はてなキーワード: 保健室登校とは
タイトルの通り、小学生時代に遭った痴漢やそれに類することについてと、書き出してみて思ったこと。
当時の私はピアノを習っていて、発表会に祖母と母が来てくれた。おろしたてのワンピース、フリルのついたソックス、少しだけかかとの高いよそゆきの靴、いつもより豪華に結ってもらった髪にはリボン。かわいい格好ができて嬉しかったのを覚えている。
発表会は市民ホールを貸しきって、昼すぎまでかかっていたと思う。早起きしたぶんお腹はペコペコで、遅めの昼食は近くて回転率がよくすぐに食べられるお蕎麦屋さんを選んだ。
昼すぎでも土日だったからか、お客さんが並んでいた。回転率のよさは知っているので、並ぶのは苦にならない。眠気も出てきていささかぼんやりしつつ、だらだらと前に並ぶ人へ続く。
すると突然、ぐいっと左手を掴まれた。反射的にそちらを見上げると、知らないおじさんが私の手をとり握手するみたいにぎゅむぎゅむ握っている。とても、とても驚いた。けれど声は出なかったし、ぴくりとも動けなかった。知らないおじさんは「可愛かったからつい」と言って、手を離して店を出て行った。
母たちは「びっくりしたねぇ」などと何だか和やかに言っていたが、私はほんとうに驚いて、つまりショックで、その後どうしたか覚えていない。もちろんかなり古い記憶なので、単純に時間経過によって忘れてしまっただけかもしれないけれど。
ほんとうに驚いたとき、人間は悲鳴も上げられないしすぐに逃げもできないのだな、と何だか絶望に近い気持ちになったことは覚えている。アニメやドラマ(刑事ドラマが好きでよく観ていた)のようにはできないのだ、と。
「かわいい」は褒め言葉のはずなのに、なにも嬉しくなかった。なんとも言えないモヤモヤが澱のように腹の底に溜まった。
プライベートゾーンを触られたわけでもなく、何なら一緒にいた親族も問題視したふうでもなく、法的に痴漢には分類されない体験。今でも一般的になんと分類するものか分からないままだ。それでも私の中でだけは、初めて遭った痴漢として記憶している。
私の地元は田舎で、徒歩通学だった。当時はとにかく読書が好きで、通学中は図書室で借りた本を読みながら歩くのがほとんどだった。二宮金次郎みたいに。
学校帰り、季節もあってまだまだ明るい中、いつも通り本を読みながら一人でひたすら歩く。毎日毎日そうしているから慣れたものだった。
車が1台ぎりぎり通れるくらいの、田んぼと畑と農家然とした少し古めの民家ばかりの道で、ふいに後ろから声をかけられた。自転車に乗った男子学生だった。中学生か高校生か、とにかく同じ小学生でないことしか分からなかった。親や学校の先生以外で年上と話す機会もそうなかったし。
喉が乾いたので飲み物を分けてもらえないか、と言われた。夏なので肩に水筒をぶら下げていたのだ。大人なのに変なの、とは思いつつ、水筒のコップ代わりの蓋になみなみ注いで渡した。
水筒のお茶を飲むところをぼんやり眺めていたら、コップを持つ男子学生の手がぶるぶる震えていた。おそるおそる口をつける。そのさまを見て、なぜだか急に、明確におかしいと感じた。一気飲みはせず、謎に丁寧にお茶を飲んでから返されたコップ。水筒に戻しながら、どうやって帰ろうか不安になった。自宅までそんなに距離がなかったからだ。なぜかついてこられるのでは、と思った。その間も、ぽつりぽつりと男子学生からの問いかけが続く。いつもこの道を通るの、とか、何年生なの、とか。
今の私は何でそこで律儀にと思うが、その時は走って逃げるとか急に話を切り上げるとかいう選択肢がなかった。失礼だと思ったからだ。誰か帰路の小学生でもいれば、知らない子でも混じって帰ったと思う。でも誰もいなかった。人っ子一人。えー…とか、うーんと…とか枕詞みたいに付けたふんわりした回答をしながら、子供なりに頭はフル回転していたはずだ。でも、打開策が思いつかなかった。
少しして、私たちがいた道沿いの民家から住人のおばさんが出てきた。知らない人だったけれど、何してるの、と声をかけてくれた。それを見て、男子学生は何も言わずに自転車を走らせて去っていった。その背中が私の帰り道と同じ方向だったのを見届けて、まだ呆然としたままの私は、なんにもないです、とだけ答えた。知らないおばさんが「さっきの子は知り合い?」と言うので、首を振る。ちょっと回り道してから帰りなさいね、と言われた。私もそのつもりだった。
この体験も、お茶をくれと言われて分けただけで何もされていない。痴漢ではない。なので何と呼べばいいか分からないけれど、自分の中ではその他の痴漢と同じカテゴリに分類して記憶していると思う。そういう系統の嫌な気持ちだった。
これも小学校中〜高学年頃。
私の両親は離婚しており、母に引き取られていた。夏休みに父のところへ泊まりに行っていたときだった。
例によって本が好きなので、県立図書館へ連れていってもらった。いっちょまえに児童書は卒業していたので、見る本棚は一般書架。父はAVコーナー(ネットカフェみたいに区切られたブースで各々映像資料が観られる。アダルト資料ではない)にいるというので、一人でゆっくりと本棚を眺めていた。作者なんかは知らないから、タイトルや表紙のデザインを中心に何となく気になった本を探す。児童書に比べてかなり数が多いので、背表紙を眺めているだけでも楽しかった。タイトルしか読んでいないのに、いくら読んでも読み終わらなくて。
ふと、足元がぬるい感じがした。見下ろすと人が床に手をついてしゃがみ込んでいた。年齢は分からなかったけれど、男の人であることだけは分かった。
図書館の本棚は上下左右ギチギチに本が詰まっている。下の段の本を見るには、学校でミクロマンとイジられていた私の体躯でもしゃがみ込まなければならなかったので、下の方が見たいんだなと思った。図書室で人気の本棚にみんなが密集するのはよくあることだ。と思ったけれど、はぁーーー、と長い息を膝に吐きかけられているのを見て、一気に過去の嫌な気持ちが呼び起こされてしまった。気付いていないふりでじりじりと距離をとり、別の本棚へ移動する。
何だったんだろう、と心臓がばくばく言うのを落ち着かせているうちに、暑いから息が上がっていただけでは?という気になってきた。そう思うと何をビビっていたんだろうと馬鹿らしくなって、また端から背表紙を読んで、読んで、時には取り出して表紙やもくじを眺めて。
じきに、また足元に違和感があった。今度は微妙にぺたぺた?ぬるぬる?する。見下ろすと先ほどの男の人がしゃがみ込んで、私の膝辺りを舐めていた。他人の舌が肌を這うことなどないし、誰か分からないし、理由も分からないし、どうすればいいか分からなくて、なのに気付いていることを勘付かれてはいけないと咄嗟に思った。心臓はまたばくばく暴れて、目の前の本を適当に抜き取り「これにしよ」なんてわざとらしく声に出して、父のところへ逃げた。
この時に借りたのは『エリコ』という本だったと思う。いま調べてみると表紙が記憶と違っているけど、女の子のモノクロっぽいイラストの表紙だったはず。父の家に戻ってから読んだけれど、分厚い上に当時の私には内容が難しくて、とても難儀した。話が全く分からなくなってからは飛ばし飛ばし読んで、なんだか図書館での嫌な気持ちがフラッシュバックするような描写を目にして、結局ギブアップした。主人公が高級娼婦らしいので、確かに当時の私には早すぎたし「猥雑と戦慄がからみあう、嗜虐と倒錯の近未来バイオサスペンス(引用元:BookLive)」はあんなことの後では取り合わせが最悪だった。今までの人生で読み始めたのにギブアップした本はこれと『ドグラ・マグラ』だけなので、すごく印象に残っている。
この体験は一般的にも痴漢に入るのではないかと私は思うけれど、そのときの私には分からなかった。知らない人に舐められて驚いたし怖かったのに、誰にも言えなかった。一緒にいたのが母だったら、もしかしたら言えたかもしれない。正直、相手と同じ性別である父には言いづらいと感じた。自宅に戻ってからは、今度は今更だと思って母にも結局は言えなかった。
4度目は小学校高学年。
さすがに生きているだけでも変な目に遭うことはあるのだと理解していた。それに、そういう場面では声も出ないしパニックになって機敏に動くのは難しいことも。
私は護身術として極真空手に通うようになっていた。ビビって声が出ないし動けないなら、度胸をつければよいと思ったからだ。流派だの何だのはよく分からないままだけれど、男子に混じって毎週通った。練習は体育館で行われていて、フローリングの上で拳で腕立て伏せをするのが大嫌いだった。骨が痛すぎるし、未だにフローリングでやることではないと思っている。
それから、通学路も勝手に変えた。2回目のときに使っていたのは車1台でいっぱいの道幅だったが、片側1車線ずつの道だ。さらに少し行くと複数車線の道もあるけれど、遠回りになるのでこちらばかりを通っていた。徒歩通学だしショートカットしたかった。車通りはやはり少ない。
この時も学校からの帰り道だった。一人で帰っていて、道路の向かい側に停まった白い車から声をかけられた。運転席の窓を開けて、男性が小学校へはどっちに行けばいいかと尋ねてくる。あっちです、と指をさすと、地図で教えてほしいと大きな紙を広げた。道路を挟んだままだと見えないので、道路を渡って運転席の窓から紙を覗きこむ。それは確かに地図だったけれど、地図と腹との隙間から陰茎が見えていた。数センチの隙間から、手で擦って見えたり隠れたりする陰部。
相変わらずショックではあったけれど、またか、という諦観もあったように思う。私はやはり気付いていないふりをした。努めて地図だけを見て、現在地も分からなくて、「地図読めないけどとにかくあっちです。ずーっとまっすぐ道なりで左側にあります。私はそこから来たんだから間違いないです」というふうな回答をした。
習い事があるからとその場を駈け出して、ないと思ったけど一応追ってきていないのを確認して、座り込んだ。心臓は毎度のようにばくばく言っていたけど、走ったから当たり前だなと思った。前よりも怖くなくなったし、毅然と振る舞えた気がするからたぶん空手の効果はあった、と思いながら自宅へ帰った。今回もこのことは誰にも言えなかった。
そういうわけで、私が小学生のときに遭った痴漢やそれに類するものは覚えている限り4回だ。多いのか少ないのかは分からない。
もちろん、中学生でも高校生でも大学でも大人になっても何かしらは遭った。それでも一番覚えているのがこの小学生時代。今やすれた30代だけれど、私も子供の頃はさすがに無垢だったのでショックが大きかったのだと思う。
どう気をつければいいのかというと、正直私は分からない。嫌な言い方だけれどもはや事故みたいなものだから。防ぎようがないという意味で。ただただ、こういうことをする人がいなくなってくれればいいのだけど。
一つだけ。もしもこんなことがあったと言われたら、ちゃんと聞いてあげてほしいとは思う。
中学にあがってから、路上で知らない人に突然キスされたことがある。グレてイキって気は強く成長した私は、黙り込んでいた小学生時代とは違ってすぐに学校に報告した。とにかく腹立たしかったからだ。分かることはすべて話した。場所とか、相手の風貌とか、原チャだったとか。それらは全校放送で流れた。
おそらく親にも連絡が入ったのだと思う。その日の夜、養父(母は再婚した)にリビングへ呼びだされた。本当なのかと聞かれたので、本当だと答えると、場所を地図で描けと言われた。不審に思いながら自宅から中学校への道順を描き、ここ、と丸をつけると、嘘だと言われた。こういう場合、被害に遭った場所から描き始めるのが心理学的に普通だそうだ。私としては通学中に起きたのだから理にかなって描きやすい順番だったのだけど、そう言われた。心理学なんて分からないので反論もできなかった。原チャの車種はなんだとかも聞かれたけれど、私が知っている中での形や大きさで最も近い名称が「原チャ」だっただけで、詳しくは知らなかった。グレ友達に2ケツで乗せてもらったやつくらいにしか認識していなかったから。養父の趣味にハーレーがあったので、バイクを中途半端に出したのもよくなかったのかもしれない。
そうして私の虚言であったとされ、おそらく学校へも連絡したのだと思う。保健室登校しても、教師がどこかよそよそしかった。あくまで私の感覚なので、実際のところは分からない。
ショックだった。折り合いの悪い養父であっても、もはや養父側の人間で信用していないと自分では思っていた母であっても、なぜだか報告すれば信じてくれると思い込んでいた。
初めて報告したらこうして狼少女にされてしまったので、前述のとおりその後も何度も変な人に遭ったけれど、誰にも話していない。
今でも覚えているので、やはり他の家庭、いわゆる子供(年齢は問わない)をもつ家庭では子供を信じてあげてほしいと思う。様々な要因で恒常的に嘘をつく子供がいたりするらしいのは知っているけれど、嘘でなかった場合に取り返しがつかないからだ。私のようになってしまう。独身の私が言うのもおかしいけど、子供は健やかに育つべきだ。大人になったら嫌でもすれてしまうのに。
この文章は、職場の男性から小学生にあがった娘の親バカノロケを聞かされてぶわっと思い出したまま書き殴った。
電車通学が珍しい地方の小学生だった私でも、4回。0回の方がいいに決まっているので、こんなことがどこでもありうるから気をつけてあげてほしい、と言おうと思ったけれど、職場の人に実体験を話すのは憚られたので。初めて表に出して少しすっきりしたかもしれない。
自分にはかつて仲のいい友人が2人(AとB)いた。
ド田舎なので幼稚園から中学卒業まで同じ学び舎だし上も下も顔見知りみたいな地域だった。
中学では部活に強制入部だった。文系の部活はなく帰宅部は学外でクラブチームに入ってる子だけで、運動部しか選択肢はなかった。
自分は2人を誘い同じ部に入部した。ずぶの素人は自分たち3人だけで、他の1年生たちは経験者で先輩たちとは既に小学生のときから仲が良かったらしい。
私たち3人は浮いていたし、当然ながら私たちは下手で、先輩たちとすぐに仲良くなれるわけもなかった。
でも私にはAとBがいるし、別に他の部員だって意地悪をしてくるような人たちではなかったのでこれから頑張っていこうと4月の時点では思っていた覚えがある。
5月になったころからAが部活に来なくなった。理由はわからないがそのうちに学校にも来なくなり不登校となってしまった。最終的には保健室登校みたいな形で来るようにはなっていた。
休み時間にAに会いに行けばいつもと様子は変わらなかったし、おしゃべりするのは楽しかったから「気が向いたら教室にもおいでよ」みたいなことも言ったような気がするが1度も教室に現れることはなかった。
夏ごろにはBも部活には来なくなった。顧問からは「人間関係は難しいからね」みたいなことを言われた。おそらく他の部員や先輩とそりが合わなかったのだろう。
私だって他の部員たちとそりは合わなかったがAとBがいるから楽しいし続けていけると考えていたのに2人はそうではなかったようだ。
半年の間に素人は私だけになってしまったが、別におしゃべりする相手がいないだけで、イジメがあったわけでもなくきちんと指導してもらえたし部活をやめる選択肢はなかった。
この時点で自分には友人と思っていたのに、何も言わずにいなくなってしまったAとBに対して不信感があったのだと思う。
一緒に遊ぶ分には今までと変わりがなかったので、そのままの付き合いを続けていた。
そのまま私たちは3年生となった自分たちには高校受験の話題でいっぱいだった。
Bに「私は○○高校を受けるけどBはどこを受けるの?」と聞いたがBはただ「あーうん…」と苦笑するだけで教えてくれなかった。
友達なのになにも教えてもらえないんだなと冷めていくのを感じた。
のちにクラスみんなの前で面接の見本として前に立った受験の際に面接のある生徒たちの中にいたBの受け答えではじめてどこを受験するのか知ることになったが、そうなんだ、以外の気持ちは湧かなかった。
相変わらず保健室登校のAには聞いてはいけないような気がして受験の話も卒業後の話もしなかった。いつもゲームや漫画の話をするだけだった。
卒業後の2人のことはほぼ知らない。
他の友人たちも2人が今なにをしているのか知っている人はいなかった。
Aは二十歳ごろに髪をピンクに染め自転車でその辺を走っていたという目撃情報を祖父から聞いた。
子供の頃はほぼ毎日遊んでいて、親からも特に仲のいい子たちを認識されていたのに、今ではどこにいるのかもわからない2人に対して興味も湧かない自分を薄情だと思う。
でも、もし2人に会えてもきっと何も教えてもらえないだろうなとも思う。
なぜ2人はなにも私に言ってくれなかったのだろうと、時々思い出しては気分が落ち込んでしまうし
すべて話すのが正しいとは思わないが、なんとなく今仲がいい人たちのこともなんとなく信用できないままでいる。
中学生のとき私はどうすればよかったのだろう。もし過去に戻れるならそこからやり直したいと思うぐらい今でも心に引っかかっている。
「こんなに私のこと分かってくれた人他にいない」ってめちゃくちゃ依存されたし、連絡の管理や束縛もされてた
「どんな男の人より〇ちゃんが好き」
「法律で結婚できなくてもずっと一緒にいてね」と何度も言ってくれて、本気でその約束を生涯守る覚悟でいた
なのに
「男の人とお付き合いする事になりました」
家庭環境が複雑だったり中学高校は人間関係がうまくいかなくて保健室登校だったり元カレに可哀想な目に遭わされて男性が信じられなくなった話は何度も聞かされていたので、事実メンヘラではあったけど理由があって病んでしまった子なんだとも納得していた
だから自分が幸せにするんだ、この子を支えてあげるのが自分の役目だと思っていた
結論、本人が望む形で幸せになって欲しかったので、引き留めてはいけないと判断した
今までのお礼と、新しい相手との幸せを祈っていることを伝え、さようならのメッセージを送り合った後に連絡先を消して死ぬほど泣いた
あれから何年も経っているし彼氏も何度か出来たけど全員うまくいかなかった
彼らは寂しいからと夜中に電話を何件もかけてくる事もないし、感情の起伏がおかしくなって泣きながら暴れたり掴みかかったり物を投げつけたりするような人も一人もいない
自分のことを本当に愛しているのか、一生裏切らないと誓えるかを納得するまで確認されるような問答や試し行動だって一度も発生しなかった
「それほど普通でないはずのこと全てが全く苦にならないほど大切にしたい守りたいと思っていたのだから、自分は本気で彼女が好きだったのだな」
と思い知らされる
そうすると付き合っていくうちに少しずつ「あの子の時に比べて自分は本気じゃないかもしれない」という気持ちの差異を見つけてしまい、いつも結局別れてしまう
今もふとした拍子に「ちゃんと元気に生きているかな、またごはんを食べなくなっていないかな」と思い出してしまう
多分、授業か何かで書いたんだと思うハガキが家に届いていた。
「成人した私へ
成人おめでとう。
15の私は、まあまあ元気です。
今の猫は2歳です。
7歳くらいになるんだっけ?まだまだ元気だと思うけど、もし地元から離れてるんだったら、そばにはいないんだね。
私のことだから、多分色々悩んでるだろうけど、生きていたら、なんとかなるので、生きて、本読んで、写真撮って、好きなことを好きって言えるのなら、それでよいです。それが全部です。
15の私からしたら、それが全部です。
15の私より」
中3の半ばくらいまで、ほぼ記憶が(多分ストレスか何かで)吹っ飛んでいるので、自分のことなのに又聞きのような状態になっている。
だから、このハガキが来たときに「その時生きてたんだ。」と思った。
過去に自分がいた証拠が、家の外からもたらされたことが、なんだか新鮮だった。
し、嬉しかった。
手紙やメールなどを、意思疎通のためのものという認識しかしていなかったけれど、「自分がそこにいた記録」として手元に来ると、感慨深いものがあった。
著名人から「学校には無理して行かなくていい」という意見が散見されるようになってから久しい。
学校以外の居場所なんて世の中いくらでもある、学校に行けなかったくらいで絶望するな、精神的に崩れてしまうくらいなら
…本当に正しいのだろうか?
というか学校でほどほどにやり過ごせないような人間が、社会に出てやっていけるとは到底思えない。
ここでポイントなのが、「学校での人間関係を上手くやっていく」ではなく「学校でほどほどにやり過ごす」というところである。
上手くやっていく必要はないのである。ほどほどでやり過ごすのである。
もちろんほどほどでやり過ごすということは、クラスの輪の中心にいるような人達よりは楽しい学校生活を送れないということの
裏返しでもある。人によっては辛くて孤独な学校生活になってしまうかもしれない。
それでも、それでもである。ほどほどでやり過ごすのである。これより大切なことは他にない。
少なくとも思春期年代においては、学校に行くより優先順位の高いことなど存在しないであろう。
とはいえほどほどにやり過ごすのを優先するのであれば、学校を適度にサボってもいいということにもなる。
夏休み明けであっても数日学校に行って疲れを感じたのであれば次の日休んでもいい。
そうやって適度に緩く過ごしている内に学校を上手くサボるコツを見つけることができたりするのだ。とても大事なことだ。
人間関係だってもっと適当にやっていい。友達と仲が悪くなってしまっても絶望する必要はない。また来週やり直せばいいのである。
子供は基本的にアホである。怒っていたことなんて数日経てば忘れる。どうしてもやり直せないと感じたら、転校すればいい。
そうすればまたやり直せる。やり直すのがめんどさいならそのまま過ごしてもいい。何も解決できないかもしれないが、そういう苦しい時間を
乗り越えた経験はきっと今後の人生の糧になる。いつか必ず役に立つ。
学校生活が楽しいものになるか辛いものになるかは人それぞれである。
嫌な場所から逃げる勇気も時には必要だが、学校はもっと適当にやってもいい場所である。
教室に行くのが嫌なら保健室登校でもいい。新作ゲームの発売日はバレない程度に仮病を使って学校を休んでもいいのである。
そうやって適度にサボっていく内に、学校なんて気合いを入れていくような場所ではないことに気付くであろう。
人間関係に失敗してしまってぼっちになってしまってもいいのである。ぼっちざろっくの後藤ひとりだって
ひとりぼっちだけどちゃんと学校に行っている。ぼっちちゃんはライブハウスでようやく同世代の人達と温かい人間関係にありつくことができたが、
もしも仮にぼっちちゃんが学校に行かず不登校であったなら、同世代の人間と上手くやれず、ひとりぼっちのままであったであろう。
社会人として働き始めて、3年経った。
いくつかの失敗も重ねたが、今のところ、それなりに順応し、馴染んでいるとおもう。
給与は身に余るほど、仕事内容も悪くない。同僚や上司との関係も良好に進んでいる。
これまでを振り返れば、今は上手く回りすぎているようにさえ感じる。
自分は、日本の公教育をほとんど受けていない。まともに通えなかった。
いわゆる「怒る先生」が怖かった。今でも大声で怒鳴る人や、怒りをあらわにする人は非常に苦手だ。
義務教育たる小中学校の9年間のうち、保健室登校を含めても、学校に行った期間は2年に満たない。
続いての高校も2か月足らずでやめた。
しかし、両親が教員だったこともあり、幸いにも、何とか勉強をする環境は与えられた。
通信教育や家庭教師、無数の本を与えてくれた。ピアノやバイオリン、習字などの習い事もできた。
いくつかの科目は両親が教えてくれることもあった。
感情表現の乏しい両親であるが、おそらくさぞやの心配をかけていただろう。感謝しなければならない。
その後、大学はイギリスの通信制大学に通った。途中から日本の通信制大学にも所属する二重学籍だった。
というのも、自分勝手に偏った勉強ばかりに加え、社交性にも乏しい自分にとっては、入学試験がなく、学生間の交流も限られる通信制大学が、ほぼ唯一の現実的な選択肢だった。
想定通り、グループワークのコミュニケーションには、社交性と語学力の両面から相応に難儀したが、あらゆる面で実りは多かった。
日本で就職活動を始めた時、自分のような学生は、面接官に奇異に映ったのだろう、これまでの学業の歩みを詳しく聞かれることが多かった。
少なからずはただの「奇異の目」で終わった。「社交性、精神的な脆さや不安定さに不安が残る」といったコメントをもらったこともある。
妥当な懸念だと思う。しかし、いまさら隠しおおせようもない。そのまま続けるしかない。
そんな中でも、いくつかの企業は「主体的な学びの姿勢」と評価してくれた。
ジッサイは、「オモシロ人材枠」として、くじ引き感覚で拾ってくれたのかもしれない。それでも嬉しかった。
この会社で働き、3年が経った。
まだまだ分からないことがほとんどだが、それでも少しずつコミュニケーション能力を補いつつ、専門性も高めてきたと思う。
とはいえ、いつ自分の不安定さが致命的な落とし穴となるかは分からない、これからだろう。
いつも不安定にふらふらとしている自分が、今にあるのは、周囲の支援と偶然のおかげだとおもう。
今の自分は、本来の自分、デフォルトからあまりに上振れしている。
いつそこに戻ることになるのかは、まだ分からない。戻ることになっても、それはそれで良い、と思っている。
でもまぁ、とりあえず、もう少しは戻らずに進んでみようと思う。
「法倫理に物申したい」という意見なので、一般人の納得感とはずれるかもしれませんね
超簡単に言えば、高利貸しのような悪質な商売手法について法整備が進められるのと同じように、法整備されるべきだった。今の今まで無法地帯なのは司法の女性蔑視だ。ホスト業は公正で善良な法倫理の許すところの商売とは言い難い。基本的人権を毀損している
みたいな意見なのです。
高利貸しを利用する人が、例えばめちゃくちゃ悪い人ばかりもしくは馬鹿ばかりでいじめっ子で嫌な奴で暴力的な柄の悪い奴とか、犯罪者ばかりが利用してるとか、そういう個人的な私情は高利貸しの違法化を否定する理由にはならないのと同じように。
ホストもそうだと言ってるのですね。高利貸しの被害者は犯罪者だろうと高利貸しの被害者なんですよ
つまり、高利貸しという悪質な商売手法により公正ではない取引を具体的に行った人物であるということです
それと、弱者女性という言葉の意味があなたの文章中からあまり理解できなかったのですが、弱者というのは社会学的意味の弱者ではなくて、ネットで流行っている言葉で、虐められる容姿やメンタルの人みたいな意味ですかね?背景がわかりませんがよくない環境でしたね。
差別主義やいじめはよくありませんが、それとこれとは別次元の話ですねってことです。
日本では反差別教育を全然しないんですよね。容姿年齢差別は、大人の間でも子供の間でも堂々と行われています。ヘイトや差別について日本は改善点が多い。個人の問題でもありますが、大人が差別を野放しにしすぎです
イジメ問題も、学校が加害者を野放しにしすぎですね。加害者が見つかったらすぐ三者面談すべきでしょう。必要なら保健室登校に切り替えて加害児童を教室に入れない工夫が必要です。
親も学校もイジメを暴力事件や深刻なハラスメントとは捉えていないようで、警察に行き刑事事件にするとか弁護士を雇って慰謝料請求するとか、さっさと解決するというドライな気風にはなかなかならないようですね。「大事にするのは大人げない」という神話があるらしいですがそろそろ村社会から現代文明へと進化してもらいたいものですね。
ワイは不登校というか、結果的に学校に行かされたので登校拒否してたのだが、今振り返ると強制的に学校に連れて行ってくれた親には感謝している
母親が厳しい人で不登校など許しませんという人だった。結果、本当に引きずられて車に載せられて学校に行った。保健室登校すら許されてなかったので、授業は教室で受ける、休憩時間は図書室や保健室で過ごすという陰キャラムーブをしていた。期間は小2から小6まで。
おかげで勉強に遅れが出ず、図書室や保健室でやることがないので計算ドリルをやっていた結果、計算力がメキメキとついた。おかげで第一志望だった中学に受かり、通常ルートに戻ることができた。
もし家にいたら親が仕事に行っている間はゲームとかしかやらなかったと思うし、生活リズムも崩れてたと思う。
不登校=無理に学校学校と言わないというのは定石だが、生活リズムや勉強量をキープする大腿手段がないのであれば、多少荒っぽくても学校に行かせたほうが本人にとってマシな結果になるんじゃねと思ってる
高校の時、隣のクラスに保健室登校してる子がいたわけ。結局、一度も喋ったことはないんだけどね
保健室では保健医に向かってすっげーうるせー鳥みたいにピーチクパーチク喋ってんのに、教室戻ると自分の席で下向いて机凝視したまんま少しも動かねえしもちろん喋らねえの。
え?二重人格?てかまあ、内弁慶みたいな気質だったんだろうな、とは思うけど。
んでさあその子、名前も知らないその子が、俺の部活をめっちゃくちゃこきおろしてんの。卓球部だったんだけど俺は。
オタクのあつまりだし、卓球とかだれでもできるし~みたいな卓球部が生涯で言われることベストテンをフルスロットルでずっと言ってんのね。その保健室のベッドで卓球部部員の俺が寝てることも知らずに。
自分で言うのもなんだけど、うちの高校の卓球部って結構強いわけよ。まあもれなく全員ダサメンではあっただろうけど。でも毎日必死に練習してるわけ。
それをさあ、同じように部活頑張ってる陽キャとか、めちゃ勉強に打ち込んでるガリ勉とかでもなく、毎日教室に通う勇気も根気もろくになくて保健室で女王様面してるその子に言われたのがクソムカついたわけ。
いやてか保健医なんか言えよって感じだったんだけど、俺らには厳しいそのオバハンは不登校予備軍の生徒には肯定しかしないわけ。腫れ物を扱うように「そうだね」しか言わないわけ。まあカウンセラーじゃないし仕方ないんだけど。
その日俺は水泳の授業上がりに冷えた牛乳飲みすぎて腹壊して保健室で寝てたんだけど、その子の話が不快すぎて顔色悪いまま教室戻ったわ。そのまま残った方が精神衛生上よくねーもん。
俺がカーテン開けた時、その子は初めて気付いたみたいであっヤベッって顔して一瞬で黙ったんだよ。さっきも言ったけどそこそこ強い部活だったから、名前も知られてたんかもしれない。でも俺はその子の顔しか知らない。
ここで俺がもっと性格が悪いか、もっと度胸があるか、もっと機嫌が悪かったら「喋る元気あるなら教室行けば?」って言ってたのかもしれないけど、そんなに優しい人間じゃなかったので普通に無視して保健室を出た。
すげーいじめられたのかもしれないし、勉強についていけなくなったのかもしれないし、ただ単にクラスにムカつくやつがいたのかもしれない。何も知らない。
何も知らないけど、守られてるのは今だけだよってくらい、教えてあげればよかったのかなあ。
いただいたコメントを受けて過去を冷静に振り返るエントリも書いたんで気になる人は見ていってください。
https://anond.hatelabo.jp/20220116181308
23卒の文学部。マジで日本のキャリア教育も私の周りの人間もとことんなじって泣きたい気分だ。
まず受験を経て中学に入学してから、大学受験は恐ろしいものだという周りの言葉にしたがって、青春を勉強にささげた。
高校生の私は、文学や映画といった芸術が好きで、それを勉強してみたいと思った。
その結果、オープン模試では浪人も含めた受験生で一位になるなど、自分でも本当かよと思う成績を常にとっていた。
そして大学受験。過去最高の点数をたたき出し、狙い通りに宮廷大の文学部に晴れて入学。
入ってからは、サークルに所属することもなく(人と関わるのが面倒くさかった)、変わらず勉強に打ち込む日々。
文学理論の本をあさり、文学作品を読み、レポートを必死に書いた。
アルバイトはしたのだが(ノンバイサーはさすがにやばいかもと思ったので)、結局勉強する時間がなくなったし人と関わるのがしんどかったので半年でやめた。
そして今、就活を始めてやっと気づいた。今の私を求める企業なんかない。
ESに書けることがない。ガクチカで、今まで勉強を一人でしてきました!とは書けない。自己PRで、成績めっちゃいいです!とは言えない。
そこまで頭がいいなら研究者になれば?と思うかもしれない。しかし、私が得意なのは勉強であって、真理を追究しようという強い意志も、狭き門を狙って親の穀潰しを10年以上続けるほどの度胸もない。
もし仮に十年以上穀潰しをやって、博士課程を出たとして、そしてどのポストにもつけなかったら死に向かって一直線だ。
親は私が文学部に進むのをまったく止めず、「せっかくその頭があるんだから好きなことを研究しなさい」と言って送り出してくれた。
小学生の時から中学受験のために塾に入れ、バカ高い私立進学校の学費を払い、ここまで育ててくれた。
ごめんね、ありがとう、でもあなたたちはマジで教育を間違えたよ。私のこの先の人生のことはまったく考えずに、勉強だけさせたらいいと思ってたんだね。
勉強だけしてきただけあって、私の大学での成績はGPA3.6。宮廷でこれなら、かなり上位のはず。
そしてそれを見た親は、ここまで来ても「そんなに頭がいいんだから、人生一度なんだし院に行ったらいいんじゃない」「研究者になったりして!」と言う。
親は分かってないのだ、何にも。文学研究者になって食っていくことの困難なんて。もうすでにその一度の人生を棒に振りかけてんだよ。
仮に文学修士で卒業するとしても、そんなやつどこの誰が雇いたいと思うのか。6年間文学の研究してた人間を雇いたいと思うか?誰でもいやだろ。
これなら、「お前の人生はお前で歩け。後はしらん」と放り投げて知らん顔する親の方がまだよかった。
親の言葉を信じて、親も私の成績の良さが誇らしくて、共依存になっているうちにここまで来てしまった。本当にばかだった。
もう今では、自分は学ぶのが好きだったのかどうかすら自信がない。
勉強する才能は間違いなくあるのだろうが、学問が好きなのかというと分からない。というか、正直多分そこまで好きじゃないし向いてない。
高校までは、勉強さえしていれば褒められる。私は三教科で偏差値80越えの生徒だったから、周りの先生や生徒に、そして親にちやほやされていた。
その実、性格的にはややコミュニケーションに難があり(HSPなのかメンヘラなのか知らんが、常に不安でいっぱいな感じ)、高校生活でも最後は保健室登校みたいになっていたが、それでも注意されることはなかった。
甘えてないで人と接しろと、それがお前の将来のためだからと、そんなことを言ってくれる人はいなかった。
分かっている、悪いのは私だ。一人でできる勉強にばかり逃げて、人と関わろう、向き合おうとしてこなかった。
自分の価値決定を他人に任せてきて、褒められたから自分は生きていていいんだと、そんな風に他人任せで真面目に自分の人生を顧みなかった。
でもさ、でもよ、大学入学までの18年間、ずうっと勉強しては褒められる環境にいた結果、「勉強をしてれば報われるんだ」と考えてしまったのは私だけの責任じゃないはずだ。
思ってしまうのだ、そんな私をつくったのは、親であり教師でありこの社会のシステムのせいでもあるんじゃないのかと。
高校では「勉強していい大学に入れ!」と尻を叩かれつづけ、大学に入ったら「好きにしろ(あと数年で就職だけどね)」と放っておかれる。
最初から言ってくれよ、文学なんか勉強しても社会で何も必要とされないって。
国語が特にできるね、読書が好きなんだね、マイナー映画も好きなの?なら君は文学部で好きなことを勉強しなよ。
いい加減にしろ!そうやって私の将来なんか何も考えることなくおもちゃみたいにして!誰も私の人生のことなんか考えてねえじゃねえか!
私が優れてるのは小手先の成績であって、持っているのは記憶力と心配性であって、研究を続けられるずば抜けた力なんかねえよ。それぐらい見たら分かるだろうが。
初めから言えよ、今までと同じように勉強だけしてても、お前はゴミにしかならなくて生きていけないよって!研究者になれる人なんか一握りだから勉強はもうやめろって!
だれか途中でせめて軌道修正してほしかった、叱ってほしかった、もっと真面目に将来のことを考えろって。今のままじゃ、社会は誰も今のお前を必要としないよって。
今までの人生何だったのか。私が大切に持ち続けていた成績という武器は、もうどこにも通用しない。
もっと人と関わればよかったんだ。いくらそういうのが苦手でも、コミュニケーションで疲れてしまっても、無理してでも普通の大学生活を送ればよかった。
もう涙しか出ませんよ本当に。どこにも行くあてはないよ。キャリセン行っても面接講座行っても涙目で、電車で泣いて変な目で見られたさ。
みんな、親や教師のことなんか信じずに自分の力で歩いてたんだよな。大学の勉強だけやるなんて馬鹿なことはせず、、社会勉強をちゃんとしてたんだよな。偉いわ。
それに比べてなんて私は馬鹿だったんだろう。将来のことを本気で考える頭もなかったんだから、これじゃFラン以下の脳みそだ。
誇れるのは成績だけだった!!てへ!!
あーあ、死にてえw
アドバイスくれた人ありがとうな、こんな読みにくくてルサンチマン爆発の日記にコメントしてくれて。まだ絶望感がやばくてずっと涙が止まらんが、資格、バイト、公務員、学校の推薦、就活対策など、頭冷やして今からでも動こうと思う。あーでもやっぱり辛いな、曲りなりに頑張ってきたつもりだったんだけどな。
追追記
引き続きコメントありがとうございます。他責しつづける幼さや浅はかさ、指示待ち人間なのがそもそもの問題なんだなっていうのがよく理解できた。みんなちゃんと生きててマジすごい。
これから人の良さやすごさを見つけて尊敬できる人間になるべきだと考えたので、自発的に人と出会いに行くところからでしょうか。
あと人格が未発達すぎるというコメントがちらほらあるけど、専門家に行ってみた方がいいレベルなの?俺の怠惰さが原因なだけで修正可能なのか、先天的に問題がありそうなのかわからん。劣化版チャーリイ・ゴードンは嫌だ。
小学校中学校は保健室登校や不登校を繰り返していた。今振り返ると親に相当申し訳ないことしたしメンタルが相当弱かったのだと思う。
詳しく話すと
小5 クラスで学級崩壊&暴力に合う→保健室登校&転校
小6 自分の空気の読めない性格が災いし女子からハブられる&ある男子からよく身体的ないじめをうける→不登校
中学 中受して中高一貫校に通う。発達障害を持った子に付き纏われる&性被害のフラッシュバックで保健室登校不登校を行ったり来たりして、勉強についていけなくなり中学卒業のタイミングで高校を外部受験して偏差値40台の高校に進学。学費無駄にしてお父さんお母さんごめんなさい。
高校の時は流石に自分の人生このままでは詰んでしまうと思い皆勤で学校に通って、中学でろくな学校生活を送らなかったコンプレックスがあったから部活や生徒会も加入して我ながら高校はかなり充実してたなとは思う。
現在は二浪した後、大学2年生をしている。大学での勉強も楽しいし仲の良い友人もいて楽しい日々を送っているが、時々小学校中学校で歯を食いしばって学校に行っていたらよかったと思う時がある。男女間や先輩後輩間での人付き合いの距離感がおかしいのではと不安になるし、あの時の感性や感覚はあの時でしか手に入れられず、ちゃんと教室に通う学校生活を送っていたら手に入れられたのではないかと思う。
この間、グループワークの打ち上げで友人に「二浪してなきゃこの大学入ってここで飲んでないんだよ??」と言われた。確かに今の生活は否定するものでは決してないし中学を辞めて進学した先の高校で出会った友人や思い出、浪人時代に出会った友人や培ったものもかけがえのないもの。
だけどちゃんと学校通っていて高校にも内部進学してたら二浪もせずに済んだ気がするし、色々捻くれずに済んだんじゃないかなーーって思う深夜2時。
けど、どうやら同じ吹奏楽部のBとイザコザがあり、幼馴染のCやDを含むグループからハブられたり陰口を言われたりしていたらしい
夏休み明けから1度も教室に来なかったAだけど、10月くらいには保健室登校で作業療法をするようになっていた
同じクラスの幼馴染で唯一Aの味方だったEは休み時間ごとにAの世話を焼きに行っていた
部外者の私は、CやD(内申目当てで生徒会Cは生徒会副会長、Dは学級委員だった)が物置代わりにしていたAの机から、画用紙や何やらを教卓やロッカーに移動させていた
そんなある日、CとDはAが保健室で作業療法をしていることを知ったらしい
すこぶるご機嫌が斜めだったのか、教室のど真ん中で大声で話し始めた
「学校もずっとサボっていたのに」
「ズルい」
誰のせいだよ、と思ったけど、チキンの私は口に出せなかった
止められない不甲斐なさとか怒りとか悔しさとかで泣きそうなのをこらえていた
「そういうこと言うの、やめろよ」
と彼女たちを止めた
興ざめしたのかひるんだのか、彼女たちはそれ以上何も言わなかった
そのあと、私はAに関わることを決意して、Eの他にも味方はいることを伝える手紙を、E経由で渡してもらった
3学期にはAも少しずつ教室に戻ってきて、進級を期に完全に復帰したらしい
3年生の時はクラスが分かれてしまったけど、卒業時にお礼の手紙をもらった
ちなみに、発端になったBは、CやDの言動やAが不登校になってしまったことに自責の念を抱いていて、こっちはこっちで情緒不安定になっていた
で、私がお礼を言いたいのは、CやDを止めて、私に勇気を出させてくれた男子
名前は覚えているし、何なら母親同士に交流があって、地元で消防隊に入ったこともしっている
でも、彼はもう当時のことは忘れているだろうし、そもそも私のことすら覚えていないかもしれない
なので、自己満にここでお礼を言っておく
あなたのおかげで私は勇気が出せたし、CやD以外のクラスメイトのことを信じでみようという気持ちになれました
今でも人を信じていられるのは、あなたのおかげです
群馬の20代夫婦の女の方に似てた同級生がいた。似すぎて思い出したことがある。
その子をA子とする。私とA子は義務教育期間の9年間同じクラスだった。
A子は小学校入学時から同級生の2倍くらいの横の大きさだった。小3の時から不登校気味になった。
先生も同級生もA子に対して優しく、というか甘やかした。結果、A子は大人しい子をいじめる保健室登校児に進化した。変に口出ししたら、自分のせいにされ、不登校になるから誰も注意できなくなった。
小5になった。厳しいが理解のある男の先生が担任になった。A子の将来のことを踏まえて、教室に来れるように取り組んだ。その一環として、私の親友であるB美がA 子のお気に入りだったので私含めたグループで一緒に行動するように言われた。
しかし、A子は私が気に入らなかった。理由は、A子の言うことを聞く大人しい子ではなかったから。A子は私をハブにした。私は本人に面と向かって注意した。当たり前の主張をしたはずだが、本人からしたらあり得ないことだったので、A子は担任に私のせいで学校行かない旨を言った。担任は、状況把握してたので私は悪くないことを知っていたらしい。次から何かあったらA子に直接言わないで、先生経由で注意するから相談するように言われた。
しかし、私の存在自体が気に入らなかったみたいなので、女子トイレの壁に「私の名前」と「死ね」を書かれた。事態を掻き回すのが大好きな意地悪な同級生と一緒に。ちなみにコンパスの針で。消えないやつじゃんwww
他の同級生が私の味方になってくれた。そしてA子は学校に来なくなった。
例の意地悪な同級生がその子が学校に来れるように、クラスのみんなに寄せ書きするように呼びかけた。私は断った。凄い顔で「は?」とか言われた。他の同級生の計らいで、私は書かなくていいことになった。書いたとしても「お前将来どうするの?」的な、追い詰めることしか書かなかったと思う。今思えば、書けばよかったかな。
その後は学校に来たり来なかったり。私に関わらなくなった。A子はB美がお気に入りだったからつるんでた。私はA子とB美が一緒にいる時は間に入らないようにして、他グループに入ってた。
中学3年間も同じクラスだった。最初は心機一転学校来てたがだんだん来なくなった。担任も同級生も、ちゃんと来れるように取りなしたが効果なし。他人の善意が当然なのか簡単に無駄にできるのが、世間知らずというか、少し哀れだった。
A子が保健室登校してる日に私は席が近いので給食を届けたことがある。目を合わさず何も言わないで受け取ってて、「ありがとうじゃないの?」と言ったら、次の日先生からA子の給食運ぶ係のクビを言い渡された。中学で会話?したのはこれだけ。私は、特別扱いしないで他の同級生と同じように接しようとしたが、上から目線が良くなかったかな。
義務教育終了したらあと、A子は高校に進学していない。本当は公立の定時制高校に進学するつもりだが直前でいきなり受験しない宣言をだした。
現在、たまに仕事の外回りでA子の実家を通る。前からゴミ屋敷だなーーて思ってた家がだんだんひどくなっている。動物禁止の借家なのに猫が何匹もうろついている。A子がその家にいるかは知らない。うまいこと、周りに恵まれて自立できてたらいいなとは思う。
とにかく、嬉しくて少しでも息子のことを思うと、ほんとに一日中涙が止まらなくて、逆療法みたいなもので吐き出したらいいのかなと思ったから増田に書いた。
実は前もそうだった。
そこに書いた娘の不登校の話。増田を探せばまだある。消した記憶はないので残ってるはず。
その時も、増田の登録ボタンを押して号泣したけど、すぐ涙は止まったので、今回もそのつもりで投稿し、同様に涙は止まった。
普段は常に感情を抑えてるんだけど、その反面で、息子に「死ね」と書かれた手紙をもらった時のように、極端なほど感情のコントロールが効かないことがある。滅多にはないけど。
でも、息子を殴った、と書いたけど、頭の硬いところを狙って、コツンと力を入れずに2、3回叩いただけだよ。
だって、やらないと、息子がやり返してくることが見え見えで、先制する必要があったから。
部屋に入った途端、息子は送風機を持って待ち構えてたんだから。当時中三で身長170cm以上あるんだぞ、私だって怖い。
たぶん、はっきり暴力したのはその時くらいで、過去には、布団にくるまって出てこない息子を布団の上から体重かけずに踏んだことが一回あるだけかな。
それでも暴力は暴力かもだけど、実際のところ、めちゃくちゃ悩む。
本気で殴らないと、本気と思ってもらえないかも、だなんて考えもある。
結局、その時で、最善だと思った行動をするしかない。それが良かったのか悪かったのか、なんて分からない。
子育てに正解なんかない、ってよく聞くけど、マジでそう思う。だからって、親の自由にやっていいわけでもない。
その辺は、悩むしかない。
色んな、育児書みたいなのも読んだし、色んな人に話も聞いたけど、参考にはなっても、正解なんてどこにも見つからなかった。
だけど、色々苦労しつつ思うのは、私の親だって多分、悩み抜いたんだろうってこと。
私は親にとって、酷い息子だったと思う。
ゲーム機はね、確か、妻が壊してから、しばらくして同じものを買い与えたという記憶がある。
一応、弁解みたいになるけど、親の許可なくやってはいけないと言ってるのに、隠しておいたところから息子が親がいない間に、探し出してこっそりやってたんだ。
それでも確かその頃は、息子のために、六時間くらいはゲームの時間は作ってたんだ。
その代わり、保健室登校頑張れって、応援したりしていた。ところが息子は「頑張る」って嘘ついてたわけ。
たまたま、妻が、忘れ物をしていたので、普段はいない昼間の時間帯に自宅に戻ったときに、それが発覚した。
そりゃ、妻だってキレるよ。
ただし、それすら予測済みだった。だから、そうならないように絶対に見つからないところにゲーム機を隠した・・・筈だった。
それでも、息子の方が親の想定を上回った。まさか、あんなところに隠したのを見つけるなんて、完全に想定外だったから。
風呂場にある天井点検口の裏だよ? マルサでもあるまいによく見つけたもんだと関心すらした。
だから、それをきっかけに、ゲーム規制を諦めた。取り敢えずはその場凌ぎで昔のWiiかPrayStation2かなんかを渡した記憶もある。
好きなだけやれ、と。
その後は、大画面ディスプレイや専用コントローラまで買い与えた。
結局は、方針はただ一つだった。
実は、これはエヴァンゲリオン新劇場版にあった庵野監督の所信表明にそうあったのを覚えていたから。
主人公が何度も同じ目に遭いながら、ひたすら立ち上がっていく話です。
娘の時も、確かこれだった。
何度も何度も挫けそうになるかもだけど、その度に自分の意思で立ち上がるしかない、って。
親ができるのは、信じることだけ。そう思ったのです。