はてなキーワード: 過程とは
【追記】
そこまで伸びてないが追記。
他人の褌ではあるが、本紹介なら任せてくれ。
ブコメで俺を叩いてる奴は大きく2種類見られて、
前者はまあ、できるだけ好転して欲しいと神に願うばかりだが
後者は人ごとなのに誰も幸せにならない悪口を吐いてなお健全に生きられるの羨ましいな。
一応サンプル紹介、厳選3つ
・食べものは、本当に「おいしい!」と感じるものを食べるようにします。
「頭」で食べないで、「からだ」で選んで食べるようにします。できれば、できたてのもの、手づくりのもの、旬のもので「おいしい!」と思うものを食べます。
・可能なかたは、ぜひマッサージに通ってください。できるかぎりでよいです。
・しょっちゅう鏡を見ます。そうして、慈愛に満ちた顔で、じっと自分の目を見て微笑みます。これは気づいたらいつも行います。
俺が叩かれるのは平気だが、服部みれいさんにご迷惑がかかったら困るな。
まあ、こういうのは騙されたと思ってやってみることが大事だと思う。
【本文ここから】
俺の経験談からすると、自分を大切にする、というのがファーストステップかな。その過程で人間扱いという概念が理解できてくると思う。
どうやら世の中、好きとか嫌いとか恋愛感情とかそういうのは抜きにして結婚する人たちが少なからずいるようだ。
この疑問は、
もっともっと若くて結婚なんて遠い未来の話と感じる若者たちなんかが共通して抱くものだ。
いや、百歩譲ってそういう人たちが結婚に至るまでの過程に考えること、感じるであろうことはわからないでもない。
この人となら結婚生活を大過なく過ごすことが出来るだろうか?という選別を主体とした気持ちの移り変わり?みたいなものは想像ができる。
問題はその後だ。
セックスをして、
子供をつくり、
育てる、
というステップを踏んでいくときの心の移り変わりのようなものがうまく想像できない。
たいして好きでもない相手と結婚して、子供を作って育てる頃には、その相手に対して何らかの愛情のようなものは生まれているのだろうか?
そして、その愛情はいったいどういう過程を経て生まれるものなのか?
あるいは、たいして好きではなかった相手は、変わらずたいして好きでもないままで、たいして好きでもないまま共に人生を過ごしていくことになるのか?
事実だとわかるのは、
該当の脚本家は指揮権のあるプロデューサーに困惑や苦い気持ちをSNSで伝えたわけでもなく、
何故か2次創作者の立場でありながら同業者と原作者をSNSで批判したこと、
日テレもプロデューサーも出演者もそれを放置したこと、
ただこれだけだぞ
魚拓より
がら急きょ協力という形で関わることになりました
魚拓より
最終回についてコメントやDMをたくさんいただきました。まず繰り返しになりますが、私が脚本を書いたのは1〜8話で、最終的に9・10話を書いたのは原作者です。誤解なきようお願いします。
(中略・気になるなら魚拓見て)
脚本家の存在意義について深く考えさせられるものでした。この苦い経験を次へ生かし、これからもがんばっていかねばと自分に言い聞かせています。
どうか、今後同じことが二度と繰り返されませんように。
魚拓より
某脚本家
○○さんの一ファンとして悔しいです。🥺
1〜8話で変化、成長していった登場人物たちが、9、
んと描くだろうなと思いながら観ました。
で、その時間経過も描けてなかったですね。。
まったのが残念でした。😢
私もこの事、胸に刻んでおきます。
某脚本家
あろうとです。わたしもいろいろ考えさせられまし
た。ともあれ素敵な作品をたくさんおつかれさ
までした!良いお年を迎えてください
文業の人
はじめまして。毎週楽しみにしてました。
わったので不思議でした💦そして、えっ、
ここでふんわり終わり?と。
でも訳がわかりました。
そして、私も物書きの1人として尊厳を傷つ
素性不明
な?誰かが手を入れたりして現場も混乱した
のでは?
他にもドン引きコメントにいいね❤️推してるのが確認できるので気になるなら魚拓見ようね
せめて下記のように発言すれば、よかったよね、これなら表立っては誰からも責められずに『私が書いたんじゃないから』をできた
『最後の2話は、な…なんと!!!原作者様がご自身で脚本を書いてくださいました!サプライズプレゼント🎁🎄でしたが、原作ファンの皆様にも喜んでいただけるような作品に仕上がったと自信を持ってお伝えできます』
こう言っとけば、ゴタゴタが取り沙汰されても、下記のように言えば全部問題片付いた
『このドラマの製作過程では、チームメンバーの間で様々な意見が飛び交いました。それは、原作のファンやドラマの視聴者に、最高の作品を届けたいという共通の想いがあったからです。原作者の方にも、貴重なご意見やご協力をいただきました。おかげさまで、素晴らしい作品に仕上げることができました。ぜひドラマをご覧になって、製作チームの情熱を感じてください』
それすらもしないで、2次創作者の立場で原作者をドラマ出演者と一緒の写真を添えて非難という傲慢な奇行、そりゃ燃えるよね🔥
どこぞの脚本協会だって、『著作権法第20条』が大事だって言ってるだろうよ
【日本シナリオ作家協会・脚本契約7原則】
(1)「オリジナル企画」および「オリジナル脚本」の脚本家は、原作者として尊重されなければならない。
(2)「オリジナル企画」および「オリジナル脚本」が映像化に至らなかった際は、特段の取り決めがある場合を除き、いかなる場合も著作者である脚本家が任意に利用できなければならない。
(3)企画開発費と脚本料を一元化してはならず、企画段階の企画書・プロット執筆、脚本執筆には、別途ギャランティが支払われなければならない。
(4)脚本料は受注時に取り決め、長期間に及ぶ脚本執筆 の場合は随時支払われるものとし、決定稿を提出した後、速やかに支払いが完了されなけれ ばならない。
(5)企画開発および脚本執筆のために必要とする取材費、資料費、交通費その他の実費については、発注者が負担しなければならない。
(6)氏名表示に関して著作権法第19条の規定を遵守し、宣伝・広告活動の際にも配慮されなければならない。
(7)著作権法第20条の規定を遵守し、脚本家に無断で脚本を改訂してはならない。
生きていると、
嫌なことばかり起きる。
自分が嫌な思いをするのは仕方ないと、人のために行動すると、
迷惑だ、関わるなと
忌避される。
極力、誰とも関わらずにいると、
蔑まれる。
どうしようもないのだと、首を括ろうものならば
馬鹿な事をするなと
罵倒される。
俺はこんなに嫌々生きているのに、
死んでいく奴はずるい。
生きて行かなければ、気が済まない。
――「生きるのは苦痛だ」より
理不尽な強制として産み落とされ、理不尽な強制として生きていく
ストレッサーに対してストレス対処が生じるように、作用に対して反作用が生じるように、
人は苦悩と悲哀を抱え、縛られ、それらの奴隷として生きていく
遠い我らが祖先は、きっと寒い冬の時代に抑鬱状態になっただろう
怯え、不安になり、神経質になり、目の前にいつでも最悪の状態を想定していただろう
だから、生き残った
呪い多き我々は、それでも生きる価値があるとこの世を這いずるだけの人生である
Life's but a walking shadow, a poor player
障害を負い、新しい心と体になり、しかし「以前の自分の連続に生きる自分」としての意識もあり続ける中で、それでも機能低下という現実に向き合い
いや、おれも知らん。
文化資本(英語: cultural capital、フランス語: le capital culturel)とは、社会学における学術用語(概念)の一つであり、金銭によるもの以外の、学歴や文化的素養といった個人的資産を指す。フランスの社会学者ピエール・ブルデューによって提唱されて以来、現在に至るまで幅広い支持を受けている。社会階層間の流動性を高める上では、単なる経済支援よりも重視しなければならない場合もある。
wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B3%87%E6%9C%AC)
フランスの社会学者ピエール・ブルデュー,P.(Pierre Bourdieu, P.)とジャン=クロード・パスロン,J-C.(Jean-Claude Passeron, J-C.)が考案した概念で,人間の知識技能を資本として捉えたゲーリー・ベッカー,G.S.(Gary S. Becker, G.S.)の人的資本概念を文化領域に拡張し,貨幣や財の経済的側面のみならず,教育や文化の面において財が相続・生産・蓄積・投資される過程を説明する。文化資本は言葉遣いや立居振る舞いなどの身体化された様態,書物・絵画などの文化財所有による客体化された様態,学歴・資格によって制度化された様態からなり,それらを教育や就職など,経済的には「市場」となりうる「場=界(champ)」に投資することで,再生産戦略を可能にする物質的・象徴的な利益を引き出す。それは幼少期の家庭から相続継承され,学校教育を通じて中立的な能力証明へと変換され,社会的な地位や権力の再生産に結びつく。この概念によって,一見利害関係なく実践される文化慣習行動を,貨幣経済より広範な「象徴交換の経済」に取り込んで分析することが目指される。
コトバンク(https://kotobank.jp/word/%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B3%87%E6%9C%AC-377212)
小難しいがようするに、
という前提があって、
・金だけでなく、文化的素養や学歴、スキルなどの見えない資産も子に受け継いでいるんだ!
ということなんだな。
で、その受け継ぐ過程で使われる個人的資産(=投資のもとになるもの=資本)を文化資本というらしい。
てことは、美術館それ自体は文化資本ではないやんけ!(個人資産じゃないから)
おいおい、「文化資本」という言葉もまた、はてなーたちの反知性主義によって意味が捻じ曲げられているじゃないか。
「なんか語感がかっこいいから、意味はよくわからんけど使ってみました」じゃねーんだよ。
美術館そのものではなく、「親が美術館によく行く習慣がある」とか、そういう「家のなか」の話なんだよ、文化資本てのは。
しかも資産や社会的地位の再生産に結びついていることが前提なのであって
庶民が「お、、おれはモネの展覧会とかよく行くし?」とか「いやー、声優の舞台挨拶が家から近くていいっすわ!」とかホクホクしてるのは文化資本じゃないんだよ。単なるエンタメ消費だそれは。アホか。
「親父が社長やってたんで、起業は自分にとって自然な選択肢でしたね」ってやつだよ。
あれこそ文化資本だよな。
・・・と、こうやって知らない言葉の意味の確認すら行わない、知的誠実さ皆無のお前らが親からたいした文化資本を受け継いでいないのは明白。
地方民は「美術館いってまーす☆文化資本文化資本☆」とかなんとか自慢してるスノッブどもを見下していいぞ。
・適当に調べたり考えたりしてみる感じ、居住地域に美術館だとかいい学校があるだとかは社会資本の話な気がするわ
・文化資本て、「親の語彙の豊富さ」とか「親同士の会話の知的水準の高さ」とか「親が教育資格を保有していて、知的水準の高いフィードバックが日常的に得られる」とか、「社会的地位の高いオトナとの会話機会の豊富さ」とか、そういうものなんじゃねーかな
・「文化資本の定義を都市や地域に援用」とか言ってるやつ、文化資本て社会階層の再生産を説明するロジックで生まれた言葉らしいから、「都民=殿上人、地方民=下層民!」的な東京の選民思想を前提に生きてるってことになると思うんだが、大丈夫そ?
・つーか、東京のなかでも当然ながら格差や階層があるわけで、そのなかでざっくり「もとの定義は家の話だけどぉ、都市に援用すればぁ」っつってるやつは、東京の内側で生まれている格差にはどう説明をつけるんだ?東京にいるだけで文化資本の恩恵を享受できるなら、東京の内側の社会格差はその他の地域と比べて小さくないといけないはずだろう。まずはそれを示してくれ
・いい学校とか文化施設へのアクセスを高めるために東京に住む、はたしかに「その判断能力があったり意思決定をする家庭である」という意味で文化資本があるといえそう。ただ、その意思決定の内実が本当にそうなのか?というのは問いたいところではあるな。なんとなく東京で就職したとか、職場が東京だからそのまま住んでますとか、そっちが主要因なやつも多いんじゃないの?
・いくつかブコメ読んで、格差を批判する文脈でなら都市間に援用してもいい気がしてきたが・・・仮に「都市の文化資本」という概念が成り立つ場合、以下が疑問。詳しい人おしえて
1.文化資本の枠組みだけで考えると、いい学校、いい美術館などは「客体化された形態の文化資本」に分類されるはずだが、そもそもこれらは社会資本ではないか?どう整理するのか?「ハビトゥスを形成しやすい環境が東京の文化資本」と言ってるやつもいるが、わざわざ"援用"せずとも「東京は社会資本が充実してますなー」で済むんじゃないか?
2.もとの定義に照らすかぎり、文化資本=経済的な格差・階層の再生産に結びつくものなので、「他地域よりも東京を経済的・社会的に特権的地位たらしめている、東京に特異的な文化慣習行動」が「東京の文化資本」ということになる。それってなに?そんなんある?
3.ここまで考えて、いわゆる「ユダヤの商法(ほんとにあるのかしらんが)」はユダヤ人の文化資本といえそう、つまり都市という地理的な要素よりは特定の価値観を共有する集団内においてなら、文化資本という概念は家を超えて援用できそうと思ったんだけど、どうなん?
東京と地方のどっちが住みやすいとか、文化資本がどうとか言われても、まったくピンとこない。
自分にとっては、東京はゴミ溜めであり、故郷は雪に埋もれた死体だった。
そんな俺が今、どういうわけか、20歳も年下の彼女と結婚している。このこと自体が信じられない。俺の人生において、こんなに若い人間と一緒にいることなんて想像もしていなかった。
彼女、名は美里と言う。都会育ちの美里は、デジタルネイティブ世代で、SNSの使い方が俺とはまるで違う。俺がスマホの使い方に四苦八苦している間に、彼女はインスタで新しいカフェを探し出し、サクッと予約まで済ませてしまう。俺はそれを見て、正直感心することもあれば、呆れてしまうこともある。
「ねぇ、これ見て!また新しいフォロワーが増えたよ!」と美里が嬉しそうにスマホを見せてくるたびに、俺は一瞬、彼女の世界についていけないと感じる。そんな時は、世代間のギャップを痛感せざるを得ない。彼女はどんどん前に進んでいるのに、俺はまるで止まったままのような気がする。
そんなある日、俺たちは彼女の実家に招かれた。彼女の両親は、初めて会った時から俺たちの年の差について心配しているのが明らかだった。食事の席で、彼女の父親が静かに言った。「美里を幸せにできるのか?」その問いかけに、俺は一瞬言葉を失ったが、「もちろんです」と答えた。
しかし、心の中では自信がなかった。俺と美里の関係が、この世代間のギャップを乗り越えられるのかどうか。それでも、彼女の明るい笑顔と、彼女が俺に対して見せる無邪気な信頼が、俺に少しの勇気を与えてくれる。
ある晩、俺は彼女に尋ねた。「美里、本当にこのままでいいのか?俺たちの年の差、時々不安になるんだ。」すると彼女は笑って、「そんなこと気にしないで。私たち、いいチームじゃない」と言った。その言葉に、俺は救われた気がした。
そして、俺たちは互いに歩み寄る努力を始めた。美里は俺の好きな古い映画を一緒に観て、俺は彼女が教えてくれる最新のトレンドに耳を傾けた。俺たちの間には確かに世代の壁があったが、それを超えるための橋を一つ一つ架けていくことに決めた。
ある日、美里が言った。「あなたといると、なんだか落ち着くの。今までの人生とは全然違うけど、それがすごく新鮮で好き。」その言葉を聞いて、俺は少し照れくさくなりながらも、心の底から嬉しかった。
それからも、俺たちの生活は続いていった。彼女が新しいアプリを教えてくれたり、俺が彼女に昔の音楽を聞かせたり。世代間のギャップは完全には消えなかったが、それを補うための工夫と努力を重ねていくうちに、俺たちの絆は確かに強くなっていった。
最終的に、俺たちは互いの違いを尊重し、補い合うことで、より良い関係を築くことができた。そして、そんな日々が続く中で、俺はふと気づいた。東京がゴミ溜めだとか、故郷が死体だとか感じていた俺の心に、少しずつ温かい光が差し込んできていることに。
それは、美里との結婚がもたらした変化だった。俺たちの世代間のギャップを乗り越える過程で、俺自身も変わっていった。そして、そんな俺たちの未来に対して、今は少しずつ希望を持つことができるようになったのだ。
ハッピーエンド?そうかもしれない。俺たちはまだ道半ばかもしれないけれど、少なくとも今は、互いに寄り添い、支え合いながら歩んでいく決意がある。それだけで、十分だと思う。
今までは点だった。
この仕草が特徴的だな。
これはアレのオマージュだな。
ここのアクションがかっこいい。
という「ここ好きポイント」的なのを拾い集めつつ、なんとなくあー面白かった。で終わってた。全体を通してのテーマをざっくりと汲み取るくらいの事はしていたと思うけど。
画面上で今何が起こっているのか分からなくなる事が度々あったのはそのせいだと思う。
例えばスパイ映画で何かしらの工作を行ってるシーンで、それ単体なら何を目的としているのかは分かるんだけど、今作のミッション達成の過程としてはどんな意味があるんだっけ、となる事が割りとあった。その疑問を残したまま次に進むと更に疑問がこんがらがるし、雰囲気だけでクライマックスを感じるままになんか終わってた、なんて事もあった。
最近は個々の描写を拾うにしても、それが全体の中でどういう意味合いを持つのかをあんまり意識せずとも受け取れるようになってきた。
この言動にはこいつの人物像が現れているなあ。で終わりじゃなく、それが物語の中をどう引っ張っていくのかまでが見えてくる。シーン同士の繋がりだとか対比も意識していると、より映画の芯が鮮明に浮き上がってくる。
じゃあガキの頃にスターウォーズ観てライトセーバー振り回すシーンでばっかりを喜んでたのに比べて映画をより楽しめているかと言ったら、別にそんな事もない気がする。
原初の映画体験の感動も薄れてきてボーっと観るのもちょっと飽きてきたなあという所から、またリセットというか昔の感動まで引き戻されたくらいの感覚だ。
あと琴線に触れるような作品もそのテーマは元々自分の中での関心事ばかりで、新しい発見を得るというよりは結局自分にとって大事なことの再確認に留まってるような気もする。
熱いもの触ったときにとっさに離したりするのは理性を介さない反射的な行動やろ。
ねじる運動なんてあったっけ?と思ったそこのあなた!ブルガリアンスクワットには体のねじりを加えられるのです。
1日10回3セットから初めて、…なんて事は言いません。誰でもない、あなたが限界だと思うところまで追い込みましょう。なぜならこれはある種のゲーム…前回の記録を1回でも更新するというゲームだからです。
記録を更新できると嬉しいだけではありません。徐々に扱う負荷を増やす事はプログレッシブオーバーロードと言い、生理学的にも効果が確かだとされるものの最たる筋トレテクニックのひとつです。
記録を更新できなかったらどうしたら更新できるのか、考えてみるのも面白いです。
もちろん怪我をしない事も重要です。と言うより、運動を始めたての人にとって何より重要なのが怪我をしないことで、だからこそパーソナルトレーナーという職が巷にあふれているのです。
怪我しそうなら、重量よりも回数を増やしてみると良いでしょう。
また、よりゆっくりとした動作で1回1回丁寧に行うのも怪我予防に大変効果的です。筋発揮張力維持スロー法と言って、体が弱い人の為の、科学的に確からしいとされるテクニックです。
最初は追い込まなくても筋肉が付いてくので、ツラかったらハードルを下げましょう。でも習慣化できたらどんどん記録更新に挑戦していきましょう。
その内あなたは筋肉に魅了され、意識が変わり、いかに美しい体を作るかと考えるようになります。その過程で脂肪が落ち、苦なく痩せられるでしょう。
最初に言っておくけど、「戦国高校編やれ」という回答は求めてないからな。 つ戦国高校☆((\(´・ω・`)
俺がやりたいのはあくまでシステム的にパワプロや同系列のゲーム風にしたうえで、戦国武将が天下統一するまでの流れをカジュアルにループ出来るゲーム。
実はちょっと前に太閤立志伝系のゲーム始めたんだけどさ、ダルいんだわコレが。
マジでな。
パラドゲーと比べたら簡単ではあるんだけど、ゆーて一周にかかる時間が長い。
道中色んな奴らを暗殺していく過程で「次はコイツらで遊んでみたいなー」と考えてしまうんだけど、それを実現させるのにかかる時間が長すぎて心が折れる。
1キャラ20分~2時間ぐらいでサクサクっと天下統一したり途中で滅んだりしたいのよね。
なんかある?
https://anond.hatelabo.jp/20240524180210
を読んで、タイトルのようなことを考えたよ。
女性って、親や兄弟からさえうっすら軽んじられていたり、社会でも「この話は女には難しいよね(笑」「女がいるとしたい話ができない」「チェンジ」みたいな軽差別や排除にも残念ながら慣れがある。
しかも、不本意でも身体開けば求められるって感覚を持ってる人も少なく無いから、男だけの街で男性がのびのび過ごす空想をしてても気にならないと思うんだよね。
少なくとも「私たち看護保育介護あるいは性的資源なしにやっていけると思ってるの?!」とは言わない。
だけど男性はそうではなく、事実として「俺らが維持してるインフラなしに生活を維持できるわけがない、女はわかってない」というような声が上がってきていたんだけど、これって見放される不安からきてるんだろうなと思ったの。
存在意義を「社会に必要不可欠である」「社会に貢献している」あたりで掴んでいるってことなのかなって。
しかも、男性って、最初の期待が高めな代わりに、いいところに落ち着くまでは引き算されてしまうし、その過程で自分より上に残る人もたくさん見てきてるだろうし。
だから、別に好きでもない女の空想であろうと「お前いなくてもなんとかなるわ」って言われると傷つくんだろうな。
周りからの期待の高さ、それに至らない中での自己肯定を、セックスで回復しているような事も聞くから、「女だけの街」を聞いたときにアイデンティティ崩壊しかかる人がそれなりにいるんだろうなって。
別に女がどう言ったところで、必要不可欠な存在であるこことには変わりがないのに、インセンティブが賃金の量だけだったりして、ドーパミン的な報酬が薄すぎるせいだよね。
最初に言っておくが「リアルな冒険をするために敢えて不便なつくりにしている」といった言い訳には逃げないで欲しい。
たとえば「牛車に乗っていると定期的にモンスターに襲われて牛車が壊れてしまう」というのはまったくリアルではない。
なぜなら現実でそういう状況になれば、絶対に何かしら対策をして問題解決を目指すからだ。
不便さに対する「もしこれが現実ならこうやって解決するのにな」というプレイヤーの発想を実現してこそゲームはリアルになるのだ。
一つは、当然だが「徒歩」である。
もう一つは「刹那の飛石」というアイテムを使ってのファストトラベル。
ただし、なるべくファストトラベルを使ってほしくないということで、このアイテムの数は限られている。
そして最後の一つは「牛車」。これは決まった区間を自動で巡行する乗り物である。
牛車に乗りながら「目を閉じる」を選ぶと瞬時に(ゲーム内時間は進むが)目的地に着く、つまり実質的なファストトラベルになる。
が、ゲームのコンセプトからすれば、なるべく「目を閉じる」のは避けて、のんびりと牛車に乗っていきたいところだ。
道沿いの敵を倒しながら進むのも、ふと遠くに見えた建物を目指して途中下車するのも、いかにも冒険らしいじゃないか。
……と思ったら、これが遅い。あまりにも遅すぎる。せめて徒歩と同程度の速度はあってほしかった。
このカタツムリのような速度で目的地に向かうのは非現実的である。
ファストトラベルをして欲しくないのではなかったのか?
牛車は「夜間は休んで安全な昼間だけ走る」設定のはずなのだが、この遅さのせいで目的地に辿り着くまでに確実に夜に突入する。
そして夜になったために湧いてきたモンスターに襲われて牛車は破壊されてしまう。
途中でキャンプでもすればいいのに。そのほうがよほどリアルだし、旅っぽいと思うのだが。
このゲームのフィールドは高低差がきつく、街道から少しでも離れると崖だらけになって、まともに進めなくなる。
つまり道なりに進むことを余儀なくされる。プレイヤーの行動範囲が道沿いに限定されてしまう。
見晴らしも悪いので「遠くに見えるあの建物を目指してみよう」といったオープンワールドならではの体験も起こりにくい。
そしてプレイヤーが道沿いでしか行動できないということは、強力なモンスターも道沿いに配置しないといけないということだ。
牛車が行き交う主要街道に、巨大なサイクロプスやミノタウロスが頻繁に登場する。
王都のすぐそばにオーガがよく出現しているのだが、あの暇を持て余している兵士たちは討伐に向かわないのだろうか。
たとえば、街道は兵士が警備していてわりと安全であり、街道から離れるほど強力なモンスターが出現しやすい、といった設定でいいのではないか。
たまに街道に大型モンスターが出現したら、大騒ぎになって討伐部隊が結成されて、そこに主人公も参加できる。
みたいな感じにすれば、それ自体が面白いイベントになると思うのだが。
開発陣がとても頑張っていることはよくわかる。
かなり規模の大きなオープンワールドを作り上げているし、戦闘システムにも光るものがある。
NPCの制御なんかも凝っていて、プレイヤーの行動に応じて意外な反応があったりする。
シナリオは薄味で、セリフは淡白で、イベントはバグだらけで、ロールプレイしようと思うと冷める瞬間が非常に多いのだが。
それでも「開発陣はこういうことがやりたいんだろうな」というのは伝わってくる。