はてなキーワード: 綺麗事とは
そもそも確認ミスにより日本国籍の人を他の国籍と決めつけて一方的にキャンセルしたのは非常に失礼であり、不適切な対応だ。
だが、外国籍の人を断っている理由だけを見ると、就労ビザの実情を知っている者から見れば割と納得のいくものである。
Twitterで「外国人の店員いっぱいいるじゃん」「外国人差別だ」と言ってる人がいたので、匿名ダイアリーを使ってみたかったこともあり、知っていることを書いてみようと思う。
留学生(留学ビザを持っている人)はアルバイトをすることができる。
留学ビザは、かなりアバウトにいうと学校が申請して外国人学生に渡すものだと思っていい。
アルバイトは就労時間や一部の職種(風俗業など)に就いてはいけないといった制限はあるが、ほぼ日本人のアルバイトと同じように働ける。
※留学ビザ以外にも定住者や配偶者ビザなど、アルバイトできる資格はいくつかある。
就労ビザは企業が申請して外国人従業員に渡すものだ。慣れてない企業だとかなり手間がかかる上に、就労ビザの条件は厳しく、専門学校や大学で学んだ分野と関連性がない職種にはビザが出ない。
割と簡単に取れる『特定技能』というビザもあり、こちらは飲食店に就職することができるが、総合職や人事などには就けない。レストランでホールやキッチンなどをするのが主な業務となる。
店舗にいる外国人店員のほとんどが留学生アルバイトか特定技能ビザでの社員だと思う。
そして総合職などに就職する場合は『技術・人文知識・国際業務』という就労ビザが必要になるが、前述の通り大学等で関連のある分野を学んでいる必要がある。
だが総合職や人事に関連する専攻に当てはまる分野とは何か?と考えるとかなり限られてくる。(というかほぼないと個人的に思っている)
昔は、表向きは通訳として雇い実際はキッチンをさせているというゆるい時代もあったのだが、最近は厳しくなってきて少しでも専攻分野と仕事内容が違うことが判明するとビザが取り消されることもある。
つまり吉野家がインタビューで述べた「技術・人文知識・国際業務ビザの取得は非常に困難であり、内定取り消しをせざるを得なくなったことが一定程度ございました」というのは事実だと思うし、
「ビザの取得をできず内定を取り消された方の心象を慮るあまり、外国籍の方は新卒の会社説明会のご応募をいただいても参加をやむなくお断りしておりました」についても
『心象を慮るあまり』は綺麗事という印象を受けるが、せっかくエントリーシートや履歴書を作成して提出してから断られるよりは最初から断ってくれたほうがいいという志望者もいるだろう。
ちなみに就労ビザが出なかった事例として「留学ビザでアルバイトしていた時期に時間制限を超えて働いていた」というものもある。
企業側が職種や専攻などいくら気をつけても、思いがけない理由でビザが出ない可能性があるのだ。
そして、吉野家だけでなく他の企業でも同じ理由で外国籍の人を避けるケースは多い。
わざわざ手間を増やして取得できないかもしれない就労ビザを申請するより、日本人を雇ったほうが早いからだ。
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これらは差別と言えばそうなのかもしれない。
しかし、仮に全く同じ条件の人間が二人いたとして、片方が同じ国籍でもう片方が外国籍だったらどちらと結婚したいか。
対話能力や文化・価値観の違いによるトラブルが少なそうなのは?
繰り返しになるが、今回の吉野家の件で論点になっているのは「確認ミスにより国籍を勝手に決めつけて不適切な対応をした」ことである。
実の娘レイプした父親無罪を叩く→「法律をわかってないバカフェミ!」
小田急フェミサイド事件を叩く→「事件を利用するクソフェミ!」
医大受験の性差別を叩く→「現場をわかってない綺麗事フェミ!」
正直に言えよ「黙れ」って。
事あるごとにフェミって「男性嫌悪とフェミニズムは違う」って必死に否定するけど、否定を垂れ流すだけで排除は全くしないし、自浄作用全く働いてないよね。
男性嫌悪の書き込みしながら私はフェミですって名乗ったり信じてる人twitterにもここにも大勢いるよ。
「男性嫌悪とフェミニズムは違う」という主張 vs「男性嫌悪ばら撒いているフェミ」という事実 の現状があって、誰だって事実の方を真実と思うよね。
もしそういう主張を正しいと思わせたかったら、「男性嫌悪ばら撒いているフェミ」をフェミニスト全体が否定/排除する必要があるよ。でもtwitterみても現状全くそうなってないよね。
外部に「フェミニズムはこういう考えだ」と発信する前に、まずは男性嫌悪の否定をフェミニスト内部で統一見解として持つのが先じゃないの? やる事やってから主張しないと、オオカミ少年ですよ。
主張を信じてもらうためにフェミニストは何をすべきか、をまずフェミニスト界隈(内部)で考えるべきなんだよ。それからだよ、外部に発信するのは。
ホッテントリに上がってたニュースを見たときになんとなく思ったこと。
あの政党の成果として語り継がれているのはそういう案件だったようだ。
おそらく綺麗事では洗い流せなかったものに対抗するにはチンピラ紛いの味方を連れてくるしかなかったのだろう。
毒を制した側の毒にとっては、おそらく自分が求められた特性を今も振るっているだけなんだろう。
その後のありとあらゆる仕事にギガストラッシュを振るっているのだ。
とりあえず現時点ではギガストラッシュは必要ないんだが、チンピラ紛いの議員にしてみれば
自分は何も変わってないのに求められることが変わったことを受け入れられないのかもしれない。
チンピラ紛いの議員は、いまだ強大な敵が居た城で戦っているつもりなのだろう。
場所は同じだ。どこに強大な敵の手の者が潜んでいて己を陥れようとしているのか分からない。
自分の邪魔をする敵はギガストラッシュで成敗する、それを皆が喜んだのだから今後もそうするんだろう。
毒を制して残った毒はどうすればいいんだろう。
次の毒を連れてきて徐々に毒を弱めていくしかないんだろうか。
ごく少数の「悲惨な目に合ってる可哀想な外国人」の何倍もの「同じ人間だと信じられないようなクズ」と
大量のクズが「悲惨な目に合ってる可哀想な外国人」を装って騙しに来る中から
正しく「悲惨な目に合ってる可哀想な外国人」だけを見つけ出して手厚く対応しろ、なんて無理な話。
少しでもクズを「悲惨な目に合ってる可哀想な外国人」扱いするミスを犯すと
生活保護を叩くようなコミュニティが嬉々として槍玉に挙げて批判してくるし、
人間の悪意ってのは放射線と同じで、長い間浴び続けてたら体や心がおかしくなっちゃうんだよ。
だから政治家とか、入管職員とか、それ以外にも「仕事として人の悪意と向き合う職業」は
インターバルなしで連続就業できないように仕組みを作らないと、仕事の質も下がる一方だし
就業した人が適応できずに心や体を壊しちゃうとただでさえ減っていく労働人口がもっと減っちゃうよ。
https://twitter.com/bokkan_sha/status/1516244720179355648?s=20&t=cq-O_VtaZAFx8u9IsCB3Ow
これ見て、正直わからなくはないと思った。
「シャブ漬け」の部分は全員に共通してセンシティブな言葉なので一旦そこは問題として切り分ける必要がある。
もし「シャブ漬け」がなかったとして、「生娘」のままだったらそれはそれで炎上していたと思うし、「童貞」だったらそこに声をあげた男性はそんなにいないんじゃないかと男性の立場からは思う。
なぜかを推測すると、男性の方が強者だと思っている男性がまだ世の中の大半だからというところにたどり着く。
「強者の余裕」という言葉があるように、自分を弱者と認識している人、あるいは劣等感を持っている人ほど本質的でない部分(今回でいうと施策の方針としては問題ないが内輪で発言した表現が問題だったわけで)に敏感に反応するのかな、と。
そう、「たわわ」の件でも思ったけれど、一部の女性から「強者の余裕」が感じられないのが現代社会の本当の問題だと思う。
賢い男性は、女性の何かを軽くいじるような言葉はとにかくNGですぐ炎上するから言わないように多分気をつけていて、もっと賢い男性はもし騒いでいる女性がいたらうんうんそうだねーなどと相槌を(本当の意味で共感なんてできるわけはないのに)適当に打ったりしている。
こういう人たちは反論したいのに黙って耐えているのかというとそうではなくて、そもそも男性の方が色々と恵まれているという意識が潜在的にあるんだと思う。
恵まれているのだから、自分より恵まれていない側に配慮してあげよう、せめて好きに言わせてあげよう、みたいな気持ちになっている。その方が色々と面倒ごとがないし。
こっちの人たちの方がよっぽど女性を軽く見ていると思うんだけど、こういう人ほどうまく世の中を立ち回るし、女性にも支持される。
つまり何が言いたいかというと、いわゆるフェミニズムが本当に目指すべきなのは、表立った言葉狩りではなくて、女性が心から羨ましいと思われるような社会を裏で根回ししながら作ることなのかな、と思う。
みんなに見えるように愚かな男性を吊るし上げても、賢い男性が本音を隠してしまうだけで本質的には何も変わらないし、むしろ断絶が進むばかりな気がする。
そうではなくて、女性に生まれたかった、女性でありたかったと男性が本音で羨むような社会に、男性も気づかないうちにあれよあれよとシフトしていけたら良いのになあと思う。(具体的な策はないので綺麗事かもしれない)
半分ぐらいつまらんくて10話ぐらいまで見て切ったわ
マジでキツかった。特にARC-V。カードゲームなのに「はいバリアー」とか舐めてんのかと。せめて「僕の考えた最強カードをドロー!ナンカ=スゴイ=ツゴウイイ=ドラゴンはこの状況にメッチャ都合がよくて勝利!」がラインだろ。VRAINSの無駄に複雑にごちゃごちゃさせおいて結局オリカで勝つのかよもアカンかったな。あとこの時代に今更バーチャル空間カチャカチャターンハッキングをカッコイイ扱いはだっせえわ。バトルプログラマーシラセの時代に卒業してろよ。デジモンですらもう20周年とかだろ。GXと5DSはまだ見れたので全話見た。初代は原作で読んだからアニメはパス。
・戦隊ヒーロー(ルパンレンジャー、トッキュウジャー、キラメイ)
ルパンは正義が2倍になった分お説教も2倍って感じが見ててうわキツ……でしたわ。ガキ向けの綺麗事は過剰摂取できねえわ。トッキュウジャーは中身が子供らしいけどそれ相応の言動を大人がしてるのがキツすぎでしたわ。キラメイも同じ。ゼンカイは子供っぽいけど弁える所弁える感じだったから見れたわ。まあアレは明らかにオッサン向けだったんで特例だな。
・仮面ライダー(W・000・555・アギト・龍騎を除くほぼ全て)
いやーうん。この辺のだけが面白すぎた。やたら勧められるからほぼ全部付き合いで最初の5話ぐらいは見たんだけど途中でウワー無理だ―って離脱して最後の3話ぐらいだけ見て話し合わせてる。
・ウルトラマン(Z以外の全部)
全部面白くない。いやまあセブンとか一瞬面白い回あったし、Zについては短期決戦のお祭りでシリーズほぼエアプでも楽しめたんだけど基本はただの金太郎飴ですわな。3話みたらもうあとは同じ。
仲違いする回ぐらいまでは見るけどそれ以降は金太郎飴みたいな感じで飽きちゃう。ハートキャッチだけ20話ぐらいまで見たけどそれぐらいだったな。
レインボーライブだけは面白かった。他はプリパラもプリマジも見てるけどちょっと合わないっすね。
いやもうマジムリ。子供の演技が子供レベルの演技すぎて面白くねえ。どう楽しめってんだよ。
・ポケモン
綺麗事だけでは世の中やってけねえよ?って話なんだろうな
「障害者のバリアフリー整備のために運賃上げます」さえも通らなかったくらいだし。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000213594.html
伊是名さんの味方っぽい立場の人でもめちゃくちゃ丁寧にコスト割り勘論を避けて「JRが自腹を切れ」に拘っていたし、実際に運賃上げるとか匂わせた瞬間にこうなった。
で、ゴミ箱撤去しますっつったら「ポイ捨てしまくって抗議だ!」みたいなのが湧いた。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/lawkus/status/1483048981739364354
この人なんかも、普段は良識ぶって、キモイオタクは人間として未熟なオコチャマだから大人の男である俺がTPOを教えてやるぞってノリで繰り出して来る系の人なんだけど、そういう人がここまで醜く豹変して、内に秘めた思春期ヤンキー丸出しのクソガキ世界観をお漏らしして「舐められてたまるか💢」とかやり出してしまった。
(ってやると晒して個人攻撃になっちゃうのは恐縮だけど、あくまで例示で、別にこの人に限らず類型は多数いた)
人権や社会問題に意識高い自認のインターネット連中ですら、こういう「口先だけの綺麗事はノーコストだから大好きだけど、実際に自分の財布から出て行く金は1円足りとも見逃さねえ!」って銭ゲバ根性を恥じも隠しもしない。その他大勢の一般大衆なんか推して知るべし。
そんな中で鉄道会社側が取れる手段なんか「テロ対策とかいうクソ浅い建前で誤魔化してゴリ押しする」以外に無いんよな。
で、そういう「浅い建前」を問題視する姿勢もまあ分かるんだけど。他ならぬ俺ら自身がそういう浅い建前を誘導し、支持し、温存している当事者の群れを構成する一匹であるという自覚持って生きて行こうな。
けっこういい感じに分厚かったけど、半日没頭して読んでしまった。
来月辺りに広瀬すずと松坂桃李の主演の映画が公開されるし、TSUTAYAに行けば売れ筋ナンバーワンとしていっぱい平積みされているので、わざわざ私が紹介しなくてもいい気がするが……。
著者の凪良ゆう先生はBL小説家としてデビューした人気作家。数年前からBLレーベル外の小説も書くようになった。『美しい彼』『わたしの美しい庭』『滅びの前のシャングリラ』など著書多数。
主人公の更紗(さらさ)は、風変わりな両親に愛され、自由奔放で健やかに育っていた。だが、平和な日々は突然瓦解してしまう。天涯孤独となった更紗は伯母の家に預けられたものの、普通の家庭に馴染むことが出来ない。居場所のない彼女は放課後、独りきりで公園に行き、ベンチに腰掛けて読書をして時間を潰すようになる。
公園には更紗以外にもう一人、ベンチの常連がいた。更紗の学校の友人達からは「ロリコン」と呼ばれる、痩身の若い男。彼は毎日、暗い目で女児達の姿を追っていた。
更紗が伯母の家での暮らしに限界を感じた夕方、これまで更紗に対して無関心を貫いていた「ロリコン」が彼女に近づいてきて……。
ざっくりと言えば、かつてTwitterとかでフルボッコにされた伝説の『幸色のワンルーム』(はくり)みたいなストーリー。傍目には、猥褻目的誘拐犯に性犯罪被害者が懐いてしまうストックホルム症候群にしか見えないけれど、実は訳ありのお兄さんが虐待を受けている女の子を救い、それをきっかけに強い絆で結ばれ、唯一無二の関係性を築いた二人の物語。
なんか物議を醸しそうな筋書きだけど、今のところ『幸色のワンルーム』のようなボコられ方はされていなさそうだし、これからもそうはならないかもしれない。
ただ、レビューを見てみると、猫も杓子も作者が読んで欲しいように読んでいるというか、「事実は真実とは違うということがわかりました。わたしも無理解から他人を傷つけないように気をつけてようと思いました」と多くの人々が判を押したように書いていて、道徳の時間の小学生じみていて、うすら怖い。一体どうした、みんな真面目か。
まあそれは置いといて。『幸色―』よりは好意的に受け入れられているっぽいのはたぶん、そもそも挿し絵無しの小説なので、女児の可愛い言動や性犯罪被害を描いてもそれを「性的消費」目的で書かれたとは思われ難いというのがあるのかなと思う。それに、物語全体のうち、被害者女児と誘拐犯の暮らしが書かれた部分はそんなに多くない。それより、更紗が事件以来、15年の歳月をどのように生きてきて、現在はどんな風に暮らしているのかに多くのページが割かれている。そして、更紗が性的虐待を受けている場面や、彼女にとってはしんどいだけの性行為の場面は、心情はリアルに書かれても行為そのものは生々しく描写されはしないので、虐待描写のオカズ化は防がれている。そういう意味では安心。
未成年者略取という犯罪に夢見すぎという批判はあると思う。だがそれも罪を犯した文(ふみ)の内心が吐露される章で緩和されるのかな、たぶん。
現実にも起こりうる、子供が被害に遭う犯罪とその冤罪。当事者しか真実は知らないはずなのに憶測が飛び交い、被害者・加害者ともにオーバーキルとなるほど晒し者にされ平穏な日常生活を奪われ追い詰められること。そういうことを物語のネタとして取り上げることの良し悪し。それについて私自身がどう思うのかといえば、良しとも悪しとも言えないなぁという歯切れの悪いことを言うしかない。
個人的な好き嫌いのことをいえば、センシティブなネタほど「逃げの一手」を打たない方が好き。例えば近親相姦もので実は血が繋がっていなかったのでセーフでしたとか、小児性愛者が未成年者略取の罪を犯したと思ったら実はそいつは小児性愛者ではなかったのでセーフでしたとかいうのは、何がセーフじゃ甘えんな! もっと業に正面から向き合えと思う。
『流浪の月』はどうだったかといえば、文は実は小児性愛者ではなかったので、そういうとこは私のあまり好きじゃないものの類なんだけれど。だってたぶん多くの読者が「更紗と文にはこれからは静かなところで幸せに暮らして欲しい」とレビューに書いているのって、文が「安全な人」だとわかったからで、もしもまじもんの小児性愛者だったら同じ感想が出るか? っていう。なんていうのか、結局は罪を軽減して世間並に受け入れられるレベルまで物語引き下ろした感が出てしまうというか。それで事実と真実は違うよねーと言われてもなって感じがする。
だが、文がなぜ自らを偽ってまで小児性愛者のふりをしてきたのか、その事情と心情があまりにも切々と書かれていて胸を打たれたので、私の個人的好き嫌いとかどうでもいいかもう、と思い直した。
事実と真実は違う。人それぞれに抱えているものがあって、それを他人が何も知らない癖に常識だのなんだのを笠に着て叩くことが許されようか? 本作のテーマはそんな感じだが、幼い頃の更紗を育んだ家庭や、大人になった更紗に関わる人々などを、更紗が許容するもの・拒絶するものに、そうは言ってもな……とちょっと疑問が残るようになっているところが良いと思った。
たとえば、母親が無理をせずに幸せであることは大切だとして、更紗は彼女自身の母親や、同僚の子持ち女性の自由奔放ぶりを許容する。ところが更紗の母親と同僚女性は娘の物分りのよさに甘え、自分の恋愛にかまけて娘を放置するという全く同じ行動をする。だが、その結果は大きく異なる。更紗は母親に遺棄されたせいで理不尽に辛酸をなめることになったが、同僚女性の娘は放置されたものの完全には棄てられず、それが切っ掛けで更紗と文という年の離れた友人に出会い、精神的に救われることとなる。同僚女性は更紗と文という協力者を得たお陰で、娘を遺棄せずに自分の人生も大切にできたとも言えるかもしれない。同じ事が起きても結果は違う。これを人それぞれと言うか、そんなんただの運だから、最初からちゃんとしているに越した事はないと思うか。現実としては、周囲から親にかけられるプレッシャーのお陰で子供が守られているという事も、往々にしてあるが……? などと、ちょっと考え込んでしまう余地が読者には与えられている。
一方で、更紗はDV気質のある恋人の亮のことは、交り合うところが一つもないと拒絶し切り捨ててしまう。亮がなぜDVを止められなくなってしまったのか、その理由を知っていながら、理解も共感も彼女は拒否するのだ。母親が我が子を遺棄することには同情すら示すというのに、DV男はどんな事情があれどもダメであるというアンバランス。DV男は許してはならない、そんな奴からは早急に逃げるべきだというのは正しい。ここを違えたら今時の読者には受入れられないのは想像に難くないが、世間へのご機嫌取りとも思えない、あえての偏った描写なのだろうか。と、ここにも悶々と考えさせられる余地がある。
また、他人の無理解によって苦しめられてきた更紗もまた無謬の人という訳でもなく、無邪気な思い込みで発した一言で文を深く傷つけたのに長い間気づかず、文の真実を知らないままであった。それは、読者が安易に更紗と自己を同一視して気分を良くするだけにとどまるのを阻んでいる。更紗が文の真実を知った時、それまで更紗と一緒に被害者意識を持って、解っていない人々を糾弾出来る立場にいたはずの我々は、自分達が解っていない人々と同じ穴の狢であることに気付かされ、ショックを受けるのだ。
後半、読者目線では余裕で予想できる破滅的な結末に向けて、更紗と文が善意やちょっとした人としての良識を発揮したせいで転がり落ちてゆくところは、はらはらしてつい目が離せなかった。それはダメだ、善意でもやったらいけないやつだと、更紗達を批判することを、圧巻の心理描写が妨害してくる。簡単に教訓を得ていい気分になって読み終えることを許してはくれない。それがこの小説のすごい所なのかなと思う。
にも関わらず、レビュー者が判を押したように教訓を得た事ばかりを書くのは、この小説が安易な共感を読者に許さない、熟考を強いてくるからなのかもと私は思った。そう易々とは自分の意見を書くことが出来ないから、かえってテンプレみたいな感想を書いてお茶を濁すことになるのだ。
さて、以下は凪良ゆう先生のBL作品の紹介と、『流浪の月』とテーマが似ていると思う作品とかの紹介。
主人公の平良は吃音を持っているせいで上手く喋ることができず、学校生活の中ではスクールカースト最底辺に追いやられていた。両親に心配をかけることを畏れた平良は、イジメのターゲットにならないように極力目立たぬよう、息をひそめて暮らしている。
そんな平良は、高校二年の新学期、同じクラスになった清居(きよい)に一目惚れをしてしまう。清居はスクールカーストの頂点に君臨し、陽キャの面々に一目置かれながらも孤高にマイペースを貫く、まさに王者である。そんな清居とそのしもべ達から奴隷のようにこき遣われる平良だったが、清居が気まぐれに差し伸べる暴力的な救いの手や、逆境をものともしない凛とした姿勢に心酔する。やがて平良は、清居の一兵卒から立派なストーカーへと進化していくのだった……。
凪良ゆう先生のBL小説のなかでたぶん最も人気のあるシリーズである。イジメの被害者と加害者のカップリング。主人公の平良と、平良に惚れられた清居、それぞれの視点によって相手の人間性や共通の体験についての見方ががらりと変わる。事実と真実は違うとはまさにこのこと。
幼い頃、近所に住む「にいちゃん」に遊んでもらっていた、ゆい。彼はにいちゃんのことが大好きだった。ところがある日、にいちゃんが奇妙な遊びに誘ってきた。怖くなったゆいは、にいちゃんの部屋から逃げ出した。そこへゆいの母親が鉢合わせたことにより、にいちゃんは逮捕されてしまう。
数年後。高校生になっても、ゆいはにいちゃんのことが忘れられず、親には内緒でにいちゃんの行方を探していた。そして遂ににいちゃんと再会を果たしたゆいだったが、にいちゃんはゆいを怨んでいた。にいちゃんはゆいを拘束して動画を取り、それを脅迫材料として、ゆいを呼び出し、苛烈な性的虐待を加えるのだった。
ほんものの小児性愛者でしかも性犯罪者の大人と、ストックホルム症候群な高校生のカップリング。虐待描写があまりにも凄惨で心を折ってくるので、性描写がゴリゴリにあるが抜けないエロ本みたいなことになっている。ヤバい奴に雁字搦めにされてしまった状況での愛は偽りなのかもしれないが、渦中にある本人にとっては本物に見える。その様を綺麗事なしに描写した怪作である。
腐野花(くさりの はな)は、恋人との結婚をもって養父の腐野淳吾の手を離れることになった。花は幼いうちからまだ年若い養父と性的な関係を持ち、そしてもう一つ、誰にも言えない秘密を淳吾と共有していた。
そんな花と淳吾の暮らしを、時の流れとは逆順に、章ごとに語り手を変えつつ描いた物語。最後には花と淳吾の真の関係性が明かされる。
はたからみれば養父から性的虐待を受ける女児の物語だが、やはりこれも事実と真実は違う系。ところが真実は事実よりもどろどろとしていて、なのに純心であり耽美でもあるが、物凄い業の深さでもある。
第1章が花と淳吾の別れの話で、それから章ごとに時を遡っていき、最終章は家族を亡くして孤児になった花が淳吾と出会い養子になるところで終わる。
私は初読の時に、まるでハッピーエンドのように終わるなぁと思ったのだが、再読したら別にハッピーエンドには思えなかったのは何故なんだ。もう一度読めってことかな、ハハッ。
映画にもなっているのだが、映画版はまるで小さな悪女・花に淳吾が狂わされ搾り滓にされたみたいなラストだったから、あまり好きじゃないな。
酷暑の真夏、若い母親は幼い子供達を部屋に置き去りにし、餓死させた。懲役30年の実刑判決を受けた母親を、世間の人々は好き勝手に糾弾する。一体、母親は何故、愛していたはずの子供達を死に追いやってしまったのか? 母親自身の生い立ち、彼女の祖母の代から続く凄絶な負の連鎖とは……。
小説にしか描けない現実があるとして、実際に起こった事件をモチーフに書かれたフィクション小説である。
児童虐待と、世間の人々が助けたいとは思わないタイプの社会的弱者の物語。著者の山田詠美先生は自由な女性の恋愛小説を書く一方で、昔から社会の最下層にひっそりと生きる人々の事も書いてきた。中でもこれはすごい作品。