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はてなキーワード: サーブとは

2015-02-18

http://anond.hatelabo.jp/20150218203638

横だけどサーブがあまり得意でない錦織面白い試合するよ。

観戦向き。

テニスファンもテニス欧米スポーツと思われているか錦織はあまり好きになれないだけだろう。

欧米から広まったスポーツ黒人アジア人が入ってくる中、テニス白人が強いしそういう意識は強いよ。

他の競技同様自国選手を応援するしね。

その例えで錦織を出すのはおかしいと思うよ。

2014-11-16

テニス試合感想

調子が上がってきたところに、続けざまにチャンスがくるとき

こんなおいしい展開はないのだ。当然ものにしないわけにはいかない。勝ちにいく。仕掛ける。

しかし、何故かそこで調子を乱して千載一遇のチャンスを逃してしまう。そうすると、それが好機の中の好機であったがゆえに余計に気落ちしてしまう。さら調子が狂う。そういうことだろうか。

錦織選手テニス試合を見ていて思ったことだ。

ではどうすればよかったかと考えても、やはり攻めるしかないだろうし。不運な偶然で負けたのかと言えばそういうわけでもなさそうで、もう少しうまくやれた可能性はあるようだ。

対戦相手が王者場合、多くはないチャンスを絶対確実に決めなくてはいけないのだけど、その「絶対に」という条件がどこかで調子を狂わすというのはあるよな。

テレビを見ていて、錦織選手ナイスプレーやスーパープレーを連続させなくてはいけないような感覚になった。それに比べると相手にはやや余裕があるように見えた。もちろん油断してたらやられるわけだが。

そのナイスプレーを連続させることというのもプレッシャーになるだろうね。あとは、これからナンバーワンを奪いにいこうとしている人間は挑むにあたってどうしても壁や障害がよりハードみえるっていうのもあるだろう。未体験の領域から。それゆえ、先に述べたチャンスがよりチャンスに見えるということにもつながる。

でも、彼はさらなるランキング上位や4大大会優勝を現実にできる位置にいるらしいし、そういう発言もしているのだから、私が持った印象よりずっと強く、すでに王者たちと同じステージに立って戦っているのかもしれない。いや実際同じところに立っているのだろう。ただ、すでに頂点を経験済みの人とこれからの人では精神的には異なるだろう。

本当の意味で同じステージに同じように立つまで、あと2歩という感じがする。解説もされていたけど各種のテニス技術・力(ファーストサーブ確率とか)の改善最後の一歩はやっぱり勝つこと。頂点に立つことなんだろう。

今回改めてトップを走る人間の大変さとすごさを感じた。彼自身としての、また日本人としての未踏領域に挑むこと。どんな気持ちなんだろう。意識しているんだろうか。野心や期待や気合いのほうが強いんだろうか。

試合を見ているとこちらまで緊張して少し疲れるけど、またテレビでやってたらみよう。

2014-09-09

決勝前

松岡修造報道ステーション

チリッチは勢いがある。簡単には勝てない」

慶応大学テニス部コーチ坂井利彰(TBS

錦織100%勝てる!パワーサーブ時代じゃない!」

「今晩TBSニュース23にて私の試合解説コメントが出ることになりました。ぜひご覧ください。(ドヤァ)」(Twitter

2014-06-27

http://anond.hatelabo.jp/20140627151528

野球なんてそもそも下手くそは話にならないしどこにいても邪魔しかならない。

必ずそいつの番、ってのがあるのがだめなんだろうな。

サッカーなら黙って隅っこにいればいいけど。

そりゃ、バスケなんかも一緒。

バレーだとサーブがあるから雑魚が居ると糞になる。

そういう意味じゃ、バレーのが直接失点になるし、野球よりひどいんじゃね?

2014-06-26

私がサッカーを好きになれない理由

春と秋、年2回行われる高校球技大会

私がいた学校では男子2種目、女子2種目開催される。

開催種目は都度全校生徒による投票で決められるが、

通例として、男子サッカーほぼほぼ確定で、

残り1種目を何にするか、という出来レースであった。

運動神経は可もなく不可もなく、という程度だった私は、

どんなスポーツも人並みにはできた。

しかし、小さい頃からサッカーというスポーツだけはどうしても苦手であった。

「蹴る」という才能が皆無だったのだろう。

父親がサッカー経験者だったので、

練習をしてこなかったわけではなかったが、一向に上達する気配もなく、

暇な時に家の前で壁に向かって蹴っていたサッカーボールも、

中学に上がる頃にはほこりかぶり

いつからか体育の授業がサッカーと聞くだけで、

苦手意識からなんとなく気落ちするようになっていた。

その時の種目はサッカーバスケだった。

バスケ経験者を多数擁する我がクラスメンバーはすぐに決まり

残りの男子は有無を言わさずサッカーに回された。

かくいう私もそのうちの一人であった。

本番までの放課後サッカーメンバーで何度か予定を合わせて練習を行った。

回を重ねるにつれて、私の下手さ具合というのはみんなの知れるところになっていき、

露骨に冷ややかな視線を送ってくる生徒もいた。

その頃からクラス内でもなんとなく息苦しさを感じるようになっていた。

そして迎えた本番。

試合最中たまたまではあるが何度か私の元にもボールが転がってくることがあった。

しかしそのボールほぼすべて、私には触らせず、上手いメンバーが取りに来て試合を進めていた。

もはや私はチームにいないものとして扱われていた。

結局この大会、私のチームは1勝も挙げることはなかった。

サッカーは、下手な人間無視しても成立するスポーツである

他のチームスポーツは、下手な人間は下手な人間なりにまだ参加する余地がある。

バスケならマンツーマンで相手選手に引っ付いていれば、少しはチームの役に立てるかもしれない。

バレーなら必ず回ってくるサーブ試合に参加できる。背が高ければブロックもできるだろう。

野球も同じく必ず打順が回ってくるし、守備素人ではあまり飛んでくることのない

レフトやライトにいたって、たまに来るゴロやフライに触ることはできる。

参加できる。

しかサッカーは違う。

人数が多いぶん、周りが上手ければ一人分くらいは平気でカバーできてしまう。

完全に無視して試合ができてしまう。

参加できない。

いないのと、同じ。

球技大会が終わったちょうどその頃から

私はクラスの中で爪弾きにされることが多くなった。

自分がチームの敗因のひとつであるという自覚はあったので、

強く出ることもできず、日々を過ごした。

その頃はあまりその言葉意識してはいなかったけれど、

今思い返せば、あれはイジメ、だったのだろう。

もちろん、球技大会の件が原因のすべてだったとは思わない。

けど、大きなきっかけになったことは間違いない。

サッカーをする人みんながそんな人たちだとは思わない。

下手な人にもサッカー面白さを、参加の仕方を、

教えてくれるような人もきっといるはずだと思う。

けれど私は、残念ながらこの歳になるまでそういう人に出会えなかった。

あの球技大会から、未だに私はサッカーを好きになれない。

2014-06-24

模倣できないハンデ

見よう見まねが全く出来ない人間にとって、この世は非常に生きにくい。

と、のっけから主語が大きい増田だが、自分観測範囲でこのハンデを抱えていて幸せという人には会ったことがないので仕方ない。

見よう見まねが出来ない人間は、あらゆる物事の習得に、普通の人の数倍時間がかかるので、大抵習得出来ないまま終わる。

というのも、人間の諸活動言語化できる範囲などたかが知れていて、大抵の物事はいちいち言語化されたノウハウハウツーなど使わずに会得するものからだ。

そして、そういう「非言語アプローチ」の核になる知的要素が、見よう見まねと。

最近暗黙知形式知にすることの必要性喧伝されているが、早晩限界に突き当たると自分が考えている理由でもある。


これだけだと何がどうハンデなのかピンと来ない人がいると思うのでもう少し説明すると、見よう見まねで覚える最たる物がスポーツコミュニケーションだったりする。

こう書くと、見よう見まねが出来ないで大人になることのヤバさが多少は理解できるだろうか。


例えば球技場合キャッチボールから始まってバレーサーブテニスラケットスイングまで、最低でも肩・肘・腰・脚の連動が必須で、これらがきちんと噛み合わない限り、絶対に上手くいかない。

しか普通の人は、自分から言わせればそういう恐ろしく難しい動作を、ほぼ見よう見まねだけで習得してしまうのだから信じられない。

もしこれを自分習得しようと思ったら指導者がいるのは前提で、更に「今手本を見せるからな、肘見てろよ、絶対だぞ!」とか細かく注意喚起してもらいながらやれば、そのうち出来るようになるかも?という体たらくだ。

このレベル指導をただでやってもらうのは無理だろう。

というわけで、絶対こんなのより微積の問題とかのほうがまだ簡単じゃんと思ったり。


それでもスポーツは、コミュニケーションに比べれば、コーチングとかが確立している分、まだマシかも知れない。

しろ、今のところコミュ力アップの方法は、心の広いリア充に色々連れ出してもらったり、或いはヤリチンヤリマンおこぼれにあずかるのが最も効率良いというか、それくらいしか方法がない。

そうやって洗練された(?)コミュニケーションの渦中に放り込まれて、見よう見まねで悪戦苦闘しかないということだが、自分が最も苦手な方法が最も効率良いとか、全く最悪の状況だ。

やる前から壮絶にコストがかかると容易に予想できるものを、進んでやりたくなるわけがない。


とにかく、そんなわけで人間が生きる上で最も必要知的能力が欠落したまま育つ結果、出来ることしかやらなかったり、努力というものに強いアレルギーを抱いた挙げ句、色々足りていない大人になると。

かくいう自分勉強だけは出来たが、それも高校まりで、気がつけば「十で神童、十五で才子、二十過ぎればただの変人」という流れだった。

かといって、当時もっと勉強を頑張って、後年「俺が高学歴なのは努力の結果だ、今まで遊んできた奴には(ry」などと言い放つの幸せ人生だったかも大いに疑問。

ま、いずれにせよ自分にとって今までもこれからも、この世は生きにくいのが普通なのだろう。

気がついたら「人生なるようにしかならない」が座右の銘になってしまった。

2014-06-23

http://anond.hatelabo.jp/20140623214520

うむ

5%が10%になるくらいの違いはあるのかもしれないけど、他の奴が80~90%サーブ入れてる時にそれだったらどのみち追い出されるよねっていう

http://anond.hatelabo.jp/20140623194322

とりあえずサーブなら下打ちしとけば入るからOKじゃね?

いや、下から打とうが上から打とうが全然入らないけど?

こっちが全力でボール打っても入らないのに、他の奴らは軽く打つだけで入るのが不思議で仕方なかったわ。

今でもどうやったら入るのか分からない。

http://anond.hatelabo.jp/20140623191559

そうか?

とりあえずサーブなら下打ちしとけば入るからOKじゃね?

ほとんどが未経験からそこからの展開なんてお察しの通りだし。

常に顔面強打の恐怖があるのは難しかったけどな。

サッカーバスケの厄介なのはアクティブなやつらは休み時間とかに遊んでるので、ある程度の技量があって当然みたいな雰囲気があるところ。

2014-03-11

http://anond.hatelabo.jp/20140311114756

マニュアル教科書もなしじゃ、いくら経験を積んでも何も学べない人が世の中には結構いる。

ボール投げやバレーサーブ逆上がりだって、出来る奴は見よう見まねで勝手習得するけど、一方でコーチング映像による解説なしでは全く身につかない奴がいるわけで。

2014-03-09

寄せ書きの追伸と返信

  球技大会のことを、

あれ以来誰一人としてわたしには触れてこなかった球技大会のことを

あなたは寄せ書きで触れていて、驚きました

救われた気がしたと同時に、申し訳なくも思います

  あのとき助けてくれなかったのって、もう相当わたしのこと嫌だったのだと思います

団体競技で足を引っ張るだけで、なかなか上手くできず、

チームのキャプテンの「なんでできないの?」という問いに

答えないわたしを何度も見ながら、さすがのあなた

さぞやきもきしてたのだろうと思います 

本当になんでできなかったんでしょうね

キャプテン最初からそうではなくて、丁寧に何回も教えてくれていたのに

その年の球技大会のことはよく覚えていません

覚えているのは、

苛立った声でキャプテンが言った「なんでできないの?」という言葉と、

試合が終わった後に一人倉庫で泣いていたことくらいです

 


  そういうわけで、あなたと関わるようになるまでは、あなたが少し怖かったです

ですが、体育のテニスで同じ班になったとき

あなたサーブが打てないわたしに根気よく打ち方を教えてくれました

「なんでできないんだろうね」とは一言も言わずに、

授業前に早めにコートにきて練習するわたしに、

ただ「こうだよ」と何度も何度も教えてくれました

同じことを何度も何度も言わせました

けれど気長にあなたは練習に付き合ってくれました

その甲斐あって数ヶ月後に、ようやく初めてサーブが入ったとき

班の人たちとあなたの顔は忘れられません


  それからしばらくして、あなた球技大会ときのことを

後悔してるのではないかと思いました

からあんなに気長にサーブを教えてくれたんだろうと今は思います

あのすごい剣幕でわたしを責め立てるキャプテンを咎めるのは、

さすがのあなたでも無理です

そんなのわかってます

あなたはよく人に無駄絡みをしてじゃれついていてメンタルが弱そうで、

それだけに罪悪感は持たせたくなかったから、

上手く立ち回ったつもりだし、愚痴を漏らすときはまったく関係がない人に

相手をしてもらってたんですけどね

寄せ書きに書くくらい気にしてたなんて、気付きませんでした



けれどね、

いつも不器用でお世辞の一つも言わないくらいだけど、

面倒見がよくて、

愛想のないわたしに話しかけてくれて、

髪を切ったら毎回気付いてくれて、

よく授業を寝ていたわたしに躊躇いもなく

「(寝てた分のプリント)見る?」って言ってくれて、

前後の席の時に、サーブまたできたよーって報告したら

「あ、そう」ってすぐ前向いたくせに後で一緒に帰った時にさらっと褒めてくれて、

面倒を見てもらったお礼を言ったら

ちょっと黙って言葉に迷ってるようなあなたがわたしは本当に大好きです

わたしの方が数ヶ月早く産まれたけど、内心姉のように慕ってました


と、寄せ書きに書いたら引かれそう(あなたのみならずクラス全員から)だし、

ここまで書くの恥ずかしいし時間かかるし、

きっと書きながら泣いちゃうので、書きませんでした

そして話すの苦手なんで、これからも絶対言いません

いろいろ迷惑かけてごめんなさい

というか、迷惑しかかけてなかったのに、

こんなにもよくしてもらったのが今でもとても不思議です

でも本当にありがとう




  うん わたし頑張ったよね

もういいんだよね

もういいよね

2013-12-16

トンクスという言い方の由来

 言葉意味は正しく理解しなければならない。ネットで「トン」と言えば、「ありがとう」のことだ。それも「トン」の2文字には、惜しみない賛辞と最上級感謝が凝縮されている。しかし人によってはこれを無愛想だと顔をしかめる人や無礼まりないと烈火のごとく怒り狂う人もいる。2文字のどこが「惜しみない賛辞」だと腹を立てる気持ちは分からないでもないが、半角カナとか舐めてんのかと突っ掛かってきた御仁には苦笑を禁じ得なかった。言葉というのは恣意的ものからそういうものだと受け入れる他ないのだよ。そして由来を知っておくことは言葉を受け入れる上で重要ファクターだ。どこ生まれどこ育ちかも分からぬ男を我が家に迎えることはできない。どこの馬の骨か分からない、どこの素性の草鞋かも分からないのでは、「てめえどこ中だよ」と履き捨てたくもなる。馬好きなら血統を知りたがるように、言葉を愛する気持ちが少しはあるなら由来を知らなければならない。

 よくある誤解はサンクスが崩れて「トンクス」になりさらに略されて「トン」になったというものだ。確かに崩れて略された言い方を御礼に用いるのは少し失礼なこともあるかもしれない。だが事実は違う。正解を言う前にいま1つの誤解を鑑賞してみよう。ありがとうのくだけた言い方「ありがとん」が由来だという説だ。なるほど、サンクスの「サン」をありがとんの「とん」に入れ替えた言い方か。面白い。まるでクイズ日本人質問に出てきそうなもっともらしい説明だがこれも違うのだ。決定的な証拠を挙げようか。海外でも「トン」は使われてるのだ。「トンクス」は使われてないけど「トン」なら昔からよく見かける。てっきり2ch用語か何かのジャパニーズネットスラングだと思ってた人は驚いただろう。トンは日本だけのものではない。「ありがとん」が由来などもっともらしい説が横行しているがお笑いである

 正解はthanks a ton.という慣用表現これが由来なのである日本国ではありがとうの気持ちを強めて言うにはサンキューベリーマッチがよく知られるが実際ネイティブがよく使うのはthanks so much.やthanks a lot.だ。これをさらに強めたのがthanks a million.で大袈裟言い回しが大好きなアメリカ人はこれをさらに強めてthanks a billion.も好む。そして、これをさらさらに強めたのがthanks a ton.なのだ。お分かりだろうか?これがよく目にする「トン」の正体だ。少なくとも20年も前のニフティサーブ時代から英語圏で見かける表現である。それ以前からあったのかどうかは定かではないが、多分あったのだろう。2ch用語だなんて信じてる奴はプギャーである。昔から海外ネトゲを嗜んできた香具師外国人がton!と言ってるのを聞いたことがあるだろう。

 総括するとトンクスならびにトン!はやはり一般的に思われてるのと違いなく立派な感謝言葉であった。決して下等なネットスラングなどではないしそうであってはならないのだ。昨今「言葉は生き物」という言語学観点をあさっての方向に濫用して自分勝手言葉使いを正当化する輩が絶えないが、彼らには語源論(エチモロジー)という観点がごっそり抜け落ちている。自分に都合のいい理論だけ拝借することでしか自己弁護できないのはアホンダラの極みであるが、この世の中不条理ものでそうしたアホンダラが肩に風靡かせて闊歩しておるのが現状。私たちは何としても語源論を盾に彼らによる蹂躙を食い止めねばならない。

2013-07-06

やはりドリーさんの書籍クリティークはまちがっている

 というわけで一本何か書いてみようという安易意識からキーボードを叩き始めました。名も無きはてな民です。よろしく。

 さて、今回は巷でネット民の熱い羨望を浴びながら、同時にドス黒い憎悪嫉妬とを育み続ける孤高のネットライター、ドリー氏の行う書評について、何か適当に書いていこうと思います。正直言って資料を用いながらの適確で分析的な記事とかは書く気がしないんで、フィーリングで書いていくことにします。


 さて、ドリー氏については説明不要だと思います。あの村上春樹の新作『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』をamazonレビューにてけちょんけちょんに叩き、その軽快でユーモラスな批評おいて人気を博した、ネット出身の新鋭ライターブロガーでございます。あ、ちなみにこんな風に書くとまるで私自身がドリー氏のモグリか何かのように見えるでしょうが、その心配には及びません。この記事は売名を目的にしてはおりません。

 ドリーさんには、今回のamazonレビューを切掛にして、何と出版社からライターとしての依頼が飛び込んできたようです。何ともまあ、驚くべきことです。ネットからの躍進というものが、こんなに身近な部分で行われているなんて……と、些かめまいのようなものを覚えてしま塩梅でございます。そんなこんなで、今更になってドリーさんの名前を広める為に誰かが努力をしたりステマをしたりする必要は、今の時点ではおよそ皆無だと言えるでしょう。何たって既にその名前が広がっていく余地が取られているわけですからね。


 さてまず、彼の批評について述べる上で、彼の書く批評文においては幾つかのポイントがあるわけですが、それについて紹介していきたいと思います


 自分アッパークラスならぬダウナークラスに位置付け、そしてそのような低きから視点おいて、批判対象(アッパー雰囲気を纏うものや、ハイソ雰囲気を纏う書物)を叩いていく、というのがドリーさんの基本スタイルとなっております

 こういう風な「ダメ人間」としてのキャラ付けで文章を書くのは、ドリーさんの特徴でもあります。ちなみに、これまで「ダメ人間」としてのキャラエッセイを書いてきた著名な作家を挙げるとすれば、例えば滝本竜彦とか、あるいは穂村弘などが該当するんではないでしょうか。ともかく彼のレビューは低い視点から行われます。そして必然、そのような視点が読者からの親しみを呼んだり、あるいは共感にまでこぎつけることも当然起こります。こういったことで、ドリー氏はネット層のナイーヴで、どちらかと言えばハイカルチャーには属していない人々の人気を勝ち取ってきたというわけです。


 ドリー氏がamazonにて村上春樹批評した手段はまだはてな民の皆さんには記憶に新しいと思うのですが、ドリーさんの真骨頂は、この「形而下ツッコミ」にあります

 ときに、今年の四月中旬に発売された、『色彩を持たない~~』という小説。これは村上春樹の発売した新作なのですが、この小説にはこれまで村上春樹が取り組んできた様々なエッセンスというものが生かされており、また、その他にも新奇な取り組み、挑戦的なメッセージなどが込められた作品でありました。

 そのような『色彩を持たない~~』ですが、特にこの作品に込められたメッセージの中で重要ものを上げるとすれば、それは次のようなものになると思います。つまり「我々の見る〈夢〉と、現実に起きている様々な事象の間には、ある種の相関関係があり、そして我々は夢というものを通じて現実事象における幾らかのレスポンシビリティー(責任)を共有している」というものです、こうやって一文に纏めると分かりにくいんですが、もう少し分り易くまとめると、要するに「我々は社会的責任や個人としての責任というものを、夢という通路を介して確認することになる」、ということです。このようなメッセージは、恐らく村上春樹氏がこれまで取り組んできた、ユング研究者との間のやりとりや、あるいは彼の人生経験というものを基立ちにして書かれているものだと思われます。そのような点において、村上春樹の主張している文学性というものが光っているのです。

 しかし! しかしです。

 ドリー氏の批評のやり方は、そういった〈文学性〉。いわば、〈形而上学的〉な分野においては、全くタッチしないという、そういう方法論を使ったものだったのです。


 これは、私が主観的立場おいて評している事柄ではありません。

 というのは、こういう「形而下的ツッコミ」とか、あるいは別名「表層ツッコミ」という言葉は、誰でもない、他ならぬドリー氏自身によって発された言葉であるからです。正に彼自身が、彼のレビューのやり方を評して、「表層ツッコミ」。あるいは、「形而下的ツッコミ」と呼び習わしていたのです。

 つまり、彼の特徴を一言で述べるならば、その作品の奥深さというものに関してはできるだけ発言を控える。というものなのです。そして、そういった「奥深さ」に関しての発言よりも、もっと身近で物質的な、そういった部分に関して照明を当てる、というのが、ドリー氏の批評術なのでした。


 アレ、ちょっと待てよ? という意見が、そろそろ出てきてもいいのではないでしょうか。

 というか、若干キレ気味な方というのが、現れてきてもいいんじゃないか、という風に僕は思ってます。なんなんだそれは! と声を荒げてもおかしくない方法論じゃないのかこれは? と、むしろ僕自身がそんな風に思ってきているところです。


 ドリーさんのやり方は、例えば以下のようなものです。


 『色彩を持たない~~』にて、以下、主人公とその友人「アカ」とのやりとり。


 アカは笑った。「嘘偽りはない。あのままだ。しかしもちろんいちばん大事な部分は書かれていない。それはここの中にしかない」、アカ自分のこめかみを指先でとんとんと叩いた。「シェフと同じだ。肝心なところはレシピには書かない」


 「あるいはそういうこともあるかもしれない」とアカは言った。それから愉快そうに笑って、指をぱちんと鳴らした。「するどいサーブだ。多崎つくるくんにアドヴァンテージ


 アカは言った。「俺は思うんだが、事実というのは砂に埋もれた都市のようなもの・・・



こういった、ちょっとオサレというか、まあそれらしい描写に関して、ドリーさんは以下のように述べています


それにしても自分大好きオーラでまくってます

身のこなし、言葉の節々から自己陶酔感がただよってるんですよ。


 なるほど……。と思えるようなツッコミです。確かに、アカの言い方からは、極普通社会生活を営んでいる方々から見れば、少し苦笑いをしてしまうような、あるいは軽く眉を顰めてしまうような、そういう素振りが端々から匂わされています

 これが、いわゆる「形而下ツッコミ」というものなのです。読者にとって、距離の近い何か、つまり、作中の人間における特徴的な発言とか、あるいは、そのキャラクターが行なっているファッション、あるいはスタイルというもの、そういった身近な位置に存在するものに関して、一つ一つツッコミを入れていく、という技術。これが、ドリーさんが主に自称しているところの、「表層ツッコミ」という技術なのでございます。確かに、このツッコミ面白い(笑)

 ぶっちゃけ僕も何度か読み直して笑ったくらいのものです。それくらいに、この「形而下ツッコミ」には効果があります


 しかしです。

 実際に、この『色彩を持たない~~』を読み込んでいくと、このようなツッコミ果たして正当性を認めてよいものなのだろうか? というようなメッセージが改めて浮かび上がってきています


 と言いますのは、まず、このアカという人物。なんと、未読の方にはネタバレになってしまうのですが――

 ――ですから、この先の部分に関しては未読の方は注意して読んで下さい、お願いします――


 ――同性愛者なのです。しかも、そのような事実に関して、何と自身が女性結婚関係を持ち、暫くしてから気付いてしまった、というかなり不幸な人物でもあるのです。彼は、結婚自分性癖について自覚してしまい、かなりの苦悩を感じていた模様です。

 その辺りは、『色彩を持たない~~』本編においてかなり描写が尽くされております


 ところで、ここで、「アレ?」と思われる方はいらっしゃいませんでしょうか?

 つまり、ドリーさんのツッコミの内容が、果たして本当に妥当ものなのだろうか? という感想を抱いた方が、ここまでの文章を読んでいて幾らかいるんじゃないかということなのです。

 ドリーさんのツッコミの内容は、以下の通りでした。

「『アカ』の臭わせている『自分大好き』臭がひどい、彼の自己陶酔的な態度がヤバい


 しかし、上のような本文の描写を読む限りで、そのようなツッコミぶっちゃけ間違っていることが、明らかになっています。つまり、むしろアカ」の根底には、「自分大好き臭」などではなく、徹底的な自己嫌悪存在しているということなのです。

 付け加えるならば

この「アカ」は、その父親が何と名古屋大学経済学部教授職を務めている人物であったりするのですが、そのような父親に対してアカは名状しがたい反感のようなものを抱えて青年時代以降を生きてきていた、ということが本文にて言われていますしかし、多崎つくるが生きている現代世界、彼が36歳になっている時点において、アカは一般企業向けのサラリーマン育成サービス会社の代表を務めているのですが、何と彼は、自分が忌み嫌っていた父のような、尊大で狭量な振る舞いを、そっくりそのままその会社経営スピーチおいて行なってしまっているのを作中で嘆いているのです。つまり、繰り返すように彼の中にあるのは、「自己嫌悪」というべき以上の何物でもない感情なのです。そしてそれを無視したまま、ドリーさんは「自分大好き臭がすごい」、などなどと形而下的ツッコミに終始してしまっているということなのです。


 ドリー氏は他にも、レビュー中で多崎つくるのファッションについて言及しており、彼の終盤におけるファッション、「オリーブグリーンバスローブ」について批判しております

 曰く、その色は「クソ緑」とのこと(笑) なんともまあユーモラスな表現ではありませんか。

 しかしです。このような緑の色、というのは、西洋おいはいわば「嫉妬」というものを表す象徴的な色でもまたあるのでした。

 主人公の多崎つくるは、本編の終盤において、交際相手の女性浮気現場を目撃してしまい、そのことで苦悩します。そして本作は、作中において何か特定のスタイル生き方、つまり「色彩」を持てなかった彼が、最終的に嫉妬感情を表す「オリーブグリーン」のバスローブを着込む、ということを最後に、幕が降りることになります。結局のところ、この『色彩を持たない~~』という物語は、多崎つくるというプレーンで如才ない特徴の無かった男が、嫉妬という、これまで無色だった彼にとってあまりにも大きすぎる感情を背負うことになってしまうという作品なのです。そんなテーマが描かれた小説なのでした。

 しかし、ドリー氏はこの「オリーブグリーン」の比喩に関して、「クソ緑」とただ一言切り捨てたのみなのです。それ以上の言及を、彼は避けております

 これが、いわゆる「形而下ツッコミ」の正体なのです。その、暗喩文学比喩といった奥深さに関しては常に除外し、表面的な部分にの視点おいて俗っぽい言葉によって吐き捨てる、というのが、結局のところドリー氏の行っている批評の正体と言えるでしょう。

 ドリー氏は、これは個人的な意見になってしまうのですが、はっきり言ってそういった「奥深い部分」に対する想像力、というものを発揮しない(あるいは表立って発言しない)といった批評のやり口に、あまりにも慣れきってしまっている感があります。何というか、そういった相手の表現したい奥深い分野については言及せず、大体において「表層的」あるいは「形而下的」な部分に対してのツッコミだけを行う、というのが彼のスタイルになってしまっているのです。


 さて、ここまで長々と書いてきて、結論としては、ドリーさんの批評(クリティーク)においては、あまりにも想像力文学表現に対する理解というものが欠けてしまっている、ということが言いたいわけなのです。そんなこんなで、ドリーさんの書籍批評に関しては、以下の言葉でまとめることができるでしょう。やはり、ドリーさんの書籍批評はまちがっている、と

2013-07-05

http://anond.hatelabo.jp/20130704225627

結局コースにケーキは含まれてたの?

だとしたらサーブして欲しいって主張して、その時の店員さんの態度があなたの言うように良くなかったなら怒ったとしてもそこまでおかしくないんじゃ?

何でもかんでもモンスターで括るのはどうかと。

合わないようなのでお互いに別れて正解だろうけど。

2013-05-20

http://anond.hatelabo.jp/20130520101019

だったら、狭くて車椅子が入れない店、には 車椅子人間対応してくれ。

つねに世界が、車椅子人間対応しなきゃいけないわけじゃない。

 

車椅子人間社会対応してくれ。

 

狭い店、急な階段ビル、人数が少ない店(店主1人だけ)とかは存在するんだよ。

イジメか?車椅子人間貧乏人をいじめてもいいのか?

ドコモかしこも、金余りじゃない。金のない余裕のない店だって有るんだ!

事前に言われりゃ準備できることでも 営業時間中に言われて対応できるわけ無いだろ。

ディナータイム飲食店で、人数が少ないタイプの店が、急な対応には限界があるのは社会常識だ。

大規模店ばかりじゃねー。

 

少しは相手のことを思いやれ。思いやられるばかりで、思いやりのない人間になってるよ。

普通そういう時は、サーブする側も自信がないから、営業時間前に来てくれるともっと対応できるよとか交渉が入るんだよ。

サーブする側だって、親切にしたくったって、他の客もいるし不得手もある。 思いやりを相互に持って、交渉はしてくれ。小さい店もあるんだ。

2013-05-12

http://anond.hatelabo.jp/20130512163021

ナデシコ大好きだったなー今でも好きだよ。

あの作品は本当によく出来てたからなぁ。

ハードSFからヨコジュン系のハチハチSFまでカバーしてて、SFに詳しいほど面白味が増すというwww

あいう間口の広いSF作品は大抵、名作なんだよね。

同じ理由でパトレイバーもそうだし、古くはアトムも該当するんだよね。

ニフティサーブSFフォーラムで放送当時にエステバリス構造素材で議論したのが懐かしいわwww

2013-01-22

桜宮高校体罰事件となんで体罰いけないかとか自主性とか

大阪市桜宮高校体罰事件が毎日伝えられている。生徒はキャプテンになってから毎日しかられ、体罰を受けて参っていたという。教師は体罰を辞めます、といった数日後の練習試合でまた生徒を殴り、キャプテンを辞めるならBチーム、やめないなら殴ってもええんやな、といったという。

ネットでは頭がおかしい、とか、クズだとかさんざん言われている。

でも、それは違うんじゃないか、という気が私にはする。あんまり整理できてなくてちょっとわかりづらいかもしれないけど、私の体験を書いてみる。参考になるかもしれないので。



私は中高6年間バレーボール部にいた。

今でも小さいがそのときも小さかったので中学ではずっと補欠だった。

最後試合に出してもらったが、ミスをして交代となった。そのとき顧問先生が何を思ったのか「出すのはおまえでなくてもよかったんだ」とつぶやいた。今でもどういう意味かわからないが、そんなこというなら高校でがっつりレギュラーになってやる、と高校でバレー部に入ることにした。

バレーはそこそこ好きだったが、そんなに上昇志向もなかった。体格も素質もなかったし、全国大会に行きたいとか、ましてやプロになりたいとかは全く思ってなかった。ただ中学先生にいわれたことが悔しかったので見返したい。すごく単純な動機だった。

高校で入ったバレー部は体育大卒若い先生顧問で、熱心に指導していた。都立高校にしてはかなり厳しい練習をしていたし、実際わりといいとこまでいっていた。

都立は今でもそうだと思うけど、運動部顧問は誰もがいやがった。ただでさえ大変な教職のほかの事務仕事をやらねばならず、その上に時間、体力、気力を使う運動部顧問なんてみんなヤッテランナカッタのだった。

その先生指導最中アキレス腱を切ったことがあるという。それも2回も。それを押してやってくれてるのだから感謝しないといけないよね、みたいな空気が生徒の中にはあった。

同時にそれはそこまでしてくれてるのだから、言うこと聞かないと悪いよね、期待に応えないと申し訳ないよね、みたいなものでもあった。

練習は厳しかったし、時々平手打ちもされた。

夜の7時、8時までやっていた。家に帰ると疲れて何もできない。食事をしながら寝てしまったこともある。

いやだったしきつかったのだが、「その辺のお遊びの運動部と私らはひと味ちがうのよフフフ」みたいな訳の分からないプライドみたいなものが部の中にはあって、苦しいのを耐えれば耐えるほど偉いのだ、みたいなところはあった。(でないとヤッテラレナイところはあった)

ある日私に集中してサーブ指導をされた日があった。

私には変な癖があったらしくて(自分ではわからない)、それを矯正するためにやらされたのだがなかなかうまくできなかった。

「手を下から出すように」

自分ではその通りやってるつもりだったが何回やっても違うといわれる。先輩後輩あわせチーム中が注目してるし、自分が練習を中断しているというプレッシャーもあった。違う違うといわれ続け、もうなんにもわからなくなってアンダーサーブをした。

「俺はおまえに手を下から出せとはいったがアンダーサーブしろなんて言ってないぞ」

じゃあどうしろっつうんだよ、と思ったがさすがにそれは言えなかった。

厳しい練習はぜんぜん私の精神を鍛えることにはならなかった。先生に本音で質問することさえ出来なかったのだった。かといって自分で考えろ、というのは、その状態ではなおさら無理だった。それ以来、前から苦手だったサーブはまったく嫌いになった。


こう書くとがちがちの管理教育だったように見えるかもしれない。がしかし、先生としては自主性を持った選手になってほしかったようだった。

生徒がやる気がない態度を見せると、先生はたびたびボールを投げ出して帰っていくという振りをした。

「俺がやりたくてやってるわけじゃない。おまえたちがやりたいって言うからやってるんだ。おまえたちがやる気がないならやめる」というポーズだった。

それを追っていって、

「お願いします!」

と生徒全員で頭を下げるのがいつもの習慣だった。

「楽しくやりたいだけならそれでいいんだ。それならそういう風にやるから。でも本気でやりたいならそういう風にする」ともよく言われた。

生徒が望むなら、やりたいという気持ちがあるなら一緒にやりたい。そういう選手になってほしい、という気持ちの先生だった。

しか私たちはそれほど大人ではなかった。

追っていったのは「先生がいなくなると困る」という気持ちだったし、見捨てられるのが怖い、とも思っていた。先生に見捨てられればその時点でダメダメなやる気のない私たち、という烙印を押されてしまうからだ。

そういう状態になりたくないという気持ちだけで「お願いします!」と毎日言いに言った。こうなるともはや意味のないお約束儀式のようである

そもそも、本当に自主性のある生徒であれば、先生が帰ってしまっても自分たちで練習すりゃよかったのである。でも自分たちで、これをやりたい!というもの私たちにはあんまりなかった。ただ日々の練習を修行のようにこなしていく。先のことは考えられなかった。ただ今の苦しさを耐え抜くことだけだった。ぶっちゃけ、自主性もへったくれもなかった。受け身で、受け身で、過ごしてきた。まじめでミスをしなければ、ボールが飛んでくることも、たたかれることもなかったから。



今回のことがあって、「私、バレーって好きだったかなあ」と思い返した。確かに好きではあった。レシーブがきれいにあがるとうれしい。難しいボールを拾えるとうれしい。トスをきれいに上げられればうれしい。アタックを気持ちよく打てるとうれしい。

で、ここまで考えてはたと気づいた。

全部個人技だったのだ。

バレーという団体競技をやってながら、私はチームプレイ楽しいと思った記憶がない。

団体競技をずっとやってきたのだから自分では協調性がある、他人と一緒にプレイするのが好きなのだと思いこんでいたがいやいや完全なヲタクじゃないか自分で呆れて笑った。

でも。

コンビネーションプレイをうまくこなしたり相手と競う楽しさ、ゲームを運ぶ楽しさ、みたいなものは、たぶんバレーという競技にはあるのだと思う。

私にはそう感じる余裕はなかった。

日々の練習をこなすだけで精一杯だった。

日々の練習が修行のようになり、それをクリアすること自体が目的となってしまっていて、ほかのことは考えられなかった。もっとこういうことをしたいとか、こうなると楽しいとか、そんなことは全く頭になかった。

私に関して言えば、試合に勝つことさえどうでもよかった。試合は義務であり「ミスをしない」ことが第一目的であって、結果はあとでついてくるという感覚があった。

もったいなかったな、と自分でも思う。



今回の事件、まだ情報があまり公開されていない。

顧問との関係チームメイトとの関係もわかっていない。

体罰がどの程度だったかも証言が食い違う。

が。もし私の先生であれば、たぶんこういう意味の発言だったかと思う。

キャプテンを辞めるということは第一線で活動するのは無理です、ということなので、楽しくやりたいだけならBチームでやればいい。でももし、第一線で活動する意志があるなら厳しい指導もするし、体罰もある。自主性をもって立ち向かってほしい。覚悟がほしい」

先生はよく「意地を見せろ」と言っていた。

苦しくてもやりたいことならやりぬけ、ということだったのだと思う。

でも。

人間って、そんなに強くないのだ。

いくら好きであっても苦しい練習を続けさせられればそれ自体が目的となって、自分スキルを伸ばすとか、何かに挑戦するとか言う余裕はなくなってくる。「好き」と言う気持ちはしぼむ。ただ「早く終わってくれればいい」になる。

まじめにやっていれば、受け身でもそれなりのスキルや体力は身に付くから、やる気がなくても勝ててしまう。

そういうのもありかもしれない。

でも、そういうのって、長く続かないのだ。

負荷が強くなっていけば、「義務」だけではきつくなる。「やらされてる」感が強くなり、「何で自分だけ」という気持ちが大きくなっていく。

そこが限界であって、そこを越えると、つぶれる

ぱあんと破裂する。

悪いことに、「我慢」にたけた人間限界点を越えても我慢するので、傷はより深くなる。

「我慢」はいらない。「やりたい」が一番。それがないと頑張れない。力が出ない。

体罰は、私にはあんまり意味がなかった。

試合で役に立ったことは皆無だった。もちろん「訓練」として体に染み着いてるので体は無意識のうちに動く。だから勝てる。でもそれがうれしいとはあんまり思えなかった。苦しいときにそれを思い出して頑張れる、ということもなかった。

うまくなってうれしい、自分の力を出し切った、というよりは、3年間耐え抜いた、という方が実感として正しい。



最後試合、私は初めて結果を出した。苦手だったサーブでなぜか連続ポイントを上げたのだった。ストレートと、対角線上に打てばポイントをとりやすいというセオリーを単純に実行したら相手がミスってくれた。不思議なことに、そこに私の中学先生来賓として招かれていた。その場で結果を出せた。

それで気がすんでしまった。

まだ引退までには期間があったが、3年でもあったし、さっさと部をやめてしまった。

今思うと、「先生を見返したい」という意地だけでやっていたのだと思う。だからそれが達せられたらもういいのだった。

それはそれで初志貫徹といえるかもしれないけど、我ながら矮小目的のために時間エネルギーを使ってしまったなあ、と今は思う。

一応一つのことをやりきったのだし、「辞め癖」がつかなくてよかったんじゃないの、という人もいるかもしれない。でも、ポジティブ意味での達成感はなかった。やっと終われる!という解放感だけだった。

私は3年間を無駄にした。今思い返して、素直にそう思う。



今回の事件、生徒は義務とか責任感とか期待とかでぐるぐるになって「好き」という気持ち、自分がこうなりたい、という気持ちはもうぜんぜんなくなっていたのではないかと思う。

そういう状態になると人間は惨めだ。そういう身に暴力は堪える。

悪意とか、支配欲とか、そういうことは教師にはなかったとは思う。葬儀の席で親御さんに指摘されてすぐさま謝ったことを見ても悪人ではない。普通の人だ。

ほかの生徒も先生かばっている。道を教えるのでも、ちゃんとついていってあげないとだめだぞ、と、普段の振る舞いを教えてくれた、と感謝する子供もいる。礼儀を教えてくれた、という子供もいる。かといって、べったり先生の側に立って、生徒の死を悼んでいないわけではない。校門に「キャプテンに捧ぐ」と幼い字で書かれたメモを添えた花束があった。

進路とか戦績とか、お互い保身はあったかもしれないが、生徒への愛情はあったと思う。でなければほとんど毎日、家庭まで巻き込んできつい指導はできない。

が。だからこそ逆らえない。情で縛られるところはある、と思う。



部活を辞めてから高校生活は、それはそれは楽しかった。

好きだった勉強一生懸命できた。それについての専門書を読む時間もできた。その延長で大学に行って好きな研究もできた。早くやめてりゃよかったと今でも思う。

部活の影響は、今でも残っている。

負荷を耐えることは得意だ。が、ぎりぎりまで我慢するから限界を超えるとその負荷の影響を二倍三倍にも受けてしまう。

好きなことをしていてもなぜか途中からつらくなる。義務になる。理由はよくわからないが、たぶん何か「厳しくなくてはホンモノではない」という意識があって、「楽しむ」ということをどこかで軽蔑していたり、その結果思い切り楽しむことができなくなったりするんじゃないかと思う。あるいは自分のやることに自信が持ちきれなくて、先生のような絶対者の評価がほしくなったり、反対に他人の評価で自信を失ったり。

先生については、慕っていたかと言われれば、うーん、お世話になったので大変大変申し訳ないのだけど、ちょっと苦手だったような気がする。

先生はいつも「スポーツマンらしく」、礼儀正しくしろと言っていた。

「力」や「技術」に偏りがちなスポーツで、礼儀とか人のことを考えるとかは、重要なことだ。人としてたいせつなことを教えていただいたと思う。

が、それはなんというか、自主的にやる、と言うより、訓練のようなものだった。やらなければ怒られるし、手が飛んでくるような気がしていた。

私は先生の前でかなり礼儀正しく振舞っていたが、それはかなりの部分「演技」だったような気がする。「それが(先生に言われた)正しい振舞だから」やっていたのであって、「やりたいから」やっていたわけではない、と思う。

そういう「型」ではめられた振舞を厳しく求められたので、本音で接することはできなかった。本音で話せないので、自分の克服すべき問題を一緒に考えてもらうとかは考えられなかった。

いま先生について思うことは、「なんかうまくいかなかったね」「お互い失敗しちゃったね」という感じだ。

自分意志で動く選手になってもらいたい、という先生意図は分かっていたけど、少なくとも私に関してはもう疲れちゃっていた。自分能力を伸ばすという気力はとうにつきていた。ただ自分目的があったし、期待を裏切るのも悪いので3年間続けてしまった。

一回休んでいれば気力が回復することはあったのかな、と思うが、狭い学校生活の中で、一回レールをはずれるというのはなかなかできないことでもあった。

こういうの、「罪悪感を持たせて逆らえないようにする」「カルトだ」という人もいるかもしれないけど、それは日々の人間関係のすごく曖昧な線上にある。その渦中にいるとなかなかわからない。善意と、思いやりと、慕わしさと、依存心と、打算と、不満と、夢と、絶望と、責任感と、プレッシャーと、見栄と、もういろんなものがある。

単純じゃないし、それを理解せずに顧問をアクマ扱いしても問題は現場の教師にずっと残されると思う。



部活やその中での体罰を体験した人のことばがあんまりなかったので書いてみた。体罰がなされて、愛情ある指導がされて、生徒たちも先生を受容している環境で、それでもどうして体罰よくないかっていうのを、説明してみたかった。増田に書いたのは、何となく増田っぽかったので。

ひとつ。今顧問先生をたたく人はすごく多いけど、今たたいても無駄だと思う。

葬儀の席で土下座したとあったけど、彼の頭の中はどうしよう、どうしよう、すみませんすみません、で、意味なく(そう、意味なく)ぐるぐるしてて、冷静に反省するどころじゃないと思うから

責め殺したいならそれでもいいけど、たぶんそれじゃ自分のしたことが過不足なく理解されることはないと思う。そんな中じゃ何が問題かわからない。

同じことを経験させないとわからんだろ、ということもあるだろうけど、同じ経験だったら自殺まで行ってしまうだろと。

そんなのは見たくないし、なんの意味もない。

2012-10-26

http://anond.hatelabo.jp/20121026180240

で、言いたいことは何?

サービス料ってわけわかんねー料金なんだよそれ値下げしろよ、でも値下げしても客こねーよな。

あ、ついでに男女で金銭感覚うからそれを書いておこう。特に意味はないけど。

ってことでいいの?


サービス料とるところはフロアスタッフ多かったりするよ。

2人で行って食事すると、スタッフが2人で同時にサーブしたり、絶えずドリンクの減り具合チェックしてくれたり、相手が手洗いに行っているときに話しかけて話し相手になってくれたり。

平均的にはサービス料とらないお店はこういうことやってくれない。


あと、サービス料はパン代・水代・リネン代とする考えもある。

フレンチイタリアンのそれなりの店ででこの辺請求されることってないからね。

イタリアンでこれをコベルト(席料)として、固定費請求してるとこもある。

2012-09-24

http://anond.hatelabo.jp/20120924184225

組み込み分野もあれば、大規模集積すらもあるんだが・・・どこをどう読んだらIT系となるんだ?

そもそも、俺自身が、インターネット以前のプログラマーなんだが・・・

プログラム教育はあったものの、ろくなレベルじゃなかったぞ?

ニフティサーブアマチュア無線によるネット技術も知ってる世代なんだが・・・

xchimeraとかMosaicが後からできた世代だ。

2012-08-08

http://anond.hatelabo.jp/20120808220253

横だが いちおう、ニフティコンピサーブ?はあったし・・・大学時代青春時代といっていいのかわからん・・・大学時代にはもうインターネットは合ったと思うぞ。ブラウザはなかったかもしれんが。

2012-07-30

そんなマネできません

アラフォー差し掛かる今頃になって気づいたことがある。

どうやら自分は「他人の動きを模倣して覚える」という行為が一切できない人間らしい。


思えば不思議だった。

学校の体育の授業でやる諸々のスポーツ、皆習っていないのになんであんなに出来るのかと。

子供ながらに友だちに訊いて「えー他の人の見てたら普通にできるじゃん」と言われた記憶がある。

「へーそういうものなのかー」と思い自分も試みたんだと思う。

そこから見よう見まねでできた!という経験は今の今まで皆無だった。

結果、自分は今の今まで立派な運動音痴で来てしまっている。


何故見て覚えられないか

多分なんだけど、全体を俯瞰しつつ、同時並行的に人の各部の動きに注意することができない上、どうでもいい所に注意が行ってしまっているのだと思われる。

それに全身を使わないとこなせない理由もわからない。

例えばボール投げだったら投げる方向に対して体を利き手側に向ける、足を開く、利き手を後ろに引く、利き手の反対側の足を踏み込んで体重移動するetc.ということを把握できない。それどころかボールばっかり見ている。更にはそれで「女の子投げ」より遥かに遠くボールを飛ばせる理由が分からない。

ちなみに具体的な投げ方だけは後述のテニスの知識と、つべにあったボールの投げ方の動画からヒントを得て「ユーレカ!」となった。でもテニスやってなかったら動画見てもチンプンカンプンだったと思う。


でも全ての運動ができないわけではなく、弓道については段位を持つ程度にはなったし、テニスは少し通ったカルチャースクールダブルスゲームもどきができるくらいにはなった。あと水泳スイミングスクール行ってたかクロールくらいなら普通にできるし、スキーも高校の宿泊学習(ry

まり教本読むなりマニュアル読むなり指導者につきっきりで教えてもらうなりしてやり込めば、無難にこなせるくらいにはなるのだ。

そういう経験もあって、体育の授業や休み時間に遊ぶ程度のスポーツなど、部活やそれ以上に本格的に取り組むのに比べたら「素人のお遊び」でしかないことは分かる。


しか素人レベルですらこなせないとなると、スポーツを通じた他人との交流は全く望めないわけで。

フットサルとかビーチバレーとかソフトボールとかバスケとか、どれも全くできない(体育の授業を平均点でクリアした人ならその延長で問題なくできそうなのに)。

それも超初歩の、ボールの蹴り方・投げ方・バットの振り方・アンダーサーブの打ち方・シュートの打ち方からからない。

球技以外だと逆上がりとか2重飛びもできなかったり。


まあ今のところ、周囲とのコミュニケーションスポーツ必要な機会は皆無だからいいけど、周りができることが全くできないままなのはちょっと嫌だ。

といってもどうやって身につけるか見当もつかないし。

見て覚えられないなら本買うか、具体的にダメ出しする系の指導者に頭下げて教えてもらうしかない。

でも普通だったら見て覚えられるレベルの内容まで、詳細に書いている本が売っているとは思えない。

それに指導者だって、そのレベルからできない人なんて想像の範囲外な気がするし・・・

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