はてなキーワード: サーブとは
フェデラーが一位返り咲きやったあああああああ今年37歳なのに!マレーにウィンブルドン決勝で「もう30歳なのに…」と泣かれてから7年経つのに!そうだよテニス選手の寿命はちょっと前までは30歳前後だったんだよなのに37歳になる年にGS優勝して一位に返り咲くのすごいよマジすごいよ同じニューボールズ世代は引退した選手が多いのにすごいよ!プレースタイルがまさしく蝶のように舞い蜂のように刺すが如くで超攻撃的でかつエレガントなフォームとフットワークで見ていてマジで惚れ惚れするよ!空前絶後の超絶怒涛のテニス選手テニスを愛しテニスに愛されるた男フォアサーブボレー全てのうんたらかんたらだよ!みんな見て!フェデラーはもちろんテニスをもっとみて!錦織選手もすごいけど彼だけじゃないフェデラーだけじゃない他にも強くて華麗で面白い選手がいっぱいいっぱいいるから!私が特に好きなのはフェデラーマレーバブリンカベルディヒガスケズベレフ兄ズベレフ弟だけど他にもいっぱいいるから!ほぼ毎日なにかしらの大会やってるしオフシーズンもめちゃくちゃ短いし日本でも大会やるからとにかくテニスみて!!!!
生理前になると性欲が変な方向に爆発するのだが、こういった時に私が求めるのが彼氏ではなく、インターネットの向こうの性欲おじさんである。性欲おじさんとは読んで字のごとく、性欲ギンギンで、そして創作力が高いおじさんのことだ。私はイメプ(ロールプレイングバーチャルセクシーチャット)がしたくなったとき、掲示板で知り合った彼らにLINEをとばす。
ある性欲おじさんにとっての私は「由美」という受付嬢で、彼の愛人をしている(という設定でLINEをする)。イメプはセックスと即興性の芸術である。おじさんが「いい加減生でさせてもいいんじゃないの?ピルのお金も出すよ」と、サーブを打つと、私は「最初にお話したとおり、生だけは……」とためらいがちにレシーブを打つ。おじさんは「都度(セックス一回あたり)10(万円)出すよ。外に出すし」と攻めのショットをし、由美である私は「……わかりました。外に出してくれるなら」と返す。もちろん私たちは実際にそういった関係は全くない。ただ本当にそういう関係にあるフリをしてLINEをして性的興奮を得る遊びなのである。ちなみに、この由美は気持ちよくなった男に中に出され、そこからは都度15で三周りも年上の男の生中出しを受け入れていくという設定にした。エロい。ちなみに生理がおわると、なんでこんな奇妙なことをしているのか全くわからなくなる。謎。
バレーボール部だった中学時代、私は初心者でヒーヒー言いながら練習していたけど、あとから入ってきた後輩があろうことか全員小学生時代からやっていた経験者で、あっという間に、というかとっくに実力で抜かされていた。屈辱感はなかった。結局私は最上級生になっても玉拾いに勤しんでいたのだった。
玉拾いだからもちろんレギュラーメンバーになることはなく、練習試合でもウォーミングアップ以外は参加させてもらえなかった。ずっと立って見学をしているだけだった。また、審判をやるときも主審と副審は経験不足のため仕事を与えられず、永遠にラインズマンだった。練習試合中にすることといえば、ラインズマンか得点付けか見学くらいのものだった。見学するときは顧問の横に一列に並んで立ったままだが、私はいつも友達とたわいもないおしゃべりをして叱られていた。叱られてもしゃべっていた。たまに「ナイスキー」とか言うくらいで、それ以外にすることがなかった。
練習中の唯一の楽しみが、仲のいい友人や後輩とのおしゃべりだった。ほとんどがくだらないテレビやゲームの話だったが、たった一人不思議な後輩がいた。仮に杉浦としよう。杉浦は私とよく話をしていた。知識が豊富でどこか達観していた奴だった。今思えばただのRADWIMPS好きの厨二病なのだが。杉浦は私を「先輩」と呼ぶ以外には、私にだけ敬語を使わなかった。どこか私を下に見ていたようだった。ちなみにバレーボールに関しては奴も例に漏れず経験者で、私より実力は上であった。そのためか、私に対して啓蒙的な口調で話しかけていた。しかし、その話が私はとても好きだった。
私はとにかく練習が嫌いだった。毎日の部活動が憂鬱だった。たった1時間や2時間がとても厭だった。動きたくもなかった。準備運動をしてサーブ練習だかレシーブ練習だかやって、そのあとは玉拾いする毎日だった。とても退屈だった。今思えば大した運動もしていないが、それでもつらかった。ある時杉浦は私に言った。「君は一つの視点から物事を捉えすぎているんだ。もっと客観的に、多角的に物事を見られるようになれ。」正確には思い出せないが、その言葉を私は忘れることができない。なぜなら、それが私が体感した「啓蒙」の瞬間だったからだ。あの言葉にハッとさせられたのだ。
またある時言われた。「『万物の集約に返り咲きしは王の影』この言葉の意味がわかるかい?」私は練習中にぼーっと考えていた。考えども考えども答えは出なかった。それを見かねて杉浦は答えを私に教えてくれた。しかし私はその答えを覚えていない。その答えを理解することができなかったからだろう。「何かを忘れたとき いつも君がそばにいたけど 今回ばかりはそうじゃない これってまだ忘れてないってことなのかな 今、僕が覚えている全てのことと 僕と君にまつわる全てのこととの差は ゼロにはならないのかな」これもアイツが言ったことだが、これが自作なのか、引用なのかがわからない……
「生きていくことが罪になるなら、死んでいくことが罰になる。死んでいくことが罪になるなら、生きていくことが罰になる。さて、僕の罪名と刑法はどうなることやら。」これも。出典がどこなのかわからない。
まあそういう後輩がいて、今でも私の心に残っているということだ。ちょうど中2という多感な時期の出来事であったから、印象が強いのだろう。今どこで何をしているのかが気になるな。会って話でもしてみたい。
さて、中学時代の部活に話を戻そう。後輩よりも下手で要領の悪い私でも、一度だけ本番の試合に出させてもらったことがあった。それは、私のところに比べてとても弱いチームだったので、私のような2軍補欠を出させても勝てると監督が考えたのだった。
それは中3の夏、要するに最後の夏で、監督は記念のために私をコートに立たせてくれたのだ。試合の途中で交代して、サーブを数本打って、それで終わった。私が中学3年間嫌々バレーボールをやってきたすべてが、それだけだった。それを考えると、私が必死に耐えてきた3年間ってなんだったんだろうな。
数ある運動部の中でもなぜ私がバレーボール部を選んだかって、ただ仲の良かった友達が1人そこに行ったから。私はホイホイついていっただけ。あと、なんとなくラクそうだと思っていた。それだけだ。まあ中学卒業後にその友達はウェイになって地元のヤンキーとつるむようになったのだが。私と正反対で。
安易な気持ちで部活を選んでしまって、とても後悔した。実は、私は小1からずっといじめられていて、そんな私が中学の運動部に行くもんだからいじめの標的になるのは当然だった。いじめを受けて部活をやめようとは思ったことはあったが、踏ん切りがつかずそのままズルズルと最後まで続けてしまった。なんの成果も残せずに部活を引退した私を、両親は「部活は続けることに意義がある」と慰めてくれた。それはうれしかった。自分でもよく耐えたなと思う。私の我慢強さってここにも表れているのかもしれない。ただ、それ以上のものは得られなかった。
http://www.jiji.com/jc/article?k=2017072100243&g=int
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170721/k10011067331000.html
http://www.yomiuri.co.jp/world/20170721-OYT1T50076.html
先週は同じ話題で三社が波紋を繰り出した。ただ時事と読売は「発言が波紋」でNHKは「発言に波紋」と真逆の撃ち合いである。誰に気を使っとんねん。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6247621
駅のポスターの波紋が自殺を防いだという事ではないと思われる。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170722/k10011069711000.html
https://dot.asahi.com/aera/2017071800069.html
波紋からの余波。余波っつってんのに「私だ」は「いやお前が振動してんだろ」と突っ込みたい。
http://news.livedoor.com/article/detail/13362968/
1セットも落とさず優勝という圧巻のウィンブルドンだったが、そうか、波紋か。
http://news.livedoor.com/article/detail/13361819/
波紋を便利に使っている上に問題の焦点が違ってるというまさに「編集を呼べ」案件。
https://mainichi.jp/articles/20170720/k00/00m/040/080000c
波紋にはいろんな襲来の仕方があってこれは「呼んじゃった」ケースである。しかも波紋を呼んだというより明確に田中さんが怒っているのだがタイトルからは田中さんの怒りがあんまり察せない故に波紋を呼んだ感程度が妥当といういい感じのティザー具合なのだがひとついいかね、僕は新聞記事が読みたいんだ。
仕事場にたぶんそうだろうっていう人がいる。
空気は読めない。
空気が読めないけど自分が一番だと思っているのでお客様にも上から目線。
あげく言ってしまう。
「僕、こういうのできるんで言ってるんですけどわかってます?」
「僕もちょっとできるんでー」(でも絶対しないし、本当にできるかはなぞ)
お前何様だよ。
お客や取引先を怒らせるなよ。
他社の仕事は軽く見てる
だから「この仕事絶対こんな金額しないっすよ!僕できるんで、わかるんです」
他社の金額体系をお客様にそんな風にいっちまうからもめごとになる。
勘弁してくれよ
この間注意したら目下と思っている相手に言われて感情抑制できなかったんだろうね
「だまれ!」
だってさ。
どんなに正しいことでも空気を読めない場違いな奴から聞きたくないよ。
受け入れないよ
そしたら
「受け入れないあいつらが悪い」
んだよね。
机の上は市販薬の瓶がいくつもたってるし
飲み物注いだらこぼすし
ゴミ箱はあふれるほど入ってるし
が口癖で錦の御旗みたいにいうけど、君の「普通」や「常識」は環境によって変わることを理解できないんだよね
その姿はまるで
帰国子女が「アメリカでは!」「イギリスでは普通に」と言ってる姿に似てるよ。
君は自覚がないよね
酒の席でサーブしてくれた女性をみて「高校行ってないんだろうねこういう子は」なんていう
君がそうだと診断されても認められないだろうね。
周囲は君の差別発言にいつもひやひやしているよ。
親元にいて親は何も言わないのかい?
ほんとうに大変だよ。
青鬼、と呼ばれた男がいた。
奴さんは我が私立中学の最古参の体育教師で、それはほぼ公式と化した渾名であった。渾名がついていることから察せられる通り名物男であり、一説には自衛隊教官であったとも刑事であったとも、オリンピアンであったともいわれていた。(母校にはなぜかもう一人オリンピアンがおり、そっちは物理教師で種目は射撃。流体と落下に縁があったのであろう)
体育教師のわりにえらくチビ-中学生とほぼ同等の上背である-で、顔色は渾名の通り常に悪かったが、ふるまいは明るいおっさんという体でご陽気なものだ。授業自体もそう他と変わらない。シーズンごとに球技と陸上、格技を学期ごと2種目ぐらい最終的には競技になる程度に教え込むのである。なお、1学期を通してずっとラジオ体操をやるなどというカリキュラムもあった。あれはあれで細部にこだわると奥が深いものである。
青鬼には妙な信念があり、軟派な校風の中、真面目であることに非常なる重点を置いていた。その発露の一例が、とにかく早く着替えて予鈴前に集合した生徒は、10点満点の評定の内一回に付き1/3点を加算するという、大変太っ腹なシステムである(ただし2点のキャップがある)。陰湿になりがちな体育教師にあって、逆の場合の減点をしないのが青鬼の陽性な気質のもう一面の発露だ。今にして思えば、私を含めた運動音痴連の為の、まあ救済だったんだろう。なにせ中学なのに赤点で即落第というそこだけはシビアな私学の事情もある。
ある学期のことである。その時の球技はバレーで、3種類のサーブの打ち方とレシーブ・トス・アタックを一通り練習したらもう試合だ。だが、こちらは前述の加点で辛うじて体育落第を防ぐ程度の生徒である。サーブすら敵陣に入らない有様だ。それを見ていた青鬼が私を呼びつける。
「増田よ、お前のフォームは悪い。だが、ボールは少なくとも飛んではいる。だから軸足のつま先を、きちんと飛ばしたい方向に向けろ。そのうえでネットを超えるような高さで打てば、必ずサーブは入るようになる」という。
まさかそんな単純な事でと思ったが、言われたとおりにすれば、成程ボールはある程度ちゃんと敵陣のライン内に飛んでゆく。理屈はわからないが、これはさすがに感心した。ひょっと青鬼が伝えたかったのは、その先にある例えば体幹の使い方などの深いモノであったのかもしれない。だが、あいにくの運動音痴である。そこまで会得できるわけがない。
しかし、お陰様で傍から見ると異様なフォームだが、その後も幾度か機会のあったバレーボールで、少なくともサーブだけは何とか入れることができた。余りの奇天烈なフォームに幻惑されるあまり凡球だが受けにくいと、過分の評まであった程である。あの歳で身に着けたことだ、多分いまだに入れることができるはずだ。
なぜこんなことをいまだに憶えているのかといえば、その後の(前の連中もそうだが)体育教師の一人としてこのレベルの具体的な指導というものがなかったからだ。連中は自分ができるあまりか、何か根本的な他の原因によるものか、できないものに対する改善策というものを全く示すことができなかったのである。そりゃルールや所作を教えるのも重要だ。だが学生生徒に何らかの前進をもたらしたのは一人青鬼だけであった。
たまたまそういう巡り合わせだったのか、それとも青鬼だけが特に秀でていたのかは謎だ。だが、体育教師と指導の問題が話題になるにつけ、私は青鬼と、己の奇妙なフォームのサーブと、それを身に着けた古い体育館を思い出すのである。
いい記事なのだが、いくつか反論や補足が必要だと思ったので書く。
このGPLのコンパイラとはGNU bisonやGCC(GNU Compiler Collection)について指しているのがほぼ明確なのでそれらについて書く。
確かに著作権法を元にしたライセンスは、ソフトウェアの出力結果に対してソフトウェアの著作権ライセンスが影響しないと解釈するのが妥当であるというのは正しい。
ただしこれは"著作権ライセンス"に限った話である、つまり著作権ライセンスでは不可能な制約がEULAなどでは課すことが可能であるということを意味する。
詳しくはGNUの書いた記事の"契約を元にしたライセンス"という項を読むと良い。以下に引用する。
https://www.gnu.org/philosophy/free-sw.html
ほとんどの自由ソフトウェアのライセンスは、著作権を元にしています。そして著作権によって課することができる要求には制限があります。もし、著作権を元にしたライセンスが、上記に記した自由を尊重するならば、まったく予期しない他の種類の問題があることはありそうもないでしょう(予期しないことはまま起こりますが)。しかし、ある自由ソフトウェアのライセンスは、契約を元にするもので、契約はもっと広範な制限を課することが可能です。これは、そのようなライセンスが、容認できないほど制限が強く、不自由でありうる、いくつもの形態がありうることを意味します。
わたしたちは、起こりうるすべてのことをあげることはできないでしょう。もし、契約を元としたライセンスが利用者を(著作権を元としたライセンスでは無理な形で)異常に制限するならば、そして、それがここで正当だと述べられていないのならば、それについて検討しないといけないでしょうし、そのライセンスは、不自由であると結論づけるかもしれません。
また元の記事の著者はGCCやbisonがGNU GPLのような強いコピーレフトで保護されたソフトウェアでも、それによって作成された著作物はGPLにならない(つまりコンパイラやパーサーのライセンスを継承しない)ことを根拠に考察しているようだが、実はbisonやGCCのGPLにはライセンスに対する例外が付属していることを考慮すべきである。
GCCやbisonの著作権保持者であるFree Software Foundationは著作権法の話をするとき、たいていアメリカ合衆国を想定しているがこれらの自由ソフトウェアが広く使われるあたって、著作権法とそれを元にしたライセンスが異なった解釈をされることがありうることをおそらく危惧している、そのため出力に対してソフトウェアのライセンスが影響しないことを確実にするためにこれらの例外を規定しているのではないか。
この二つの理由から、元記事の議論は世界中に対して広く配布するFLOSSディストリビューションでは(非常に残念ながら)鵜呑みに出来ないと私は考える。
加えて言えば、たとえフェアユースの規定が全世界的に利用できて、営利目的でなければ利用できたとしても、
自由.0: どんな目的に対しても、プログラムを望むままに実行する自由
(i.e. オープンソースの定義 6項 利用する分野に対する差別の禁止)
がある限り、そのような制限をディストリビューションは受け入れられないだろう。
またOracle vs GoogleのJavaのAPI訴訟はケースとしてはかなり特例であり、
一般に広く適用すればlibcすら当てはまるのではないかと私は思っている、
これを根拠にしてよいのならばそもそもコンピューター業界がひっくりかえるのではないか。
少なくともUbuntuのようなプロジェクトにおいて、私は断固反対である。
というのは現状ほぼすべてのWeb翻訳(例外があれば教えて欲しい)はプロプライエタリないし、それと同じ結果をもたらすSaaSSだからである。
Webブラウザを介して使う翻訳サービスはSaaSSの代表例であり、ユーザーがコンピューターの計算のコントロールを
持つべきであるという自由ソフトウェアの思想と明らかに相容れないものである。
このようなサービスを利用することの弊害として、(例えば)Google翻訳に翻訳処理の計算を依存することにより、ユーザーの入力をGoogleが常に把握することが挙げられます。
もちろんこれはあまり良いことではない。
多くのFLOSSシステムディストリビューションは自由なソフトウェアを主に入れるというガイドラインを持っている。
アーカイブのごく一部にnon-free(Ubuntuならrestricted/multiverse)なソフトウェアがあるが、
これは事実上妥協の産物であり、排除しても大した問題がないならば配布から除外することに多くのディストリビューション関係者は異論を挟まないだろう。
また例えばDebianはあるソフトウェアがDFSG(Debian フリーソフトウェアガイドライン)に適合するフリーソフトウェアであったとしても、それがガイドラインに適合しない著作物に依存する場合、contribというセクションに閉じ込めており、それは公式のシステムの一部ではないとしている。(建前ではcontrib/non-freeセクションはユーザー向けの付加サービスとされる)
Ubuntuコミュニティで新規に作られた著作物がコミュニティの哲学に反する物に依存するというのは、かなり致命的である。
たとえ奇跡が起こり、例外的にGoogle翻訳や一部のプロ用翻訳ツールがBSDライセンス(Launchpad上での翻訳用ライセンス)での出力を許したとしても決して褒められたものではない。
Ubuntuのbug#1に"Ubuntuソフトウェアは自由である。常にそうであったし、今後も常にそうである。自由ソフトウェアは万人に望むままの方法で使い、望むままの人間と共有できる自由を与える。この自由は多大な利点である。"とプロジェクト創始者であるマーク・シャトルワースが書いていることをよく考えるべきである。
https://bugs.launchpad.net/ubuntu/+bug/1
この反論を読んだ読者の中にはあまりにGNUプロジェクト寄りに思想が傾いていると思う者がいるかもしれないが、
いわゆる"Linuxディストリビューション"の中には数多くの重要なGNUソフトウェアがシステムの根幹をなす形で入り込んでおり(例えばGCC,bash,glibc etc...)
またUbuntuの派生元となったDebianの成立経緯にはやはりFSFが関わっている。
さらに言えば、システムの保守を手伝う人の中にはシステムがフリーだからボランティアで頑張っているという人もいると思う。(ほとんどではないかもしれない)
のでUbuntu周りの話に限ってはこういった観点で見てもよいと思ったので書いた。
http://togetter.com/li/1031145
見て思い出した。
スタバやタリーズの変なサイズ名、あれって紛らわしさを排除するためなんだよね。アルファブラボーチャーリーデルタと同じ。
それでベローチェは未だに「M」「L」みたいなサイズ設定をしてる。
メニュー通りに「カフェオレのL」とか注文すると必ず「カフェオレの大きいサイズですね?」と聞き返される。
どんなに滑舌に気を付けて発音しても「大きいサイズですね」聞き返される。
ならもうメニューも「中くらい」「大きいの」にしとけよ。そしたらお互い間違いようがないだろう。
ちゃんとメニュー通りに注文してるのに別の言い方で復唱されると、
やんわり間違いを指摘されてる時みたいな感覚になってちょっとイラッとしてしまう。
もう今は「大きいサイズで」と注文するようにしている。
なにしろ固目の材質の紙袋で、3重ぐらい折ると決まってるらしく、大変なのだ。
新人だと目も当てられないほどモタつくが
で、別に消費者としてはそこまで袋の折り方にありがたみは感じていない。
朝の出勤時とかだと「いいからそのまま渡してくれ」と言いたくなる時もある。
なんであの端折りを大事に徹底しているのだろうか。
どうしてもあれを続けるなら袋の端に折りやすい加工をしておいて欲しい。
はっきりいって現状は無駄な作業工程、無駄な客の負担になっている。
であれば、客がレジで求めるのは早さと快活さだ。
なんか現状のベローチェは中途半端に高級感や重厚さを出そうとしているように思える。
そんなんいいからさっさとやって、と思うことが多い。
・年若の友人が(特に求めてもいなかったのだが)アドバイスをくれた。露出度の高いコスチュームに身を包んだ女の子たちがサーブしてくれる店である。ちょいぽちゃの子が多いかな。悪くはないのだが期待してはならない。料理も普通だが、けっこう高いので頼み過ぎない方が良い。そんな助言を胸に刻んで臨んだ。
・セクシーな衣装の女の子たちが時折ダンス パフォーマンスを交えつつ、サーブしてくれる。テーブルごとに担当の子がつくらしい。ナプキンにサインして置いていってくれた。
・料理はけっこうボリュームがあって、軽く驚いた。味はまったく問題なくて、普通においしい。
・看板メニュー(と書いてある)チキンウィングは、初め大辛レベルを頼もうとしたのだが、担当についてくれた女の子が「本当に辛いから最初はレベルを落とした方が良い」と助言してくれた。そこで中辛レベルに抑えたのだが、それでもでもけっこうハードな辛さだった。味はこれまた全く問題ない。おいしい。
・価格設定も総じて納得のいく水準である。生ビールもカクテルもきちんとうまい。
・サービス チャージは総額の10%。いつも笑顔でサービス精神旺盛な女の子たち。二人で腹いっぱい食べて飲んで、締めて八千円台。納得のいく値段である。むしろ安い。
・早い時間帯は空いていたが、どんどんテーブルは埋まっていった。なかには女子会が行われている席もあった。喫煙席の方がにぎやかだったような印象がある。
・人気があるのも納得の、魅力あるお店であった。
(自分を見つめたことについて)
・ところで、僕は女の子の居る店にはあまり興味がない。キャバクラとか行きたいとも思わない。なぜなのか、我ながら謎だったのだが、不意に分かった。
・僕の身の回りに居る女性たちが魅力的なのだ。これが元凶である。
・妻も義理の妹も美人さんである。従姉に友人、仕事仲間の女性たちもかわいらしい人が多い。しかも知的でかしこかわいい。
・そんな彼女たちと、日常的に飲み交わす機会に恵まれているのである。ならば、わざわざ高い料金を払って初対面の女の子たちとぎごちない会話を重ねても、と思ってしまう。
・そういうことだったのだ。ひとつの謎が解けた。自分を見つめ直す機会をもくれる店、それがHootersなのだともいえる。
・今思い返しても、良いお店であった。上京した友人をもてなす夜などにはまた利用したい。
教えて。
昨晩フレンチに行った。仕事終わりに話が盛り上がった同僚と思いつきで。給料日直後だし。奢るよーって。
確かにそのお店の雰囲気からは若干ラフな格好だったとは思う。でも何度か行ったことのあるお店だ。顔を覚えられるほど常連ではないが。作法はわかってる。
最初に頼んだワインのサーブから無愛想で「あれ、何かいつもと雰囲気違う」そう思っていた。料理を頼んで2品目がいつまでたっても出てこない。出てきたのは45分経ってからだ。その時点でおかしいなとは思ってた。それ以降も、5品頼んだ内の2品がいつまでたっても出てこない。アペタイザーだったのに……。「もう出ようか?」そう同僚と相談してお会計をお願いして伝票を持って立ち上がった時に、その2品が出てきた。同僚と目を見合わせ、結局その品には手をつけず会計を済ました。しっかり5品分も払った。「飲み直そうか?」で、安居酒屋に行って気付いたのだがさっきのフレンチで請求された金額がおかしい。食べなかった2品を含めても5千円程度多く払っていた。今更気づいた。一瞬店に文句言おうと思ったが現金払いでレシートも発行されず持っていない。小娘と思われてバカニサレタカ。
この怒り。
目の前の同僚はもう気分を変え、上司のエクセルの使えなさについて喜々として話している。この娘に愚痴るのも違うわな。私も嫌なことはさっさと忘れてニコニコしたい。が、収まらぬフツフツと湧き上がるこの怒り。
自分さえガマンすれば丸くおさまる。仕事や家庭や人間関係、こういった場面は間々あると思うのですが、皆さんこんな感情どう処理してるの?
先日やってた錦織とジョコビッチの全豪見てて、普通に面白かった。
ただ、どうしても「なぜそこでラリーが終わったのか」「なぜ打ち返せなかったのか」が分からない場面が多々あった。
例えばジョコビッチサーブ→錦織返す→ジョコビッチ返す→錦織返したけどアウト、となったとするじゃん。
ここで錦織がアウトした可能性としては、
2.ジョコビッチが超いいのを返したからラケットに当てるので精一杯で入らなくてもしょうがない
3.錦織が勝負に出てラインぎりぎりを狙ったら少しだけアウトしてしまった
とかいろいろ考えられるじゃない。
でもテニスやったこともないし、普段からテニス見てるわけじゃないからそういう細かいところが把握できない。
もしそういうところまで分かって見ていればもっと楽しめると思うんだけどな。
こんなん当たり前じゃないか。
ゴチャゴチャ文句言われて、強いほうはじゃあ戦争だ。ってなるじゃん。
やめてほしかったら、男と同じくらい頑張って生きればいいんだけど。そんな女は希少種だからな。たいていは女であることにアグラかいてる。
そりゃ叩かれて当たり前だし。
強いサーブを打たれることが分かったら、2打目は適当にして、4打目に集中するぞ。とか、ゲーム性考えた対応するだろ。
女が権利主張してワガママ言ったり、普通の男が女と付き合えないってなったら。そりゃ女に不利でも「正しいから」で戦略立てるやろ。
昔は「女だから多少ワガママ言わせてやるか。お互い我慢しようか」みたいな感じだったのが。バブルで女が調子のって「男だけ我慢しろ、女は自由だー」となったから。「じゃあ男も自由だ、女も平等にボコられれよ」ってなるじゃん。
当たり前なんだよなあ。こうならずに、男が女を守って、当然女は利益だけもらえると思うほうが頭悪いじゃん。
女叩きとか、その流れで当たり前なんだよなあ。
腐女子じゃないっていちいち書く意味があるのかと言っていた人がいるが
何故ならこの二つの文章を見比べる事により、これまで腐女子なフェミニストに感じていた違和感が浮き彫りになったから。
彼女達は男性作家の書くホモソーシャルを表面上は批判しつつも、それにより萌えという恩恵を得ているからだ。
サンジが女体を賛美しつつも女性の人格を尊重しない、それよりも男同士の絆を重んじるキャラクターなのは明らかだ。
サンジもワンピースの「少年」中心思考を形作る一要素だし、尾田氏のスタンスを批判するならば当然その批判の中に含まれるべきキャラクターだからだ。
だから作者のスタンスに批判的ならばサンジというキャラクターにも批判的になるし、サンジのファンならば作品まるごと受け入れる…それが自然。
キャラクターのファンであるが作者や作品に批判的というのは、少年漫画の場合ナミやロビンのような女性キャラのファンならば分かる。
NARUTOのサクラファンやブリーチのルキアファンがその該当キャラに肩入れして「所詮少年漫画における女の扱いなんてこんなものか」と失望するのも分かる。
しかしサンジは男キャラであるし、その中でも特に「女は若くて美しくなければ駄目!」という価値観を体現している。
カマバッカ島へ行くまでもなく、ドラムの時点でサンジのそういう人格は明らかだ。
本来の意味のフェミニストであれば到底支持できるキャラではないのである。
サンジよりもジョジョのホル・ホースの方がよっぽど女に優しい女好きキャラだと思うが
腐女子に受けるタイプのキャラではないからフェミニスト腐女子の旗印にされる事はない。
女をモノとしてしか見ていないホモソーシャルキャラのサンジは、男性同士の恋愛を妄想する上では実に都合のいいキャラなのだろう。