はてなキーワード: 購読者とは
https://dic.nicovideo.jp/a/%E6%BC%AB%E7%94%BB%E9%9B%91%E8%AA%8C
マイナー雑誌が「不自然」に多い。つまり日本の需要で支えられないほど雑誌が多くはないかという気がするのだ。
まず大多数が名の知れた雑誌に流れる。そこで知った作品で十分満足し、いちいち他の雑誌の探求などしようとしないはずだ。
つまりマイナーな雑誌を知る機会を得る層自体ごくごく限られると言える。
では現状知ってる作品で満足しない人が雑誌を知る過程はどういうものであるはずか。
だって地元の大型書店とかでも見たことない雑誌多いしマイナーな雑誌を取り扱ってるところなんてこのあたりぐらいだろう。
そういうとこに行ったとき何のマイナー雑誌がその人の目に入ってきて気に入るかは、多分にランダム性が高いと思う。同様に確からしいということだ。売り場における雑誌の配置も書店によってまちまち、そこで探す読者側のルートもまちまちで、前提知識とかない状態でどの雑誌にびびっとくるかは偶然性が高い事象であるはずだ。
つまりマイナー雑誌に目をつけるような層の人口を、マイナーな雑誌の数で割って得られる人数によって、各々のマイナーな雑誌は支えられているという仮定することができる。読者側が、各々のマイナーな雑誌へ完全にランダムに振り分けられると言い替えてもいい。
たとえばそういう層が仮に10万人いて、雑誌が100あったら、1000人で支えていることになるという具合。
実際は割る数も割られる数も不明だが、個人的に直観的に、割られる数が大きすぎる気がしている。
本当は今の5倍は定期的に買ってくれる人がいないと成り立たないのに、その5分の1で雑誌が維持されている、みたいな印象。何倍なのかは知らんけど。
少子高齢化でますます漫画に触れる層全体が少なくなっていってるのにどうしてこれだけの雑誌が存続可能なのかと思わざるを得ない。
仮定が間違っているという可能性は十二分にある。各雑誌の購読者に対して100ぐらいずつでもいいから、どうやってその雑誌を知ったのかのアンケートをとるべきだろう。余談だが日本語の文の文法性を測る調査において一つの文に対して200人、それを300項目、延べ2000人程度の人を対象にそれが自然な文に感じられるかそうでないかを訊くアンケートをとっているような例があって、つまり文科系界隈においては数千人規模のアンケートをとるのはざらなことなのである。こんな程度で臆している場合ではないのだ。
とにかくそういうことをすればもっと現実に適合する仮定を立てられるかもしれない。悲しいかな俺は職業研究者じゃないからそんな力ないんだけど。
ちなみにニコニコ大百科のその記事がよい宣伝塔になっているみたいな仮定は野暮だ。これらの雑誌にはニコニコ大百科の記事が存在する前から存続している実績があるはずだから。作品単体ならともかくネットで雑誌自体の存在を知るということ自体手段・過程として主流じゃないと思うよね。
→ でも、関西コレクションは加藤純一さんを降板させたけど、そのイベントは一回せいぜい四万人程度の動員で、ジャンプののべ購読者数より遥かに低いよ
→ でも、ヤマサ醤油は田辺さんを放逐したけど、眼目は「いじめ虐待人権侵害を容認しない」で、五輪憲章への適合性は関係ないよ
→ でも、田辺さんは謝罪さえもしたのに、容赦無くこれ見よがしに切り捨てられたよ
→ でも、五輪のショーディレクターを解任された小林賢太郎さんの問題になったコントはDVDにも収録されてないし、加藤純一さんのはファン向けのトークライブでの発言だ。田辺さんに至ってはすぐ撤回されたツイートで断罪されたよ
キャンセルカルチャーを止めたい気持ちは分かるし、世の流れに逆らって批判するのは偉いと思うけれど。
でも、そのためにダブルスタンダードになることさえ厭わないなら、せめて今日までは五輪への、いじめられ経験への鬱憤を晴らすために倫理観を恣意的に正義に転用して人を殴ってたってことを、認めようよ。パブリックエネミーに仕立て上げた人たちに、頭を下げようよ。
数年前はシンプルなロリの自慰行為エロ漫画だった気がするんだけど、徐々にロリレズ自慰になっていった。(うめっこ堂の表現で言うところの「絶頂」は自慰行為で得て、攻めのロリはオナサポ)
その後、ロリだけじゃなく、肉体的にはかなり成熟しており「おねえさん」と呼ばれる女性(言動などはこどもっぽく年齢不詳の観はある)が登場するようになり、「絶頂」も攻めである他人が直接的に与えるものに変化。
手マンが出たときも驚いたが、直近ではクンニ描写まで入ってきて、隔世の感があるなと思った。
まだ性的なことを知らない幼女が偶然自慰の味を占める…みたいな話の展開だったその昔は、登場人物の幼女は「絶頂」のことを「なっちゃう」と表現してたんだけど、最近では普通に「イく」って言ってるし。
購読者に飽きられないようにということなんだと思うが、このままエロ描写が進んでゆくとどうなんるんだろう。
以前、作中作(ロリが偶然エロ漫画を読んでオカズのある自慰に目覚めるっっていう話)で、拘束されてじらされるような描写があったので、ひとまずそっち方向に行くとして、その次はもう玩具等、なにがしを膣に挿入する、果ては異性の登場になってくるしかなくなさそうなんだけど、それって単独のロリ自慰漫画とか読んでた作者のファンのツボにはまるんだろうか?
白饅頭の言い草って、全部が全部「バカにバカと言ってはいけない」なんだよ。
バカは前提なんだよ。それを許そう、と。何様だよ。
「賢いリベラルがバカにバカと言うからアメリカもヨーロッパも日本もダメになった」とか、
バカを前提にしてリベラルにマウント取るために「バカに馬鹿と言わないオレ」を演出してるでしょう。
それも、リベラルへの提言みたいな言い草で、徹底して部外者のフリして美味しいところだけ持っていこうとする。
それに、流行りの思想家を持ち出して、「サンデルがー」「ピケティがー」って、彼らの思想的背景を無視して
都合よく言葉を切り取っているのも、実のところ読者をバカにしているのよ。どうせわからないだろうと。
徹底的に自分以外をバカにしながら、小賢しいことを言ってマガジン購読者数稼いで、いっちょ前にラジオとか出て、
「若者の代表者」とか「ネット論客」とか、誰かの代表みたいな口を聞いている、その誰かをコケにしまくっているくせにな。
どんだけバカにしているの?
現状から一歩踏み出すためにまとめてみた。
少し時間が経ったら、追加したり書き直してブラッシュアップするつもり。
会社員生活に性格的になじめない。今まで我慢して続けていたが、現在とは違った収入手段を得て会社を辞めたい。
人間関係でストレスを感じる。もともと対人関係スキル、ストレス耐性が低かった。会社に入って慣れていくこともできず、ストレスから不眠症状などが出て、生活の質が低いと感じる。
生活は地味目で支出はあまり多くない。月20万円程度の収入を目標(年収200~250万円)にして、ウォーキング、読書、ネット徘徊などを趣味にして、マイペースで生きていくことを希望。
転職しても、また現在の職場と同様、人間関係に悩むことになるだろうから、ネットを使った個人事業プラス足りない分を短期間のアルバイトで補うかたちで収入を得たい。
・自分のような「会社員生活不適応人種」が、この世の中で細々と生き延びるスキルとか考え方をつづる。現在社会の中で「生きづらい」と感じている人も一定数いるだろうと思われるので、その層から購読者を得たい。
・同様の内容を発信している人はすでに多く、いかに特色を打ち出していくか。
・個人によるアフィリエイト収入は多くを望めず、かなりの作業量を投入したとしても月1~2万円程度が関の山か。
日本でも自分自身が住んでいる地域によって接客業の話が噛み合わないように
自分自身の所得に合わせて住む場所と付き合うコミュニティ選ぶと思う
(スーパーZIP・・・”those ranking highest on income and college education”、つまり、「居住者の平均所得や大学卒業率が、最高ランクである地域」のこと)
このスーパーZIPが全米でもっとも集積しているのがワシントン(特別区)で、それ以外ではニューヨーク、サンフランシスコ(シリコンバレー)にスーパーZIPの大きな集積があり、ロサンゼルスやボストンがそれに続く。
ワシントンに知識層が集まるのは、「政治」に特化した特殊な都市だからだ。この街ではビジネスチャンスは、国家機関のスタッフやシンクタンクの研究員、コンサルタントやロビイストなど、きわめて高い知能と学歴を有するひとにしか手に入らない。
ニューヨークは国際金融の、シリコンバレーはICT(情報通信産業)の中心で、(ビジネスの規模はそれより劣るものの)ロサンゼルスはエンタテインメントの、ボストンは教育の中心だ。グローバル化によってアメリカの文化や芸術、技術やビジネスモデルが大きな影響力を持つようになったことで、グローバル化に適応した仕事に従事するひとたち(クリエイティブクラス)の収入が大きく増え、新しいタイプの富裕層が登場したのだ。
マレーは、スーパーZIPに暮らすひとたちを「新上流階級」と呼ぶ。彼らが同じコミュニティに集まる理由はかんたんで、「わたしたちのようなひと」とつき合うほうが楽しいからだ。
新上流階級はマクドナルドのようなファストフード店には近づかず、アルコールはワインかクラフトビールでタバコは吸わない。 アメリカでも新聞の購読者は減っているが、新上流階級はニューヨークタイムズ(リベラル派)やウォールストリートジャーナル(保守派)に毎朝目を通し、『ニューヨーカー』や『エコノミスト』、場合によっては『ローリングストーン』などを定期購読している。
また彼らは、 基本的にあまりテレビを観ず、人気ランキング上位に入るようなトークラジオ(リスナーと電話でのトークを中心にした番組)も聴かない。 休日の昼からカウチに腰をおろしてスポーツ番組を観て過ごすようなことはせず、休暇はラスベガスやディズニーランドではなく、バックパックを背負ってカナダや中米の大自然のなかで過ごす。ここまで一般のアメリカ人と趣味嗜好が異なると、一緒にいても話が合わないのだ。
前々回の投稿(11)で言及した『映画秘宝』内部で起きていた「業務の『私物化』」について、引き続き今回も述べようと思います。
ムック形式が好評だったこともあり、90年代の終わりに雑誌化・大型化を見事に果たした『映画秘宝』は、傍目には順風満帆に見えました。しかし、初期の同誌を読んでいた方々ならばご存知のとおり、若者の購読者を想定した誌面作りとはお世辞にも言えませんでした。初期の『映画秘宝』がそのターゲットにしていた購読者とは「子供時代の70年代に映画館やテレビで観た映画についての記憶を、編集者・ライター陣と共有する大人」だった訳ですが、当時そんな条件を満たしていた人たちは、私も含めて既に「立派なオジサン・オバサン、若しくはその仲間入りも間近な人たち」でした。そのままでは購読者の高齢化によって、ジリ貧に追い込まれるであろうことは明らかでした。
したがって、雑誌『映画秘宝』が将来的にもビジネスを継続して生き延びるためには、長期的な戦略として「より広範で多様な読者層を開拓すること。それも、特に『若者層』と『女性層』を購読者として積極的に取り込むこと」を選択するべきでした。しかし、こんな事を今さら書いても、後の祭りです。
ご承知のとおり、それとは正反対の戦略を『映画秘宝』は選択しました。いや、何らかの戦略を選択したと言うよりも、むしろ「長期的な戦略など、当時の『映画秘宝』編集者・ライター陣は露ほども真剣に考えてはいなかった」と言う方が正確かもしれません。
覚えている方もいるかもしれませんが、高橋ヨシキが『映画秘宝』の表紙デザインとして、邦画から引用した「裸の女性が荒縄で緊縛されて馬に跨がる残酷エロ画像」をコラージュして仕上げたことがありました。この表紙について、町山智浩は「この表紙じゃあ女性が手に取り辛い(=買い辛い)」とボヤいていました(※注)。雑誌の「顔」である表紙がこんな状態だったぐらいですから、高橋ヨシキの頭に「女性購読者を獲得すること」など微塵も無かったことは明らかです。
既に述べたとおり『映画秘宝』は「女子供から映画を取り戻せ!」をスローガンにしていた訳ですから、むしろ「いかに女性が手に取り辛い(=買い辛い)デザインにするか」について考えた上で、高橋ヨシキは意図的かつ積極的に「女性が嫌がりそうなデザイン」に仕上げたのだと考えるのが妥当です。きっと、このような表紙を作っていた時の高橋ヨシキは「オレたち男だけの輪を乱すような奴(=女性)は、お呼びでないから帰った!帰った!」「この表紙デザインを見たら、きっと町山さんも喜ぶだろうなあ!」と云う気持ちを込めていたことでしょう。(※注:ところで、町山智浩も本気でボヤいていたのではないのだろうと私は思いますが、そう思う理由については別のところで述べます。)
近年は真魚八重子などの女性執筆者が『映画秘宝』に登場する機会が増えてはいましたが、それで町山智浩や高橋ヨシキの芸風が改まったようにはとても見えず、むしろ却って「これでもオーケーなんだ!こんな芸風でも女は許容してくれるんだ!」と彼らの勘違いを助長したと云う可能性すら有ると私には思えます。仮にそうだったとしたら、真魚八重子の頑張りが報われていなかったことになって、非常に気の毒な話ですが。
また、これも既に過去の投稿でも述べたことですが、比較的早い段階から『映画秘宝』は、ごく少数の寄稿者(例:山本弘)を除けば「アニメファンを蔑視・敵視・嘲笑する」と云う態度を明確に打ち出していました。この「アニメ叩き」の姿勢は同誌において長く一貫していたと言ってもよく、恫喝DM事件が発覚する直前にも「『鬼滅の刃』は絶対に観ない!」と、訊かれもしないのに自分たちの方からアピールに励んでいました。
もちろん、思想信条の自由に照らして考えれば、編集者やライター個々人が「何か」を嫌うこと自体は許されるべきです。だから、対象が「萌えアニメのファン」だろうと「女性」だろうと何であろうと、高橋ヨシキらが個人的に何かを嫌うことは自由の範疇あると言えるでしょう。極端な話、内心だけに留めて現実の世界で実行に移しさえしないのであれば、性的マイノリティ/人種・民族etc.に対するネガティブな気持ちを持っていても許されるでしょう。
しかし、その上で問いますが、当時の編集者・ライター陣がわざわざ誌面を使ってまで「女嫌い」や「萌えアニメ嫌い」を盛んにアピールしたり、ゲイを繰り返し「ホモ」呼ばわりして嘲笑し続けて、雑誌『映画秘宝』を売ると云うビジネス全体にとって、何か良い成果を招いたでしょうか?結果的には、女性・萌えアニメファン・性的マイノリティはもちろんのこと、それらに該当しない人たちにすらも「何だか『映画秘宝』は排他的な雰囲気があって嫌だなあ。近づくのは止めておこうか」と思われ、遠ざけられただけに終わったように私には見えます。
そうして「未来の購読者」に成っていたかもしれない人たちも見す見す逃してしまって、長期的に見れば大きな損をしたのではないですか?もしも、編集者やライター陣の個人的な好みに拘ったことによって、ビジネスの未来が失われたのだとしたならば、それについての責任を彼らはどう取るつもりなのでしょうか?
当時の『映画秘宝』の萌えアニメ叩きムーブに関しては、こんな出来事もありました。ある時、俳優の加藤雅也に対するインタビューを行った際、わざわざ「最近の若い奴らは、萌えアニメなんかにウツツを抜かしているんですよ!」と御注進に及んだのです。もちろん、そのインタビュー記事の中では、それに対する加藤雅也の「『萌え』ねえ…」というリアクションの言葉を「例の見慣れた太いゴシック文字」で強調することも忘れませんでした。つまり当時の『映画秘宝』は「あの加藤雅也サンも、萌えアニメなんか好きな奴のことは見下して馬鹿にしているんだゾ!読者の皆も後に続け!」と、虎の威を借る狐のスタイルで萌えアニメファンを嘲笑することに勤しんでいたのでした。それにしても、何の脈絡も無く突然「萌えアニメが云々」とか言い出したので、インタビューを受けていた加藤雅也も反応に困ったのではないでしょうか。加藤雅也についての面白い/興味深い話を読みたい読者の立場からすれば「何でインタビュアーがいきなり『オレは萌えアニメが嫌いだ!』と自己主張を始めるんだよ。お前は主役じゃねえだろ。お前の自己満足にスペースを割くぐらいなら、もっと加藤雅也の言葉を載せろよ」と云う感想を抱くしかありませんでした。きっと、このインタビュアーの脳裏には、読者の存在及び読者のニーズなどは思い浮かびもしなかったことでしょう。
上で述べたような行動に熱中していた『映画秘宝』編集者・ライターたちは、ただ単純に「『自分たちの欲求』が充たされて気持ちが良かった」のだろうと思います。もちろん自分の欲求を充たしたいと思うことは人間として当然ですし、仕事を通じて欲求を充たすことが出来れば、こんなに幸せなこともないでしょう。しかし、それをするならば良識と限度が必要不可欠です。わざわざ無駄に敵を増やし、未来の購読者を失ってまで「自分たちの欲求を充たすこと」を優先したことは、仕事(ビジネス)として必要なこと、正しいことですか?
ひょっとしたら「眼の前の『利益』を捨ててまで『信念』(=嫌いな奴らを大っぴらに嘲笑すること)を貫くことが出来るから、オレたち(=『映画秘宝』)はスゴいんだ!」と、『映画秘宝』切り株派は自分達に酔っていたのかも知れません。しかし、それは別にスゴいことではありません。
洋泉社としては、雑誌『映画秘宝』の刊行を「遊び」や「無償ボランティア」として、ではなく「まっとうなビジネス・業務」として行っていた訳です。それには先ず雑誌が売れること、それも短期的にだけではなく長期的に売れることが先決であり、その為には更に、購読者を増やすことが何よりも重要でした。したがって、これらの重要事項こそが『映画秘宝』製作チームに対して洋泉社が何よりも先に求めたことだったはずです。「何よりも先に」です。
それなのに、購読者を増やさず、と言うよりも増やす為の努力を端から放棄して、逆に無駄に敵を増やすことにだけはキッチリ勤しんでいた訳ですから、洋泉社にとって『映画秘宝』の編集者・ライター陣は、さぞかし頭痛の種というか獅子身中の虫というか、実に困った存在だったと推察されます。
こういった「まっとうなビジネスであれば求められて当然の事柄」には応えようとせず、何よりも先ず「自分たちの欲求を充たすこと」を優先して仕事に臨む、これこそが私の言う「業務の『私物化』」なのです。
この文章を読んでいる方は、試しに想像してみて下さい。もしも貴方が何処かの会社などに勤務していて、社員皆一丸で協力して赤字解消や顧客開拓などに努めねばならない時に、赤字を垂れ流したり顧客どころか敵を増やす行動にばかり勤しむ同僚が社内にいたとしたら、しかも、それに勤しむ理由が「自分が気持ち良いから」とか「これをやると○○センパイが喜ぶから」とかだったら「テメエの『趣味』の為に業務を『私物化』するんじゃねえよ!」と言いたくはなりませんか?単に「職業人」としてだけではなく「社会人」としても失格でしょう。
このように『映画秘宝』の行動は、とても「長期的な利益を考えている」とは思えないようなものばかりでした。岩田和明による恫喝DM事件を見れば分かりますが、ごく最近の『映画秘宝』内部でも「長期的な利益を考えず、自分が気持ち良くなることを優先する」と云う風潮が継続していたことは明らかです。更に、岩田和明が退職するからと云う理由だけで、のんさんの連載を打ち切って雑誌の「売り」を無くすように仕向けたことも、これまた雑誌全体のことを考えない「自己中心的な行動」でしょう。
仕事に関して「長期的な利益」について考えると云うことは「自分よりも若い世代に残す未来」について考えること、つまり「責任感の伴う態度」です。これに対して「業務の『私物化』」とは、仕事に臨むに当たって「今」の「自分」のことしか考えないこと、つまり「無責任な態度」です。
『映画秘宝』は、彼らが「精神年齢の幼稚な奴ら」と見なして嘲笑していたアニメオタクや「馬鹿な宣伝に騙されて底抜け大作を観に行く奴ら」と侮蔑していた女性と、彼ら自身とを勝手に比べて「自分たち(=『映画秘宝』の編集者やライター)はアイツらと違って『大人の男』なんだ!」と周りに向けて盛んにアピールし続けてきました。しかし、果たして彼ら自身は本当に「大人」と呼ばれるに値する人間だったでしょうか?
「雑誌の未来」よりも「自分たちの欲求」を優先し続けてきたことを、中心メンバーによる「業務の『私物化』」と呼ばずして何と呼べば良いのでしょうか?「身体は大人、頭脳はコドモの幼稚な遊び」でしょうか?
高橋ヨシキら「切り株派」が居なくなった2号目にあたる『映画秘宝』に、アニメ作品の特集記事が掲載されることが予告されました。この「居なくなった途端に」と言っても良い動きを見るに、おそらく「切り株派」が彼らの一存で他の派閥の編集者やライターに対して「『映画秘宝』でアニメ作品を扱うなよ!」と有形無形の圧力を掛けていたことは、想像に難くありません。そのような圧力が存在したとしたら、一部の人間の一存で企業努力の可能性を封じられていたことになるのですから、これもまた「業務の『私物化』」です。
「今」の「自分(たち)」のことしか考えない「無責任な体質」なのだから、年下の女性に対して恫喝DM攻撃を行ったり、自分たちよりも年下のフリーの女性編集者に対してパワハラを行ったりするのも、何ら不思議ではありません。告発を受けるまで、何一つ疑問に思わなかったのは「本当」でしょう。何しろ彼らの頭に有るのは「自分(たち)のこと」だけなのですから。
奈良さんがパワハラを告発した後に柳下毅一郎が出した、あの謝罪文としての体を成していない文を読んだ時も「ヨシキくんが報われて欲しい」とか、被害者を置き去りにしたことを書いていて「本当にどこまでも『自分(たち)のこと』だけに終始するんだな」と私は思いました。東大を出たぐらいだから間違いなく柳下毅一郎は頭が良いはずなのに、被害者を含めた「他者の存在」に対して満足に想像力を働かせることも出来ず、謝罪文一つまともに書けないとは流石に想像できませんでした。子供か。
『映画秘宝』の中心メンバーとも呼んでもいい人間たちが「業務の『私物化』」をし続けても恥じなかったのは、彼らの根底に有る「ボンクラと云う『甘え』」の精神だと私は思います。
だから『環境は、あなたを映す鏡。』とかドヤ顔で言われたりする
(スーパーZIP・・・”those ranking highest on income and college education”、つまり、「居住者の平均所得や大学卒業率が、最高ランクである地域」のこと)
このスーパーZIPが全米でもっとも集積しているのがワシントン(特別区)で、それ以外ではニューヨーク、サンフランシスコ(シリコンバレー)にスーパーZIPの大きな集積があり、ロサンゼルスやボストンがそれに続く。
ワシントンに知識層が集まるのは、「政治」に特化した特殊な都市だからだ。この街ではビジネスチャンスは、国家機関のスタッフやシンクタンクの研究員、コンサルタントやロビイストなど、きわめて高い知能と学歴を有するひとにしか手に入らない。
ニューヨークは国際金融の、シリコンバレーはICT(情報通信産業)の中心で、(ビジネスの規模はそれより劣るものの)ロサンゼルスはエンタテインメントの、ボストンは教育の中心だ。グローバル化によってアメリカの文化や芸術、技術やビジネスモデルが大きな影響力を持つようになったことで、グローバル化に適応した仕事に従事するひとたち(クリエイティブクラス)の収入が大きく増え、新しいタイプの富裕層が登場したのだ。
マレーは、スーパーZIPに暮らすひとたちを「新上流階級」と呼ぶ。彼らが同じコミュニティに集まる理由はかんたんで、「わたしたちのようなひと」とつき合うほうが楽しいからだ。
新上流階級はマクドナルドのようなファストフード店には近づかず、アルコールはワインかクラフトビールでタバコは吸わない。 アメリカでも新聞の購読者は減っているが、新上流階級はニューヨークタイムズ(リベラル派)やウォールストリートジャーナル(保守派)に毎朝目を通し、『ニューヨーカー』や『エコノミスト』、場合によっては『ローリングストーン』などを定期購読している。
また彼らは、 基本的にあまりテレビを観ず、人気ランキング上位に入るようなトークラジオ(リスナーと電話でのトークを中心にした番組)も聴かない。 休日の昼からカウチに腰をおろしてスポーツ番組を観て過ごすようなことはせず、休暇はラスベガスやディズニーランドではなく、バックパックを背負ってカナダや中米の大自然のなかで過ごす。ここまで一般のアメリカ人と趣味嗜好が異なると、一緒にいても話が合わないのだ。
何年か前の話、たまたま目に入ったブログの文章が好きで更新されるたびに読んでいた。
それを書いていた人はまだ若く、自らについて十代の後半ぐらいと語っていた。そして、俺は自分自身の偏見をさらすのを承知で言うんだけども、その人は高校もまともに卒業していないらしく、誰かの文学に触れた様子もうかがえず、ただただ、日々流れるように遊び暮らしている生活しかブログに記録されていない…にも関わらず、おそろしく情感のこもった、美しく、それでいて痛快な文章を書いた。
ブログによって世間に向かって書いている以上、読んでいる側を面白がらせよう、関心を持たせよう、という気持ちは当然あっただろうけど、表面ではまったくそれを感じさせない文章だった。その人は、言葉がそう並べられるべき順番で、美しく、愉快なセンテンスを、平然と書くことができた(というように見えた。少なくとも)。
俺は、まぎれもなくこれは才能だと思った。シンプルに文才というやつだ。
俺と同じように感じていた人間も多かったようで、その人のブログの購読者数はあっという間にどんどん増えた。しかし、あるとき特に予告もなく、その人はブログの更新を止めてしまったのだった。
…
数年が経って、その人は、止めたときと同じように突然に更新を再開した。
俺は喜んだが、その人の文章が昔と変わってしまっていることに気がついた。
ブログには、実生活で色々と大変なことがあった、と赤裸々に報告されていた。そういう経緯が影響を及ぼしたものかわからないが、かつてそうだった、奇跡のようなその人の文章は決定的に失われていた。新しい文章は過剰に説明的になり、どこか言い訳くさく、言葉の隙間から読む側をじっとうかがうような息苦しさがあった。
…
いつか時間が経てば、その人の文章は元に戻るのだろうか? 例えば、病から人間が回復するように。あるいは、もう戻らないのかな? 誰も加齢で失っていくものは取り戻せないのと同じように。
増田で聞いても「知らんがな」だろうし、これが俺の想定となれば猶更「知らんがな!」だろうが、俺は、たぶん戻らないだろうな、という気がする。
そういうわけで、おそらくあの才能は永遠にこの世から失われてしまった。
当たり前だが、ブログを書いている本人はまだ生きているし、その中の才能が消えて去ることを「死んだ」と形容するのが適当かどうかわからないのだが、俺の中に惜しいとか悲しいとかを超えた大きな寂寞があって、暫定的に悼むという表現を使うことにします。
タイトルの通り知能で分断されているって印象ですけどね
日本も同じに思う
今もなおTVにケンタにファミレスにフードコートは金持ちに選択だからなぁ
(スーパーZIP・・・”those ranking highest on income and college education”、つまり、「居住者の平均所得や大学卒業率が、最高ランクである地域」のこと)
このスーパーZIPが全米でもっとも集積しているのがワシントン(特別区)で、それ以外ではニューヨーク、サンフランシスコ(シリコンバレー)にスーパーZIPの大きな集積があり、ロサンゼルスやボストンがそれに続く。
ワシントンに知識層が集まるのは、「政治」に特化した特殊な都市だからだ。この街ではビジネスチャンスは、国家機関のスタッフやシンクタンクの研究員、コンサルタントやロビイストなど、きわめて高い知能と学歴を有するひとにしか手に入らない。
ニューヨークは国際金融の、シリコンバレーはICT(情報通信産業)の中心で、(ビジネスの規模はそれより劣るものの)ロサンゼルスはエンタテインメントの、ボストンは教育の中心だ。グローバル化によってアメリカの文化や芸術、技術やビジネスモデルが大きな影響力を持つようになったことで、グローバル化に適応した仕事に従事するひとたち(クリエイティブクラス)の収入が大きく増え、新しいタイプの富裕層が登場したのだ。
マレーは、スーパーZIPに暮らすひとたちを「新上流階級」と呼ぶ。彼らが同じコミュニティに集まる理由はかんたんで、「わたしたちのようなひと」とつき合うほうが楽しいからだ。
新上流階級はマクドナルドのようなファストフード店には近づかず、アルコールはワインかクラフトビールでタバコは吸わない。 アメリカでも新聞の購読者は減っているが、新上流階級はニューヨークタイムズ(リベラル派)やウォールストリートジャーナル(保守派)に毎朝目を通し、『ニューヨーカー』や『エコノミスト』、場合によっては『ローリングストーン』などを定期購読している。
また彼らは、 基本的にあまりテレビを観ず、人気ランキング上位に入るようなトークラジオ(リスナーと電話でのトークを中心にした番組)も聴かない。 休日の昼からカウチに腰をおろしてスポーツ番組を観て過ごすようなことはせず、休暇はラスベガスやディズニーランドではなく、バックパックを背負ってカナダや中米の大自然のなかで過ごす。ここまで一般のアメリカ人と趣味嗜好が異なると、一緒にいても話が合わないのだ。
爆撃機の装甲を厚くすべきなのは「対空砲火を受けた場所」と「受けていない場所」のどちらか?
予想を大きく外したダイジェスト社の場合、自社の雑誌購読者(高額な雑誌)、電話やクルマの保有者の総計1000万人を選び、そのなかから200万人の回答を得ていました。
Amazon.co.jp 友だちの数で寿命はきまる 人との「つながり」が最高の健康法 石川善樹 Books マガジンハウス
「子供の頃の虐待経験が寿命を短くする デューク大研究で判明」:イザ!
子どものころに虐待経験の高齢者 年間医療費11万円余高く | NHKニュース
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DCN(Digital Content Next)はニューヨーク・タイムズやワシントン・ポスト、ウォール・ストリート・ジャーナルなど大手出版社を代表する業界団体。その組織がアップルのティム・クックCEOにより良い取引条件、すなわちAmazon(アマゾンプライムビデオ)と同等の扱いをしてもらうために何が必要かを問う質問状を送付したしだいです。
iOSアプリを介したサブスクリプションは通常、初回購読者から30%の手数料を徴収します。これが1年後には15%に引き下げられますが、Amazonに対しては初回から15%を提示していた証拠が米下院反トラスト小委員会の公聴会で持ち出されていました。
マスコミだよ。
院内感染が発生すれば鬼の首取ったように医療関係者を叩いてる。
自粛警察よろしく外出してる人を取材してる癖に自局で感染発生させてる。
感染症対策の専門家でも何でもないヤツが感染症についてああでもないこうでもないってしゃべってる。
このままでいいのか?
アイツらは自分達のことを権力と対峙する国民の味方のように嘯いてるが、その実自分達で好き勝手に情報の発信できる、まさに「権力」そのものなんだよ。
コロナの中で今まで当たり前だった事が変わるかもしれない今、コイツらを後世に残さないようにするのが必要なんじゃないか?
簡単な話で、アイツらは視聴率なり購読者数なりが減ればそれだけで首を絞めることが出来るんだよ。
政治家や官僚とは違って、自分達の手で引き摺り降ろすことの出来る権力なんだよ。
もしこの考えに賛同してくれる人がいたら、このハッシュタグと共に記事をSNSとかで広めて、考えに共感してくれる人を集めて欲しい。
#NoMassMediaNeeded