特に学校教育で、(他の優先するべき学問や修学がありそうななか)学ぶ必要があるのか? こんなことが昨今話題になる。
さっき2秒くらいで考えた個人的な所感を以下にまとめてみる。
古典を捨てると、たとえば以下の様な日本語表現のニュアンスを永久に失うことになる。
これらのタイトルがなぜ、現代においてなお「風が立った」とか「過ぎ去った時を求めて」とならなかったのか。
私たちはほぼ古典文法を捨てた。けれどもそこに何か、わずかだが何か、現代文での同文の置き換えとはならないニュアンスを込めている。
おそらく古典の学習は時の流れの中で規模を縮小する運命にあるだろう。学校教育で多くの人が習わなくなるのなら、商品などの表題には付けにくくなる。
そうなるときっと「風立ちぬ」と「風が立った」、「過ぎ去りし時を求めて」と「過ぎ去った時を求めて」とのニュアンスの差異に日本語使用者が完全に不感応になる。
昔の人も今の人も考えてることは大差ないと学ぶための授業
学校教育で必要かどうかが議論の的になること自体がアホらしいと思う。 必要であることがわかりきってるものは放っておいても自分で勉強するだろ。 役に立つかどうかその時が来てみ...