考えてもバッドエンドにしかならないんじゃね?と思ってたら、
張り巡らされた伏線、主人公キャラ達に託された隠された使命が分かると面白くなってきていた。
「現実世界の持ち主はゲームの中の世界の出来事に気づくか気付かないか明確に描写されないが、
という感じでめでたしめでたしで終わるのかなと思っていた。
が、最近は話の核心部分が抽象的な話、雰囲気重視の話で終わらせてしまっているように見えることが多く、
さらにはゲームの中の主人公たちの行動が現実世界まで改変しているような描写も出てきている。
元々ゲームの世界の住人が独自に動くって時点でSFというよりファンタジーな作品ではあったんだけど、
https://anond.hatelabo.jp/20181104013756 の続き。
ねとらぼの本キャンペーン記事のブクマでオススメされてた短編集。SF多めだけどそうじゃないのもあってごった煮。どれも面白かったけど、頭抜けてるのが『バイパスの夜』。バイパスを走るタクシーが舞台であり、それが最初から最後まで最大限に活用されている。無駄がひとつもない完成品。
他には『悪魔の開幕』と『帰還者』がオススメ。『悪魔の開幕』は何を言ってもネタバレになるので騙されたと思って最後まで読んでほしい。『帰還者』はアレな言い方だけど、富樫のレベルE読んだような読後感。手塚治虫が天才で、本当になんでも描けるんだなということがよく分かる。
父の仇を追って新選組に入隊した深草丘十郎。そこで彼は後に親友となる謎の剣豪少年・鎌切大作と出会う。幕末の動乱を、ふたりの少年はどう生き抜くのか。
ブコメでオススメされてたから読んでみたけど、うーんこれは傑作だ。
ひとことで言うと美しい『アドルフに告ぐ』。物語を彩る様々な立場のキャラクターたち、実際の歴史を背景に躍動する主人公、そして全てはラストに結実する。美しい。圧倒的に美しい。子どものときに出会えていたら本当にたまらなかっただろうなー。これから何度も読み返したい一冊。
北村市郎、通称イッチはとある夜、幽霊の行進と出会う。偶然知り合った記者と情報交換することになるが、彼は交通事故で死んでしまった。本当にあれは幽霊だったのか? 駅のホームで見かけて以来、つきまとってくるようになった美少女の正体は?
これもブコメから。ホラーものかな? と思ったら斜め上に話が転がっていくのがさすがというかなんというか。気負わず笑いながら読んでいいやつだと思われる。「歓声とファンの数とは比例します」「ンン?」「これ歓声の法則」といった切れ味抜群のギャグもあったし。
これもブコメより。手塚治虫の自伝的な作品を集めた短編集。悲惨な戦争体験と、そんな中でも漫画を描き続けた戦中、ようやく悪夢のような戦争から解放され漫画家として立身していくぞ(でも漫画雑誌もない荒野でどうやって?)っていう戦後が主。
特に響いたのは表題作でもある『紙の砦』。時は戦中。特殊訓練所にいながらも隙あらば漫画を描く大寒少年はオペラ歌手を目指す美少女と出会う。
戦争って悲惨だしいいこと何もねーなっていう感じが色濃く描かれる。司馬遼太郎も終戦の時に浜で泣きながらなんでこんな馬鹿な戦争をしたんだって嘆いたらしいが、手塚のそれは叙情も何もなくただただ早く終わってほしい悲惨なものとされているように思う。
そしてラストが特に辛い。仮に――戦争で手塚が両手を失っていたら、手塚は、日本の漫画界はどうなっていたであろうか。
悲惨な戦争話が多い中で『という手紙がきた』は一服の清涼剤。『トキワ荘物語』はとてもしんみりさせてくれる。『動物つれづれ草』も好き。
人類が退化し、代わりに鳥類が惑星の支配者になった世界を描く。その新たな世界で鳥人は高度な文明を築き、ホモ・サピエンスは鳥人の家畜になっていた。そして鳥人たちはかつての人類のように相争い、滅亡の道をたどる。
短編連作の形を取りながら鳥人たちの誕生、栄華、末路を描くんだけど、風刺的な要素の強く出過ぎてて胸焼けする。『むかしむかし……めでたしめでたし』みたいなただの焼き直しにすぎない作品もあって、低調な短編はとことん低調。
ただそこは手塚神、すげー読ませるのもあって、『うずらが丘』は物語の展開力とオチの冷淡な語りおよび視線がさすがの一言だし、『トゥルドス・メルラ・サピエンス(ブラック・バード)』のような掛け値なしのイイハナシダナーにはホッとさせられた。
とはいえかなり疲れさせられるお話であることは間違いないかな……。
時は幕末。世渡り下手だが一本気な府中藩士・伊武谷万二郎と女好きだが顔の広い蘭方医の卵・手塚良庵は最悪の出会いを果たす。だがふたりは腐れ縁のように固く結びつき、ともに動乱の時代を駆け抜けていく。万二郎は下級武士ながらとある事件がきっかけで出世街道を上り、一方の良庵は大坂の適塾を経て江戸の種痘所開設に尽力する。ふたりの青年と、日本の未来はいかに。
うーん、感想の言いにくい作品。面白かったけど、中盤から物語に暗い影が落ち始め、読むのがちょっとしんどくなってしまった。手塚作品にしては長く、それでいて物語が綿密に練り上げられていることは間違いないんだが、同時に間延びしてしまった感も否めない。万二郎を主人公に据えたがゆえの限界という面もあり、愛すべき馬鹿には違いないけど、もうちょっとどうにかならんかったのかというのはある。同じ幕末を扱った『新選組』が青雲の物語であるならば、『陽だまりの樹』は凡庸な人たちの物語、という感じ。
人生に思い残しがある者は死に場所でしか生きた証を残せない、という話はあって、彼女(名前だすとアレなのでボカします)にそれが与えられたのはしみじみ良かったなーと思う。ひきかえ万二郎はそういう悲愴さとも無縁で、さいごまで読者をすっきりさせてくれないやつだった。だけどやっぱり憎めない。
お気に入りのキャラクターは、平助、お紺、お品。三人にはいっしょに酒を飲んでもらって、生きてりゃそりゃ辛いことのひとつやふたつあるよなーって盛大に愚痴ってほしい。
2日目の昼ぐらいに気づき、結局それからひたすら読んでた。ああ、もっと早く知っていれば!(BJとか火の鳥とかが入ってないのは読んだことがあるから。火の鳥は再読しておきたかったけど、せっかくの機会なので未読作品を優先した)
全体的な感想を言えば、俺がおっさんだからだろうけど、青年向けの作品の方が読み応えあった。『ジャングル大帝レオ』や『海のトリトン』は当時革新的だっただろうけど、さすがにいま初読だと平凡って印象が拭えない。それらに並ぶ子ども向け作品の『リボンの騎士』は、今でもおもしろいし、男の子の心と女の子の心が入った王女様が王子様のかっこうをしなくちゃいけなくて……という設定を思いつく手塚神ほんと神ってるなと。
大人向け作品はやはり『アドルフに告ぐ』が文句なしの傑作。行き当たりばったりで連載していたというブコメがあったけどマジか。震える。
短編のイチオシは『バイパスの夜』かなー。「極限まで削ぎ落とした体に鬼が宿る(byライスシャワーCM)」じゃないけど、無駄が何一つ無い完成品とはまさにこのこと。
今回よんだ中で一番好きなのは『新選組』。あそこまで美しい作品はなかなかない。
一番好きなキャラクターは『リボンの騎士』からヘケート。容姿、性格、行動力、作中での立ち回り、どの要素も俺の心を惹きつけてやまない。心に残るキャラクターだった。次点で『陽だまりの樹』からお品さん。
それにしても本当に手塚神がいてくれてよかった。日本漫画界に残した足跡の大きさからしてもそうなんだけど、それ以上に何十年たってもその著作が色褪せずに面白いってほんとすげーこと。これからも多くの人に手塚治虫の諸作が読みつがれていくことを確信して筆を擱く。
rci この記事普通にフェミニズム的立場から書かれてるけど、下のブコメの人が言ってる女性を傷つけるフェミニストって一体どんな藁人形? 女性の権利を擁護する立場がフェミニズムだよ。おかしなレッテル貼るなよ
rci どこかで企画書がパタパタと閉じたことが、中の人に伝わったんじゃないでしょうか。めでたしめでたし。/id: goturu 私はこんなものになんの思い入れもないです
b:id:rciさんによると「フェミニズムは女性の権利を擁護するものなので女性を傷つけるフェミニストはいない」らしいのだが
そんなrciさん自身はキズナアイの活躍の場が失われたかもしれないことと、中の人(女性)がこの騒動で困ってる様に対して「めでたしめでたし」だとさ
世界的に再分配と格差縮小がうまくいっているなら、先進国と途上国の格差が縮小するのは勿論のこと。
それに加えて先進国内での富裕層と底辺層の格差も縮小してるはずじゃないの?
先進国中間層の没落と途上国の発展は別個に起きている現象で、とても再分配の成功とは言えないと思うんですけど。
なんで先進国の底辺と途上国の格差がなくなってめでたしめでたしみたいな話になってんの?馬鹿にしてんの?
暴力的な革命も戦争も嫌だよ。格差がなくなりゃ何でも良いわけじゃない。
富裕層に怨みがあるわけでなし、俺らみたいに貧乏になってほしいわけでもない。
金持ちだって損はしたくないのは当然で、金払わなくて良いならそうするでしょうよ。
だからこそ政治的、システム的になんとかしたほうが良いわけで。
でもどんなに制度を整備しても世界は流動的だから穴のあるところに移動するだけなので。
優秀なはてなー達なら解決の糸口を見せてくれるかとおもったら、
僕、権力者。
- これで大衆から責められることもなくなっちゃう(責任は開発者にオシツケテー)
- でもAIの変数設定には口を出すヨ☆(これで実際の影響力だけ、抽出完了☆)
- ヤバそうな奴は、精神病というジャンルに放り込んどけ。(さすれば、誰も相手にしない。ホホホ)
- 精神病の定義?そんなの変えちゃえばいいんだよ。なければ新しい病気を作っちゃお(定義が曖昧でも意外といけるもんなんだよな〜)
- 政治犯、頭角出す前、診断だ(五七五。カルテに「発達障害」カキカキ)
- 考える余地を与えちゃダメだ。メディアへの影響力は落とさず、適度に不安を煽ること丁寧に。(できればインターネットもコントロールしたいのぉ)
- 手の届きそうで、手に入らない希望も同時に垂れ流しとかないとな(不安だけだとキツイよな....涙)
まぁ、こんなもんか。
そうすれば、大量の羊たちが富を生み出してくれるぞ!
あとは、ピンハネした金で、海外の羊飼いたちと仲良くやってと(羊飼いのリア充うざー。でも酒ウマー)。。。
そして、僕の人生は幕を閉じるのであった。。。
HuluキッズでBBCの動物ドキュメンタリーを子供と見てたんだけど。
Hidden Kingdoms ってやつ。
小さな動物の暮らしをハイスピードカメラで美しく描いていて話もドラマティックで2話目までは面白く見た。世界各地のネズミとかリスの話で、こんな映像どうやって撮るんだろうと驚かされた。撮れた映像を元に話を組み立てたり、都合のいい映像が撮れるまで追いかけたりしてそうとは思ったけど、ドキュメンタリーだと思って見ていた。
3話目の舞台は東京、取り上げるのはカブトムシで面白そうだと期待したんだけども。
まず繁華街の地下っぽいところで酒飲みながらカブトムシ相撲をさせて盛り上がっている柄の悪い人達が出てくる。雰囲気的に日本人っぽくもなく漂う東南アジア感。
日本にカブトムシ相撲って文化はあると思うけど酒飲みながらカブトムシ戦わせてしかもお金掛ける人達っているんだろうか。なんか5000円札が写ってた。
そんで「ソルジャー(カブトムシ)は疲弊する」みたいなナレーションとともに負けて床に落ちるカブトムシの映像。なんか負けたら用済み的な扱いされてんですけど、カブトムシ相撲するような人達はもっとカブトムシを大事に可愛がっていると思う。
そもそもこんな人達存在しないと思うけど、もし存在していたとして、お金掛けてたらカメラ入れないだろ。
そこからカブトムシが命からがら逃げ出して街中からなんとか寺の林に辿り着きメスと出会ってめでたしめでたしって話なんだけども。
途中東京タワーをバックに飛ぶカブトムシの映像とか出てくるんだけど夜空を飛ぶカブトムシがあんなに鮮明に見えるわけないし絶対合成。
渋谷駅前の交差点っぽいところを歩くカブトムシの映像も出てくるんだけどあんなとこカブトムシ歩いてたら絶対誰か気付くやろ。大体どうやって撮ったんだよ。
やはり間違いがあるとすれば、そういう事件を受けて「リベラル勢力を中心に世論が沸き上がること」であろう。
女子高生が警察に訴えて、障害者が犯罪のかどで捕まって、それでめでたしめでたしにするべきだった。
警察制度が、疑わしきは罰せずとか言って慎重になっている線を勝手に踏み越えるから、そういうおかしげな事が起こる。
人権侵害があるとか考えて、運動が沸きあがったら、それは私刑だよ。私刑の何が悪いってやっぱりそういうことが起こるからなんだ。
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警察の関わる事件である、という事さえ明確になれば、犯罪防止に関する議論も特に何も問題が無いことが判る。
犯罪を起こしそうだから拘束したら人権侵害、当たり前のことだよね?
犯罪をどうやって減らすか、教育とか保護者とかで対処して、それでも不安だったら駅に警備員でも増やせばいいんじゃないの。
健常者ならそうするだろう。障害者でもそうすればいい。それだけの話よ。
ここは人間の肛門。毎日毎日うんこの排出を24時間365日監視しています。
屁「屁です」
肛門「よし通れ」
屁?「屁です…」
肛門「なんか熱い気がするけど…OKの許可も出たしまあいいや。門を開けろ!」
屁?「フフフ……」
下痢とは。
病気や消化不良等によって発生する。
下痢の中には屁に偽装し、肛門の監視をすり抜けて外に出ようとするものもいる。
加齢や食生活が原因と言われているが、なぜ屁と誤認するのか。腹も痛くないのになぜ急に下痢になるのか。正確な理由は謎である。
下痢「このぽっかり開いた穴からジュルジュルと出て一日中最悪な気分にしてやるぜーーー!」
肛門「止まれー!せめてトイレに行くまで待ってから出てくれーーーーーー!!!」
下痢「いまさらおせーんだよ!あばよ!」(ビチャビチャビチャビチャ…)
肛門「くそ!せめて後続は押し留めろ!肛門を閉じるんだ!」(キュッ!)
美少女アニメみたいに大学にみんな仲良く一緒に進学して高校と同じノリにするわけにはいかなかったのだろうが、萌えアニメで進学後の続編を作るというのはこんなに厳しいことなのかとハラハラしながらながめている。
けいおん!は原作準拠だからかきふらいの話になるけど、結局描き切れてなかったし読者の関心が離れていったから一旦打ち止めになったよね。
けいおんはアニメに限って言えばメインキャラが卒業旅行してめでたしめでたしって感じだったから、Freeも七瀬遙世代の高校卒業を年貢の納め時にするのが無難だった。
中二病とかFreeの制作陣はけいおんのダメだったところに挑戦しようという意識があるのかもしれないね。中二病はお茶濁した感じが否めないけど。
残念ながら、この世の中には優秀な医者とそうでない医者がいる。
では、その違いは何なのだろう?
ちなみに出身大学ともあまり関係はないと思っている。東大や京大を出ようとアホな医師はアホであり、カネを積めば入れると言われている私立を出ても優秀な医師は優秀だ。
実は、医師が遭遇する多くの場面において両者にそう大きな違いはない。
診断・治療に対する各種ガイドライン等が(内容の是非はともかくとして)かなり整備されてきており、医療機器の進歩も相まって、大抵の場面においてどんな医者が診察・検査・治療を行っても結果に大きな違いが生じない状況がかなりできあがってきている。
ただ、残念ながらあくまで多くの場面においてであり、すべての場面で違いが出ないわけではない。
むしろ、多くの場面で違いが出ない分、違いが出る場面では如実に優秀さの違いが結果に表れる。
重症患者の管理や急変時の対応、難しい症例における診断能力、年末年始など繁忙期の救急外来の待ち時間などなど、決して頻繁に遭遇するわけではないが避けては通れない状況においては優秀さがその結果にコミットする。
当たり前と言えば当たり前の話だが、うまくいっている時は誰がやってもうまくいくが、うまくいっていないときは優秀なやつがやらないと最終的にうまくいかない。もちろん優秀なやつががんばってもうまくいかないことも多々あるが。
一見したところ合理的な制度に見える複数主治医制がイマイチ広まらないのもここに理由がある。
”あなたの主治医は女性が交代でやりますがいいですか?~東京医大女子減点問題が迫る「患者改革」”
という記事がはてブで大いに叩かれているが、内容の是非は置いておいて、ブクマのコメントを読むと多くのはてなユーザーは複数主治医制に賛成らしい。
だが、実際に自分が患者もしくはその家族になったときに、諸手を挙げて賛成してもらえるかは甚だ疑問だ。
もちろん、診断や治療がうまくいっている時はいい。別に誰が担当しようとほぼ変わりない。
問題はうまくいっていない時だ。
ひどくざっくりした例えで申し訳ないが、ほぼ同じ経験年数の優秀な医師A、普通の医師B、アホな医師Cという3人で患者の主治医をしていて、担当医は研修医で基本的に指示したことしかできない、指導医は外来で忙しくて基本的に入院患者は任せっきりという状況を考えてみる。
担当患者の一人が急変して集中治療室に入室して厳密な管理が必要になったため、当直帯や休日も3人の主治医のうち誰かが交代で病院に常駐して対応することになったとしよう。
優秀なA医師が綿密な治療計画を立てて、B医師・C医師とも積極的にミーティングをして治療方針を共有し、当初は治療がうまく進んでいるように思えたが、やはりこうした状況で急変はつきものであり、当直帯で急激な状態の悪化があった。
そのとき病院にいたのはA医師で、適切な検査と対応によって何とか状態は持ち直し、患者家族は「やっぱりA先生は優秀で頼りになるわ」と胸をなでおろした。
ただ、その後は状態が不安定になり、一進一退を繰り返す状況になった。
今度はC医師が病院に残っている時に急変が起きた。A医師は優秀なので、考えられる限りの状況とその対応法を電子カルテに申し送りとして記載して家に帰ったが、急変の状況はA医師も予想していなかったものだった。
C医師も考えられるだけの検査を行って原因と対応法を探るが一向にわからない。
そうこうしている間に患者の状態はどんどん悪化していき、患者家族にも「大丈夫か?」と不安が募っていく。
C医師は自分だけでは対応できないと考えて指導医に電話するが、指導医も「電話ではよくわからないからとりあえず病院に行くけど、私も集中治療は得意じゃないからちょっと対応できるかわからないけど・・・。A先生に相談してみたら?」と言うのみ。
担当医の研修医が不安そうに「C先生、どうしましょう?A先生呼びますか?」と言ってくる。
患者家族も「この前状態が悪くなったときはA先生がうまくやってくれた。このまま死んじゃったらどうするの!早くA先生を呼んで!」と怖い顔をして言い出す始末。
アホながらも責任感の強いC医師はなおもA医師に電話しようか迷っているが、その間に「このままでは患者さんが死んでしまいます。C先生が呼ばないなら私が呼びます!」といって夜勤の担当看護師がA医師に外線で電話をかけて状況を説明し、A医師がダッシュで来院。
レントゲンと各種データを確認して人工呼吸器の設定を変更し、何とか状態は改善したものの依然予断を許さない状況。
細かい投薬の調整や人工呼吸器の設定の調整が必要なため、A医師は結局その後1週間は泊まり込みで患者の対応に当たることになり、B医師とC医師もシフト表に従って病院に泊まってはいるものの、看護師は「A先生が泊まってるならA先生に相談しよう」と言うことで、シフト表を無視して何かあれば時間関係なくまずはA医師に電話をかけるように。
患者家族も「A先生が対応してくれるなら安心」と言うことで急変時の怖い顔はどこへやら。
その後患者さんはA医師の献身的な治療によって何とか状態を持ち直し、集中治療室を退室して一般病棟へと戻っていきましたとさ、めでたしめでたし。
だいぶデフォルメして書いたが、これと多かれ少なかれ似たようなことは日本全国津々浦々で起こっている。
同じ医療職で看護師ではチームによる交代勤務ができるのに、医師ではなぜできないんだと言われているが、看護師の業務については教育や指導によって個人の技量をある程度均一化できるが、残念ながら、ここで書いたような医師の「優秀さ」は教育や指導で何とかなるものではない。いかに優れた教育をしようと、到達できるレベルには限界がある。
一定の基準は保証されているものの個々人のレベルが大きく異なり、しかも置かれた状況によっては求められるレベルが限りなく高くなるということが、医師の業務と看護師の業務の根本的な違いであり、多くの人が思っているように医師の交代業務が浸透しない理由だと思う。
一定の基準が保証されているのであれば、それで満足すべきだと言うのが理屈ではあるが、人間はそんな単純なものではない。
選択肢がないのであれば納得するしかないが、眼前に別の優れた選択肢があるのであれば、理に適っていなかろうが、それを選びたくなるのが人情というものだろう。
上に書いたような状況で、理屈に従って「A医師を呼んで!」と言わない自信がある方は大手を振って複数主治医制に賛成と言ってもらっていい。
自信がない方は少し考えて欲しい。
A医師が身を粉にして奮闘した結果として得られるのは、自分の優秀さで患者さんを良くしたという大きな達成感と幾ばくかの時間外労働に対する報酬、そして周囲からの高評価のみである。
治療を受けた患者さんや家族の負担は変わらない。今の日本では誰に治療を受けようがかかる医療費は同じである。患者さんが呼び出し手当を払うわけでもない。
A医師のことだから他の担当患者や外来などにも迷惑をかけないようにしっかりやっていただろう。
色々なところで言われているが、現在の医療において「利便性」と「成果」と「医療者の労働環境を含めたコスト」の3者は残念ながらトレードオフの関係にある。
現状ではこのうち「コスト」、しかも「医療者の労働環境というコスト」に負担がのしかかっている状態で何とかバランスが取れている。まぁ、そよ風程度でもう崩れそうであるが。
極論すれば、この「医療者の労働環境というコスト」を最も多く払えるのが若い活きのいい男性医師と言うのが、東京医大の女子減点問題に端を発する一連の問題の原因の大部分を占めている。
この問題を受けて、この「医療者の労働環境というコスト」を減らせば良いという意見が声高に聞こえてくる。全く以てその通りである。このアンフェアな関係を早く何とかして欲しい。
ただ、そのコストの総量が減った場合にどこがそれを補填してくれるのだろう。
AIを含めたテクノロジーの進歩で状況は劇的に変わるかもしれないが、すべての医師を「優秀」というレベルまで持って行くには到底至っておらず、現状は実用面ではまだまだ未来の話としか言いようがない。
とにかく、リソースが限られている以上、夢のような解決法がないことだけは確かである。
医療関係者だけでなく、多くの人が当事者として今後の医療のあるべき形を考えて行って欲しいと思う。
「優秀な医者とそうでない医者の違い」とかいうタイトルのくせに結局この話か、と思われた方におかれてはタイトル詐欺で誠に申し訳ない。
だが、現在のシステムの崩壊によって結果的に患者さん側に「利便性」や「成果」のコストを押しつけるようなことはできればしたくないと多くの医療者が思っていると思う。
その医療者の端くれとして、微力な自分にできるのはこうして増田として自分の考えを書くことくらいなんだよ。
ここまで読んでくれてありがとう。