はてなキーワード: 消費者視点とは
以下の言及を見た。
https://anond.hatelabo.jp/20220313143711
加藤純一の配信やVtuberの躍進で注目を浴びることなった「スーパーチャット」いわゆる投げ銭だが、議論噴出の様相だ。
さて、先ほどの日記を要約すると、面白いコンテンツを無料で提供してきたインターネットが異常なだけで、今ある面白いコンテンツの対価としての投げ銭はよいものであり、見習うべきものである。また、eスポーツのFPSでは投げ銭という文化は根付いており、それが他の格ゲーなどのeスポーツにまで反映されればいいなというもの。
私もこの大元の日記にはさしたる異論もなく、首肯するのみである。
私が注目したのはそれに対する言及だ。大元の日記では投げ銭文化が根付けばいいよね、という大意に対して言及では投げ銭文化に対しての否定的な意見が散見される。
否定的な意見を読むと、多くの人が「投げ銭」は対価であると考えていた。
そもそも私が認識する限り「投げ銭」とは「人」や「運営元」に対して行われるものであっように感じる。そこには「楽しませてくれたから」があり、「楽しめたから」という消費者視点がなかったように感じる。どこまでも応援者や支援者としての立場があった。
この点の考え方の違いが今回の否定的な意見の源流なのではないかなと考えた。
そして、その否定的な意見をより一層強固にするのはVtuberのスパチャという概念だろう。
私自身もあの文化には入れないなと思っていたが、あるVtuber配信者にのみ500円以下の少額を2回行ったことがある。その時の私の考えの根底にあったのは純粋な応援だった。そこで気づいたのだが、私が見ていたVtuberのスパチャはアイドルの「握手券」のために躍起になってCDを買うようなスパチャだった。だからこそスパチャ文化には入れないなと思ったが、結局は目立つところだけを見てしまって食わず嫌いをしていた。
目立つ部分だけを見せ続けられ、それが一般的には「気持ち悪い」と一歩置かれるようなものであれば、スパチャという概念が嫌われるのはよくわかる。
スパチャに対する否定的な意見の配信者ではなく運営だけが儲かっている、射幸心をあおっている、稼ぎ方が汚いはいずれも上記の後に付けられた理屈のように感じた。
現在のVtuberのスパチャ文化が健全とは言わないが(一部大金を積んだ人には個別メッセを送るなどの特別扱いや個別通話など)、投げ銭文化の醸成に一役かっていることは確かだ。今後も投げ銭文化は成長するだろうし、コンテンツの楽しみ方も変わってくるだろう。
私としては「面白い人」や「面白いモノを提供する人や団体」に対してお金を応援の意で送るという文化が根付けば、世の中もっと面白くなるのではないかなと期待する次第である。
「白痴化」と「蛸壺化」は表裏一体だけど、分けて考えていいと思っている。
大衆の白痴化って、強いて言うなら「学ばず、直感的に理解できる良さや面白さのみを評価すること」だと思うので、対象ジャンルの歴史や過去の名作、ジャンルの将来的な在り方みたいなものを無視して、現在流行りの直感的に理解できるものだけを評価すること、その浅さが問題。
ジャンルの蛸壺化は、「ジャンルの制作者側が、消費者の視点とは別の視点を持って独自の価値観で評価を行い続けること」、消費者視点だと直感的な理解がしづらいものが評価されるようになり、ジャンルへの敷居が上がることが問題。
両方ともメリット・デメリットがあるから、その間でどのようにバランスを取ることができるか。バランスを取れたジャンルが生き残っていくように思える。
ロボット系の研究とかで色々あると思うけど、なかなか難しいと思うんだよなあ
車椅子だけでなく、いわゆるロボットを人間の基準で設計された世界に合わせて動かすとなると、
フレーム問題云々までいかなくても、ドアの開け閉めのモーションだけで永遠に悩めそうというか
ドアのノブ、取っ手の種類はいくつもあるし、その寸法も多種多様なわけだけど、
人間は常識でそれをなんとなく理解して、なんとなくで使えてしまうんだけど、
ロボットはそれが無理なんで、AIだのMLだの最近の時代になっても、
DARPAチャレンジとかで延々とドアの前で計測して、シミュレーションして、学習して、
みたいなのを棒立ちになって繰り返して、ようやく動き出して、それなのに転倒するとかw
映画とかでもそうだけど、作り手視点でなくて単に消費者視点でしか見れないと、
最先端のロボットって馬鹿なの?と思われてしまうわけだけど、そうも簡単に行かないというか、
もっとアドホックというか乱暴で良ければ楽だったりもするんだけど、
要はドアをぶち破るまで行かなくても、そこそこ傷つけてもいいとかだったらいいんだけど、
一応課題が工場の部屋に入ってバルブを締めるとかだと、金属に傷つけると引火したりもあるわけで、
なんだかんだ人間だったら、消防員が初めて見る扉だったとしても、丁寧な開閉が問題なくできるわけで、
クローラーみたいな運搬用の機械で自販機の中身を人間が駅の階段で運んでたりするけど、
飲料缶は最悪下までずり落ちても破損で済むけど、人間は死んでしまうんで、
どんな階段にでも対応できて健常者並みに安全というのを実現するのは難しいんでないかと思ったり
ちなみに、自宅の最寄り駅から近い駅にバリアフリーをかなり徹底した駅があるのだけど、
スロープやエレベーターが充実しているので、普通の駅より障害者を見かける頻度が違う気がする
やっぱり、誰の手助けも借りずに行動したいという気持ちは身体障害者にだってあるだろうし、
それが本質的に「ゲームごときに金をかけたくない」という軽視だから。
「そんなこだわりいらないから安くしろ」なんて創作者にいう言葉だろうか。
「そんなこだわりいらないから安く料理をだせ」なんていう客は心が無いし、
それが一般人ならともかく、それなりの料理人の発言ならただただ残念。
「美味しいものを安くだすべき」みたいな信念があってあえて言うならわかるけど
「俺が金が惜しいから」って悲しすぎるでしょ
任天堂なりのこだわりがあってだし、
そこを切り離して「自分が安く遊ぶために創作物を商品扱いして移植しろ」とか
本当に悲しくなるわけですよ
しかも、それをいうと最近は「宗教だ!」「ゲハだ!」とか簡単にレッテルを貼られる。
ゲームをお金と敬意を払う価値があるすごい創作物だって主張して何が悪いねん!!!!!!
お願いですから自身のゲームへの軽視と冷笑を正当化するためにレッテルを使わないでください。
「ゲームごとき」、と作り手のことを考えず安くてなんぼの商品扱いすれば気分を害する人はいます。
まぁ、オタクのあしらわれ方なんてどのジャンルもそんなものって言われるかもですけど
こだわりがわからなくて宗教扱いするなら、わからないなりに慎重に尊重するのが本来でしょう
ゲーム愛が正当なものとして叫べないのは偏ってるし本当に糞なので変わらないかなという話でした。
読んでくださってありがとうございます