はてなキーワード: 名物男とは
青鬼、と呼ばれた男がいた。
奴さんは我が私立中学の最古参の体育教師で、それはほぼ公式と化した渾名であった。渾名がついていることから察せられる通り名物男であり、一説には自衛隊教官であったとも刑事であったとも、オリンピアンであったともいわれていた。(母校にはなぜかもう一人オリンピアンがおり、そっちは物理教師で種目は射撃。流体と落下に縁があったのであろう)
体育教師のわりにえらくチビ-中学生とほぼ同等の上背である-で、顔色は渾名の通り常に悪かったが、ふるまいは明るいおっさんという体でご陽気なものだ。授業自体もそう他と変わらない。シーズンごとに球技と陸上、格技を学期ごと2種目ぐらい最終的には競技になる程度に教え込むのである。なお、1学期を通してずっとラジオ体操をやるなどというカリキュラムもあった。あれはあれで細部にこだわると奥が深いものである。
青鬼には妙な信念があり、軟派な校風の中、真面目であることに非常なる重点を置いていた。その発露の一例が、とにかく早く着替えて予鈴前に集合した生徒は、10点満点の評定の内一回に付き1/3点を加算するという、大変太っ腹なシステムである(ただし2点のキャップがある)。陰湿になりがちな体育教師にあって、逆の場合の減点をしないのが青鬼の陽性な気質のもう一面の発露だ。今にして思えば、私を含めた運動音痴連の為の、まあ救済だったんだろう。なにせ中学なのに赤点で即落第というそこだけはシビアな私学の事情もある。
ある学期のことである。その時の球技はバレーで、3種類のサーブの打ち方とレシーブ・トス・アタックを一通り練習したらもう試合だ。だが、こちらは前述の加点で辛うじて体育落第を防ぐ程度の生徒である。サーブすら敵陣に入らない有様だ。それを見ていた青鬼が私を呼びつける。
「増田よ、お前のフォームは悪い。だが、ボールは少なくとも飛んではいる。だから軸足のつま先を、きちんと飛ばしたい方向に向けろ。そのうえでネットを超えるような高さで打てば、必ずサーブは入るようになる」という。
まさかそんな単純な事でと思ったが、言われたとおりにすれば、成程ボールはある程度ちゃんと敵陣のライン内に飛んでゆく。理屈はわからないが、これはさすがに感心した。ひょっと青鬼が伝えたかったのは、その先にある例えば体幹の使い方などの深いモノであったのかもしれない。だが、あいにくの運動音痴である。そこまで会得できるわけがない。
しかし、お陰様で傍から見ると異様なフォームだが、その後も幾度か機会のあったバレーボールで、少なくともサーブだけは何とか入れることができた。余りの奇天烈なフォームに幻惑されるあまり凡球だが受けにくいと、過分の評まであった程である。あの歳で身に着けたことだ、多分いまだに入れることができるはずだ。
なぜこんなことをいまだに憶えているのかといえば、その後の(前の連中もそうだが)体育教師の一人としてこのレベルの具体的な指導というものがなかったからだ。連中は自分ができるあまりか、何か根本的な他の原因によるものか、できないものに対する改善策というものを全く示すことができなかったのである。そりゃルールや所作を教えるのも重要だ。だが学生生徒に何らかの前進をもたらしたのは一人青鬼だけであった。
たまたまそういう巡り合わせだったのか、それとも青鬼だけが特に秀でていたのかは謎だ。だが、体育教師と指導の問題が話題になるにつけ、私は青鬼と、己の奇妙なフォームのサーブと、それを身に着けた古い体育館を思い出すのである。