はてなキーワード: エッセイとは
他人の愚痴を一方的に聞かされた挙句に同意まで強要してくるようなコンテンツ、わざわざ好き好んで読む奴の気が知れない
別に燃やそうなんて思わないけどさ
ある漫画家の日常エッセイマンガを読んで、面倒くさい人だなこの人 と思った
最近読んだマンガ(歴史系グルメもの)がエッセイマンガの著者と同じであると気づいた
面倒な友人によく似た性格をしていると感じる
日常エッセイの方は父親の再婚による後妻と義理の妹についてひたすら悪態をつき自己嫌悪をしているような内容だった
後妻や義妹の振る舞いが白々しく自分と相容れない(趣味の悪い)人間だと毛嫌いし、そのくせ表面上は良識あるふりで愛想笑いする
なんというか面倒な人という感じだった
紙でエッセイ読んでた層が今ネットで読んでるのもまたエッセイ的な何かだろ
エッセイと銘打ってないだけで
テレビがオワコンなってYouTubeに移行しても映像コンテンツの終焉でないように
むしろプロセミプロからパンピーまで全人類がエッセイ発信してるような時代では
女のエッセイ漫画とか読んでると、女の泣くことへのハードルの低さを感じる。
とにかくめそめそとよく泣く。ことあるごとに一人でスンスン泣いている。
男からするとありえないんだ、そんなことは。
こういうの見ると、ああほんと女は泣くことに対して抑圧とかリミットというものがないんだなと思う。
男は意地というかプライドというか、泣くことが恥ずべきものとして育てられるから俺は安易に泣けないんだよ。
あとで正気に戻った時に、めそめそ泣いた弱い自分を認められる自信がない。絶対自尊心さがる。
なんのプレッシャーも負い目もなく、女はすぐ泣けていいな。
集団教育ばかりが教育ではなく、個々人にあった学び方・生き方がある、学校が全てではない… ということを著者本人の経験を通して伝えるマンガといったところだろうか。
しかしこの主人公、いじめにあったわけでもなく、発達障害等の診断が出ているわけでもなく。とにかく協調性がなく頑固もの、という表現をされている。絶対に行きたくないといってきかない、それだけで理由についての記述はなし。なのでまるで共感できない。学校に行かない以外はなんの問題もない子、元気いっぱいで明るい、ただちょっと頑固なだけの子という描写なので、ちょっと心情的に理解できないのだ。
父親が無理に学校に行かせようとしたら喘息の発作が出た、というあたり、かろうじて何か問題があったのかもと思わせるけど、それ以上の問題描写はなし。ひたすら元気で明るく頑固な主人公が学校を嫌がりつつ成長していくという。。
こういう子供を持ったらどうすべきなんだろう、と読んでて考えてしまう。
自分も学校や会社など対人・集団生活は好きでも得意でも無かったので、行きたくないという気持ちはあるしわかる。けどこのマンガの著者の行きたくなさは、入学式の前にもう始まっている。行ってみて嫌だった、ではないのだ。じゃあ対人不安でもあるんだろうかというとそれは無し。近所の子と公園で遊ぶ描写があり、支援学級のクラスメイトとも仲良くしている。拒否する理由が自分の想像する感じからはかけ離れて異質な感じがする。
引きこもりが身内におり自分も鬱で休学していたので、何か学ぶものが有ればと興味を持って読んだのだが、まったく役に立たない。それどころか学校に行かないことを肯定するようで、有害に感じてしまった。
多様性が認められていく時代で、学校に行けないなら他の手段で学べるというのは大事だけど、行きたくないなら行かなくていい、というのは違うと思う。
けどまあ、こういう描かれ方をしているけれど、発達障害ではあるだろうし、行きたくても行けない人ではあるのかもしれない。
人気のエッセイやnoteってほとんどが日常の愚痴や文句と、薄っぺらい社会の考察を書いてるだけなんだけど、この"共感される文章を書き続ける"は"ヒット曲を作り続ける"事と同じでとっても難しい事なんだよな。
書くことはつらい目に遭っている人の心のバランスを取る効用がある。
古くは司馬遷だったり、マルキドサドだったり、それを翻訳した澁澤だったり日本のヤクザ小説家だったり、政治家だったり。
それぞれ集中しやすい獄中からなかなかの名作本を書いている。https://scrapbook.aishokyo.com/entry/2015/12/20/112208
また自分は本をかけなくてもインタビューに答えて出版してもらう形で印税を得る人もいる。
それではてなブログもとりあえずは「自分を表現してみませんか、自分を振り返る効用がありますよ」ということで
10年つづいてきた(今キャンペーンをやっているhttps://blog.hatena.ne.jp/-/campaign/hatenablog10th-question10 万ねん筆だのインクだのの筆記具をくれるらしいが、万年筆って蓋をしていても一か月もすれば中身のインクがカラカラに乾くから個人的には嫌い)。
ダイアリーといいながらも、わりあいに小説だったりエッセイと呼べる程度にクオリティの高い長文が投下されていた。
はてなダイアリーはすんなりとはてなブログに移行され、どちらもたしか6万字程度が上限だった。十分な長さだ。
ところが横の連帯はキーワードリンク程度しかない寂しい修行場のような場所でもあった。
そこではてなハイクができた。上限たしか1万字程度で、論戦には十分だが基本的には猫や鳥や料理の写真と大喜利が主流であった。
だがツイッターの台頭が「牢屋や修行場のようにしずかでいること」あるいは「なごやかな大喜利や生活報告にとどまること」をネット民に許さなかった。140字の揚げ足取りがネットの主流になってしまった。
ツイッターに論客()を取られたあとのはてなには100字のはてなブックマークとはてなダイアリーのシステムをほぼそのまま流用した使いづらいはてなアノニマスダイアリーが残った。
ここでいいたいのは、増田で書くことには効用が薄いということだ。人前ではいえないこともSNSでいくらでも本名から遠いハンドルネームをつくって書いたり同士を募ったりすることができるのに、そのハンドルネームによるアイデンティファイさえ捨てて言いたいことなど、この増田をみていてわかるように
「もっと俺をみろ」
「パンティ見せろ、しゃぶれ」
という5歳児のような(いや性欲がある分5歳児より悪い)我欲の塊でしかないのである。
まるで、「蜘蛛の糸」でお釈迦様が糸をたらした地獄そのものだ。ありもしないチーズを探すネズミどもの居場所がここなのだ。
だから、文章を書くときは、ここ以外で書け。効用を求めるのならIDをつけられる場所で書け。できれば自分だけのために書け。
ここで書きだしたら終わりだと思え。
何人かで飲みに行くと料理は当然みんなでつつき合う。シェアして当然の文化がある。これが微妙に嫌だ。
汚い、というより分ける感覚が苦手だ。食べたいものはたくさん食べたいがあまり好きではないものは手をつけたくない。
今、こういうご時世だからシェアする文化は廃れてくれないだろうか。
現状は多くの飲み屋のメニューは一皿で2人くらいでシェアする前提の量になっているものが多いが、これをもう少し少量にして個々に頼むスタイルになっていかないだろうか?
古いエッセイを読んでいると、「男3人で飲みに行き枝豆と焼き鳥をそれぞれみっつづつ頼んで」といった表現があり、昔は食べたいものを個人で頼んでそれぞれ食べていたと思われる。
また、これは居酒屋でバイトをしていたときに知ったのだが、外国人グループはシェアして食べる文化がないようだ。5、6人で来てそれぞれが「えだまめ」「サシミ」「ポテト」と言ってオーダーしていく。料理は頼んだ人の前に置かれその人が一皿独占する。ちなみに会計の際はワリカンなどせず自分が頼んだ料理ぶんだけそれぞれが支払っていく。
こう考えると飲み屋でみんなで料理をつつき合う文化はいつから始まったのだろう。最近なのではないだろうか。(最近と書くと30年前は最近じゃない!とかうるさいことを言う奴がまたいそうだが)居酒屋チェーンが台頭して、若者も居酒屋に入りやすくなってからではないだろうか。
注文の際にいちいち揉めたりしない。これは3個入りでメンツは4人だから、えーと2皿頼んで2個は半分に分けようか、とか、焼き鳥は人数分頼もうか、いやでもレバーはそんなにいらない、タレでいい?皮は塩だろう、とか、そういうぐだぐだが一切無くなる。
おれはだし巻きとつくねをたれで!わたしは海鮮サラダの小とポテトフライ!きっぱり、はっきり、すっきり迷いなしなのだ。
また、残りひとつになってみんなが遠慮して誰も手をつけなくなった冷めた唐揚げ、なんて悲しい子を無くすことができるのだ。
どうやって知ったか覚えていないが、インターネットを徘徊するのが好きだったので、もしかしたらこの匿名ダイアリーをきっかけに知ったのかもしれない。
過去の遍歴が興味深いと言ってくださる友人がいたので、久しぶりに投稿してみる。先に言っておくがオチはない。
当時の私は親のDVやモラハラに苦しめられ、学校ではいじめられて孤立。
今ならTikTokでDVやいじめの証拠を上げたら味方になってくれる人が沢山いただろうが、当時はTwitterに画像や動画を載せる公式機能がない時代だった。
今も昔も、相も変わらず悲劇のヒロインだ。
親ガチャは中の下だと思う。
小さい頃から家ではひっくり返った家具が散乱し、壁やドアには穴が空いていた。この惨状を掃除をすると怒られるため、割れたガラスの上を歩いていた。
夜明けまで怒鳴り声が聞こえ、家は度々揺れた。何かが壊れる音は日常茶飯事だったが、そのおかげで電話の着信音や車のクラクションで頭が真っ白になるようになった。
DV被害者の専業主婦の母には、離婚してほしいことや転校したいことを懇願したが、「この家に生まれたからには人生を諦めなさい」と言われ、私は事あるごとに諦めるのが習慣となった。
進路も親の意向が厳しく、父はコミュニケーションも適切にとれない人間だったから、自分が希望する大学の出願書はビリビリに破られた。
質問サイトに経緯を綴って相談したら「学費を払ってもらえるなら我慢して言うことを聞くべき」と言われた。
過保護に育てられた世間知らずな自分が家出をしてお金を稼ぐ勇気もなく、結果的にはその通りの道を歩んだ。
高校ではいじめっ子に盗撮されてネットに悪口付きで晒されるなどの被害を受けたため、受験シーズンでも授業は図書館、カウンセラー室、校長室でサボっていた。
お昼はもちろん便所飯。(便所飯の存在を否定するコメントを目にすると胸が痛くなる)
学校の先生に強制的に診療所に連行されたことがある。その時お医者さんに「一時的な悲しみですね」と言われた。
これが私の最初の診断だった。自分は病気ではなく、これは一般的な苦しみなんだと解釈して絶望した。
それでも、できることは全部したつもりだ。
命の電話に相談、学校の先生に相談、心療内科・精神科に通院。医者が合わなければ他を探し、いろんな薬を試し、カウンセラーも何名かとお話した。
結局のところどれも解決には至らなかった。
それどころか、大学時代には死ぬと思われたのか、とあるカウンセラーには警察に通報されて逮捕されたことがある。それ以来、カウンセラーは一切信用しなくなった。
皆が寝ているであろう深夜に警察に部屋を侵入され、「動くな」と拳銃を所持した警官に言われた。「寮の鍵や財布を持っていって良いですか」と聞いたら「ダメだ、お前はもうここには帰らない」と言われた。
パトカーの光が暗闇で飛び交う中、カウンセラーと寮長が遠くからこちらを見ていた。意味が分からなかった。
牢屋のような個室で凍えながら数時間放置され、検査が終わったら「特に問題ありませんね」と夜明けに病院から追い出された。
面白いことにどう帰宅したか全く覚えていないのだが、気がついたら寮の前にいた。おそらく警察が車で送ってくれたたのだろう。ドアをノックしたら寮長が気づいてくれて鍵は再発行してもらった。
DVといじめの経験があると、友達の作り方が尚更分からず、大学時代は声を発する機会がほとんどなかった。この地獄が終われば親の呪縛から解放されると思った。
親の夢を一通り叶えた時に私は束縛から少し解放された。だがしかし、親の敷いたレールから外れようとした時に精神的な暴力を受けていた人間は、解放されたとて自発的な意欲や判断能力が蘇ることはもうないのだ。
もう遅かったのだ。
当然の如く就活は失敗し、実家でニートをしていた。それでも自分のペースで努力はした。
重い腰を上げて心療内科に通い、ひきこもりの集会に参加し、会話の練習をした。
死ぬ前にもう一度だけ頑張ってみようと思い、ハロワで就職支援を受けた。中小企業になんとか採用してもらえることになった。
中途入社の社員が一ヶ月で退職することが珍しくなく、3年で社員がほぼ全員入れ替わるような会社だった。同僚が突然音信不通のまま出勤しなくなったり、新卒が鬱病で休職したのちに退職した。
転職にも挑戦してなんとか成功したのだが、入社して半年で部署の上司が全員退職した。
会社のシステムがボロボロなことに気づき、どうにか変えられないかと偉い人に提案を試みたものの、最終的には「お前は前の上司に洗脳されている。俺には弁護士がいる。過去に社員を訴えようと思ったことがある。口コミサイトにたとえ事実だけ書いても被害は発生するから損害賠償を請求する。」と脅された。(本人は誹謗中傷や脅迫の自覚は一切ないようだった。)
仕事に向いていないことに気づいたので定職についている時に婚活にも勤しんだ。
大学院卒で大企業勤務、趣味も同じという人と奇跡的に出会ったが、交際後に相手が少しモラハラ気質であることが発覚した。
身だしなみに興味がない相手に鼻毛や眉毛を整える提案(よければ私がやる)、美容院の選定、洋服のコーデを一緒に選び、「興味がなければ私が払う!」と言ってみたものの彼は嫌がった。その否定の仕方はどれも心無いものだった。
他にもエピソードは沢山あるが、頑なに別れの相談に応じなかったところでブロックした。
ここで、最低限の清潔感もない男性は外見や内面をアップデートする努力を拒否する可能性が高い種族だと学んだ。(一緒くたにするのは良くないが、個人的にはもうこりごり)
その後、またニートに戻ったのが今。
運や環境が悪かったのもあるし、会社や人を見極めるのが下手な自分も悪かった。努力の方向が間違っていると指摘する人もいるだろう。
10年前もある種無敵な人だった。死にたかったし、誰かを巻き添えにしたって構わなかった。友人がなんとかできた今でさえ薄らそう思う。
でもどうすれば救いがあったのか?
今でも疑問に思う。
当時、子供なら誰か助けてくれると思っていたが、実際には学校もカウンセラーも命の電話もできることに限界があった。
若い女性は男性より支援を受けやすい聞くが、あまり性差はなかったように思う。(特権に気づいていないだけかもしれないが)
お前がブサイクなだけだからでは?と思うかもしれないが、ファッションやメイクの流行を追うのは好きだし、軽い美容整形にも投資しているので、表向きはむしろ幸せそうな人間に見えていると思う。
なら風俗やキャバクラで頑張ればいいじゃんと言われるが、TikTokでキャバ嬢、メンエス嬢、風俗嬢の日常を見る限り、彼女らはとてつもない努力と精神力で今の地位を得ている。
どれもリスクが高い仕事だし、メンタルが弱く話術がない自分には不向きだ。
こんなパッと見普通の女性の苦労話をもっと可視化して発信すれば、幸せそうな女性に対する偏見が少し収まるのかなとも思うが、嘘松認定されたらそれで終わるので難しいところである。
希死念慮を抱えていた人間が「いつか絶対に報われる」と言われ続けて10年生きてみた人の感想。
時間が経ったからか、トラウマは笑いながら話せるくらいには乗り越えたし、鬱状態の自分を静観?できるようになり、ゲームをする元気も出るようにはなった。親も歳をとり、物をひっくり返したり家が揺れることも減った。また、親の夢を叶えたことに免じて、ニート状態も許してもらっている。
挑戦することから逃げなかったという意味では、小さな前進は継続的にできていた人生だったと思う。
しかしながら、お金を稼ぐための力や社会の厳しさに耐えられるメンタルがないと分かった今、正直当時自殺しても良かったんじゃないかとも思う。
今後何しようかというと、死ぬ前に同人エロゲでも作ろうかなーと思ってる。
絵も描けるし動画も作れるしゲーム開発経験もあるから。今は3Dモデリング勉強中。
それとも自分の境遇をブログでコミックエッセイのように発信しようかなとか。
でもただの悲劇のヒロインエピソードだし、オチもないし、批判や個人特定が怖いしなーと公表することに悩み中。
でもなんでもやってみることが大事だよね。
10年以上はてなにいる皆さんはどのように暮らしが変わりましたか?
人生に悩んでいる後輩がこれを読んでいるとしたら、参考にならなくてごめんね。
先輩は何か知恵があったら教えてね!
AIのべりすと(https://ai-novel.com/novel.php)に下記紹介記事の末尾から続きを書かせてみた。
https://omocoro.jp/kiji/317487/2/
ということで、「AIのべりすと」は想像以上にすごいAIでした。これからの文章入力はAIの補助によって大きく変わっていくのかもしれません。たとえば、
私は今までキーボードを使っていましたが、今後はスマホやタブレットからの音声認識だけで文書作成ができる時代がくるのではないかと思います。
しかし、その前に、まずは「AIのべりすと」をきちんと扱えるようにならなければなりませんね。「AIのべりす」はまだまだ発展途上なので、今後ともしっかり勉強していきたいです! 今回はちょっと変わったテーマについて書いてみようかと思っています。テーマはズバリ『お金』です。
実は私もまだ社会人になったばかりで、お給料をもらっているわけではないのですが、このエッセイを読んでくださっている方の中には、既に会社に勤めて働いていらっしゃる方がたくさんいることでしょうから、そういう方にこそ読んでいただきたいなぁと思って今回のテーマを選んでみました。(といっても、学生さんにも興味を持ってもらえる内容になっているとは思います)
私の身近には、すでに結婚していて子どももいる同級生も何人かいて、みんなそれなりに贅沢している様子だったのですが……最近になって「あれ? そういえばうちって意外と貯金がないかも?」と思ったんです。そして、改めて自分の家の経済状況を振り返ってみると、やっぱりそんな気がしてきて……。そこで「よし、じゃあ節約しよう!」と思い立ったわけです。
1つ目は、親元を離れて一人暮らしをしているので、少しでも生活費を切り詰められるところは切り詰めたいなという気持ちがあったこと。
2つ目は、親から毎月かなりの額のお小遣いをもらっていたけど、自分で自由に使えるお金が少ないなと感じていたこと。
以上の理由から、今の生活の中で一番出費が多いと思われる食費や光熱費などの固定費を減らすことはできるんじゃないかと考えたわけです。
まぁ、節約と言っても、いきなりすべての支出を削るようなことまでするのは無理だと思うので、とりあえずは自分が無駄だと思っていることを見直してみるところから始めてみたいと思います。
それでは早速本題に入りましょう。
■無駄だと気づいているものリスト1:テレビ・ゲーム類 これは真っ先に削れるものだと思っていたのですが、いざこうして考えてみたら結構ありました。特に最近は新しいゲーム機が次々と発売されることもあって、つい買ってしまうんですよねぇ……。でも、こういうものは必要経費だと考えることにして、月々のお小遣いの範囲内でやりくりできるように頑張りたいと思います。
ちなみに、我が家にある据え置き型のゲーム機は以下の通りです。
○PS4/3DS/Switch ○PSViTA ○XBOXONE(初代)
このうち、Switchだけはどうしても欲しいソフトがある時には家族全員で協力して購入しています。また、PC版があるので、そちらをプレイすることもあるのですが、その場合は本体代だけ負担してもらっています。それ以外は基本的に家族の誰かのものになることが多いですね。
ちなみに、私はSwitchを買う時に、任天堂のオンラインサービスに加入しましたが、今は加入せずに使っています。
■無駄だと気づいているものリスト2:パソコン・スマートフォン こちらもすぐに削減できそうな項目だと思いまして、実際にいくつかやってみたのですが、意外と難しいものでした。
まず、現在のデスクトップ型パソコンの使用頻度が低いことです。現在使っている機種はWindows8搭載モデルなのですが、もう10年近く前の製品になります。OSの更新などもあるため、そろそろ買い替えの時期かなぁとも思っていたりするのですが、なかなか踏ん切りがつかないでいます。
ただ、仕事関係でメールを使う機会が増えてきたこともあり、できればノートパソコンを使いたいと考えています。ただ、こちらは私が所有しているノートタイプのものが、Wi-Fi環境でしか使えないので、外出先で使う場合は別途モバイルルーターを用意しなければならないのがネックになってきます。
さらに、スマホも持ち歩くようになったのですが、これも案外高い買い物だったりします。私は普段はガラケーを使っているので問題ないのですが、新たに契約する時は携帯ショップに行っていろいろ説明を受けなければならず、結局1時間くらい待たされることになってしまいます。
もちろん、これらの支払いは親にお願いすることになると思うのですが、やはり毎回親に頼むのは申し訳ないなぁと思ってしまう部分もあり、どうにかできないかと考えているところです。
最後に、このエッセイを書くために改めて自分の家計簿を確認してみたところ、なんとびっくりすることに、一か月分の食費だけでも約9万円もかかっていました。しかも、ここから交通費や雑費などもかかることになるので、実際にはもっと多くなるはずです。
ということで、この金額を見た瞬間、思わず「ひぇ~」と声が出てしまいました。さっそく、このお金をどうやったら節約できるのか、真剣に考えなければなりませんね。
以前、私の父は「節約は大事だぞ」と言っていたことがありました。確かに節約することは大切だと思うんですが、節約ばかりしていると健康を害してしまうんじゃないかなぁなんて思ってたりもするんです。
というのも、節約のために食費を抑えようとするあまり、栄養バランスが崩れてしまうんじゃないかなぁと感じたからです。
例えば、野菜や果物などを全く食べずに肉ばっかり食べるようになると、「お腹いっぱいになったらそれでいいじゃん!」という考えになってしまうかもしれません。その結果、お昼ご飯を食べなくなったり、夜ごはんもコンビニ弁当などで済ませてしまったりと、食生活のバランスを崩すことにもなりかねません。
他にも、ビタミン不足で肌荒れ
これすごくね?
一般人でもネット論争にちょこっと巻き込まれるとただただ不毛で消耗すんのにさ
しんどくない?
いらいらしてそのうち頭おかしくなってきたりしないの?
室井佑月氏なんかはテレビやエッセイみたいなので一方的に発信するほうがメインの活動だから、ネットは彼女のメインの活動じゃないし、特にしんどく感じてそう
石川優実氏は軸がしっかりあって、自分の正義のもとにぶれずに発信し続けてるからあれはまあ、今はあれで楽しめてるんだろうね
でも昔より常に怒ってる人、みたいな印象は強くなってきたよ
この前のNHKに出てたけど、「優しく言ってるうちには伝わらなかった」と言っていたし、常に怒ってる人、というイメージは自分で演出してるのかもね
はあちゅう氏なんかはもう完全に折れてる感じがする
米山さんとかひろゆきとかトイアンナくらいネットの反応を面白がってる人じゃないと、はあちゅうみたいに最後は心を焼かれるんでない?
みんな心配だわ
幼稚園から不登校で大学に行ったというエッセイマンガを読んでる
引きこもりがいるので何か参考になるかなと思ったが、役に立たなさそう
学校に行きたくなかった理由も明記されてない、著者が振り返っていないので、ただただこんな子供・こんな家庭もあるんだなという感想しか持てない
テーマとしては幼少期から不登校でもちゃんと社会に適応できるよ、という不登校の子供を持つ人への勇気づけのような感じだろうか
自分もコミュニケーションも集団生活も苦手だし、好んで学校や会社に行くたちではない
けれどだからって家にいて自分だけで社会に出る段取り付ける才能と力があったとは思えない
嫌々ながらも集団生活をこなすことで慣れて、うまく関わっていけるところもあったのではと思う
生きてくには人と関わらざるを得ないのに、幼児期・少年期にその機会を敬遠して、子供の自主性に任せて良いものだろうか、子供に任せて幸せになれるだろうか
この話ではたまたまの成功例でしかなく、このマンガを信じて子供に学校行かせない選択をしたら、大半の親が後悔するだろうと思う
親戚の引きこもりは学校に行くのを嫌がって、それが中2 その後高校も大学も職業訓練も支援施設にも行くのを拒み、30半ば
最初はいろいろ試した両親も、何をしても嫌がる子供に諦め、いつか気持ちも変わるかもしれないからと、無理強いはいけないと許容することで本人の気持ちが良い方に向かうことを望んだけど
結局こうなってしまった
KindleUnlimitedで、1巻完結で気楽に読めるエッセイ漫画を色々と読んでるけど、いわゆる「理解ある彼くん」が結構な頻度で登場して、読むたびにちょっと笑ってしまう。
まあ生存者バイアスというか、鬱とかカルトからの脱出には誰か第三者の手助けが必須というわけで、そういうところから救われた人をテーマにすると、どうしてもそういうポジションの人が出てくるのはわかるし、そういうものだというのはわかっているけど、「理解ある彼くん」とネットミーム的なネタにされてしまうと、本筋とは関係なくつい笑う。もはやあるあるネタみたいものになっちゃったんだよな。ちなみにこの手のエッセイ漫画では、「理解ある彼くん」以上の確率で主人公が幼いころから絵が上手とか、マンガを描くのが好きだったりするエピソードが出てくるぞ。漫画家だから当たり前だけどな!
そういや「理解ある彼女ちゃん」は何でいないの?と言われるけど、理解あるかどうかは知らんが、男性作家のエッセイ漫画っていつの間にか結婚してるケースが多い気がする。むしろ生活の酷さをアピールしているのに何で結婚できるの?という方が疑問なんだけどな。ボッチ村の作者の人とか。