はてなキーワード: 繁華街とは
関西出身の私だが北関東(南東北)人のプライドの高さには時たま驚かされる。
南東北の雄である宇都宮市にしばらくお邪魔したことがあったが、宇都宮駅東口を出た瞬間に希望は消えて砕け散った。
現在では無駄な路面電車を走らせたり、無駄なビルを建てたりして足掻いているらしいが、当時は立派な歩道橋とただ広くて汚い「無」が広がっており、その真ん中に何がしたいのかわからない、景観汚染も甚だしい汚い急拵えの観光客向け餃子施設(決して美味しくない)があるのみだった。
その周りを囲む繁も華もない繁華街はただただ汚く、違法行為を行う多国籍パブや足が異常に太くて汚い嬢が多数在籍するキャバクラ崩れなどが乱立する場末の吹き溜まりであった。
旧市街が西口側(東武側)であることを置いておいても、県下最大のメインステーションの真ん前でこりゃないでしょという廃れっぷりにただただ、頭を抱えたものだった。
その後、現地での活動を行う中で原住民との交流の機会も徐々に増え、その中であることに気づいた。
住み心地を聞かれた際に我々転勤族が返す「住む分には困らないですね!」これは「何もないですね⭐︎」をオブラートに包んだ地元民を刺激しないための返答なのだが、どうやら原住民は褒め言葉として受け取っているらしいことに気づいた。
それに返す原住民の言葉には大抵「東京も近いし〜」や「東京まで一本だし〜」などの北⭐︎関東⭐︎であるこの地を賞賛するセリフが次々に返ってきた。
どうやら原住民は本当に東京を心底身近に感じていて愛しているらしい。
(これはローカルテレビ局が機能しておらず、基本キー局が東京のローカル情報を常に放送しているためという説が濃厚)
東京まで直線距離にして約100km、在来線で約2時間1980円の道のりが近いという感覚は全くなかったのでただただ驚かされた。
新幹線があると言っても約50分、4500円、これが果たして近いのだろうか。
関西に当てはめると大阪市内中心部を基準に100kmの円を書くと京都府舞鶴市、福井県小浜市、滋賀県彦根市、三重県津市、三重県松阪市、
和歌山県田辺市、兵庫県相生市などとてもではないが「大阪に近い」なんて恐れ多くて口にできないような自治体が並んでいる。
特急や在来線を乗り継いでの大阪までの時間と値段も似たようなものだが、これらの地域で「大阪に近い」という自意識を共通認識として共有している地域は無い。
ずっとまえ大阪から東京にはじめて行ったときは23区をレンタル自転車であちこち回ったんだけど、一番驚いたのは公園の多さとその広さ。
東京イコール繁華街というイメージだったんだけど皇居、上野公園、神宮外苑…と町のあちこちに公園があった。
それも大阪で一番ひろいであろう鶴見緑地とか長居公園レベルの公園が東京都ではそれぞれの区にあたりまえにあって緑が豊かでゆったりした時間が流れてた。
大阪市にも公園はあるけど中心部はほとんどが住宅とテナントビルで街の端にかろうじて緑が残ってるような感じ。
だから大阪市内を自転車で走ると休む場所に困るんだけど、東京はそれぞれの区を代表するように公園があるので気が向いたら一息付けるというのが良かった。
メインカルチャーとは、世の中において健全な文化と見なされ、大学で学問対象として研究されたりする文化である。
戦前から現代まで続いている文化が多く、いい意味でも悪い意味でも「保守的」と言われる。
そしてサブカルチャー、通称サブカルとは新興文化であり、上記のメインカルチャーと比べて主流とは言えない文化である。
メインカルチャーが大人向けの文化であるとすれば、サブカルは若者文化と言えるだろうか。
東京の文化で考えてみると地域で分断されているので判り易く、旧東京市の旧市街エリアでメインカルチャーが盛んである。
そしてサブカルチャーは戦後開発された西側エリアで発展している(ただし秋葉原は例外)。
銀座・日比谷・有楽町…巨大劇場群や有楽町マリオンなどの巨大百貨店が集まっていて、銀座は言うまでもなくメインカルチャーの中心。最近の若い人は「有楽町で逢いましょう」なんて知っているかな。
上野…上野公園の美術館と博物館、東京芸大と町そのものが芸術の街。
上野広小路・浅草…上野アメ横や戦前から続く浅草の繁華街。落語の寄席や演芸場が多い。
深川地区…両国の国技館、もう一つの伝統芸能である東銀座の歌舞伎座。
東京だけが持っている文化、それも文化の中のメインストリームと言えば演劇なのではないか。
有楽町の近くには銀座の繁華街もあり、演劇・繁華街と文化を楽しむことが出来る。
有楽町で観劇もしくは映画を観てから銀座へ向かう、という楽しみ方は東京人にしか出来ない。
台東区にある上野恩賜公園が美術館と博物館の宝庫となっている。
東京国立博物館、国立科学博物館、国立西洋美術館、東京都美術館、上野の森美術館(民間)など。
2016年に東京都美術館で「若冲展」が開催されて、私元増田も行ったが4時間待ちだったことを未だに覚えている。
また上野公園の近くには東京芸大キャンパスがあり、文字通りに文化の街となっている。
メセナ事業とは、企業が資金を提供して直接的な見返りを求めず、文化・芸術活動を支援することである。
東京には大企業が多いので、必然的に企業が運営する文化施設が多い。
サントリーが運営している東京ミッドタウン内のサントリー美術館。
伝統芸能に関しては、東京一極集中の状態と言っていいのではないか。
大相撲本場所は年6回開催されるが、両国国技館の開催が3度で、大阪・名古屋・博多は1回ずつ。
落語についても、落語協会と落語芸協の2大体制は今後も変わらないだろう。
はてなであれば皆さんご存知の1980年代から始まったオタク文化である。
黎明期においては、演劇や美術業界などのメインカルチャーから見向きもされてこなかったが、今は立派な日本の「文化」として認識されている。
転換点の一つとして、2014年に政府がクールジャパン戦略を採用したことだろうか。
政府に一目置かれるほどの文化に成長するって、なかなか出来ることではない。
『東京中央区の出生率トップ「結婚も出産も豊かな貴族夫婦だけが享受できる特権的行為」となったのか?』
https://news.yahoo.co.jp/byline/arakawakazuhisa/20230124-00334087
何故か「東京の出生率は低い」という前提で語られる事が多いけれど
現実はこれだよね。
都会の女の方が産んでいる。
「さて、その東京都の23区内でもっとも合計特殊出生率の高い区はどこだと思うだろうか?
2021年は1.37で、23区中のトップであるばかりか、市部を含んだ東京全体でもトップである(人口の少ない町村島部を除く)。しかも、2020年は1.43であり、2015-2018年はずっと1.42-1.44という高い水準をキープしている。
ベスト3は、中央区、港区、千代田区となっている。別の見方をすれば、これら3区は、平均所得の高い区でもある。東京においては、所得が高くなければ子どもを持てない状況なのだろうか。
一方で、すでに出生率1.0を切っている区が、6つある。新宿区、豊島区など巨大繁華街をかかえる場所での低出生率はわかるが、杉並区や板橋区など住宅地の多いイメージの区が低出生率になっているところが気になる。特に板橋区などは、かつては団地などがあり、家族の多く住む場所だったのではなかったろうか。」
「出生率1位の中央区だが、当然過去はむしろ下位の方に位置していた。2006年過ぎから急上昇し、ゴボウ抜きでトップとなった。これは何か特別な少子化対策をしたからではなく、単純に子育て世代の転入が多いためである。
実際、中央区の平均年齢は若い。なぜなら、0-9歳の子どもの人口が多いからだ。これらは東京のタワマン需要と密接に関係している。タワマンに住める高所得パワーカップルが移住し子どもを産んでいるのだ。
注目すべきは、23区のほとんどがこの5年間出生率を落としているのに、中央区だけが高い値をキープしている点である。
一方で、かつてベスト3の常連だった、江戸川区、足立区、葛飾区といった下町3区の出生率が2015年ごろをピークにここ5年間で急激に減少に転じている。
中央区や港区とは対照的に、これらの区は平均所得も低く、家賃相場や住宅購入の相場も安いところだ。つまり、所得の低い人達の出生率が下がっているという見方もできる。」
この文章は昨年、安倍首相が撃たれ死亡された時にスマホのメモ帳に書いていたモノを、はてな匿名に投稿しようと思いつつも日々の忙しさで後回しにで、、一年過ぎて、書き足し
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さっそくだがタイトルは釣りである。実際は軍隊ではなく、警備部、保安部である。
もちろん共産党の中で「何」と呼ばれているかは、呼称があるかは知らないが存在はしている。はず。これは事実だ。と思う。
では日記風に。
7月8日、昼休みが終わり仕事を始める。と、いつもは寡黙な隣の上司が「なんてことだ。最悪だ」と感情を乗せたセリフ。
私は「へ?」と。
すると隣のおばさんが「うん。そうらしい」お向かいの素敵な美人も頷く。
しかし私はちっとも動揺しなかった。それは支持してないから、とかでなく安心して受け止められた。
撃たれた、としても、大丈夫。ケネディではなく、レーガンの事件、1981年3月30日ワシントンD.C.で起きたレーガン大統領暗殺未遂事件のイメージで、「撃たれた」としても「かすりもせず」のイメージが膨らんでいた。それには理由がある。
忙しい午後だった。仕事を終え、帰宅する。と家人が「安倍さんが死んだ」と。
は?死んだ?なに?本当に撃たれた?
そして致命傷で死んだ。
まさか。
そして私の口をついて出たのは「何やってるんだ。自民党!何してるだ!自民党!」であった。
少し怒りも少しだが混じっていたと思う。
「しっかり守れよ 何してるんだ ちゃんとしろよ 自民党」と。
まさか、本当に撃たれるとは。その弾が当たるとは。そして死なせてしまうとは。あるまじき事件であり、あるまじき『失態』だ。
何故、このような呟きになったのか、その怒りが犯人にではなく自民党に向かったのか。
ではその経験を語る。
私は以前、日本共産党の党員だった。現在は10条該当党員、参加もせずに党費も払わず、幽霊党員。自身はすでに党員の自覚はない。
だが当時はバリバリに活動していた。ので地元で開かれる演説会の壇上に上がった事もある。
に、その日の演説会には党中央の幹部が参加、演説しにやってきた。
そして私は、若くバリバリに活動してたので、その演説会の壇上に雛壇党員として座ることに。
その当日。壇上に上がるメンバーが事前に楽屋に集められた。日頃の演説会には開始直前まで動員活動をしていたが、その日の演説会では、その任を外され、事前に楽屋に集められた。
と、そこには、いつも顔見知りの各分野の顔役達。
挨拶をすませ
「あれ、本日のメインの中央の○○さんと握手とか、思ってた」など戯れ事を言う私。笑顔のいつもの面々。の中に一人だけ、見知らぬ顔があった。
演説会には常は県委員会の専従、幹部、その地域担当が来る、そして私は全員の顔を知っていた。だがその場にいた顔は初めて見る顔であった。
その見知らぬ顔の開口一番
「何かあっても動かないで下さい。講演中、もし○○(党中央幹部名)が撃たれそうになっても、助けようとか、動かないでください。講演テーブルの上には防弾ガラスを敷いてます。もし撃たれそうになっても○○は自分でガラスを盾にして防ぎます。だから顔は大丈夫。それ以外でも、講演テーブル、テーブルの中には毛布をぎっしり詰めてます。ですから〇〇は危険だと思ったら、しゃがみ隠れます。
ですから皆さんは『助けよう』と動かないでください。私たちの動きが取れませんので」
驚いた。これはいつもの演説会ではないな、と、いつもの顔役全員に緊張が走る。
「最前列5列の席までは我々、皆さんの地区の同士で固めています。ですから不穏な動きを取る人間はいません」
聞いている我々は更に緊張した。のを、その人間は的確に把握したのであろう。
「外、会場内、会場周辺、全部、我々で監視しています。拳銃を持っている、持ち込もうとする人間は我々で押さえます。荷物と歩き方で銃を持っているか否か、我々は分かります。少しでも可能性を感じたら、すぐに止めてチェックします」
一拍(テレビドラ的演出で言えばカット変え。音演出なら遠くのパトカーの音か?)
顔「拳銃は〇〇に近づく事は出来ません」
顔「ですが15cm以下の小型の、、ピストルですね。小さな。あればかりは我々も見抜けません。ですが。演説テーブルの防弾ガラスに毛布。小型銃の威力はその程度で防げます」
顔は一気に言い切った後に、
それまで見せなかった顔、は少し微笑んだ、かに見えた。
それを受けホッとする我々、を見た顔は更に柔和な顔で。
その場の面々を、ゆっくり見回す、顔
「我々の、その外。皆さん、今日、会場に入られる時、ご覧になったでしょう?
いかにも屈強で、目つきの悪い、いかにも、「はい。警察です」って方々がいたのを。・・・時には役にたつのです。まぁ威嚇、に、も、ならないけど」
ここ、笑って良いのか?判らずも、つい苦笑する我々。
「また公安も来てますね。ですから○○に銃は近づくことは出来ません。では本日は宜しくお願いします」と顔は深々と我々に頭を下げた。
全員、一呼吸
「訊いて良いですか?銃、持ってる人、わかるんですか?」
顔はすこしダケ、困ったような顔をしながら
顔「まぁ。小さなモノは先ほど言ったように・・・」
私「ワルサーPPK!」
顔「そう。あれくらい小さいと。お詳しいですね」
てれる私
顔「それ以上の銃器、武器になると、どうしても重い。すると、それを隠そうとすると、人間、どうしても不自然な動きになる、ように、我々には見えます」
私、一同「へ〜」
顔「では、そろそろ皆さんは舞台の準備へ。そろそろ○○も会場へ」
そして演説会は始まった。
T「1年後」
まだ私は活動していた。そんな折り、大都市に党の大幹部が演説カーで来ることに。
当然、私は動員して動員され。
繁華街の午後、人通りが多い。夕刻か。週末だったような。
大勢の人々が行き交う駅の近く。大型の演説カーと。大型の黒塗りの右翼街宣カー。
騒然とするなか、あの顔を見たような。やはり見知らぬ顔の人間と話してた。が、さっと消えて人々、群像の中に消えていった、ような、、
思い起こしてみると、その「顔」には印象はない。背格好も、ふつうだったような。まさしく、普通の人。だった。
これが私の経験であり。だから公党には全て、こういった組織、部署があると思っていた。ましてカミソリ後藤田がいた自民党、共産党以上に。
もちろん国家権力、警察も護衛するだろうが。岡田君みたいなSPはいないだろうけど。ちゃんと自民党としての保安部があるハズだ、と。
しかし結果は。
だが、ふと思う。自己防衛によって生み出された、攻撃を受ける党であった為に生まれた対応策、軍隊を持つ党
と
権力の座に座り、動かし、取り締まる側を動かす党には、攻撃に弱いのかも。確かに226では。
だが皮肉なものだ。「武力放棄、軍隊はいらない」と言う党は軍隊を持ち、
「憲法を変え軍事費増強」と言う党は、あの時点で軍隊を持っていなかった?役に立たなかった為、総理大臣経験者を死なせてしまうとは。
それは外から攻撃を受ける立場から生まれた軍隊を持つ党と、、とループしていく。
=====
以上だ。
言うほど「一番の要因」だった?
↓
https://knoa.hatenablog.com/entry/2022/06/20/165430
https://knoa.hatenablog.com/entry/2022/08/30/164957
https://knoa.hatenablog.com/entry/2023/05/08/161518
↓
[B! COVID-19] 各地の主要繁華街における滞留人口の状況について
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/newpage_00065.html
いつからか人目が怖くて 外に出るととにかく不安で 車が突っ込んでくるのでは 自分の顔 メイク 服装 持ち物が変ではないかすごく気になって 徒歩3分のコンビニに行くのすら諦めるレベルだった
多分自分は発達障害なのか 忘れ物がものすごく多く(親も発達に難あり系なので用意もしてくれなかった) その度に色んな教科の先生にコテンパンに叱られ 人間が怖くなる
中学時代は他人の気持ちが読めず 神経を逆撫でし 人に嫌われまくり友達が激減する
高校時代 制服を着て歩いているだけなのに男性に卑猥な声掛けをされる
最寄り駅は繁華街なので一日に一回は必ず 朝早くても夕方でも時間関係なく さらに人間が怖くなり高校を中退する
そこからは 調子のいい時働いてすぐ辞めてを繰り返して今まで生きてきた
ステイホームだから 引きこもってた すると人目が怖いのが再発
ネットで通院できる病院でカウンセリング受け 今の症状を伝える
社交不安ですねと 薬を郵送で受け取り 毎日1錠 祈るように飲み続けている
1番酷い時だと徒歩3分のスーパーへ行くのに ドアの前で飛び出しそうなぐらい暴れる心臓が落ち着くのを待ち 手の震えをごまかして 逃げるように買い物をしていた
昔 車の接触事故を起こし 相手から怒鳴られたのがトラウマなのか 運転しようとすると 手汗 手の震え 心臓のドキドキ 過集中(会話が聞こえなくなる?成り立たなくなる)が出てしまい運転を控えていたのですが
現在投薬半年 今日 運転をしてスーパーへ買い物へ行くという 普通の主婦なら当たり前の事だけど
この社交不安に悩んで17年 17年前の自分に精神科へ行くように助言してあげたかった
もっとたくさん外に出られる生活で過剰に不安を感じないようになっていたら 高校も中退しなくて済んだかもしれない
ワイの過去の就労先で就労先が代替わりしたやつで、繁華街の交差点角地という超一等地なんだが戦後くらいから借りてるだかで二十数年まえで月額に!じゅうまん円だった、超ボロ長屋造りの真ん中で狭小木造三階建だが、すでにして右肩下がり業績だったのでなんとか穏便にと就労先経営者が請願してたの思い出した
隣が初老の三兄妹が住み込みで経営している甘栗屋!で、とおもってたらあるとき初老だが割りと整った容貌の老婦人が三兄妹と談笑してるの見てたらワイの就労先経営者がアレあの四人は兄妹やねんとあの老婦人は実の妹という情報をブッ込んできて驚愕した
反対側の隣はコロコロ業務形態の変わる店舗で一時めちゃくちゃ適当な名称のイカ焼き屋だったことしかもうおぼえていない
話もどしてその時の就労先の代替わり前の創業者が戦前の大阪で写真機業を営んでいた(国産初の懐中時計型カメラの発売元)とこの兄弟()だかで店内で昔話にキミが一旗揚げる気があるならワシは○紅に知り合い居るから相談にノるでとよく(誰にでも)話していたのも懐かしい想い出
ちな後継ぎの婿の人は同窓会に写真機屋だからと写真係押し付けられて店頭在庫のなかなか売れない高額新品の古都陶磁器会社謹製ブランド(素材は八州光学)一眼レフを持ち出してた
そうそう、それの仕入先のエラい人が転勤上洛して来てしばらくして、建物の庭園?に水やりしてて元栓閉め忘れで帰るという大失敗やらかしたという話もきいた
増田やはてなーは大卒だから想像つかないかもしてれないけど中卒高卒にはもっと厳しいものがあったんだよね
たしか2000年前後の高卒の就職内定率は50%ぐらいだったと記憶している。卒業時に半分が正職が定まってない状況。消費者金融の正規社員にならたら成功者扱い。
では卒業後のアルバイトがあるかというとそうでもない訳よ。何せ無職の大卒でその枠がうまってしまうわけ。コンビニやTSUTAYAで大卒バイトのなんと多かったことか、それでも働けるだけマシ
中卒高卒なんかは働き口もなくてね。地方で働けなくて上京してくるんだけど、やっぱりまともな職はないわけ
オレは大卒で繁華街の呼び込みやってだけど、同業者は地方の高卒が多かったな。
女の子でもマクドナルドやプロントの面接落ちて仕方なく夜の仕事してたりとかいた
夜の仕事もできない、嫌だとなると友達や彼氏彼女の家に転がり込んで賞味期限切れのコンビニ弁当まわしてもらったりとか、とりあえず生活するのが精一杯だった。そこから先は窃盗やQ2ダイヤルのサクラ。傷害事件も起きてたしね、ウシジマくんの世界だ。
オレは多少というかほーんのすこーしパソコンができてエロサイトの管理更新をしてたから、うまくITバブルの時流に乗って仕事をもらいつつ就職できたけど残された連中は悲惨だったなぁ