はてなキーワード: 専門性とは
新型コロナ関連で法テラスの援助要件の緩和等を提案する野党案に対して、多くの弁護士が憤っている。
Twitterが主戦場だが、こちらのブログがよくまとまっている。
https://yiwapon.net/archives/9696
他の記事も含め事実関係は丁寧に調べているし、要するに「官製ダンピングをこれ以上増やすんじゃねえ」という話であり、理解できる。ついでに日弁連の意思決定プロセスは前から色々といわれている。
だが、このよくまとまった記事にこそ彼(女)らが負ける理由がよく現れている。
自分達のことばっかりなのだ。「社会の利益」という視点がないといってもよい。
いわく自分達の取り分がまた減る、苦労する、内輪の意思決定に問題がある、知り合いにツケを回すのはいやだ。そればっかり。全て正しくても社会から支持されるわけない。ほとんどの人からすれば「知らんがな」である。ちなみに、修習生の給与問題のように金出せというときには公益性やら公益活動の存在を主張する。
もちろん、持続不能な報酬で弁護士をこき使いまくれば社会にとって不利益になる可能性はある。論じなきゃいけないのはそこなのに自分達のことしかいわない。例えば、官製ダンピングが社会的に望ましくないロジックを述べて、「似たような構造のある○○はひどいことなってますよ。皆さん困るよね」と。
持続不能であることを示すためには費用構造のデータも必要だ。でも、弁護士出身の立憲民主の議員さんいわく、検証に耐えるエビデンスは集まらなかったと(https://twitter.com/sakurauchikoshi/status/1271933945454551040)。費用のデータは弁護士が協力しないと出てこないんだけどね。挙げ句の果てに、実感で分かるとかか、単純なアンケートでエビデンスになるとか。もう政策形成に口出すんじゃねえよというレベルの弁護士がわんさか。そりゃあ負けるよ。
要は公益性・公共性を主張するくせに結局はそこらの自営業者と同じことしかいわない。それなのに、地元の自営業者を守ろうとするタイプの政治家(つまり利益誘導型)は支持しない素敵な政治センスはそこらの小さな飲食店も真っ青だ。
日弁連のお偉いさんも「この状況で何かしなければ」と社会のことを考えたんだろうね。彼・彼女らはそういった意識はあるよ。ただ、そのツケを被る人には目がいかないというか、自分達は少々自腹切っても大丈夫だからね。崇高ではあるけど人は着いてこない。
良い仕事する人もいっぱいいるけど、このあたりが全くダメな業界。とっととある程度の規模や専門性の高い事務所の人たちが自治を担うようになった方がよいのだろうな。
とにかくコメント見るのが無駄。1万コメに一つくらいは有用なブコメついてる事あるけど、
残りの9999のブコメは、詭弁、自己の快楽のための叩きコメ、同じ事の繰り返し、自己の正当性を言及出来ないから逃げるためにジョーク、のいずれか。
そこに責任や誠実といった観念はないし、専門性もほぼない。もし専門的な言葉を使ってるとしたら、それは他の記事の使いまわしがほとんどで、発言してる本人は無責任な素人。
そもそもタイトルすらまともに読めてるか怪しい奴らのコメントを見るのがどうかしてるって気づけ。
お前は承認欲求が満たされてないからはてなスターなんて下らないものにしがみついてる状態だ。それはTwitterで「RTした人に金配ります!」ってやってるやつも一緒の恥ずかしい行為。
なんでもないただの笑いのためのジョークのためだけに見るなら良いが、それにはノイズが多すぎる。
とにかくより低俗なゴミに塗れて自分も低俗なゴミになってるんだと自覚する事が第一歩だ。お前はまだマシなゴミになれる可能性があるんだから、早くアプリをアンインストールしろ。
好きこそものの上手なれ
これこそが生活するうえでうまく立ち回っていくことだと思う。
初夏の蒸し暑い夜にこんなことを書いているのは、偏に将来への不安に包まれたからである。
というのも、僕はいま大学四年生なのだが、そろそろ将来の事から逃げるのは無理があると考えたからで、高校までの友人を見ていると、結婚したり同居したりまじめに働いていたり、ちゃんと社会に出て適応することができている。その中でも最もすごいと思うのは小学校と高校の友人のTくんだ。彼とは同じ小学校だったが、途中で僕が転校して、高校で再開した。
Tくんは高校では成績はさほど良くなく、がんばって偏差値50程度の情報系の大学に進学した。その後、彼はプログラミングに目覚め、めきめきと実力を伸ばし、みんなもよく知っているし利用している会社のインターンに積極的に参加したりして、立派なエンジニアとして確立した。自分から会社を選ぶことのできる立場にある(と僕は認識してる)。これは好きこそものの上手なれの顕著な例だと思う。彼は楽しそうだ。
僕はといえば……興味のあった数学や物理は全く興味がなくなり(僕の好きなのは数字パズルだった)、ただ自堕落に本を読みゲームをしながら、単位をとりこぼしながら生活してる腑抜けた大学生だ。
興味がないことを勉強するのは苦痛だった。興味がないのだからなんの専門性も身につかず、卒業したらただの肉に意思が宿ったただの人になってしまう。
たとえば料理人や、彫刻家みたいな専門性のある事をガチでやっている人はそれで飯を食っていける(それがとてつもなく険しい道なのは分かるけど)。しかし僕の想像するサラリーマンは、ただの人が、電車に揺られ、会社に行って上から与えられる業務をこなし暗くなったら帰る、という日常を繰り返しているだけのように見える。
何事に興味が湧かず、ずるずると就職していった人は脳裏に陰鬱なものを堆積しながら日々を過ごしていくのだろうか?
サラリーマンになったら、学生だった時代のような、数年単位で環境がかわり、後に期待するということができなくなってくるように思う。たとえば、中高では彼女ができなかったけど、大学ではできたみたいな。だってサラリーマンって約40年もある。のっぺらぼうみたいな移ろいで40年も過ごさなきゃいけないなんて酷だ。
胸を焦がすような恋愛なんてなかなかないし、学生以降はさらに機械が減るだろう。結婚が現実的なのはおよそ30前半までだと思ってる。しかも胸を焦がす恋愛が成就するのなんて一握りだしそれ以降は妥協の恋愛になる。
僕のサラリーマンのイメージは、ツイッターから来ている。だってみんな「満員電車つらい」「朝起きるのつらい」「上司うざい」「飲み会いきたくない」「仕事したくない」「残業いやだ」しかいわないじゃん。
それで、興味のないことを仕事にしてる人がどうやって生きているのかアイデアが欲しい。どうやって仕事に向き合っているのか?
言いたいことの三割も伝わらないし軸がブレブレの説得力のない駄文になった。
要するに、僕は単調増加する幸福の微睡みの夢にずっと浸っていたいということです。
好きなあの子と手をつないで、学校帰りを一緒にあるいて、もどかしさと煩悶に感情を跳ねまわらせる、そんな恋愛は夢なんだなあ。
幸せになりてェ
http://blog.livedoor.jp/tokyolaw/archives/1077404701.html
ネットにおける検察庁法改正案反対運動の動きは目覚ましいものがあり、どうでもいい問題と思っていた私としても意見を変えつつある。世間の状態や政権不信があると、こういう技術的なものに近い話が、特に興味を持たない、何となく怖いと思っているだけの人々をここまで大きく動かせるのだと、率直に恐怖に近い感情を覚えた。専門家からの指摘についても、良いものもあるが、上記の東京法律事務所の記事は法案反対・現政権批判という色が強く、ややバランスを欠いているように見える。
この件については、既にバズっているとんふぃ氏のまとめが比較的中立でわかりやすいが、少し専門性が強く読みづらいかもしれない。ちなみに、別にとんふぃ氏は改正賛成はではなく、どちらかというと反対に近いように見えるが、本当の問題がどこにあるのか、という点から、網羅的・中立的にまとめておられる。
https://note.com/tonfi/n/n95a2265c6273
また、慶應義塾大学大屋雄裕教授のTwitterも参考になる。
https://twitter.com/takehiroohya?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor
こういった良情報があり、注目を集めてもいる状況がありながら、東京法律事務所の記事が分かりやすいと賛同を得る状況を見るに、内容面への理解というよりは、現政権はおかしい!何か危ういことをしようとしている!というスタンス・危機感に合っているかどうかが重要視されるようになっているのではないかと感じている。
こういうときに、上のお二人には到底及ばないが、少しでも落ち着いて考えるように促す投稿が別途あっても良いかもしれない、というのがこの投稿を書いている動機である。
本改正案は、細かいところを捨象すると、①検察官全体の定年を63歳から65歳に引き上げる、②一定の役職については役職としての定年を63歳(現行法の通常の検察官の定年と同じ)にする(=その後は平の検察官に戻る)、③一定の事由がある場合、内閣によって②の役職の定年や①の検察官としての定年を延長することができる、という3段階の制度を設けていることは広く知られていると思う(ただ、ここは、役職等により色々な条項が入り乱れており、ざっくりまとめれていることがほとんどであるため、理解をしにくくしている点かもしれない。)。
このうち、問題視されている③について、私は、特段必要性がないと思っていることが反対の理由である。三権分立というような大上段の話ではない。
①については、公務員全体の定年引上げという中で、そこと揃えるのであるから、特に反対する理由は思いつかない。ここについては、東京法律事務所も問題ないとしているので、特に取り上げない。
②についてであるが、高齢化社会において定年の延長という社会全体の趨勢があるとしても、トップやそれに近い要職に高齢者が就いているという事はあまり好ましいものではないと考えており、私としては問題がないものと考えている。ここも、東京法律事務所の記事で特に反論されていないのでこれ以上は触れない。
③については、例えば民間企業等において、優秀なトップに引き続き職責を務めてもらいたい、というような理由で高齢の方が一般の定年年齢を過ぎた後も働くということは往々にしてあると思われ、規定の趣旨としては理解できるものである。ただ、そのような能力があると言えるかどうかの検証は困難であると思われ、実際には、政治力等々、様々な事情の絡んでくる話になるだろう。とすれば、②の趣旨を貫徹し、一律新しい風を吹き込むべきであるというのが私の見解である。この辺りは、各人に考えの違いがあるのではないか。ただ、それは、定年という制度への考え方についての話であり、三権分立がどうとか、現政権の陰謀というような話にはならないだろうし、これほど世間が大きく盛り上がるような話でもないと考える。
2.三権分立について
何故、私が、今回の件について三権分立と関係しないと考えているかという点だが、これも散々に指摘されているところではあるが、そもそも、現行検察庁法上、「検事総長、次長検事及び各検事長は一級とし、その任免は、内閣が行」うものとされていることから明らかなとおり、内閣に一定役職の任免権があるからである。
最も恣意的な関与を及ぼしやすい場面の一つである任命について内閣にその権限があるのに、定年を伸ばすという「出口」だけを殊更問題視することで、いったいどれほど政権の恣意の排除ができるのだろうか。
この点について、東京法律事務所の記事は「歴代の自民党政権は、検察庁とりわけ前任の検事総長の意見を尊重し、これに介入しないという慣例がありました」として、任命権があるからと言って時の政権の自由にできたわけではないことを挙げているが、まさか、この慣例に反することが違法だという趣旨ではないだろう。そうだとすると、検察庁法の立て付けとして、任命については、精々政権が慣例に配慮することを望むことはあるかもしれないが、内閣に任せても三権分立は維持できるということになっている。ならば、定年延長についても個別事例においてきちんと国民が監視を行い、問題があれば、当該政権への非難を行えば十分であるだろう。余談だが、先述の慣例を無条件に守るべきであると考えているのであれば、昨今(というほど最近でもないが)の司法制度改革を通じ、一種「象牙の塔」と化していた法曹界に国民との間での双方向性を入れてきた流れとは、ずいぶん異なるようにも思う。
結局、この法改正があろうがなかろうが、適正な三権分立の維持のためには国民の不断の監視こそが重要であることは、若干文脈が異なるがとんふぃ氏の指摘するとおりである。三権分立の点から批判するのであれば、せめて、任命についても含めて、より大きな視点からの制度設計を描かない限り、説得的ではないのではないか。
(ここからは全くの邪推だが、定年を伸ばせる程度では大したことはできないだろうという見解に対し、任命の問題と別の大問題だという見方をする方の背後には、桜を見る会やモリカケ、あるいは、それこそ黒川氏の定年延長問題など、様々な問題についての現政権批判が結局は世論に届いてこなかったという無力感や怒りがあるように感じることがある。結局、国民が監視し、意見するということの力は、大したことがないのだと。ただ、本当にそれは大したことがない力しかないのだろうか。)
正直に言えば、黒川氏の定年延長については私の興味の外に近い。既に内閣の見解として、検察庁法に関わらず定年延長可能という解釈が示されている以上、今回の改正と絡めて邪推をするよりも、個別に法解釈上の問題を争うとともに、個別の妥当性についても問題にすべきだろう。事後的に定年延長を正当化するものであり、政権の不当な解釈変更を事後的に承認しかねないものだという見解も多く見られるが、国会において適法に成立した法に則り、適切なプロセスを経て定年延長をすることが仮に可能なのであれば、それはそれで問題が無いのではないか。こういうのもなんだが、そもそも、わいろというのは見える場所でやり取りする物だろうか。丸見えのわいろに従って忖度した判断をする検事総長等々の判断に反抗しないほど個々の検察官は軟弱で、国民は見抜けない程阿呆なのだろうか。
ただ、結局、この問題と絡めたおかしな邪推がしやすいような状況で、改正を推し進めた結果が国民からの不信を高める結果を助長したのは間違いがなく、改正法は成立になっても不成立になっても禍根を残すだろう。非常に悲しく、恐ろしい状態になってしまったなと感じる。
4.今回の反対運動について
まとめであるここの項が、一番言いたいことであり、また、一番の放言であるのだが、Twitterのハッシュタグでの拡散による反対運動が一定の成功を収めたように見えることは、非常に怖いことであると感じた。今回の件について、きゃりーぱみゅぱみゅ氏が炎上してしまったことは大変悲しいことであると思うし、個々人が、自身の理解の中である政治的問題への意見を表明すること自体は悪いことであろうはずもない。ただ、Twitterという短文投稿の場で、ハッシュタグの拡散を行うという安易さは、民主主義の基礎たる議論となじむものなのだろうか。そこにあるのは、何となくの不安や恐怖に対する共感が主であり、相互理解のための議論があるとはどうしても思えないというのが私の意見である。そういった共感による多数を作ることが民主主義なのだとしたら、全体主義はそのすぐ隣にいるのではないだろうか。
同人作品販売サイトで「キャンドルマン」の名前を見かけて、懐かしくなって筆を取る。
(個人の主観・狭い経験での言及なので、適当にツッコミ・補完してください)
もはや追いきれない。
イラストはどれもレベルの高いものが揃っているし、ネタもあの手この手と出してきて、それが結構な期間を続けて今日に至っているので驚きである。
そしてその大半がオリジナルというのも、よく考えたら結構不思議。
アマチュアの声優・シナリオ・ネタで、1本1000円程度。もはやネタ被り上等で作品が出続ける中、それでも販売数は好調。
共通素材を使ってるものは例外として、そのリアルさから「音声の2.5次元」を味わえるとあって、アニメやゲームにはないアドバンテージがある。
■キッカケは催眠音声?
ではブームの始まるはいつだったかと振り返ると、およそ10年前、「キャンドルマン」を含めた催眠音声が流行りだした辺りに行き当たる。
当時はまだ立体音声はなく、RだかLだかのファイル名で左右どちらかを選ぶ様式が多かったと思うが、「催眠」という要素が他では味わえない魅力価値として注目を集めた。導入のお決まりのフレーズやら、ちょっとシュールさの漂う感じは、ネタとしても面白がられていた。
ただ、実際に催眠にかかるかは単純なシナリオの良し悪し以上に専門性が求められ、自分もアレコレ試してはガッカリしたりしなかったりした覚えがある。
そこで没入度を高めるために注目されたのが、立体感のある音声(当時は編集含む?)だった。
セリフを追わなくても、より直感的に催眠にかかりやすくなる点は、技術が進歩していくのを感じて日々ワクワクして新作を覗いていた。
■耳かき音声
前述のように、催眠音声は作るのにスキルが求められるので、「やってみよう」と思ったところでおいそれとは始められない。
一方で、立体的な音声を作る技術は難易度がそこまで高いわけではなく、何か上手く使えないかと目を付けられたのが耳かきである。音声とはいえ、音の振動で直接こちらの体に刺激を与えるという点では画期的なものであり、それがまた気持ちの良いものであったがゆえに癒し効果も得ることができた。
そうして、催眠は一部のサークルがぽつぽつと新作を出す程度だったのに対し、耳かきはあれよあれよという間に広がっていくこととなった。
■認知度の向上
とはいえ、大手の会社やメディアと繋がりがあるわけではない、あくまでネットの一部の盛り上がりだった耳かき音声。
販売サイトで作品を出すだけでは、ここまで周知はされなかったのではないだろうか。
耳かき+エロを絡めたハイクオリティな作品を低価格で提供。「この値段だったらハズレでも・・・」と取っ掛かりを作った。
・とみみさん 2014年~
ニコ動で「耳かき音を作ってみた」をひたすら上げていた方。品質が高く、ボリュームも20~30分ほどあり、当然無料なのだがむしろ金を払わせて欲しいレベル。
耳かきが好きすぎる人。声優になったし、耳かきエロゲを作ったりと、行動的すぎる布教家。初期のニコ動での雑談動画が懐かしい。
自分が同人音声作品に引きずり込まれた要因の人()。最初に聞いた催眠作品で「な〇は」みたいな声に聞こえたせい。ちょいちょい見るテ〇ファのエロアニメの人。同人声優さんもレベル高いんやね。やで。
■おわり
それっぽいこと書こうとして、まとまる前にこんな時間。明日仕事なので筆を置く。
良質な立体癒し音声を求めながらも、数が多すぎて追いきれないのぜ。おススメ教えてください(本題)。
テレワークが普及すると、「クビにするのも簡単」みたいな契約が普及しそうな気がして仕方ない。
あの会社でもテレワークできる、この会社でもテレワークできる、となれば、テレワークしている人材をつなぎ止めるのは無理だからだ。
「誰がいつ居なくなっても何とかなる」という形の業務形態にするしかない。
そして「誰がいつ居なくなっても何とかなる」のなら、正社員として優遇して囲い込む必要性も薄い。
つなぎ止めるのが無理なら、「新卒を正社員として雇って数年かけて一人前に育てる」みたいな人材育成はリスクでしかない。
新卒者であっても「自分が即戦力である」事を企業にアピールできなければ雇ってもらえなくなるのだ。(もしくは専門性が一切不要の単純労働者になるか)
大学の「就職予備校」としての役割が断然強化されるだろう。専門性が新卒からアピールできるような学部でなければ、授業そっちのけで職業訓練になってもおかしくない。
夢じゃないかと思えるような糞みたいな状況での経営お疲れ様です。
その昔、地方で中小企業の経営をお手伝いする仕事をしていました。
過去の分も含め財務諸表を見る機会のあった会社は50社くらいあったと思いますが、
売り上げが半分の状態で経営が1年もつ会社は5社くらいしかありませんでした。
1年もつ内部留保がある事がいいのかどうかは簡単には判断できません。
なのでお手伝いする士業が存在する訳だし外部に依存するのは当然のこと。
しかし、自社の必要利益と資金繰り、変動費固定費の額くらいは把握しておきましょう。
そしてそれが何を意味するのかしっかり考えてください。
本当に自社のことを考えてくれているか、ただのアホのどちらかです。
「保険の適正額」とは経営者が自ら理解して判断するものなので、
去年からフリーになってとある講師をしている。2月後半から仕事はゼロ。5月6日から再開できたとしてもすぐには生徒さんは集まらないと思う。習い事なんて二の次三の次だろう。大体5月6日なんてもう無理っぽい。
フリーが上手くいったので1月に場所も借りた。時間借りだけど3ヶ月分づつの前払い。宣伝にもお金を出した。結局全然稼働しなかった。
挙げ句にフリーが上手くいく中で役に立つであろう別の専門性をつけようと専門学校に入学したので入学金学費もろもろ一括で払ってしまった。PCやらなんやらも新しく揃えた。
タバコも吸わないし、パチンコも行かないし、家飲みだし、混雑するとこも行かないし、実家にも帰らないし、文句も言わずじっとしてるけど鬱々とするだけで何もいい事はない。
不安なことと思う。
既に一般的に、共有されているかと思っていたんだけれど、covid-19については、かかるかかからないかでなくて、かかる人の増加を遅らせるというのが、WHOがパンデミック宣言した4月8日以降の現状だ。
なので、誰もかかりたくはないけれど、感染するリスクを少人数づつ取っていくことになる。引きこもっていてもかかるときはかかる。100%の安全なところはない。リスクに濃淡があるだけだ。
病院での受付事務は、リスクは医師、看護師、に次いで高いかもしれない。おそらく薬剤師よりは高い。ただ、事務系は、発症したときに休んでももらっても、この中では比較的替えが効きやすい。例えば、大学病院だったら、ほかの学部の事務方とかで、病院で事務やったことのある人などがいる。今は休んでいるだろうし。業務独占があるような職種はそうそう補充が効かない。
補充が効くから、いらないというわけではなくて、恐怖に耐えながら働く元増田のような事務方がいなくなれば、医療の負担は集中していく。元増田が、今仕事を続けていることには価値がある。
ホリエモンも言ってたけれど、最も崩壊に近いのは、救急科、ICUで、いうなれば前線。感染症科も専門だけれど、数が少ないので、患者の直接的な管理というよりはコンサルテーションになっているのかな?呼吸器内科が次点。この辺の先生は、専門性も高く、医療の質を保てる。現役。
3番手は以降、covid-19に関しては、現在だと予備役かもしれない。例えば、major内科の循環器内科、消化器内科。透析って、ecmoに近いような気がするので、腎臓内科もはいるかな?。内科の先生は、臓器特異性はあるかもしれないけれど、感染症を日常的にみているはず。
メジャー外科系の先生(呼吸器外科、循環器外科、消化器外科)が4番手かな。だけれど、covid-19の前線に駆り出すとすれば、相当に手術数をしぼってもらう必要性があるから、covid-19以外の死亡率が上がるかも。
5番手にマイナー科(皮膚科、眼科)など。あんまり、重症の人の呼吸・循環管理はやらなくなっているだろうから、治療の質は下がる。
もっとも遠いのが精神科だけど、精神科は精神科で主戦場は総合病院でなく、単科の精神科病院で、単科の精神科病院で感染者が出たら、すぐに崩壊する。
初期研修制度が始まって10数年になるので、マイナー科でも中堅くらいの先生までなら、一昔前に人工呼吸器の管理を何例か経験しているはず。中堅以上の先生だと、やったことない人もいるかもしれない。
看護師の体制は詳しくないけれど、結構な数の潜在人員がいるだろうと思う。危機が迫ったときにどのくらい戻ってきてくれるかわからないけれど。
私はマイナー系の医師で大学病院の片隅で働いている。ちなみに、3月末からマスクは週に1枚と言われていたけど、最近は内側にガーゼを置いて、それを取り換えることで半永久的に使うことが推奨されている。それでいいかどうかはわからない。
このエントリーの趣旨は、大変な人もいるのだからボス・リーダーに文句を言うなということではない。批判が許されない社会は健康じゃない。一方で、批判者が正解なのか、リーダーが正義なのか、それは未来の歴史ならないとわからないし、歴史すら修正されるかもしれない。批判もするけれど、社会的には統制の取れた行動を心掛けたいと、個人的には思う。