はてなキーワード: 学問とは
不思議でならない。
たとえば、存命最強の数学者の一人に確実に名前が挙がるだろうピエール・ドリーニュは、ベルギーとかいう公用語すら統一されとらんド後進国出身だが、18歳で既に大学数学をマスターし、26歳でフランスIHESの教授に就いた大天才だ。
こういう少なくとも日本よりは教育水準の低いだろう国で、数学みたいな学問を自主的に勉強したがって、しかも才能を開花させる人材が現れるのだから、日本にはもっといてもよさそうなものだ。
アメリカの大学に飛び級で入学するような奴は勿論、物心ついた頃には自分の専門分野が大好きになってて、自主的に大学レベルのことまで勉強している。
一方、日本に目を向けると、そういう人はほとんどいない。たとえば、東大の河東泰之先生によれば、麻布みたいな超有名進学校でも、中学生で大学専門レベルの数学書を読んでると変人扱いされるらしい。
この違いはどこから来るのか?
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日本学術会議が推薦した第 25 期会員候補者 105 名のうち、6名が菅総理によって任命されなかったことについて、
明確な理由説明はなく、説明の要求を斥けることは学問の自由の理念に反すると同時に、民主主義に敵対するものであり、
これに断固として異議を唱えます。
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《説明しないこと》こそが民主主義に反する権力の行使(国民に対する暴力)であり、主権者である国民に説明責任を果たすことが
情報公開の制度は古代ローマの時代イタリアの地で芽生えました。イタリア学会としてこれを看過することはできません。
必ず説明責任が果たされることをイタリア学会の総意として要望致します。
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イタリア学会は「日本におけるイタリア学の発展と普及に寄与することを目的としている。」(イタリア学会会則第 3 条)
イタリア学を通じて学び得た知見を社会活動に適用することは、学会の目的に適う実践的行為と判断し、
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菅首相は「(学術会議の会員は)広い視野を持ち、バランスの取れた行動を行ない、国の予算を投じる機関として国民に
理解されるべき存在であるべき」だと述べた。これをテキスト解釈にかけると「国の税金を使っている以上、国家公務員の
一員として、政権を批判してはならない」という意味になる。ここには 2 つの大きな誤謬が隠されている。
学問は国家に従属する《しもべ》でなければならないという誤った学問観であり、国家からお金をもらっている以上、
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学問は、国家や時の権力を超越した真理の探求であり、人類に資するものである。与党に資するものだけを学問研究と
みなすことは大きな誤りである。学問研究によって得られる利益は人類全体に寄与するものでなければならず、
判りやすい例を挙げれば、日本は西洋から数学や物理・化学を始め、あらゆる分野で多大な恩恵を無償で受けた。
万有引力定数や相対性理論を発見したのは日本人ではない。その恩恵と利益を受けながら、その使用料は払っていない。
なぜなら学問成果は全人類の共通善として無償で開放されているからである。
日本国には受けた恩恵を人類に返すべき義務があることは言うまでもない。
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国からお金をもらっている以上、政権批判をしてはならない」というのは手前勝手な考え方である。
公務員は政権の《しもべ》ではないからである。公務員は国民全員の利益のために働く。
政権が間違った判断をすれば、それを国民のために批判することは、むしろ公務員の義務である。
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古代の中国では臣下が君主に行ないを改めるよう諫言することは褒むべき行為とされた。
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翻ってイタリアの地、古代ローマの時代には、時の政権の勝手な振る舞いから国民を守るための公的機関である
護民官が設置されていた。現代の公務員に匹敵する護民官は、時の権力を批判・牽制するために作られた
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次に、菅首相は憲法 23 条が保障している「学問の自由」の意味を理解していない。「学問の自由の保障とは、
学者が学問的良心に従って行なった言動の評価は、まずは学者どうしの討論に委ね、最終的には歴史の判断に委ねるべきであり、
間違っても《時の権力者》が介入すべきではない、ということである。」(小林節慶應義塾大学法学部名誉教授)
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1632 年ガリレオ・ガリレイが『天文対話』を完成させた時、ローマ教会は検閲を行ない、教皇ウルバーヌス 8 世と
ガリレオはローマの異端審問所で証言するよう出廷を命じられ、翌年、6 ヶ月にわたる裁判を受けさせられた。
ガリレオは自分の誤りを認めさせられ、異端審問官の前で研究を放棄するよう宣誓させられた。
そしてフィレンツェ近郊で残りの 9 年の生涯を軟禁状態で過ごすことになる。
教会の決定に疑義を挟むことなどあってはならず、時の権力に反する主張は時の権力の判断によって封殺された。
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「今回、菅首相は、特定の学者の言動について《広い視野を持っているか》《バランスの取れた行動であるか》
について自分の権限で判断した」と告白し、その結果、《国の予算を投じる機関(の構成員)として国民に理解され
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問題は、仮に菅氏が高い実績のある学者であったとしても、同時に、《首相》という権力者の地位にある間は、
そのような判断を下す《資格》が憲法により禁じられているという自覚がないことなのである。
にもかかわらず、高い実績の学者たちが全国から会議に集まるために 1 人につき月 2 万円余の交通費を用意する程度の
ことを逆手にとって学術会議に介入しようとするとは、《選挙に勝った者には何でも従え》という、政治権力者の思い上がり以外の
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私たちが最も問題とするのは、《説明がない》ことである。憲法 63 条は「答弁または説明のため出席を求められた時は、
国会に出席しなければならない」と義務付けている。この趣旨について政府は「首相らには答弁し、説明する義務がある」(1975 年の内閣法制局長官)
と見解を示している。
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しかし、菅首相は官房長官時代から記者会見で「指摘はまったくあたらない」と木で鼻を括った答弁を繰り返して憲法を無視してきた。
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世界で初めて情報公開制度を始めたのはイタリアである。「執政官に就任して(前 59 年)、まずカエサルが決めたことは、
元老院議事録と国民日報を編集し、公開する制度であった。」(スエートーニウス『ローマ皇帝伝』第1 巻「カエサル」20)
それまで国民は元老院でどんな議論を、誰がしているか知る術もなかった。
議員が私利私欲で談合を行なっても、知る由もなかったが、議事録が速記され、清書されて、国民に公開されるようになったおかげで、
貴族の権力は大いに削がれた。隠れての不正ができなくなったからである。
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一方、その時代から 2000 年以上経った今の日本では、安倍政権下で情報は秘匿され、文書は改竄・捏造、削除され続けてきた。
確かに、日本では民草に説明をするなどという伝統も習慣もなかった。江戸城で開かれる老中会義の内容が知らされることもなければ、
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おそらく安倍・菅首相が目指す世界はこうした江戸時代のものなのであろう。人事で恫喝して従わせる手法は、一種の《暴力》とみなされる。
紀元前 5 世紀のアイスキュロスの作品『縛られたプロメーテウス』には権力の何たるかが活写されている。
この劇は二人の登場人物がプロメーテウスを連行する場面から始まる。
プロメーテウスは絶対君主であるゼウスの意向に逆らって、天上の火を盗み、人類に与えたために、
暴君ゼウスから罰を受けて、スキュティアーの岩壁に磔にされる。
この時、彼を連行する 2 人の登場人物の名前に作者の意図が巧みに織り込まれている。
二人は Kra/toj(クラトス)と Bi/a(ビアー)という名だが、ビアーの方は劇中で一言も言葉を発しない。
ギリシャ語でクラトスは「権力」を、ビアーは「暴力」を意味する。無言の暴力を用いて他者を従わせるのが権力であるという寓意である。
ギリシャ語のビアーやイタリア語の violenzaは単に武力による物理的な暴力だけではなく、圧力や強制を意味する。
ビアーのように《説明しない》ことが権力(クラトス)なのである。
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同じく、カフカの『審判』では主人公ヨーゼフ・K は、ある日見知らぬ 2 人の男の訪問を受け、何の理由も告げられず、逮捕される
(この 2 人の男はまさに「クラトス」と「ビアー」を暗示している)。
その後、何の説明もなしに、有罪とされ、「犬のように」処刑される。この小説でも《説明しない》ことが権力であるとして描かれているが、
ソルジェニーツィンの『収容所群島』にはまさに何の《説明もなしに》逮捕され、強制収容所に連行される日常が記録されている。
逮捕するのは決まって深夜である。深夜に訪れることで逮捕者を恐怖させる効果を狙ってのことだが、
また同時に、近隣住民が翌朝、隣人が忽然といなくなったことを知って恐懼するよう仕向けるためでもある。
これが不安をかき立て、恐怖を蔓延させる。いつ自分が逮捕されるか人々は戦々恐々とし怯えるようになる。これによって国民は心理的に権力によって完全に支配される。
つまり、《説明しない》ことこそが権力の行使であり、国民を無力化させる手法なのである。こうして国民は恐怖と不安から権力に従うようになる。
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こうした事例からも民主主義がいかに「説明すること」にかかっているかが判る。
説明と情報公開が民主主義を支える命であり、それを破壊する手段は《説明しないこと》、《情報を秘匿する》ことなのである。
たかが 6 人が任命されなかっただけで、ガリレオを持ち出すのは大げさであり、学者はそうした政治的な喧噪から離れて研究をしていれば、好いではないかと思う人がいるかもしれない。
ましてや一部の学者の話であり、自分たちには何の関係もないと思っているかも知れない。
しかし、問題の本質は、時の権力が「何が正しく、何が間違っているかを決めている」点において、ガリレオ裁判と変わりない。
科学分野の基礎研究の予算は削られ続ける一方で、軍事研究には潤沢な傾斜配分がなされる今の日本にあって、
また軍事研究に手を染めない学術会議の方針を苦々しく思う自民党政権においては、杞憂で終わらないことを心得ておく必要がある。
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実際、すでに文科省は今月17日に行われる中曽根元首相の内閣・自民党合同葬義において弔旗を掲揚し、葬儀中に黙禱するよう、
国立大学や都道府県教育委員会、日本私立学校振興・共済事業団、公立学校共済組合などに通知を送っている。
国民全体の奉仕者である公務員を、自民党のための奉仕者に変えようとする暴挙は許されない。
かつて次のように臍をかんだマルティン・ニーメラーの轍を踏まないためである。
(文責:藤谷道夫)
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ナチスが最初、共産主義者を攻撃した時、私は声を上げなかった。
私は声を上げなかった。
私は声を上げなかった。
ユダヤ人が連れ去られた時、
私は声を上げなかった。
そして彼らが私を攻撃した時、
私のために声を上げてくれる者は誰一人残っていなかった。
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通常の娯楽に加えて、(古代)ローマ人の労苦に満ちた厳しい生活を陽気なものにしてくれるものに、
凱旋式があった。
(中略)民衆は大喜びで拍手喝采していた。だが、部下の兵士たちから将軍に向けて罵詈雑言を浴びせる習わしがあった。
将軍の弱みや欠点、愚行の数々を公衆の面前であげつらうのである。将軍が高慢にものぼせ上って、
自分を無誤謬の神(絶対に正しい偉い人間)だと思い込んだりしないようにするためである。
例えば、カエサルには、部下たちがこう叫び立てていた。「禿げ頭の大将よ、他人の奥さんたちを物色してんじゃねぇぞ!
あんたは商売女(淫売女たちで)で我慢してりゃいいんだ!」1現代の独裁者たちに対しても同じように言うことが
できたならば、きっと民主主義にとって怖いものは何もなくなるだろう。
(Indro Montanelli, Storia di Roma, Rizzoli, Milano, 1969, pp. 141-142)
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「犬儒派(キュニコス派)のディオゲネース(前 400/4 頃-325/3 頃)は、
《何でも言えることだ(言論の自由 parrhsi/a パッレーシア)》と答えた。」
https://anond.hatelabo.jp/20201026003439
何度かこの手の機会の格差に関する記事を読んできたが、今回のエントリーもなかなか心にくるものがあった。
格差の是正とか機会の均等のためにどうするべき、みたいな難しい話はここではしないことにして、ただただ感想を垂れ流してみる。
簡単に自己紹介をすると、自分は上記エントリでいう恵まれた側の人間である。
東京都で育ち、小中高と私立に通い、塾は幼稚園である5才から大学受験までの13年間通っていた。
小学校受験、中学校受験を経て中高一貫に進学し、周囲の大半が東大にいく環境で自分もそのレールに乗り東大へ進学している。
ただ、お恥ずかしいことに、大学に入るまで自分が特段恵まれている人間だという認識は全くなかった。
むしろ自分の家は両親が地方出身で比較的貧しい家庭で生まれ育ち、親が借金などに追われながら生きてきたような人なので、周りの環境においては貧しい方に分類されてしまっていた。
小学校で私立に通うような人はかなりお金持ちが多いので、別荘を皆持っている中で自分の家だけ別荘がない、などといったことで疎外感を感じて悩んでいたりもした。
今考えるととても異常なことなのだが、当時は本気で自分が貧乏だと思っていた。
学生のうちはせいぜい狭いコミュニティに生きているので、周りと比較してしまう。
はじめてこの格差の問題に気づいたのは大学に入ってからだった。
クラスやサークルに塾の友人や中高の同期がいて、新歓などでも最初の挨拶では出身高校の話になる。
お互い名の通った中高一貫校出身であることが多いので出身校の話をすれば大抵共通の友人の話などで盛り上がることができるので当然のようにその話をしていた。
ただ大学に入って仲良くなった人の中に全くしらない高校から入学してきている人がいた。
話をきくと地元には塾などが全くなく、強いて言えばくもんがあっただけ、模試も受けたことがないと言っていた。
正直自分にはそんな状況でどうやって東大に合格できるのか理解ができなかった。むしろ自分は学校の授業は当てにならないので全て寝て塾に全振りしていたくらいである。
彼は学問を愛していたし、とても頭がよかった。
勉強する環境が整っていて親から「勉強しろ」と言われる毎日の中で、勉強が本当に嫌いで仕方なくやらされている感じで勉強をしてきた、東大に入っても学問にまったく興味を持てない自分を呪った。
心のそこから自分の代わりにこういった人に東大で学問をしてほしいと願った。
東大は国内にそれ以上の大学が実質的にないと言っていいので、学内のレベル差は最も大きいのではないかと思っている。
入学してすぐ、もっと学問が好きな人、地頭がいい人はたくさんいる、自分は最底辺であるということを悟った。
お金と環境でなあなあで入学したのはいいが、自分は要領がいいだけでなにもすごくなかったのだと自覚せざるをえなかった。
格差を知り、自分の立ち位置を理解して以降、恵まれている側のコンプレックスのようなものが芽生えてしまい、外で初めて会う人などに「東大生なんだすごい!」と言われるのがとてもつらくなった。
ただ、東大に落ちている人がたくさんいる中で自分は環境のおかげでここにいる、決して頭が良いわけではないと言っても嫌味にしかならないので、当たり障りのない謙遜をすることしかできない。
ただ、ここでは自分よりもっと東大で学問をするべきだが、そのチャンスすら得ることができない人がたくさんいる事実を噛みしめたい。
最近では恵まれた環境に育ったからには努力を怠ってはいけない、社会に還元しなければならない、という認識を持っているし、周りもその想いで似たような環境から激務の公務員などになろうとしている人や事業を起こしている人が多くいる。それが自分たちにできる精一杯だと思っている。
とりとめもなく書いてしまったので結論はないのだが、皆がチャンスをえられるような社会を目指して、微力ながら行動していきたい。
親がまともであることは,ほかの何よりも幸運なことだと自覚されたほうがよい。
おそらく,自分が親に恵まれていることはわかってはいるだろうが,それでも総合的に判断して自分は恵まれていないと感じているとすれば,それは高望みというものだ。
自分は南のグリーンランド県の出身だが,バスなどを乗り継がない範囲に1つでも高校がある時点で,おそらく増田の方がやや都会の生まれといっていいだろう。
自分も,勉強ができる子は馬鹿にされがちな地域で生まれ,公立高校に進み,予備校などには通わず大学受験をどうにかした。
ただ,自分が恵まれていた点として,うちの両親は大卒で,おそらく元増田の親よりもさらに少し学問に理解があった。
おそらく,努力も元増田以上にしてきたとは思うが,それはあまり本題には関係がないだろう。努力ができるかどうかも,環境に負うところがかなり大きい。
元増田は東京の人間と自分を比較するときに,なぜか当たり前のように東大や慶応などの(学歴的に)上澄みの人間と比較しているが,もちろん彼らは東京では当たり前の境遇というわけではない。
自分が田舎で比較的ましな親にあたったから,仮に東京に生まれても東京の中でましな方の親にあたるのでは,というのは,都合の良すぎる仮定というものだ。
単に都合の良い妄想がしたいのであれば,東京でかつ教育に理解のある親の元に生まれたい,などと中途半端なことは言わず,ビルゲイツの子に生まれたいとでも考えたほうがすっきりするだろう。
東大で多数派を占めているのは関東の進学校の子で,そこに地域差があるのは確かだが,田舎の出身の人間は少数派とはいえまれとは言えないほどには多い。
それ以上に大きな環境の偏りというのは,やはり親だ。自分が多少なり相手の背景を知れる程度に会話をした東大生で,親が学問か学歴に価値を見出していないという者は,一人しかいなかった。
結局のところ,都会に生まれたところで,親がまともでなければ人生は相当厳しくなる。
地域格差は確かに存在する。自分もその点では大いに苦労してきたし,都会の人間をうらやむ気持ちは大いにある。
ただ,都会の人間もそのほとんどは総合的には自分より恵まれていない環境にあるのだとも思っている。うちの親ほどまともな親はあまりいないので。
元増田も,その点はもっと重く考えたほうが良い。あくまで文の印象のみから判断だが,あなたの親は客観的に見て相当に「当たり」で,ほかの不遇を補って余りあるものだ。
最後に,元増田は「都会は田舎を見捨てている」と考えているようだが,それは端的に言って完全な誤りだ。
東京は,おぞましいほどに出生率が低い。東京のみでは人口の再生産はまったく成立していない。
元増田のように優秀な人材を田舎から引きずり出すことを前提として存在しているのが,東京という都市だ。
都会は田舎を見捨ててはいない。まだまだ田舎から搾取する気満々だ。
あんな田舎搾取されちまえという気持ちと望郷の念が,自分には半々ある。
全くその演算の概念が解らないうちに実際のケースと対応付けて理解すれば理解が進むのはその通りだと思うけど、
実際のケースをどの程度抽象化したものが本人の理解を助けるかは、本人の頭の中でどの程度その演算に関する事例が抽象化されているかによるから、
一概にどれが教え方として正解とは言えないと思う。
算数は知らないが、数学は形式学問(現実世界とは何ら関係のないところで、仮定とルールだけ決めて進めていく遊びみたいなもの)だから、
現実世界では適用できない説明だから教え方として間違っている、というような見方は非常に害があると思う。
数学の成果の中で、現実世界の説明に役に立つものもあれば、立たないものもある、その程度の立場の学問だと思う。
微積分やりはじめたら無限小で割ってその極限を求めるというような操作が出てくるけど、どう頑張っても現実世界では適用できないしね。
数学的ゾンビだとかなんとかで話題になってたけど、皆何の話をしているんだろうって感じ。
割り算(除法)の数学上の定義は、掛け算(乗法)の逆演算だ。それでしかない。
何々を何個ずつに分けるとか、何が何から何回引けるとか、そういうのは定義ではない。解釈(意味付け)のひとつだ。
ここはなぜ誰もはっきりさせないのだろう?
そして、数学は抽象を扱う学問だという言葉を敷衍しすぎて、二種類の勘違いをしている人がいる。
一種類目は、最終的には抽象化された世界での操作さえ熟達すればいいとして、意味付けどころか定義の理解すら不要とする勘違い。
抽象的な世界は抽象的な世界のまま、定義や定理などの言わんとすることを、身に染みて理解できるようにならなければいけない。
割り算の例で言えば、上で言う、掛け算の逆演算という部分をだ。
二種類目は、数学は抽象的な概念だけに興味があるという勘違いだ。
数学は抽象世界の学問でありながら、同時に、「抽象化」の学問である。
物理的な現象を記述するためのツールとして発達した数学が、数学それ自体の抽象的な世界を築き、その結果が経済学や情報工学などにも適用されうる。
このどれもが数学であり、そういう風に力を発揮できるのが、数学だけが唯一持っている力なのだ。
だから、抽象的な操作に事物的な意味付けをする、解釈・具体化をするというのも、立派な数学の一側面であり、不要と切り捨てるものではない。
これを踏まえて、元記事で「数学的ゾンビ」と称されている「意味が分からず問題だけが解ける状態」、つまり、
「抽象世界における定義の実感的な理解も、その事物世界への意味付けも習得しておらず、ただ記号的操作だけが習熟している状態」
キリスト教圏にキリスト教をおちょくるなんて発想自体ないと思うよ
↓ フロリダ教育委員「私は、どの学校でも事実として教えられている進化論をまったく支持しません。」
http://www.flascience.org/?p=3494
フランス人は「教会離れ」がすごいらしいが風刺画ならばともかくそれ以外のところで公然とやらかすとかあるのかな?
学術会議の任命外しの件でも、西田氏とか細谷氏とかキムカン氏とかメディア製の批判に乗らなかった学者も多数いて、皆法的にはアウトだと思ってるだろうが、共通するのは「論点そこじゃねーよ」てことでしょ。
政治と学問の関係において、学術会議の人選というのは優先順位の低い問題だと。キムカン氏とか、普段から大学行政については口を極めて批判されている人がだよ。
政府が逃げてるのは事実だけど、論点ずらしじゃないんだ、論点はずれてるの。
その説明責任とやらの論点自体に、それ政治的リソースを費やしてまでやるべきことなの?て疑問符がついてるのよ。
任命外しの理由を政府が言わない一方で、そもそも会議内で現会員が候補を推薦するという選出方法が多様性を全く保証しないのに、当初は(今でもか)「学問の自由の侵害」という的外れな理路による批判が行われたことが、前述の人たちをはじめ脱力させた原因でもある。
ちなみに、成人向け・萌え系での作品選びの質をたかーく保つ方法はね…
「女の子にみずみずしさを感じるかどうか」
です。
かわいいとか、キラキラとか…そこをつき抜けて「みずみずしく」女の子を描けるマンガ家さんにハズレはないです。
…多分、言ってもわかんないと思うけど。
「みずみずしい」
じゃわからん人のために言うと…
同性だとオドオドしてたらムカつくし、調子に乗ってるとウザいけど…感情が顔やしぐさに出て、独自のマンガ表現にまで落とし込めてる人の作品って最高なんです。
それがいい作品かと
結局、大人の人間が、異性や自分の子を好きになった時に何が起こるって
「同性や関係ない人がやったらウザいこともどこかかわいく見える(または「許せる人間でありたい」と望む)」
こと。
成人向けや萌え系で、二次元の女の子にそこまでの感情が湧いたら…それって立派な恋だから作品としてすごい
成人向けと萌え系の、いい作品の条件を哲学や学問にならないギリギリの一番難しい(けど、的確な)言い方したら多分こうです。
ぼくは、学歴社会上はバカだから、心理学や哲学でこれをなんと言うのかはしらんけど、オタクとして作品選んで紹介するならこの視点ぐらい持とうね…って感じ
とはいえ、結局は面白い物を選ぶ、面白いことをやるってセンスだからなぁ。
生き字引きみたいに作品読んだ人がただのデータベースでずれてたり、
いい絵をかく人が俺よりもオタク知識や性的経験がないどころか、立場が全然違ったり。
結局この分野は才能ですよ。ないやつはないし、あるやつは青天井
小さい時から異様に嫉妬深かった。小中高と朝礼で誰かが褒められるのが辛くて辛くて、立ち眩みしたくてたまらなかったが体はいたって健康だったので無理でとてもつらかった。
今も知らんおっさんとかが理解すらできない功績でよくわからない賞とかとってても辛い。とてもつらい。
小さい頃はすごく優秀だったとか、逆におちこぼれだったとかそういうことは特にない。いじめられてもいないし、いじめても(たぶん)いないと思う。親にも別に否定されずなるべく褒められつつも適度に叱られるなどして愛情をかけられて育てられたと思う。
ちなみに二人兄弟がいる環境で育ち、他はまともに育っているし彼らに教育環境について尋ねても「お前だけ厳しかったとか甘かったとかは別にないと思う」と言われている。兄弟仲も特段悪くなく、すごく仲良しではないが喧嘩になるとか会話が続かないとかはないし、他人行儀というほどでもない。甥姪と遊んだりもする。一人とはタイプが違いすぎるので世間話しかしないが、もう一人とは趣味が合うのでその話などもする。成育歴を思い返してみても、兄妹ばかり構われてた自分だけ干渉されたとかそういう思いでもなく、平等だったと思う。家庭環境も年収一千万の父と専業主婦を頑張ってくれてる母で、両親の中もよく教育費もこちらが頼んだぶんはすべて出して貰えた。教育についてさして不満もない。
ネットで同じような人がいないか探したら、皆、恋愛のことばかりで自分のとはなんか違う。たまに仕事や学問で自分より上の同僚がいて劣等感で辛い…みたいなのを見つけるが、それは特定の人や業界内だけでの感情らしいので自分の汎用な嫉妬とは違うような気がする。
ビビりなのでアンチスレに書き込んだりSNSに悪口を書いたりしたことはない。それは理性云々というより、嫉妬している時間とてもつらいので見ないようにしたいというのが本音だからアンチスレにいるの自体がつらい。アンチ活動してスッキリもできない。
単に性格が悪いだけだと思っていたが、本音が渦巻いているはずのネットでも自分みたいなのを見たことが無い。似たような感じの人がいたら教えてくれると嬉しいです。