はてなキーワード: 中毒とは
でもアルコールには敗北した。
俺はそれがなにより悲しい。
そのせいで結果的に薬物から離れるという選択肢が不要になった。
俺の職場にたくさんいる「ワクチン打ったからこっそり飲み行ったよ」「4人以下だからセーフwww」「今年は忘年会出来るといいなー」という声がとても悲しい。
薬物の呪縛から解き放たれる事ができないままきっと21世紀も終わってしまうし22世紀、23世紀も同じかも知れない。
泣きそうだ。
アルコールのせいだと言い訳してハラスメントをし、強姦をし、酩酊し、殺人を犯し、責任をなかったものとする大人たちで溢れた社会がまだ数百年続くのだろうか。
俺は恥ずかしい。
霊長を名乗る種族としてこんな恥があるか?
大学入ったばっかりの頃に、機能性がクソな無料の出会い掲示板で人妻と仲良くなって、駅前で会った。
人妻、パートのライン工だったらしいんだけど、その日は無理矢理休み取って、夫にも嘘ついて会いに来たんだって。
で、ミスドでおしゃべりしたり、書店内うろうろしたり、コーヒー飲んだりしてて、
その人妻の話を楽しく聞いてた。
その人妻は昔からひろゆきを尊敬していて、2チャンネルで色々な有名スレに居合わせて、家庭内環境が最悪だったためか、インターネットが最後の拠り所だったらしい。
でも耐え切れなくなって、実家飛び出してここに来て、今の旦那と出会った。
だけど、その旦那がバカすぎて、見てて嫌になるらしい。レスバトルが生きがいみたいな人だったらしいから、論理のロの字もない男は嫌いなんだろうな。
それで、マンネリ化した家庭に嫌気がさして、掲示板を始めたんだって。
14人くらいと会って、そのうち10人とはセックスしたらしい。残りの4人は誘い方がきしょすぎて、秒で帰ったそうだ。
セックスに関しては、品と清潔感があって、ラブホまでエスコートした後、若気のみちあふれた性欲をぶちこんでくるタイプがたまらんらしい。
しかし、掲示板でもトラブル続き、ストーカー被害にもあったらしい。
ストーカー被害の延長線上で、掲示板の使用が身内にもばれて、旦那と旦那の親の前で土下座。
壮絶な体験だが、その後も中毒症状なのか、掲示板に戻ってきて、数人目に俺と出会った。
彼女によると、会って普通にデートした後、セックスにも誘ってこなかったのは、俺が初めてだったらしい。
俺は
「みんな性欲のみで寄ってくるかもしれねぇけど、自分は一味ちげぇから。いやー、芯がある自分かっけー」
っていう、もはや中二病かも定かではないパーソナリティーだったので、セックスには誘わなかった。
で、彼女は旦那からの急な電話によって、焦って車に乗って帰った。
「お気をつけて」って言って、駐車場に入っていく彼女を見送ったんだけど、少しして
とか思って(芯なんてなかった)
駐車場に引き返そうとしたら、ちょうど車が出てきて、人妻さん、車の中から軽く会釈して、行っちゃったよ。
そして現在、その人妻さんのことが恋しくなって、掲示板アプリをスクロールし続けている。
いやぁ、女々しい男。ストーカー予備軍じゃん、こんなの。
まぁ、もう忘れるべきだよなぁ。女性関係、まだまだ若いんだからこれから頑張ろう。
美しい、恋煩いだぜ。
僕はあの人と、普通に映画見て、普通に食事して、普通に散歩して、普通に景色を見て、その後めっちゃバキュームフェラしてほしいだけなのに。
阪神淡路大震災とオウム真理教をめぐる事件で騒がしかった1995年に起きた、文藝春秋の雑誌『マルコポーロ』を廃刊にしてしまった事件の、そのホロコースト否定の記事の著者である西岡昌紀氏がその記事でも使った文章がこれである。
「なんと驚くべきことに、ガス殺の遺体は一体も見つかっていないのです」
西岡はそれ以来、繰り返しこのセリフを語った。今回はこれについて考えてみよう。
上の西岡が使う常套句は、実は微妙に嘘なのであるが、ほんとでもあるというややこしい話でもある。嘘であるというのは、見つかっていたという報告自体は存在するからだ。知られているのは二つあり、一つはマイダネク収容所のソ連犯罪調査委員会による報告書であり、1944年10月頃という早い時期にまとめられた報告書の中に、ガス殺遺体の発見の事実がさらっと書かれている。マイダネクはソ連赤軍の急襲にあって終戦前年の1944年7月にさっさとソ連に解放されてしまったので、ガス室やその遺体の処理が間に合わなかった、とされている。もう一つはロシア南西部の黒海に面するクラスノダールでもガス殺遺体が発見されたと報告されている。こちらの方は1943年初頭にさっさとソ連に占領されてしまっているので報告(裁判)の時期も1943年7月と最も早い。ガス殺遺体の写真まである。
このように実際には見つかっていたという話を知らないネットの否定派は多いようだが(西岡も1995年当時には知らなかっただろう)、見つけたのがソ連であるという理由で信じないのが否定派である。実は個人的にもマイダネクの報告書はちょっと怪しいと思っているが細かい話になるのでそれはここでは言わない。クラスノダールの方は写真まであり、その写真自体に「一酸化炭素中毒の死体」とまではっきりコメントが書いてあって、信頼性はあるように思うのだが、ソ連の裁判という理由で否定派は認めようとしない。当時ソ連は見せしめ的な裁判をやっていたらしく、それが信じない理由とされているようだが私は詳しくは知らない。
しかしこれが、否定派が主たる攻撃対象としている絶滅収容所、中でもアウシュヴィッツ収容所の話になってくると、確かに解放後に連合国によって一体も発見されていないのは事実である。定説では、それらのガス殺による遺体は全部焼却処分してしまったからである。が、ここでは少し否定派側の視点に立って考えてみよう。
確かに、そう言われると奇妙な気もしてくる。一般的に言って、死体なき殺人は肝心の殺された死体が存在しないため、その立証は困難である。かつて日本で起きた北九州一家連続殺人事件では家族七人が殺されたが、その死体は一体も見つからなかったどころか、犯行現場とされたアパートからも血痕の一つも見つからず物的証拠は何一つ存在しなかった。その為、主犯格の共犯者である愛人と逃げて助かった生存者の証言で事件を立証する以外になかったのである。
しかし、アウシュヴィッツは七人どころではなく、約百万人がガス室で殺されたとされている。ニュルンベルク裁判時点では250万人〜400万人という膨大な犠牲者数が述べられた。なのに、ガス殺死体は一体も見つかっていないというのは極めて異常な話ではないのか? ガス室による殺人は全く立証されていないじゃないか、と言いたくもなるのだろう。特に、青酸ガスという毒ガスで殺されたという類例のない事実を立証するには、遺体の検死解剖の一つくらいあっていいはずなのにそれすらないのだから、疑惑を持つ人がいても不思議ではない、とは思う。
では一体どうやって毒ガスによる大量虐殺を立証したのであろうか?
流石にニュルンベルク裁判やその他の裁判で具体的にどのように立証していったのかという全貌は知らない。よほどの研究者でもない限り、膨大な裁判資料に精通している人は限られると思う。ニュルンベルク裁判資料ですら素人には手に負えない。
しかし、物証の一つである文書資料もそこそこ裁判で採用されているようである。ナチス親衛隊は徹底的に大量虐殺の事実を隠蔽しており、例えば直接「毒ガスで殺した」などと文書に記述したりしなかった。ガス室についても、残されている図面には「死体安置所」としか書かれていないし、アウシュヴィッツの火葬場に関する使用データも一切残さなかった。収容所解放前にガス室のあったビルケナウのクレマトリウムは全て解体撤去・爆破処分しており、火葬炉の一つも残っていない。それでも、ある文書の中には「ガス室」とついうっかり書いてしまったのであろう記述があったりもしたし、クレマトリウムの残存パーツからシアン成分も検出している。
さらに、裁判で採用された証言者は何百人にも上り、その多くは非常に具体的にガス室のことを証言しており、詳細な証言もいくつもあった。ガス室での殺害の目撃証言も多数存在したし、ともかく大勢の元囚人がガス室に関する証言を行なった。中でも、遺体処理を担当したゾンダーコマンドの生存者の証言は極めて詳細であった。最も衝撃的だったのはアウシュヴィッツ収容所司令官を最も長く務めたルドルフ・ヘスのニュルンベルク裁判での証言であった。彼は、他の多くの加害者側の人間とは異なり、無罪を主張しなかった。それどころか、自分から進んで積極的にそのおぞましい犯罪の全貌を裁判で語ったのである。さらに彼は、拘置所において自らの意思で回想録を執筆し、裁判時の証言よりもさらに詳細な内容であった(この自伝は日本でも普通に売ってる)。
細かい話をすれば、例えばナチス親衛隊による大量虐殺の隠蔽に関する証言でさえも、囚人は証言している。「ガス室での殺害については、「特別処理」という表現を記載していました」などの証言も何人もしている。これは事務的な部署でも囚人が働いていたからである。さらにそうした証言をしている法廷で裁かれていた加害者側の被告であった親衛隊員たちは、ガス室を全く否定しなかった。それら親衛隊員が裁判で反論したのは、自らの意思に基づく非道な行い等についてのみであり、指示・命令で行っていた任務であるガス室に関しては否定しなかったのである。
結局、後々のナチ犯罪裁判を含めそれら戦犯裁判では誰一人、ガスによる大量虐殺を否定しなかった。少数の「知らなかった」と語った証人や被告が存在しただけである。果たして、こうした証言状況で、「ガス殺死体が一体も見つかっていない以上、それらの証言は全て疑わしい」と言えるのであろうか?
ネットに多い素人否定派程度では、まさかガス室・大量虐殺を認めることになる証言が何百件もある(裁判以外も含めれば何千件になるのか見当もつかない)だなんて知らないと思うし、それらの証言の一つもまともに読んだことすらないだろう。例えばその一つを任意に選び出してみよう。
証人:アウシュヴィッツで絶滅された子供たちの移送に関しては、ゾンダーコマンド(特別部隊)で働いていた同僚から聞いたことを繰り返すことができます。この子供たちはガスで殺されました。ビルケナウの最初の火葬場で行われたテストガスの犠牲者でした。
私は3週間の検疫を経て、クレマトリウム建設班に配属されましたが、そこで初めてグラブナーと出会いました。ある時、私の仲間が50キロのセメント袋を運んでいたのですが、その重さに耐えられず、グラブナーは私のカポーに向かってこう言いました。「あの犬にとどめを刺せ」と。カポーはシャベルの柄を折って、それと自分の足を使って囚人を激しく殴り、彼は本当に死んでしまいました。これはグラブナーの指示で行われました。
その後、私は火葬場から「カナダ」という兵舎に移されました。そこでグラブナーと再会しました。グラブナーは政治部の部長で、ガス処刑される人たちの書類をモルに渡していました。グラブナーはほとんどすべての輸送列車の到着に立ち会っていました。
ポーランドの戦争犯罪証言記録サイトに見る殺人ガスの証言証拠(2)|蜻蛉|noteより
人間の証言には、しばしば誤りが存在する。記憶間違いであったり認識間違いであったり誤解であったり、場合によっては意図的な嘘であったりもする。個人的に、こうした証言をたくさん海外のサイトから翻訳したので、そこそこ誤った内容を含む証言があるのも知っている。しかしだからと言って「ガス室」に関する証言のその全てが嘘になることなどあり得るのだろうか? 知っている裁判証言だけで数百件に上るのだが。
しかもそれらの証言に含まれる「ガス室」に関する内容は、ただ単に「ガス室があった」と言っているだけでなく、上にあげたたった一つの例ですらも具体的な内容を持つ証言の中で示されているのである。しかもそれらは裁判の中での証言であり、被告が法廷に存在しており、被告には証言者への質問の機会も与えられていたのに、誰一人被告はガス室を否定しなかった。
でも否定派は、それら証言をどんな難癖をつけてでも否定する。上の例では、「連合国の陰謀者によって、ガス室の証言をするように脅迫されている可能性がある」等。また、否定派が最も証言に対して使うセリフは「矛盾があるものばかりである」である。ルドルフ・ヘスに至っては、ほんの些細な記憶間違いとしか考えられない証言上の矛盾を元に、証言の全て(もちろんガス室・大量虐殺に関することだけ、であるが)が連合国によって強制的に嘘を言わされていることにされた。私はそれをいうネット否定派に対して、「ではあなたは数年前の出来事について一つの誤りもなく証言できるのですか?」と質問したがまともに答えが返ってきたことは一度もない。ひどい場合には、単なる翻訳上の間違いを元にして「この証言には矛盾がある」と難癖をつけられていたことさえある。
少なくとも、マルコポーロ事件の西岡昌紀は真面目とは言い難い。その理由は、絶対にただの一つとしてもホロコースト否定説には欠陥があることを認めようとはしないからである。実は、稀にこの「否定説の欠陥」に気付く否定派がいる。中でも否定説の最大の欠陥は、では「一体、数百万人に上るユダヤ人はどこへ消えたのか?」に答えられないことである。ユダヤ人がナチスドイツの手によって大量移送されたこと自体を否定する人はいないので(それすら知らない人は別だが)、殺されていないのなら数百万人の消えたユダヤ人はどこかに生存していなければならない。古くは、ソ連だった。ソ連のスターリンが収容所に収容しただとか、移住させたのだとか、色々言っていたらしい。だが、冷戦が終わってなお、そんなユダヤ人は全く確認することは出来ない。旧ソ連に関するそうした情報も公開されているのだが、どこにも出てこない。
ほんの僅かだけど、ネットで議論しているとそこに気づいた否定派もいた。確かにその質問には否定派は答えられない、と。欧米では、著名な否定派が、さらに高名な否定派の誰にそのことを聞いても「知らない」と返答されるだけだったので、否定派を辞めてしまった人さえいる。この重大な欠陥を認めるか否かが、ある種の分水嶺になっているとは思われる。
コロナ禍で在宅勤務になり、リアルで会う人の数は一昨年比で数パーセントまで減った。飲みにもいけない。在宅勤務で良いことも多いけど、さすがに滅入ってくる。
でも流行は収まらない。政府の対応は支離滅裂で、かなり理解に苦しむ。データやロジックに従うことが大事、という信念で生きてきたのだけど、国の偉い人々がそれを踏みにじる様をまざまざと見せつけられている。
その情報のポータルとして使ってるのがはてブで、ホッテントリは「如何にコロナが怖いか」「如何に政府が信用できないか」「如何に自民党がダメダメか」「でも、政府も自民党も変わらないし続きそう」というトピックスを罵詈雑言と呪詛付きで提示してくれる。
元気な時は、同じ思いの人が多いのにむしろ勇気づけられてた事もあったが、最近はただただしんどい。何も大きな世界を変えることが出来ない無力さが際立ち、ネガティブワードの力もあり気持ちが沈んでいく。ただ、不思議なもので、それでも中毒のようにはてブチェックがやめられない。暗い心地よさが刺激されるのか、精神的にげっそりしていきながらも手と目ははてブから離れない。SNSやってたらもっとひどいことになってただろう。
と言うわけで、精神の健康を取り戻すまで、しばらくははてブを絶とうと思います。コロナへの最大限の警戒心と、選挙で自民公明維新以外に入れることだけを覚えて、その辺の情報を最小限に絞ります。元気になって、身の回りの小さな世界を良くするために。
早く帰ってこれると良いなぁ。
ワクチン接種を求める人が多くても順番待ちでたらいまわしにされ、接種を待たずに感染を迎えて中には死後の世界に旅立つ人も少なくない。
今や政府どうにかしろだの医療界ふざけるなだのいってももうどうにもならない。
政府も医療界も魔法使いでもないし何日単位の順番待ちの人間のワクチンの順番を速めてくれるわけではない。
金銭面などで余裕のある既接種者は未接種者のためにイベルメクチン(もしコロナに感染しているときに体外にコロナを追い出したり重症化を邪魔してくれる)と亜鉛&ビタミンD(コロナで重症化や死に至る確率を下げられる。ただし、中毒になる量と致死量に注意。)のサプリを配ろう。
やることは未接種者のポストにイベルメクチン(ネット通販で買える。一部地域では薬局などで売っているかもしれない)と亜鉛とビタミンD(どこの薬局にも売ってある)のサプリを配ること。
もちろん暑さや湿気などに備えるために梱包や包装を工夫しても構わない。
もう本当に無理。漫画好きなのにカス共の感想共有が気持ち悪すぎて死にそう。
マジで、自分の感想が誰かを不快にしてるかもしれないって思いながら文字打ってくれよ。
気持ち悪いんだよ。
まさか、「これがこういう風に良かったです」とか「ここってこういう意味だよね」とか「ここのキャラカッコいい、可愛い」みたいな感想に価値あると思ってんの?
やめてくれよ。本当に。
虫唾が走るんだよ。消えてくれ。
なんで不特定多数が目にしかねないところにお気持ち垂れ流すんだよ。不快な思いをしてる人もいるんだよ。
せめてもっとクローズな場所でやってくれよ。仲のいい友達とLINEグループで会話するとか、方法あんだろ。
なんでそうしないの?理由は簡単だよね。友達がいないか、ワンチャン自分のお気持ちがバズって承認欲求を満たせるかもしれないからだろ。
そういうのが、本当に不快なんだけど。
SNSに脳みそがやられてんだよ。リアクション中毒。ベルマークに通知が来るのを何より楽しみにしてんだろ。脳みそ焼かれてるよ。スマホ捨てた方がいい。
他人の作品を出汁にして、名前も顔も知らない他人と感想共有して、コミュニケーション取った気になるなよ。頭おかしいよ。
他人がしたり顔で気の利いた感想を述べて、それを礼賛することに何の意味もねえよ。他人の感想見て馬鹿みたいに笑うのやめろ。狂ってるよ。
もしくはアレだろ?自分が抱いた感想が言語化されてて、安心感というか、「ああこういうことが言いたかったんだよね私!」って思いたいんだろ?
おかしいよ。漫画くらい1人で読めよ。感情や感想をアウトソーシングしようとするな。赤ちゃんかよ。共感してないと生きられないの????
ネットの感想の文法はキモいって気づいて。いちいち表現をひと捻りしようとしたり、大げさな形容を使ったり。馬鹿なの?
しかも自分で考えてるならまだしも、他人のテンプレ表現やミームに乗っかってるだけじゃん。
意味ねえよ。なんも意味ない。表現までアウトソーシングしたら、もうあなたの感情なんてどこにもないやん。
いや、そもそも感情をシェアしようとするなって思うけど、表現もせめて気を遣ってよって話。
気持ち悪いのに気持ち悪いのが乗算されて最悪だよお前ら。よっぽど、人が傷つくのを見るのが面白いんだな。
この文章読んで少しでもイラッとしたなら、あなた達のアホ丸出しの感想共有に対して私が抱いてる感情が、まさにそういうものだってわかってくれよ。
恥ずかしいよ。人として恥ずかしい行為をしてるって気づいて欲しい。
あなたたちが和気藹々と作品の感想を書いて共有するってことは、不特定多数の誰かを攻撃しているってことなんだよ。
本当にやめてくれない?
不潔なもの、くさいものを好きだという人はあまりいないはずで、自分もそこに異論はない
ホームレスを助ける施設を作るな、という市民運動やデモ活動、プロ市民がいてもおかしくない
問題があるのは、まず影響力がある人が子供みたいな二元論でそれを語ること
ネコを殺してホームレスを生かそう、も問題がある主張のように思う
大人になるにつれて分かってくるのは、この世界は単純な二元論では割り切れないということ
人と人が憎しみ争い合うとき、それは正義と正義がぶつかっているということである
そういえば、昔小林よしのりが、正義と正義がごっつんこなんておかしい、
と漫画の1コマで描いていた覚えがあるが、自分はおかしいとは思わない
人と人は永遠に分かり合えない
食い違う利益、不利益によって人と人は争い続ける、それはおかしな話ではない
なるほど、そういう考えからいけば、
DaiGoの利益はホームレスを殺しネコを生かすことなんだろう
ただ、ここで少なくとも自分はそうは思わない
自分はネコに対して思い入れはない、寧ろあまり好きでないと思ってもいる
外見の可愛らしさとは裏腹に、ネコに対する恨みつらみではないが不満がないわけではない
そもそも、野良猫は狂犬病やダニを介した感染症を保持している可能性が高い
野良猫に引っ掻かれる、噛まれると冗談抜きで人は死ぬことさえある
野良猫は全然気楽でも自由でもない、苦痛な毎日を強いられている
ホームレスは自由気ままでいいよな、みたいに言う傾向がある気がする
そんなはずはないだろう
もちろん、そういう人がまったくいないとは言わないが、
ほとんどの野良猫もホームレスも、毎日が過酷な生存と死の隣合わせの生活のはずである
ネコを優先しろ、いやホームレスを優先しろ、色々な考えの人がいるだろう
自分はネコとホームレス、というか、ネコと人間、どちらの生命を優先するかと問われたら、
これは単純にエゴイズムの話でもある
いつか自分がその天秤に乗っけられる可能性があり、それを恐れるからである
世の中には色々な人がいるが、自分は好き好んで敵を作ったり、他人に恨まれたいとは思わない
ネコと人間、どちらを敵にするか選べ、というなら自分はネコを選ぶ
そんな妄言を唱えていたが、彼こそ人間よりイルカを愛する人であった
しかし、現在のイルカやクジラに対する科学的判断は当然ながら違っていて、
人間のような文明を築けるわけもなく、道具を作れるわけでもない
もちろん、自然の恩恵を受けて人間は生きている、農業が最たるものであろう
しかし、ホームレスよりネコを優先するという考えは、どこか自然優先主義を行き過ぎた、
エコとかロハスとか言いながら、反ワクチンを唱えながら、なんだかんだ電気を使っているような、
そんな薄っぺらい環境保護団体の人達とも似ているようにさえ思う
ホームレスという括りでなく、ひとりの人間としての括りで考えた場合、
そうすることが自分の利益にもなり、社会を維持するためにも必要だからだ
ネコが滅びて人類が生き残るか、それともその逆か、と問われるなら、
補足として、ホームレスで臭すぎる人がいるのは確かであり、街中で見かけることもあると思うが、
原因は様々あるだろうが、精神的な疾患が関わるケースが多いように思っている
そもそも知的障害があるとか、根本的な理由は単に不潔な人という話ではない
もしくは、近所のゴミ出し警察によってゴミを出しにくい、なんてこともよくある話である
社会を統治する立場からしても、生類憐れみの礼を出したバカ殿様であるまいし、
人間より犬猫の生命を優先するなどという話はあってはならないと自分は考える
シンエヴァの第三村にもネコはいたが、人間より優先されているわけではない
かといって、殺人鬼が人の前にネコやイヌを虐殺するようなことを許していい訳もない
人と人は分かり合えないのだから、そういう人の気持ちが自分には完全には分からない
寧ろ、その安直なトロッコ問題の後側に鬱屈したコンプレックスや不安を感じ取れる気はするが、
それを他人への攻撃に変換している時点で、他人は遠ざかっていくのではないだろうか
自分の抱えている不安があり、それについて他人や社会システムに救いを求めるべきなのに、
それを他人への攻撃に変換してしまう人というのは確かに存在する
もしくは他人に助けを求めたって裏切られるだけだ、だって今の社会はそういうもんだろ、
という厭世感がそうさせているのかもしれない
そういう空気が醸成される社会不安があるのも理解できる、今問題のコロナもそうだと思う
そうやって行った果てにあるのはデビルマンの最終回のような世界である
しかし、それで本当にいいのだろうか
【追記】
文章書くことに対して苦手意識がありましたが、複雑な文章とまでいっていただき、光栄の極みです!
あなたのような素晴らしい画面越しでも人の障害の有無を勝手に診断する、ネオお医者様がこれ以上増えないことを願っています。
私はいわゆる大人の発達障害で、発達障害が原因で色々生きづらさを抱えている者です。
自分が発達障害だと分かってから、人のことを差別してしまうようになりました。
定型発達なのに自分がホームレスや生活保護を受給する可能性が全くないと思い込んでいる人。
発達障害へのコンプレックスが大きくなりすぎて、定型発達で出来の悪い人って、発達障害よりよっぽど下なんじゃないか?と思ってしまいます。
定型発達「なのに」、なんでそこまでレベルが低いの?っていう疑問はコンプレックスの裏返しでしかないことは自覚しているのにやめられません。
定型発達の人たちは発達障害を異端で邪魔者扱いして平気で差別してる割に、人のことを差別できるほど立派な人は少ないなと思いますし、この世から差別がなくなることは一生ないなと実感します。
それは団体の中の一人をみんなで嫌いあって団結力を高めるくらいの単純な構造で、みんな自分は上だって思いたいってだけの話なんだなーとも・・・。
の存在が見えなくなってしまって、こういう思考がまた誰かを傷つけてしまっているんだろうなとも思います。
発達関係なく人としてダメなところまで落ちてしまった気がします。
一歩外に出たとき、よほど汚い身なりをしていない限りだれもが私のことをどこにでもいる女性として風景の一部に入れてくれます。
それが単純にすごくうれしいです。
どこの誰が書いたわからない便所の落書きの書き込みを真に受けて落ち込むのをやめたら、定型発達なのに無能な人を見て笑うことが辞められる気がします。
ここの部分を書いているとき、だれもが障害を持っているとパッと目で見てわかる人もすごく大変そう、と考える自分の心の優しい部分の割合を大きくしたいです。
がんばります。