はてなキーワード: スポーツマンとは
──「富野由悠季の世界」展を拝見して、富野由悠季監督のキャリアをあらためて振り返っていただくと、ご自身でも言及されているように『機動戦士Vガンダム』以降のお仕事はフェーズが変わったのではないかと感じられます。それまでほぼ毎年のようにオリジナルアニメの新作を手掛けていた富野監督が、新作から数年遠ざかり、久々に発表された作品が『ブレンパワード』でした。ガンダムシリーズから新たな路線に踏み出したのは、何がきっかけだったのでしょうか。
富野:『ガンダム』を20年近くやってきて、はっきりと行き詰まりを感じました。行き詰まりを感じた一番の理由が「ニュータイプ論みたいなものを立ち上げておきながら、それをハウツーとして示すことができなかったこと」です。『ガンダム』をやっているうちに冷戦は終わったのだけれども、じゃあ冷戦が終わったからと言って世界中がまとまっていくかというと、まとまってはいかなかった。具体的に言うと、それぞれ主要国家のトップにいる人物たちが、必ずしもニュータイプ志向を持ってる人ではなかったという現実を突き付けられたからです。それで挫折するしかなかったということです。
だからもう『ガンダム』をやっていられないと思った。あと、『ガンダム』は構造だけで見ると、旧来の戦記物に則っているわけだから、戦記物ができる人や好きな人に任せれば良いと思いました。20年くらいやってきて、戦記物はやっぱり体力的に若くなければできないということもあって、年を取ってから戦記物をフォローしていくには、古代史を扱うような歴史的な学識を持つ必要があるということが分かってきた。そこでどうしようかなと考えたときに『ブレンパワード』に行きついたということがあります。
――今、富野監督は「ニュータイプ論のハウツーが確立しなかった」ことに挫折を感じたとおっしゃいました。富野監督は人々の多くをニュータイプにしたかったということなのでしょうか。
富野:いや、多くの人だけではありません。人類そのものがニュータイプにならないと、これ以後一万年という単位で人類は存続しない、人類を存続させるためには人の革新……というよりも、社会の革新をしなければならないんだと考えています。ですから、総体がニュータイプにならなければいけないということです。
――富野監督はガンダムシリーズでニュータイプを新しい感覚を持つ人類として描いています。劇中では、ときには距離や時間を超えてさまざまなことを感知したり、意思疎通をしたりする。具体的にはどんな人間の到来を期待していたのでしょうか。
富野:それについては、実はこの数年で具体的にニュータイプが現われたということが分かりました。
――なんと…! それはどんな人なのでしょうか。
富野:将棋の藤井聡太竜王とか大谷翔平選手です。将棋も野球の世界も勝負事です。何億通りの手がある中で、藤井竜王は勝つ手を選ぶことができる。僕は将棋のことがまったくわからないけれど、「この人がニュータイプなんだ」ということがわかった。それに気づかせてくれたのは先代の竜王であり、永世七冠である羽生善治さんの言葉です。羽生さんは、藤井竜王のことを「自分があまり見たことのない局面でも対応力というか、適応力みたいなものが高い」と評していまする。天才が、新たに現われた天才のことを評価しているんですよ。
大谷選手は大手術を受けた後でも基本的な身体のケアをつづけ、社会人としての基本としての勉強をつづけています。しかも壁を相手に投球練習は毎日つづけている!! 彼のスポーツマンとしての基礎の積み上げこそニュータイプ的と言えます。時代の移り変わりとともに、レベルの違う才能と人物が出てくるんだと感じられる好例です。ほかにも、工学の部分でも蒙が啓かれるような事例を承知しています。それは電動航空機の開発です。まだ決して大型機ではないのだけれど、それがすでに開発されているということは、僕のような世代にとってはもう腰が抜けるような事例でした(2018年7月、JAXA、航空系企業、電機系企業、経産省が航空機電動化コンソーシアムを設立)。工学や電気関係では、そういうことが起きている。そういう開発者たちは30代や40代だろうと思うけれど、彼らのような人たちに続く若い世代は、さらに違うものを作ってくれるでしょう。
――新しい想像力を持った人たちが、新しい時代を切り開く。富野監督が待ち望んでいたのはそういう方々だったんですね。
富野:藤井聡太竜王や大谷選手を見ていると、ギトギトしていないでしょう(笑)。ギトギトした人間が何億人もいたら、地球が潰れていくんです。ニュータイプにならなければ、地球は保全できないという考え方は、つまりそういうことです。おそらく、あらゆるジャンルの新進、若手の世代はこういう人たちがいるだろうと思います。僕がとくに想定しているのは現代のコロナ禍を経た、現在5歳や6歳の子どもたちです。免疫学的にも、彼らの中からニュータイプが出てくるのではないか。そういうふうに期待をしています。
『ブレンパワード』以降は、「当たり前に暮らすということの重要性を、アニメでもやるべきなんじゃないの?」という思いが大きくなった
――『ブレンパワード』についてもう少しお聞かせください。『ブレンパワード』の制作前は、ニュータイプにたどり着けなかった挫折感があったということですが、その中で富野監督が『ブレンパワード』にたどり着いたのは、どんなことがきっかけになったのでしょうか。
富野:挫折感から、僕は鬱病を患ってしまって、一年近くほとんど外に出られなかったんです。そこからリハビリをしていく中で、何を考えるかというと「なんで人間は鬱になるのか」ということでした。そこでたどり着いた答えは、健全、つまり普通の生活をしないと鬱になってしまうんだということです。それだけのことだと思ったんです。この健全とは何かというと、自分ひとりだけの問題じゃなくて、親子関係、子どもから両親がどう見えているか、周囲の人間関係も含めてのことです。普通であるということ。そういう当たり前の環境を維持するということ、それが人の暮らしにとって一番大事なんだということがわかった。
そのときに企画していた作品のタイトルが『ブレンパワード』だった。ブレーンという言葉を使うことで、知的な方向に行こうと思っていたんだけど、「いや、そうじゃないんだ」と。知的な回路を形成するためには、当たり前の健全な生活をしていないとやっていけないんだとわかった。じゃあ、その最もシンプルな話、つまり親子の関係を正面切ってやってやる、と思ったわけです。それで主人公たちの家庭環境(主人公の伊佐未勇とクインシィ・イッサーの姉弟は、研究者である父母から顧みられなかった)やジョナサン(・グレーン)みたいなキャラクター(優のライバル。ジョナサンは母のアノーアに屈折した愛情を抱いている)ができあがったんです。だから、東京が水浸しになっている、みたいな話がやりたかったというわけではないんです。
――地球の各地が自然災害で荒廃しているという『ブレンパワード』の世界観は、当時としてもインパクトがあったと思います。
富野:なんでああいう設定がいるのかというと、要は「アニメとしてのだまし絵」なんですよね。その設定があったほうが、アニメっぽく見えるから。あくまで技法論にすぎなくて、別に水浸しになった事件を描くわけではない。そうではなくて、ものすごく簡単に言っちゃうと「ママは僕のことを優しく育ててはくれなかった」という親子関係のことをドンとやっちゃうことが、一番良いことなんですよ。そういうものをアニメとして描く中で、もう少しだけ、リアルなものと接触できる作品を作れないかと思っていたんです。
――人間関係の中でも一番シンプルな「親子関係」に焦点を当てることで、普通のこと・健全なものを模索しようとしていたんですね。
富野:先ほどの質問に基づいて言うと、『ガンダム』は旧来のメカもの、戦記物の体裁に則っている部分があるんだけど、『ブレンパワード』以降は基本、心の問題……つまり「当たり前に暮らすということの重要性を、アニメでもやるべきなんじゃないの?」という思いが大きくなっています。僕が「『ガンダム』の富野」だったことで、ずっとそれができなかった。『ガンダム』の後期では自分でプロダクションを立ち上げて、新たな作品に出資しようと考えたこともあったけれど、僕にはそれをするだけの能力がなかった。実務者になれなかったという自分の能力論もあったうえで、スポンサーに理解してもらえるように、永野護くん(メインデザイン)に手伝ってもらったりして、なんとか『ブレンパワード』をかたちにした、ということです。だから、中途半端なところはあると思いつつ、とにかく『ガンダム』から脱出するための作品でもあったとは言えます。
思想や理念があったから、技術者たちを動かすことができた。だから、アニメのことだけを考えていたらダメなんです
――『ブレンパワード』ではメインデザインのいのまたむつみさん、永野護さん、音楽の菅野よう子さんといったベテランだけでなく、脚本の浅川美也さん、カナン・ギモス役の朴璐美さん、のちの『∀ガンダム』ではデザイナーとしてゲーム業界から安田朗さんといった才能を、アニメ作品に起用しています。その背景には、富野監督にとってはどんな思いがあったのでしょうか。
富野:これは『ガンダム』から教えられたことです。僕がやったことではなくて、当時の録音監督(松浦典良)の采配で古谷徹さん(アムロ・レイ役)と池田秀一さん(シャア・アズナブル役)を呼んでくれた。他の声優さんも、声優専門ではない方が多かったんです。そういう人選を見せられていましたから、それこそ20年30年経てば今度は僕がやらなければいけないことだろうと、当たり前のように思えたわけです。それでやってみたというだけのことです。むしろ思ったよりも、それが成功していないという意味では、本当に人を見る目がない、育てる力がないという自覚をしています。
――富野監督作品参加以後も、みなさん大きな活躍をされています。
富野:結局、上手く行っている人たちっていうのは、もともとそういう才能を持っていたんですよ。全部、彼ら彼女たちの力なんです。僕が彼らに刺激を与えたとか、インプットしたという記憶はあんまりありませんね。人を育てるということは、本当に難しいことです。これはわからないんですが、おそらく触っちゃいけないんです。触らないで、出会ったときの関係で、その人の持っているものを見つけだす。それ以上のことをしては絶対にいけないんです。これは実をいうと、愛の問題にもつながってくるんです。
――愛ですか!!
富野:愛し合っちゃうと、一点しか見えなくなるんです。正しく接することができなくなる。その瞬間にとらわれてしまって、相手が今後どうなっていくのかを考えられなくなる。正しい距離感で、この先を考えて相手と正しく接していくものでしょう。ちゃんと愛を育むことが大事なんです。
――そういった愛のお話は教育論にもつながりそうですが、そういった考えは、富野監督はアニメ制作の中でお気づきになり、考えを深めていかれたのでしょうか。
富野:もちろんです。僕は基本的に絵を描けないし、原画や動画を今もチェックしているのですが、腹が立ちますもん。「なんでアニメーターは画が上手なんだろう」「なんで線が綺麗に描けるんだろう」って。しかも、彼らは平気で何十枚も描いてくるんですよ。
――ははは。
富野:でも、そういう優れた技術を持っている人たちがいるから、僕は作品を発表できるのであって、技術を持っている人たちの総代に立つには、技術論ではなくて、理念を持たなければいけないわけです。そういう思想があったから、ここまでやって来られたんでしょう。
――思想があるから、約50年にわたるキャリアで監督として活躍してこられたとおっしゃるわけですね。
富野:思想や理念があったから、技術者たちを動かすことができた。だから、アニメのことだけを考えていたらダメなんですよ。「マンガ絵が好きだからって、マンガが描けると思うな」という考えにもつながります。この話って、何にでも通用するでしょ? 僕が文化功労者のお礼のコメントの中に「アニメのストーリーテリングは万能である」と書いたけれど、そういうことなんです。あれは良い文章になったなと思っています。僕がアニメの制作を通じて描いてきた思想は、どんなものにも通じる。それがあるから作品に公共的な意味が出るんだと思っています。
昭和ジャパン風耽美系。BLでないのは、BLレーベルの作品ではないから。
原岡凜一(はるおか りんいち)は華道の家元の跡取り息子で、中高一貫の名門男子校に通う中学三年生だ。虚弱体質な彼は、よりによって高等部への進級判定がかかる期末考査試験の時期に高熱を出してしまった。
凜一が寝込んでいる間に、祖母が勝手に凜一の従姉 省子に、凜一の替え玉として期末考査の追試を受けるよう命じてしまう。
回復後、凜一は省子から恩を着せられ、厄介事を押し付けられる。それは省子の服を着て彼女になりすまし、美術館の監視係を勤める、というもの。だがそれは罠だった。省子のボーイフレンド 氷川が美術館まで会いに来たのだ。凜一を省子と勘違いしたまま、待ち合わせをすっぽかしたことを詰る氷川。凜一は人違いだと明かそうとするが、その時、氷川は思いもよらぬ行動に出て……。
ふぅ、そんなに長い小説ではないのだが、読了するのにかなり時間がかかったぁー。というのも、長野まゆみ作品は四季折々の花鳥風月の描写がただでさえ多いというのに、本作は主人公が華道の師匠であるために、やたらめったら沢山の花の名前が出てくるからだ。
そういう物を全く気にせずに生きてきた私には、あれもこれも知らない花。一々調べることもないような……と思いつつも、全部読み飛ばそうとすると却って眠くなってしまうので、特に気になるものだけをググってみた。それでも一頁読む間に数回スマホを手に取る羽目になるくらいの、花の名前地獄だったのだ。はぁー。その時は「なるほどこういう花なのね」と思うんだけど、まるで覚えられなかった……。幸か不幸か、長野まゆみ作品では花の名前は多く出ても花言葉には拘りがなさそうなので、花言葉調べ地獄にハマらずには済むのだけど、花言葉と関連づかないだけにむしろ記憶に残りづらいというのはある。
『左近の桜』シリーズは茶道の話がよく出るけど、この凜一シリーズは華道なわけね……。私にはよく分からない世界だ。分からなさすぎて、どう想像したらいいものやら。
なお、時代は1976年の冬から1977年の夏! 私、生まれてない……! なおさら想像がし難い。時代が微妙に近いだけ余計に。私の父がロン毛でパンタロン履いてたような時代だろうか。江戸時代とかよりイメージしづらい気がする。
想像力の翼を折られそうになりながらも頑張って読んだ。ちょっと甘酸っぱい感じの耽美調のBLだった。なかなか距離感の縮まらない恋……。こういうのもたまにはいいな。
最初の方は、凜一は病弱で可憐で名前通りに凜としていて、他の長野まゆみ作品にはあまりいない感じのタイプの主人公かなと思ったら、ストーリーが進むにつれて、安定の例のメンタルがいやに太くて小賢しい性格だというのがわかった。期待を裏切らない! そしてやはり、そんなちょっとスレた性格の凜一を構う年長者たちは、やはり意地悪キャラばかりなのだった。長野先生の定番だなぁ。
凜一の叔父でしかも凜一にとっては初めての男であるらしい千尋の意地悪具合がいい味を出している。『左近の桜』シリーズに登場する柾を幼くしたようなキャラだなあ。昔の恋人の面影をいまだ追ってるところといい。
凜一の想い人の氷川が長野まゆみ作品の登場人物とは思えないほどの健全スポーツマンタイプなために、すごく爽やかな恋愛模様だった。なんか、凜一シリーズを好きな人が『左近の桜』シリーズを嫌うの、ちょっとわかった。
というかしてほしい
いい感じの用語がない
例:バンド、バイク、タバコ、酒、タトゥー、ピアスやアクセサリー、金髪、革ジャンにグラサンにダメージジーンズ、車、サーフィン、あとなんだろ
マイルドヤンキーとかかな
この手の人種は同様の趣味を持ちがち、といった集団の傾向みたいなのあるじゃん?
たぶん周囲の環境とかもあるんだろうけど、元々の因子があると思う
そういうよくわからん因子の一つに不良系(仮)があると思うんだよ
昔なら暴走族がそれに合致してたから不良系だったけど、最近はそういう因子持ってても善良だったり真面目だったりするから
「あなたは不良系の趣味好きだよね」って言うとおかしなことになる
みたいな悩みがある
まあ校則は守らないと思うけど
ファッションっていうのはどれもこれもある一時代の集団の真似から入るんだけど
だからあるファッションや趣向としての用語があれば嬉しいんだけど誰か作ってくれないかな
いろいろ調べてやっぱり「ヤンキー」が最適なんだろうとは思う
一個「ストリート系」ってのを思いついた
ちょっとずれるかもしれないけど
うるせえお前に向けて言ってねえ
『腐』は同性愛蔑視とか言われてもうるせ〜〜知らね〜〜という気分になる
異性愛者も同性愛者もAセクとか多様な人々全部好きにしたらいいんだよ別にさあ
恋愛しない人が信頼できる誰かと既存の夫婦や家庭のようなコミュニティを作りたいと願えば作れる環境になれと思ってる
なんらかの分野において少数派、現在蔑ろにされてる人々も当然のように不便さ、不快さ、危険のない生活を送れるようになれと思ってる
その上で言うけど腐を使わせてくれ
前提に原作があって、基本的に恋愛感情にない男同士を恋愛関係にする女子が腐女子なのよ
今じゃ恋愛関係以外にもクソデカ感情に置き換わってたりするけどそういうこと
女同士なら百合豚、男女なら恋愛脳、他のパターンは知らないです
海外のドラマ、映画で同性愛者のキャラクターが異性愛者に変更された際に批判が出た
同性愛者の人が腐を目撃して云々と言いますがねえ!同じ『ラブコメ』括りでも少女漫画と少年漫画で方向性全然違うじゃん
not for you
基本的に二次創作の腐は二次創作者の読みたいものを書いてるだけで貴方たち向けじゃねえ
異性愛者が異性愛のラブコメをエンタメとして消費するように同性愛者が同性愛のラブコメをエンタメとして消費したいなら男×男の二次創作じゃなくて同性同士のラブコメのオリジナル作品を求めてくれ
魚の干物しか食べられない人がくさや食べに来て「臭い魚なんて名前で呼ばないで」と言われても知らんがね
誰が何を好きでもどんな思想や主義があってもいいけどあくまでも好きなものが似てる人同士の二次創作に別の期待まで乗せないでくれ
いやいやいやいやへりくだった表現なんてこれに限らんでしょ
あーんスト様が死んだにはじまって創作者本人が作者に二次創作男同士のエロ送ったり
現実に存在するスポーツマンがスポンサーの関係で同じ装飾品つけてたらペアルック呼び指摘されたら「尊いのにどうして!」とキレ散らかしたりアーティストとの握手会で同じメンバーの人と使ってくださいと避妊具渡したり
『そう』じゃない外野から見たら↑こういうやらかしは『男同士の恋愛を好む人』の一括りになる訳
思うけどその攻撃された記憶から『腐女子』を使う人に対して加害性とか差別思想って強い言葉で叩くのは立派な加害だよ
正直字面からしてアレだし、バカにされた記憶もあるので決別したい気持ちもある
はっきり言って腐=shipperでもないじゃん
JK壁ドンバブみのようになんで既にあるものの定義を揺らがせるんだよ
JKも元々の使いどころ考えたら使うなって言うべきじゃないんすか
たまたま二次創作で男同士の恋愛題材にしたのが好きなたまたま同じジャンルたまたま同じカップリングが好きたまたま解釈が近いあるいはたまたま創作の好みが被ってただけの相手にどうしてなんでもかんでも同意を求める
私とあなたは違う
時代がどうとか言ってるけどそれって結局時代が更に進んだらshipperも不適切になる可能性があるってこと?
時代というなら、叩かれてバカにされてようやっとちょっと認知されて生きやすくなったと思ったらまた新しいラベル持ってこられてでいつの時代も繰り返してるという認識しかない
私が嫌だから隠れるし私がそうしたいから腐の自称を使ってるし私がこのキャラクターが好きでこのシチュが好きでって別に個人の自由じゃん
そして乗っ取った側に従うことを強要すんの
リバが好きな人に精神的にこちらが優位なので、対等な関係じゃないので、同軸でタチネコ変更がないからリバじゃないです固定名乗ってくださいっていう??
固定の人に精神的にこちらが優位なので、こっちが積極的だから、リバ名乗ってくださいとか性行為の役割を固定するのは対等な関係でないのでリバになってくださいっていう??
違うんだってもう勘弁してくれ
知らん知らん知らん
店売りしてないサイズの巨乳の子が巨乳のマネキンに自分の欲望詰めた自作のえちち下着着せて「痴女下着作りました」と同じ趣味の人向けに販売したときに「そのサイズなら痴女なんですか?」「胸の大きさで差別しないで」ってキレるの?
お前向けじゃねーよで終わらんか?
だって店売りの下着がないからこれ買わないとと言われても作った側からは知らねーよとしか
自分のために作ってるんであって店売りの下着がなくて困ってる人にはその人に合う下着が普及するようにって全く別の話じゃんか
なんなんだよ
ダービーだ重賞だのとテレビの向こうでスポットライトを浴びるウマ娘たちが居る一方で、街にも田舎にも人知れずひっそりと暮らすウマ娘たちがあふれている。
毎日受け取る通販の商品を届けてくれるのは段ボールいっぱいの荷バ車を引くウマ娘たちである。
競争で鳴らしたウマ娘たちがすらっとしたスポーツマンならば、荷物を運ぶのは身長は180cmを越えて丸太のような筋肉を蓄えたプロレスラーといった体格のウマ娘だ。
毎日、健気にドスドスと轟音を立てながら荷物をもって駆け上がってくるウマ娘は一見の価値がある。
ときどき、荷物運びの休息中のウマ娘に小さな子供が駆け寄っておでこをナデナデする微笑ましい光景も良く見られる。彼女曰く、「仕事を頑張る私をもっと撫でてもいいんですよ」と目を細め、耳を傾けリラックスの極みとのことだ。
人間を運ぶのはバ力車(ばりきしゃ)と呼ばれる2-3人乗りの車輪のついた座席を曳くウマ娘たちである。
体格はそれほど大きくないが、脚の作りがしっかりとしていて頼れるお姉さんたちである。
街の中でバ力車(ばりきしゃ)の客待ちをするウマ娘たちが、暇をもてあまし相互の髪をわしゃわしゃと搔きあってるのは何とも素晴らしい光景だ。こうすると、仕事仲間との信頼関係が築けるのだとか。
長距離移動の際にはこまめに休息と水分補給が必要で、旅といえばバ力車(ばりきしゃ)を曳くウマ娘と相談しながら行先を決める楽しみがある。
裕福な人々の中には住み込みのウマ娘を雇っていて、肩車で通勤するような人も居るが初心者にはおすすめしない。
近所にいる同じく住み込みのウマ娘にちょっかいを出され、驚いて転げ落ちたなどという話もある。そのウマ娘が言うには「いつもはこんな場所には居なかった」だそうだ。
農家に住み込みで働く彼女たちの仕事は力のいるもので、繊細な作業は人間が担当して分業が成り立っている。
地面を耕す重い農具を引きながら「ムリー!」と弱音を吐くウマ娘を農家さんがなだめすかしているのが田舎の風物詩になっている。
山間部にはずんぐりむっくりした体形で、大変愛想のよいウマ娘たちの一団がいて農家のアイドルと呼ばれているらしい。
ひょいと山道も軽々と登っていくので、農作業に荷物運び、それに森で切り出した丸太を運び出す作業などオールマイティに文句ひとつ言わず活躍しているとの噂である。
数は少ないがウマ娘たちの人気の職業としては、こんなものがある。
例えば大きな体と脚力で民衆を圧倒するウマ警察や、ウマ娘というものを少年少女に啓発するPR隊などという選ばれしウマ娘だけが就ける職業も知られている。
それから、もっぱら人間を肩車して野山を駆ける乗バという職業は、他のウマ娘達に「遊んでいるだけで三食飯付きの高給取り」などといわれている。だが実際は肩車しながらお客様の無理難題に答えるのはストレスのたまる激務のようである。
胸が揺れてたらそりゃ原則的に嬉しいし、なんで嬉しいかっつったらそれが美しく可愛くエロく魅力的な姿だから。
スポーツ選手がいじめ防止とかよ広告に起用されたときに、焼けた肌が日を浴びて光ってたり、汗が弾けたり筋肉が隆起してるシーンが使われるのは、その姿が魅力的だからだ。
マッチョが汗流してようといじめ防止に直接的な関係はないけど、魅力的な描写なら目を引く機能を果たすわけで、広告として正解だ。
シズル感と近似でもあるな。
アスリートの筋肉と汗、ペットボトルの水滴、アイドルの笑顔やひらひら服やおっぱい、これらは同じようなものだ。
「私たちの日常では日焼けを避けてるし、汗を飛ばすのもマナー違反。広告の内容と関連も薄い。日常目にする広告でスポーツ選手の日焼けや汗の表現は苦手です」なんてことは言われないよな。
でも胸揺れなどに噛みつく奴が目立つのは、女の魅力描写に過敏な人間が一部にいて、その声がやたらでかいからだ。
結局、「女は、男に魅力を見せるとすぐに性的に食い物にされて被害を受けるから、団結して防御体制を取っていなければならない。ごく限られた安全地帯でしかやるべきでない」という感覚がとても強い人たちがいるわけだ。
そういう人たちが女性の魅力描写についてばかり危機意識を働かせすぎる。
男性スポーツマンの引き絞った腕や、トマトやお茶を井戸水で冷やす様子は楽しめてるのに、女性の魅力が出てる広告(胸に限らない)にばかりピリピリするのは一般的感覚ではないぞ。
一般的感覚ではないのだが、そういう主張をされると「うーん、その危機意識はそこまでピンとこないけど、困ってるんなら言うことを聞いてあげればいいかな」と譲ってしまう、善良だか弱腰すぎる人たちが世間には多かったので、抗議を通せることもそこそこあったのだろう。
確かに現代においても女性は性的被害に合いやすいからある程度の危機意識を持つのは妥当だけど、やりすぎ。
そしてこういうことを言われても、「女性の被害を矮小化していて聞くに値しない」とかで容易にシャットアウトできてしまうので、自省に繋がらないんだわ。
問題を不正に矮小化しようとしてるって考え方が大事な場面は多いけど、議論相手への拒絶として強力かつ便利すぎるので慎重に使った方がいいんだよなあ。
ともあれ、プライベートではエロを個人的に楽しんでるとしても、ちょっと人目がある場所ではピリピリしちゃうってのは、それもそこそこ性嫌悪が入ってるんじゃないか。
なにか嫌な経験があったのかもしれんけどさ。
個人的な経験からくる個人的な恐怖を、政治的社会的な議論に繋げる時は、恐怖と復讐に駆られて妥当な話をこえがちなのでよくよく我が身を振り返りつつやった方がいい。