増田はこの14年ほど、海外情勢に強い関心を抱くようになり、毎日ストリーム配信で海外ニュースをチェックすることと、ニュース記事などを乱読することを続けている。(もちろん、新しい単語や表現の勉強も欠かしていない)
その成果あってかなり英語がスムーズに読み、聞き、また喋れるようになって来たのだが、困ったことに、次に上げるような弊害が出てきた。
写真をとる to take a picture を「撮る」に変換する考え方とかが凄くめんどくさいと感じるようになった。音で聞いても文脈で聞き分けられるものに、いちいち違う漢字を当てる意味とは? とどうしても思ってしまう。
「何故ならば」「というのも」みたいに、日本語表現だと持って回ったものとしてあまり多用されないargumentation(理由付け)をいちいちつける癖がついてしまったり、翻訳調の言い回しにどうしてもなってしまう。
英語の場合、「文が切れてないことを示すために抑揚を上げたままにする」というルールがない、あるいはそこまで重視されない。
↑という文を、例えば日本語で
英語の場合、「文が切れてないことを示すために抑揚を上げたままにする」というルールがない。あるいはそこまで重視されない。
しかし、英語では元々、口語でも後付けで which is など関係代名詞の複文を継ぎ足していくことが出来るような構造をしているため、短文の連続とひとつに連なった複文で、イントネーションをしっかり変えるというルールがない。だから、英語をスムーズに読む訓練をするときは、日本語と逆に、「,」だから音を上げたままにする、「.」だから音を下げる、などのルールに拘らず、「,」でも適当に音を下げてしまう。「.」でも音を上げっぱなしにしてしまうというイントネーションになれる方が良い。そうしないと、ネイティブのニュースリーダーなどのイントネーションで文の切れ目に変な先入観が入って上手く聴き取れない。
これになれてくると、今度は日本語の「、」と「。」のイントネーションのコントロールが難しくなってくる。
書いていても、なんとなく複文の途中で音を切ってしまう感覚で「。」を入れたり、日本語としては読みにくい句読点の使い方が出てきてしまったりする。
増田は学生時代小説など書いていて、「、」「。」の使い方にまで結構拘る方だったのだが、最近はこのせいであんまり日本の小説などの味わいもよくわからない感覚にとらわれ始めている。翻訳で失われるものってどれだけ重要なのか、と考えて自己正当化を図ろうという衝動も起こりさえする。
言語の隔たりって、難しい。
ある多言語話者のひとがどういうふうにしてそんなにたくさんの言語を使ってるのかって訊かれて「いろんな自分が頭の中に居て言語ごとに切り替わってる」ていってた
井上ジョーさんみたいに英語ネイティブかつ日本語ネイティブな人はどちらも流暢だから、非ネイティブ特有の現象なんだろうね。