はてなキーワード: 教育者とは
安孫子 これはまったくの余談だけど、テラさんという人は潔癖性がすごいからね、
『もうれつ先生』とか『背番号0』とかね、柔道漫画とか野球漫画で人気あ
ったんですよ。ところがテラさんは、自分の作品が載ってる雑誌に、自分の
許されない漫画が載ってることが、もうダメなわけ。ピストルで撃ったり、
斬ったはったは一切ダメだから。その雑誌の編集長に、「あの漫画は、やめ
なさい」というのよ。ホントに教育者みたいな人で。編集長が、「いやいや、
先生、これは人気があって」っていうと、「じゃあ、俺がやめる」って、次
々に自分からやめてったんだ。連載が3~4本あったかなあ、ほとんど自分
で切ってしまった。
安孫子 そうそう。あれもね、誰とはいわんけど、あの頃「サンデー」に載ってたド
ンパチ漫画が嫌でね、それで、やめた。あんな人いませんよ。自分から降り
てね。そうかといって、株やったりなんかして稼げる人じゃないわけですよ。
僕ら、テラさんがどうしてるのかズーッと気にしてたんですけど、10年く
らいたって、「ちょっと、テラさんのところにいこうよ」とかいってね、僕
と藤本氏と石森氏と赤塚氏と4人でね、茅ヶ崎の自宅にいったら、喜んでく
れてね。昔に返って、酒飲んで、ワイワイやって、10時になったから帰ろ
うっていって」立ったら、テラさんが玄関まで送って出て、手振ってるわけ。
長い一本道なんですよ。振り返っても振り返っても手を振ってるわけ。「な
んだかテラさん、最後の別れみたいだなあ」とかいって帰ってきて、次の日
に、僕がお礼の電話をかけた。奥さんに、「いや、昨日はありがとうござい
ました。ごちそうさまでした。楽しかった。テラさん、ちょっと出してよ」
といったら、奥さんが、「寺田は今日限り、いっさい外部の電話に出ないこ
--- 今、ゾクッとしましたよ。
安孫子 いや、すごい。テラさんとこは豪邸なんですよ。その庭に別棟があって、奥
さんと子供さんは、そこに住んでるんです。テラさん、本宅に引きこもって。
奥さんが朝、ご飯を玄関のとこに置いとくんだって。それが食べてあって、
次にお昼を持ってく。食べてある。夜持ってく。食べてある。奥さんともい
っさい顔を合わせない。1年後に、朝食持ってって、昼いったら、まったく
手をつけていなかったんだって。心配になって奥さんが寝室へいったら、テ
ラさん、ベッドで眠るように亡くなっていた。まあ、緩慢なる自殺っていう
かね……。
子どもの言っていることだから、といって気にしない根性がない。
子どもといっても、未就学児から高校生までさまざまに分類されると思う。だから現場はそれぞれある。
様々な発言を投げかけてくる。投げかけてくる時はまだいい、遠くから廊下から聞こえてくるのだ。
「ムカつく」「つまらない」「うざい」「無理」「きもい」「消えろ」「頼りない」「あいつ嫌だ」「なんか苦手」
声が聞こえてくる。自分のことを言っているというのは分かる。
自分の名前がその言葉と繋がって発言される時、勝手に地獄耳になってしまうのが辛かった。
子どもたちは何かメッセージを持っています。向き合っていれば分かる時が来ます。
もちろん優しい声を持っている子どもいる。救われる時もある。
万人から好かれるなんてことはまずない。自分だって、苦手な人間がいるだろう。
でもね、そういう声を続けて聞いていくと、だんだん本当に自分がひどい人間に思えてくる。
愚かな話だが、子どもたちの何気ない評価が恐ろしく感じてくるのだ。
思春期時代、教室内で、自分がどのように評価されてるのか気になった時のような、狭苦しさと陰湿さが体に張り付いてくる。
まさか、自分が大人になって働く時にこんな感情になるとは思わなかった。
子どもといえ、もうほぼ大人な子たちの独特な眼差しはきつかった。
忙しすぎるとか、そういう要因も色々あるなとは思うが、こういった事がガンッと頭を打ったように出てくることがある。
こんな文章を匿名ダイアリーに書き込む時点でダメ人間だとわかるけど
自分の話はすごい小さい話で、どうしようもない弱虫なんだけどさ。
前作『暗殺教室』前々作『魔人探偵脳噛ネウロ』読切『離婚調停』と比較しても妙に弱い気がする
主人公の北条時行は戦わず逃げることに類まれなる才能を持っている。北条家は御家人であった足利によって瞬く間に滅ぼされる。未来が見えると自称する諏訪神主は肝心なところで言葉を濁すも「逃げる才能で時行が天下を取る」という。
ネウロは第1話、実父が殺害されたヤコの元に魔人ネウロが現れる。
壁に対して垂直に立っているという構図がすごかった。
手首まで貫通している遺影の実父が笑い、投げられた骨壷から溢れた灰はネウロと同じポーズでケタケタ笑う。
トリックが用いられた事件を人智を超える頭脳と魔界能力で早々に解決するも犯人の動機には一切興味が無い。
笹塚さんや吾代さんや怪盗Xや電人HALなど敵味方問わず魅力のあるキャラクター。
すごくおもしろかった。
暗殺教室は学園モノだか朝の点呼で生徒全員が一斉に射撃。タコの姿をした教師は全ての銃弾を避けて点呼をとる。月を破壊し地球を破壊すると予告している化け物。でも教師としての仕事はしっかりとして、不良行為や捨て身の攻撃を許さない。タイムリミットは卒業まで。
AI生徒だったり天才の赤羽だったり自分がもっと若い時に見てればさらにハマったと思う。
合理主義だけど教育者としての理念は揺るがない浅間理事長もよかった。
物語が進むにつれて明らかになる殺せんせーの秘密と開花する渚の暗殺の才能。
そしてE組の卒業式。
大ヒットしてしっかり終わらせてくれた。
離婚調停は干上がった地球が舞台で巨大な何でも切れる剣を引きずったおじさんの話。
道中で出会った少女に巨大ポンカンを分けてもらい、お礼に水を独占する地主を懲らしめる。
正体は神で引きずっている剣は地球を切っているのだという。
奥さんに愛想をつかれて財産分与として地球を半分にしているという。だから離婚調停。
読み切りにしては随分綺麗でさっぱりとした読後感だった。
このまま行くと和をテーマにしているだけに鬼滅の後追いをして爆死したと揶揄されそう。
現在国立大3年、エンジニア(プログラマ志望)、内定が出なくてつらい。
大学は教育系(数学)。第一志望だった大学(情報系学部)には落ちて滑り止めの後期の大学に進学した。授業は数学<情報を中心に取ってる。
どの大学でも教員免許取るつもりだったけど、授業で「日本で教育者するのはしんどいな」と思い将来の選択肢から教員を捨てた。
エンジニアの募集が早い(通年採用)ことは知ってたから、3年春から継続的に逆求人イベントやスキルチェックに挑戦してた。
フィードバックもいい感じで、早期に終わらせられると思ってた。
自分のことを優秀だとは思わないけど、ここまで評価されなかったのは初めてだ。
面接で聞かれる「一番苦労したことは何ですか」の答えが就活になってきた。ここまでくると志望理由もなくなってくる。「上位の企業に落ちたので御社を志望しました。」
「これ以上負担をかけないでくれ。このままだと、父さんも母さんも過労死してしまう」
愚痴る相手もいないので、せめてこの場を借り発散させてほしい。
私の両親は学校の先生だった。常に多忙で、食事や看病など日々の世話は、祖父母にみてもらっていた。
冒頭の言葉を投げかけられたのは確か中学生の頃だ。父からの説教は珍しいことではなかったが、〈過労死〉のインパクトは強かった。
私は日頃から親に負担をかけないよう、手のかからない良い子でいるよう努めていたつもりだった。部活で悩んでいた時も、学校でいじめられた時も、愚痴だって全部我慢した。親に反抗するなんて以ての外だった。
その時の父はきっと大層イライラしていて、つい口走ってしまったのだろう。(母の名前も出たが、父が説教する時の主語は基本「父と母」である。母本人の意向を無視していることも多い)
それでも私は真面目に考えた。何か気に障ることをしてしまったのか?家の手伝いが足りなかった?成績が少し下がったから?外出の誘いを断ったから?そんなちいさな不満の積み重ねが父の負担になった?
私の存在そのものが負担なら、いっそ消えてしまったほうがいいのではないか?と、この頃から漠然と思うようになった。
ここでタイトルの話に入る。
父は授業や部活顧問のほか、生徒指導の担当として、非行に走る生徒や素行不良、不登校の子のサポートを行っていた。
そういう仕事なので熱血も何もないが、イメージが伝わりやすいと思い、少し大袈裟だが〈熱血教師〉という言葉を使わせてもらう。
父はよく生徒指導の話を私にしてくれた。
例えば、暴走族が学校に入ってきたと思ったら、かつて指導した子が笑顔で挨拶しにきたこと。
不登校生徒が夜になると、父とお喋りをしに職員室にやってくること。
大人になった元不良少年が、先生のおかげで更生できたと感謝の手紙をくれたこと。
そんなことをいつも誇らしげに語っていた。
家庭に問題があったり、居場所がなくて道を外した子供たちの親代わりになって導いた、教育者として立派な仕事だと私も褒めそやした。
が、胸の内は複雑だった。
実の子供である私は、手を煩わせないようにいつも良い子でいるのに。甘えたくても「今疲れてるから」で後回しにされるのに。私が父の帰りを待っている間も、彼は問題児たちの世話をしているのだ。
他所の子供の面倒を見るのが教師の仕事。それは理解している。家庭を優先的すると保護者からクレームがくる。だから仕方ない。学校行事に親が来ないことは当たり前だったが、それは気にならなかった。
でも、〈手のかかる子〉の話はどうしても耐えられなかった。
私の父親が、顔も知らない子供に取られてしまったようで、嫉妬のような恐怖のような感情を抱いた。父の仕事は立派だとは思う。けれど私の前ではその話はしないで欲しかった。
そんなに手のかかる子が好きなら、いっそ私も家出して消えてしまおうか。親はとても不安になり、血眼になって探してくれるだろうと、ふと魔が差したこともあったが、できなかった。
その後も良い子を続けた私はそれなりの大学に入学できたものの、今までストレスを堰き止めていたダムが決壊したことにより、現在は鬱の寛解と再発を繰り返しながら社会の底を這いつくばっている。
私はとうとう〈手のかかる子〉になり、両親の不安の種となってしまった。
こうして文章を書きながら自分の弱さを省みる。厳しくも根気よく育て上げてくれた家族に対し、本当に申し訳ない限りだ。
未だに実家に寄生を続ける私に、定年近くなった父はこう言った。
「我が子も満足に育てられなかった自分が、他の子供をちゃんと教育できているか、もう自信がない」
私は何も答えられなかった。
「教育学者様と現場の先生様が決めた完璧なカリキュラムなんだから間違ってるはず無い
みたいなこと言う奴いるけど
当の義務教育完了者が「学んだけど必要なかった」「学ばなかったけど必要だった」と言ってるのを無視する方がわからない
「教育の利益は生徒に還元されるべき」みたいなこと言ってたドイツ人だかの人いたけど、その通りだと思う
結局学んだ人間が学んでよかったと思える内容、学んで人生に活かせたと思える内容じゃないと教わる意味がない
「これは教養だから身につけるべき」「これぐらいは知っておくべき」ってのは、教えたい人間の押し付けでしかない(裏を返せば、「教える以上学んでよかったと最終的に思わせられるようにすべき」ってことなんだが)
というか究極的に「学びたがっていない人間に教える」こと自体、ある種の悪だと思う
公園で遊びたい小学生の自由を奪って机に縛り付ける悪行は、小学生が将来学んでよかったと思わせることで帳消ししないといけないんだよ
学習者の利益にならない教育なんて、国ぐるみで思想や身体の自由を(事実上)奪う行為でしかない
パターナリズムは人間が子育てする生き物である以上必要なもので、それ自体は全く悪いものってわけじゃないけどさ
リベラル的には、学ぶ側が何を学ぶか取捨選択出来るようになってるべきなんだよ
「英語、体育、音楽、美術は4割減くらいでもいいかな。古典は8割減で。現国も1割くらいは削れそう。」なんかこういう安直なリベラルアーツ軽視・実学至上主義みたいな考えにこそ薄ら寒さと危機感を覚える。
教養を強要した結果、「リベラルアーツ要らね」って人間を作っちゃったのは教育者側の失敗なんだよね
受験が終わったら95割の人間が全部忘れるような古典単語をひたすら暗記させたり、生徒がやりたくもない合唱練習を延々とさせたり、そういうことを生徒に意義を示せないままに続けてきちゃったから「古典8割要らねえ。美術音楽体育要らねえ。」って思われるようになっちゃったんだよ
「リベラルアーツ重視・実学軽視」の価値観こそが正しいのだと生徒に押し付けるならば、リベラルアーツ万歳と思わせられるような素晴らしいリベラルアーツを用意するのは教育者の責務だ
増田の日本語が意味不明すぎるので、DeepL翻訳で英語にして再び日本語にしてみた
かなり読みやすくなったと思うのでどうぞ
↓
今の時代になってもセンター試験が相変わらず行われていると聞いて、「ああ、[教育者の考える良い人像]はセンター試験のようなテストでしか選ばれないんだな」と思いました。インターネットが普及した今、そんなに処理能力が重要なのか。私はそうは思いません。
最近よく思うんですが、ネットで調べたことやちょっと調べればわかることを記事にしても、私と同じものを作れる人がほとんどいないのはなぜなんでしょうか......。
それは自分の知識を教育レベルとは違う方向に使おうとするからで、そうしないと読んでいて楽しい記事が作れないんですよね。
これがいいのかどうかはわかりませんが。職業によってはそういう人の方が有能な場合もありますが、それしかできない人が世の中には多すぎます。
これが詰め込み教育の弊害なのでしょうか。いや、「ゆとり教育」に戻せと言っているわけではない。ネットで調べたことを文章にしたり、文書にしたりする場合、レポートや知識の一覧表は、職場でのコミュニケーションにはいいかもしれませんが、商品や娯楽、全く新しいものを作るために人を巻き込むのには向いていないと思います。試験室を作るのが大変な時代に、それを試験にすることはできないのだろうか。
教育レベルの知識を与えるためにたくさんの人を作っても、コンピュータが人を追い込むだけ。(ネットで検索しただけの知識では同じことしかできない)
高校レベル以下の知識レベルであっても、検証の問題点を暴いたり、知識を面白おかしく話したり、書いたりすることができるかどうかを考えることが大事だと思います。実際、理系では頭が良い人ほど、マニアックな知識の使い方をしているので、個性的です。
文系では...知識が足りないからなのか、大学で実験や検証をあまりしないからなのか...自分の知識を面白いように使える人、面白いように見せられる人は意外と少ないです。
・【教育者が考える優秀な人】:何の教育者で考えるとは何を基準化したもので、優秀とはそのうちの何割なのか。
・二次試験が思考力を問い、1次試験で処理能力を問うてるらしい:一次二次の文字が違う意図と順序が逆な理由、その「力」とは具体的に何がどれだけ出来ることなのか、その問われている基準は得点か偏差のどの部分を問うているのか。
・ぼくがネットで調~い理由:個人が行ったことが個人として特有でない事を前提としないと他の人がそれを同じにできるわけがないがぼくというのはどの広義の平均を言っているのか。
・教育レベルの知識:他に何のレベルがあり、それらは段階としてどれだけあり、羅列していくというサンプル提示がそれらすべてなのか、結果を出して報告することなのか。
・詰め込み教育~できんかったのかな?:何の話をしているのか。詰め込み否定からのゆとり、成果物やエンタメとか意味が不明。「でした」「ありました」と成果をあげることと成果物の差は、エンタメとは「人が興味をもつ事、楽しいと感じる方法」のことであればその対象に付与されるべき装飾は結論について何らかの意味をもつのか。
・けっこう大事な観点:なにがどうどの分野において重要視されているのか。
・ゴリッゴリのヘンタイだったり、マニアックな形で知識を使ったりしててユニーク:手段は特殊であっても導かれる答えは有用であり一般的なはずだが、手段について特殊性を先述のエンタメや新しいものにする必要はない。伝統的な同じ数字と記号でしかできていないし公式の利用も同じで充分。用途にあわせて意外性を発揮することを創作と同じ未定義の空想や仮定を織り込むのはそんな妙な表現でするものではないはずだが。
・知識の使い方や見せ方を面白くできる人:継承には必要かもしれないが実質的に知識を利用するのは結果を出すことであって、当人の特殊性を評価するものではないはずだが。
他にも多く訳の分からない文章はあるけれども、最低限これらは定義していただかないと、妄想小説とかわらないのではないか。
文章の雰囲気から高校教育についての議題で高校教育の教育者が行っている教育内容について「教育者」が登場しそれらが考えている基準かのように見えるが、試験についての意見を述べているようなので「大学受験を採点する位置にいる教育者」の話のようでもある。
それらが混在するのであれば教育者に番号を振ってどの教育者の問題なのかを明確に分ける必要がある。化学物質の水溶実験をするのであればその触媒にもとから混在している物質ができるだけ少ないほうが結果を再現率たかくできるし要素を明確にしていたほうがそれをまとめて情報化したときに再利用できる情報として利用できる。
試験で何を問われているのかしらないが、問うからには答えを返す受験生がなにかの解答をしているはず。能力を答えるわけではないだろうという事から、能力を測定できるなんらかの結果を返しているはず。思考の力や処理の力とは何を指しているのか。
学校教育で覚えた定型の公式や基本構造の骨子を変えず代入する値や求めるべき結果の状態を変えて記憶したものを再現させる数学問題などで途中式や結果の正誤を採点している現在の様式についてなんらかの問題を提起しているのだと思われるが、学校教育の記憶とそれを応用する1場面中の注目点以外に採点基準があるのだとしたら、思考の力や処理の力とは何なのか。
後半は導かれた結果が、いかに大衆受けする身近で理解が容易く期待をさせ購入や投資などなんらかの行動を喚起するような表現方法をする必要性が書かれているようだが、人間の関心や行動が具体的にデータになっていないのではそれらがどれだけの割合で影響しているのか、人数以外では測定のしようがない。
人数で行動原理が測れるなら人に迷いはないはずで、そうなれば買い物や事故や犯罪について統計から正確な予測ができるはず。人の行動が予測できないためそんなものは出来ていないのはエンタメや新しいものというのは成果物の評価とは別のものだということになるが、そのいう教育とは一体なにを指しているのか。
文系ならば一旦理系のように、準備するものを紙に書いて一覧にしてほしい。
東浩紀氏のようにゴリッゴリの文系が言葉が世界を創るとか、準備なしでその場で言葉にするライブや動画での音声で知がどうのといった頭のおかしい事を言うそれの様に、その場で言葉で言ったから、先に言った通り、他の誰かの言葉を借りるなら、という構成では結果は再現性も再利用性もなくその場にそれが存在したというだけの証明にしかならない。
まず準備した要素を並べて合わせて、結果がでたのならそれら1要素ずつを組み合わせて得られた結果に有用性のあるものを残していった結果がどうなるのか。
理系であるならば、答えを導くための要素を準備の段階で精製し、再現率が高くなるように合成の手順を単純化し、得られた結果から従来の手段や結果にどう利用できるのかを文章にすべきだろう。
教育者に免許をもたないものや幼稚園の保育士も含むのか、考えるとか優秀なとは日常的な接触を含むのか具体的な試験のどれの得点を指すのか、それらをどのタイミングでどの部分を変化させれば現在に発生していない結果が得られるのか、それを示すべき。
いまの文章では砂場で泥団子や砂山をつくって、自分は城が創れるのだけれどもなぜみんなこんなものができないのか、これからはこういうのが大事だ
と言っているのとさして変わらない。
どの成分のどんな素材をつかって、どういう経緯を経ればどんな形を形成することができるのか、それは何に応用できるのか
そういうことではないか。
以上で凡そお分かりの通り、文系や理系にもどちらかよりに中間の者はいると思うが、それらが大きく異なる点がある。
理系の分野において否定をもって何かを成立させようとすると無限に否定の要素を永遠に試し続けなくてはならない。
できない、しない、たりない、ならば、できたことを、してみて、たしていく、をするだけだ。
この年末年始にひとつも商売のことを考えない人は小売業に向いていないし、
この年末年始にひとつも建築のことを考えない人は建築業に向いていないし、
この年末年始にひとつも金融のことを考えない人は金融業に向いていないし、
この年末年始にひとつも客のことを考えない人はサービス業に向いていない。
とは言わないのに、なぜIT系エンジニアだけそう言われることが多く、しかも一定の妥当性を認めてしまうのか。
それはIT産業が、従事者の好奇心にフリーライドして成立している業態だからに他ならない。
そう考えると、他にこのような言説が成り立つような業態は全て、従事者の好奇心・嗜好性・サービス精神・使命感・自尊心・ほか色々なものにフリーライドして支払うべきコストを支払えていないと言えないだろうか?
たとえば、
この年末年始にひとつも医療のことを考えない人は医療従事者に向いていない
この年末年始にひとつも子供のことを考えない人は教育者に向いていない
この年末年始にひとつも学問のことを考えない人は学者に向いていない
この年末年始にひとつも絵を描かない人はイラストレーターに向いていない
この年末年始にひとつも筋トレをしない人はスポーツ選手に向いていない
この年末年始にひとつも練習をしない人はピアニストに向いていない
この年末年始にひとつも小説を読んでいない人は小説家に向いていない
成立していると思うなら、その業種についてフリーライドを認めていることになると思うが、どうか?
こんなご時世でもセンター試験は通常通りと聞いて「あー【教育者が考える優秀な人】ってセンター試験的な試験じゃないと選抜できないんだな」って思った。建前上、二次試験が思考力を問い、1次試験で処理能力を問うてるらしいけど…その処理能力ってネット普及した今そんな重要か?と思うわけで…
最近改めて思ったんだけども…ぼくがネットで調べたことや少し調べたらわかることを記事しても、ぼくと同じものを作れる人がほとんどいない理由…
それってぼくが知識を教育レベルとはまた違う方向に使おうとするし、そうしないと楽しく記事を作れないからなんですよね。
教育レベルの知識というのは「〜でした」「〜ということがありました」と羅列していく営み。職種によってはかえってそういう人が有能なんだろうけど…それしかできない人が世の中に多すぎるんですよね。
詰め込み教育の弊害?いや、ゆとり教育にもどれって話ではなくさ。何かネットや資料で調べたことを書く・活用するにしたってそれがレポートや知識の羅列などでは、職場内のコミュニケーションとしてはよくても、成果物やエンタメ性、全く新しいものを作る際に人を巻き込む上ではしょぼいんですよ。それを試験会場を作りづらいご時世では試験にできんかったのかな?
教育レベルの知識をつける人をいっぱい作ってもコンピューターに駆逐されるだけ。(ネットで検索した結果と同じものしか知識だけだとできん)
検証課題を発掘するとか、知識を興味を引くように話したり書いたりするとか、知識量高校生以下でもそれができる人かどうかってけっこう大事な観点なんだが、詰め込みと対極にいるわけではなく、むしろ理系だと頭いい人ほどゴリッゴリのヘンタイだったり、マニアックな形で知識を使ったりしててユニークなんだけどね。
文系はねぇ…知識が足りないのか、実験や検証を大学であんまりしないからか…知識の使い方や見せ方を面白くできる人って意外に少ないよなぁ
真面目な話、それは昔から言われてるんだよ
やりたくないのは管理する側の立場であって、メンバーを入れ替えないと組織の階層、カーストが固定されるのは社会人でも同じなんだよな
しかし、ケーキが切れない非行少年少女のようなIQが低い生徒は遵法意識も低い、流石に社会的に最低限これはマズいという価値観が根底からない
こういう生徒をブコメにあるように教師側が対応しろというのは無理があるだろう
実際のところ、こういった問題を諸外国でさえ上手く対応できているのか、すべては知らんが自分には疑問に思える
となるとスクールカウンセラーなどという甘い話ではなく、医療機関、少年院のような施設も一般的な教育施設と連携していく必要がある
でも、政治家も教育者も、デジタル教育がどうのという話はしたがるが、本質的に人をどう管理するか、育成するかということはやりたがらない
単に面倒なんだろうけど
ドコモショップとか雇用の受け皿としてはある程度意味があったんだろうけど
やってる事は理解力の低い老人や知能ボーダーみたいのに何回も同じこと説明し
「これ読んでOKならサインしろ」でいいはずのことに人件費割いて読み聞かせ。
で、これらをマンツーマンで行うっていう生産性が著しく低い仕事で
公立義務教育で教育者の業務コストが問題児と落ちこぼれにウエイトが置かれてしまっていて
まともな生徒は問題無いからと適当に流されて、勉強も学主塾主体ってのに憤りを感じてきた人たちのような
学力はちゃんとあるのに高専の「存在すら知らない」、高専を受験しようという「発想すらない」人がいる、子供に高専の存在を教える事すらできない親や教師が多すぎることが問題だと思っている。
工業や科学技術に関心のある子供なら、誰でも高専と聞けば少なからぬ興味を持つだろう。そして、高専にするのか普通科にするのか、その違いをよく考えて、悩んだ末に自分で進路を決定することは、それ自体がよい学びの題材であり、豊かな経験となる。普通科に進学するにしても、何も考えずにみんなそうしているしそれしか選択肢がないと思うから普通科に行くのと、高専と比較した上で普通科を選ぶのとでは全く違う。高専の存在を無視する教育者は、この「悩む機会」すら子供に与えないという点で、その無知と職務怠慢を厳しく批判されるべきなのだ。