はてなキーワード: 大義名分とは
道新の報告書は「責任逃れが滲んでいる」 記者逮捕めぐり新聞労連が声明|弁護士ドットコムニュース https://www.bengo4.com/c_1009/n_13285/
「北海道新聞は社内調査報告で、記者が指示を受けた経緯について「電話や無料通信アプリのLINE(ライン)で複数のやりとりがあったため、キャップがこの指示を出したのか、別の記者なのか、はっきりしません」とし、」
そっか、会社組織として発信者が特定できない形で記者に取材指示を出していた、と。
「「業務命令に基づき遂行されていた業務についての責任は原則として会社にあります」とし、「情報共有や指示の不徹底、新人記者を単独で立ち入り取材させたことなどの『全責任は会社にある』と明確に示すべき」、「現場に責任があると言わんばかり」と指摘した。」
「「法を侵してまで取材するのはおかしい」という批判に対しては、「重要な取材対象である限り、取材を拒否されても対象に可能な限り迫ることは新聞記者の常であり、場合によっては使命であるはず」とし、「『施設管理権』を根拠として記者が公的機関に立ち入ることができないということが一般化してしまえば、取材の自由、報道の自由は形骸化し、それにより犠牲となるのは国民の知る権利です」と訴えた。」
ほうほう、新聞労連としては
この大義名分で新聞関係業種に関係していない市民を含めてて民意を代表している、と。
それは「おごり」と言うものでは?
そいつは一つの国語表現に固執するあまり、不特定多数に自説を吹聴して回り、
あまつさえ特定の国語学者のアンチまで務めるという壊れっぷりであった。
流石に目に余るのでそいつのプロフィールを見たところ「発達障害」という文字列が入っていた、
ああそういうことね、と冷たくレスを返してみると、案の定相手がいきり立ったものである。
ひたすら自説の正当性と大義名分を主張しヒートアップしていく一方、
私はそれを見て、かわいそうなやつだなと思った一方、
「なんのためにこいつは発達障害を自称しているのか」と思ったものである。
自分も素人なので詳しいことは知らんが、ネットでちょっと調べた限りでは、
「発達障害はどうでもいいことに固執する傾向がある」というような話があった。
(下手に曲解するといけないので、そういうふわふわした理解にとどめておく。)
その性質を自覚しているなら、そうなっていると指摘された時に、
「すまんな」「ええんやで」とならなくては意味がないのではないか。
逆に言えば、それができないのが発達障害なのかもしれんが。
いずれにしろ、彼が発達障害と診断された意味が微塵も感じられなかったのである。
そういえばもう一つ、「病気の診断」に関して思うことがあった。
一昔前に「新型うつ」という概念が流行ったころ、それを否定する風潮が強かった。
お茶の間にとって「うつ」とは「常に気分が落ち込んでいるべきもの」という偏見があった時代で、
(あるいは今もそう変わってはいないのかもしれないが、少なくともメディアの扱い方は違う気もする)
「やるべきことに直面すると落ち込む、解放されると嘘みたいに明るくなる」という新型うつを見て、
「甘え」や「仮病」の二文字が頭に浮かぶ人は少なくなかったであろうと思われる。
その様子を見ていた自分は当時まだ子供であったが、子供なりにその風潮を憂えたものであった。
いざ自身が大人になってみると、うつ病の人が周囲にちらほら出てくるようになる。
私の交友関係はだいぶ狭いほうだが、それでもあんな人やこんな人がカウンセリングを受けている。
仕事で心を破壊された気の毒な人もいれば、体育大学に通いながら精神を病んでしまった人もいる。
健全な精神は健全な肉体に宿れかし。そう思わずにはいられない。
無知の知ではないが、うつ病とはわからぬものだなという事だけがわかってくる一方、
彼らが日々己の心身と闘っている様子が切実に見えてくるものである。
しかしながら、うつ病患者だからといって100%同情されるわけでもない。
知人のとあるうつ病患者は、日々の体調管理すら苦労している様子が見て取れる一方、
もともと愚痴が多いうえに「かわいそうな自分」に酔うタイプであった。
それを日々聞かされる周囲の人はだんだんと耐えられなくなり、距離を置くようになってしまっていた。
うつ病であることそのものではなく、自分に酔うことを苦々しく見られていたのである。
子供のころから見ていた自分は「こいつ病気なんじゃね」と思っていた。
私が大人になるにつれて傾向は見えてくるようになり、
どうやら忙しいだとか面倒なことが控えると機嫌が悪くなり、
思うようにならないことがあると、それをしばらく引きずる形でまた機嫌が悪くなるようであった。
頼れるものに頼ろうとしても結局文句ばかりで一向に楽になろうとせず、
そうして忙しくなるとまた機嫌が悪くなるというマッチポンプばかりをしていた。
ネットを通して「そういう人もいる」という知見を得て、そういう人なら仕方ないなと思っていた矢先、
本人からうつ病であると打ち明けられたのである。診断書を見せられるでもなく。
そのとき私が抱いた感情は「かわいそう」とか「お気の毒」ではなく、
申し訳ないが「それ見たことか」「何を今更」「で?これからどうする?」という気持ちであり、
正直言って同情は一切わかなかったものであった。
なぜなら自らを病に落とし込んでいるようにしか見えなかったからである。
近年は様々な病気、あるいはナントカ症というものが多数生まれてきている。
先日某ラジオでも取り上げられていたが、とくに恐怖症になると枚挙にいとまがない。
「お酒恐怖症でーす!なぜなら目の前にあったら飲んじゃうから!違うかw」という投稿には個人的にムカついたが、
ほとんどは「落ち着きをなくす」「立っていられなくなる」のような割と切実な訴えであったし、
自身の友人知人からもそういう話は聞いたり、あるいは付き合ってきたものである。
そうした新たな病気やらなにやらというものの周知が試みられているのもまた現代であるが、
じゃあすべて見て聞いて覚えられるかと言えば、そんな余裕は多忙な一個人にはないし、
公の場で突然異変を起こした人を「あ!これネットで見たやつだ!」と100%適切に助けられる自信もない。
ましてや「病気」認定が差別的なものになりうることは過去も現代も同じであり、
無垢なマイノリティの方々が切実な訴えをなさっては、様々な人間が入り乱れて大騒ぎになるところである。
では「病気」という診断は何のために存在するのか?百害あって一利なしなのか?
私はそうは思わない、というか、「病気」だけが特別である必要がないと思う。
彼はかなり前に、声帯ポリープが発見されたことがあったらしい。
声を出すお仕事の人にとっては特に厄介な病気であり、切除をしてしばらくお休みをいただくのが常である。
しかし彼は「付き合っていけば味になる」と割り切り、手術をしなかったというのである。
そのせいもあってか度々喉の不調で活動休止ということもあったようなのだが、
2011年の時には「プロとして情けない」とツイートした履歴もある。
身体と心の不調では話が違う、と言われるかもしれない。
しかしながら私が言いたいのは、彼はある種の病を「個性」として受け入れたということである。
病気とまでは言われないものや、単なる性格に過ぎないものも細分化されつつあるように感じる。
「あなたはこだわり屋さんです」とか「あなたはネガティブです」とか言われても、
それは正式な病気や障碍ではないし、なんらかの公的な援助が受けられるわけでもない。
あるいは病気や障碍とまでは言い切れない「グレーゾーン」なるものも存在するようである。
そういう「個性」が明らかになったときに、自分はどうするのか?
自分がその個性とどう「付き合ってい」くか考えていくべきなのではないか?
もちろん病気や障碍には「どうにもならない」「仕方がない」部分はあるし、それに伴う人並み以上の苦労もある。
自身の身体をコントロールできない病なら、どんなに偉そうにして厚かましい要求をしてもいいのか?
自身の精神をコントロールできない病なら、コントロールを諦めて好き勝手罵詈雑言を吐いてもいいのか?
一般人にとっては、大義名分があるから批判することは難しい。でも人として嫌な思いはする。
そうして直言を受けることなく、一部の優しい人に甘やかされ続け、他の人からは疎まれ、
傍若無人にしてある種の孤独なモンスター、言い換えれば「裸の王様」が生まれる。
とくにマイノリティにおける過激派は、どいつもこいつもこうなってはいまいか?
大学の授業に通えていない現状を憂えてのことであったと思われる。
当時の自分は「怠けているだけなのに病院に行かせてくださいだなんて…」と、
今思うと「たとえ病気でなくても」医者にかかったほうがよかったのではないかと思っている。
結局二度と機会は訪れなかった私であるが、
大学生時代におけるリアルとネットの交流を通じて多くのことを学び、
時には大きなトラブルを起こして教訓を肝に銘じ、
また時には友人からの諫言も受けつつ自分を自分なりに成長させることができた。
かつては絵に描いたような「メンヘラ」だった私も、
今では精神疾患を冷静に分析し、自身を客観的に見られるようになり始めた、と思う。
そうか?と思われるかもしれないが、少なくとも昔よりはマシである。
なぜなら今思い返すと「昔の自分」が恥ずかしくて仕方ないからである。
未だに昔の自分に同情する部分もないわけではないが、
一方で人の振り見て我が振り直すことも多くなった。
それだけ人の、自身の「醜さ」というものをより理解できるようになったのである。
自身の気分の落ち込みも「これは見苦しいな」「こうすればおさまる」と自己分析し、
専門家によらないセルフコントロールを自分なりに築き上げてきた。
そんな自分から見ると、コントロールそのものを放棄している人が理解できないのである。
現代は科学と西洋医学の時代であり、「病気を治す」ことに邁進しているものと思う。
しかし一方で、「付き合っていく病気」というものは決して無くなるものではない。
今のコロナ禍においてもワクチン接種が進む一方で感染は防げない!と言われたり、
新たな生活習慣においては鳴りを潜めたことで、日々の感染対策の重要性が浮き彫りになった。
ワクチン打てばかからない!でもなければ、タミフル飲めば大丈夫!でもなく、
自分ができることをして病気と付き合っていくことこそが大事であると改めて示されたものと思っている。
以前ネット上で「自分の機嫌は自分で取る」という言い回しが話題になった時には、
それができるかどうかはさておき、やろうと思わなければ始まらないのである。
不機嫌な自分を正当化するだけでは、だだをこねる子供と変わらないのである。
自分の心をなだめてあげること。
心の不調の原因に向きあうこと。
それをやらずして「病気」に甘んじていては何の意味もないのである。
人はたいてい、何かしらのハンデを抱えている。
病気や障碍を隠して生きるよりかは、カミングアウトできる世の中であってほしいが、
カミングアウトを免罪符と誤解している人間は、その秩序を乱してしまう。
自分に対しては、病気や個性を認め、なるべくコントロールしてみよう。
他人に対しては、病気や個性を認め、なるべく受け入れてあげよう。
それらが並立して初めて、やさしい世界を体現できるのではないか。
どうしてBL同人で受け役になった男は、言動が女っぽくきゃわゆく描かれるのがメジャーなのか。
それは、腐女子の中には女体嫌いの女好きがかなり多いからなんだろうな。
女体は見たくないが、女の子みたいに照れたりキュンとしたりする言動は好きだし、そんなかわいい存在が男女恋愛のテンプレをなぞって女役として愛されたり挿入されたりしてるのが好き、という多くの腐女子のホンネが、受けを女の子っぽくするのだ。
ケンコバは自分のことを女体は好きだが女嫌いと称したけど、その反対だな。
(ちなみに、ミソジニー男を叩く時に「女体好きの女嫌い」を使う人が多いけど、ケンコバの自己言及が元だと知らない人が多そう)。
ケンコバは他者である女についての好き嫌いだったけど、腐女子の「女体嫌いの女好き」は自己嫌悪が混じってくるのでグチャグチャしてるんだよな。
物語には女キャラが少ない方が嬉しいけど、現実の女性アイドルは好きですみたいな腐女子は、女体全般ではなく自分の女体への嫌悪がデカい故とも考えられる。
リアルのアイドルの女体は感情移入しづらいのであくまで他人の存在と感じやすいが、物語の女体は自分を重ねて読んでしまいやすい、だから物語で女キャラが目立ったり性に絡むと苦痛、という心理だな。
自分の女の体は嫌いだしそれを思い出させられるのも嫌だけど、女性的な振る舞いをする存在はかわいくて好き、男女恋愛テンプレに則った交際やセックスが好き。
そして受けちゃんを女化したうえで自己投影することで、自分の女体は脱ぎ捨てつつ、女性的人格を承認され、女性っぽく愛されてる気持ちになれる。
浅ましく感じる人もいそうだけど、別に悪いことじゃあないよなコレ。過剰に浅ましく感じる人は、自分の女的欲望を憎んで抑圧してるから解放した方がいい。
ただし、男役女役の恋愛テンプレが大好きなくせに、表面的な肉体が男キャラのBLを好んでるってだけで「腐女子はジェンダーフリーだ、先進的リベラルだ、マイノリティに理解がある」みたいな態度を取る腐女子はよくない。
自分の女体嫌いと女好きの欲望不一致を無理矢理解消してるだけじゃねーかっての。
世間一般の男女恋愛に馴染めなかった私たちって異端だよねフフ、みたく悦に入ってんじゃないよ。女体嫌いという意味では少数派だけど男女恋愛規範好きという意味では多数派だから、思ってるほど異端じゃねーよ。
オメガバースなんかも「男役、女役は完全固定! 世界設定として覆らないことにします! だけど女体は嫌いなので、体は男同士でもアルファとオメガという性別を加えておきます! 女体を見ることなく男女恋愛テンプレに則った話をどんどん書こう!」って欲望発散に便利だからあんだけ流行ってる。
オメガバは悪くないが、オメガバがセンス・オブ・ジェンダー賞の大賞もらったのは流石にガバガバよって感じだ。
BLもオメガバも、ムリヤリ大義名分を持ったり社会運動に繋げずに、真面目に快楽エンタメとしてやってけってね。(真っ当にリベラル思想からやってるタイプのBLだったら、それをかかげるのは正しい)
ちなみに、「女体好きだが女は嫌いなケンコバ」の反対としては「男体好きだが男は嫌い」も考えられる。
こっち方向だとミサンドリー腐ェミっぽさが強くなる。
もちろん、腐ェミと非フェミ腐女子はパッキリ別れるわけじゃない。
「女体嫌いだが女好き」という、自己肉体嫌悪と、かわいく優しく柔らかい人格への好意に関心が強ければ、イチャつきメス化恋愛作品を楽しむ腐女子っぽい活動が多くなる。
「男体好きだが男嫌い」という、男の肉体への好意と男の人格への憎しみが強ければ、腐ェミとしての活動が多くなる。
ということで元増田のこの疑問の答えもわかることでしょう。
なんで自分に自信満々な筋骨隆々ガハハな男が、突然内股になって下げ眉困り顔で頬赤らめて生娘みたいな貞操観念の鈍感男になって「ふぇっ?」とか声あげて攻め「可愛い…っ!」ってなんのよ
受けの皮を被ったそいつは誰なんだ
鈴原るるというにじさんじのVtuberが、加害脅迫メッセージが相次いだらしいことで引退した。
だが彼女に限った話ではなく、普通に生身で活動しているタレントも含めた一般論として、理性が怪しい人間に狙われた時にできることは少ないと思わされる出来事だ。
私の好きな芸能人が脅迫されて活動休止したら、最悪の場合実際に被害にあったらと想像すると、色々と考えてしまう。
芸能事務所が責任をもって守るべきだ、みたいな話はあり、ある程度までは私も頷く。
だが鈴原については、しばらく休止して事務所や警察と連携して一度問題を解決したはずがまたメッセージが送られた(鈴原は果たし状と表現しているので詳細は不明)、という状況らしい
こういう、一個一個対処しても次が現れる場合、安全を確保するというのは現実的に困難ではないだろうか。
『法律、権力なんてキマってる人間の前では何の役にも立たない』
突然君の前にガンギマってナイフを持った男が現れたとする。
君は上級国民だ。偉い知り合いがたくさんいるし、ちょっとおおっぴらには言えないようなアブない付き合いもたくさんある。最強弁護士事務所と契約もしている。
だが、今この場にはいない。たくさんいる政治家の知り合いも今まさに迫りくるナイフの前には無力だ。
だが、今この場に警官はいない。いずれ訪れる手錠も留置所もナイフの盾にはならない。
だが、今この場にはいない。たくさんいるヤクザの知り合いも、後から行われる凄惨な報復も今まさに迫りくるナイフの前には無力だ。
この投稿は冗談のオチがつくわけだが、まさか一カ月もたたないうちに真面目な現実としてこれを振り返るとは思わなかった。
後先考えないガンギマりマンに対して、その危険性をほぼゼロにすることはできない。
最強の護衛、しかもトイレなどを考えると女性ボディガードなどを四六時中つければかなりマシだが、金銭コストも生活の不便さも凄いことになるだろう。期間を限ってならばともかく、そうじゃなければ現実的ではない。
また、それでも万が一という不安は付きまとう。
これが日本国に対する脅迫なら「テロには決して屈しない」と宣言し、テロリストが沈黙するまで戦い続け、解決までの間に犠牲者が出てもコラテラルダメージ(仕方のない犠牲)として大義名分は保たれるのだが、芸能事務所がタレントを仕方のない犠牲とするのが許されるわけはない。
まーなんすかね。
芸能人やネット越しの友人がストーキングされたらというのを考えると、無力感みたいなのが凄いっすね。
別に私個人が元々問題を解決させられるとは思わないけど、人間社会の限界みたいな。
全米ライフル協会だったら「こんな時こそ銃武装」って言うのかもしれんけど、先に一発撃たれた方がオワる武器を両方持つようになったら、ターゲットの顔がわかってるストーカー側の方が有利だから逆効果なんだよな。
はてなの人たちはVtuberや芸能人に興味薄いから客観的な意見が聞けるだろうけど、著名人がどこかのガンギマり無敵マンに同時多発的にターゲッティングされた時、安全を十分確保しながら活動することってできると思う?
六月X日、天皇の名によって五輪中止となり、天皇によって救われたと人々は言うけれども、日本歴史の証するところを見れば、常に天皇とはかかる非常の処理に対して日本歴史のあみだした独創的な作品であり、方策であり、奥の手であり、政府はこの奥の手を本能的に知っており、我々国民又この奥の手を本能的に待ちかまえており、かくて政府日本人合作の大詰の一幕が六月X日となった。
たえがたきを忍び、忍びがたきを忍んで、朕の命令に服してくれという。すると国民は泣いて、外ならぬ陛下の命令だから、忍びがたいけれども忍んで辞めよう、と言う。嘘をつけ! 嘘をつけ! 嘘をつけ!
我等国民は五輪をやめたくて仕方がなかったのではないか。かち割り氷を配って酷暑に立ちむかい、土人形の如くにバタバタ死ぬのが厭でたまらなかったのではないか。五輪の終ることを最も切に欲していた。そのくせ、それが言えないのだ。そして大義名分と云い、又、天皇の命令という。忍びがたきを忍ぶという。何というカラクリだろう。惨めとも又なさけない歴史的大欺瞞ではないか。しかも我等はその欺瞞を知らぬ。天皇の開催権返上命令がなければ、実際観戦して感染を広げ、厭々ながら勇壮に土人形となってバタバタ死んだのだ。最も天皇を冒涜する政治家が天皇を崇拝するが如くに、我々国民はさのみ天皇を崇拝しないが、天皇を利用することには狎れており、その自らの狡猾さ、大義名分というずるい看板をさとらずに、天皇の尊厳の御利益を謳歌している。何たるカラクリ、又、狡猾さであろうか。我々はこの歴史的カラクリに憑かれ、そして、人間の、人性の、正しい姿を失ったのである。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42619_21409.html
日本、そして世界のネット掲示板及び書き込みサービス民の皆様、こんばんは
https://anond.hatelabo.jp/20210606173116
の続き
だいたい本田未央競馬辞めるネタ問題は現代社会が国民の加虐性を膨張させてきたのも原因だろ。
https://twitter.com/momotar35639597/status/1401011532478046208?s=19
https://twitter.com/red_autism/status/1399844698861105152?s=19
https://twitter.com/ishiijunpei/status/1399681471963570181?s=19
親ですらその経済戦争のコマでしか子供を見てないようなのが下地思想…
そこから外れれば
加虐思考に染まってしまうようなのに近い情勢を生んでしまったんだよ。
番外。
https://twitter.com/search?q=honryaku%20%20since%3A2021-05-06%20%20until%3A2021-05-08&s=09
振る舞いや言動が胸糞悪い漫画バナー広告に出てくる毒婦や毒親みたいじゃないですか。
コイツはきらら原作漫画から何を学んだんだよ…(´• _ •` )
ストーリー上で問題が起きた時にどのようにしてキャラを動かして着地させたほうが良かったのかと検証・分析してこそ真のオタクなんじゃねえのか?
デレマスであのとき本田未央は、クールでドライな反応でほか2人を支えてれば良かったのか?
はっきり言って馬鹿げてる。
あんな奴は単細胞な感情持ってるただのシニカリストなコレクターだ、マジで。
番外2
事実上キュルルもカラカルも脚本の被害者であったことが証明され、けもフレ2コミカライズは「2」としてではなく
「けものフレンズ エピソードキュルル」という独立した作品に該当されるのかも知れない。
https://twitter.com/Tamalilis/status/1394574555335708676?s=19
話を戻す。
とにかく残機ゼロ思考や子供を経済競走のコマでしか見てないような、金メダル的なのを過剰に要求する教育の結果が
ヤムチャやオルガ、2005年日本シリーズのときの阪神をおちょくり、
それに立川で19歳のガキが社会規範の大義名分を名目として1人の女性の未来を破壊した事件なんて
まったく似たような経緯で高卒でフリーターをしていたけど、ふと思い立って昔やってみたかった業種の資格の勉強をしている。
地頭がいいから捗るし、勉強が楽しいという感覚を初めて知った。
昔の自分は「努力していないから落ちこぼれている」ふりをして自尊心を保っていた。
今努力できている理由は、学ぶ過程を楽しめているからだ。幼い頃から興味のあった職種でもあるし、内容が専門職に近いから新鮮だし、一応日常生活で役に立つこともある。
努力する理由自体が過程にあると、大義名分的にも「努力しても出来ませんでした」ではなく「出来なかったけれどこれだけの努力をしました(キリッ」になる気がする。これは気の持ちようでもあるが。
昔は身を入れて勉強をしなくても結果がでる以上、過程はただの単純作業でしかなかった。
増田が大学に行く目的がわからない以上下手なことは言えないけれど、大学受験じゃなくても何でも楽しいと思えることをした方がいい。運動関係は難しいと思うが、座学ものならIQが高ければ素人からでもなんとかなる。
成功するか失敗するかどうかに重きを置かなければ努力できると思う。が、なにもしなくても成功してきた以上それが難しいのも充分にわかる。
増田の健闘を祈っている。
自分の観測範囲内で「もう日本を変えるにはテロしかないな」というジョークのような発言を聞く頻度が増えてきた。
「そんなことはない」と直接伝えても、全くらちがあかなったので、ここで伝わる人に伝わればいいと思う。
たしかに、昨今のふざけた倫理観のもとで保守的に動く政治家は、自分の安全圏だけを求めて利己的に活動しているように見えてならない。いざとなれば逃げればよいという観念が透けて見えてしまう。もちろん利己的になるのはある種仕方のないことではあるが、立場的に他者の利益を吸い取るほどまでの利己的になっており、日本全体から見れば害悪でしかない。
自分がテロの可能性として高いなと感じているのは、京アニ突撃のときのように、誰かが与党の誰かの事務所や自宅にガソリンや軽油をぶっかけて文字通り炎上させるとか、帰宅時や仕事中に刃物で刺殺しに行くなどのテロが起こったりしないだろうかということだ。与党だけでなく、周辺の関係者もありえる。「ダメ日本」の象徴となるようなもっとも影響力がある人のうち、セキュリティが低い人が狙われやすいのではないか。
たとえば、首相などはセキュリティが万全なので成功する確率は低いが、首相周辺の一般市民のセキュリティは比較してそれほど高くはない。秘書や政治資金パーティ出席者なども然りである。逮捕される覚悟・死刑になる覚悟さえあれば、自分には容易に達成できそうに思える。「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ」だ。死刑になるにあたっても、それなりの大義名分があるため、人生一発逆転の起死回生としてはなしよりのありだろう。
政治家集団の彼らには、安全圏の中の現実しか見えていない。日本全体のリアルが見えていない。貧困に陥った人の中で気性の荒い人や極左に振り切った人、はたまた人を殺してみたい人は、すべてを投げ出して攻撃しかねないのかもしれないと思っている。
テロによって政治家集団の焦燥感を煽ることは可能だろう。利己的な人々はリスクを鑑みて退場していってくれるはずだ。割に合わなくなるからだ。余計なことをすればテロが恐ろしいと感じれば、テロなんぞに負けないという気概を持った人間だけが上ってくる。
日本は長い間暴力的なデモもなく「冷静な国民性」と言われてきた。実際には違うはずで、事実昔は暴力的だった。現在ではそれをするメリットが見いだせなかっただけだ。
ただしテロを考えている人は今一度よく考えなおしてほしい。人生は一度きりで、そしてあなたの人生は大切だ。あなたの力で良い方向に変わる部分もあるかもしれないが、多くは変わらないし、うまくいけば歴史の一部に残ったとしても、ただ未遂に終わって一生檻の中で終わるだけかもしれない。
テロをする相手選びに失敗してしまえば、テロの被害者と言われて国民が「さすがに可哀想」と手のひらをくるっと返してあなたを野蛮人だと嘲ってくるかもしれない。
自分はテロをする価値はこの国にはないと思う。どうか本当にテロだけはやめてほしい。
なんちゃって!!!!!!自民党万歳!!!!!株ちょっと下落したけど俺の資産は3億達成!年収でいうとだいたい1300万です!!!ありがとうコロナ!!