はてなキーワード: ごはんとは
【ごはん炊いたらべちゃべちゃ】柔らかく炊けてしまったごはんの対処法【加熱?水分飛ばす?】
https://tagawake.work/about-rice-cooked-too-softly/
炊きあがった後、ジャーのふたを開けたまんまで保温する
炊飯ジャーの水分の目盛りが見づらくて、少しベチャッとした状態で炊けてしまう事、ありますよね。あと炊きあがった直後はベッチャリしていたりしますよね。そういう場合は
炊飯器のふたを開けたまま5~10分保温しておくと余計な水分が抜けてちょうどいい固さになることもある、、そうです。
開けたまま放置してしまうと今度はカッチカチに固まってしまうそうですので、こまめに混ぜたり、様子を見てあげてください。
(参照:LIVINGくらしナビ)
などなど書いてあるよ。
南キャン山ちゃんの「女性に求める料理能力が冷蔵庫の残り物でレバニラ炒めやキノコの味噌汁を作れる」という釣り餌に今更ながら食いついてみる。別に女に求めなくていいけどレベル3くらいが妥当なところじゃないかしらん。レベル4あればすごい感じ。
なんか古くてでかい薬箱
階段とかに明らかに日曜大工で後付けされた帽子等をかけるでっぱり
さらにそこにかかってるお父さんが会社の景品でもらった謎の双眼鏡
ブックオフで買った本
『一人鍋 なべや』
↑と書いてはあるが、独りで行くのは危険だぞ
「紀州街道沿い」といえば風情はあるが、現場はいわゆるNISHINARIの中にあり、マジで昭和から居るような風貌のオッサン&ジジイ・それ目当ての激安マンションアパートに呑み屋に日焼けた自販機、それらに「トイレ大解放中」「覚醒剤を売るな」とゴシック体で書かれた看板が彩りを添える景色だ
(ちなみにマジで昭和から居るような風貌のオッサン&ジジイ達は毒づきながら自転車走行して来るので要注意だ)
そんな情景に空腹の胃をキュッとさせつつ到着すると、昼の2時から開店なのに5分過ぎでもう十数人が外の寒空の下で北風に吹き曝されつつ並んでた
…四十分くらい待って呼ばれて入ると壁に向かって設置してある独り客用長机に座らされる
年季の入った都市ガス式鋳物コンロが置いてあり、入口にワンドリンク制と注意書きあったとおり訊かれたので恐る恐るウーロン茶を(尿路結石の術後でもう呑みたくないんや)
居酒屋グラスで茶が来たので動画で視てから食べてみたかった『牛肉すき焼』鍋1000円と告げると「トッピングノタマゴワイリマスカ!?」?「トッピングの卵は要りますか!」「いりますっ」あと『ごはん 中』も、て付け加えると「ごはんは鍋が煮えてから注文してくださいっ」ピシャッと言われ「わかりましたっ」と答えた
カツンとアルミの鍋に山盛りの鍋が来てコンロにのせてくれたあとサッと火も点けてくれる、鍋のフチのギリギリまで詰め込まれた野菜と豆腐の山にのっけられた牛肉、コック全開の強火でジワジワと、そのうちグツグツと煮えだすワイの鍋ちゃん
(…これ、火加減って誰かみてくれるん?)
…なんかガス火で鍋のフチの肉の端っこコゲてきてるんですけどー、あれ?こっちから見えてなかった反対側で吹きこぼれてないか?あーあー
しょうがないので勝手にコンロのコックを捻って中火にしてみたり、肉も裏返してみたり、中の野菜(白菜だった)もみたけどまだ白かったので、依然として吹いてるけど我慢する
(都市ガス鋳物コンロ?バーナー()みたことないひとはどうにも操作できないよねこれ)
そろそろ『ごはん 中』を、とおもって「すみません」と声かけするが忙しいらしく聞いてもらえない、先客がほとんど四人連れでデキアガってて、その他人の四人VS四人で盛り上がってるのもあってワイのやわらかヴォイスじゃとおらない
仕方ないので適当に弱火にして、もう食べ始める、動画でも見て知ってたけど鍋というか深皿レベルに底は浅く、砂糖醤油味の鍋汁はほっとくとカラメルになりそうなくらい少ないのでコックを全閉にして火を消す、あーらら豆腐の横と下は鍋に焼き付いてるわー
喧しい背後の四人客が会計で少し減ったので『ごはん 中』をたのんでやっと届けてもらえた
個人店でも静かで居心地よいスペースがとれるとか、中小チェーンで騒がしくても店側のスタッフが多くて声とおらなくても注文の意志を見つけてもらえるとか、そーゆーところではありまへん
立地も老若男女だれにでもオススメちゃう雰囲気だし…平気なのは青年男女が数の力に任せて行く場合か、中高年が年の功でそのふてぶてしさ全開で行くか、だからワイくんみたいな都市型優男はリピート無理やね
タイトル通りです。以下は惚気です。
ッッッッハア〜〜〜〜〜最高の15日間だった!!!!!!!!!!!!!!!!
みなさんは好きな人、いますか?シャープペンシルを握る右手の人差し指に触れてみたいとか、ふとした拍子にチラリと見えた控えめなピアスに目が釘付けになったとか、委員会も部活もゼミもサークルも部署も会社も違うけれど、これまでの人生で一度だけ交差したことがあって、ただその交差はわたしにとっては交差だけれども向こうにとってはただのすれ違いで、それでもいい、それでもいいから好きなんだ…………。と片思いし続けて早7年の爆美女と、ついに、お泊まりしました(??????????????)
いや急転直下すぎるな、ソシャゲの公式がおかしくなって投下した期間限定イベントじゃねえんだから。もうちょい流れ、しっかりしてんだろ。
えー、筆者は25歳北の限界労働系女子。朝から晩まで働けません。普通に無理です。限界です。気が狂ってたまに業務用コンドームとかむちむちバキバキ本格ディルドとか買ってます。最近は居住地区のラブホテル全館全室制覇を目指して深夜残業に勤しんでます!
そんな限界労働者ことわたくしにも心優しい友がおり。大学で出会った友人のうち数人とはいまだにやり取りをする仲なのですが、その中に、筆者が7年間恋焦がれた美女が、おるの、で、ございます。あ、あーーーーーーーーーーー、好き。
ほいでね、ある日美女とLINEをしていたところ、彼女は資格取得のために勉学に励んでおり、アルバイトやらなんやらに追われないところでじっくり勉強したいと。そいで、わたしはなんの気無しに「そしたらうちおいでよ!」と送ってしまったわけですよ。来るはずねえよ、だれが津軽海峡渡ってまで勉強しにくんだっつー話よ。したらば返信これ。
「お邪魔じゃなければ25歳労働者ちゃんのお家で、作業してもいいかな?2週間くらい……迷惑だよね……?」
はよ来い!いま来い!すぐに来い!!!
と叫びたくなる衝動を抑えて、いいよ^^と返信し、日程などを調整し、お客様用布団を揃え、お部屋を掃除し、車も洗い、いざ迎えにゆかん空港へ!
危うくひれ伏して神に祈りを捧げるところだった。危なかった。アッラーだかヤハウェだか天照大神だかカムイだかわかりゃせんがとりあえず半径1000キロ以内に存在するそこかしこの神と名の付くものすべて引っ張り出してきて松明に火を灯し三日三晩寝ずに踊り狂うところだった。
空港から帰宅後に始まった彼女との半・擬似同棲生活はもう、幸せでした。と言いたいところだがここで一つ。
わたしは、彼女への想いを伝えたことがなく、彼女もまた、わたしについてどのような感情を抱いているのか、確認すらしたことがなかった。
ジーザス。神は試練をお与えになる。
でも乗り越えられない壁はないってイチローも言ってたし!いざゆかん!斬り込み隊長!
社畜女「えーと、彼女ちゃんって、あれだよね大学のとき彼氏がいたとかなんとか。恋愛しなさそうだったから、なんか意外だったんだけど」
美彼女「ああ、懐かしい話だ。別れたよ、うん。なんか恋愛っていうか枠組みっていうか、微妙かもしれないなって気付いたんだよね」
社畜女「そうかー。ちなみにだけど、その枠組みには男子も女子も入る感じ?」
美彼女「入るね。入るけど、入ったらもう、しんどくなる気がする。だから入らなくてもいいなって思ってる、今は」
おかわりいただけただろうか………🍚
ごはんいただけただろうか………🍚
ンマア、そんなこんなで幕を開けてさっさと閉じかけた半擬似同棲生活。こちらとしてはかなりかなりめちゃくちゃ本当にどタイプで顔も見た目も内面も知性も趣味も彼女を構成するものすべてを吸収して逞しく生きているさまを見るだけでわたしはもう、なにか触れてはいけない神々しさの間近にいるような感覚になってしまうのですが。
神は恋愛については下界へ降りてこられることはなさそうで、25歳北の労働者はあっけなく振られました。結構ストレートに告白したつもりだったんだけどね?!だめでした。
でも告白した次の日も普通に2人でスーパー行って洋梨買って肉買って塩買ってラップ買ってトイレットペーパー買ってアイス買って帰ったよ。たまにドライブもしたよ。わたしの運転で神が酔ってしまわないか若干の心配をしつつ、ハンドルを初心者ばりに握りしめながら北の大地を東奔西走したわよ。楽しかったな。本当に。
夜眠るとき、彼女はお客様用のお布団で寝るのよ。わたしはベッドで。ただの友達だったら女の子同士だし小柄だしってことでベッドで一緒に寝ますけれども今回は事情が事情っていうかわたしがガチすぎたので布団は分けました。正しい判断だったと思います。
彼女がいる間、隙を奪えば手や唇のひとつやふたつ、なんならそれ以上だって踏み込めたはず。優しさのふりをして抱きしめることだって。でもそれをしなかったのは、彼女と構築していきたいのは刹那的かもしれない恋愛としてではなく限りなく永続的な人間関係を続けていきたかったから。
過去の話をする中で、お互い同性同士の恋愛に躊躇いがないことは確認できた。にゃるほどね。そしたらもう、あとは、わたしのことを好きになってもらうしかなくて、でも好きになってもらうために何かするとかは愚かな行為で、きっとわたしがわたし然としていればいつか彼女の目に留まるはずなのだ。そしてそれは彼女の目でなくとも、わたしとのすれ違いを交差だと感じてくれた誰かの目にも、映るはずなのだ。だからわたしは今日も明日も明後日も、美しく軽やかに、確固たる意志を持って、あるべき場所へと戻る人々を空港から見送る。
父方の実家が嫌いだ。
最近ようやくその縁が切れる目処が立ってきたのだが、いざというとき決心が鈍らないようにどんなに嫌いか書き起こしておくことにした。
緩やかな坂の上に建つ家は大きく、貧乏だった祖父が会社を興し一代で築いた。隣の家に行くのに坂を下り道路を渡っていかなければいけない。
いずれは父の家庭(つまり私たち)を呼び寄せ二世帯で暮らすことも考えていた、と後から聞いた。
その割には電気関係があまりに貧弱で頻繁にブレーカーが落ちていたので、どのみち無理だったと思う。
家の前は杉林でそのまま山へと続く。夏はアブが、冬はカメムシが大量発生する。
敷地は広く、車が三台収まるコンクリート造りの車庫に加えて大型の農機具が複数収まる小屋や鶏小屋、2つのビニールハウスを備えてなお広がる畑もある。
畑の先にはそれなりの大きさの池があり、祖父がそこに鯉を放し飼いにしており夕方には餌をやりに行っていた。
その池を回ろうと祖父が小型の舟を買ったことがあったが私は一度も乗った記憶はなく、舟は池の側で逆さで放置されていた。
祖父は昔からそうだ。思いつきで使いもしないものを大金はたいて買い、あとはゴミになる。成金そのものだ。
正月や盆にはその親族が大勢この家に集まって、仕出し料理なんかをとって宴会をする。映画のサマーウォーズのような風景だ(なお、このために私は本作が嫌いである)
私は普段はそこから車で一時間弱の県庁所在地に暮らしているが、長期休みや時には土日ともなればすぐさま連れて行かれ父の実家に預けられて過ごした。(これは祖父母の意向であり、母は嫌々だったと聞いている)
家の周りは田んぼと山で、歩いていける範囲にあるのは駄菓子屋のみ。
その頃にはすでに人口の過疎化が進んでおり同年代の子供は一人しかいなかったし、あまり気も合わなかったのでその子とはあまり遊ばなかった。
長期休みの始めから終わりまでを、家から持ち込んだ自由帳に絵を描いたり、擦り切れるほどに読んだ漫画をまた読み返したり、近所の家のお兄さんのお下がりのファミコンソフト数本でしのぐのだ。いつも学校で一緒の友達はみんな64で遊んでいる時代にも関わらず。
家業は建築業であったが農業も営んでおり、物心ついた頃から田植えや稲刈りに連れて行かれるのが普通だった。
当然ヒマだったし、それなりに成長してからは仕事が振られるがそれも嫌だった。
小学生の頃は春に運動会、秋に学芸会があったがちょうど田植えや稲刈りの時期と重なっており、父や父方の祖父母がそれを観に来た覚えはない。母と母方の祖母がいつも来ていた。
仲の良かった子たちの親はみんな会社勤めや公務員だったりして、行事のときには父母揃っている姿をよく見た。
羨ましいと思った記憶はないが、うちは何か違うんだなぁということは感じた。
一番嫌だったのは、運動会の後にはそのまま車で父実家に連行されて田植えに駆り出されることだった。最初から体操着を着ているので都合がよかったのだ。
運動会頑張ったから今日はレストランに晩ごはん食べに行こう、と話すどこかの家族がドラマの世界のようだった。
田舎の自然環境や農業中心の暮らしよりも嫌だったのは、親戚付き合いや近所付き合いだった。
道を歩いているだけでどこの家の人間かわかってしまう。他に子供がいる家がないからだ。
そして田舎特有の距離感で、なまりの強い言葉でやたらと話しかけてくる。こっちはお前が誰だかも知らないのに。
私は三姉妹の真ん中だが、みんなだいたい私を姉と思って話しかけてきた。
姉とはけっこう歳が離れているので普通なら間違わない。実際、地元の知り合いに私と姉を間違う人はいなかった。
しかし田舎の人たちは子供を見慣れていないので子供の年齢からくる体格の違いなんてわからないのだ。子供は子供、と一括りにされている。
そもそも私たちがいくつになるかなんて知らないし興味もなかっただろう。なら放っておけばいいのに何故か近寄ってくる。
妹とは歳が近かったし見た目も似ていたので当然間違えられた。最初から最後まで間違えたまま帰る人もいた。
中間子は影が薄いなんて言われることもあるが、姉と妹の名前は覚えているのに私の名前だけ出てこないなんてこともザラにあった。
母(というか女性)は親戚集まりの際には台所であれやこれやと仕事をしていなければならなく、それは子供である私達も同じだった。
ただ飲んで騒ぐだけの男たちにやれ酒を持ってこいだのあれが足りないだのと次から次に言い付けられても愛想のいい姉はちゃんと対応していたし、妹は人見知りがひどかったので常に台所で母にくっついて手伝いをしていた。
私も妹と同じく人見知りだったが母は妹に取られている、かといってよく知りもしない親戚連中のおばさんたちに指示を仰ぐこともできない。
人見知りなのだから愛想がいいわけもなく、私が「もっともだめなやつ」になるのは当然だった。
そのうち人前に出ることも手伝いをすることも拒否するようになって、親戚集まりの際には空き部屋に引きこもるようになるとますます評価は下がった。
「姉も妹もよく働くのに、どうしてあなたは」とわざわざ嫌味を言いに来るおばさん(祖父の妹の一人)もいたが無視していた。
上記のおばさんには奇しくも私と生年月日を同じくする孫(私からすると再従兄弟になる)がおり、彼はいわゆる優等生だった。勉強ができ、親の言うことをよく聞く子だった。(数年後に爆発して親と険悪、音信不通になったが)
更に私は高校受験に失敗するし入った学校は結局辞めるし定時制高校に入り直すもバイトに明け暮れて学業を疎かにして卒業が危うくなるしで株を落とし続けた。
親戚中からの「あいつはどうしようもないやつだな」みたいな空気は幼い頃から親戚集まりがあるたびに感じていたのに、後半はもう完全に腫れ物でいないものかのような扱いだった。その頃にはもうその方が居心地がよいほどに親戚が嫌いだったが。
高校に入ってすぐに父母が離婚して、当然私は母方の籍に入った。というか三人全員そうした。
父方の親戚たちは離婚時にまで首を突っ込んできた。(中でも嫌味おばさんはすごかった)
なんで夫婦の問題に祖父母どころか親戚が絡んでくるのか謎だったし、そういうのが当たり前な気質が気持ち悪かった。
元々苦手だった祖父母のことも、このときに嫌いだとハッキリ自覚したと思う。
それまでは幼い頃にそれなりに一緒に過ごした情があったというか「家族(親戚は別)を嫌うのは悪いこと」という固定観念があったので「自分は祖父母が嫌い」ということから目をそらしていたのだと思う。
幼い頃から父とあまり関わってこなかったせいか特に離婚そのものにダメージはなかったし、なんなら父とはその後不仲になる一方だった。
離婚後に実家に戻ったことで、父に元々あった、私の嫌いな「〇〇家(父実家)の人間っぽいところ」が顕著になったために父に対する嫌悪感が強くなってしまったのだと思う。
(親権は母が持ったが、みんなそれなりの年齢だったので私たちが父や父実家に関わるかは本人に任せるスタンスだった。そのため離婚後もときどき父実家に行ったりなどがあった)
離婚から十年近く経ってから、父が亡くなった。持病を持っていたし年々痩せていたので長生きはしないと思っていたがまだ五十代で予想よりもずっと早かった。
父とは、死の半年前に病院から退院する父を迎えに行ったときが最後だった。
私よりも父と過ごした時間が長かった姉や就職と同時に県外に出ていた妹は訃報を聞いて泣いていたが、私は一度も泣かなかった。飼っていたペットが死んだときの方がずっと悲しかったし泣いた。
その頃には父のことが嫌いとまではいかなかったが決して好きとは言えない、という程度で、なんなら二人が行くなら私は葬式に行かなくてもいいか?と姉妹に聞くくらいだった。葬式の日に舞台のチケットを取っていたのだ。私にとっては本当にそのくらいの関係性になっていた。
誰が喪主をやるかで揉めて、しまいにはすでに嫁に出て別姓を名乗っている姉に押し付けようとするために姉が泣く始末になった。
私は当然怒って姉を庇ったが普段ロクに喋らないので、おそらく親戚たちが聞いた最初で最後の私の怒声だっただろう。
嫌味おばさんが人生終了レベルのトラブルに見舞われたり(自業自得)親戚の中でも故人が増えたりしながら数年経った。
父の死後は、介護とまではいかないが姉に協力するという形で祖父母の様子を見に行ったり通院の付き添いをするようになっていた。
姉は祖父母を見捨てきれなかったが姉一人であの家に関わったら姉が潰れてしまうと思ったので協力することにしたのだ。
数年間そんな生活をしていたが、少し前に祖父が持ち前のクズを発揮して優しい姉に絶縁宣言をされた末に施設へ入った。
姉が縁を切るなら私ももう関わる義理はないので、自分が請け負っていた祖母の病院関係を整理したりして縁切りの準備をしている。
最低限の下準備はしてあげているので今後は自力でなんとかするだろう。というかするしかないけど。
姉と妹は結婚しているが子供はおらず、私に至っては結婚願望どころか恋愛願望すらない。
自分にもあの一族の血が混ざっていることが嫌だし、自分もああなってしまう可能性があるかと思うとボケたときなんかが恐ろしくてたまらない。
別に葬式もいらないし、火葬だけは法的にしないといけないので最低限のお金を遺して身元保証会社とかにお願いしておくから適当に無縁仏とかに放り込んでおいてほしい。
最近はそういうことを考える。
夜には帰って妻と晩ごはんたべるよ。
みんなも教えてくれよお!!
酔ってるからさ!
インターネットはすごいからさ、おれみたいなクソ弱者でも世界中の優れた才能の持ち主が作った音楽を自由に聴けるんだわ。
なんかSpotifyのURL貼ると投稿できんのよね。ごめん。ベタ打ちで。
ChatGPTに全部ぶっ込んで訊いたけど、ロクな回答がなかった。AIはあかんな。
エモいのとChillいのが好きなんやから、シューゲイザーとかポストロックが好きなんだろみたいな、あー、Monoとかが好き。
二巡目のオニオンスープ作りつーか途中でパスタソースになってしまうもの確定のそう言うのをまた作り始めたのよ。
前回は微塵切りしたタマネギ臭が充満しまくりまくりまくりすてぃーで
今回は換気をバッチリにして気を付けたので、
つーか前回のタマネギ臭が完全に消えていないうちに行っちゃうから臭覚として馴染んで鼻が慣れてしまったのか、
判別出来ないのかも知れないわ。
それはもうサトウのごはんの速さをしのぐ空けた瞬間に
外の外気に慣れた鼻で家に戻ってくると若干そのタマネギ臭を覚えるのよね。
試しに事務所の向かいの私が以前所属していた会社の人に出会い頭に
私ってタマネギ臭いかしら?って尋ねたけど案外そうじゃないみたいなので多分大丈夫かも知れないわ。
そんでね、
もちろんこれも私が最近試しに試したい試し切り中のぶんぶんチョッパーで微塵切りにして、
それを新たにメンバーに加えて、
タマネギ、トマトホール、ヒヨコ豆、ニンジン、シメジと新たに味の深みがキノコで強化されるか
チームと上手く馴染むかが美味しくできるコツだと思うのよ。
そう言ったスターティングメンバーで試合を開始したんだけど、
やっぱり一晩ちょっと炒めて煮たぐらいじゃ、
1時間半以上はタマネギが飴色になるまで炒めてペースト状になるまでやったのよ。
あれって色が飴色って言うけれど、
だんだん炒めてきたら、
炒めると言うより練るって感じになって、
そうなるともうちょうど飽きちゃった頃なので
よい具合に飴色炒めタマネギができるのよ。
コトコトと煮るの!
もうクノールのコトコト煮込んだ感じを越える勢いの気持ちでコトコトって感じ。
そんで、
試合開始当初なので色がフレッシュトマトレッドで鮮やかだけどぜんぜん味が馴染んでいない
結構出来立てってすぐには食べられないのよね。
いや食べられるけれどマックスの美味しさの先までまだ到達してないって意味なのよ。
多分良いにおいがしているから味の方向性としては間違っていないと思うので、
もうちょっと煮込んでまとまってきたらその時はクノールのコトコト煮た感じを越えるポイントだと思うので、
そうなったら味見してみるわ。
ブイヨンは3粒ね。
今のところまだ塩コショウは入れてない、
ちょっと一旦味見て加えてみるわ。
前回の失敗というか
結構ブイヨンにも塩配合されているぐらいで歯茎が引き締まるレヴェルとまでは言わないけれど絶対成分表を見ていたら塩が何グラムか入っているのよね。
かけ算するより3回足した方が計算が速いぐらい簡単に私でも求められるぐらいの塩分量なのよね。
煮込んで詰まってきてから塩入れないとあとで大変なことになるわ!
入れるのは簡単だけど塩を出すのはほぼもう無理なのよ。
まともに味がまとまって食べられるようになるのは1週間ぐらい
いや最低でも3日ぐらいは落ち着くまで掛かるので、
タマネギとかトマトの入ったソースの煮込みっぷりの手間は作ってみて初めて気付く
失ってからも初めて気付く感じで
ものすごく手間が掛かるんだなーって思うわ。
そんであんまり美味しいからってついついパスタを茹ですぎて食べ過ぎないようにしなくっちゃね!
心を警戒心で高めるのよ。
うふふ。
それを久しぶりに確かめるために食べるかのようよう。
そうね
いつも変わらない味。
ふるさとに帰ってきた感じがするわ。
ふるさとって言いたいだけよ。
サンドイッチ伯爵の実家のキュウリサンドイッチは実家の味なのかしらね?
伯爵が懐かしく思うのかは別として私はそんなハムタマゴサンドだったわ。
あれもゲームをやっているときに開発されたメニューなんでしょ?
煮込みすぎてキッチンがごった返したまんまだったので、
簡単に湧かしてすぐ飲めるホッツ白湯ストレートウォーラーにしました。
まあ冷やして調子悪くしないようにね!ってところかしら。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!